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第四節 江戸藩邸と参勤交代

【江戸藩邸】各大名は武家諸法度によって江戸に一年、領国に一年在国することが定められていたので、諸大名は江戸に屋敷地を賜わって藩邸を設けていた。大々名は江戸城の近くに上屋敷、また休息所として中屋敷、下屋敷を設けていたが、松前藩のような小藩は当初は上屋敷のみであった。記録で明らかなものは承応二年(一六五三)の武州古改江戸図によれば藩邸は浅草誓願寺前に、天和二年(一六八二)の江戸火災に罹災後、翌三年には浅草観音前に邸地一、二〇〇坪を賜わり、元禄十一年さらに火災で類焼し、谷蔵(やのくら)に替地一、一四一坪を賜わって移り、正徳五年(一七一五)九月幕臣細井佐治右衞 門の邸地と交換し、下谷新寺町(現在の東京都台東区小島町-上野駅より東方七〇〇メ-トル程下る)一、二〇〇坪が松前藩邸として明治新政まで用いられた。また、天保九年(一八三八)本所大川端(今の両国々技館付近)の津軽越中守邸を拝領して、下屋敷としている。幕末の江戸地図では本所邸を上屋敷としているが、これは天保十一年下谷邸が狭隘なため願い出て、本所下屋敷を上屋敷としたものである。さらに天保七年には青山に支邸地を拝領している。元治元年(一八六四)十七世藩主崇廣が幕府老中に就任した際は、江戸城内常盤橋の前老中有馬遠江守道純の公宅を引継ぎ、ここを上屋敷として執務している。

 幕末における松前藩邸の規模は次のとおりである。
















拜領上屋敷
浅草新寺町

千八百五十坪余

内百五十坪津軽家より借用
同下屋敷
青山五十人町

三千坪
同下屋敷
北本所大川端

三千五百坪
(『近江藩蝦夷記録』による)


天和二年より安政二年までの一七三年間に江戸藩邸は次のように十回焼失している。


































天和二年(一六八二)十二月二十八日罹災
元禄元年(一六八八)十一月二十五日放火(家臣手代木左内)
元禄十一年(一六九八)九月九日類焼
元禄十三年(一七〇〇)三月罹災
元禄十六年(一七〇三)十一月二十九日類焼
享保三年(一七一八)十一月十一日類焼
享保六年(一七二一)三月三日罹災
安永元年(一七七二)二月二十九日罹災
文化三年(一八〇六)三月四日罹災(章廣箕輪みのわへ避難)
安政二年(一八五五)二月二十二日本所邸罹災


等であるが、藩邸が焼失した場合、速急に再建しなければならず、財政に苦しむ藩は、そのため場所請負人、両浜組(近江商人の団体)、株仲間等の特権商人に御用金を課したり、借上金等、さらには家臣や商人、各村から寄付金を集めて再建するという状況であった。

 江戸藩邸は多くの家臣を抱えていた。江戸留守居役を筆頭に、御使者番、吟味役、取次役、詰席、医師、料理人、足軽、仲間、台所方、女房等であったが、のちに納戸役が置かれていた。江戸では登城あるいは各大名間の典礼が面 倒なため吟味役、納戸役は交代派遣されていたが、他は世襲的に江戸在府のものが多く、藤倉、田崎、横井、長倉氏等は江戸住みの家臣であった。また、国元と藩屋敷との間には常飛脚が立てられていたが、重大な急用の場合は二駄 早、三駄早の飛脚が特別用意されていた。



【参勤(覲)交代】 徳川幕府の大名および上級旗本(交代寄合席)の統制策として創出されたのが、参勤交代である。この制度は寛永十二年(一六三五)に発布された武家諸法度のなかで明文化され、「大名・小名在江戸交替相定所也。毎歳夏四月中参覲(さんきん)致すべし」となっていて、大名・小名(交代寄合)は一年在国、一年在府とし、四月参勤と定められていた。この制度を設けた目的は、江戸在府を多くすることに常時大名を監視、統制し、往復の行列は軍役を摸した供揃(ともぞろえ)を強要した。それによって諸大名の旅費、諸経費の捻出は容易でなかった。

 松前藩の参勤交代供揃は、初期には幕府の特別の待遇があって槍二槍という五万石以上の大名格式の供揃であった。その行列の道具立は寛永十一年の『御上洛供奉例部=福山秘府巻之拾九』によれば、









御鉄炮 拾挺-御長柄 拾本-御弓 五挺-御挽替馬 三匹-御挾箱 二荷半-御薬箱 一荷-御具足箱 ヲイ二ツ-御傘 一本 -台箱 一本-御持筒 二挺-御弓立 一カツキ-御半弓 一カツキ-御持鑓やり 二對-御腰物筒 二ツ-侍衆十人 御馬添二人、御草履取衆三人 沓持一人、歩行二十五人-御駕 六尺六人-御乘掛(奉行一人)一匹-乘掛(小姓衆)五匹-乘掛(侍衆)十一匹-御茶弁当 一荷-御弁当 一荷-御長持 二荷-着替付馬 十匹。


が、寛永十一年(一六三四)六月将軍家光上洛の際の供奉(ぐふ)供揃で、その人数はおおよそ一七〇人である。これが槍二槍の行列立であったと思われる。しかし、この行列立ではあまりに多くの人と旅費を必要とするため、松前家十世藩主矩廣は延宝二年(一六七四)槍一槍とすることを願い出、以後五万石以下大名の道中供揃である一槍としている。この一槍道具立の場合、万石未満大名は一五〇名であったが、松前氏は一二〇名程度の道具立であったようである。享保六年(一七二一)の幕府規定の改正によって一万石の大名は、馬上三~四騎、足軽二十人、仲間三十人の道具立となり、行列人数も七十人程度となったが、松前藩は八十名程度であったと思われ、幕末にいたって文久二年(一八六二)旧規に復して、道中行列は二本立となった。

 参勤交代で藩主が出発しようとする際は吉日を予定日として触れ出し、神社などは御日待神楽を斉行した上で順風を祈る。松前から津軽半島の三厩村に至るには、北および北西の風が渡海に最(もっと)も良い風である。順風を得て藩主が御座船に乗り込む際は、城館前の馬出口に家臣はもち論、神官、僧侶、場所請負人、株仲間をはじめ、町年寄、各村主等が並んで送り出す。御座船は主に長者丸、貞祥丸等が用いられたが、これらの船と供船は沖がかりしているので、本船までは端舟で乗り込み、本船を潮路に乗せるため四~五十艘の小船で沖に引っ張り、ようやく潮路に乗る。本船が出帆すると物見が早馬で七面 山下の狼煙台(のろしだい)に知らせ、ここの狼煙を白神の狼煙台が受けて発火すると、龍飛崎突端の狼煙台が受けて藩主の出発を知り、三厩の本陣、脇本陣に通 知をし、受け入れの準備に入った。この三厩の狼煙台は宇鉄の清八という猟師を松前藩が足軽格で召抱え、手当を支給して管理させていた。三厩村の本陣は山田家(現三厩村長山田清昭氏の家)で、松前氏御抱であったので代々松前屋庄右衞 門を名乗り、家作や端舟の建造には松前藩が助成をするのを慣例とし、脇本陣は安保幸右衞 門宅で、外に旅籠(はたご)忠兵衞などもあって、蝦夷地渡海の一大拠点となっていた。

 松前氏の参勤交代は初期には白神岬と龍飛岬の間の龍飛・白神・中の潮という最も危険な海峡を渡ることを避け、対岸の小泊村(北津軽郡)に上陸し、ここから行列を組んで津軽領内を南下して、矢立峠から秋田領内を鹿角から盛岡に出て、奥州街道を南下した。この松前から三厩への航路が定形化されるのは、文献では寛文九年(一六六九)の蝦夷蜂起の際、津軽藩の援軍がここから渡海した以降の事である。三厩で準備を整えた松前藩主の供揃は、陸奥湾岸を青森まで南下する上磯街道(松前街道ともいう)を進み、青森から小湊、野辺地、七ノ戸を経て盛岡を経過する奥州街道を南下し、江戸に到る道程であった。元禄五年(一六九二)の松前藩執政の『松前主水廣時日記』に江戸から参勤を終え松前へ下る一行の詳しい行程が掲載されているので参考として上げれば、


















































































二月九日(旧暦)朝六ツ半(午前七時)江戸出立-粕壁泊
同十日朝六ツ(午前六時)出立-昼食中田-儘まま田泊
同十一日六ツ時発-小金井昼食-宇都宮泊
同十二日六ツ時発-喜連川昼食-太田原泊
同十三日六ツ時発-蘆野昼食 -白川泊
同十四日六ツ時発-須賀川昼食-郡山泊
同十五日六ツ時発-本宮昼食-八丁目泊
同十六日六ツ時発-桑折昼食-白石泊(殿様白石城へ御出、色々御馳走)
同十七日六ツ時発-築貫昼食-長町泊(仙台)
同十八日六ツ時発-吉岡昼食-古川泊
同十九日六ツ時発-築館昼食-金成泊
同二十日七ツ時発-前沢昼食-水沢泊
同二十一日六ツ時発雪降り-鬼柳昼食-花巻泊
同二十二日六ツ時発-幸利昼食-森岡泊(南部侯より色々御馳走)
同二十三日六ツ時発-渋民昼食-沼宮内泊
同二十四日七ツ時過発-一戸泊
同二十五日七ツ時過発-三戸昼食-五戸泊
同二十六日七ツ時過発-七戸昼食-野辺地泊
同二十七日七ツ時発-小湊昼食-青森泊(津軽越中守様より御使者)
同二十八日七ツ時過発-蟹田昼食-平館泊
同二十九日六ツ時発-今別-夕七ツ時三馬屋着(小鹿喜右衞門宅立ち寄り、御馳走有)
晦日 休息
三月一日 風下り、御風待
三月二日 西風、同
三月三日 同合風、同
三月四日 東風天気能御船中万端別条無く、昼四ツ時過(午前十時)松前へ御安着、御社仏参。




とあって、実に二十六日間の大旅行である。その間毎日午前六時頃に発足して、午後五時頃宿入するが、その間雪の日も、雨の日も一日も休むことなく歩き続けるのである。その合間に人足先触、昼食手配、宿割手配をしながら行列は進み、大名居城地に入ると供揃は、黒濡羽の松前家の槍を揃え、その大名に表敬の意を捧げて進んでいる。この二十六日間の江戸より松前まで行路は、何の障りもなく順調に進んだもので、春の降雨の多い時期には、四十日もかかったことがある。

 この行列の主役を勤めるのは足軽・仲間であるが、特に仲間は参勤の際各村に呼びかけて集め、参勤行路の荷負い等をし、江戸では藩邸の門番を勤め、翌春帰国するのが例となっていた。