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歴史・民話・昔の写真歴史函館戦争
~目次~
<福島での戦闘にいたるまで~戦闘前の福島と海陸応酬>

<知内夜襲と福島での攻防>
<御用火事と吉岡峠>
<松前城落城と脱走軍活下の松前・福島(1)>
<松前城落城と脱走軍活下の松前・福島(2)~脱走軍活下の松前・福島(3)>
<福島・木古内の戦いと箱館戦争終結>
余談:毛利秀吉と法界寺
◆松前城落城と脱走軍活下の松前・福島◆

 松前方(官軍)の図功隊(ずこうたい)が加わっていた笹井武麗は、上及部(大沢)の陣に詰めていましたが、

今や城の防御にとって、ここは最前線でした。

猛進撃を続けてきた徳川方の土方隊は、吉岡峠で更に陣容をたてなおし、松前城攻略の

作戦を開始しました。城の陥落と共に松前藩は降伏するだろうという腹づもりでした。

吉岡峠から隊を二部し、一隊は本道を下って海岸線から城へ攻め寄り、他の一隊は(みね)づたいに

城の背後へ集結し、一気に挟み打ちする計画でした。

11月5日、幕軍の突撃は開始された。この時のことを笹井日記には、次のように述べられています。


「5日、松前城下、下及部にて合戦(がっせん)。只一戦にて打ち破れ、難なく落城に及ぶ。此時拙者(このときせっしゃ)

山の上で散乱す。敵人来りて、既に鉄砲にて打罷りし処、横合いより走りつき、敵の鉄砲を

取り返して刀を振り上げ候処、敵人逃げ去りすぐさま拙者(せっしゃ)も民家に隠れ、一命助り候。

御城内に於いては切腹致す士も有之候。」

(5日、松前城下、下及部にて合戦。ただ一戦で負けてしまい、やすやすと落城に達した。

この時、私は山の上でおかしくなりそうだった。その時、敵が来て、既に鉄砲にて打ち罷り

そうになったところ、横の方から走り、敵の鉄砲を取り返し刀を振り上げたところ、敵は逃げて行き、

すぐさま私も民家に隠れ、一命は助かった。城内では、切腹した武士もいたという。)

松前城は落ちたものの、松前藩は厚沢部(あっさぶ)の館城から江差までを最後の防御線として、必死の戦闘体制を

敷きました。降伏を予想していた旧幕軍は、いささか当てがはずれましたが、11月9日から再び攻撃を開始しました。

海陸両軍、近代装備(きんだいそうび)に誇る大軍ではありましたが、旧暦11月といえば厳冬のさ中、一気に潰滅というわけには

いきませんでした。

思いもかけぬ損害を(こうむ)りながらも、ついに11月15日、館城を奪取するに至りました。

松前を占拠した徳川脱走兵は旧幕府軍進撃隊長人見勝太郎(ひとみかつたろう)を松前奉行に任命して、遊撃隊(ゆうげきたい)

一聯隊(隊長松岡四郎次郎)の兵400で松前城の管理を、同地方の治安、警備にあたりました。

また、福島村に会津藩遊撃隊諏訪常吉(あいづはんゆうげきたいすわつねよし)の率いる兵150がこの地域の守備についたといいます。

松前を占拠した脱走軍はまず治安の維持、旧藩潜伏士族(きゅうはんせんぷくしぞく)の逮捕、軍資金の献納、諸税の取立て等を

行い、奉行人見勝太郎は藩医桜井小膳宅を宿舎として、毎朝白馬にまたがって登城し、城中宿営の

諸藩を指揮していました。脱走軍は戦争の糧食確保のため軍資金は必要でだったのですが、その資金が全くないため、

まずは箱館を占拠すると、山ノ上町の遊女たちを使って多くの贋金(にせがね)を造り、市在に強制的に使用させました。

そのため、通貨の不安によって物流が停滞し、さらに戦争によって米殻が本州から全く入らず、物価は高騰(こうとう)して、

戦災に遭った松前城下や福島、白符、吉岡、礼髭(れしげ)村の人々は、裸同然の姿で飢えと寒さをしのがなければ

なりませんでした。さらに、松前城下の場所請負(うけおい)人、御用金の借上を命ずる等高圧的な行動が多く、住民の迷惑は

甚だしかったといいます。戦後強制的に使用させられていた贋金を政府が兌換(だかん)してくれないため、

住民たちは多くの損失を余儀なくされていました。

松前藩主18代徳広の津軽落ちするまでは何とか喰い止めようと、厚沢部川河口から乙部村からも後退し、

小茂内(乙部町鳥山)および蚊枝(同町豊浜)まで後退しましたが、11月17日脱走軍の相馬主計(箱館における

新撰組隊長)、佐久間悌二(監軍)の二人が軍使として来て、降伏を勧めましたが、藩側が軍事方新田主税(千里)、

隊長蠣崎(かきざき)衛士(広胖)がこれに面会し、兵力は不足であるが一死をもって決戦に臨む(むね)を伝えました。翌日両名から

書筒をもって降伏の勧誘があり、新田らは二日間の猶予を求めました。これは藩主の津軽落ちが未だ確認できなかった

からで、20日にいたって徳広渡海の報を受け、徳川脱走軍との談判が成立し、取りあえず武装を解除して松前に

行き、ここで正式の降伏手続きをすることになりました。

武装を解除された藩士たちは、脱走軍の監視を受けながら悲痛な面持ちで寒中の積雪を踏みしめながら、焼土(しょうど)

化した松前城下に帰着し、正行寺(浄土宗)、法華寺(日蓮宗)の両寺に監禁されました。降伏調印は脱走軍松前奉行

人見勝太郎(幕府遊撃隊)らと総長新田主税、副長蠣崎衛士が12月1日法華寺で会見し、次の三項目の覚書が公布

された。

(要約)

1、藩主を慕い渡海するものは許す、この場合の所持は大・小刀に限る。

1、帰農商工を願うものは許すが、双刀は差出すこと。この場合移住を定めることがある。

1、脱走軍側に加わりたい者は許す。その場合は食を与える。

というものでしたが、一旦解放されると藩士たちは藩主を慕って渡海する者が多く、12月4日には松前右京以下

180人余りが海鮮問屋(かいせんどんや)近江(おうみ)屋久蔵の運送船2艘に分乗し、根森浜(大沢村枝村)から

出航し、同7日にも百数十人が津軽に向かいました。この出航を見送った脱走軍佐久間監軍は、藩の代表者と

握手を交わし、再び戦場で相会すことを約束して別れたといいいます。

この他藩主出航後熊石村からも同地次郎右衛門所有の三羽船に水主9人が家臣17人を乗せて出帆し、藩主と

同じ平館村に到着しています。

また戦後村落に遅れていた藩士も変装して城下に忍び入って、ここで便船を求めて渡海しましたが、脱走軍側に

直接組した藩士は極めて少なく、医者や侍、足軽で脱走軍に組した者は8名でした。

しかし、敗残となり、捕虜(ほりょ)の汚名を着せられた藩士を多くは、藩主護衛の名の元に自分たちが仕掛けられた戦争を

捨てた無能な家老下国安芸(あき)をはじめ、正議隊の幹部鈴木織太郎(すずきおりたろう)、尾見雄三、田崎東等津軽落ちしたことに対しての

批判が多く、特に、鈴木織太郎はこの戦争中不戦を唱える家臣を処刑したり、関内村から津軽落ちする際に

この船に妻を乗船させたのは(はなは)だ不届で武士道にもとると旧佐幕(さばく)派家臣に糾弾され、青森から江戸藩邸に送られて

禁錮(きんこ)に処され、のち狂死してしまったといいます。

※上及部・・・現在の松前町大沢地区にあった地名。

※人見勝太郎・・・江戸時代末期の幕臣、明治期の官僚・実業家。


参考文献:福島町史 通説編(上) 第二巻
広報 ふくしま より
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