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歴史・民話・昔の写真歴史函館戦争
~目次~
<福島での戦闘にいたるまで~戦闘前の福島と海陸応酬>

<知内夜襲と福島での攻防>
<御用火事と吉岡峠>
<松前城落城と脱走軍活下の松前・福島(1)>
<松前城落城と脱走軍活下の松前・福島(2)~脱走軍活下の松前・福島(3)>
<福島・木古内の戦いと箱館戦争終結>
余談:毛利秀吉と法界寺
◆福島での戦闘に至るまで◆

  慶応4年(1868)4月、江戸城無血開城により、戊辰(ぼしん)戦争は北陸・東北へ舞台を移しました。

鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩らに対する明治新政府の態度は厳しく、明治元年3月、

東北諸藩に対して、会津・庄内の両藩の討伐(とうばつ)を厳命しました。

両藩は新政府にひたすら寛容(かんよう)()い、他の多くの藩からもその救済を嘆願(たんがん)したのですが、

聞き入れられなかったのです。

5月に入ってから、津軽・秋田を除く他の東北三十藩は同盟を作り、会津・庄内藩を助けることになり、

江戸開城後の旧幕軍もこれに参加したので、北越・奥羽(おうう)の各地はついに官軍との戦禍に巻き込まれてしまいました。

一方新政府は、その年の4月、津軽・秋田・南部・仙台・松前の各藩に、箱館を中心とする蝦夷地(えぞち)の警備を

命じていましたが、内地本国の緊迫した情勢に動揺していた各藩兵は次々に集団脱走をして帰藩し、

蝦夷地には松前藩を残すのみとなってしまったのです。

新政府から清水谷総監が箱館に着任した時は、もはやなすすべがなく、在勤の官吏(かんり)や近在の

農民などを徴兵して急場をしのぎつつ、更に政府へ急援軍を請わねばならない状況でした。

幕府海軍総裁榎本武揚は、旧幕府軍艦8隻を率いて8月19日の夜に、品川沖から北へ向け脱出し、

10月20日(旧暦)に、旧幕府艦隊は、噴火湾の鷲ノ木(わしのき)(森町)へ上陸しました。

その日は偶然にも、箱館へ松前藩兵700人、大野藩兵170人が到着していたのです。

鷲ノ木へ上陸した旧幕軍は、直ちに蝦夷地へ渡島した趣旨(しゅし)を箱館府へ訴え、朝廷へ嘆願しました。

その内容は、

「かねてから願出していた通り蝦夷地は徳川家へ暫くお預けくだされたく、願した。

もし、許可がなければ官軍と戦うこともやむを得ず」

(かねてから願い出ていた通り、蝦夷地は徳川家にしばらく預けてほしい。もし、許可がなければ

官軍と戦うこともやむを得ない)

という、一方的なものでした。

同時に、箱館包囲作戦を進めて行った。大鳥圭介(おおとりけいすけ)隊は本道を南下、土方歳三(ひじかたとしぞう)隊は下海岸から川汲峠を越えて、

箱館へ向かったのですが、すでに箱館の官軍主要者は10月25日、青森へ退却していたのです。

フランス士官6人を含め、洗練された旧幕軍と、寄せ集めの官軍諸藩兵では、所詮は戦にならず、

大きな戦闘を交えることなく、箱館は陥落してしまいました。。

11月1日、榎本らの旗艦開陽は、箱館に入港し、戦勝の祝砲21発を(とどろ)かせながら五稜郭へ入城しました。

その頃すでに土方隊の尖兵は知内村まで進撃しており、。松前城を目指し、敗走兵を追いながらの道中は、さしたる抵抗もなく、

まさしく歩くだけでした。

11月1日の夜は知内村に宿営(しゅくえい)することとなりました。

※鳥羽・伏見の戦い・・・戊辰戦争の緒戦となった戦。
※大鳥圭介・・・西洋軍学者・幕臣・軍人・官僚・外交官。

◆戦闘前の福島と海陸応酬

松前藩主徳広公は10月28日に蠣崎民部(かきざきみんぶ)を城代に残し、厚沢部村の館城に居を移していました。

蠣崎民部は同日、知内村に出陣すべく、兵を動かし福島村、花田伝七方へ宿泊しました。

以下の笹井(常磐井(ときわい))武麗の日記を追ってみましょう。。

「民部からの使いにより、武麗は本陣へ(おもむ)いた。藩隊には城代の神主一統(かんぬしいっとう)で組織された

一隊があり。これを図功隊といい、社頭白鳥遠江守が隊長であった。武麗にも是非この隊に

加わり、殿様(民部)のお供をするように仰付られたので、武麗は早速受諾した。」

翌29日は一ノ渡へ陣を移し、そこに一泊した。

明けて旧11月1日、戦況は芳しからず、箱館落城後の敗走兵達の報告を聞き、土方隊の

進撃を知って知内へ行くことは諦めた。

この上は城を固めるべき必要を悟り、その時はとりあえず福島まで後退した。

福島へ一泊するつもりであったが、午後4時頃、民部は急に出立を命じた。

各要所に小隊を配置しながら城下に戻り、御目代所に入った。

旧幕軍の猛進撃をひしひしと感じながら待つうちに、早くも「徳川の軍艦来る」の報が飛んだ。

福山(松前)城内文部官で待機していた笹井武麗は直ちに上及部村の砲台へ馳せつけた。

そこには新井田(にいだ)左内が隊長としており、上陸をうかがう幕艦に向かって必死の発砲を続けていた。

ついには幕艦は上陸をあきらめ、白神岬の影へ消えていった。

福島の砲台は、福島神明社の境内にあり、大砲は50(もんめ)筒を5門備え付けてあった。

ここは図功隊(ずこうたい)と報恩隊が警固していた。

幕艦が福島沖に現われるや、たちまち猛烈な撃ち合いが始まった。艦に命中するごとに嘆声が

上がった。

その頃の砲丸は、文字通りの鉄の玉であったから、命中しても爆発することはなかった。

しかし、人工的破壊力では何物にも勝っていた。

陸上からの発砲が、5発まで命中した時、さしもの艦もこれ以上は近づけず、

舳先(へさき)を箱館方向にめぐらして矢越岬の陰へと消えていったのである。

※蠣崎民部・・・松前城の城代。

※上及部村・・・現在の松前町に存在していた村。

※福島神明社・・・現在の福島大神宮

※報恩隊・・・藩兵、僧徒を集めて編集された一隊。

参考文献:福島町史 通説編(上) 第二巻
広報 ふくしま より
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