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※知恵とハートで拓くまち【福島町の歩み
1189年、奥州武者の定住。
教育/文化 町の歴史 行政/議会


その残党が、 和人初の蝦夷地定着。

福島町の開基は、文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐の際、破れた奥州藤原の残党が津軽から逃げ渡り吉岡村に定住したのが始まりとされている。その、奥州藤原は平泉に拠って陸奥、出羽の両国と蝦夷にまで勢力を伸ばした「北方王国の王者」といわれ、「平泉政権」と呼ばれるほどの地域政治を行っていた実力者だった。つまり、源氏・平家対立の時代は清盛、頼朝にならぶ第3の政権と目されていた。
陸奥藤原 は四代・一世紀に渡って栄華を誇り、特に三代目秀衡の時代が絶頂期。平家を倒した頼朝にも服従せず、当時国家の反逆人とされた義経を庇護した。この義経問題が引き金となって、頼朝は「奥州征伐」の兵を出し、奥州藤原を滅ぼした。藤原氏残党は四代目・泰衡の遺志を請けて、勢力を整え再び立ち上がるために津軽海峡を渡り、吉岡にも流人が定着したといわれている。

安東氏と武将達の
到来。

津軽の十三湊に居住し、強力な水軍を擁する安東盛季が、南部義政に敗れ、息子や孫と共に蝦夷に渡来したのは永亨四年(1432)といわれている。盛季の没後、松前で兵を貯えていた息子の安東康季が文安三年(1446)失地挽回の軍を津軽に出兵したが、鰺ヶ沢(西津軽郡)で陣没し、孫の義季は享徳二年(1453)大浦郷狼倉(岩木山東麓)で南部軍と交戦して戦死。
この頃南部氏の捕虜になり糠部田南部に在った下国安東太政季は、南部氏から逃れて大畑(青森下北)から享徳三年(1454)、蝦夷地に渡航した。その時の随行武将は、後の松前氏の初祖・武田信広、松前大館の副将・相原周防政胤、箱舘主の河野政道たちだった。政季は道南に12の「舘」を配し、地域を統治した。福島町・吉岡地区には「穏内舘」が置かれ秋田出身の蒋土甲斐の守季直が舘主となった。季直没後、二世兵倉之介季成が継いでいる。

北海道史の第一歩を印す。

●道内初の漁師が定住したのも福島町で、白符地区が「ニシン漁発祥の地」とされている。●大千軒岳の麓に金山が発見され、ゴールドラッシュに賑わった。金掘りの中には「隠れキリシタン」が紛れ、幕府の命によるキリシタン106名の処刑という悲劇も起った。●幕末にはこの辺一体が、新政府軍と旧幕府との激しい戦いの場となり、やがて新しい時代の幕開けを迎えた。●近代の福島町史のエポックは、青函トンネルの町として、世紀のトンネル工事にかかわりを持ったことだ。町民の中からも海原を駆け回って魚を追っていた漁師から、多くの世界的なトンネル技術者となって地底に潜り、貴重な人材として国内外で活躍している。