第一節 幕末の松前藩
(七) 松前藩内のクーデター
 世情は佐幕から尊王に移り変り、諸藩の政治動向も大きく様変りをしてきたが、松前藩に於ても従来の藩主と門閥同族をもって構成される藩政を改革しようという動きが、軽輩家臣のなかに台頭してきた。それは藩主徳広の引退を阻止し、徳広の尊皇思想を巧みに標榜して同盟の士を集めて藩政の改革を計ろうとするもので、微禄(びろく)の青年家臣に参加する者が次第に多くなってきた。その始期は慶応二年十一月の徳広引退阻止の建白書に在来の佐幕重臣の弾劾要求に発していると思われるが、慶応三年三月の『松前正議士文書』(市立函館図書館所蔵)は、
今般
殿様尊奉ノ儀ニ付身命ヲ抛(なげう)チ忠節ヲ守ル事。
機密ノ談判親子兄弟タリト雖(いえど)モ猥(みだ)りニ不相洩事。
諭盟迷約ノ輩於有之ハ同志中ヨリ其罪ヲ糺シ速ニ加天誅事。
右載盟之趣上下ノ祇殊ニ我宗廟靈ノ照鑒ニ備フ。仍テ血誓如件(くだんのごとし)。
 慶応三年三月

何 某


正議士

という案文に従って血誓自書して提出したもので宛名の正議士とは正議(しょうぎ)隊のことで、これは尊皇を意味している言葉でもあり、世情を巧みに捕えた名でもある。この隊には松井屯(たむろ)、鈴木織太郎、新田千里、三上超順、田崎東、下国美都喜等の少壮家臣が加入結成したもので、その目的は藩政改革、佐幕派重臣の抹殺であって、この時期には各藩でも一斉にこのような計画を進める者が多かった。しかし、松前藩の正議隊の計画は藩主をまき込んで、門閥、佐幕家臣の排除と、それによって改革が成功した場合は、自分達で藩政を牛耳ろうという計画であった。
 このような時勢下に箱館には新政府の箱館府が開庁し、これと結ぶことによって今後の行動が有利になるので、下国東七郎を密かに箱館に潜行させ、清水谷府知事に謁し、判事堀真五郎、小野淳輔、山東一郎らとも会見して藩情を述べて、もし決起の場合は然るべき応援を依頼し、帰りには針銃五〇挺を購入して持ち帰っている。

【クーデター決行】 慶応四年七月二十八日松井屯、鈴木織太郎、下国東七郎の三士を代表とする正議士一行は登城し、在番の家老下国安芸(あき)を強要して藩主徳広に謁し、佐幕家臣を弾劾し、藩政を勤王派(尊皇)に路線替をするよう求めるクーデター強行のための建白書を提出し、徳広の同意を求めたが、その内容は次のとおりである。

今般臣等叩頭泣皿
閤下ニ拜伏シテ三年以來痛心疾首無限ノ赤心今日不顧死罪奉哀訴三百年餘國家海嶽之
君恩奉報答候昔日
明君御遜位之尊命一出重臣松前勘解由更ニ憂色無ク
崇行公大喪發臣子血涙中淫酒ニ耽リ既ニ明君御遜位之尊命廟議之日勘解由退出ノ路ヲ迂シ御祈願所阿吽寺ニ於テ呼ヒ同類蠣崎監三齋藤帶刀關左守蠣崎衛士鈴木守上田一彌尾山徹三田原藤右衛門等ト酒宴歌舞心跡行状禽獸ニ等シク臣等憤怨ニ不堪ト雖明君御親政之時嚴譴不可免ヲ知ル山下雄城是ヲ糺彈シテ其邪ヲ正ス然而昔雄城等寛量 公ニ奉仕ルヤ御大漸ニ臨ミ不臣ノ罪貫盈櫻井小膳建白書ニ顯然明白其心底
明君ヲ尊戴スルニ意ナキ語言中ニモ相露レ擧動ニモ相発臣等尊奉ノ志ヲ妨タル數回其大奸天地不可容ノ罪魁臣等日夜切歯ニ堪ヘス今春皇都ニ於テ既ニ
敦千代君ヲシテ傳統セシメント謀ルト雖臣等ノ正論ヲ憚リ暫ク其形跡ヲ掩フニ到ル臣等是ト同シク生ルヲ欲セス加之遠藤又左衞 門御幼弱ノ
敦千代君ヲ輔助シ阿百万徒ニ財貨ヲ散シ崇行公ヲシテ御一誤アラシムルノミナラス敦千代君ヲシテ再誤セシメントス是亦積年ノ姦徒ナリ依之此徒ノ不臣ヲナス皆是レ
明君多士萬民ノ屬望ニ負キ給ヒ
御高蹈御遜譲ノ尊命僥倖シ
君位ヲ蔑如シ諫争ナク正議ヲ排斥シテ採用セス旧冬王政御一新以来天下ノ形勢大変國體ノ強弱ト人心ノ離合ニヨリ他ノ侮辱ヲ招キ来ス他藩ニ殷鑑不遠臣等日夜恟々タリ仰キ願クハ
御遜譲 御高踏ノ 御尊心然宗廟ノ為メ蒼生ノ為メ今日ヨリ 御聽政邪ヲ退ケ正ヲ擧ケ非常ノ御一新奉翹企候不然御政事多門ニ出士庶嚮ヲ所不知已ニ滅スルノ奸邪再燃勘解由監三左守ノ如ク其虚ニ乗シ要路ニ當リ弄政スルニ至ル慨嘆長大息ニ堪ヘス今臣等斧鉞之誅ヲ甘心シテ所以奉哀訴候也 誠恐惶謹言

慶應戊辰四年七月廿八日
  蠣崎 勇喜衛
蠣崎 民部
杉村 矢城
北見 傳治
青山 荒雄
村山 左冨
小林 頼母
蠣崎 衞守
氏家 左門
蠣崎 孝作
蠣崎 健三郎
田崎 東
牧村 可也
明石 邦太郎
牧村 求馬
松井 屯
小林 小源太
鈴木 織太郎
酒井 九郎司
今井 興之丞
土屋 守外
下國 美都喜
土屋 庫三郎
下國 東七郎
酒井 玄洋
鈴木 次郎藏
鎌田 十萬里
尾見 毅一郎
湊 浅之進
谷 十郎
池田 健藏
松崎 多門
渡邊 整吾
岩谷 直藏
工藤 大之進
安田 拙造
安田 純一郎
武藤 玄省
早坂 元長
櫻井 安右衞門
館野 市郎
櫻井 長三郎
岡林 繁藏
佐々木 銕藏
(蠣崎敏記=中島家文書)

というもので、これは現在の藩政の責任者を皆殺戮(さつりく)して、全く新たな藩執行部体制を築こうという要旨である。これは松前在住の家臣四四名の連書で、新田千里は儒者、三上超順は僧籍にあるので員外となっていたほか、江差奉行の尾見雄三、同目付役の氏家丹宮も同志の盟約をしている。
 この建白書を上呈した際藩主徳広は肺結核が亢進して病床にあったのを起きて出座はしたものの、痔疾も悪化して座ることができず、横臥しながらこの建白書を読むという状況で、思慮分別 に欠けるような健康状態にあったので下国安芸、松前右京、松前伊豫等中立派の家老の意見をもって建白書を取り上げ、前記の松井、鈴木、下国の三士を近習頭とし、松前勘解由、蠣崎監三、関左守、山下雄城等の重臣に謹慎を命じ、老体で日和見的な家老下国安芸を執政として藩政改革と、反対家臣の粛清に当ることとなり、正議士が城中の警備の任に就いた。
 自宅にあった勘解由はこの急変を聴いて急據登城したが、門衛は入城を拒否したため、憤激した勘解由は君命を怒り、同志を町役所(寺社町奉行所)に集めたところ、その数は一、〇〇〇人にも達したというから城下在住の家臣のほとんどであった。勘解由は集まった家臣に命じて松前藩の武器弾薬庫である威遠館(字愛宕−練兵場、二大隊の銃砲弾薬を収む)の銃砲弾薬を奪い、法華寺境内に排列して城中を砲撃しようとしたが、水牧梅干(ほうや)や蠣崎広胖らが君臣の分をわきまへよとの説得で、ようやくこれを思い留まった。一方城中の警備は宿居(とのい)の士を含め六〇名程度で、もし勘解由が強行すればこのクーデターは失敗しただろうと考えられるが、当夜の状況を下国美都喜筆『蝦夷錦血潮之曙』(市立函館図書館所蔵)は、「城中警備最厳ナリ、恰モ籠城ノ如ク灯火天ヲ焦シ市街騒然終夜灯ヲ滅セス、実ニ数百年来未曽有ノ変ナルヲ以其煩悶鼎沸ノ如シ」と述べている。
 八月一日主導権を握った正議士中は、その参加者をもって正議前隊とし、その後に入隊する者を正議後隊と称し、本格的にクーデターに乗り出した。鈴木らは先ず前隊を四つに分け、第一隊は長松崎多門以下五名で、松前勘解由宅、第二隊は長安田拙三以下五名で、関佐守宅、第三隊は長渋谷十郎以下四名で山下雄城宅、第四隊は長杉村矢城以下四名で蠣崎監三宅を急襲し、それぞれ君命によって誅することを宣言し、一気に四重臣を抹殺しようとした。
 同夜松前勘解由宅を急襲した五名は、「曰(いわく)、勘解由ノ家備固クシテ恰(あたたか)モ小城郭ノ如シ、寡(か)ヲ以テ伐リテ敗ヲ取ランヨリハ四隊ヲ合シテ伐(う)ツニ如(し)カトス」(前掲『蝦夷錦血潮之曙』)として斬り込むことを躊躇するという腰抜け振りを見せている。蠣崎監三家に向かった第四隊は監三を誅殺し、第二隊は関佐守家に踏み込んだが佐守が留守で、弟の賜が居合せたので兄の所在を聞いても言わないので、賜を連行して城北寺町法源寺前で斬り殺している。前掲史料によれば「此夜暗昏黒大雨盆ヲ傾ク、北郭外ヲ通 ル者賜ノ死骸ヲ踏ミ、或ハ驚キ、或ハ怪ミ街説巷談各々紛々タリ」とあるように松前城下は上を下への大騒ぎとなった。
 山下雄城家を襲った第三隊は、家中を捜したが発見できず、妻子が池に隠れているのを発見し尋問したが分からず断念して引き揚げている。この日の夜、兼ねて盟約を結んでいた江差奉行の尾見雄三、目付氏家丹宮が奉行所の半鐘を打鳴して属員を集め、松前城下が大火のため急拠警備に行くと言って出立し、途中でこのクーデターに参加するので反対する者があればこの場で斬ると威し、参加の同意を得て来援した。
 二日勘解由を自宅の一室に禁錮に処し、正議隊士一五名が警備を固めた。逃れていた関左守は柴田弥太郎を尋ね、観念して矢太郎の介錯によって自刃した。三日勘解由は自分が生きているのが藩の為にならないのであれば切腹すると届け出、城中から検死役人として佐藤男破魔が来たので、その前で切腹して果 てた。残ったのは山下雄城一人で、雄城は大松前町(字福山)の廻船問屋佐渡屋川岸家の土蔵に隠れていたが、雄城が出て来なければ妻子を殺すと高札を掲げたことから、逃去五四日目の九月二十四日遂に自分の菩提寺法源寺に至りここから自訴逮捕投獄された。雄城は下国東七郎、鈴木織太郎と面 語したいと申し入れたが許されないので、二十五日獄舎で衣襟を剥いで自縊し果てた。 勘解由の処分を終えた正議隊は、さらにその一派である酒井湧味、因藤慎六郎、高橋熊雄、蛯子愿十郎、上田一弥、菅原悦三、中嶋半九郎も処刑し、田原藤左衞 門、尾山徹三、福井佐吾六、小西弥蔵等に謹慎を命じた。さらに下国弾正季定、松前右京広圃、松前伊豫広治、蠣崎勇喜紀広興、新井田隼人備寿(まさひさ)、飛内策馬長和等の重臣の職を免じた。また、江戸詰家老遠藤又左衞 門、京都詰取次役高橋の二人を処刑の為それぞれ討手を差し向けている。これらの処分を終えた正議隊は、日和見的で好々爺の下国安芸を傀儡(かいらい)執政とし、下国東七郎、鈴木織太郎、松井屯、尾見雄三、氏家丹宮を執政、参政として、正議隊の意志のままに藩政改革に入った。しかし、松前城下の住民達は正議隊のクーデターが、血で血を洗う残酷なものであったため、かえって勘解由ら一派を慕うという逆効果 を来し、正議隊には協力せず、離反の態度が多かった。

【藩政改革と館城の築城】 藩政改革の第一は人心の刷新であった。この政変で家臣の強制的な信任を得て輿論を統一した正議隊は、従来の藩主一門、あるいは遠祖以来の門閥による藩世襲的な藩治を止め、有能者の登用を目指した。家老職は寄合席から御先手組席までの広範な家臣の中から抜擢登用し、用人以下は足軽以上のものから人選し、一般 町人の中でも才覚のある者は勘定奉行まで採用できるよう旧規を改め人事の開暢と刷新を図った。職制については八月四日軍謀局を開き、また合議・正議の二局を置き、当分の間は合議局で評議したものを正議局に廻付し、正議局のものは合議局に廻し、これを再評定して決定をするという公平を期した。九月には軍謀・正議の二局を廃止し、文武合一の文武館を設立して新田千里を総裁とし、入学は一般 庶民子弟にも利用の途を開いた。また上書箱を市街に配置して民意の開申を図り、さらに事務処理の簡略化、迅速化をも図った。宗教面 では神仏混淆を明らかにするため将(勝)軍地蔵尊、大鳥明神等の堂宇を壊し、破戒僧数名も罰している。
 第二の改革は農業開拓と館城の築城であるが、蝦夷地は従来寒冷地で農作物の稔結が悪く、業としての農での生活はできないとされ、杣夫、炭焼等との兼業によって僅かに自家用生産を賄ってきた。しかし、文化年間以降渡島平野方面 では八王子同心の屯田、あるいは南部あるいは磐城(いわき)伊達郷の人達の入植、さらには江差在の小黒部にも入植者があり、特に寒冷地適合の作物が作られ、米については南部赤毛あるいは井越和生等が普及してくると、従来は漁業一辺倒の藩であった松前藩が、狭められた領地のなかで、農業開拓によって藩財政の強化を図ろうとした。その最も注目した地域は厚沢部川流域(厚沢部町・江差町)、天の川(上ノ国町)、知内川流域(知内町)で、この流域の造田開発を強力に進めようとし、その拠点として館城(厚沢部町字館)を築こうというものであった。
 この開発と館城築設の計画は前藩主崇広の時代から行われていて、文久三年(一八六三)家老下国弾正の調査の際「本年ニ至リ千間(軒)麓ヨリ館村曠野ニ至ル間道開鑿(さく)ハ、万ニ一非常外国軍艦ト砲台ト戦端ヲ開ク場合ハ、福山ハ海岸ニシテ要害ヨロシカラス、館曠野ヘ営柵ヲ造り山手通 御密行ノ目的ナルヨシ弾正氏ヨリ内密洩シタリ」(工藤丹下長善履歴書)としていて、その際は農業開発よりも防衛を中心としたものであった。
 館城の築立に最も執心であったのは下国東七郎で、これはクーデターに当って江差奉行尾見雄三を抱え込むための取り引きであったと思われ、江差商人達は館城が築立される場合、松前城下の商権が総て江差に移行することによって、松前城下に取って替ることの出来る目録みがあって、クーデターの際江差商人が多くの軍用金を醵出していた。それに引き替え、松前城下住民の正議隊に対する評判が極めて悪いので、人心の一新からも移城すべしという考え方が多かった。
 一応政変の終息した段階で下国東七郎は箱館に赴き、箱館府に対し藩論の勤王統一の挨拶と、館城の築設についての許可願を提出した。これについては事が府知事の裁量 外であるので、上京して太政官の許可を受けることとし、判事小野淳助と共に軍務官に許可願を提出するよう指示を受け、築城の一応の内諾を受けて帰城した。
 館城築城の要員は八月二十八日牧村右門、鈴木文五郎、今井徽(あきら)、鈴木治郎蔵、三浦巽(たつみ)、石塚知平を館に派遣し、江差奉行には氏家丹宮、三上超順(ちょうじゅん)を勧農方、村山左冨を江差奉行吟味役、さらには江差の豪商関川平四郎を勘定奉行兼作事主員に抜擢したが、これは江差商人からの借上金、献金等を容易にするための苦肉の策であった。
 九月十日には本格的な工事に入ったが、設計は三上超順と牧村右門と考えられ、築城の総指揮は鈴木文五郎が当り(河野常吉筆『松前家史料』岡口利恒談話)、江差よりの出役二二名、在方掛材木其外諸事取扱森省吾、材木川流掛石塚彦右衞 門、諸小屋掛青山幸二郎、棟梁濱田仁兵衞、副棟梁三郎兵衞、土方小頭幸太郎、同安五郎、土方総人足廻し清右衞 門(『北門史綱 巻之八』)等をそれぞれの責任者として工事に当った。
 館城の築城は会津若松城の攻防等奥州での徳川に組する諸藩と、政府軍との間で激烈な戦闘が展開されているなかで、昼夜兼行で工事が進められ、十月十五日頃には将来の本丸と目される地域のみが一応の完成を見たが、この築城場所は、鶉村(厚沢部町内)から約四キロ東寄の館村本村を、さらに糠野川に添い約二キロ東方の台地(字館城岱)に構築されていて糠野川からは標高差五〇メートルの台上の中央部に本丸を設け、順次二の丸、三の丸と台上一帯を城郭にしようと計画されたものらしく、本丸右脇の丸山には砲台を築設することも計画されていた。
 一応の完成を見た館城本丸の規模を明らかにする史料はないが、藤枝家館城図(北海道大学附属図書館)、江差町増田家館城図等によれば、百間四方(一八一メートル四方、三万二、七六〇平方メートル)の堀と土塁を巡らし、正面 に正門、左手に裏門を配し、建物は中央に藩主居館、藩庁役所、武士部屋二棟、賄部屋、米倉を配したもので、人夫居小屋等は郭外に設けていた。
 館城が一応完成したことによって、藩主以下は移転の準備に入ったが、その噂が表面 立てば城下住民の反撥を招く恐れがあるので、内密のうちに準備を進め、住民達に対しては、「奸賊伏誅国家安寧物情ノ静況ニ復スルヲ抃へん舞シ市民挙テ三日間ノ盛典ヲ行フ」(『北門史綱 巻之八』)と申し渡し、十月十五日より同十八日までの祭礼挙行を命じた。住民は全く謂いわれのない祭礼に寒さにふるえながら踊っているうちに、藩主以下は館城へ向けて出発した。しかし、この発向が城下市民に知れ猛烈な反撥を招いたが、正議隊は反対する家臣を衆人の見ている前で自裁させているが、

館新城へ御出発ノ砌町人共遮テ歎願可化風聞專ラ有之候処不一方事件ニ付、聊(いささか)ノ罪ヲ糺シ光善寺ヘ町内ノ頭役ノモノ相集メ同時ニ(寺か)於テ平沼清左衞 門自刃介錯シ其上百姓共強願致候者ハ清左衞門同様死刑ニ致シ候間篤ト百姓共ヘ可申諭旨達ニ付百姓共驚嘆致シ候事。(『庚午事件録』)


と、血で輿論をはね除けるという誠に残忍なことをしての移城であった。
 藩主徳広、世嗣勝千代、徳広夫人、先代崇広夫人らは、家老下国安芸以下二小隊(約百人)が護衛して、十月二十日北西の風に雪の降りしきるなか松前を発足したが、この日の朝すでに徳川脱走軍は森村支村鷲ノ木村に上陸した。二十四日になって松前にもこの報がもたらされ、藩は臨戦体制を組み、蠣崎民部を目代、尾見雄三を城代、鈴木織太郎、田崎東を副将として、四〇〇余の兵力で松前城を守備することを決定した。