岩部の集落から矢越岬までは絶壁で船でなければ渡ることができない。畳岩、シタン島、亀岩等の奇石怪岩を賞味しながら東進すると、断崖の岩のなかに僅かに低く見える場所があるが、ここが船隠しの澗である。
 海上から見たところでは、両岸が突出して高くその間には大きな岩礁が立っていて、その右側にわずかに船の通 れる航路がある。そしてこの内側は入江となっていて、五、六艘くらいの小船であれば入ることが出来る。しかも入った船は前方にそびえ立つ岩の陰になるので、外海からはこの澗も、船をも見通 すことは出来ない。この入江の後方の山は断崖つづきが僅かに開けていて、小川が流れ、飲料水にも事欠かない場所である。このような場所柄から人呼んで船隠しの澗という伝説がある。
 近世の初頭以来知内川上流から千軒岳にかけ、砂金の金山(かなやま)が発見され、元和三年(一六一七)には松前藩が直営する金山が、知内川上流に設けられた。ここで砂金掘をする人達は、月砂金一匁(三・七五グラム)を支払い、縄張りをした場所を借りて砂金を掘るという方法がとられていた。本州からこの砂金掘に入る人達は、自分の住んでいる国の領主から出国切手を貰い、蝦夷地では身元引請人が必要で、しかも税金を払わなければならない。
 丁度千軒岳の金山が開かれた元和年間は、奥羽三大飢饉の一つといわれた元和の飢饉の真最中で、路傍に餓死者がばたばた倒れていた時である。それならば一層のこと今砂金ブ−ムの捲き起っている蝦夷地へ渡って、砂金を掘って食い繋(つな)ごうと、波が押し寄せるように蝦夷地に渡ってきた。さりとて正規のル−トで蝦夷地に入ることはできず、役人や人目につかないところに密航して来たものが多く、これらの人達には船隠しの澗は、船を隠すことも出来るし、人目にも付かず、金山も近いという格好の場所であった。
 元和四年(一六一八)蝦夷地に入ってきたD・アンジェリスというイタリア人神父の報告書によれば、この年秋田・津軽から砂金掘として蝦夷地に渡った人は、三万人から五万人はいると述べている。この数字はやや誇大であるとしても、数千人規模の砂金掘が入っていたものと思われ、それらの人達のなかには、この船隠しの澗を利用した人もいたのだろう。
 船隠しの澗の川を遡って、その渇地(かつき)(行きついた処)から左の崖を登り岩部岳の東麓を巡ると岩部岳(七九四・二メ−トル)の鞍部(あんぶ)に出、そこから宿辺沢川や大川を下り、昔の碁盤坂村(御番坂村−字千軒)に出ることが出来、その間の距離は二〇キロメ−トル、行程は一日路で、途中には往時の杣道の跡が点々として残されているが、マムシと熊が多く、呉々も注意が肝要である。
 このようにして船隠しの澗から秘(ひそ)かに金山付近に入った人達は、御番坂番所(鍋毀 (なべこわ)し坂−字千軒)や、知内川上流の金山番所(字千軒−千軒岳七合目)の役人の目を逃れるようにして砂金掘をし、その中にはキリシタン宗の宗徒の人達もいただろうと言われている。