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日本のキリシタンにとって蝦夷(北海道)は逃亡の地の果てで
あった。これらのキリシタンが徳川幕府の迫害をさけて東北、
蝦夷地へと移動しはじめたのは、1612年頃のことである。
幕府はキリシタン禁教令を発し、京都の教会堂を破壊し、
二年後の1614年には一層大がかりな追放が始まった。再び
全国に禁教令を出し、教会を焼きイエズス宣言教師をマカオに
追放、また日本人信徒400余人がマニラ、マカオへと送られた。
その中にはキリシタン大名として有名な高山右近などもいた。
その後も幕府のキリシタン弾圧、火刑や斬首などがくりひろげ
られ、信徒は比較的取締りのゆるい東北へと移動しはじめた。
「蝦夷地は迫害がなくて働きやすい」という話が、キリシタンの
間で広がり佐竹藩(秋田)や津軽藩での弾圧が厳しくなるに
つれて、彼らは少しずつ蝦夷地へと渡りはじめた。
ほとんどの信徒は、一種の”治外法権”地帯だった鉱山へと入り
込んでいき、北の地で敬虔な祈りをささげながら、砂金堀りの
労働者となっていた。キリシタンの金堀人たちは、もちろん
講的な結びつき(信仰共同体)の強いことは変わりがなかった。
生と死を共にするという無言の盟約が、やがて後に述べる
千軒金山の大惨劇となってあらわれるのである。
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