古今珍勝負


気合い負け [谷風−小野川  寛政10年(1791)]
将軍徳川家斉の上覧相撲のこと。谷風が「やっ!」と声をかけて立つと、
小野川が待ったをした。すると行司はすかさず軍配を谷風に上げ、「両
力士は待ったなしで仕切った。呼吸も合っていた。なのに小野川は待っ
たした。これは、立つ気合の上ですでに負けている」と、小野川の負け
とした。検査役もこれを承し、取組もしないうちに小野川は負けてしま
ったのである。


けんか両成敗 [神風−大錦  明治時代]
明治時代の力士の中でも力自慢で名を残した大錦。その怪力ぶりはとても人気が
あった。その人気をよく思わなかったのか、神風が大錦を土俵にたたきつけ、
さらにその上に馬乗りになり「どうだ!」と叫んだのだ。これに怒った大錦は、
はね起きて、神風に強烈なビンタをくらわした。神風も怒り狂い、髪をつかんで
殴りつけ、とうとう二人は大乱闘をはじめてしまった。二人とも後できつい
おとがめを受けたことはいうまでもない。勝負の行方は、けんか両成敗となった。


つま取り [両国  明治時代]
巨漢力士の中で体が勝っていくためには、技を磨くしかない。両国は、身長160cm
体重80kgの小兵力士。彼は無類を技師といわれていたが、その中でも得意な技は
「つま取り」だった。これは相手のすきをついて、足の親指の先をとってひっくり
返すという、とても難しい技。当時の横綱鬼面山が、両国のつま取りを警戒して、
足の親指に油を塗っていたといううわさもあったくらいだ。


見栄え勝ち [和田ノ森−淀川  明治10年 幕下]
和田ノ森と淀川の対戦は、互いに慎重になりすぎて呼吸が合わず。
仕切り直すこと実に40数回、ついにしびれをきらした検査役が
「幕下の相撲でこんなに時間をくってはたまらない。
いつ打ち出せるかわからない」というわけで、相談して引き分け、
勝負預かりにしようとしたが、検査役の一人が、「仕切っている格好が
和田ノ森のほうがよかったから和田ノ森の勝ちにしたら・・」と、
提案すると、それもよかろうというので、和田ノ森の勝ちに決定した。


逃げ出し [高見山−吉瀬川  昭和39年夏・4日目]
序ノ口の取組みで、入門二場所目の高見山(189センチ、115キロ)と
吉瀬川(193センチ、95キロ)が対戦したが、吉瀬川は気が弱く怪力の
テッポウが怖くなったのか、時間一杯になって立ち上がると、
いきなり後ろを向いて逃げ出し、土俵を出てしまった。


出ると負け [友ノ山−男島  大正6年夏・3日目]
西十両どんじり(15枚目)の男島舟蔵と、西幕下8枚目の友ノ山惣五郎の
顔合わせは友ノ山がうまく飛び込み、男島の前まわしを両手で取って
引きつけると、とたんに男島の前袋がはずれ、男島があわてて両手で
かくそうとしたときは遅し、男の大事なものをさらけ出してしまった。
行司は規定によって友ノ山にウチワをあげ、このチン勝負にケリをつけたが、
かっこう悪そうに引き揚げていく男島の背中に笑いのウズが巻きおこった
ことはいうまでもない。


にらみ出し [大刀山−八島山  明治43年夏・8日目]
当時、日の出の勢いだった大関大刀山峰右衛門に初挑戦する東8枚目の
八島山平八郎は、166センチ、85キロ、小兵で額がはげあがった
さえない力士。この場所は、前日までなぜか好調で5勝2敗、7戦全勝の
無敵大関に対戦させられた。立ち上がると、大刀山は両手を広げて
ゆっくりと、ニワトリを小屋へ追い立てるようにして出てきた。
大刀山の猛烈なテッポウを食ったら大変と、ビクビクしていた八島山は、
額からアブラ汗を流しながら次第に後退、両力士の体が一度もふれないうちに、
土俵を割ってしまった。


お手つき [徳永−今野  昭和49年春]
徳永が自分の足元に落ちた下がりを邪魔だと思い、手で拾って土俵の外へ
投げた。これで物言いがつき、徳永は土俵に手がついたとして負け。
判定は「お手つき」。土俵上に落ちた下がりは、行司が拾うか、力士が足で
拾いのけることしか認められていないのだ。



Back相撲 Index