(横 綱)
横綱は、力士の最高位であり、品格と力量が
求められる。従ってふさわしい力士がない場
合は、横綱は空位のままである。横綱には降
格制度がなく引退するまでその地位は変わら
ない。日本相撲協会は、大関の地位で成績優
秀な力士を横綱に推挙する場合、「横綱審議
委員会」に諮問し、答申を受けて理事会で決
定されると、新横綱が誕生する。明治神宮で
行われる横綱推挙式で、日本相撲協会理事長
から「横綱推挙状」が授与され、新横綱は、
拝殿の前で初の横綱土俵入りを奉納する。
(土俵入り)
横綱の土俵入りには、雲龍型と不知火型がある。
江戸時代末期の第10代横綱雲龍と第11代横綱不知火の土表入りが、
美しく感動的であつたので、土俵入りの型として後世に伝えられた。
(四色の房)
土俵の屋根の四隅を飾る四色の房は、それぞれの四季が式と天の四神を
表している。東の青房は春と青龍神、南の赤房は夏と朱雀神、西の白房
は秋と白虎神、北の黒房は冬と黒い亀の玄武神である。この天の四神は、
土俵を守護する意味で四隅に祀られている。
(土俵の大きさ)
土俵の直径は、土俵のできた江戸時代当初から13尺(3m94cm)であった。
これは2人の人間が手をつないで伸ばした手の円形を描いた大きさが、
最も適した広さと言われていたからである。しかし、昭和6年4月29日の
天覧相撲から現在の15尺(4m55cm)となった。
(蛇の目の砂)
土俵の円の外側に沿って、約25mの幅で敷かれている砂がある。
これを蛇の目の砂という。昭和6年まで使われていた二重土俵の
名残りで、蛇の目の傘に描かれている「二重の円」にちなんで、
この名がつけられた。
(水入り)
両力士ががっぷり組んだまま相撲が長引いて、両力士に疲労が
見られたとき、審判員の合図によって行司が相撲を一時中断させる。
両力士が小休止したのち、相撲を再開する直前に両力士が「力水」を
つけ直すところから水入りと呼ばれるようになった。
(手刀を切る)
勝ち名乗りをうける力士が、軍配の上に乗せられた懸賞を
受け取るとき、手刀を切る。この手刀の始まりは江戸時代に
さかのぼる。千秋楽の結びの三番で勝った大関は弓、関脇は弦、
小結は矢を受け取る習わしがあった。のちに大関に代わって
弓とり式の力士が弓を受け取ることになり、行司が差し出す弓に
手刀を切る所作が行われたのである。
(立行司)
立行司とは、木村正之助と式守伊之助の2人をいう。
現在、行司の定員は45名であるが、木村か式守のいずれかを
名乗っている。
(軍配)
軍配は、戦国時代の武将たちが、軍勢の采配に、
短い棒の先に短冊状の軍配団扇を使ったことに
由来する。
(相撲字)
番付に書かれている文字は、幕末から明治時代にかけて完成された
運筆の太い相撲字で、版元の三河屋根岸治右衛門が書いたので
通称「根岸流」と呼ばれている。
(四股名)
相撲が観客を楽しませる格闘技として登場した時代の力士たちは、
ほとんどが元は武士であり、誇り高く、本名を名乗らずに相撲を
取っていた。客寄せの目的もあって、強そうな名前を自分自身でつけ、
それを四股名と称した。元来、四股名は「醜名(しこな)」と書いて
いた。「醜」とは、自分を卑下する意味と強いものの意味がある。
戦国時代に、現在の大分県あたりの豊後の国を支配していた
大友宗麟が相撲大会を催した。出場した力士たちは自分でつけた
四股名を名乗った。
これが文献に登場した初めての四股名で500年の歴史がある。
(溜席と桝席)
溜席は、力士同士の激しい対戦で観客が砂をかぶることがあるので、
別名砂かぶりとも呼ばれている。土俵のすぐ下、審判員の後ろで
力士の取組みを間近かに見られるが飲食や喫煙は一切禁止されている。
桝席は、枠で区切った4人用の座布団席。この桝席では、
飲食も楽しめる。土俵上の力士の息づかいも聞こえてくる臨場感に
あふれる席で、大相撲の雰囲気を堪能できる。
この他、椅子席がある。 |