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鉄腕横綱「千代の山」のすべて

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少年時代
 第41代横綱千代の山は、大正15年6月2日北海道松前郡
福島町で、杉村米松の五男として生まれる。小学校の頃から
父とともに夜中のイカ釣りに沖に出て働き、船頭仕事で鍛えた
足腰が後年の相撲界で役立つこととなる。
入門から十両まで
 昭和16年7月不世出の名横綱双葉山に憧れて上京したが、
協会映画部の伊勢寅彦氏の目にとまり「双葉山を倒すために、
出羽海部屋へ入るべきだ」の殺し文句により、双葉山道場の
入門をやめ、藤島親方(後の7代目出羽海)のもとに弟子入りした。
 その間、七つボタンにも憧れ土浦航空隊に入隊したが、
186センチの巨体に合う制服も靴もなく、即日帰された
エピソードがある。
 昭和17年1月に杉村の本名で初土俵を踏む。186センチ、
85キロの筋骨の逞しい少年で、新弟子の中でも抜群の体格は、
「こりゃ、横綱モノだ」と他の親方の羨望の的であった。
 新序で4戦全勝し、つぎの場所では番付が序ノ口を飛んで
いきなり序二段に付け出された。このとき杉村は自分の名が
番付になく、やっと序二段中軸に見つけビックリしたという。
 この場所も8戦全勝と杉村は教えられたとおりの突っ張り
一本で番付を上げていった。幕下12枚目に進んだ杉村は、
四股名を千代ノ山と改め4勝1敗の好成績で、番付について
以来五場所目で十両入りを決定し、うなぎ昇りの出世を果たす。
廃虚の中に輝く新星
 千代の山は戦争末期の昭和19年12月に十両入りし、
軍需工場に勤労奉仕しながら二場所続けて優勝し、
19歳6ヶ月の若さで初土俵から九場所目で新入幕を果たす。
この記録は「羽黒山」の八場所につぐ大記録であった。

 幕内三場所目で早くも関脇に進んだが左ヒザの故障が
再発して全休した。昭和24年5月場所は戦後初の15日間興行で、
横綱の照国、東富士、前田山を倒し、12勝をあげて殊勲賞を
受け大関に推挙された。

“青年横綱”千代ノ山
 昭和24年10月千代ノ山は弱冠23歳の
新大関として登場し、13勝2敗で初優勝
を飾り、次の場所も12勝3敗として二連
覇をとげた。
 横綱を賭けた5月場所は不振に終わった
が、翌26年5月場所にライバルの鏡里、吉
葉山の二大関、そして照国、羽黒山、東富
士の三横綱を倒して14勝1敗の好成績で三
回目の賜杯を手中にし、協会自主横綱第1
号の推挙を受けて、満24歳の若い日下開山
が出現した。

千代の山優勝カップ



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肩を並べた三横綱
 24歳の若さで横綱になった千代ノ山は
不振が続き、「横綱を返上し大関から出直
したい」と協会に申入れ、前代未聞の出来
事に世間は大騒ぎになった。
 昭和28年9月場所に総てをかけ11勝と
再起を果たす。また、この場所からテレビ
中継が始まり、相撲の映像が茶の間に流れ
て戦後の黄金時代の幕開けを告げた。
 昭和29年1月「千代ノ山」は「千代の山」
と一字改め、大関の吉葉山が全勝優勝で横綱
に昇進し、「千代の山」「鏡里」「吉葉山」
の三横綱が肩を並べた。
千代の山燃え尽きる
 昭和32年1月場所、奇跡の勝利といわれた6度目の優勝を全
勝で果たした後、ヒザと腰の故障で全休することもあったが、
歯を食いしばってよく耐え土俵を勤めた。
 はじめは猛突っ張りで相手を二、三発で吹き飛ばし、太刀山
の再来といわれたが、横綱になり四つ相撲も覚え、右四つからの
左上手投げの冴えをみせて、大向こうを唸らせたが、昭和33年7
月から故障が再発して休場がちとなり、昭和34年1月場所6日
目の朝「これ以上横綱の名を汚したくない」との談話を残して
ついに引退に踏み切った。
年寄九重時代
 千代の山は引退後、年寄九重を襲名、やがて七代目出羽海(元
横綱常ノ花)の後継と目されていたが、出羽海相続をめ
ぐって敗れ、昭和42年1月場所後「分家を許さず」という部屋の伝
統である不文律を破り、北の富士、北瀬海ら10人の直弟子を連れ
て九重部屋を設立した。

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