福島町史 通説編
上 巻
例 言
一、 本巻は、 『福島町史』 第二巻通説編上巻とし、 福島町の自然地理から縄文土器を含む古代、
さらに中世、 近世を経て、 明治五年 (一八七二) の開拓使に福島郡が編入されるまでの期間を対象として、
歴史編述したものである。
一、 本巻は町民各層が親しみ、 通読できるようにするため、 できるだけ平易な文章で執筆し、
その時代時代の慣用語等は当時の歴史を知るために用いたが、 その難解のもの、 および地名、
人名等はふりがなを付し、 読み易くした。
一、 出典、 引用史料等は煩瑣にわたるので、 史料名のみを 『 』 で表記し、 文中の説明を要する個所は
( ) の中に於いて説明した。 また、 引用史料の長文のものは、 一段下げをもって掲載し、
短文のものは 「 」 で標示した。 年号については日本年号を先にし、 ( ) 内に西暦年を掲げた。
一、 アイヌの表記については、 古代・中世は、 文献、 史料等で 「蝦夷」 あるいは 「夷」、
「狄」、 「蝦夷人」 等の名称が用いられているので 「蝦夷」 をもって統一し、 近世以降については
「蝦夷」 と 「アイヌ」 の用語を混用した。
一、 本巻は編集長永田富智が執筆し、 編集した。
一、 本巻の編集に当っては、
福島町史編集室 室 長 鳴 海 軍 児 (総務課長兼務)
係 長 山 内 千代喜 (途中退職)
主 事 山 下 章
臨時職員 佐々木 美 保
臨時職員 山 田 実 鈴
が編集長を扶け、 業務に当った。
一、 本巻の執筆、 編集に当り特に市立函館図書館、 北海道立文書館、 北海道立図書館、
北海道大学附属図書館等をはじめ、 多くの史資料所持者の方々に多大のご協力をいただいたことについて、
巻頭をもって謹んで厚くお礼を申し上げる。
平成七年三月
福島町史編集長 永 田 富 智
福島町史 通説編 上巻
目 次
第一編 古代からの福島……………1
第一章 福島町の地勢・地質……………3
第一節 福島町の地勢……………3
第二節 福島町地層の構成……………4
第三節 福島町の地名……………9
第二章 津軽海峡の成立……………11
第一節 津軽海峡の成立……………11
第二節 ブラキストン・ライン……………15
第三章 福島の先住民……………17
第一節 古代の福島……………17
第二節 館崎遺跡・館古遺跡……………23
第二編 中世の福島……………27
第一章 和人の蝦夷地定着……………29
第一節 義経伝説の持つ意義 (福島町の開基)……………29
第二節 山岳信仰と岬信仰……………32
第二章 津軽安藤 (東) 氏と蝦夷地……………36
第一節 安藤 (東) 氏の流入……………36
第二節 康正・長禄の蝦夷蜂起……………39
第三節 穏内館主土氏……………46
第四節 蠣崎氏の台頭……………50
第五節 常盤井氏・戸門氏の定着……………56
第三章 中世の産業と文化……………60
第一節 中世の産業 (鮭と昆布、鯡)……………60
第二節 社寺の建立……………63
第三編 近世の福島……………67
第一章 松前藩の展開……………69
第一節 松前藩の成立……………69
第二節 松前氏一族……………73
第三節 松前氏と京都の関係……………79
第四節 江戸藩邸と参勤交代……………83
第五節 歴代藩主……………89
第六節 福山館の築城……………92
第七節 松前藩の知行制度……………94
第八節 幕府巡見使……………100
第二章 創業期の各村……………114
第一節 各村の展開……………114
第二節 各村の創始……………120
一 福島村
二 白符村
三 宮歌村
四 吉岡村
五 礼髭村
六 白符村・宮歌村の境界争い
第三節 村治組織……………180
一 村役
二 五人組 (合)
三 村方の年中行事
第四節 村民の義務……………205
一 税役
二 寄合
三 各村への賦役
第三章 各産業の進展……………229
第一節 漁業の変遷……………229
ニシン漁業、 サケ漁業、 イワシ漁業、 海藻類
第二節 農業の試練……………260
米作、 野菜作付
第三節 林業……………263
福島の林相、 蝦夷山請負、 留山
第四節 鉱工業……………267
千軒金山、 楚湖金山、 その他
第五節 海上交通……………276
第六節 陸上交通・駅逓・宿場……………289
第七節 変災……………294
第四章 宗教・文化……………303
第一節 近世宗教の展開……………303
第二節 社寺の創建……………326
第三節 福島と蝦夷地のキリシタン……………347
第四節 松前神楽の発祥と展開……………380
第五節 松前神楽と社家笹井家……………392
第六節 円空の巡錫と貞伝……………416
第七節 松前廣長と福島……………426
第四編 幕末から明治維新の福島……………431
第一章 各村の変化……………433
第一節 幕末の松前藩……………433
一北方の危機と松前藩
二松前城の築城
三ペリー来航
四蝦夷地の上地と三万石格大名
五松前崇広の老中入閣
六十八世藩主徳広の嗣立と明治維新
七松前藩内のクーデター
第二節 福島村番所の設置と機能……………487
第三節 沿岸警備と砲台……………489
第四節 飢饉と福島……………492
第二章 産業の変化……………503
第一節 ニシン漁業の興廃と代替漁業……………503
第二節 吉岡沖口番所の設定と運営……………514
第三章 箱館戦争と福島……………520
第一節 奥羽戦争の開始……………520
第二節 徳川脱走軍の蝦夷地占拠……………522
第三節 福島・松前城の攻防戦……………528
第四節 館城の攻防と藩主の津軽落……………548
第五節 徳川脱走軍の治政……………553
第六節 二年己巳の役の戦い……………560
第四章 松前藩の崩壊と福島……………596
第一節 松前藩・館藩の崩壊………………596
第二節 福島の青森県帰属と福島郡……………602
第三節 福島郡の開拓使への編入……………607
第五編 郷土の伝説……………611
第一話 矢越岬の怪……………613
第二話 千軒岳の埋蔵金……………615
第三話 船隠しの澗の伝説……………616
第四話 祖鮫明神の伝説……………618
第五話 見ねこの岬……………620
第六話 クジラケンとの会戦……………621
第七話 丸山薬師と目薬水……………622
第八話 八鉾杉と乳房桧……………623
第九話 女郎岬の悲話……………625
第十話 精進川の話……………626
第十一話 大滝のお不動様……………628
付 福島町 歴史年表 (古代より明治五年まで) ……………631
第一編 古代からの福島
第 一 章 福島町の地勢・地質
第一節 福島町の地勢
福島町は、 北海道西南部松前半島の南部に位置し、 南は津軽海峡を挾んで本州津軽半島三厩村
(青森県東津軽郡) に対し、 北は大千軒岳 (一、 〇七一・六メ-トル) を頂点として、
松前町および桧山郡上ノ国町に接し、 東は矢越岬から岩部岳 (七九四・二メ-トル)
を経て七ツ岳 (九五六・八メ-トル) の線をもって上磯郡知内町に接している。
この福島町は北緯四一度二八分五二秒、 東経一四〇度一五分一八秒に位置 (現町役場位
置測定) しており、 東は上磯郡知内町、 西は松前郡松前町、 北は桧山郡上ノ国町に接し、
その間の行政総面積は一八七・一八平方キロメートルで、 土地利用面積は次のとおりである。その利用面
積は僅かに五、 〇〇一平方キロメートルで、 他の面積の多くは山林、 山地である。
海岸の汀線は東の矢越岬から西の白神岬東側滝の澗までの間、 おおよそ三〇キロメートルの海岸線が続き、
美しい海岸美を形成し、 松前・矢越道立自然公園として指定されている。 農耕地は僅かに福島川流域の沖積平野に展開するのみで、
他のほとんどは山地で、 大千軒岳を盟主とし、 前千軒岳、 袴腰はかまごし岳、 百軒岳、
桧倉岳、 岩部岳、 七ツ岳、 灯明岳等七〇〇~一、 〇〇〇メ-トルの山々が連立し、 その山容を誇っている。
このように北は山岳地帯に囲まれ、 南は海峡に面しているので、 比較的雨量が多く、
温暖な気候で平均気温は一一・三度 (平成四年度調査) であり、 この地域のなかに、
人口約八、 〇〇〇人の町民の生活が展開している。
青函海底トンネルの完成によって、 福島町の行政区域も拡大され、 同トンネル延長の中心部以北から福島町字館崎までの一二・三キロメートル間が福島町の地先として認定されている。
第二節 福島町地層の構成
福島町の地質、 地層の調査研究は、 昭和二十二年の津軽海峡海底部の海底爆破による岩石の採取にはじまり、
昭和三十七年のトンネル・ボ-リングをはじめ、 国内の総力を上げて、 当町内の地質、
地層の研究が進められ、 その結果が青函海底トンネルの完成に結びついた。 したがって福島町は他市町村に比して、
この種の調査は詳細に行われ、 解明されている。
この福島町の地層は、 大別すると、 白神岬から字吉岡付近の大千軒岳隆起地塊の南部に当る新第三紀層中の松前層群、
福山層、 吉岡層、 訓縫層と、 その接点となる多くの断層を伴った古成層が複雑で、 さながら地質の標本的地帯と、
福島川流域地帯から矢越岬にかけては火山岩質の知内火山岩類が海岸近くにまで分布して急崖をなしており、
さらに山地には、 丸山、 池の岱のような溶岩円頂の火山痕跡の急峻な地形に分けることが出来る。
福島町の地質については工業技術院地質調査所の調査研究に詳しく、 白神岬より字吉岡に至る間は秦はた光男・箕みの浦名知男・大沼晃助・加藤誠の共同研究になる
『松前地域の地質』 (平成二年・札幌 〔四〕 第九二号) また、 福島地域については山口昇一著の
『渡島福島地域の地質』 (昭和五十二年・札幌 〔四〕 第九三号) 及び 『知内地域の地質』
(昭和五十三年・札幌 〔四〕 第九〇号) が詳細を極めているので、 この両著から要約すると福島町の地質は次のようなものである。
字松浦から字吉岡にかけては白神岬に表徴されるように、 大雪山系を中心に南北に展開する北海道の一番古い地層が大千軒岳で、
松前群層という道南地方では最も古い地層が、 前千軒岳、 袴腰岳、 百軒岳、 松倉岳、
白神岳の稜線を造って南下し、 白神岬にその姿を表して、 そのまま津軽海峡に貫入し、
松前、 福島地方の最深部の地層を形成している。 これが松前群層であるが、 この岩は玄武岩や粘板岩、
チャ-ト、 砂岩、 花崗岩等である。
この松前群層を覆うように福山層や吉岡層、 訓縫層があり、 福山層では輝石安山岩、
流紋岩、 凝灰角礫岩、 凝灰質砂岩等が検出される。 吉岡層は多くの断層を伴った泥岩、
油母頁ゆぼけつ岩等が見られる。 訓縫層は字館崎、 吉岡、 宮歌付近に発達して砂岩凝灰岩、
輝石安山岩、 砂岩等が見られるが、 これら地層の変化する接点に大きな断層が存在し、
松前町との町堺付近には白神岬断層、 滝ノ澗付近から楚湖付近にかけての吉岡峠断層、
その層が北上にて分化した吉岡川断層などの複雑な地層があり、 これがそのまま津軽海峡に貫入し、
海底トンネル工事の際の異常出水をもたらしていたと考えられる。 さらにこの地層は澗内川流域から桧倉川にかけては板状硬質頁岩と微妙に変化している。
福島川を中心としてその東側から矢越岬にかけては地層、 地質に大きな変化を見せている。
吉岡から松浦を経た町堺付近までは比較的古い時代の地層に対し、 福島以東矢越岬までは割に新しく形成された火山岩主体の地層となっている。
その主体は岩部岳から丸山、 池ノ岱を中心としたと思われ、 この山々の爆発によって形成されたと思われる岩相が多い。
丸山は溶岩円頂丘岩脈の角閃石石英安山岩という地層では新しい岩質で、 この山の噴火爆発がこの地域地質に大きな影響をもたらしたものと思われ、
さらに池の岱についても山頂部付近は丸山と同じく火山であったらしく、 輝石安山岩でその東側では角閃石石英安山岩があり、
この地帯は大きな火山林立帯であったことを示していて、 その近くには塩釜断層と浦和断層の二つの大きな断層があり、
そこを中心として地層が異なっている。
字日の出から女郎岬にかけては、 それより以東と若干地層が異なり、 安山岩質火山角礫岩が多く、
女郎崎は角閃石含有輝石安山岩という、 黒茶色の岩盤が露出している。
女郎崎から岩部を経て矢越岬、 さらに岩部岳から知内川支流の宿辺沢付近は広範な輝石安山岩溶岩、
安山岩質火山角礫岩地帯で、 そのうち岩部岳は輝石含有角閃石英安山岩で、 その台上から知内町の丸山にかけての山地は紫蘇輝石普通
輝石安山岩である。 これらの地域は、 知内火山岩類のうちの丸山安山岩といわれる火山溶岩の凝結したものである。
岩部から矢越岬に至る海岸の断崖を見ると、 松倉ノ岬付近の断面には、 火山の爆烈痕を見ることができ、
この地域は古い時代には噴火によって流失した溶岩によって形成された地域であることがよく分かる。
字千軒付近の盆地と知内川上流出戸二股以南の知内川流域は、 地層が前記の岩部山地より古く、
福山層の砂質シルト岩と凝灰岩を伴った珪藻質シルト岩があり、 この地域の知内川や支流の多くは川床が平盤となっている処が多い。
その間に酸性凝灰岩が帯状に徘回はいかいしている処もある。
知内川本流の出戸二股から上部にかけては、 地質が非常に古く、 松前群層の含礫泥岩、
玄武岩質火砕岩、 チャ-ト、 角閃石、 単斜輝石岩、 角閃石黒雲母花崗岩、 花崗岩をはじめ、
福山層輝石安山岩凝灰角礫岩、 同質溶岩及び火山角礫岩、 玄武岩質安山岩等が複雑に交差し、
それに多くの断層を伴っているので、 地層の変化が激しく、 さながら地質、 地層の見本を見るようである。
これらの古生層が生成される過程では、 火山のクリオ-タ・ ベ-ション (摩擦) によっていろいろの鉱物も生れ、
知内川流域が金・銀・満俺まんがん・重晶石じゅうしょうせき等が産出するのは、 このような理由からで、
特に知内川の砂金は名高い。
第三節 福島町の地名
北海道内の地名のほとんどはアイヌ語に発した地名である。 福島についてはアイヌ語でオリカナイ
(折加内) と言われてきたが、 これはアイヌ語のホロカ ナイ=潮が入ってきて河水が逆流する川という意味である。
(永田方正筆 『北海道蝦夷語地名解』 )つまり、 現在の福島川の河口付近が大谷地になっていて、
河水が滞流し、 そこに海水が入り込んでいたことを地名としたものである。 寛永元年
(一六二四) 月崎神社の御神託により、 藩に願い出て福島村と改村したといわれている。
この福島の地名については、 現在の松前町の城跡地域を古くは福山と呼んでおり、 それに対する福島なのか、
本州対岸の青森県内の福島の地名を吉祥字として吸収して地名としたのかは定かではない。
また吉岡の地名も古くはオムナイと呼び、 長禄元年のコシャマイン蜂起の際にも穏内おんない館の名が見えている。
これもアイヌ語のオムナイ=川尻の塞ふさがる川という意味である。 恐らく吉岡川の川尻の土砂が堆積して流れが悪かったことが想像され、
近世にいたって吉岡村と改めたものである。
福島町内の字名は昭和十七年、 吉岡村は昭和十三年字地番の改正により、 難解文字の地名、
三字以上の長い地名等を現在の地名に改正したが、 それ以前の地名は多くアイヌ語に発した地名である。
この地名を永田方正筆 『北海道蝦夷語地名解』、 山田秀三筆 『北海道の地名』 によって見ると、
次のとおりである。
矢 越 ヤ ク シ 内 陸 を 通る 所
白 符 チ ロ プ 鳥 の 多 い 所
宮 歌 ミ ヤ オ タ ミ ヤ ・ 砂 浜
礼 髭 レ プ ン ゲ プ 海 と な る 所 ( 字 吉 野 )
等主な村落はアイヌ語地名であるが、 このほか
シラットカリ 岩 磯 の 此 方 ( 字 岩 部 )
カ マ ヤ 平 べ っ た い 岩 ( 字 塩 釜 )
ピカタトマリ 西 南 の 風 の 泊 所 ( 字 日 向 )
シットマイ 海 岸、 岬 ( 字 日 向 )
ソ ッ コ 滝 の 川 ( 字 松 浦 )
シ ラ カ ミ 潮によって被われる地 ( 白 神 岬 )
等であるが、 これらの地名を見ると岬や海岸、 あるいは河川など他の場所と異なっている地理条件を地名としている所が多く、
そのほか、 その地の産物、 動植物をもって地名としている所もある。
第 二 章 津軽海峡の成立
第一節 津軽海峡の成立
北海道の地形は古代においては常に変動を繰り返していた。 それは氷河時代の気候が、 著しく寒かったり、 温暖になったりという変化があり、 それによる海水底位の変動によって海岸汀線は年代により、
大きく変化していた。 また、 支笏しこつ火山、 クッシャロ火山、 摩周火山、 樽前火山等の噴火や地震によっても地形に大きな変動があった。
北海道に北方から先住民が入って来て生活するようになったのは、 今から四万年位前からだといわれている。 それまで非常に寒かった北海道の気候がトッタベツ氷期
(四万四、 〇〇〇年前) ころからやや暖くなり、 マンモス等の動物もシベリア大陸、 樺太 (サハリン州) から宗谷海峡の陸橋を通って北海道に渡り、 人類と共に住み着くようになったといわれている。
そのころは寒冷のため海水が少なく、 また氷河等が多かったので本州の竜飛岬と本道の白神岬を結ぶ地域は、 海峡がなく、 陸地が続いていて、 人々が自由に往き来することができた。
また、 朝鮮半島から九州、 樺太から北海道の現在の海峡部分は、 すべて陸続きで、 自由に徒ち渡ることが出来た。 従って現在の日本海は四つの海峡の陸封によって出来た、
大きな湖であったと言われている。
北海道と本州とを結ぶ津軽海峡の西側にあった白神岬と竜飛岬間の陸橋と呼ばれる地続きには、 三本の海釜が南北に走り、 これが陸橋となっていた。 最も東側の一本は、
吉岡地区から日向地区にかけての海岸から海丘埋を経て、 馬の背状態となって竜飛岬から三厩村 (青森県東津軽郡) に延長していて、 海底の最深は一四〇メ-トルから一六〇メ-トルである。
真中の一本は白神灯台のやや西側から南に伸びる線で最深部は二〇〇メ-トルである。 さらに西側の一本は松前弁天島から南東に向い、 小泊村 (青森県北津軽郡)
に達し、 水深は二〇〇メ-トルである。 現在の海水位は、 この時代二〇〇メ-トル位低かったと想像されるので、 津軽海峡の西口の福島―竜飛間の陸橋は海面に四〇~五〇メ-トル姿を出していて、
人々は、 左に太平洋、 右に日本海を見ながら徒かち渡っていたと考えられる。
こうした陸橋もトッタベツ氷河期の約五万年位前の時代から地球の温暖化傾向が強まり、 人類や動物の住める気候条件ができ上がり、 最近の考古学調査では、 白滝前期文化
(紋別郡白滝村) 出土の旧石器は三万八、 二〇〇年前のものといわれるから、 この時代にすでに北海道に人が住み着いていたことが明らかである。 さらに植物群も胎生しつつあった。
しかし、 このトッタベツ氷河期は次頁図の如く、 一、 〇〇〇年を単位として寒暖を繰り返しつつ、 温暖の方向に向かっていることが分かる。 この温暖化は氷山や氷河が溶け、
海水の増加することによって、 この陸橋の姿も年と共に小さく変化したと考えられ、 湊正雄の論文 「最近の地質時代における北海道の古地理的変遷」 で、 筆者はその状況を、
「例えば、 マキシマム・ウルムにおける、 深度一四〇mの降下量から、 その頃の汀線が、 現在の海底における一四〇m等深線の位置に機械的に求められるとは限らないものである。
何故ならば、 海水面降下時代の侵蝕と上昇時代の堆積は、 複雑に交互しており、 従って部分的に、 (古い海水面上に残されて侵蝕をまぬかれた) 堆積面や、
不規則な侵蝕面の複雑な合成の結果が現在の海底地形を形成している。」 と述べている。 この陸橋は海水の増加と、 それに伴う海水面の上昇によって、 海中に没したものであるが、
その海没年代について湊正雄 (当時北海道大学教授) は、 「北海道が海峡によって最終的に本州から隔離したのは、 今を去る一万八千|一万七千年頃であろう。
また、 宗谷海峡が成立したのは、 一万二千年頃であったとみなされる。」 とし、 陸橋の海没によって津軽海峡が成立したのは、 今から一万七、 ~八、 〇〇〇年前であるとしている。
この海没の順序も津軽海峡、 宗谷海峡、 間宮海峡の順で、 一万二、 〇〇〇年前後には日本海は今の形にできあがったものである。
しかし、 亜氷期の時代は冬期はなお極めて寒冷であり、 津軽海峡では海水温が0度以下になっていたらしいので、 冬期には津軽海峡をはじめ北方の凡ての海峡が、
流氷によって、 一種の氷橋が形成されていて、 冬期間は人がこの氷橋を往き来していたもので、 この氷橋が全く消滅するのはトッタベツ/間亜氷期中葉 (一万年位前)
以降の事と言われている。
(この項は当時北海道大学教授であった故湊正雄の論文 「最近の地質時代における北海道の古地理的変遷ー(北海道の生いたち)」、 『新しい道史ー通巻三九号、
北海道昭和四十五年三月三十一日発行 』 を多く参照し、 また抜萃させていただいたことに感謝申し上げる。)
第二節 ブラキストン・ライン
ブラキストンは函 (箱) 館に居住したイギリス人の商人である。 彼は一八三二年イギリス・リミントンに生れ、
同国陸軍の大尉である。 クリミヤ戦争に参加ののち、 中国揚子江上流を探検して、 その上文久三年
(一八六三) シベリアに入り、 製材業をしようとしたが許されず、 箱館に来て製材所を設け、
我が国初の蒸気機関による製材所を開いたほか、 貿易・運輸などを行い、 ブラキストン商会を開いた。
明治元年から二年 (一八六八~六九) には、 死の商人として政府軍と徳川軍の両方に武器を販売して巨利を博している。
彼は動物・鳥類学にも詳しく、 本道から千島地方までの調査をし、 それを基本に、
津軽海峡を境界として、 動物、 鳥類の棲息が異なるという論文を発表している。 この論文はブラキストンとプライヤ-氏の
『日本の鳥類』 という論文で一八八〇年 (明治十三年) の発表であるが、 その論述は鳥類を根拠とした簡単なものであったので、
一八八三年二月東亜協会で 「日本列島とアジア大陸との古き連詰の動物学的指示」 という論文を発表し、
その中で 「哺乳類、 鳥類より見るときは日本内地は南北動物群の混合地域なれども、
北海道は樺太と共にシベリア系動物相の東部を成す」 と説き、 「本州との動物相の差違を指摘せり。
日本内地の混合相なる理由としては、 氷河時代に於ける津軽海峡は早くより存在して本海峡南北の動物群を分離し、
海峡の氷結に依りて両岸動物の混在を招致せりと結論せり。」 (「渡瀬線とブラキストン線-木場一夫-昭和六年論文」)
としている。
ブラキストンは津軽海峡を挾んでの南北沿岸には異なる動物の棲息を挙げ、 本州のさる、
いたち、 月輪熊、 いのしし、 やまいぬ等は北海道には居らず、 また北海道に住むひぐま、
えぞいたち、 おおかみ、 えぞしか等は本州に産しないことを挙げている。 この論文は当時は多くの人達によって支持され、
ジョン・ミルンによって、 その境界線をブラキストン・ラインと命名されたものである。
しかし、 この論拠となるべき津軽海峡の成立については具体的な拠よりどころに欠けており、
また、 考古学の発達によって各地で発掘調査が行われた結果、 各地で猪いのししの骨や牙きば等も発見されていて、
明確に津軽海峡をもって動物・鳥類の分布が異なるとは断定が出来ないというのが現代の評価である。
第 三 章 福島の先住民
第一節 古代の福島
福島町には文化財保護法で定められている届出を済ましている周知の埋蔵文化財包蔵地として、
次の三十二件の包蔵地がある。
1 穏 内 館 遺 跡 字 館 崎
2 館 崎 遺 跡 字 館 崎
3 蝦 夷 館 山 チ ャ シ 跡 字 館 崎
4 福 島 高 校 前 遺 跡 (前位置) 字 桧 倉
5 館 古 遺 跡 字 福 島
6 権 四 郎 川 遺 跡 字 三 岳
7 碁 盤 坂 遺 跡 字 千 軒
8 宿 辺 川 遺 跡 字 千 軒
9 岩 部 川 左 岸 遺 跡 字 岩 部
10 日 出 小 学 校 遺 跡 字 日の出
11 浦 和 小 学 校 遺 跡 字 浦 和
12 坊 主 沢 遺 跡 字 福 島
13 白 符 遺 跡 字 白 符
14 白 符 保 育 所 遺 跡 字 白 符
15 宮 歌 遺 跡 字 宮 歌
16 豊 浜 遺 跡 字 豊 浜
17 吉 岡 遺 跡 字 吉 岡
18 館 崎 遺 跡 字 館 崎
19 吉 野 遺 跡 字 吉 野
20 吉 野 墓 地 遺 跡 字 吉 野
21 礼 髭 遺 跡 字 吉 野
22 与 兵 衞 沢 遺 跡 字 吉 野
23 松 浦 遺 跡 字 松 浦
24 折 戸 沢 遺 跡 字 松 浦
25 松 倉 遺 跡 字 千 軒
26 二 郎 沢 遺 跡 字 千 軒
27 福 島 川 右 岸 遺 跡 字 三 岳
28 白 川 橋 遺 跡 字 月 崎
29 福 島 大 神 宮 遺 跡 字 日 向
30 日 向 遺 跡 字 日 向
31 吉 岡 変 電 所 遺 跡 字 館 崎
32 岩 部 川 右 岸 遺 跡 字 岩 部
これらの遺跡は、 畑地の表土に散乱している土器や石器によって確認されたり、 公共土木工事によって発見されたものも多いが、
字館崎台地上のように青函海底トンネル基地造成によって初めて発見された個所もあるが、
本格的な発掘が行われたのは、 1、 穏内館遺跡、 2、 館崎遺跡、 、 館崎遺跡の三個所のみで、
この町に住んだ先住民の全体像を知ることができない。 またこの三十二個所の周知の遺跡のほか、
海岸より二〇~三〇メ-トルの高地には多くの遺跡の存在したことが考えられるし、
また、 現在の海岸線の人家の建て込んでいる地帯も、 かつては遺跡が在ったと思われるが、
永年の家屋使用によって、 その痕跡が失われている処と思われる。 それでは、 私達の先祖の住み着く以前に、
この町に住み着いた人達はどのような人達で、 どのような文化を持った人達なのかを調べて見よう。
【旧石器時代】北海道に人類が住み着いたのは四万年位前からだといわれる。 それから一万年位
前までの時代を旧石器時代と呼んでいる。 この時代の遺跡は土中の深い処のロ-ム層中や、
その接点付近で発見されるが、 そのため大きな土木工事等で発見されることもある。
この旧石器時代の遺跡は、 土器を伴わない打製石器だけを所見することができる。 これはこの時代の人達は未だ土器を造ることを知らず、
石を欠いて石器のみを造っていたもので、 北海道内では北見、 十勝地方から多く発見され、
道南では寿都町樽岸、 知内町湯の里4遺跡等で発見されているが、 福島町からは未だ発見されていない。
【縄文時代】旧石器の時代が終り、 今から二、 五〇〇年程前までの時代を縄文時代と呼ぶ。
そのうち八、 〇〇〇年から六、 〇〇〇年位前の土器時代を縄文早期と呼び、 それから四、
〇〇〇年位前までを前期・中期の時代、 さらに三、 〇〇〇年位以降のものが後期、 その後は二、
五〇〇年前のものが晩期と言われる時代である。
縄文早期の土器特長は、 台座がなく底部が尖がっていて乳房状になっている。 これは恐らく砂地に土器を刺し込んで安定させて、
使用したといわれ、 この時代の人は台座を造って安定させることを知らなかったともいわれる。
この土器は尖底せんてい土器と言って、 函館市の住吉町から一番先に発見されているので、
住吉町式ともいっている。 しかし、 最近考古学の発達によって、 すでにこの時代台座の付いた同年代の土器が十勝地方等で発見されていて、
この尖底土器を最古とするという考え方は変りつつある。
【縄文前期・中期の時代】この時代は今から六、 〇〇〇年位前から四、 〇〇〇年前までを縄文前期の時代といい、
それから一、 〇〇〇年位下った時代までを、 縄文中期の時代と呼んでいる。 この時代は円筒形土器時代といわれるように、
非常に大きな円筒形の土器を造り、 それに穀物等の貯蔵をしたり、 煮炊きをする道具に使用したりした。
このような大型の土器を造るため、 粘土の中に植物の繊維せんいを混ぜて甕自体が丈夫になるよう工夫するようになった。
この前期の場合縄紋や縄状貼付紋が主体であるが、 中期に入ると型はさらに大掛かりになり、
胴部に縄を回転させた模様を付し、口唇部こうしんぶには大胆で華麗な紋様となる。 この型式で前期のものを円筒下層式あるいは余市式といい、
中期のものを円筒上層式と呼んでいる。
青函海底トンネル基地とするため、 緊急発掘調査を行った本町の字館崎台地一面は、
丁度この円筒前期から中期の遺跡で、 二〇〇個体の完形土器の復元ができたほか、 無数の土器破片も発見されている。
またこの時代には石器の製作使用も盛んで、 石鏃せきぞく (矢の根石)、 石槍、 石匙せきひ
(石小刀)、 石斧ふ (石おの)、 擦石、 冠石等も多く発見されているが、 この遺跡の特色として石錘せきずいが多数発見されている。
これは石の重りを使い、 海で魚を獲っていたもので、 採取生活のなかで海とのかかわり合いを示す資料でもある。
この館崎遺跡のほか、 福島町では館古遺跡も同年代のものである。
【縄文後期の時代】縄文の後期の時代は、 今から三、 〇〇〇年から二、 五〇〇年前のことである。
この期には大型の円筒形式土器は退廃し、 代って小型で、 土器文様も複雑になり、 器形も多様化する時代である。
この時代北海道では野幌式という土器が非常に発達し、 これが南下を続け海峡を越え、
東北地方にまで及んでいる。 またこの期に関東で発達した加曽利B式という土器とも共通
点が見い出され、 北海道と本州の交通がますます頻繁になったことを示している。 この期の遺跡は福島町では少ない。
【縄文晩期の時代】今から二、 五〇〇年位前から二、 〇〇〇年前の土器年代を縄文晩期の時代というが、
この時代は遮光土器しゃこうど き といわれる人形型をした土器に代表されるが、 その土器の出土の中心が青森県西津軽郡木造町亀ケ岡の出土であるので、
亀ケ岡式土器という。 この土器は発生後東北地方はもちろん、 道南地方にも多くこの形式が流入し多くの遺跡を残している。
この土器は薄形でさまざまな型と華やかな文様があるが、 遮光土器の土偶どぐう (人形)
や祭祀に使われたと思われる坏つきなど、 呪術まじないの支配する社会のあったことを裏付ける出土品も多い。
福島町ではこの時代以降の土器は発見されていない。
【続縄文の時代】この時代は二、 〇〇〇年前から一、 〇〇〇年前までの時代を続縄文時代という。
この時代本州では農耕を主体とした弥生時代へと移り変わって行くが、 北海道では稲作が行われず、
漁撈や採取に重きがおかれていた。 この時代道南では恵山地方で多く出土する恵山式土器と、
本道東北部に発展した後北式土器があるが、 この期には石器の使用が非常に少なくなる。
これは本州で発達した鉄器が道南にも流入し、 次第にその文化のなかに組み入れられて行ったと考えられる。
また、 北海道には本州文化の弥生式土器は流入されていないと言われてきたが、 最近の研究では瀬棚町瀬棚遺跡、
松前町札前遺跡等で発見されていて、 弥生文化が北海道にも上陸していたことを物語っている。
【擦文時代】八世紀ころになると古墳文化、 農耕文化が東北地方にも伝播でんぱし、
それまでの深い竪穴住居が次第に変化し、 方形のカマドを持ち、 住居も浅い表土に建つものが多くなり、
土器は焼成度が高く、 土師器はじきの影響を受けた文様のない盃さかずきや、 高坏たかつきなどが多くなる。
このころ北海道も原始的な農耕が行われたと考えられる。 また、 この時代、 石器はほとんど使用されず、
遺跡から鉄器やフイゴの羽口、 織物を織るために用いる紡錘車ぼうすいしゃなどが発見されていて、
製鉄、 機織はたおり等が行われていたことが分かる。 この時代は決して平穏な時代ではなく、
各地にチャシ (砦) が多く築かれた時代でもあり、 字館崎台地の蝦夷館山 (チャシ)
もこのころ築かれたものであろう。 福島町では、 、 吉野遺跡に鉄渣さの発見がある。
このような先住民の土器文化の時代を経て、 福島町は歴史時代に入るのである。
第二節 館崎遺跡・館古遺跡
福島町での遺跡発掘調査
福島町での埋蔵文化財の発掘調査は、 昭和四十六年の穏内館の緊急発掘調査が最初であるが、
この調査は青函海底トンネル工事に伴う国道切替工事中に地下遺構が発見され、 緊急発掘が行われたものである。
この穏内館の発掘については第二章、 第四節で詳細に記述しているが、 この緊急発掘調査の結果
を踏まえ、 以後の福島町の公共土木工事を発註する際は必ず、 事前調査が実施されるようになった。
吉岡地区字館崎台地上は広範な先住民の遺跡が存在しているが、 すでにトンネル基地の諸建物が建っており、
穏内館の緊急発掘調査の結果から厳密な事前調査が実施され、 その結果、 包蔵地の遺跡発掘調査を行った。
その第一回は昭和四十八年十月二日から十一月五日までの二十九日間実施され、 その後第二回は昭和五十九年四月十日から六月二十三日まで、
第三回目は同年六月二十三日から八月十日まで、 第四回は昭和六十年五月九日から七月六日まで、
第五回は昭和六十一年四月十五日より五月二日までと五回の発掘調査が実施され、 その面
積は六、 〇〇〇平方メ-トルにも及んでいる。
この一連の発掘調査は札幌市居住の日本考古学協会員の佐藤忠雄、 同佐藤芳子が調査担当者として実施された。
第一回の発掘地点は字館崎台地上に共同企業体の事務所を建設する用地の緊急発掘調査で、
一、 一六五平方メ-トルの包蔵地の発掘調査を行った。 その結果、 表土下約一メ-トルの地層付近に遺物が堆積していたが、
発掘の結果の土器編年では、
第一群土器 縄文文化前期末葉に位置する円筒下層d式土器、 サイベ沢~式土器に属するもの。
第二群土器 縄文文化中期初葉に位置する円筒上層a式土器、 勝山館式土器に属するもの。
第三群土器 縄文文化中期中葉に位置する円筒上層c式土器に属するもの。
第四群土器 縄文文化中期末葉に位置する円筒上層d式土器、 サイベ沢式土器、 見晴町式土器に属するもの。
第五群土器 縄文文化後期に位置する十腰内式土器、 入江式土器に類すると思われるもの。
第六群土器 縄文文化後期初~中葉に位置する船泊上層式、 十腰内式土器に類すると思われるもの。
これら六群のなかでは第二群から三群にかけての土器の出土が多く、 総体の約七〇パーセントを占め、
復元された土器は二十六個体に及んでいる。 また、 石器では石鏃せきぞく、 石槍せきそう、
石匙いしさじ、 打製石斧せきふ、 磨製石斧、 冠石かんせき、 石錘せきずい、 石皿、 石棒、
砥石といし等が発見されている。 これらの出土遺物の状況によって、 この館崎遺跡は今から六、
〇〇〇年前位から三、 〇〇〇年位前までの間に、 この地域には多くの先住民が生活していたことが分かった。
第二回、 第三回は昭和五十九年に実施されたが、 この場所は海底トンネル基地内の吉岡通
信機器室設置の緊急発掘で、 一、 三一〇平方メ-トルの包蔵地の発掘調査を行った。
この地域も第一回発掘地と同様の円筒下層、 円筒上層、 縄文文化後期の出土物であったが、
今回は四つの竪穴たてあな住居跡が発見されたが、 その大きさは延長一〇メ-トルのものもあり、
さらに大型の土壙 (穴) が十八か所も発見された。 この土壙は人体を埋葬したか、 穀物を貯蔵した場所と考えられている。
第四回発掘調査は、 排煙機器室建設のためであったが、 現地はベルト・コンベア-の台座が設けられるなど包含層の撹乱された地域一、
二〇〇平方メ-トルで、 昭和六十年五月九日から七月六日まで行われたが、 竪穴住居跡四カ所と土壙五基が発見されたほか、
他は過去の発掘例と同じである。
第五回発掘調査は、 穏内館遺跡と名付ける地域で、 ここには北海道電力株式会社のトンネル基地内特別
高圧送電施設を設けるため、 二二五平方メートルの地積の発掘調査であった。 これは国道二二八号線の切替工事で滅失した穏内館残欠の部分であると思われ、
恐らくはその館の副郭に当る部分と考えられた。 発掘の結果は前同様の縄文遺跡の上に、
中世・近世の遺跡が複合した重層遺跡であることが分かった。 さらにここでは平釘打の棺も発見され、
多くの磁器、 陶器も発見されているところから、 ここは明かに穏内館の残欠部分であることが確認された。
これら一連の発掘調査によって見ると、 福島町は縄文文化早期の遺跡はなく、 円筒下層式といわれる五~六、
〇〇〇年前、 円筒上層式という三~四、 〇〇〇年前の土器が多い。 しかもこの円筒形式土器は大型の筒状の土器で、
上層式にいたっては経口部に華麗な縄文と突起があり、 正に縄文文化を代表する土器である。
この一連の調査のなかでは町内各所の表土採取や試掘によって、 三十二個所の遺跡が発見されているが、
中近世の歴史時代につながる遺跡として擦文時代のものとしては、 浦和小学校、 豊浜、
吉岡、 吉野、 日向などの遺跡があり、 須恵器の遺跡としては穏内館、 礼髭遺跡がある。
これらのなかで、 特に擦文遺跡の吉野遺跡では、 表土採取の過程でも多くの鉄渣が発見されていて、
この時代すでに吉野地区で製鉄が行われていた可能性を秘めている。
第二編 中世の福島
第 一 章 和人の蝦夷地定着
第一節 義経伝説の持つ意義 (福島町の開基)
蝦夷地にいつから和人 (本州人) が定着したかについては、 明確にその時期を示す記録や証例はない。
しかし、 平安時代の末期から鎌倉時代の初期にかけて和人が当地方への流入定着をしたことは想像に難かたくない。
それを証するものに義経、 弁慶、 さらには奥州藤原氏残党の当地への流入伝説があり、
このような伝説が根強く残っているのは、 その時期が和人の渡航始期であり、 また渡航者のなかにはこれらの人達と関係を持った者もあるのではないかと考えられる。
奥州平泉の高館たかだちにあった源九郎判官ほうがん義経は、 文治五年 (一一八九)
閏うるう四月三十日奥州藤原氏四代泰衡やすひらに攻められて、 この高館で死去し、
その首は鎌倉に送られ、 同地の腰越で梶原景時らの検死を受け、 その死が確認されている。
しかし、 義経、 弁慶の足跡は奥州北部から蝦夷地にまで及んでいる。 特に本町の対岸、
青森県東津軽郡三厩村は、 その証跡が多く、 村名の由来となった義経とその郎党が馬を繋つないだ三つの厩穴が残され、
義経寺もあり、 この地から蝦夷地に渡航したといわれている。 これに対し、 当町には矢越岬があり、
その名称の起こりは、 蝦夷地に向かって船出したが、 陸地に近づくにつれて突出する岬から黒雲が吹き出し、
急に海が荒れ出したので、 義経が強弓をつがえて矢を放すと、 海はたちまち平穏となり、
無事蝦夷地に着き、 以来この岬を矢越岬と呼ぶようになったという。
義経が高館を逃れて蝦夷地へ渡り、 さらに中国大陸へ渡ったという説は、 近世においても論議されていたが、
松前氏家中でもそれを信じていたようで、 『福山旧記』 (七飯町村岡チヤ氏旧蔵) によれば、
文治五己酉年五月十二日
奥州落同日蝦夷地両山関江渡海ス
松前庄司義行道案内致す
大将源九郎判官義経公始として泉三郎忠衡ひら、 武蔵坊弁慶、 常陸坊ひたちぼう海尊、
信 し の ぶ夫太郎元久、 同姓小二郎信近、
亀井六郎重清、 鷲尾三郎経春、 備前平四郎行貞、 増尾十郎權頭兼房、 熊井太郎忠光、
蒲原太郎広之、 封
戸治郎春経、 赤井治郎景次、 黒井三郎定綱、 日角小三郎義衡、 法印浄玄、 御厩喜三太、
頼念坊常玄等始
として宗従之者共主従百人余わずかに馬六匹引て渡る
蝦夷地大将張達大王討ツ韃靼だったん国江渡る
とあるが、 これらの人達の渡航は夢物語に等しいものではあり、 近世の人士もこのことに関心を示していたことは確かではあるが、
俄かには信じがたい。 道内に多く残る義経、 弁慶の伝説は、 同年さらに行われた源頼朝の奥州藤原氏征伐と、
それに敗北した藤原氏残党の蝦夷地逃避によるものと考えられる。
同じ文治五年七月鎌倉将軍右大将源頼朝は奥州藤原泰衡討伐のため発進、 奥州各地の戦闘に敗れた泰衡は、
平泉、 衣川を焼いて北上し、 北方で兵力を整えて再起すべく、 盛岡から出羽の大館に逃れたが、
同年九月大館近くの贄にえの柵さくで、 郎党河田次郎の反乱にあって、 ここで落命した。
そこで、 この藤原氏の残党は主人泰衡の雄志を嗣ぐべく、 北方に逃れて兵力を貯え再挙を図るべく、
津軽を経て蝦夷地に逃げ渡った。
『新羅之記録・上巻』 によると、
抑そもそも往古は、 此国、 上二十日程、 下二十日程、 松前以東は陬む川、 西
は與依地よいち迄人間住する事。 右大将頼朝卿進発して奥州の泰衡を追討
し御たまひし節、 糠部ぬかのぶ、 津軽より人多く此国に逃げ渡って居住す。 彼等
は薙刀なぎなたを舟舫ふなべりに結び付け、 櫓櫂ろかいと偽して漕ぎ渡る。 故に其因縁いんねんによ
って当国こぶねの車櫂かいは薙刀を象かたどるといふ。 奥狄おくてきの舟近世迄櫂を薙刀
の象に造るなり。今奥狄の地に彼の末孫狄と偽りて之に在りと云云。
略… 『新北海道史・史料編』 読み下し文
となって、 この争乱は奥州北部にも及んだことから、 その残党が津軽や糠部ぬかのぶ
(下北半島) から、 この地方に渡り定住するようになったと言われている。
大正七年渡島教育会が編纂した 『凾館支庁管内町村誌・其二』 (道立文書館所蔵)
の吉岡村の項では、 その沿革として、
本村開発ノ起原ハ書ノ徴スベキモノナク其ノ詳ヲ知ルコト能ハズト雖イエドモ吉岡宮歌禮髭ノ各字中吉岡ハ福山
舊事記クジキニ文治五年七月十五日鎌倉将軍右大将頼朝公藤原泰衡追討ノ節津軽糠部ヨリ里人多ク当国ヘ逃渡リ
初メテ定住ストアルヨリ観ルニ津軽ヲ距ルコト僅カニ七里自然ノ港湾ヲ有スル當地ノ如キ最初ノ上陸地点
ナルベキカ
としている。 また江差町の 『桧山沿革史』 によれば、 これら藤原氏残党の定着した所は、
吉岡、 松前、 江差の三個所であると記している。
このように藤原氏残党の流入定着地として福島町が挙げられていることから、 福島町の開基は文治五年
(一一八九) と考えられているので、 当町はすでに八〇五年も以前から和人が定着して、
独自の生活文化が営まれてきたものである。
第二節 山岳信仰と岬信仰
その地に住む住民が、 日々の生活で山や岬を眺め、 その山の変貌ぼうを見て天候や気候の変化を知り、
そして自分の生活を考える。 そのため山岳は住民生活に欠くことが出来ないし、 多くの恵みを与えてくれた。
そこで山は神聖な処として山岳信仰が生まれた。 また、 その信仰の媒体となったのが修験者達である。
我が国の山岳信仰は平安時代の中期に役小角えんのおずぬによって大和大峰山に展開され、
ここから熊野、 出羽三山 (羽黒・湯殿・月山) へと発展し、 特に東北地方の山岳信仰は中世においては、
天台、 真言の僧侶、 修験者 (山伏) 等が住民の山岳信仰を宗教色の強いものに作り上げて行った。
さらにこの出羽三山を中心とした東北の山岳信仰は北上を続け、 海峡を控えた深浦円覚寺
(西津軽郡深浦町) や恐山 (青森県むつ市)、 さらには津軽相内 (北津軽郡市浦村) 等に停滞して、
海を越え蝦夷地へ進出する機会をねらっていた。
津軽相内の安藤盛季が南部氏との戦いに敗れ嘉吉三年 (一四四三) 蝦夷地に逃れた際には永善坊道明法師や阿吽寺あうん
じ 等の真言宗の僧侶や修験者も同行し、 これらの人達が蝦夷地に定着することによって、
この地方の山岳信仰が展開していったと思われる。 また、 本地仏 (神と仏を同体とする)
をもった神道の別当的な人達も多く、 松前八幡社白鳥家、 馬形まがと社の佐々木家もこのような役割を負って渡航した人達である。
これら神仏混合の宗教の聖地として設けられたのが、 その地方の主峰であり、 岬や島であるが、
その中心をなすのは大千軒岳であろう。 『福山秘府・年歴之四』 によれば、 大千軒岳は近世初頭に於ては、
淺間せんげん岳または欝金うつこん岳と称したと記録されている。 これは山岳信仰の浅間あさま信仰を導入して、
山自体を御神体としていたと思われ、 この山に対し灯明を備える意味の灯明岳、 神聖な山へ登拝するための袴腰 はかまごし
(越) 岳などの名が付されたもので、 古来から千軒岳は神聖な山岳信仰の中心であった。
この山が近世初頭砂金金山かなやまの開削によって多くの金掘りが入り込み、 その砂金掘の家が千軒もあったということで、
現在の千軒岳に改称されたものと思われる。 また、 近世福島町内で展開されて行く神社神道のなかには熊野神社、
羽黒神社、 千軒神社、 丸山神社等はその遺形である。 これらの神社奉斉者も神仏習合した山岳信仰の修験者が多く、
常磐井家は例外として、 白符の冨山家、 宮歌の藤枝家等は修験者の出身である。
一方岬信仰については、 津軽海峡を目前にして本州側に停滞して渡航の機会をうかがっていたこれら修験者達は、
ようやく海峡を横断して当地方に到るには先ず、 その地域に突出する岬を目標として渡海を続け、
岬に無事の航海を祈り、 到着後は感謝の心をこめて岬に祈り、 これが岬信仰となったのである。
町内には東に矢越岬、 西に白神岬があり、 この岬を本体とする岬信仰が続けられてきた。
矢越岬は文治五年 (一一八九) の源義経の渡航伝説では、 この岬まで船が近づいたとき、
岬上には暗雲が漂い、 いかにも魔性が住みそうであったので、 義経が岬に向かって矢を射てようやく無事に当地に上陸したという伝説がある。
また松前大館主の下国山城守恒季は行いが荒く秕ひ政が多かったため、 明応五年 (一四九六)
宗家の秋田桧山城主の安藤 (東) 尋ひろ季が、 渡航して恒季を自害させ、 副将の相原周防すおう守季胤すえたねを主将とした。
永正八年 (一五一一) 季胤が熊野神社を建立すべく神意を伺ったところ、 矢越岬には海神が住んでおり、
この海神の霊を慰めるため、 先ず人身御供ひとみごくうをするようにとの神意で、 季胤は松前で若い娘を神に供えるため選び出し、
船に乗せて矢越岬に漕ぎ出し、 娘達の着物の袖に石の重しを入れて、 次々投げ込み人身御供とした。
これによって海神も静まり、 人々はこの岬を神の岬と信仰するようになったといわれている。
白神岬については、 アイヌ語のシララカムイ (浪が岩に砕けている処) という説と、
白い神様が祭られている処という説があり、 古来神聖な岬として崇あがめられてきた。
この岬を越える船の水か主こ達は、 必ず岬で 「南無八幡大菩薩」 と唱え、 岬に拝礼して航海の安全を祈ることを通
例としていた。
また、 ソッコ岬の崖上 (字松浦) にある楚湖神社 (現松浦神社) は、 漁業の神様として住民の信仰が厚い。
現在の祭神は猿田毘古さるだひこ神であるが、 古くは鮫さめを御神体とした祖鮫そごう明神で、
海上安全と豊漁を願う神であったといわれ、 これも岬信仰の変形化したものと考えられている。
第 二 章 津軽安藤 (東) 氏と蝦夷地
第一節 安藤 (東) 氏の流入
中世津軽地方の領主として活躍した安藤 (東) 氏は、 長髓彦ながすねひこの末裔まつえいといわれ、
大和朝廷に反抗して戦い、 敗れて東奥津軽外ケ浜安東浦 (東津軽郡) に配流されたことから、
安東氏のちには安藤氏と称した。 その後安藤氏は津軽平野の中心の藤崎 (南津軽郡)
を経て、 北津軽十三湖の湖畔に福島城を築き、 ここを中心に発展し、 北条幕府の蝦夷管領かんれいの職を得、
ますます安藤氏の基礎を固めた。 安藤氏発展の基礎となったのは、 十三湖で海水、 淡水の交錯こうさくする天然の良港であったので、
京船 (北国地方の船)、 夷船 (蝦夷地の船) が集まる北方唯一の交易場で、 『十三往来』
では
滄海漫々として異国船京船安東水軍船集〆艫とも先を並調舳とも湊に市を成す。
『市浦村史資料編・中巻』
と、 その盛況を保っていた。
十四世紀に入り福島城の安藤氏を中心として、 東に外ケ浜 (東津軽郡) の下ノ国安藤氏、
西に西ケ浜 (鰺ケ沢付近から秋田付近まで) の上ノ国安藤氏が並立へいりつし、 互いに勢力を争い、
同世紀の中頃には家督問題や南北朝の抗争を背影に、 五十年に亘わたる安藤氏内の戦乱があり、
北条幕府がこれに介入して、 その弱体を露呈し、 幕府の倒壊を早めたといわれている。
一方永享十一年 (一四三九) 南部氏は糠部五郡 (下北・上北地方) を賜わったが、
ここを前進基地として津軽に進出した。 さらに十三湖福島城主下国安日あ べ 盛季に南部大膳太夫義政は息女を嫁とつがせ、
同十二年養父として福島城に乗り込み、 城を攻撃し嘉吉二年攻め落とした。 戦いに敗れた安藤氏は同地の支城唐川城に移って防戦、
さらに柴崎館 (北津軽郡小泊村) に移り、 ここから蝦夷地に向け渡海した。
『新羅之記録・上巻』 によれば、
同三年十二月十日狄てきの嶋に北にげ渡らんと欲するの処、 冬天たれば順風吹かず難儀に及べり。
ここに道明法師天を仰ぎ地に俯ふし、 肝胆を砕くに、 忽たちまち天の加護有り巽風たつみ
(東南) 吹いて出船す。 跡より軍兵追い来れども船洋沖に浮ぶに依て力及ばず引き退く。
盛季虎尾を踏むの難を遁のがれて渡海す。 彼の道明法師鋳像の観世音大菩薩を負ひ奉り伴ともに列つらなれり。
軍陣の中に怖畏し彼の観音の力を念ぜば衆怨悉ことごとく退散するの誓約顕あらわれて、
此島の岸に著す。
是偏ひとえに永善坊道明法師の懇祈を致すの謂いわれなり。 此観世音大菩薩の尊像は今に永善坊に在す。
其時より十二月十日の巽風を道明風と言ふなり。
と盛季の蝦夷地渡航の状況を記しているが、 この渡航は嘉吉三年としているのに異論もある。
『満済准皇日記』 では、 永享四年 (一四三二) 十月二十一日の項のなかで、 「奥の下国南部と弓矢事に付いて下国弓矢に取負、
えぞが島へ没落し」 足利幕府が和睦をしようとしたが、 南部氏は不承知であるとしているので、
嘉吉三年より十三年早い永享四年に津軽から敗走したと考えられる。 また安藤盛季はこの時期すでに没しているので、
渡航した安藤氏は盛季の子康季と、 孫の義季ではないかと考えられる。
松前にあって兵力を貯えていた安藤康季は、 文安三年 (一四四六) 失地を回復する軍を進めるため津軽に出兵し、
鰺ケ沢 (西津軽郡) 付近で戦闘を交えていたが陣没し、 孫の義季は享徳二年 (一四五三)
大浦郷狼倉おいのくら (岩木山東麓) で南部軍と交戦して戦死し、 遂に安藤 (東) 宗家は断絶した。
このころ南部氏に捕えられ糠部に在った外ケ浜の下国安東太政季は、 南部氏の手を逃れて大畑
(青森県下北郡) に至り、 ここで松前氏の初祖となった武田若狭守信広、 松前大館の副将となった相原周防守政胤、
箱館主となった河野加賀右衞門尉政道みち等と合流して享徳三年 (一四五四) 八月蝦夷地に渡航したが、
この下国政季は茂別(上磯町字茂辺地) に館を構えていたと思われる。
上之国安東氏の西関安東二郎廉かど季 (鹿かの季) の孫に当る秋田の領主秋田城介安日堯たか季は、
この政季の報を聴き、 安藤宗家存立のため河北の地を与えることを約し、 三年後の康正二年
(一四五六) 政季は秋田桧山 (能代地方) にいたり、 ここに館を築き、 桧山城主となり宗家を相続し、
蝦夷地の管轄権はそのまま握った。 そして茂別館には弟の下国家政を置き、 松前大館には同族下国山城守定季を置いて、
道南に点在する十二の館主を管轄させていた。
第二節 康正・長禄の蝦夷蜂起
十五世紀に入ると安藤 (安東) 氏の蝦夷地流入をはじめ、 和人の道南地域への定着が増加すると、 この地域の和人人口密集地に館の構築が多くなってきた。
これは気候が温暖で山海の物産の多い道南には先住蝦夷人も多く集まっていたが、 この平和な島に和人の流入が始まると、 当初は先住蝦夷に迎合する形で混住していたものの、
その数が増加してくると、 日毎に横暴が目立ってきて、 この横暴に奮激して発生たのが康正・長禄の蝦夷蜂起である。
先住蝦夷と和人との騒乱は康正・長禄の乱以前にもあったと思われるが記録にはなく、 その初出は康正二年 (一四五六)、 長禄元年 (一四五七) の蝦夷蜂起である。
康正二年春箱館近くの鍛冶屋村で、 乙孩おつかいという蝦夷が鍛冶にまきり刀を造らせたところ、 その利鈍と価格のことで口論となり、 鍛冶屋はその蝦夷を刺殺したことにより、
奮激した蝦夷が各地で一斉に蜂起した。
翌、 長禄元年五月十四日、 蝦夷は東部の族長コシャマインを盟主として大同団結し、 道南地方に点在する和人の館を急襲した。 『新羅之記録・上巻』 および
『福山秘府年歴部・巻之一』 によれば、 道南に所在する和人館とその位置は次のとおりである。
コシャマイン軍は志濃里館をはじめ、 道南の和人館を次々と攻略し、 この十二館のうち、 残った館は下之国館(茂別館)と上之国館の二館のみとなった。 このとき上之国館の副備いとして在館していた若狭武田の一族という武田若狭守信広が、
僅かな手兵を引き連れて出撃して、 七重浜付近で会戦し、 豪弓でコシャマイン父子を射殺したため、 盟主を失なった蝦夷軍は四散し、 さしもの大乱が終結した。
下之国館主下国茂別八郎式部太輔家政は、 木古内から中野路 (稲穂峠) を経て上ノ国館にいたり、 同館主の蠣崎修理太夫季繁に会し、 信広の戦功を賞して家政からは一文字の刀を贈り、
季繁よりは来国後の太刀を贈った。 また、 信広は季繁の娘を娶ったが、 この娘は家政の子で季繁の養女となっていたので、 信広は道南十二館のうちの二つの館主と関係を持ち、
さらに上ノ国天の川の西に洲崎館を築き館主となった。
武田信広は下之国安東太政季と共に宝徳三年 (一四五一) 糠部 (下北半島) 大畑から蝦夷地に渡り、 政季は湊安藤氏 (秋田安藤氏) の招請によって北秋田の桧山
(能代市) に移り、 茂別館は弟の式部家政が守り、 信広は上之国館主蠣崎季繁の副備えとなったものである。 信広の出自については諸説があるが、 『福山秘府年歴部・巻之一』
によれば若狭守護武田信賢の嫡子であったが、 信賢は家督を弟の国信に譲ったことから信広は国を出奔し、 関東の足利氏を経て、 さらに北上して南部糠部から蠣崎氏を頼り蝦夷地に渡航したといわれている。
上之国館主の蠣崎氏家譜では、 蠣崎季繁は信広と同じ若狭の出身であるといわれるが、 糠部ぬかのぶ (下北半島) の脇野沢村に蠣崎という地名の所があり、
この地を根拠としてこの時代南部氏と戦った武将に蠣崎蔵人くろうど信純すみがあり、 季繁あるいは信広はこの蔵人に深いかかわりを持った人ではないかと考えられる。
この信純の素姓は、 『東北太平記』 (岩手県立図書館蔵) に詳しく、 その 「蠣崎蔵人素姓ノ事」 には
今度御所造営ニ付奉行タル武田五郎信純カ素姓ヲ尋ルニ其先安芸武田ノ庶系ヨリ出テ建武ノ始北部ノ目代タル武
田修理太夫信義カ後ニテ、 信義ノ長子ヲ五郎信純ニシテ天敏ノ竒戈大量人ニ越、 身ハ北部第一ノ長臣トシテ高ニ謙
リ、 下ヲ愛シ一毛モ民ノ気ヲ損セス、 永享三年ニ至テ義純朝臣ノ御妹ヲ玉ヘリほう家トス、 蠣崎ノ城地并金山両所ヲ
配分セラレ、 蠣崎蔵人ト号シ威勢弥々高ク…略…
とあり、 この蔵人信純が南部氏と戦ったのは康正二年 (一四五六) で、 交戦六か月にして敗退し、 蝦夷地に逃れたが、 この信純は 「北州に落ちて武田若狭守信広を名乗り、
後に近隣を征服して、 松前藩の始祖と仰がれるに至ったが、 信広の名は錦帯城 (蠣崎城) に討死した伯父武田平左衞門の名乗である。」 (『宇曽利百話』 笹沢魯羊筆)
とあって、 信広がこの蠣崎蔵人の蝦夷地での名となったとしている。
信広の出自についての若狭での記録はなく、 市立小浜図書館に残る三点の 『若狭武田系譜』 によると、
武 田 系 譜 (若狭・安芸)
『若狭守護代記』 による。
というように武田系譜においては、 信賢(武田大膳太夫、 若狭武田の祖)の子に武田信広という子はなく、 他書においても信広の同家譜においての存在を否定している。
また、 岩手県立図書館所蔵の 『清私記』 のうちの 「松前氏由来」 によると、
一、 松前氏の先祖は守行 (南部) 公之御舍弟と聞余り夷共蜂起する故田名部の内柿崎 (蠣崎) を知行して願而て柿崎
に居館を構夷退治す、 夫より松前の夷共を悉く從ひやかて松前之主と成子孫代々繁昌す、 幕の紋割菱なり、 右之子
細は南部御系図に不記古人申伝へし事記ければ右之外不審と云。
とあって、 信広は南部氏の一族であるというが疑問も多い。
最近にいたって福井県立若狭歴史民俗資料館に、 小浜市遠敷の曹洞宗青雲山龍泉寺の古文書が委託されたが、 この中に三十七件の武田信広に関する史料が発見された。
これは明和年間から天保年間にかけ、 松前家が祖先信広の出自を明確にするため、 家臣小林某を敦賀に派遣、 松前と深いかかわり合いを持つ敦賀の廻船問屋飴屋次左衞門を介して小浜で調査し、
その後飴屋と龍泉寺の間で往復した書簡であるが、 それによると龍泉寺の開基は、 若狭国遠敷郡宮川庄新保邨むらに所在する霞美ケ城主武田中務信高公 始め八郎元度
後改中務信高 で、 その長男が信広であるとしている。 それによると
となっていて、 これらの文書のなかで 「松前御先祖様御儀は御本国若州武田家之御内より御渡海被爲遊候御事ニハ相違無御座御儀ハ必定之御事ニ奉存候」 (『口上手扣』)
となっている。 この武田太郎の弟英蒲永雄和尚について、 京都建仁寺で調査の結果、 英蒲 (甫) 永雄和尚は建仁寺二九二世住職で、 雄長老の名で知られる狂歌師であったが、
慶長七年 (一六〇二) 九月五十六歳で没していて、 信広の時代から一〇〇年位後の人である。 従って永雄和尚は年代的に見て信広の弟でないと推定される。 ただこの調査では建仁寺の住職で武田氏出自の者が五人あり、
このうちに信広の弟に当る者があるか否かは今後の研究を待たなければならないが、 何れにしても武田信広という人は、 出自の良く分からない人である。
第三節 穏内館主土氏
この 『新羅之記録』 に出てくる穏内郡の館主土こもつち氏とは、 どのような出自の人であるかは不明である。 限られた史料によって追求すると、 同氏の末裔である松前藩士高橋渡の
『履歴書』 によると、 同家の祖は 「寛正の頃の吉岡館主で、 信広君の御治世には槌○甲斐守季直」 としており、 同家の二世は 「光広君御治世槌兵庫介季成」
となっていて、 詳しい出自は記されていない。 『覆甕ふくべ 草』 (松前広長筆) によれば、 土氏は秋田の出身といわれている。 しかし、 青森県西津軽郡木造町には菰槌こもつちという字があり、
この地は十三湖に極めて近い地である。 穏内郡の館主土氏の代々の諱名いみなには季○直、 季○成と季の字を付している。 この季の字は十三湖相内 (北津軽郡市浦村)
福島城の城主安藤 (東) 一族の諱名である。 この諱名を付しているのは、 土氏が安藤氏の武将の一人であったと考えられる。 この土氏が、 安藤氏の永享十一年
(一四三九) の南部氏との戦いに敗れて蝦夷地に流入の際に同行して渡航してきたものか、 それとも元享元年 (一三二一) 以降の安藤氏同族の争乱の際、 敗戦渡航して蝦夷地に入って館主になったかはよく分からない。
長禄元年 (一四五七) の蝦夷の蜂起の際、 土季直は館の陥落によって、 一時上ノ国の蠣崎氏の元に逃れたと思われるが、 その後再び穏内に帰り寛正年間 (一四六〇~六五)
穏内館に没したと考えられている。
土家の二世兵庫之介季成は、 父季直の後を承うけ穏内館主となったが、 天文年間 (一五三二~五四) に息女一人を儲け、 男子なく季成の没後館は廃絶となった。
この息女は松前氏第三世義広の室となり、 一男一女を儲けているが、 その男子は松前氏第四世蠣崎季広で、 女子は松前家家臣明石右馬介季衡すいひらに嫁している。
松前氏の家系調である 『松前家記』 (新田千里編) では義広夫人として
夫人穏内ノ城主菰こも土直季 (季直の誤り) 甲斐守
ト称スノ孫 父名ヲ
逸ス ナリ一男一女ヲ生ム天文十四年 (一五四五) 九月八日卒
ス松前ニ葬ル
とあり、 菩提寺曹洞宗法幢寺 (松前町) の 『松前家過去帳』 には、 「季広公御母君 天文十四 乙己九月八日 瑞光院殿心月珠泉大姉」 と掲載されている。
土氏は、 槌○、 菰○槌、 菰土などと諸書に記されていて、 どれが正しい姓であるかは分からないが、 松前氏歴世のなかでは深いかかわりを持った名家であるので、
松前氏はその廃絶を惜しみ、 寛文元年 (一六六一) 松前氏五世慶広の六男で家老の松前伊予景広 (河野系松前氏) の末男である松前仲季信をもって、 土氏の名跡を嗣ぎ、
さらに高橋姓をもって、 松前氏に禄仕し、 代々大広間席士分となっており、 幕末には百五十石の家臣となっているが、 その家系は次のとおりである。
土 家
【穏内館跡の発掘調査】 中世の時代に吉岡地区に存在した穏内郡の館がどこに在ったのか、 種々論義されてきたところである。 大正十二年道南の各館を調査した河野常吉
(北海道史編集者) はその著 『北海道史跡名勝天然記念物調査報告書』 で、 中世道南に所在した和人館のうち、 志濃里・茂別・花沢 (勝山) 館の遺構を確認し、
大館・祢保田ねぼた・原口・比石については正確は期し難いが、 現況の確認はできたといい、 穏内・中野・脇本・覃部館は全く分からないと述べている。
昭和四十年六月十一日より六日間、 これらの館跡遺構調査のため道文化財専門委員の高倉新一郎、 大場利夫両北大教授、 道史編集員永田富智、 道教委大石主事が現地を廻って調査をした。
その調査結果は新北海道史機関紙 『新しい道史』 第一八号 (昭和四十一年九月二十五日北海道発行) のなかで、 永田富智の論文 「道南十二館の史的考察」
でまとめている。 そのなかで穏内館については、
穏 内 館
穏内館は館主土こもつち氏 (又は薦槌) が築いた館で、 福島町字吉岡に所在したというが、 以下は不明である。 館崎という地名があり、 ここの市街地上方六〇メ-トルの台地を調査した。
台地の北東部の端に添って一辺八〇メ-トル四方の塁跡と空堀が発見され、 南側、 北東側の二ヵ所には、 門構を設けたと思われる箇所があった。 この館の縄張りが割に、
スタンダ-ドな形をしているので、 天保年間松前藩が設けた台場ではないかとも考えたが、 台場は同じ宮の下にあったことが明瞭で、 場所的にも隔たっているので、
これは土氏の穏内館と認めるべきだと考えている。
と、 穏内館が字館崎上方台地上に、 一辺八〇メ-トルの空堀が南北に一本、 東西に一本入っており、 東側および北側は約六〇メ-トルの崖を経て字館崎市街地に面し迫っていたことを報告し、
これが穏内館として認めたことを報じている。
その後、 この館崎台地は青函海底トンネルの作業基地化するため、 字館崎市街地背後の崖を崩し、 国道の切替をして、 この台上に通ずる道路を造り、 台上一帯が作業員の昇降施設、
通気構、 工作場等の施設の工事に入り、 その工事中、 この穏内館地下遺構に突き当り、 作業を中断して緊急発掘調査を実施することになった。
この穏内館跡の緊急発掘調査は昭和四十六年十一月二十三日から三十日まで八日間行われたが、 その際のスタッフは市立函館博物館学芸員千代肇を発掘担当者とし、
北海道史編集所編集員永田富智、 道立江差高等学校教諭宮下正司を調査員として実施したが、 調査着手の際すでに遺跡の三分の一はブルト-ザで、土砂を除去していて、遺跡は全く崩壊していたばかりか、残された地域も遺構が撹乱されていて、
穏内館の全体像を握むことができなかった。
このような状況での発掘のなかで知り得たことは、 穏内館は約八十メ-トル四方にL字形の空濠を巡らした館の本体とその北西にも副郭があったと思われる。 濠は深さ二~一・五メ-トル
、 幅五~七メ-トルで、 V字状に掘り下げ、 その土を両側に盛り上げ構成していた。 調査の結果では表層の撹乱が激しいため柵跡や館の本体建造物の痕跡も確認はできなかった。
空濠の調査で、 堆積物のなかに中国明の竜泉窯製と思われる青磁皿せいじさらや擢鉢すりばち、 須恵器すえき、 土師器、 鎹かすがい、 角釘、 平釘等明らかに和人がこの場所で工作し、
生活した場であることが立証され、 穏内館遺構に間違いのないことが分かった。
昭和四十七年三月この調査報告書 『穏内館―北海道中世館跡調査報告書』 が刊行されたが、 そのなかで調査担当者千代肇は、 次のように述べている。
調査はほとんど破壊された穏内館の遺構確認にとどまったが、 北海道の埋れている中世史の研究がややもすると未
解決のまま姿を消してしまうのではないかという危惧をいだかざるをえなかった。
第四節 蠣崎氏の台頭
上ノ国 (桧山郡上ノ国町) に在って、 蠣崎氏の入婿むことなった武田彦太郎信広は、 養主蠣崎季繁の没後、 上ノ国館 (花沢館・勝山館) に居城し、 蠣崎姓を名乗り、
和人居住北限地域にあって武威を張っていたが、 明応四年 (一四九五) 五月六十四歳で没し、 同地の医王山に葬った。 この医王山は勝山館の背後にあって、
薬師如来を祀ったことからその名が付されたと思われるが、 後にいたって、 夷えぞの王にもじって、 夷王山と呼ばれるようになった。
信広の長子光広は三十八歳で蠣崎氏の家督を嗣いだが、 松前氏は信広を初祖とし、 光広を二祖としている。 光広は武力、 謀略に秀で、 蠣崎氏を蝦夷地内和人居住区内の代表的地位を獲得するまでに至っている。
秋田安藤氏の同族として松前大館に派遣された下国定季は、 主家の命を受け、 道南各地に点在する各館主を管理する守護職的立場にあったが、 定季の没後その子山城守恒季が家督を継いだが、
恒季は粗暴の行為が多く、 罪のない人を殺害したり、 人身御供ごくうとして若い女性を矢越岬に沈めたりということで、 住民の評判が極めて悪く、 家臣達は心配して宗家の山安藤氏にそのことを内通した結果、
安藤氏は明応五年 (一四九六) 十一月討手を差向け、 恒季を自害させ、 松前大館には守護職として相原周防守政胤たねの子季胤を配置し、 さらに村上政儀を副将に配置した。
これは蝦夷地内の支配体制の変化を示すものでもあった。 その後和人と蝦夷との小競合ぜりあいが続いたと思われるが、 さらにこの支配体制を崩壊させたのは永正九年
(一五一二) の蝦夷との戦いである。
この年四月再び東部の蝦夷が蜂起して、 箱館、 志濃里、 与倉前 (共に函館市) の三館を攻撃、 三館主は共に戦死し、 この地域の和人の多くは西部に逃れた。
翌永正十年 (一五一三) 六月蝦夷軍は蝦夷和人地の中心地大館を攻撃し、 主将相原季胤、 副将村上政儀は自害、 落城したが、 この蝦夷の蜂起によって、 福島町館崎地区にあった穏内館も陷落し、
館主土甲斐守季直が自害して果て、 館も焼却されてしまったことが考えられる。 これは、 蝦夷の蜂起による乱ではあるが、 上ノ国館主の蠣崎光広が大館欲しさのあまり、
蝦夷軍に大館を攻撃させたという陰謀説もある。 それは大館主は安藤氏の代官として守護職的に各館主を統轄する権限を与えられていたからである。
翌十一年 (一五一四) 三月空城となった大館に突然上ノ国館主蠣崎光広が長子義広と共に、 小舟一八〇艘に分乗して上ノ国から松前に移ってきた。 そして大館を改修して徳山館と名付け、
ここを本拠とし、 上ノ国には同族を配置した。 光広は徳山館に入った理由を書き家臣に持たせて、 山安藤氏の了承を受けようとしたが二回にわたっても、 安藤氏の了承を得られず、
紺備後という能弁の浪人を使って交渉し、 ようやく了承を得、 蠣崎氏は山安藤氏の代官的地位を獲得するに到った。 その後の蠣崎氏は欺瞞ぎまんと謀略によって次第にその地歩を固めて行った。
永正十二年 (一五一五) 族長ショヤコウジ兄弟を中心とした蝦夷軍が徳山館を攻撃したが、 光広は和議を申し入れて、 族長らを館内に請じ入れ、 和睦の宴を張ったが、
家臣達には武装させ、 酔い伏している間に斬り込み、 ショヤコウジ兄弟をはじめ一党を斬り殺し、 遺骸を小館下の東に埋め蝦夷塚と称した。 光広がこの斬込の際に用いた大刀は、
さきのコシャマインの乱後信広が蠣崎季繁から拝領したもので、 のち松前家の重宝として伝えられたものである。
享禄二年 (一五二九) 三月西部蝦夷の首長タナサカシ (又はタナイヌ) が蜂起した。 この首長の本拠は瀬田内 (瀬棚) であったと思われるが、 松前氏三世義広は自ら上ノ国和喜之館
(勝山館の別名か) を守り、 郎党工藤九郎左門兼と致すけときの兄弟に兵を授けてこれを討たせたが、 祐兼は瀬田内甲野かぶとの (北桧山町) に敗死し、 弟祐致は熊石町雲石に逃れた。
タナサカシ軍は和喜之館を包囲していたとき、 義広は和睦を申し入れ、 償として多くの宝物を館前に広げた。 蝦夷軍は喜び宝物を争っているとき、 義広は館の櫓から強弓をしかけ、
あわてた蝦夷軍は逃げ散ったが、 天ノ川は雪解水が増水して渡ることができず、 館下の菱池に追い込んで皆殺しにしたという。
さらに天文五年 (一五三六) にはタナサカシの女婿タリコナが積年の恨うらみを果すべく攻撃してきたが、 この際も和睦をして酒宴を開いて討ち果すというように、
謀略と武力を背景に偽わって和睦し、 そしてその主謀者を騙だまし討にするという方法がとられていたので、 和人と蝦夷との不信はつのるばかりであった。
松前氏四世蠣崎季広はこのような蝦夷との不信を継続することは蠣崎氏の将来に悪い結果をもたらすとして考え出されたのが、 夷狄への商船往還の法度で天文二十年(一五五一)に定めた。
この法度は先ず瀬田内首長ハシタインを天ノ川の郡内に置いて西部の尹いん(代表)とし、 東は知内のチコモタインを東部の尹とし、 互いに尊敬し合うことを約束し、
諸国から交易に来る商船から年俸を出させ、 その内から配分して両首長に与えたが、 これを夷役いやくと称した。 またこの両首長居所の沖を通る商船は必ず、 帆を下ろして一礼した上で往還することなどを定めたため、
それまで不信が続きにくしみ合っていた和人と蝦夷との間は融和し、蝦夷も季広のこの法度を評価し、季広を神位得意かむいとくいと恭敬するようになったという。
季広は蠣崎氏の地位を強化するため秋田山 (能代市) の安藤氏本家と連携を強化すると共に、 十二男十四女という子宝に恵まれ、 これらの子を活用して奥州北部とのつながりを強めた。
三男慶広を嗣子と定め、 四男正広は天正十四年 (一五八六) 山城主安藤愛ちか季朝臣に従い、 仙北高寺の陣中で腫物はれものを煩い三十九歳で没し、 九男中広は同じく愛季に従い鹿角
かづ の の戦に参戦し二十一歳で討死している。 また息女では三女を津軽北郡司喜庭伊勢守秀信に嫁し、 六女は秋田湯河湊城主安東九郎左衞門督茂季の御台所、
八女は秋田神浦かのうら兵庫頭季綱の内儀、 十一女は同じ神浦兵庫守の一族佐藤彦助季連つれの内儀となる等、 奥州北部の豪族を血族としている。
また、 女子の多くは南条氏、 下国氏、 河野氏、 村上氏など、 旧蝦夷地内館主の末裔と婚を結んでいるし、 息男の多くは家臣となって家政を助けている。
さらに季広は積極的に安藤氏に協力し、 天文十五年 (一五四六) 西津軽深浦森山の館主飛騨定季反乱の際は、 搦手からめての大将として小泊に渡り、 ここから参陣して攻撃したり、
秋田領内の戦闘に一族を派遣して主家安藤氏を援助するなど、 安藤氏旗下の武将としても名を馳せるようになった。
山城主安藤実季の姉は津軽浪岡城主北畠右門督顕慶すけあきよしに嫁していたが、 天正十八年 (一五九〇) 二月大浦 (津軽) 爲信がこの城を攻撃してきたので、
実季から顕慶救援を依頼され、 季広は八十三歳の高齢にもかかわらず出陣しているが、 この戦で北畠氏は敗れ、 浪岡北畠氏は断絶している。 これは季広の子慶広は、
豊臣秀吉の小田原征伐や奥州仕置の行われた年で多忙だったので、 隠居の季広が代って出陣し、 安藤氏に体面をつくっていたものと思われる。
この天正十八年は蠣崎氏の宿願であった桧山安藤氏の臣下を脱する絶好の機会であった。 この年小田原の北條氏征伐を終えた豊臣秀吉は揮下の大名を投入して奥羽の平定と検地を行い、
その版図を拡めつつあった。 特に津軽・秋田地方は前田利家、 木村重茲、 大谷吉継等が当っていたが、 その報を受けた慶広は九月十五日津軽に渡海して前田利家に面会し、
秀吉への取り成しを依頼した上、 桧山安藤氏を訪れた。 安藤氏は城主愛ちか季が天正十五年に没し、 その子実さね季が十三歳で家督を嗣ぎ、 この年十六歳であったので、
実季と共に上洛し、 十二月秀吉に謁見して諸侯と同格の待遇を受けた。 さらに文禄二年 (一五九三) 正月二日 「朝鮮征伐」 のため肥前名護屋城に滞在中の秀吉を労問した慶広に対し、
秀吉はいたく喜び、 早速慶広を志摩守に任じ、 江州に馬飼所三千石を与えようとしたが慶広はそれを辞退し、 木下吉政を通じて国政の朱印 (蝦夷地の領主) 下賜を願い出、
同月六日には、 「諸国より松前に来る人、 志摩守に断り申さず狄の嶋中自由に往還し、 商賣しょうばいせしむる者有るに於ては斬罪に行う可き事。志摩守の下知に相背き夷人に理不尽の儀申懸る者有らば斬罪に行ふ可き事。諸法度に相背く者有るに於ては斬罪に行う可き事」という御朱印の制書を与えられ、これによって蠣崎氏は、安藤氏の家臣の域を脱して諸侯に準ずる待遇を与えられた。志摩守も島の守かみをもじったものといわれている。慶広は早速この事を国元に前田利家から頂戴した茶と共に送ったが、老父季広は大いに喜び、この茶を釜で煮て諸人に振舞ったという。
翌天正十九年 (一五九一) に南部九戸政実の乱が発生し、 徳川家康、 豊臣秀次等秀吉の重臣達がこの乱平定に出向した際には奥州の秋田実季、 津軽爲信等に互して蠣崎慶広も諸侯の一人として出征し、
しかも蠣崎氏の率いる一隊には蝦夷がブシ矢を持って参加し、 「其矢ニ中あたル者微傷と雖斃いえどもたおレサルナシ、 賊兵之が爲ニ大ニ困シム」 (『松前家記』)
とあって、 その攻撃方法で異彩を放ったというが、 一面では蝦夷人もこの戦闘に参加させるだけ、 蠣崎氏と蝦夷との協力体制が良好となってきたと見る面もあり、
また、 蝦夷地の領主としての蠣崎氏の実力が備わってきたと見ることができる。
第五節 常盤井氏・戸門氏の定着
福島村の草分けの一人に常盤井家と戸 (土) 門家がある。 常盤井家は近世初頭福島神明社の神職として現在までに十六代を数え、
福島村の成盛発展に貢献してきた家柄である。 また、 戸門家は初祖戸門治兵衞が中世末に福島村に定着し、
以来累代村名主を勤めて、 村政維持に当り、 『戸門治兵衞信春旧事記』 を残している。
常盤井家には詳細な 『常盤井家系譜』 が存在するが、 それによると、 常盤○井家の初祖は常盤井治部大輔藤原武衡たけひらである。
その系譜によると、 武衡の略歴は次のとおりである。
氏神、 天児屋根命あまこやねのみこと、 天忍雲根命あめのおしくもねのみこと、 天種子命 あめのたねこのみことより十九世大職冠謙
(鎌) 足公の末流遠祖より、 近江国一城主なり、 城所郡郷不詳、 永禄元年頃 (一五五八)
より天下大に乱れ、 数軍利を失ひ、 城を落され奥州にくだる。 元正元酉年 (一五七三)
八月十五日南部野辺地より松前に渡海し、 福島村に居住す〈旧跡館古山と唱ふ〉、 同三年五月十三日蝦夷館大将クジラケン乱を起し、
武衡是を討亡す、 此処に於て當国大いに平和となる。 館の沢に塚あり、 クジラ森と唱ふ。
領主季廣公、 禄を以て召せども、 二君に仕へず、 例え国の爲とて、 地頭体にて、 村長むらおさを相勤め、
慶長八年 (一六〇三) 癸卯年九月二十七日六十歳にて神去。
武衡妻麻佐。 宇摩治命うまじのみことの苗裔びょうえい、 守屋大臣もりやおおおみの末流、
浅井新太郎物之部連政つれまさ二女なり、 慶長十六年 (一六一一) 亥年五月十二日六十三歳にて神去せり。
二代 常磐井大宮藤原武治
武衡たけひら長男なり、 母は浅井新太郎物之部連政二女なり。 領主松前慶廣公の命に依り、
地頭体にて村長を勤め、 元和元 年 (一六一五) 戌 (ママ) 午年二月十一日四十三歳にて神去。
妻は梅宮右近 橘材喜たちばなもとよし 一女喜智 き ち 、 慶安三年 (一六五〇)
庚寅七月一日七十歳にて神去。
常盤井宮太郎藤原相衡つねひら
武治の長男なり、 母は梅宮右近材喜の一女なり。 相衡幼少にして才智優れ、 武道に達し、
元和四年 (一六一八)、 十七才の時、 松前長門ながとの守利廣に奉仕し、 利廣公隠謀を企て、
露顕して家名をて、 大日本国へ逃げ渡る。 相衡之に同行し、 其の行跡不詳、 此の代に常磐井武衡より、
以前の系譜を相衡持ち去りしに因よりて不詳故に不能記。
三代中興元祖祠官笹井今宮藤原道治みちはる
常盤井武治二男なり。 母は梅宮右近橘材喜の長女なり。 常盤井元祖より代々福島村館古山に居住し、
道治幼少より敬神の志深く神学に達し、 寛永十六年 (一六三九) 己卯九月二十一日村中心を同じゆうする者協力して、
神明社を再建し此処に始めて神職となる。 同二十年九月十六日初雪の頃今の居宅を、
大笹原を開墾して、 笹葺の家を造り、 館古山より引移る。 住居の地内より笹掻かき分けて、
山川の清溜を汲む。 村人誰言ふとなく笹屋、 笹家と称ふ。 遠祖より代々常盤井と号すれ共、
笹は四季色香不変にして、 萬代不窮の常盤なるものなるを以て常盤も笹も同意なるに因り、
常盤井の井を取りて笹井と改む。 慶安二己丑年 (一六四九) に至り、 村民神明の御徳を畏み、
同年九月信者挙って拜殿を再建し、 其節領主高廣公、 家臣蠣崎右衞門大輔より右次第申立御聞に達し、
則ち領主の命に因りて福山神明社より小の神鏡を福島神明社へ迎ひ奉り、 初めて御見聞を爲す。
同月十六日遷宮執行、 是より改めて神職永久の家となる。 正徳甲午年 (四年|一七一四)
八月上京、 吉田殿継目許状相ひ請、 領主矩廣公に宮届けの御礼申し上げ奉り、 享保四己亥年
(一七一九) 九月二十七日行年百三歳にて神去。
妻は土は師じ冨之助菅原長徳の長女美喜、 宝永五戊子年 (一七〇八) 八月十四日七十五歳にて神去。
と記されている。 これは中世より近世初頭にかけての常磐井家系譜から摘記したものであるが、
しかし、 この系譜については大いに疑義がある。
この系譜は、 常磐井家第十四代常磐井武知の筆記、 編述になるものである。 常磐井武知は十三代笹井武胤たねの子で、
武胤は福島大神宮の宮司として明治から昭和年代まで活躍した常磐井秀太の兄で、 常磐井家の本家筋に当り、
当初福島大神宮宮司となったが、 明治二十六年それまでの姓笹井を常磐井と改姓し、
さらに明治四十一年八月福島大神宮宮司を弟の秀太に譲り、 花畔神ばんなぐろ社 (石狩町)
に移り、 さらに利尻島に移住している。 この利尻町の常磐井家の系譜が前出の史料であって、
同家の十四代武知たけともの筆記になるもので、 この筆記年代は昭和年代の前期と思われ、
極めて信憑性しんぴょうせいが薄く、 その出典も明示していない。
福島常磐井家に残る史料は文化四年 (一八〇七) 以降の物で、 それは文化四年一月一日福島神明社から出火して、
本殿、 拝殿、 居宅の総てを焼失し、 その以前の書類は一切残されておらず、 現在残されている史料の多くは同家十二代笹井参河正武麗たけあきらの筆になるものが多く、
口伝や諸史料を組み合せて武麗によって創作され、 さらに福島町に残されている 『福島村沿革』
も大正十年常磐井秀太によって作製されたものである。
従って常磐井家の出自については、 故常磐井武季筆 『正統松前神楽』 によれば、
常盤井家は京都の常盤井の地名から生れた、 神楽を司る堂上の家系であるとし、 また、
その遠祖は常盤◯井大政入道藤原実氏としており、 また遠祖より近江国の一城主であったが、
永禄年間より天下大いに乱れ数軍利を失い城を落され奥州にくだり天正元酉年 (一五七三)
八月一五日南部野辺地より渡海し福島に住居す。 館古山に館を構え、 家臣浅井連政 (浅井長政の血族)、
袴田七右衞門と共に数々蝦夷と戦端を開いたといっている。
常磐井氏が近江国の一城主で浅井氏とかかわりあるとすれば、 中世近江国守護職佐々木六角氏、
京極氏の武将、 城主の名簿にその名があるはずであるが、 徳永眞一郎筆の 『近江源氏の系譜』
等にはその名もなく、 その出自は不明である。 中世蝦夷地に入った神仏の奉斉者は、
松前八幡社の白幡祢宣 ね ぎ は別とし、 馬形社、 熊野社、 羽黒社、 宮歌八幡社、
白符神明社、 知内雷公神社等は天台もしくは真言宗の修験僧から、 近世初頭以降になって神職者に転身しているものが多く、
常磐井氏も同様であったと考えられるが、 いずれにしても福島村の開村と深いかかわりを持った家である。
さらに常磐井氏と共に福島村の古百姓といわれる家に戸門家がある。 この家に伝わったといわれる史料に
『名主戸門治兵衞信春旧事記くじき』 が福島大神宮に保存されているが、 しかしその内容は、
神事に関することの集大成で、 記録の書体からすると、 常磐井家十二代笹井参河正武麗たけあきらの筆になるものなので、
この記録は近世以降の諸記録から摘記したもので、 福島への定着過程は記されていない。
松前藩が蝦夷地を上知され梁川 (福島県梁川町) に移封する際、 幕府の松前奉行に引き継いだと思われる
『村鑑-下組帳』 で、 この戸門家を 「古百姓 大永之頃 書物代暦 (歴) 不知、 其外書物品々、
治兵衞」 とあって、 戸門家の初祖治兵衞が大永年間 (一五二一~二五) 頃に福島に定着し、
多くの書物等もあると記している。 この記録からすれば戸門家は常磐井家より五十年程早く福島村に定着している。
近世初頭に入り村治方式が整った段階で戸門家は代々村名主となる名家でもあったが、
その出自は不明である。
第 三 章 中世の産業と文化
第一節 中世の産業 (鮭と昆布、 鯡)
中世の蝦夷地の物産としては鮭と昆布に代表される。 室町時代に全国の有名商品を紹介した本に、
『庭訓往来ていくんおうらい』 がある。 このなかで蝦夷地の干鮭とウンガ (宇賀―函館市)
の昆布がのっている。 中世年代の蝦夷地では、 どの河川でも秋には大量の鮭が遡そ上し、
手づかみでも獲れる状況であった。 中世道南地方に定着した漁民達も、 この鮭を捕獲して、
天然乾燥させ、 これを交易に出し生活していた。 それはこの時代塩が高価で魚の加工等に用いられなかったからである。
鮭は道南地方では汐泊川 (函館市石崎)、 茂辺地川 (上磯町字茂辺地)、 木古内川 (木古内町)、
知内川 (知内町)、 福島川 (福島町)、 及部川 (松前町)、 石崎川、 天ノ川 (上ノ国町)、
利別川 (瀬棚町)、 遊楽部川 (八雲町) 等には無数の鮭が遡上した。 この捕獲は、 和人は小網を用いて採捕し、
原住蝦夷人は、 河中に入ってマレックという棒の先に鈎を付けた物を用い、 この棒を河中に刺し、
遡上する鮭がこれに当ると鈎が反転して鮭が獲れるという方法が用いられた。
収獲した鮭は、 和人の場合内臓を除去して納屋の竿にかけ天然乾燥の一本干とし、
蝦夷の場合は同じく内臓を除去し、 乾燥を良くするため皮に×の傷を付けて干し、 乾燥を早めるようにした。
従って和人と蝦夷とでは製法が異なり、 和人の製品は干魚と書いてカラサケと読み、
蝦夷の製品はアタツと称し、 いずれも交易の主要物産であった。 道南地方に点在した各館の立地を見ても、
鮭の多く遡のぼる川の河口に築設されているものが多い。 これは先住蝦夷人に混住する形で和人が定着し、
同じ河川で鮭を捕獲していたが、 その数が増すと、 和人の権益を守るために、 河口に館を構え、
この鮭捕獲を産業基盤の拡張の手段としていたものと考えられる。 この例は蠣崎氏が天ノ川の右岸流域に花沢・勝山の両館を構えており、
コシャマイン軍との戦いに勝利を収めた後、 この川を挾んだ河北の地に洲崎館を構え、
蝦夷の産業基盤である鮭捕獲場を浸食して行ったと考えられる。
一方福島の町中を流れる福島川についても大量の鮭が遡上したようで、 『常磐井家福島沿革史』
の天文二十一年 (一五五二) の項に、
上ノ国城主南條越中守広継ノ室逆意ヲ企テ蠣崎季広 (四世領主) ノ近習ト謀り、 宮内少輔舜キヨ広ノ次男万五郎元モト広ヲ鴆毒チンドク
(鳥の毒) ヲ以テ之ヲ殺ス、 越中ノ室生害セラレ、 丸山某斬罪トナル。 此時長泉寺ニ内室ノ尊体ヲ葬ル、
高獄院殿玉簾貞深大姉ト号ス、 オリカナイ川ヲ以テ長泉寺領ト定ム。 其後三十三回忌ノ供養ヲ行フマテ魚川ニ不入
とあって南條広継妻は四世領主季広の長女であったが、 謀反が顕われ遂に自殺し、 その遺骸を長泉寺
(法界寺の前名) に葬ったところ、 川に鮭が獲れなくなったというが、 前記沿革史では天正十三年
(一五八五) 以降鮭は再び福島川に遡上するようになったといっている。
また、 今一つの主要生産物である昆布については、 前述したように 『庭訓往来』
(元弘年間 ― 一三三一~三玄恵著) に宇賀昆布が全国的名産品として紹介されている。
宇賀とは現在の函館市宇賀浦町、 志海苔町 (志濃里) 付近である。 この地域は今も全国的に見ても最良の元昆布の生産地で、
このほか南茅部付近で採れるものを浜の内と称した。 道南地方のなかでも日本海沿岸から津軽海峡中の函館市以西に生産されるものは、
細目昆布で、 宇賀地方の物より品質は悪いとされ、 中世にはあまり交易には用いられなかったといわれる。
室町時代にはこの宇賀昆布が多く若狭小浜に搬ばれ、 小浜で加工され、 若狭昆布として売り出され令名を博し、
その伝統は今も関西地方に残されている。 また、 宇須岸 (函館市の古名) は中世この昆布で栄え、
毎年三回若狭から商船が昆布の積取に来ており、 また、 海峡を越えた十三湖には夷船、
京船が多く集まり盛んに交易が行われ、 ここでの交易の主役は昆布だったと推定される。
昭和四十三年七月函館市志海苔町の志濃里館直下の国道拡幅工事中、 土中から越前古窯こようと能登の珠洲窯すずがまと思われる三個の大甕かめに入った大量
の古銭が発見された。 その古銭はのち函館市立博物館で計数調査の結果、 三十五万枚の多きに達したが、
この古銭は、 我が国で製造通用した皇朝十二文銭は僅かに十五枚よりなく、 他は漢や明からの渡来銭であった。
室町時代といえば通用銭は永楽通宝であって、 その通用は一四二一年 (応永二十八年)
であるが、 この発掘古銭の下限は、 洪武通宝であるので、 永楽通宝通用以前に埋蔵されたものであり、
またこの古銭は多分に北陸地方とかかわりを持っていたことが考えられ、 昆布による蓄財金ではないかという説もある。
ニシンは和名を「かど」「青魚」「鯖」「白」「鰊」の文字を当てていたが、特に蝦夷地では「鯡
」の俗字が用いられた。福島町においては、文安二年(一四四五)津軽根っ子村(青森県南津軽郡田舎館いなかだて村)の馬之助なるものが白符村に来て、網でニシンを獲ったのがニシン漁業の始まりであるとの言い伝えがあり、『北海道漁業史稿』にもこのことが掲載されている。しかし、『白符村沿革』によれば、馬之助の渡航は近世初頭の松前藩政成立後のことであって、伝説のような古さのものではない。
中世の年代ニシンはあまり交易品としては重視されなかった。 それはこの時代は津軽、
秋田地方でもニシンが多く獲れ、 わざわざ蝦夷地から生積する必要がなく、 また、 大量
に外割や身欠ニシンを加工、 産出するだけの人口も居住していなかったので、 せいぜい自家用食料として保存する程度であった。
第二節 社寺の建立
福島町で最古の沿革を有する神社は月崎神社である。 常磐井家所蔵の 『福島沿革史』
によれば、 その草創を、 「往古ヲリカナイ村 (福島村の古名) ノ東濱山ノ崎ニ当リ毎夜月ノ如ク輝クモノアリ、
村民不思議ニ思ヒ居リシガ、 或夜其月ノ如キ光物海中ニ飛入ル之ヲ取揚ケ見ルニ箱ニ書附アリ、
何國トモ知レズ唯西ノ國トノミ記載アリ、 開キ見ルニ明神ノ像アリ御丈壹尺八寸春日ノ作ニテアリキ。
村民東浜ノ林中ニ祠ヲ建テ月崎明神ト唱ヘシトゾ其年代不詳」 とあって、 その草創年代は不明であるとしている。
明治十二年六月開拓使函館支庁が作製した 『松前郡神社明細帳』 で月崎神社については
渡 島 国 福 島 郡 福 島 村 字 月 ノ 崎
無 格 社
月 ノ 崎 神 社
一 祭 神 月 夜 見 命
一 由 緒 創立不詳明応元壬子年村中ニテ再建
とあって、 当初は月崎ではなく月ノ崎神社の名称で呼ばれていた。 この神社は現在の福島川河口近くの位
置ではなく、 浦和地区に近い東側の海岸に突出した月ノ崎に建立されていたものと考えられ、
祭神の月夜見命つきよみのみこと (月読命) は伊い邪ざ那な岐ぎの 命みことの子で、
天照大神の次に出た神で、 月は夜、 読は教える、 つまり月を観て暦を司り、 農漁を教え広める神様として古来から尊崇されて来た神である。
この春日作の尊像を御神体とした月ノ崎神社は、 『福島沿革史』 によれば、 「明応元年
(一四九二) 野火烈シク月崎神社焼失、 春日作タル御神像光ヲ放シ飛失タリ。 仝年祠ヲ再建セリ、
仝五月十六日川濯神社ヲ建立ス。」 とあって、 野火で焼失した月ノ崎神社を再建したほか、
摂社として川濯かわそ神社を建立したという。 この川濯神社が稲荷山の福島神明社の境内地に移転するのはのちの事である。
永禄二年 (一五五九) には福島村開創者の一人といわれる戸門治兵衞が八雲神社を月ノ崎神社の境内に建立した。
八雲神社の祭神須佐男命 (素戔鳴尊すさのをのみこと) は、 天照大神あまてらすおおみかみの弟として天照大神の高天原たかまがはらに対し、
根国 (海原) を治める神で、 戸門家の屋舗神として月ノ崎神社境内に建立されたものである。
以上この三社が中世年代に福島村に建立された神社である。
一方仏教寺院では法界寺の一寺のみが、 中世に建立されている。 同寺の 『由来縁記』
(常盤井家所蔵|戸門治兵衞享和元年記録) によれば次のように記されている。
一 抑 そもそも当寺之昔明應年中之頃大ま渕ふちとてみなきりさかふ土地に一寺あり。
おり藤の枝ともおぼしきに光り有、 こ
はいかなると不思議に気を付ケ見るに大蛇のことく形チ渕よりあかり藤の枝につらなり角をさし、
上ケ眼ハ日月のことく紅の舌をまき我真理一言転悪業成善業たれいふともなく末世濁世の衆生弥陀名号にて疑情無知識の一句ニ解ん。
既に此地退転せん但一念徃生不退地といふ声かすかにきこへ否や光りをはなし西江飛去る家数ありといへともちりになり、
夫より無量諸仏に祈誓し奉るに、 ある夜の夢に呼声あり忽然として地蔵菩薩のすかたにて、
無量の諸仏観一念を肝膽かんたんをくだき、 折加内村一寺建立、 法界平等利益せん。
末々念仏繁昌土地ならんと告ると思ふニ忽夢ハさめにけり、 夫より深意をくだき右解げ文ぶみの一句をひろへ山院の号を改建立成就如件
大 永 三 癸 未 年 月 日
観 念 山 寿 量 院 長 泉 寺
とある。 大ま渕ふじは知内町字湯の里にあった地名で、 この由来縁記にあるように真ま藤ふじの生い茂げる地で、
ここに大野土佐日記ともかかわり合いのある真藤寺 (大渕寺) があったが、 度重なる蝦夷との争乱と、
砂金掘の減少によって廃寺になっていたものが、 折加内村に移すべしという仏の夢告によって大永三年
(一五二三) 折加内村に一寺を建立し、 この真藤寺の命脈を保って観念山 寿量院 長泉寺と命名したという。
しかし、 この戸門家記録では長泉寺の折加内村再建は明応二年 (一四九三) ともあり、
約三十年の誤差があり何れが正しいのか判断はできない。
また、 この土門家 (戸門家) の記録には長文で漢文の長泉寺 (法界寺) 沿革があり、
これを読み下すと次のとおりである。
明應二癸己年大ま渕ふじ長泉寺折加内村に移る。 上之国の城主南條越中守廣継之内室逆意を企て、
季廣公之近習之者丸山某を語らい、 季廣公の一男彦太郎宮内少輔舜みつ廣公の次男万五郎元廣を鴆ちん毒を以って殺す。
これに依って廣継内室生害いたし、 丸山の斬罪行われる。 此時折加内長泉寺に内室の尊骸を葬り、
位牌所となし、 長泉寺領と河を寄附、 其後三十三回忌供養まで魚一つも入らず。 頃は天文四年六月十一日高獄院殿玉
簾ぎょくれん貞深大姉と号し即ち尊牌の義は有之、 後天正十三年折加内村において河に魚沢山入る事元の如し。
然るに川より一尺五寸の弥陀佛出現、 故に観念山法界寺寿量院と号、 念仏宗となり、
開山然蓮社天譽真正和尚と言い、 中興深蓮社廓譽鉄荘和尚という。
この南條越中守の内室は松前氏第四世季廣の長女で、 季廣の相続者である舜みつ廣と、
その弟 (原文では舜廣次男としている) を毒殺しようとして、 元廣のみを鴆毒ちんどく
(鳥の毒薬) で殺し、 自分も自殺を遂げたが、 領主一族でもあるので遺骸を長泉寺に葬り、
その回向料として寺に川の専有権を与えた。 当時諸河川には大量の鮭・鱒が遡上するので、
漁業者から入漁料を徴収しても大きな収入になったが、 三十三回忌が終るまでは魚は遡上しなかったという。
また、 この川から一尺五寸の躯高の弥陀仏が出現したのを機会に長泉寺の寺号を観念山法界寺寿量
院と改め、 近世にいたったが、 開山の然蓮社天譽真正和尚は松前正行寺の住職で、 以後法界寺は松前正行寺の支配下に置かれることになった。
第三編 近 世 の 福 島
第 一 章 松 前 藩 の 展 開
第一節 松 前 藩 の 成 立
慶長五年 (一六〇〇) の関ケ原の戦いを一つの区切りとして、 鎌倉時代、 室町時代を経た中世の時代は終り、
この年から明治元年 (一八六八) の明治新政府の誕生まで二六八年間を近世と時代区分している。
この慶長五年の徳川家康を東軍、 豊臣氏側の石田三成を西軍とする天下分け目の関ケ原の決戦は九月十五日行われ、
東軍が勝利したことにより、 以後は徳川幕藩体制が短時日のうちに成立して行くことになった。
家康は諸侯のうち東軍に参加した者や譜代の重臣をもって譜代大名として重用し、
この戦争に参加しなかった諸侯や、 西軍に組したもの、 あるいは東軍に組したものでも家康の意向に添わない者は外様大名として冷遇されることになった。
家康と松前氏の前身蠣崎氏の関係は、 五世慶よし広が肥前 (佐賀県) 名護屋城に秀吉を訪ねた文禄二年
(一五九三) 正月七日、 この城で徳川家康に謁している。 その際慶広は山丹地方 (黒龍江-アム-ル河)
沿岸から渡来した唐 衣 (サンタンチミブ) という道服を着ていたのを見て、 家康は大いに珍しがったので、
慶広は即座にこれを脱いで家康に贈っている。 その二年後の文禄四年四月四世季広は八十九歳で没し、
実質的に五世慶広の時代に入ったが、 この時期以降蠣崎氏 (松前氏) は家康に近づく政策をとるようになった。
慶長元年 (一五九六) 十一月慶広は長子盛広と共に大坂に参向した際、 父子そろって大坂城西ノ丸で家康に謁し、
同三年八月秀吉が没すると、 翌四年十一月今度は第二子忠広と共に家康に謁見し、 氏を松前と改めている。
松前の氏名は松前の地名を採ったとする説、 徳川氏の松○平、 前田利家の前○と諸侯に準ずる待遇を受けるまで世話になった人への感謝を込めて松前としたという説もある。
松前慶広は関ケ原の戦いには参戦しなかったので、 以後外様大名としての待遇を受けることになった。
慶長八年 (一六〇三) 徳川幕府を掌握した家康は諸侯に黒印状を発し、 その領知を確定したが、
慶広に対しては同九年正月次のような黒印状が発給された。 現在北海道開拓記念館に保存展示されている原本によると、
次のとおりである。
定
一、 自諸国松前へ出入之者共、 志摩守不相断而、 夷仁与
直ニ商買仕候儀、 可爲曲事事。
一、 志摩守ニ無断令渡海、 賣買仕候者、 急度可致言上事。
付、 夷之儀者、 何方へ徃行候共、 可致夷次第事。
一、 對夷人非分申懸者堅停止事。
右条々若於違背之輩者、 可処厳科者也、 仍如件。
慶長九年正月廿七日 黒印
松前志摩守とのへ
というものである。 この読み方は一、 諸国より松前へ出入の者共、 志摩守に相断ことわらずして、
夷い人と直じかに商賣仕候儀、 曲事くせごととなさるべき事。 一、 志摩守に断わらずして賣買仕候は、
きっと言上致すべき事。 付つけたり、 夷いの儀は何方へ徃行おうこう候共、 夷次第に致し可き事。
一、 夷人に対し非分を申しかけるは、 堅く停止の事。 右の条々もし違背のやからにおいては、
厳科に処すべき者也、 仍如件 よってくだんのごとしというものである。 それは徳川幕府の発給する黒印状としては異例のものであった。
幕府は大名の定義をその領知版図内に米が一万石以上収穫できる土地を有している者を大名としていて、
例外としては下野国しもづけこく (栃木県) 喜き連川つれがわ藩の喜連川氏のみは四千五百石であるが、
足利氏の名門につながる家系なので、 特例として大名の待遇を受けたほか、 特例には松前家も含まれていた。
松前氏の版図内の蝦夷地は米の生産がなく、 他藩のように万石以上をもって大名格付とするこの領知方法には当てはまらないので、
特例として交易権と徴役権を認める文言をもって大名とする変則的な、 異例の方法をとっていた。
従って 『武鑑』 (大名の職員録的なもの) には、 大名の最末席に位置したのが松前氏で、
「無高、 蝦夷松前一圓從先祖代々領之」 と記されていて無高大名という大名であった。
また、 この黒印状には付 つけたりがあって、 蝦夷は何処へ往還してもよろしいし、
夷人いじんに対し非分 (道理に合わないこと) なことをしてはならないと規制している。
これは松前氏の支配権は認めたものの、 蝦夷地には多くの蝦夷が居住しており、 道南地方の一部に居住する和人との間に摩擦を生ずることのないように、
和人側を規制したものと考えられる。
幕府での松前氏の待遇は前に記したように、 無高の大名で、 代々従五位下、 志摩守、
あるいは若狭守、 伊豆守等に任命されているが、 十七世崇広のみは、 幕閣老中となった際の元治元年
(一八六四) 従四位下、 侍従に敍任されている。 江戸城中での松前氏の詰席は柳ノ間詰である。
江戸城での詰席は
大 廊 下 御 三 家
溜たまり ノ 間 譜 代 の 重 臣 大 名
大 広 間 国 持 、 家 門 の 大 名
帝 鑑 ノ 間 譜 代 大 名
柳 ノ 間 五 位 の 外 様 大 名
雁 ノ 間 詰 衆 、 交 代 寄 合
菊 ノ 間 無 城 主 大 名 、 交 代 寄 合
である。
このほか松前藩の特例には参勤 (参覲) 交代がある。 この制度は武家諸法度 (元和元年|一六一五発布)
によって規制されていて、 大名は一年江戸に在府し、 一年は領国へ帰国するので、 二年一勤としたもので、
その大名によって帰国、 在府発足の月も定められていた。 この制度は幕府が常に諸大名を監視することと、
参勤交代の行列行路は厖大な費用を必要としたので、 これによって諸大名の経済力をうばうために設けられたものであるが、
松前藩は遠国おんこくでもあるので、 特例として五年に一度であった。 しかし、 この恩典も、
九世高広は六歳、 十世矩広は七歳で藩主となったが、 幼主で参勤を怠ったことから、
その特典を奪われ、 三年一勤となったこともある。 江戸に参着し、 将軍へ挨拶登城の場合は、
太刀馬代献上のほか、 藩領内の特産物である鮭披さけひらき、 鮭塩辛しおから、 寒塩膃肭臍おっとせい、
鰊披にしんひらき、 寄鰊子よせかずのこ、 椎茸しいたけ、 塩蕨しおわらび、 串鮑くしあわび、
御鷹おんたか、 御緒留おどめ 、 御根付、 熊膽くまのい、 干鮭、 昆布、 藻そ魚い披ひらき等を献上した。
特に鷹が献上された場合は、 将軍家の愛用となるため丁重に扱われ、 幕府から鷹逓符が交付され、
籠に載せ行列を組んで江戸へ登ったが、 この鷹が宿場に泊る場合には、 宿場役人が鷹の餌として雀二十羽以上、
あるいは犬を用意することが義務付けられていたので、 各宿場では迷惑な存在であった。
第二節 松 前 氏 一 族
松前氏第五世慶よし広以降の松前氏一族は、 多くは家臣となって、 藩主を補助し、
家老または重臣となっているが、 家臣の少ない松前藩が同族企業体的な藩であるといわれる所以ゆえんもそこにある。
しかし、 なかには幕府に旗本として禄仕したり、 仙台藩に禄仕して側面から松前家を庇護した家もある。
五世慶広の二男忠広は、 慶長四年 (一五九九) 冬、 父と共に上洛の際、 大坂城で初めて家康に謁し、
同九年二代将軍秀忠の旗本となり、 同十五年には従五位に敍され千石の領地を賜わっている。
同二十年の大坂夏の陣の合戦で二ケ所の手疵を受けて活躍し、 さらに千石の加増を受け二千石の大身旗本となり、
寄合席にまで昇進しているが、 その一族は次のとおりである。
忠 広 直なお 広 玄はる 広 尚なお 広 順とし 広 広 暉てる 広 歡よし……知ちか 広
隼人正 民部 千五百石 隼人 隼人、 筑前守
隼人、 玄蕃 藤馬、 隼人
二千石 二千石 御小姓組 御書院番 御書院番
御小姓組 御小姓組
元和三年 万治元年 五百石を本広 御目付 御使番
寛政八年 千五百石
三十八才没 四十八才没 に分知 享保十四年 御目付
六十二歳没
元禄十六年 四十歳没 京都町奉行
六十九歳没 寛政四年
本 広 七十九歳没
・ 本もと 広 広 屯たか 広 居やす 浮 広……
三郎兵衞 伊織 伊織、 三郎兵衞
藤吉郎
分知五百石 御小姓組 御書院番
御書院番
御書院番 御書院番 天明七年、 五十八歳没
享保五年、七十四歳没 宝暦七年、 九十一歳没
邦広
伝吉、 松前十世矩広
養子 (十一世藩主)
この忠広の一族が幕府旗本として松前家から禄仕した 「旗本松前氏」 の本家筋に当り、
松前藩主松前氏を側面から補翼した。 特に松前家十世藩主矩広は世子富広が早世していて嗣子がなく直広の分家本広の孫が養子となって、
松前氏の宗系を守っている。 この旗本本家の役宅は小石川片町、 本広家は本所南割下水であった。
さらに幕府旗本中でも重職となった家に、 松前八左衞門 (八兵衞) 家がある。 この家は松前氏七世藩主公きん広の三男八左衞
門泰やす広である。 公広には五人の男子があり、 長男兼広は早逝し、 二男氏広が藩主となり、
三男泰広は幕臣、 四男広ただ、 五男幸広は藩に禄仕して家老となっている。 旗本となった泰広は甚十郎、
八左衞門を名乗り、 正保三年 (一六四六) 旗本となり、 御小姓組に列し、 廩米りんまい
(蔵米のこと) 千俵を賜わった。 松前氏九世高広六歳、 十世矩広も七歳と幼令の藩主が続いたので、
幕府から特に後見を命ぜられ、 特に寛文九年 (一六六九) のシャグシャイン族長の蜂起に際しては督軍として世子嘉よし広、
三男當まさ広を連れ、 松前に来てその治定に当った。 そのようなこともあって幕府旗本である泰広に対し、
松前氏から知行地として宮歌村と江差九艘川村 (江差町中歌町と思われる)、 大茂内村
(乙部町字栄浜) の三村と余市上場所を拝領しており、 宮歌村が親村、 他の二村は枝村とし、
領主との知行役納等は総て宮歌村が取り仕切っている。 この八左衞門家とその一族の系譜は次のとおりである。
泰 広 嘉よし 広 勝 広 端まさ 広 充みつ 広
八左衞門 八兵衞、 伊豆守 八左衞門 八兵衞保広
八蔵
御小姓組 御使番、 大目付 北条安房守二男 新番頭
寛延三年
御使番 二千六百石 寄合、 御目付 大坂定番
二十七歳没
御目付、 千五百石 享保十六年 享保十三年 宝暦二年
延宝八年 八十歳没 六十歳没 五十四歳没
五十六歳没
當まさ 広
広 長
廩米四百俵
六百石分知
分知
譽たか 広 忠 広 幸 広 役宅
八之丞、 八左衞門 八太郎 八之丞 小川町雉子橋通り
二千石 二千石
御目付寄合
御留守番
寛政十年致仕
・ 當まさ 廣 広 隆 一かず 広 等とし 広 広 澄すみ
主馬、 作右衞門、 陸奥守 主馬之助、 主馬 彦之丞、 主馬 彦之丞 熊之助
廩米四百俵、 小納戸役 安芸守、 従五位下 書院番、 御徒頭 御小姓組 十七歳家督
知行千石、 従五位 御徒頭、 御目付 御目付、 御槍奉行 御使番 千五百石
享保三年、 五十九歳没 大目付、 千五百石 明和八年、 四十九歳没 寛政元年、
四十四歳没
元文五年、 四十九歳没 妻は十二世資広娘
広 任とう 役宅
専次郎 小川町猿楽町
広澄の弟
・ 広 長 恭ゆき 広 役宅
万吉、 元四郎 五郎次郎 市ケ谷
六百石分知 御書院番 鷹匠町
御書院番 寛政元年致仕
安永九年、 四十歳没
この松前泰広の妻は、 幕府大目付北条安房守正房 (三千四百石) の娘であり、 この妻の死亡後は側用人牧野成貞
(三万三千石) の父儀成の娘を迎えている。 このような背景もあって泰広の系統の三家は二千石、
千五百石、 六百石の大身旗本に立身し、 寄合席、 大目付、 御目付等の旗本最高の役職に昇進している。
延宝六年 (一六七八) に発生した門昌庵事件は藩主十世矩広が中心となり、 藩の重臣達もかかわった事件で、
このことが遠く江戸にも聴こえ、 幕府から厳重な注意を受けたが、 幕法からすれば 「松前藩の措置よろしからず」
と改易されるべき処を、 戒告だけで済んだのは、 この牧野、 北条氏の陰の力があずかって大であり、
また泰広一門の与えた影響が大きかった。
このほかもう一家の旗本松前氏がある。 この家は、 松前氏四世蠣崎季広の九男作左衞
門吉よし広が慶長五年 (一六〇〇) 家康に謁し、 廩りん米二百俵で旗本になったもので、
その家系は
吉 広 広 次 広 長 広 久 広 行 広 具とも
蠣崎、 のち松前 九左衞門 作十郎 采女、 九左衞門
兵吉 保房、 吉五郎
と改む 桐ノ間番 大番、 新番 大番、 大坂城番
大番 大番
二百俵高 三百俵高 延享四年 延享四年
寛政八年
宝永七年没 五十七歳没 三十一歳没
六十九歳没
広 配つら 役宅
栄之助 小日向石切橋
健次郎
等である。
この江戸旗本松前氏諸家のほか、 のちに仙台藩とのかかわりで、 松前氏に援助、 協力した家に仙台藩に禄仕した松前安広がある。
安広は松前藩主第五世慶広の八男で、 松前右衞門を名乗り、 慶長十四年 (一六〇九)
仙台藩に禄仕して市正と称し、 元和九年 (一六二三) には二千石の一門格となっている。
寛永六年 (一六二九) には白石城主片倉小十郎の娘と結婚し、 景長、 広国の二人の男子を設けている。
晩年自休と号し、 寛文八年 (一六六八) 七月八日六十三才で没している。 この安広の長男景長は白石城主片倉家を相続し、
伊達家一門となっているが、 従って松前氏とは親族に当り、 松前藩主が参勤交代の節は、
必ず白石に泊り、 片倉氏を訪問するのが慣例となっていた。 広国は二千石を相続しているが、
「仙台萩」 で忠臣として活躍する鉄之助はこの家から出ている。 松前氏は何か重大な事件が起きると仙台藩を介し、
幕府に上申していたのも、 このような関係からである。 なお、 松前藩は安広に対して知内村を采領
(知行) 地として与えている。
また、 松前氏から柳生家へも養子となっている。 十一世藩主邦広の二男賢ただ広は正徳三年
(一七一三) 七月柳生備前守俊峰の嗣子となり、 俊則を名乗り、 柳生一万石の大名となって従五位
下に敍され、 但馬守に任じている。 俊則は文化十三年 (一八一六) 六月三日八十五才で没している。
第三節 松前氏と京都の関係
中世の時代以降松前と京都の関係が近かった。 それは蝦夷地の交易品が弁財船で北国地方から敦賀、
小浜にかけて輸送され、 熊川街道、 塩津街道を駄送され、 塩津、 海津から京、 坂に送られたが、
とくに近世に入ると、 これら蝦夷地の特産品は、 進出した近江商人によって独占流通
されていたので、 地域的にも江戸より京都との交流が強かった。
松前藩の領主松前氏と京都を結ぶきずなを作ったのは花山院忠長である。 花山院少将忠長は、
大納言花山院定好を父に持つこの時二十二歳で将来を約束された公達きんだちであった。
このころ宮廷内では左大弁烏丸からすま光広、 左近衞権中将大おお炊い御み門かど頼国、
花山院忠長、 左近衞少将飛あす鳥か井い雅賢、 左近衞権少将難波宗勝、 徳大寺実久、
中御門宗信等の青年公が後陽成天皇の女官唐橋氏、 中院氏、 水無瀬氏、 唐橋氏の命婦讃岐等と日夜飲食に更ふけ、
京の町にもその不倫の噂うわさが拡まり、 ついに後陽成天皇に聴こえ、 天皇は京都所司代を通
じて幕府にその処断を求め、 自らも退位しようとした大事件であった。 幕府はこれら関係者を遠島、
遠国流罪とすることを慶長十四年 (一六〇九) 七月決定し、 二十二歳の公達花山院忠長は蝦夷地に向かったが、
その状況を 『角田文書』 では、
十一月十日花山院少将殿夷ケ島へ遠流爰に哀成事有、 父母二人粟田口迄御送人目も無御憚声はばかり を上げて今は餘波の事なれば啼ただ悲み給たまえ、
子息少将殿より一首詠し給ひて残し置給。
花は根に かえるときけば 我も亦また
おなし若葉の 春をこそまて
とか朴すなおに侍送給ふ、 是を貴賎感得之由候哀成哉かな。
と流刑の哀あわれさを記録している。 忠長は役人に付添され、 寒中を日本海沿いに北上し、
秋田・津軽を経て、 翌慶長十五年三月蝦夷地の上ノ国に到着し、 廃館になっていた花沢館に入って謹慎していた。
江戸参勤から帰国した領主慶広は、 このことを聴き早速家臣を派して、 城北寺町の万福寺
(真言宗) に迎え、 賓客ひんきゃくのあしらいをした。 これは忠長の姉が一の台という家康の内室であったことから、
その処遇を依頼されたこともあるようである。 同十七年春には梅見の宴を催し、 その際の発句に
花 山 院 忠 長 朝 臣
都にて かたらば人の いつはりと
いわん 卯月の 梅のさかりを
又
いつはりと ゑそやいはまし 卯月にも
梅のにほひを 風のをくらば
慶 広 朝 臣
わきて今日 大宮人の 詠ながれは
梅の匂におひの 猶ふかきかな
と詠みながら、 終日酒宴遊興したという。
慶長十九年 (一六一四) 五月二十八日忠長は罪一等を減じられて津軽に流刑替となったが、
蝦夷地での五年間の流刑生活で厚遇を与えた松前氏に対し、 好意を持ち、 その後松前氏と京都公家との婚姻等に盡力したものと思われる。
松前藩主およびその世子が京都公家から婦人を迎えているのは、 次の通りである。
七代藩主公広夫人=大納言大炊御門資賢の娘、 桂姫、 二男一女を生み、 寛永三年 (一六二六)
八月二十四日没。
十代藩主矩広夫人=侍従唐橋在庸ありつねの娘、 華姫、 延宝六年 (一六七八) 七月十八日没。
十代藩主矩広世子富広夫人=三位高野保光の娘、 房子。
十一代藩主邦広夫人=高野房子矩広の養女となって邦広に再嫁、享保五年(一七二〇)七月十二日没す。二十一才。
十二代藩主資広夫人=中納言八条隆英娘、弁姫、宝暦四年(一七五四)一月二十七日道広出産後の肥立悪く死亡。
十三代藩主道広夫人=右大臣花山院常雅の娘、 敬姫、 明和八年 (一七七一) 十月入輿、
のち知子と改む、 安永五年
(一七七六) 五月十五日没す。
このように松前氏には、 京都公家から六人の女性が輿入している。 徳川幕府は大名家の私婚を禁じ、
特に外様大名間の婚姻を極度に押える政策を取っているほか、 京都公家との交流も嫌っていた。
その婚約についても幕府に願い出、 許可のあった者でなければ、 婚姻は出来なかったので、
松前氏のような小藩が六人もの女性を京都から輿入させているのは、 異例のことであって、
松前氏と京都公家との間に交流の深かったことを示すものである。
また、 松前家から逆に京都へ輿入している人もいる。 十四世藩主章広の長女梁姫は京都公高野刑部大輔保右ぎょうぶだいすけやすあきの室として、
文化十三年 (一八一六) 四月京に登っている。 さらに十二世藩主資広の三男武広は摂家一条家々臣の難波備中守の嗣子として享和三年
(一八〇三) 同家入りし、 難波掃部かもんと称し、 のち伊予守に任ぜられ、 天保四年
(一八三三) 十月没している。
このように藩主、 家臣の京都との交流は松前地方に多くの文化を招来した。 例えば十三世道広の室敬姫入輿の際は、
右大臣という格式の高い花山院家からであるので、 京都から五十人もの腰元を従え、
江戸を経て行列を組んでの入輿であったが、 これらの女中のなかには松前家々臣に嫁入し、
京都の風俗、 習慣、 生活を松前地方に定着させる役割をも果している。
第四節 江戸藩邸と参勤交代
江戸藩邸各大名は武家諸法度によって江戸に一年、 領国に一年在国することが定められていたので、
諸大名は江戸に屋敷地を賜わって藩邸を設けていた。 大々名は江戸城の近くに上屋敷、
また休息所として中屋敷、 下屋敷を設けていたが、 松前藩のような小藩は当初は上屋敷のみであった。
記録で明らかなものは承応二年 (一六五三) の武州古改江戸図によれば藩邸は浅草誓願寺前に、
天和二年 (一六八二) の江戸火災に罹災後、 翌三年には浅草観音前に邸地一、 二〇〇坪を賜わり、
元禄十一年さらに火災で類焼し、 谷蔵やのくらに替地一、 一四一坪を賜わって移り、
正徳五年 (一七一五) 九月幕臣細井佐治右衞門の邸地と交換し、 下谷新寺町 (現在の東京都台東区小島町-上野駅より東方七〇〇メ-トル程下る)一、
二〇〇坪が松前藩邸として明治新政まで用いられた。 また、 天保九年(一八三八)本所大川端
(今の両国々技館付近) の津軽越中守邸を拝領して、 下屋敷としている。 幕末の江戸地図では本所邸を上屋敷としているが、
これは天保十一年下谷邸が狭隘なため願い出て、 本所下屋敷を上屋敷としたものである。
さらに天保七年には青山に支邸地を拝領している。 元治元年 (一八六四) 十七世藩主崇広が幕府老中に就任した際は、
江戸城内常盤橋の前老中有馬遠江守道純の公宅を引継ぎ、 ここを上屋敷として執務している。
幕末における松前藩邸の規模は次のとおりである。
拜領上屋敷
浅草新寺町
千八百五十坪余
内百五十坪津軽家より借用
同下屋敷 青山五十人町
三千坪
同下屋敷 北本所大川端
三千五百坪
(『近江藩蝦夷記録』 による)
天和二年より安政二年までの一七三年間に江戸藩邸は次のように十回焼失している。
天和二年 (一六八二) 十二月二十八日 罹災
元禄元年 (一六八八) 十一月二十五日 放火 (家臣手代木左内)
元禄十一年(一六九八) 九月九日 類焼
元禄十三年(一七〇〇) 三月 罹災
元禄十六年(一七〇三) 十一月二十九日 類焼
享保三年 (一七一八) 十一月十一日 類焼
享保六年 (一七二一) 三月三日 罹災
安永元年 (一七七二) 二月二十九日 罹災
文化三年 (一八〇六) 三月四日 罹災 (章広箕輪みのわへ避難)
安政二年 (一八五五) 二月二十二日 本所邸罹災
等であるが、 藩邸が焼失した場合、 速急に再建しなければならず、 財政に苦しむ藩は、
そのため場所請負人、 両浜組 (近江商人の団体)、 株仲間等の特権商人に御用金を課したり、
借上金等、 さらには家臣や商人、 各村から寄付金を集めて再建するという状況であった。
江戸藩邸は多くの家臣を抱えていた。 江戸留守居役を筆頭に、 御使者番、 吟味役、
取次役、 詰席、 医師、 料理人、 足軽、 仲間、 台所方、 女房等であったが、 のちに納戸役が置かれていた。
江戸では登城あるいは各大名間の典礼が面倒なため吟味役、 納戸役は交代派遣されていたが、
他は世襲的に江戸在府のものが多く、 藤倉、 田崎、 横井、 長倉氏等は江戸住みの家臣であった。
また、 国元と藩屋敷との間には常飛脚が立てられていたが、 重大な急用の場合は二駄
早、 三駄早の飛脚が特別用意されていた。
【参勤 (覲) 交代】 徳川幕府の大名および上級旗本 (交代寄合席) の統制策として創出されたのが、
参勤交代である。 この制度は寛永十二年 (一六三五) に発布された武家諸法度のなかで明文化され、
「大名・小名在江戸交替相定所也。 毎歳夏四月中参覲さんきん致すべし」 となっていて、
大名・小名 (交代寄合) は一年在国、 一年在府とし、 四月参勤と定められていた。 この制度を設けた目的は、
江戸在府を多くすることに常時大名を監視、 統制し、 往復の行列は軍役を摸した供揃ともぞろえを強要した。
それによって諸大名の旅費、 諸経費の捻出は容易でなかった。
松前藩の参勤交代供揃は、 初期には幕府の特別の待遇があって槍二槍という五万石以上の大名格式の供揃であった。
その行列の道具立は寛永十一年の 『御上洛供奉例部=福山秘府巻之拾九』 によれば、
御鉄炮 拾挺 - 御長柄 拾本 - 御弓 五挺 - 御挽替馬 三匹 - 御挾箱 二荷半
- 御薬箱 一荷 - 御具足箱 ヲイ二ツ - 御傘 一本 - 台箱 一本 - 御持筒 二挺
- 御弓立 一カツキ - 御半弓 一カツキ - 御持鑓やり 二對 - 御腰物筒 二ツ
- 侍衆十人 御馬添二人、 御草履取衆三人
沓持一人、 歩行二十五人 - 御駕 六尺六人 - 御乘掛 (奉行一人) 一匹 - 乘掛(小姓衆)五匹
- 乘掛 (侍衆) 十一匹 - 御茶弁当 一荷 - 御弁当 一荷 - 御長持 二荷 - 着替付馬 十匹。
が、 寛永十一年 (一六三四) 六月将軍家光上洛の際の供奉 ぐ ふ 供揃で、 その人数はおおよそ一七〇人である。
これが槍二槍の行列立であったと思われる。 しかし、 この行列立ではあまりに多くの人と旅費を必要とするため、
松前家十世藩主矩広は延宝二年 (一六七四) 槍一槍とすることを願い出、 以後五万石以下大名の道中供揃である一槍としている。
この一槍道具立の場合、 万石未満大名は一五〇名であったが、 松前氏は一二〇名程度の道具立であったようである。
享保六年 (一七二一) の幕府規定の改正によって一万石の大名は、 馬上三~四騎、 足軽二十人、
仲間三十人の道具立となり、 行列人数も七十人程度となったが、 松前藩は八十名程度であったと思われ、
幕末にいたって文久二年(一八六二)旧規に復して、 道中行列は二本立となった。
参勤交代で藩主が出発しようとする際は吉日を予定日として触れ出し、 神社などは御日待神楽を斉行した上で順風を祈る。
松前から津軽半島の三厩村に至るには、 北および北西の風が渡海に最もっとも良い風である。
順風を得て藩主が御座船に乗り込む際は、 城館前の馬出口に家臣はもち論、神官、僧侶、場所請負人、株仲間をはじめ、
町年寄、 各村主等が並んで送り出す。 御座船は主に長者丸、 貞祥丸等が用いられたが、
これらの船と供船は沖がかりしているので、 本船までは端舟で乗り込み、 本船を潮路に乗せるため四~五十艘の小船で沖に引っ張り、
ようやく潮路に乗る。 本船が出帆すると物見が早馬で七面山下の狼煙台のろしだいに知らせ、
ここの狼煙を白神の狼煙台が受けて発火すると、 龍飛崎突端の狼煙台が受けて藩主の出発を知り、
三厩の本陣、 脇本陣に通知をし、 受け入れの準備に入った。 この三厩の狼煙台は宇鉄の清八という猟師を松前藩が足軽格で召抱え、
手当を支給して管理させていた。 三厩村の本陣は山田家 (現三厩村長山田清昭氏の家)
で、 松前氏御抱であったので代々松前屋庄右衞門を名乗り、 家作や端舟の建造には松前藩が助成をするのを慣例とし、
脇本陣は安保幸右衞門宅で、 外に旅籠はたご忠兵衞などもあって、 蝦夷地渡海の一大拠点となっていた。
松前氏の参勤交代は初期には白神岬と龍飛岬の間の龍飛・白神・中の潮という最も危険な海峡を渡ることを避け、対岸の小泊村
(北津軽郡) に上陸し、 ここから行列を組んで津軽領内を南下して、 矢立峠から秋田領内を鹿角から盛岡に出て、
奥州街道を南下した。 この松前から三厩への航路が定形化されるのは、 文献では寛文九年
(一六六九) の蝦夷蜂起の際、 津軽藩の援軍がここから渡海した以降の事である。 三厩で準備を整えた松前藩主の供揃は、
陸奥湾岸を青森まで南下する上磯街道 (松前街道ともいう) を進み、 青森から小湊、
野辺地、 七ノ戸を経て盛岡を経過する奥州街道を南下し、 江戸に到る道程であった。
元禄五年 (一六九二) の松前藩執政の 『松前主水広時日記』 に江戸から参勤を終え松前へ下る一行の詳しい行程が掲載されているので参考として上げれば、
二月九日 (旧暦) 朝六ツ半 (午前七時) 江戸出立 - 粕壁泊
同十日朝六ツ (午前六時) 出立 - 昼食中田 - 儘まま田泊
同十一日六ツ時発 - 小金井昼食 - 宇都宮泊
同十二日六ツ時発 - 喜連川昼食 - 太田原泊
同十三日六ツ時発 - 蘆野昼食 - 白川泊
同十四日六ツ時発 - 須賀川昼食 - 郡山泊
同十五日六ツ時発 - 本宮昼食 - 八丁目泊
同十六日六ツ時発 - 桑折昼食 - 白石泊 (殿様白石城へ御出、 色々御馳走)
同十七日六ツ時発 - 築貫昼食 - 長町泊 (仙台)
同十八日六ツ時発 - 吉岡昼食 - 古川泊
同十九日六ツ時発 - 築館昼食 - 金成泊
同二十日七ツ時発 - 前沢昼食 - 水沢泊
同二十一日六ツ時発雪降り - 鬼柳昼食 - 花巻泊
同二十二日六ツ時発 - 幸利昼食 - 森岡泊 (南部侯より色々御馳走)
同二十三日六ツ時発 - 渋民昼食 - 沼宮内泊
同二十四日七ツ時過発 - 一戸泊
同二十五日七ツ時過発 - 三戸昼食 - 五戸泊
同二十六日七ツ時過発 - 七戸昼食 - 野辺地泊
同二十七日七ツ時発 - 小湊昼食 - 青森泊 (津軽越中守様より御使者)
同二十八日七ツ時過発 - 蟹田昼食 - 平館泊
同二十九日六ツ時発 - 今別- 夕七ツ時三馬屋着 (小鹿喜右衞門宅立ち寄り、 御馳走有)
晦日 休息
三月一日 風下り、 御風待
三月二日 西風、 同
三月三日 同合風、 同
三月四日 東風天気能御船中万端別条無く、 昼四ツ時過 (午前十時) 松前へ御安着、
御社仏参。
とあって、 実に二十六日間の大旅行である。 その間毎日午前六時頃に発足して、 午後五時頃宿入するが、
その間雪の日も、 雨の日も一日も休むことなく歩き続けるのである。 その合間に人足先触、
昼食手配、 宿割手配をしながら行列は進み、 大名居城地に入ると供揃は、 黒濡羽の松前家の槍を揃え、
その大名に表敬の意を捧げて進んでいる。 この二十六日間の江戸より松前まで行路は、
何の障りもなく順調に進んだもので、 春の降雨の多い時期には、 四十日もかかったことがある。
この行列の主役を勤めるのは足軽・仲間であるが、 特に仲間は参勤の際各村に呼びかけて集め、
参勤行路の荷負い等をし、 江戸では藩邸の門番を勤め、 翌春帰国するのが例となっていた。
第五節 歴 代 藩 主
松前藩は武田信広を初祖とし、 初祖から四世季広までは蠣崎氏を称した。 五世慶広は氏を松前と改め、
慶長九年 (一六〇四) 徳川家康からの黒印制書を受け、 ここに松前藩は成立した。
歴代藩主一覧表は次の通りであるが、 このなかで六世盛広は 『藩翰譜』、 『寛政重修家譜』
等では、 藩主とは認めていないが、 『松前家記』 その他では藩主として掲出されているので、
混乱を防ぐため、 本編では第○世藩主と表示した。
第六節 福山館の築城
松前氏の祖蠣崎氏は、 永正十一年 (一五一四) 二祖蠣崎光広、 義広の父子が、 上ノ国から松前に移って、
十三湖の安藤 (東) 氏の同族下国氏の居館した大館に入り、 館を改修して徳山館と改名し、
ここを本拠として和人地内に発展する基礎を築いて行った。 天正十九年 (一五九一)
四月、 五世慶広の長子盛広の居室から出火し、 先祖伝来の武器・財宝を焼いたのを機に移城を計画していた。
中世の城館は天然の要害を利用し、 僅かに空堀や土塁、 柵等を配した簡単なものが多く、
防備には秀でても、 治城の地ではなく、 この徳山館も例外ではなかった。 松前氏の五世慶広は松前の地が将来海を通
じて発展することも考慮に入れたと思われるが、 徳山館の南方で海岸に隣接する福山の台地に、
慶長五年 (一六〇〇) 築城を開始し、 六年の歳月を経て慶長十一年完成し、 福山館と称した。
その規模は、 享保二年 (一七一七) 幕府巡見使一行の筆と思われる 『松前蝦夷記』
によれば、
一 居 所 東 西 九 三 間 向 南
南北百弐十六間四尺
南 北 百弐拾六間四尺
櫓一ケ所 南東ノ角ニ有
物見二ケ所 西ノ方
北西ノ方
門三ケ所
内 南ノ方 東ノ方 北西ノ方
堀
西北江引廻シから堀西ノ方六十間許水少々有之東之方柵内通廿間計から堀有堀幅ハ何茂拾間内のよし
南外通柵内板塀北之方板塀前後半分々々也所々矢間有之
右慶長五年築之福山館ト云
一先年夷仁蜂起之時物見数ケ所當分建申由
一夷人江城ト申爲聞候故諸人松前之城ト唱申由也
一侍屋舗八拾軒計 居所近辺
ニ有之
外侍壱人ニ而二軒程宛下屋舗持居申候よし也
と述べていて正式名称は福山館であるが蝦夷地内では城と称していた。 近世の大名は徳川幕府の武家諸法度はっと
(元和元=一六一五) 発布後は一国一城に限定され、 城を持つことを許される大名は、
城持大名と承認された大名の居城のみを城とし、 他は中世の館たちの名称を用いた館たて、
あるいは陣屋と称した。 この時点で松前氏は城主大名とは認められなかったので、 福山の台地の名称を冠した福山館と称していた。
この福山館は、 寛永十四年 (一六三七) 三月二十八日夜に藩主居館から火を発し、
鉄砲火薬に火が付いて爆発し、 藩主七世公広も負傷するという事故があり、 同十六年上ノ国目名沢から桧
(アスナロ・羅漢柏) を伐り出して本丸御殿を再築している。 その後寛文九年 (一六六九)
日高の族長シャグシャイン蜂起の際、 物見櫓を二か所建立している。
宝暦四年 (一七五四) 八月二十八日藩士青山園右衞門方から出火した火災で、 城東の遠見櫓を焼き、
明和二年 (一七六五) の年再建して幕末にいたっている。
第七節 松前藩の知行制度
第一節でも述べた如く、 徳川幕藩体制下では、 大名と認められる者は、 その領内で生産される米の草高が一万石以上生産される領域を支配する家
(藩) が、 大名として幕府から将軍の黒印 (又は朱印) 状によって承認されていた。 従って草高九千石でも大名にはなれず、
小名・旗本として遇されていた。 寒冷地で米の全く穫れない近世初頭の蝦夷地では、
この幕府の制度に合致せず、 特例として徴役権と交易権を文言に盛り込んだ黒印制書によって大名格付けがされていた。
徳川時代の職員録ともいうべき 『武鑑』 の大名最末席に、 「無高 先祖代々之を領す」
とあって、 無高大名松前家が位置付けされていた。
各藩はその領域の公許石高のうちを藩の運営費、 家臣の知行に当て、 家臣は領主から知行を拝領することによって生活に裏付けがされ、
士道に専心することが義務付けられていた。 しかし、 松前家 (藩) 家中の場合はこれに準ずることができず、
全く異例の給与体系が取られていた。 それが商場あきないば制度である。
松前藩は石高知行の代りに、 蝦夷地を一〇〇カ所程度に分轄し、 そのうちの重要な場所は、
藩の歳費に充て、 他の分割した場所を上級家臣の知行所として采領を認めた。 この場所知行はその知行主に場所の領有を認めるというものではなく、
あくまでも藩法の原典を基礎とし、 現地場所への和人居住の禁止、 現地アイヌ人の介抱
(援助) 等が義務付けられていた。 この制度を商場制度というのは、 知行主の家臣が一年一度夏期に藩主の許可を受け商船あきないぶねを仕立てる。
その船には現地の人達が欲する生活用品の米・麹・味噌・醤油・酒・塩・煙草・漆器類・鍋釜・鉄製品・古着類を積んで出帆し現地に到った。
現地のアイヌ人達はこれを出迎え運上屋 (交換所) でオムシャという儀式が行われる。
このオムシャはアイヌ語のウムシャの転化したもので、 アイヌ人は久し振りに会ったとき、
互いに体をなで合って久濶きゅうかつを叙する礼式のことを言ったが、 現地の人達と友好を深めなければならない知行主は、
この礼式を利用し、 運上所で村の代表である乙名、 脇乙名、 土産取みやげどりの三役と挨拶をし、
米・酒等の土産を贈り、 アイヌ人からも現地の生産物を返礼し、 オムシャが終ってから、
現地の生産物と交換するが、 これを交易といった。 その現地生産物の主なものは披鯡
ひらきにしん、 胴どう鯡、身欠みがき鯡、数の子、干鮭からさけ、 塩鮭、 塩鱒ます、 干鱈たら、
串貝くしがい (鮑あわびを串にさして乾燥させたもの)、 石焼鯨いしやきくじら、 干海扇 ほたて 、
魚油、 鰈鮫皮ちょうざめ 、 昆布、 鷹、 真羽 (鷲の羽根)、 獵虎らっこ皮、 膃肭臍おっとせい、
海豹あしか皮、 熊皮、 熊の胆い、 鹿皮、 生鶴、 塩鶴、 椎茸、 アツシ等であった。 これらの品物はおのおの交換比率によって交易されたが、
鯡が主体となったのは中期以降のことであるが、 鮭、 鯡、 昆布の三品はその代表的なものであった。
交易から松前に帰ると、 これら交易品を近江商人を主体とした商人達に売り、 船を仕立てた時の商品代を精算し、
その余剰利益金で生活をするというのが、 松前藩知行の基本であった。 のちの場所請負制度の時代になってからの史料であるが、
天明六年 (一七八六) 最上徳内筆の 『蝦夷草紙 別録』 によって主な西海岸地行主との場所請負金額を見ると、
太 櫓 場 所 和 田 郡 司 運 上 金 八 拾 両
瀬 棚 内 場 所 谷たに 梯はし 増 蔵 同 百 両
島 小 牧 場 所 並 川 善 兵 衞 同 百 二 拾 両
寿 都 場 所 鈴 木 弥 兵 衞 同 八 拾 両
歌うた 棄すつ 場 所 蠣 崎 弥 次 郎 同 百 四 拾 両
磯 谷 場 所 下 国 舎 人 同 八 拾 両
積 丹 場 所 藤 倉 八 十 八 同 百 五 拾 両
美 国 場 所 近 藤 吉 左 衞 門 同 百 両
古 平 場 所 新 井 田 喜 内 同 百 七 拾 両
下 余 市 場 所 松 前 左 膳 同 百 六 拾 両
上 余 市 場 所 松 前 八 兵 衞 同 百 四 拾 両
忍 路おしょろ 場 所 古 田 栄 助 同 百 六 拾 両
祝 津 場 所 蠣 崎 源 吾 同 百 五 拾 両
小 樽 内 場 所 氏 家 新 兵 衞 同 百 五 拾 両
厚 田 場 所 高 橋 又 右 衞 門 同 百 五 拾 両
増 毛 場 所 下 国 兵 太 夫 運上金 二 百 両
天 塩 場 所 他 松 前 貢 同 二 百 二 拾 両
である。 これらの家臣は知行のほか、 必ず何らかの役職にあるので、 藩からは役料が支出されていた。
さらに重臣のなかには和人地村落の知行を許され小物成 (雑役) 等の課税を認められたものもあり、
松前広長の礼髭村 (字吉野)、 松前貢の白符村等があり異例のものとしては、 宮歌村の旗本松前家、
知内村の仙台松前家の支配がある。 このほか、 鷹場所が三〇〇か所もあり、 重臣達に給与された。
このような商場制度による藩の扶持体制には、 家臣達は大きな不安を抱えていた。
それは近世の経済はその年の豊凶によって、 極端な差異があったからである。 その基礎をなすものは米で、
一度冷害に襲われれば米価は数十倍にも高騰し、 それに従って諸色も騰貴するという不安定さがあり、
さらに各場所の豊凶によっても変動が激しく、 家臣達は常に物価動向等に留意しなければならなかった。
幕府巡見使が蝦夷地に来ての報告書のなかには、 「松前藩士は士商兼帯である」 と報告していて、
当時の武士の最も賤いやしむべき商行為を家臣が公然として行っているのも、 藩の知行制度からして止むを得ないことであった。
このような繁瑣はんさな知行に耐えられなくなった家臣達は、 この知行利権を商人に代行させ、
場所を請負わせるようになるが、 これが享保年間以降 (一七一六~) に行われるようになったというのが場所請負制度である。
この制度は家臣が自分で直接商船を仕立てていた収入と、 自家の生計状況を考え、 一年間の請負額を定め、
五年を単位として契約し、 それを更新したが、 中には契約額が折合わず、 請負人が異動することも多かった。
請負人は商人であるから利潤を追求するのは当然で、 場所には交易場としての運上屋を建て、
従来の刺網を使っての鯡漁業から大網を使って一挙に大量の鯡を水揚げする漁法に変ってくる。
そのためには多くの漁夫が必要になってくるので、南部・津軽・秋田の季節労働漁夫を雇ったほか、例えば太平洋側の鯡
漁業のない場所のアイヌ人を、 場所請負人同志の契約で季節的に強制して他場所移動稼働させたり、
非常に安い賃金で働かせるということで常に紛争は絶えなかった。 また、 交易についても藩が内規として定めている交易基準を無視して比率をごまかし、
あるいは数をごまかすようなことも日常茶飯事であった。 さらにはこれらの場所に多くの和人が入り込むことによって現地アイヌ人女性問題等もつのり、
ついには、 徳川幕府によって示された対蝦夷 (対アイヌ人) 政策の根本である 「夷の事は夷次第」
という理念を継承する松前藩の対蝦夷政策は根底から崩されている。 これらの場所請負人となったものは、
松前在地の豪商や近江商人の蝦夷地での活動団体である両浜りょうはま組に所属する商人によって占められ、
これらの商人は藩と結び付く特権商人としてますます発展した。
文化五年 (一八〇八) 松前藩の陸奥梁川移封と共に設置された幕府の松前奉行は、
旧態の場所請負人の改廃につとめ、 太平洋沿岸の場所は江戸商人や箱館商人を登用し、
日本海沿岸の場所請負人も多く入れ替っていて、 旧弊の改善につとめている。 さらに十五年を経た文政五年
(一八二二) 松前藩が蝦夷地に復領すると、 知行制度を全面的に改正し、 家臣個々の場所請負を止め、
総ての地を藩直領とし、 藩が直接場所請負人を選定し、 家臣には石高給与の墨付けが交付され、
他藩同様の給与体制となった。 それによると寄合席 (一門および家老) 五〇〇石、 準寄合
(一門および譜代の重臣) 四〇〇石、 弓の間・中書院席 (重臣・奉行・用人・吟味役等)
二五〇石~二〇〇石、 中之間席 (士の上席) 一五〇石、 御先手組席 (士席) 一一〇石となっている。
またこの石高は年二期に分け、 これを半額を米、 半額を金子で交付することになった。
このほか、 徒士かちは九〇石、 足軽は六〇石で、 その給与人数は弘化年間 (一八四四~四七)
では、
寄 合 席 九 名
準 寄 合 席 四 名
弓 之 間 席 一 名
中 書 院 席 一 五 ~ 六 名
中 之 間 席 約 四 〇 名
御 先 手 組 席 約 六 五 名
徒 士 一 二 〇 ~ 三 〇 名
足 軽 約 三 二 〇 名
計 約 五 八 五 名
となっており、 この石高給与のほか、 家老・用人・奉行・吟味役等の役職にあるものは、
半額程度の役料の給与があり、 また、 勤番の役人には勤番手当、 交易船に乗り組み、
交易に従事したものには上乗役等の特別給与があった。
第八節 幕 府 巡 見 使
幕府は将軍代替りの節、 役人を各地方に派遣して、 各大名の領域に立入らせ、 その藩の領地、
藩の治政、 藩主の性行、 城地、 物産、 住民動向にいたるまで詳細に亘って検分を実施した。
この巡見使は幕府上級旗本三人をもって一組として各地方に発遣させたものである。
それは一人の場合、 各藩からの贈賄等によって事実を曲げて報告する恐れもあり、 その歪曲を正す目的として、
三人一組となったものである。
巡見使は主席が二~三、 〇〇〇石、 以下一、 〇〇〇石位までの上級旗本から任命され、
その巡見使にはおのおの家老、 取次役、 右筆等四〇名程度の家来 (幕府扶持人も加わる)
で編成されていたので、 一行は少なくも一二〇名以上の大人数での渡航であった。
巡見使の発遣が決定すると、 松前藩にとっては重大事である。 何分にも藩の内情がすべて明らかになってしまい、
事実を隠蔽していることが分かった場合は、 正に命取りになってしまう。 従って質問に対する答弁まで統一するように配慮し、
あまり必要のない処は巡見をさせず、 御馳走攻せめにしておくことに心掛けた。 巡見使滞留中は藩重役の居宅を宿舎とし、
場所請負人、 問屋株仲間、 御用達等の特権商人を介抱人と指定して一切の世話をさせた。
また、 巡見使見分巡行の乙部から石崎 (函館市) までの和人地内は、 各村の道普請、
橋の掛替、 各村会所の整備、 人馬継立等あらゆる準備に忙殺された。
徳川幕藩体制下で蝦夷地に発遣された巡見使は次の九回である。
寛永十年七月九日到着、 二十六日小泊に向け出帆
巡見使 分部左京亮実信、 大河内平十郎正勝、 松田善右衞門 (この蝦夷地初巡見で領内は、
西は乙部村から東は箱館在・石崎汐泊まで巡見し、 以後の巡見使はこのコ-スを慣例として巡視することとなった)
寛文七年六月
巡見使 佐々又兵衞、 中根宇右衞門、 松平新九郎、 七月帰帆
天和元年七月三日
巡見使 保田甚兵衞 佐々木喜三郎、 飯田傳右衞門 (小泊より渡海此日波高く巡見使乗船城西折戸から根部田(松前町字館浜)
沖まで流され、 津軽藩供船は小島に漂着、 八月九日帰帆、 滞在三十六日に及ぶ)
宝永七年六月二十三日
巡見使 細井左治衞門、 新見七右衞門、 北條新左衞門、 七月十二日出船 (滞在十九日)
享保二年六月二十三日
巡見使 有馬内膳 (高三、 〇〇〇石、 御供四十五人)、 小笠原三右衞門 (高一、 五〇〇石)、
高木孫四郎 (高七〇
〇石)、 七月十四日帰帆、 (滞在二十二日間、 第一巻史料編に掲載の 『松前蝦夷記』
は、 この一行の執筆になるものである)
延享三年五月
巡見使 山口勘兵衞(高二、 〇〇〇石、 御供四十五人)、 神保新五左衞門 (高一、
五〇〇石)、 細井金八郎 (高一、 八〇〇石) (六月帰帆、 滞在日数不明)
宝暦十一年六月八日
巡見使 榊原左兵衞(高二、 〇〇〇石)、 布施藤五郎 (高一、 五二〇石)、 久松彦右衞
門 (一、 二〇〇石) (この巡
見で辺幾利知村〔現上磯町〕では宿舎火災あり、 亀田奉行退職、 二十八日帰帆、 滞在日数二十一日)
天明八年七月二十日
巡見使 藤枝要人 (高一、 五〇〇石、 御使番、 御供惣人数四十四人)、 川口久助(高二、
七〇〇石、 御供四十四人
)、 三枝さえぐさ十兵衞(高一、 八〇〇石、 御供三十一人) (八月二十日帰帆、 滞在三十一日間、
『福山旧記』 によれば 「此度巡 見至て不埓の事多し、 其以て我儘なり」 とある)
天保九年五月三日
巡見使 黒田五左衞門 (高一、 二〇〇石、 御使番、 御供四十人)、 中根傳七郎 (高二、
〇〇〇石、 御小姓組、 御
供四十人)、 岡田右近 (高一、 〇〇〇石、 御書院番、 御供三十九人) (六月十日帰帆、
滞在三十八日)
この巡見使に対する松前藩の受け入れについては、 和田郡司氏茂記録の 『天明八年巡見使一件』
はその詳細を列記していて、 その大要を知ることの出来る史料なので、 次に掲げる。
天明八年巡見使一件
「天明八戊申年四月御巡見様御用東在御宿見分」 「御巡見様御人数並此方払ノ分」 ノ二書合綴
一、 江戸表ニ而近年困究相続候ニ付随分軽々間ニ合候様仰せられ一ケ所にて宿相揃兼候得は村を隔てゝも御宿可相
成、 又人数不足ならば前度道具迄持たせ候得共、 今度は道具等持之儀相止申との事なりしも餘国の振合もあり
又、 前例もある事なれば餘り粗異にも出来兼、 殊に 「御上向は御定式被仰出も御座候得ば、
彼是有之間敷候得
共、 前度より下々ハ殊之外六ケ敷由」 なれば、 相等丁重する事となせり。
一、 四月宿となる可東西地見分普請等をなす。
(有川橋記事に付省略)
一、 御巡見様江戸御発駕五月六日、 津軽三馬屋へ七月十八日御着。
一、 五〇〇石御使番 藤沢 要人 召連候人員
用人二人、 給人三人、 中小姓六人、 徒士五人、 足軽十一人、 中間十七人、 以上四十四人。
二、 七〇〇石 川口 久助 御小姓組之由、 人数四十四人。
一、 八〇〇石 三枝 十兵衞 大書院御番衆之由、 人数三十一人
一、 此方 (松前藩) 掛り
御用人町奉行兼帯 下国 人とねり
御案内
御近習頭 高橋 又右衞門
津軽三馬屋迄御使者 新井田 喜 内
藤沢様附 明石 栄次郎
人馬割支配 川口様附 志村 惣 次
三枝様附 土屋 仲右衞門
先年ハ御荷物奉行アリシモ今度ハ人馬支配相勤候
川越奉行 今井 善兵衞 池浦 住右衞門
御巡見御用惣掛 御家老 松前 左 膳
右之外宿掛、 御使者、 料理人、 張番、 案内、 一手種々之役割惣人数八十七人、
外ニ町人。
日 記
一、 七月廿日御巡見様御乘船三馬屋御出帆爲知之立火龍飛を相見候、 則此方白神にて合火相立、
馬形上野にても相
火立候。
御乘船御供船は賄船共ニ三艘ツヽ都合九艘昼八ツ時小松前澗へ御着、 此方川船廿艘都合六十艘差出ス、
外ニ
三艘御濱上りは召船毛氈もうせん敷候て御迎え漕出す。
家老松前左膳、 蠣崎蔵人次に町奉行氏家新兵衞、 下國人、 沖口奉行藤倉八十八、 御先案内高橋又左衞
門、 西
之方津軽附添之役人中相詰ハ、 御宿迄町奉行中御先立致し、 御家老、 御奉行等御宿へ罷出、
殿様御痛所にて
引籠に付御出不遊。
一、 廿一日江良町止宿
一、 廿二日上ノ国止宿
一、 廿三日乙部村止宿之処御昼休に致し江差村へ御帰止宿
一、 廿四日夜来降雨石崎川出水ニ付江差逗留
一、 廿五日雨天上ノ国止宿
一、 廿六日小砂子止宿
西在村々家数人別男女別船数大小網数御改に付、 東在方は前方調置様又小村に垣を致村中を通
らず濱のみ相
通候に付御尋ねあり、 百姓共先年疫癘えきれいにて病死致し候て明家ニ罷成るあり。
近年不漁打続破損修覆し成兼候て
甚見苦により御覧に入候も恐入候に付、 箇様かように致し候と申上候処、 尤之様に有之候得共善悪とも見分致候は巡
見之役に候得は見苦迚とて通る間敷事之由致申依而東在えは右様之事無之様申觸
一、 廿七日福山御本陣へ御帰
一、 廿八日大雨滞在
一、 廿九日福島村滞在
一、 八月朔日大雨知内川出水ニ付福島滞在
一、 二日知内止宿
一、 三日戸切地止宿
戸切地にて熊罷出候取向の上玉鉄鉋打せ候由
一、 四日銭亀沢村御休戸切地へ御帰止宿
一、 五日知内村止宿
一、 六日大雨にて逗留米、 酒、 其外積込船にて知内村罷越候
一、 七日福島止宿
一、 八日城下帰着、 殿様御宿へ御出致爲在候
一、 九日十九日迄天気不良逗留 (東風其他にて舟不出)
一、 二十日昼四ツ初時御出帆、 白神にて立火、 暮六ツ時三厩御着、 出火龍飛相立、
白神にて合火立、 馬形野にて合火
立なり。 前度青盛へは御渡海致爲遊候処、 今日日和不宜様三厩御着之立火相立申候。
依テ惣役人参城恐悦申上候
と巡見使の領内巡視の事を詳しく述べているが、 この巡見使三枝十兵衞に随従して一行と共に渡海した古川古松軒
(名は正辰、 備中国 〔岡山県〕 の医師、 地理学者) は、 側面から一行の動向を詳細に観察して、
不朽の名著といわれる 『東遊雜記』 をものしているが、 このなかで、 津軽海峡の渡海について次のように詳しく述べている。
東遊雜記 巻之十三 (関係文抄)
七月廿日未明より、 順風候まま御船へ召れ候へと津軽家の役人中より案内ありし故に、
御三所の上下とり急ぎ五つ
頃乘船す。 津軽侯より古例に任せられ、 百石積くらひの館船数艘にて紫の絹幕引廻し、
鳥毛の長柄十本、 吹貫一本
、 のぼり一本 是は黒白赤の目印にて引
舟に合印の旗立てたり 引舟は本船一艘に三十艘づつ、 供船三艘、 津軽侯御馳走の役の船三艘、
何れ
も幕をかけ、 彼是百艘斗ばかりの船数故に海上賑はしく、 上の御威光の厚きに感じぬ
。 夫より津軽侯の役人より、 船よそ
ほひ致され申べしと案内ありて、 船頭各々おのおの上下を着し、 船玉へ御酒をささげ、
舟哥を奏すれば、 水主 か こ ・楫取かじとり同音に
謡ふ。 定てならしなどもせし事にや、 声も揃ふておもしろき音声なり。 後に聞ば、 黄帝という舟哥なり。
右の祝言
おはれば御本使の船をはじめ太鼓を叩き立、 引船合印の目印に合せて、 我一ばんに漕ぎ出さんと引縄を本船へ投懸し、
大勢曳き声を揚て漕ぎ出す躰、 陸の案内者とは事替り、 海上なれし海士どもなれば、
なかなかいさぎよく、 船軍などもかくやあらんと大ひにおもしろく、 各興に入りし事、
程なく龍飛近きに至ると船をとどめ、 鳥毛をはじめ幕に至るまで取納め、 板を以て船を包み廻はし、
楫取までも汐入の所に苫を立て、 船頭より申上るには、 是よりは海上あしく候まま、
御用意の爲恐れながら是にさし置候とて、 杉にて結ひ小さなる桶を数々とり出せしなり。
何にするものやと心を付てみれば、 船に酔て吐逆する時の用心桶なり。 各是をみて気味あしくおもひし事なり。
夫より水主二人、 海草にて制し頭よりかぶる蓑みのを着し、 へさきに出て環に縄を通
して、 己が腰に高々と引まとひ、 汐越す浪になで落されぬ用心なり。 楫取四人右の装束にて楫づかの左右にならび、
おの環におなじ綱をもってその身を括り付る事なり。 龍飛鼻にかかると、 引舟は散りばらとなりて、
元の三馬屋へ漕歸る事にて、 船頭の太鼓の拍子につれてそれより帆を上、 龍飛鼻の汐に乘出すと、
の水主声を揃へて、 只今龍飛の汐にかかりしと高声に楫取にしらす。 同音に声を揚げざれば浪音
高く楫取の所へ聞えず 楫取も、 とり楫、 おも楫を隙なく知らせ、 舟行、 汐の調子にかなへばソロウタ引とよばはる。
荒浪立上りて、 船の上を打越す時は、 水主・楫取同音にて、 船玉明神たのむぞと声を上げて、
太鼓を打てひようしに乘じて船をつかふ事なり。
此日三枝侯の召されし船、 仕合よくて何れの汐も程よく乘ぬけ、 一番に松前口に入れば、
又々本のごとく船飾をいそがしく取立る事にて、 松前の津には引船数十艘、 合印の旗をひらめかし御迎に出るより、
御三所の船は船哥はじめのごとく同音に謡ひつれて、 太鼓をならし櫓拍子高く漕入れば、
引船来りて引綱しげく入る粧ひ筆紙に盡しがたく、 陸には松前侯の諸士列を揃て御迎に出向ふ。
海上より城郭を見れば、 樓造りにして遠見いはん方なく、 市中軒を並べ、 かかるよき所のあるべしとは、
人々夢にもしらざりしと目を驚せしことなり。
渡海の事を追々くわしく聞に、 むかしより難船の沙汰なし。 至て難海ゆえに、 随分と日和を見定て、
少しにても心にかかる天気なれば、 決して渡海せざる故と云々。 尤もっともの事にして、
萬事に此心ありたき事なり。 予は地利の爲に数百里を隔て来りし事なれば、 船頭より右の蓑を借りて頭にかぶり、
に出て水主のごとく綱を以て體をくくり付て、 かしこの出岬、 爰の地名を聞て、 年来の大望たりぬ
る心地して、 少しも怖おそろしき心もなかりしに、 船になれざる人々は半病人となりて、
介抱の入りし者も多かりし事なり。
(三一書房刊 『日本庶民生活史料集成』 第三巻 探検・紀行・地誌 東国編による)
この三馬屋から松前への渡海については一日の風待ちだけで、 船出をしているが、
当時津軽海峡の横断がいかに困難なものであるかを如実に現わしており、 これを前記のように掲げたものである。
巡見使一行の西在検分が終り、 東在の見分のため、 七月二十九日松前を発足した。
その行路は前記史料 『東遊雜記巻之一五』 に詳細に記されているが、 福島町関係を摘記すれば、
廿九日松前御発駕。 此日より東の方を御巡見、 三里も遠
し吉岡、 一里より
遠し福島御止宿なり。
松前より吉岡の間に、 岩焼峠といふ嶮岨の坂、 屏風を立しごとく、 登り一里下り二里の難所なり。
福島浦は大概の町にて、 福島川と称する川あり。 此河原に黒色の似像石あり。 人々拾ひし事にて、
予も布袋石・鳩石・橋石等を拾らひし也。 此邊は奥羽南部とさしむかひにて、 その間の海上あしく磯打波は山に響き、
何となくもの哀におもはれし所なり。 浪打際石ならび立て、 船をよすべき所もなく漁舟は岩間々々を漕巡り、
浮ぬ沈みぬ、 己が業とて危ふきをも常とおもう風情ふぜいをみてよめる。
古 松 軒
浪風を をのが友とて つり舟の
うきをもしらて 世を渡るらむ
八月朔日雨降、 福島に滞留。 図の如き魚を亭主よりいだす。
土人ホヤと称す。 大小ありといへども、 大概長さ四五寸、 横二寸くらひなり。 惣身朱のごとく赤く、
目も口もなく、 甲には生海鼠なまこのごときいぼ、 大きな図のごとき数々あり。 此もの至て深き海底にありて、
岩に添て居る事故、 取得がたきものなりと云。 味ひよく上品の魚なりと浦人物語なりし、
奥州東海の漁人は稀に取るといふ。 ある人水虫といふものなりと云ひし。
八月二日福島発足、 三里半一の渡し、 四里廿四丁遠
し知内止宿。
福島より福島川歩行渡りにする事を、 土人四十八瀬川といへども、 百度も渡る事にて此の間二里餘、
左右目なれざる樹木生茂り大木はいふ斗ばかりりなし。 夫より茶屋の峠と称す、 壁を登るやうの坂を一里餘、
一の渡しという所も人家ある所にあらず。 松前侯より御休所を建し斗にて、 知内川と云ふ知内へながれ出る川を橋にて渡るゆえ一の渡しといふ。
是よりは山を越えて野に出、 野を行ては山に登る事にて、 凡そ七八里の間には更に人里なし。
山の頂より八方を見るに大木茂りし深山つらなり、 所々にてかの熊にとられし人の追善に建し大ひなる卒塔婆あり、
土人菩提車と云。 往来のもの念仏を唱へ、 車を廻して行くなり。 図のごとし。
年々此山中にては取られし人数多にて、 新に立し卒塔婆も十本斗見かけし事なり。
仙の林子平の著せし三國通覧には、 さしてもなき上の國の邊には方十里の檜山ありと記して、
此里のはば十里続きし深山を記しさざるもおかし。 一の渡より知内までの野原には萩多し。
馬上より折取る程長き萩なり。 此節花盛にして其詠め興ありし事なり。 都高寺の萩を人々称する事ながら、
此所の萩は一丈餘も延びとして、 高寺の萩は並ぶべきにあらず。 みな目をおどろかせし事なり。
知内といふ所には、 漁家やう十二三軒の地にて、 是よりは道もよくなりし事也。と記している。
福島には七月二十九日に止宿したが、 この日大雨となり知内川が出水したため、 一日まで三日間逗留をし、
八月二日に出立しているが、 その行程では福島川上流から茶屋峠登り口までの通称四十八瀬は出水で一〇〇回以上も川渡りをしたといい、
さらに茶屋峠は壁を登るような峻嶮さであったという。 一の渡りの知内川はこの時代丸木舟で渡していたと思われるが、
この一行は橋で渡ったといっているので、 巡見使一行が通行するため臨時に架橋したのではないかと思われる。
この橋から登った処に御休所があったと記しているが、 これは松前藩の休泊所として藩が建立し、
管理を同地の佐藤甚左衞門に任せていたもので、 甚左衞門は一の渡りを丸木舟で川渡しをして賃銭を得、
また、 休息施設の運営で生活していた。
また、 この記事中で特に注意を要するのは熊の害によって死亡する旅人の多かったことである。
一の渡りから知内までの間の街道脇の各所に、 真新しい菩提車の卒塔婆が十本も建っていたと記しているが、
その場所は現在の字千軒地区から知内町の湯の里にいたる現国道に併行する碁盤坂 (御番坂)、
綱張野、 湯の野から萩沙里付近と考えられ、 この時代はいかに熊が多く人に害を与えていて、
旅行者が熊からの防衛をどうするか、 真剣に考え乍ら歩行していたことが隙うかがえる。
しかし、 この天明八年 (一七八八) の巡見使一行の蝦夷地滞在は七月二十日から八月二十日まで三十一日にも達し、
福島では大雨のため三日滞在し、 また東在検分の帰路にも一日と四日も宿泊している。
さらには巡見終了後十二日間も渡海の風待をしている。 その間この一行の者は城下で幕府の威光を傘に着て、
横暴の限りを尽くし、 「東西在々故如例見分相済、 城下逗留、 下々之者其夜遊ニ出、 商人茶屋之者共迷惑に及ぶ、
此度巡見至て不埒ふらちの事多し其以我侭なり」 (『福山旧事記』) とその非道を記している。
福島にもこの一行の者が町に出て酒食を強要し、 金を払わなかったという口碑が残されている。
【巡見使に対する村の対応】 巡見使の一行の行旅日程が決定すると、 和人地内各村に対し、
道路の修繕、 清掃と各村継の夫人足の確保、 馬匹の調達を命じ、 行程表に従って昼食所、
宿泊所を定め、 松前藩家臣を村並の大きな村に張付け、 遺漏のないよう準備した。 福島町の場合、
松前城下を発った巡見使の最初の昼食地が吉岡で、 福島は宿泊地で、 翌日は福島から四十八瀬を渡り、
茶屋峠 (福島峠) に到り、 ここには臨時の休所が設けられる。 さらに知内川の一の渡り渡わたし場は普段は丸木船で渡すが、
ここは臨時の麁橋そだばし (木の枝で造った橋) を渡って、 佐藤甚左衞門家が管理する藩の休泊所で昼食を摂とって、
知内村を目指して出発し、 帰路はその逆となる。
天保九年 (一八三八) 十二代将軍家慶いえよし代替による巡見使発向は、 奥羽、 蝦夷地筋は四月任命され出発し、
五月二十七日松前に渡航、 六月十二日青森に向け出帆している。 その一行巡見使は、
黒田五左衞門 (高一、 二〇〇石、 御使番、 御供四十人)
中根傳七郎 (高二、 〇〇〇石、 御小姓組、 御供四十人)
岡田右近 (高一、 〇〇〇石、 御書院番、 御供三十九人)
で、 一人の巡見使には家老、 用人、 取次、 目附、 御近習、 取頭、 筆、 元〆役、 医師、
中小姓、 徒士 か ち 、 中間ちゅうげんという行列構成で、 それに松前藩の警護役人を加えると、
その一行行列は優に三〇〇人を超えるという状況であった。
『天保九年 巡見使要用録』 によると松前藩の福島町における世話掛役人、 亭主役は次のとおりである。
東 在
〇 吉 岡 御 休 所 掛 池 浦 次 左 衞
門
( 同 村 錺かざり 道 橋 掃 除 兼 )
黒 田 様 亭 主 福 嶋 屋 新 右 衞
門
中 根 様 亭 主 沢 田 屋 久 兵 衞
岡 田 様 亭 主 川 内 屋 徳 兵 衞
〇 福 嶋 村 御 泊 所 掛 三 村 文 七
岡 田 様 亭 主 廣 嶋 屋 布 右 衞
門
中 根 様 亭 主 萬 屋 專 左 衞
門
岡 田 様 亭 主 柏 屋 庄 兵 衞
〇 一 ノ 渡 御 休 所 掛 川 道 小 次 郎
岡 田 様 亭 主 京 屋 平 八
中 根 様 亭 主 阿 部 屋 太 次 兵 衞
岡 田 様 亭 主 川 内 屋 武 兵 衞
この亭主役は萬屋、 福島屋が場所請負人。 川内屋 (河内屋)、 阿部屋、 京屋、 広嶋屋は問屋株仲間。
柏屋、 川内屋等は小宿株仲間で藩の特権商人であり、 藩の利権で生活している商人であるので、
このような場合に財力をもって接待の助役を命じたものである。 福島では旅宿が少なく、
一行の総てを宿泊させることが出来なかったので、 名主宅、 年寄宅をはじめ寺社にまで宿泊させた。
さらにこれら一行の宿舎に備え付けるものが決まっていたので、 この準備調達も大変で、
正使の室には三幅対掛物、 刀掛、 三方熨斗のし、 火鉢、 金屏風、 御朱印台、 蒔絵硯箱まきえすずりばこ、
煙草盆、 手水盥ちょうずだらい等一点欠かさず整え、 廊下を張り替え、 湯殿も新調し、
食器から瀬戸物にいたるまで準備をしたが、 これに要した費用は総て亭主役が負担した。
いよいよ巡見当日になると福島村では、 名主・年寄の村役は紋付羽織袴で、 神主は官服で白符村境の慕舞腰掛岩で出迎え、
きれいに清掃された道路の盛砂の上を一行が進み、 先ず、 月崎神社に参拝し宿舎に入った。
福島神明社 (現福島大神宮) への参拝は帰路が多かった。
福島での宿所は幔幕を張り、 宿舎札を掲げ、 篝火かがりびを焚いて藩兵が終夜警戒するという物々しさであったが、
食事も雛形ひながたが藩から示されていて、 その集めた材料を藩から派遣された料理人が調理して差し上げるという慎重さであった。
従って村中は巡見使の巡行が終るまでは、 夫人足の助役を命ぜられたり、 名主の指示で飛脚に立ったりで、
緊張した毎日を過ごしたが、 中には天明八年 (一七八八) の巡見使のように知内川の川止めのため、
三日も福島に滞在し、 その一行の者が夜間村内の茶店で只飲をして迷惑をかけるなど、
住民にとっては全く有難迷惑であった。
第 二 章 創 業 期 の 各 村
第一節 各 村 の 展 開
関が原の戦いの終った慶長五年 (一六〇〇) を契機に時代は近世に入り、 二百六十八年余にわたる徳川幕府による幕藩体制が展開されたが、
創業当初の幕府は諸大名の統制管理に力点が置かれ、 末端の村治と住民自治等にはあまり考慮が払われてはいなかった。
徳川幕藩体制がようやく固まった寛永十四年 (一六三七) 九州天草に百姓一揆いっきが発生し、
これに九州地方のキリシタン宗徒も加わり、 さながら宗教戦争の様相を呈し、 幕府は九州地方の大名を動員して、
二年間を経て寛永十五年ようやくこれを鎮定した。 この百姓一揆を教訓として寛永十六年、
キリシタン宗門の禁制と末端の住民統制及び、 互助監視の機関として五人組合制を発布した。
この結果、 五人組 (合) を束ねるための機関として村および村役制度も定形化されて行った。
松前氏が徳川幕府から大名に準ずる待遇を与えられたのは慶長九年 (一六〇四) であるが、
当初は藩法も定まってはおらず、 村治の方策も具体的なものはなかったと思われ、 従来の慣例に従って各村が成立したと思われる。
松前藩の創立当初和人地、 蝦夷地の制が定められているが、 この制定の年代は不明である。
これは東は亀田付近から西は熊石村までの二二〇キロメ-トルの沿岸部付近をもって和人地とし、
他の地域を蝦夷地とした。 そして、 和人地にはアイヌ人の住むことを禁じ、 蝦夷地には和人の定着することを許さなかった。
それは混住することによって生ずる摩擦を極力避けようとする藩の政策であった。 しかし、
当初は辺鄙へんぴな村落内にアイヌ人も混住していた。 その後夷境に接する東の亀田、
西の相沼内に番所を設け、 出入の者を検査し、 和人地内のアイヌ人は次第に減少した。
このような和人地内では、 松前を中心として東を下在しもざいまたは下の国、 西を上在かみざいまたは上ノ国と称しているが、
これは中世の蝦夷地の領主である津軽安藤 (東) 氏の居城福島城を中心とし、 東は下の国、
西は上の国と称したことの遺風である。
『常磐井家福島沿革史』 で折加内おりかない村が福島村と改村したのは寛永元年(一六二四)であるといわれるが、
その記事として金掘等金山祭ノ爲メ千軒岳ノ麓ナル隅 (住) 川へ祠ヲ建テ千軒山三社大明神ト尊敬シ奉レリ、
元和三年金山発掘以来村内不漁不作ニノミ打続キ戸数僅カニ四十戸ニ及ベリ、 火災数々起リ今ヤ当村中絶ニ至ラントセリ、
時ニ月崎明神ノ神託アリ、 ヲリカナイ村ヲ改メテ福島村トセヨトノ仰ナリ、 仍リテ松前志摩守公広ヘ右之趣キ申上改村ノ件願出タル処、
御聴済トナリ夫ヨリ多漁豊作繁栄ノ村トナリタリ、 其御礼トシテ御城内ノ正月ノ御門松ヲ年々献上スルヲ例トセリ…
(以下略)
とあって寛永元年改村して福島村となったといい、 吉岡村についても 『凾館支廳管内町村誌 其二 吉岡村』
で、 「本村元ハ穏内オムナイト称セリ、 蝦夷語ニテ意ハ 「尻の塞ふさがる川」 ナリ土地濘葮叢生ねいとうよしそうせいセシ所ナリシヲ以テ里人葮岡ヨシオカト称シタリ、
寛永ノ頃ヨリ吉岡ト吉ノ字ヲ用ヒタリト伝フ」 とあって、 福島村と期を同じくして改村している。
このようなことから見ると、 近世の松前藩体制のなかでこの寛永期 (一六二四~四三)
に、 小集落から村としての格付けがされて行ったのではないかと考えられる。
この時代の村 (村落) の状況が把握できる史料としては、 寛文九年 (一六六九) の日高の大族長シャグシャイン蜂起の際、
出兵した津軽藩兵によって記録された 『津軽一統志巻十』 のなかに東在の村々は次のように記されている。
一 泊 川 ( 松 前 町 ) 小 舟 有 家 三 軒
一 お よ べ ( 松 前 町 )
川有鮭多く出候
松前左衞門持分
城下より十了餘 家 十 軒
兵庫様休所あり
一 大 澤 ( 松 前 町 ) 家 二 十 軒
( 荒 谷 )
一 新 屋 ( 松 前 町 ) 家 二 軒
一 炭 焼 澤 ( 松 前 町 ) 家 二 軒
一 しらかみ崎
一 大 内 峠
一 禮 髭 ( 福 島 町 ) 小船 澗有 家 二 十 軒
一 お ん 内 ( 福 島 町 ) 小船 澗有 家 五 十 軒 程
一 宮 の う た ( 福 島 町 ) 小川有 澗あり 家 二 十 軒
一 し ら ふ ( 福 島 町 ) 小舟有 澗あり 家 二 十 軒
一 福 嶋 ( 福 島 町 ) 川有 松前より
是迄四里 家 百 二 十 軒 程
一 矢 越 の 崎
一 茶 屋 峠
一 わ き も と ( 知 内 町 ) 小舟 澗有
一 し り う ち ( 知 内 町 )
川あり
是迄三里
〔是より狄あり〕 家 三 十 軒
一 ち こ な い ( 木 古 内 町 ) 是迄三里 川有
狄おとなオヤツフリ 家 四 、 五 軒
一 さ す か り ( 木 古 内 町 )
川有 是迄三里
是より狄あり
〔おとなニシケ〕 家 四 、 五 軒
一 か ま や ( 木 古 内 町 ) 家 三 軒
一 三 ツ 石 ( 上 磯 町 ) 〔家 三 軒〕
一 と ら へ つ ( 上 磯 町 ) 小舟有 能澗有
一 と ら へ つ 崎
一 も へ つ ( 上 磯 町 ) 川有
狄おとなアイニシ 家 十 軒
一 す つ ほ つ け ( 上 磯 町 ) 是迄一里 小川有
天神の社有
一 一 本 木 ( 上 磯 町 ) 川有 狄おとなヤクイン
一 へ き れ ち ( 上 磯 町 )
是迄三里
狄おとな本あみ
是より山中とち崎へ
出る道あり 家 二 十 軒
( 川 )
一 あ る う ( 上 磯 町 ) 川有
一 亀 田 ( 函 館 市 ) 川有 澗有 古城有
一重堀あり 家 二 百 軒
一 箱 館 ( 函 館 市 ) 澗有 古城有 か ら 家 あ り
と伝えている。 これで見ると松前から亀田に到るまでの間では、 福島村が第一の大村で、
吉岡村がそれに次ぐ大村であり、 普通の村は二十戸程度の家並みである。 荒谷村(松前町字荒谷)、
炭焼沢村(松前町字白神)などは僅かに家二軒程度であった。 この寛文九年(一六六九)のころは道南地方の各村の創業期であって、
各村には津軽・南部地方からの移住者が団体で入植し、 村を構成して屋敷神を祀り、 仏堂的な観音堂を創立して行ったと考えられ、
寛文六年 (一六六六) から七年にかけ蝦夷地に渡航、 作仏行脚あんぎゃした天台僧円空の作仏をもって御神体あるいは本尊として開創された寺社草堂は、
『福山秘府 諸社年譜并境内堂社部』 によれば、 東在、 西在合せ二十五社堂に及んでいることからも分かる。
これら村の草分の人達の入植定着の過程を見ると、 宮歌村の 『宮歌村旧記』 では、
覚
一 寛 永 三 寅 年 ( 一 六 二 六 ) 四 月 津 軽 領
鯵 ケ 沢 と 申 處 よ り 漁 船 ニ 而 渡 海 之 人 数
萬 助
三 吉
弥 四 郎
重 治 郎
太 右 衞門
與 市 郎
以 上 六 人
同年四月十八日未申ノ風 (南々西) ニ而吉岡村へ乘付其時同村ニ家数三拾軒餘も有之由、
直様當村江参り沢々之内見巡り候處至而迫せまく、 間内沢手広罷在候故、 新規畑作仕付彼地ニ三、
四年も渡世仕候得共、 至而荒澗ニ而波高く午ノ九月 (寛永七年か) 頃當村江引越、 間内沢へ小家掛いたし折々見廻り致し候、
右川鮭相応ニ相見得六、 七年余も我勝手に取揚候処、 酉ノ年 (寛永十年か) 家数も弐拾軒ニ相立候故、
小家掛いたし引網相建網子九人相立候、 其年百弐拾束も引揚申候
小 頭 役
太 右 衞 門
というように宮歌に村を定めるまでに、 吉岡、 澗内沢と適地を求めて歩き、 最終的に宮歌沢を安住の地と定めたという。
この記録では澗内川では一二〇束の鮭を水揚げしたといい、 一束は二〇本であるので、
二、 四〇〇尾もの鮭が水揚げされていた。 このように、 福島村、 吉岡村をはじめ、 各村が村落を形成して行くまでには多くの試行錯誤を重ねての結果
が、 村として構成されて行った。
第二節 各 村 の 創 始
一 福 島 村
近世初頭の福島村は、 東は矢越岬を越え、 知内村涌元 (脇本) 近くの蛇ノ鼻から、
西は慕舞しとまい西方駒越下の腰掛岩までの海岸線と、 北は一ノ渡 (字千軒) を越え、
知内温泉近くの湯の尻、 栗の木たえ坂までの広範な地域であった。
福島村は、 中世の時代オリカナイと呼称されていたといわれるが、 これはアイヌ語のホロカナイの訛なまったものと思われ、
「逆流する川」 の意味である。 『北海道蝦夷語地名解』 (永田方正著) ではその補註として
「潮入リテ河水却流スル故ニ名ツク。 或ハ云フ、 此川ハ四十八瀬アリテ順逆シテ流ル故ニ此名アリト。
和人其名ヲ忌ミ嫌ヒテ福島村 (川) ト改ム。」 とあって、 現在の福島川 (桧倉川を合した)
は、 字三岳付近から字月崎付近までは川が逆流して入り込んでいて萢やちであった処が多かったと考えられている。
この村が現在の福島町の前身である福島村となったのは、 『常磐井家福島沿革史』
によれば、 寛永元年 (一六二四) のことである。 同記録によれば、 元和三年 (一六一七)
以降、 千軒 (淺間) 山麓に多くの金掘が入り、 村は繁昌したが、 その後、 不漁・不作が相続き、
さらに火災のため村が廃絶になろうとしたとき、 ヲリカナイ村を福島村と改めるようにとの月崎明神の神託があり、
右の趣を藩主松前公きん廣 (松前家第七世) に申し上げたところお聞届になり、 福島村と改村したといわれている。
福島の語源が単に吉祥を意味する文字なのか、 それとも本州各地の地名を参考としたものか、
あるいはこれらの地方の出身者が故郷の地名をこの地に持ち込んだか定さだかではない。
東北地方の北部に福島という地名があるのは、 青森県東津軽郡平内町字福島、 南津軽郡常盤村字福島等があるが、
福島町の場合はこれらの地方とは直接かかわりがなく松前城下内の中心地域である福山に対し、
白神岬を経て距へだたっているという意味での福島ではないかと考えられる。
福島村の沿革についての明確な古記録はなく、 僅わずかに幕末時代になってからの記録である
『常磐井家記録』 や 『戸門治兵衞信春旧事記』 等が残されている程度である。 これらの史料の史的価値については疑問も多い、
しかし福島村の故事来歴がこれらの史料よりないとすれば、 これらの史料によらなければ村の沿革は成り立たないので、
以下主にこれらの史料によることにする。
福島村沿革の初出は、 中世の明応元年 (一四九二) である。 この年 「野火烈シク月崎神社焼失、
春日ノ作タル御神像光ヲ放チ飛失タリ。 仝年祠ヲ再建セリ。 仝五月十六日川濯かわそ神社ヲ建立ス。」
とあり、 この年野火のため、 さきに建立されてあった月崎つきのさき神社が焼失し、
当時の名工と謳うたわれた春日作といわれる御神像が光を放ってどこかへ飛んで行ってしまったという。
月崎神社の祭神は月夜見命つきよみのみことという天照大神の弟で、 夜の闇を祓い生産を司る神であるので、
この祭神とのかかわりから地名が月崎つきのさきになったものと思われる。 『凾館支廳管内町村誌 其二』
では 「往古月ノ如ク輝キテ今ノ月崎神社ノ御神体現ハレ給ヘリ此レヲ以テ名トナレリ。
神社名ハ 「の」 文字ヲ省ケリ今月ノ崎ニ小祠アリ、 其ノ旗古ク月見崎ト書ケリ、 月岬つきみさきカ月見崎カ詳カナラズ、
月ノ如ク輝ケルニヨレルナラン。 或曰いわク月甚佳はなはだよシ月見崎つきみさきナリト。
今ハ 「月の崎」 ト唱フ。」 と地名の沿革を述べており、 往古より月崎の地名が存在していたことを語っている。
さらに同年五月十六日にはこの月崎神社の摂社せっしゃ(隣に祀まつる神様)に川濯かわすそ(古くは川濯かわそ)神社が建立されている。
この神社の祭神は生産の神様三人で、 そのうち二人までが女性の神様であることから、
始創当初から女性の守護神として崇あがめられていたが、 このような神社がこの地域に造られたこと自体が福島の地に多くの和人居住者が定着していたことを示すものとして注目される。
翌明応二年 (一四九三) には 「大ま淵ふちノ長泉寺ヲおりかない村ニ移シ開山ハ然蓮天譽正和尚ナリ」
とある。 つまり知内川中流の大ま淵ふちの近くにあり、 知内町の砂金にまつわる伝説の人荒木大學の菩提寺であった長泉寺
(知内町湯の里に所在したと思われる= 『大野土佐日記』 によれば真藤寺) が、 この年、
知内村の大淵から折加内をりかない村に移り、 長泉寺を称していたという。 この寺は開基の称号からして浄土宗の寺で、
これが現在の浄土宗法界寺につながっており、 福島村移転以来実に五〇〇年の歳月を経ている。
天文二十一年 (一五五二) 上ノ国城主 (城代) 南條越中守廣継の室 (松前氏第四世蠣崎季廣長女)
が逆意を企くわだて、 蠣崎季廣の近習丸山某と謀はかって宮内少輔舜みつ廣の次男万五郎元廣を鴆毒ちんどく
(鳥の持つ毒で酒で飲むと死ぬ) を以て殺した。 越中の室は生害 (自殺) し、 丸山某は斬罪となったが、
室の遺骸はどのような縁故か長泉寺に葬り、 戒名を高嶽院殿玉簾貞深大姉と号したという。
それによって折加内川 (福島川) を長泉寺領に定めたが、 その後三十三回忌が終わるまで鮭・鱒が川に入らなかったという。
永禄二年 (一五五九) に戸門治兵衞信春が月崎神社の境内に八雲神社を建立されていて、
これが福島村草分けの人であるといわれ、 『戸門治兵衞信春旧事記』 もその末裔の人達が記述したものであるといわれている。
さらに天正元年 (一五七三) には常磐井家の祖、 常盤○井治部大輔藤原武衡たけひら等が折加内村に定着したという。
同家所蔵 『常磐井家福島沿革史』 では、 同年武衡は浪士今井佐兵衞兼光、 永井大學らと渡海移住したという。
永井大學はのち、 蠣崎季廣に召されて福山神明社の神職となり、 近江国の一城主だったという常盤井太政入道藤原実氏の後胤こういん
(子孫) という武衡は、 館古山に館を構え、 浅井連政つれまさ、 袴田はかまだ七右衞門を家臣として蝦夷
(今のアイヌ人達の祖先と思われる人達) としばしば戦った。 その館古山の名称は今も残されているという。
その二年後の天正三年五月十三日、 館の沢 (字三岳) の蝦夷の族長クジラケンと武衡の戦いがあり、
武衡は奇計を以てこれを討滅したので、 館の沢にクジラ森という名の処があるという。
また松前氏第四世蠣崎季廣は、 その功を賞し禄をもって召そうとしたが仕えず、 国の為にと地頭職となり、
村政に勤めたという。 しかし、 天正年代と言えば、 松前氏の正史 『新羅之記録』 ではこの年代のことはかなり具体的に書かれて来る時代であるにもかかわらず、
この蝦夷との戦いの記事は全く書かれていない。 またこの時代は、 守護・地頭という官職は幕府が任命すべきもので、
蠣崎氏という地方の一豪族が任命すべきはずがなく、 村長むらおさ、 または名主みょうしゅという呼び方であればある程度は納得できるが、
疑問の残る記事である。
天正十三年 (一五八五) 南條廣継の室の三十三回忌を終えたこの頃から、 折加内川に鮭・鱒が多く入るようになった。
この年に折加内川から一尺五寸 (約四五センチメ-トル) の阿弥陀仏が出現したので、
早速これを長泉寺の本尊とし、 この仏縁として観念山寿量院法界寺と改号した。 従ってこの寺の中興開山は深蓮社廓譽鉄莊和尚、
開基は戸門治兵衞であった。
慶長九年 (一六〇四) 徳川幕藩体制に入り、 蝦夷地の豪族蠣崎氏は、 徳川家康から正式に蝦夷地の領知権、
徴役権、 交易権を認める黒印の制書を下付され、 その姓も蠣崎から松前と改め、 ここに松前藩が成立し、
道南和人地はその直領地として、 村の活動に入ることになった。
元和三年 (一六一七) 福島村の支配地域であった知内川上流一帯で砂金金山が発見され、
多くの金掘が入って村は大いに賑わった。
翌元和四年、 常盤井武治 (武衡長男=同家二代) の子で十七才の相衡つねひらが、
松前藩の家老であった松前長門守利廣に同心して陰謀を企て、 事が顕あらわれると家名を捨てて本州へ渡ったといわれ、
ここで常盤井家は一時的に断絶したようである。 松前利廣とは、 松前氏第五世藩主慶廣の三男で、
兄二人は藩主と幕臣二千石の旗本になっている。 利廣は幼少の頃南部藩主南部家の養子になり、
その後松前藩の家老となって、 この元和四年に本州へ逃げ渡り、 その後は行方不明となっている。
従って、 常盤井相衡も行動を共にしたと考えられるが、 その逃避の原因が何であるかは不明である。
寛永元年 (一六二四) 折加内村から福島村に改村したのは既に述べた。 毎年、 福島村から城中へ、
正月の門松の材料を献上する仕来しきたりとなっていたが、 これは改村のお礼として献上したのが後々慣例として行われていたといわれている。
開村当初、 福島村の氏神は月崎神社であったが、 慶安二年 (一六四九) 常盤井家三代今宮が神職となって神明社を建立した。
その際に藩主にお願いをして、 福山 (松前) 神明社から古小神鏡を奉安し御神体とした。
この神明社は当初館古の沢にあったようであるが、 社地としての吉相を見て現在の鏡山に社殿を建てた。
この地は一面熊笹の繁る荒地であったが、 笹は常に青く、 広く根を張る縁起の良いものとして、
三代今宮が常盤○井姓を笹井姓に改め、 明治まで笹井をもって姓とし、 明治二十年代に至って今の常磐○井姓に改めたものである。
松前藩の創立後、 各村運営の制度も出来、 特に寛永十五年 (一六三八) 島原の乱後、
幕府はキリシタン宗徒の取り締りのため、 村方一同の共同責任として五人組 (又は五人組合)
の設置を命じている。 この五人組は五戸から十戸の村民で相互監視をしてキリシタン宗徒でないことを確かめ合うことにしたもので、
松前藩は寛永十六年のキリシタン宗徒百六人の処刑事件もあり、 以後の取り締りが厳重であったため、
この五人組の設置は早く、 承応年間から万治年間 (一六五二~五八) 頃にはこの制度が藩内に布しかれていて村治の一機関となっていた。
村の運営は村方三役が取り仕切っていた。 この三役は名主・年寄・百姓代で、 名主は村長むらおさ的な存在、
年寄は相談役、 百姓代は村内の連絡や取り次ぎの仕事をし、 これに前記の五人組の組頭で運営された。
福島村の場合は特殊な例として、 一組合が十戸から二十戸で編成されており、 十一~十二の五人組合があったので組合頭も多く、
複数の惣組頭が置かれていた。
名主は名誉職で、 毎年一月村中の大寄合で決定され、 自宅を役場として執務した。
このため来客も多く、 大家の持主でなければ勤まらなかった。 徳川中期以降になると、
福島村に藩の勤番所が出来、 役人が一月交代で福島村に勤務するということもあって村役場が必要となり、
『戸門治兵衞信春旧事記』 によれば、
享和三年 (一八〇三)
嶋村御勤番所家造立地古來村役屋地上町表口拾間四方一尺五寸、 裏行拾六軒(間)ニ御座候。
御代々御巡見様御宿之節上様御普請被仰附相勤罷有候。 尚又名主役之者家不宜勤り兼候節村中忽寄家作仕爲勤罷有候。
とあって、 村内上町 (字福島) に宿泊可能の村会所のあったことが記録されている。
また同年の記録では、 三月牧村忠左衞門と下役奥村久太郎が初めて福島村に駐在し、
月代り新井田源左衞門と下役工藤忠太、 その後蠣崎周七と下役田村半平が勤務し、 十二月からの冬期間は勤番がいなかったとしている。
それから見るとこの勤番は外国船出没のための警戒で、 冬期間はその心配がないので城下に引き上げていたものと思われる。
福島村には二つの塞門があった。 一つは吉田橋のたもと、 一つは白符村村境の慕舞しとまい腰掛岩のところで、
大門と呼んでいた。 これは村内に変事があったり、 万一の場合に備えて設けられていたものと思われる。
天保三年 (一八三二) 津軽海峡に外国船出没のため、 福島神明社台地脇に砲台が築設された。
備砲の口径、 威力は不明であるが、 この年の 『常磐井家 (笹井家) 文書』 では、 九月御台場掛りの星野利兵衞
が笹井家に下宿していたが、 父治部が死亡したので三國屋 (笹井) 別家の安次郎宅に宿を頼んだとあり、
砲台掛の勤番者は笹井家に下宿していたものと思われる。 天保四年の 『常磐井 (笹井)
家日記』 では、 三月十五日から四月迄森作右衞門、 四月から五月迄工藤治兵衞、 五月から六月迄岡儀八、
六月から七月迄星野利兵衞、 七月以降は小杉六右衞門と二か月交代で勤務していたようである。
しかし、 この福島台場は、 吉岡村に台場が構築されるに従い天保五~六年頃には廃止された。
福島村の主要産業は漁業で、 従として林業、 農業があった。 福島村の日方泊ひかたどまり
(字日向) は海底に岩礁が平盤に連帯しているため主漁業であるニシン漁業が振わず、
その中心地域は福島川を中心とする浜町、 月崎、 塩釜方面の砂浜を持つ海岸が主力であった。
春三月 (旧暦) 津軽海峡を東から西へ進むニシンの大群は、 矢越岬を越えるとまっすぐ白神岬手前のソッコの岬
(字松浦) にぶつかり、 ここから逆に礼髭、 吉岡、 宮歌、 白符の海岸を経て、 湾内を群来 く き ながら回遊し、
塩釜沖から体制を立て直して白神岬から日本海へと移動した。 従って本格的ニシン漁は福島町内の沿岸から始まった。
そこで初水揚げされたニシンは、 縁起が良いとして魚の献上箱に入れられ、 名主付添いで城下に搬はこび、
藩主に献上されるのが通例になっていた。
そのニシン漁業の中心地である浜町から月崎には、 花田傳七をはじめ、 住吉達右衞
門、 永井勘九郎、 笹井庄右衞門、 原田清左衞門、 金屋助四郎、 花田六右衞門、 荒関孫六、
土門 (戸門) 吉郎兵衞等 (文化年間) の主だった漁業者が、 この一帯に浜小屋を建てニシン取をしていた。
また、 幕末頃からは福士儀兵衞、 中塚金十郎、 住吉辰五郎等が台頭してくる。
ニシン漁業は回遊魚を捕獲する漁業であるので、 回遊がなければその年は凶漁である。
このような場合は、 地元での漁獲を断念し、 奥場所へ出稼をした。 これらの追おいニシンをして奥場所に行くのを二に・八取はちとりといった。
福島の漁民の多くは、 当初はヲタルナイのマサリ場所で出稼をした。 寛政十年 (一七九八)
の 『白鳥氏日記 第一巻』 によれば笹井佐波が、 神主でありながら村内の神事を放擲ほうてきして半年も奥場所に居るのは不届きである、
と叱責しっせきされているのも、 ニシン漁業に従事して神主の生活を補完していたものに外ならない。
従ってこれら奥場所の情報を過敏な程察知していた。
慶応元年の 『常磐井 (笹井) 家日記』 では 「慶應元年春ルヽモツペ、 トママイ不漁。
大漁之処ハフルビラ、 ヨイチ大漁致、 しま村百姓ハかなり口敷くやしく致候。 閏五月中頃皆々海上安全ニして帰着致申候。
庄右衞門 (笹井) 金十郎 (中塚) 茂市不漁致。」 と述べており、 当初古平、 余市、 小樽で出稼をしていた二・八取が、
留萌、 苫前方面へ進出していたことが分かる。
安永年間以降、 釜谷 (字塩釜) では製塩が盛んに行われていた。 『常磐井家福島沿革史』
によると、 安永元年 (一七七二) 釜谷 (塩釜) 神社が建立された。 「此以前今ノ大澗ヘ製塩所ヲ造ル、
塩増栄ますさかえノ爲メ該社ヲ建立セラレタリ」 とあり、 福島村の塩の需要が多かったので、
塩を現地生産したものである。 その需要が多かったのは、 鰯いわし漁のためであったと考えられる。
享和二年 (一八〇二) の 『戸門治兵衞信春旧事記』 に 「一、 當村支配之内赤川と申処江鰯引小網壱投とう相立試申度、
御金小判壱兩上納仕度候段 …… 願人与惣兵衞」 とあり、 不安定なニシン漁を補うためイワシ漁業が行われており、
そのため塩の需要が多く、 製塩も盛んに行われていたと考えられる。 この願人与惣兵衞
(福士か) のほか、 原田屋治五右衞門等もこの漁業に従事していた。
この釜谷 (塩釜) から東部の海岸は居住者がなく、 矢越岬を越えた東側に福島村の枝村小田西
(小谷石) 村があった。 その間は、 板橋沢、 日出山沢尻、 しらつかり (白鹿松)、 疊たたみ、
したん、 船隠し、 九沢つづらさわ、 鶚沢みさござわ、 ますた泊、 山背泊やませどまり
(東風泊) 等に若干の小沢があり、 ここで福島村の人達が夏稼ぎをして、 昆布、 鮑あわび、
ナマコ等の採捕をしていた。 シラツカリ稲荷小社の願主も瀧屋小平、 石川忠右衞門、
花田太次兵衞、 山本屋初蔵、 金田 ( 屋 ) 貞三郎等で、 その外出稼浜中の人達がこの地域を利用して磯廻り漁業をしていた。
また、 岩部岳を中心としてこの海岸までの地域は、 ナラ、 ブナ等の森林資源が多く、
冬期間の燃料として伐きり出される薪は、 船積みされて福島に搬ばれた。 また、 つづら沢、
船隠しの澗等には炭焼小屋もあって、 炭を焼き、 これも船で福島に送られた。
矢越岬東方には枝村の小谷石村があったが、 この小谷石村の開村も古く、 『戸門治兵衞
信春旧事記』 によれば、 寛文十年 (一六七〇) に観世音菩薩像を安置して、 小谷石神社が奉献されたといわれる。
飛騨国湯ノ嶋郷の飛騨屋久兵衞家 (岐阜県益田郡下呂町) に残る 『蝦夷雜記』 によれば、
蝦夷地にいない牛がこの海の中に突き出た小谷石に飼われていた、 と記録していて、
この牛は津軽海峡を泳いで渡ったのではないか、 とても珍しい事だと記している。 小谷石村には十戸程度の家があったようであるが、
福島村の枝村であるのに知内村も枝村という理解で、 いつも村境問題で紛争が絶えなかった。
寛政二年 (一七九〇) にも、 知内村との村境の蛇ノ鼻 (涌元村西の岩崎) と小谷石村のいのこ泊近くの赤石という処に
「寄り鯨くじら」 (鯨が流れ着く) があり、 その領有権をめぐって藩の見分立会を求め、
在方掛武川七右衞門が出張、 小谷石村有を認められるということもあった。
福島村から知内村に至る松前街道は、 三本木、 山崎 (字三岳) を経て四十八瀬を渡り、
茶屋峠を登り、 ここから一ノ渡を渉わたり、 綱配野、 鍋こわし坂、 湯の野を経て、 栗の木椹たえ坂
(椹=さわらの木) から知内村に入った。 この沿線の村々は福島村の郷村で、 その中心が一ノ渡であった。
この一ノ渡は千軒金山の基地で、 古くから開かれていた。 常磐井家の 『寺社沿革』
では、 元和三年 (一六一七) 頃から千軒金山が開削かいさくされ、 多くの金掘が働いていて、
金山の山神として大山祗命おおやまつみのみこと、 金山彦命かなやまひこのみこと、
岡象女命おがためのみことの三神を祀る千軒山三社大明神社が建立されていた。 しかし、
金山の廃絶によってこの社も衰微していたものを、 享和二年 (一八〇二) 杣そま子この松右衞
門、 金十郎、 六助、 長作の四人で再興している。 文化四年 (一八〇七) 一月一日、 福島神明社が火災で焼失した際、
名物の獅子頭が焼けたことから、 この四人が知内川支流のサカサ川から栃とちの大木を伐り出し、
長さ一尺五寸、 幅一尺二寸、 厚さ八寸の板と、 長さ一尺五寸、 幅一尺二寸、 厚さ四寸の二枚の板を作り奉納し、
これでまた神明社の獅子頭を作ったといわれる。 このことからも、 この年代に一ノ渡の村にこのような人達が住んでいたことが分かる。
一ノ渡付近で中心となったのは佐藤甚左衞門家であった。 この家は代々一ノ渡の知内川渡し守をしていて、
一ノ渡の川を渡るのに困難な人達の橋渡しをしていた。 また、 福島村から知内村への中間点であったので、
近世初頭よりこの街道の便のため、 藩が、 この渡りの上を登った綱配野の西端に立派な旅宿を建て、
その管理を佐藤家に一任していた。
幕末に至って一ノ渡の渡しは、 粗朶 そ だ (木の枝) で橋を架して利便を図り、
慶応二年 (一八六六) には、 この一ノ渡の御本陣 (藩主も宿泊することがあるのでこう呼んでいた)
の建物が老朽化したことから、 この年普請され新屋宅が完成している。
福島村本村から吉田橋を渡り街道沿いに北上すると、 三本木、 山崎を経て四十八瀬の福島峠
(茶屋峠) に差しかかる。 この沿線地域が福島村のうちの農業地帯であった。 この地帯に近世中期以降に定着した人達は、
主に津軽・南部からの移住者達で、 主に杣そま夫ふや炭焼をして収入を得、 農業は自家野菜や食糧補食のための作物を蒔付けし、
余裕があれば村中へ売りに出す程度であった。
この地域で造田されたのは松前氏第十二世藩主資廣の時代の元文四年 (一七三九)
といわれる。 しかし、 この開田は稲の未熟や収穫量もあって三年後に廃絶したといわれ、
その後数度の試行を経て安永九年 (一七八〇) に、 津軽から移入した農民がさらに試行した結果
、 二十俵余りの新米を得た。 (『松前志 巻之六』 松前廣長筆) しかし、 本格的造田がされることはなく、
僅かにこの地域に住む杣夫、 炭焼きの人達の補食野菜の蒔付程度であった。 『村鑑下組帳』
(松前町所蔵) においても、 福島村の農作物は大豆、 小豆、 蕎麦そば、 その他山菜として生蕨なまわらび、
干蕨、 椎茸等のみであった。
館ノ山 (字三岳) に伊邪那 い ざ な 美命みのみことを祀る熊野神社が渋谷寅之丞と杣子らによって建立されたのは天保七年
(一八三六) であるから、 この土手の渋谷家が館の沢に定着したのは、 これより若干前の年代と考えられる。
このような広範な地域の村治に当る村役は、 古くは戸門治兵衞、 近世中期には住吉達右衞
門、 末期には花田傳七、 原田治五右衞門等が永年にわたって村名主を勤めているが、
その村役の変遷は次の通りである。
宝暦年間より安永年間 (一七五一~八〇) 百 姓 代 永 井 勘右衞
門
名 主 永 井 角兵衞
文政十一年 (一八二八)
文化三年 (一八〇六) 名 主 (花 田) 六右衞
門
名 主 住 吉 達(辰)右衞門 年 寄 (戸 門) 吉郎兵衞
年 寄 永 井 勘九郎 (原 田) 清左衞
門
笹 井 庄右衞門 (荒 関) 孫 六
花 田 傳 七 百 姓 代 (金 屋) 助四郎
組 頭 永 井 勘右衞門 組 合 頭 治三兵衞
、 治右衞門、 伊兵衞、 塩越屋 甚兵衞 八郎兵衞
、 金右衞門、 治兵衞、 弥惣兵衞
、 松右衞門、 傳 七、 文政元年 (一八一八) 與惣兵衞
、 吉四郎
名 主 笹 井 庄右衞門
年 寄 永 井 勘九郎 天保七年 (一八三六)
戸 門 吉郎兵衞 名 主 住 吉 達右衞
門
最上屋 多兵衞 年 寄 原 田 清左衞
門
金 屋 助四郎 慶応三年 (一八六七)
荒 関 孫 六 名 主 原田屋 治五右衞
門
百 姓 代 花 田 六右衞門 年 寄 荒関屋 孫次郎
金 屋 助三郎 花 田 與三郎
百 姓 代 花田屋 清之丞
安政五年 (一八五八) 秋田屋 茂 七
名 主 (住 吉) 達右衞門
年 寄 (原 田) 治五右衞門 慶応四年 (一八六八)
保次郎 名 主 四 月 金 沢 彦次郎
亀次郎 十 月 花 田 傳 七
百 姓 代 (金 沢) 彦次郎
慶応元年 (一八六五)
名 主、 (金谷) 元兵衞死亡により
原田屋治五右衞門 仮 役
二 白 符 村
白符とは、 アイヌ語のチロプに発し、 鳥の多い処の意味である。 古来から鷹たかの多い場所であったと思われ、
塒とやの沢など鷹のねぐら (巣) のあったところで、 『村鑑下組帳』 でも 「塒場、 壱ケ所、
塒之沢、 近來鷹待無之、 古來、 此塒ニ而て白符之鷹待候ニ付、 村名ヲ白符と申候由申傳」
とあって、 白符村と鷹との結び付きの強いことを強調している。
白符村の沿革は、 遠く文安四年 (一四四七) に発しているといわれる。 『北海道漁業志稿』
(北海道水産協会編) によれば 「又舊記に據るに、 文安四年陸奥の馬之助と稱する者、
今の白符村に來り鯡にしん漁に從事し、」 とあり、 これを根拠に今から五五〇年近く前、
白符村でニシン漁業が行われ、 これが北海道ニシン漁業のはじまりといわれている。
しかし、 これには異論も多い。 まずこの史料については、 出典を明らかにせず極めて曖昧あいまいであること。
また、 この時代の蝦夷地の漁業環境を考えるとその論拠には無理があり、 また、 これを否定する史料が残されている。
北海道大学附属図書館に 『白符・宮歌両村舊記』 という記録が残されていて、 それには詳しく白符村の沿革が次のように記されている。
當村之由緒御尋ニ付申上候御事
一當村之根元ハ津軽ねつこ村 (現在の青森県南津軽郡田舎館村) 馬之助与と申者上山中べそり与申所へむかし相渡リ居候処、
御殿様御尋御座候而御城下あら町ニ屋舗被下置しバらくはいかい仕候。 然共妻子養可申様も無御座在郷願上候得ハ何方なりとも勝手次第ニハ候得共、
歌ハ手近ク候間うた内ニ居候様被仰付、 依之唯今之処鮑多ク、 夏ハ鱒秋ハ鮭沢山ニ御座候故、
ねまつり江罷越居申候。 其砌ハしとまい迄家一軒も無御座候処、 其後段々身過能商事自由仕候故、
人共追々参候而家数ニ罷成候ニ付、 頭分之者願上候得ハ 御殿様則馬之助ニ肝入 ()被仰付候、
其時節ハ歌ニ夷弐間御 (軒か) 座候。
一鮭引網之儀者歌の御百姓打寄打込ミ引申候、 村吟味ハ肝役之者相勤申候。 まないノ川ハ馬之助ニ被下置支配仕候、
両川共ニ魚御座候よし申傳候。
一… 一項略 …
一白符村ハ元來惣名ねまつり与申候処、 しらふの御鷹出候より白符村と 御殿様御改被遊候、
則御塒茂御座候。
一… 一項略 …
以上
元文四己未年八月
白符村小使
伊四郎 判
惣年寄
惣百姓
肝 入
源左衞門 判
この史料は白符村と宮歌村の村境争いの際の白符村申立書であるが、 これには村の開創者は津軽ねつこ村出身の馬之助であるとしているが、
馬之助がどのような知遇を得たのか、 松前藩主の許可を受けて根祭岬 (字白符) に定住したかは不明であるが、
馬之助の定住は、 この史料から推考すれば近世 (十七世紀以降) であって、 室町時代の文安四年に白符に定着したとする、
前述の 『北海道漁業志稿』 の記述は誤で あやまり あるといわざるを得ない。 また
『村鑑下組帳』 においても白符村の古百姓に馬之助の名前が出て来ないので、 この馬之助は伝説上の人であるかもしれない。
白符村の場合も、 礼髭村と同じく藩の重臣の知行所となっていたが、 その知行主は河野系松前氏の祖、
松前景廣である。 河野系とは、 長禄元年 (一四五七) に発生したコシャマインの兵乱の際戦死を遂とげた箱館館主河野加賀守政通
の家系を保存伝承するため、 松前氏第五世藩主慶廣が、 六男の景廣に松前氏を冠称しながらその家系を守らせ、
従って河野系松前氏と称したもので、 その家系は 『松前家家臣履歴書』 (函館市中島常行氏所蔵)
によれば次の通りである。
は不明であるが、 馬之助の定住は、 この史料から推考すれば近世 (十七世紀以降) であって、
室町時代の文安四年に白符に定着したとする、 前述の 『北海道漁業志稿』 の記述は誤で あやまり あるといわざるを得ない。
また 『村鑑下組帳』 においても白符村の古百姓に馬之助の名前が出て来ないので、
この馬之助は伝説上の人であるかもしれない。
白符村の場合も、 礼髭村と同じく藩の重臣の知行所となっていたが、 その知行主は河野系松前氏の祖、
松前景廣である。 河野系とは、 長禄元年 (一四五七) に発生したコシャマインの兵乱の際戦死を遂とげた箱館館主河野加賀守政通
の家系を保存伝承するため、 松前氏第五世藩主慶廣が、 六男の景廣に松前氏を冠称しながらその家系を守らせ、
従って河野系松前氏と称したもので、 その家系は 『松前家家臣履歴書』 (函館市中島良信氏所蔵)
によれば次の通りである。
松前志摩守慶廣五男
初 代 称伊豫 二 代 三 代
∴ 松 前 景 廣 宣のぶ 廣 廣 維ふさ
寛永十一年家臣となる 松前公廣代奉仕 松前氏廣代奉仕
明暦四年一月十八日没 慶安二年二月二日没 元祿元年五月二十一日没(?)
留萌、天塩、白符、木古内、北村を采邑す
四 代 五 代 六 代
廣 保 元 廣 廣 候とき
松前高廣代奉仕 松前邦廣代奉仕 (?)
松前矩廣代奉仕
享保十六年十一月二十六日没 執政職を勤む 執政職を勤む
延宝二年五月三日没 宝暦二年三月十一日没
七 代 八 代 九 代
廣 通みち 廣 寛ふみ 廣 典のり
松前資廣代奉仕 松前道廣代奉仕 松前道廣代奉仕
執政職を勤む 執政職を勤む 執政職を勤む
宝暦三年九月六日没 安永三年八月十六日没 寛政九年五月二十一日没
十 代 十一代 十二代 松前志摩守章廣次男
称内記
廣 昭あき 廣 房 廣 經つね
松前章廣代奉仕 松前章廣代奉仕 松前昌廣代奉仕
文化六年四月二十二日没 文政十二年一月十八日没 執政職を勤む
二十七歳没
十三代 内記長男 初名悦之丞
琢たく 磨ま 森 松 悦太郎
幸 吉
慶応元年執政職 奥尻村居住
箱館戦爭参加
熊石村在住
この松前景廣の兄弟は、 長男が松前氏の第六世藩主となり、 次男忠廣は幕府の二千石の寄合席旗本となり、
三男利廣は南部氏に禄仕の後、 松前に帰り家老となったが、 元和四年 (一六一八) 本州に逐電ちくでんして行方不明となっている。
四男数馬之助由廣は大坂方に内通し祖父慶廣に殺され、 弟の七男松前右兵衞安廣は仙台藩に禄仕し二千石の大身家臣となり、
その子は白石城主片倉小十郎の婿養子となって片倉家一万八千石の城主となっており、
一人六男の景廣のみが松前藩に執政職 (家老) として勤務し、 兄の第六世藩主盛廣、
第七世藩主公きん廣を扶たすけて藩政に精励した。
景廣は慶長五年 (一六〇〇) の生まれで、 三歳のとき河野家の継嗣となり加賀右衞
門と号し、 のち美作みまさか、 伊豫 い よ とも号した。 藩執政として活躍し、 寛永二十年
(一六四三) 病のため四十三歳で執政を辞した後、 髪を剃って隠居し快安と号した。 正保二年
(一六四五) 松前氏の家系及び蝦夷地における祖先の履歴を詳細に記述して 『新羅之記録』
(上・下二巻) にまとめ、 これを三井寺園城寺内の源氏の氏神新羅神社に持参し、 加持祈祷を経て一組を同社に奉納、
一組は松前氏が新羅源氏の出族若狭武田氏出身である印可を得て持ち帰った。 その後、
永く同家の家宝として他見不出を守り、 同家の末裔奥尻町松前幸吉家に保存されている。
初祖景廣は万治元年 (一六五八) 五十九歳で没し、 子孫は代々松前藩の寄合席執政職として藩政に大きく貢献してきた。
このような家格と藩政への貢献によって、 景廣には留萌、 天塩の両知行場所のほか、
特に白符、 木古内、 北村 (上ノ国町) の三村を和人地の采領地として下賜されたものである。
藩に納める本税は別として、 知行主に納める小物成 (付加税) には薪まき、 椎茸、 牛蒡ごぼう、
雪囲簾みす、 小松菜、 干蕨ほしわらび、 ぜんまい、 馬草の村内特産品をはじめ昆布、
鯡鮓にしんすし、 身欠鯡等があり、 このほか松前氏の祖先が蝦夷地に来たとき、 住居にも困って笹小屋に莚むしろを敷いて生活した古事に由来し、
菅苫すがとま、 笹、 白箸はし、 おしめ昆布 (昆布を搗ついて粉にしたもの) 等の献上もあり、
さらに男仲間二人、 女中一人を邸に奉公させるか、 その代金を納めることになっていた。
白符神明社の沿革では、 同社は知行主松前景廣の発願によって、 木古内村男女 さ め 川神社と同じく寛文六年
(一六六六) に創建されたといわれている。 しかし、 景廣は万治元年 (一六五八) に死亡しており、
寛文六年の創立が正しいとすれば、 河野系松前氏の二祖宣廣の勧請によるものと考えられる。
元文四年 (一七三九)
肝 加 藤 彌左右衞門
村 老 佐々木 喜三右衞門
小 使 藤 枝 伊四郎
元文五年 (一七四〇)
名 主 加 籐 彌左右衞門
村 老 佐々木 喜惣右衞門
阿 部 五郎助
藤 枝 平 助
小 使 藤 枝 喜三郎
宝暦八年 (一七五八)
名 主 徳右衞門
年 寄 七兵衞
左平次
小 使 松兵衞
安永七年 (一七七八)
名 主 阿 部 久四郎
年 寄 冨 山 七右衞門
小 使 久次郎
天明二年 (一七八二)
名 主 安 辺 善左衞門
年 寄 冨 山 七右衞門
与右衞門
小 使 傅太郎
寛政十年 (一七九八)
名 主 阿 部 久四良
年 寄 佐之助
喜太郎
長四良
組 頭 戸左衞門、 吉右衞門、 利四良、
平五良、 久 六、 八兵衞、
吉太良、 徳兵衞、 浅之助
文化十三年 (一八一六)
名 主 吉左衞門
年 寄 五兵衞門
権右衞門
傅 八
文政元年 (一八一八)
名 主 喜左右衞門 (藤 枝)
年 寄 権右衞門 (阿 部)
傅 八 (佐々木)
惣 代 与治右衞門
文政二年 (一八一九)
名 主 越後屋 徳右衞門
仮 名 主 利四郎
年 寄 喜衞門
傅 八
百 姓 代 藤太郎
組 頭 久 六、 久 助、 久左衞門、
石之助、 専次郎、 八郎治、
長 松
文政五年 (一八二二)
名 主 勘右衞門
年 寄 善左衞門
喜右衞門
百 姓 代 平三郎
文政十年 (一八二七)
名 主 阿 部 善左衞門
年 寄 平三郎
喜右衞門
百 姓 代 左右衞門
文政十一年 (一八二八)
名 主 徳右衞門
年 寄 喜右衞門
傅 八
百 姓 代 藤太郎
文政十二年 (一八二九)
名 主 越後屋 徳右衞門
仮 名 主 加 藤 利四郎
年 寄 喜右衞門
傅 八
百 姓 代 藤太郎
組 頭 久 六、 久 助、 久右衞門、
石之助、 傅次郎、
八郎太、 長 松
天保九年 (一八三八)
名 主 阿 部 善左衞門
年 寄 越後屋 喜右衞門
阿 部 権右衞門
百 姓 代 笹 森 勘 七
組 頭 与右衞門、 八郎治、 左平治、
富治郎、 石之助、 与次右衞門
久 助
天保十四年 (一八四三)
名 主 権右衞門
年 寄 藤左衞門
勘 七
百 姓 代 与次右衞門
頭 取 清 松、 吉 松
弘化三年 (一八四六)
名 主 勘 七
年 寄 幸治郎
治右衞門
百 姓 代 佐平治
嘉永五年 (一八五二)
名 主 阿 部 権右衞門
年 寄 笹 森 勘 七
百 姓 代 藤 山 藤次郎
喜 多 与次右衞門
嘉永七年 (一八五四)
名 主 与治右衞門
年 寄 与右衞門
勘右衞門
佐平治
百 姓 代 佐治兵衞
万延元年 (一八六〇)
名 主 阿 部 権右衞門
年 寄 加 藤 佐平治
佐々木 与右衞門
百 姓 代 藤 枝 佐治兵衞
組 頭 八郎治、 長次郎、 佐代吉、
平三郎、 久 六、 長四郎、
次左衞門、 松兵衞
文久二年 (一八六二)
名 主 阿 部 善左衞門
年 寄 佐平治
百 姓 代 勘 七
慶応元年 (一八六五)
名 主 阿 部 伝左衞門
年 寄 勘 七
年寄仮役 利四郎
三 吉
弥 四 郎
重 治 郎
太
右 衞門
與 市 郎
以上 六人
同年四月十八日未申ノ風ニ而吉岡村へ乘付、 其時同村之家数三拾軒余も有之由、 直様當村江参り沢々之内見巡り候處至而迫せまく間内沢手廣罷在候故、
新規畑作仕付彼地ニ三、 四年も渡世仕候得共至而荒澗ニ而波高く午ノ九月 (寛永七年か)
頃當村江引越、 間内沢へ小家掛いたし折々見廻り致し候。 右川鮭相應ニ相見得六、 七年余も我勝手に取揚候處、
酉之年 (寛永十年か) 家数も弐拾軒ニ相成候故、 小家掛いたし引網相建、 網子九人相立候。
其年百弐拾束も引揚申候。
とあって、 寛永三年 (一六二六) 四月、 西津軽鰺ケ沢から六人の漁民が来て澗内の沢に定着したが、
この澗の波が荒く漁事が十分出来ないので、 宮歌村に家を建てた。 二~三年後には戸数も二十軒程になったが、
澗内の川には鮭が多く遡そ上するので、 宮歌村の人達が川に引き網を張って鮭を獲った。
寛永十年 (一六三三) 頃で百二十束 (二、 四〇〇匹) の鮭を獲ったというから、 当時澗内の川も結構鮭が多く獲れていたことが分かる。
このようにして出来上がった宮歌村ではあるが、開村当初から松前藩の変則知行体制のなかに位
置付けされる村であった。 前同史料 (『宮歌村舊記』) によれば、 寛永十二年には、
この村は松前八左衞門の知行所に定められ、 その際、 八左衞門用人の加川喜三郎が江戸から下り、
上かみ鍋島から下しも根祭岬までを藩主松前氏より受領したという。 またその際は、
宮歌村と大茂内村、 余市上場所が枝村として付与され、 江差九艘川村 (町) はその後枝村となったという。
松前八左衞門は、 松前藩主第七世志摩守公きん廣の三男として、 寛永四年 (一六二七)
福山館に生まれ、 小字こあざを竹松丸、 または甚五郎と称し、 長じて八左衞門泰やす廣と名乗った。
十五歳の寛永十八年十月、 兄氏廣 (第八世藩主) と共に出府し、 そのまま幕府に召され廩米りんまい
(扶持米) 千俵高の旗本となっている。
また、 八左衞門は慶安二年 (一六四九) 七歳で藩主となった九世高廣、 寛文五年 (一六六五)
同じく七歳で藩主となった十世矩のり廣の後見役を幕府から命ぜられ、 明暦元年 (一六五五)
以降江戸から松前に下っている。 さらに宮歌八幡神社には、 翌二年松前八左衞門奉納の連歌が保存されているので、
宮歌村が八左衞門の知行所と采領さいりょうされることになったのは、 前述の寛永十二年
(一六三五) ではなく、 この八幡神社創始のときの明暦元年以降のことと考えられる。
寛文九年 (一六六九) 日高地方の蝦夷蜂起の際、 第十世藩主矩廣は十一歳で、 この平定は難むづかしく、
八左衞門は幕命によって松前に下り、 全軍の指揮を執った。 翌二年この乱を鎮め帰幕したが、
その功により五百石の加増を受けている。 さらに同十二年に日高地方の余党平定のため、
嘉よし廣、 蕪しげ廣、 直なお廣 (當まさ廣) の三人の子と一〇〇余の手勢を引き連れ松前に来援したが、
次男蕪廣は知内温泉湯治中、 同年八月十四日にここで没している。
この八左衞門系松前氏は、 長男八兵衞嘉廣が二千六百石の大身旗本となり、 三男當廣は六百石を分知され、
千五百石とこれも大身旗本となっているが、 その系譜は次の通りである。
初 代 八左衞門 二 代 八兵衞
従五位下伊豆守 三 代 八左衞門、 内匠
∴ 泰 廣 嘉 廣 勝 廣
千百石
二千六百石
目付、 京都町奉行、
御留守居、 寄合席 二千石
御使番 寄合、 目付、 布衣
作右衞門 主馬、 主馬之助
従五位下陸奥守 従五位下安芸守
當まさ 廣 廣 隆
千石 千五百石
布衣、 小納戸 布衣、 目付、 大目付
彦之丞、 主馬 彦之丞 熊之助 專次郎
一 廣 等とし 廣 廣 澄 廣 任とう
御書院番、 布衣、 布衣、 御使番 千五百石
目付、 御槍奉行
四 代 八兵衞五 代 八之丞、 八左衞門 六 代 八太郎
端まさ 廣 譽たか 廣 忠 廣
御徒頭、 布衣、 寄合 千六百石 二千石
元四郎 五郎次郎
廣 長 恭ゆき 廣 ……
六百石 六百石
御書院番 御書院番
(寛政重修諸家譜第三による)
このようなことから、 蝦夷地中の和人地で、 藩の直領地であるべき宮歌村が、 家臣ではない幕府直参の松前氏の知行所となるということは全く前例がなく、
異質の知行体制であった。 漁業役のような本税は直接藩に納入するが、 付加税的な小物成こものなりは知行主に納めることになっていた。
この小物成として知行主へ献上すべきものは、 村方と協議して決められており、 次のようなものである。
宮歌村出産物 干 蕨 五拾弐把 (一把 五十本)
同 浜 御菓子折昆布 弐拾壱把
同 川 寒 塩 引 壱 掛
大茂内村出産物 選より数子 壱 石
同村より 椎 茸 千五百
を上納し、 さらに上納金は、
船 役 金
宮 歌 村 金 八両
江差九艘川村 金 三両壱分
大茂内村 金 弐両壱分
で、 このうちから荷物送料四両三分、 八幡神社への寄進料二両、 江戸行仲間小遣二両の計八両三分を差し引いた金を上納金として納めた。
ここで江戸行仲間という言葉が出て来たが、 これは宮歌から一人、 江差九艘川村と大茂内村から一人の計二人の仲間を、
毎年秋に江戸雉子橋御門前通り小川町角の松前八兵衞家の仲間として送っていた。 この旅費
(宿賃) 一人一両は知行主が負担し、 道中小遣等は村が負担した。 これら江戸行仲間のなかには、
病気になったり、 逐電ちくでん (脱走) するものもあり、 その都度交代要員を補充しなければならず、
そのため村役の仕事は荷重されていた。
また、 宮歌村には枝村支配という他村にはない二重の仕事があった。 この枝村は大茂内村
(現在の乙部町栄浜) と江差町のうちの九艘川村 (町) (現在の江差町中歌町) という二つの村で、
これらは松前八左衞門の知行所として給与されており、 宮歌村が支配を命ぜられていた。
この両村には小頭を置いて本村の宮歌村との連絡をとり、 村の運営に当たっていた。
さらには松前八兵衞が蝦夷地内に貰い受けた知行場所である余市上場所の運営にも協力しなければならなかった。
この枝村運営についても、 近世初期は、 大茂内村には和人の居住者は少なく、 そのため宮歌村の住民から五~六軒を漁業出稼として定着させ、
宮歌八幡神社の別当清順坊に命じて熊野三社を創建し、 その後、 福島法界寺からの住僧派遣など、
先ず村造りから始めなければならなかった。
さらにその西隣村突符とっぷ村との境界や川争いなどの多くの問題があった。 突符村
(現在の乙部町字元和) は境域も狭く、 鮭の入る川もなく、 また、 薪炭材伐きり出しの場所もないため、
大茂内村に無断で入り込み、 木を伐って川流しをしたり、 鮭の漁期には大茂内川に勝手に入り込み、
鮭網をかけて鮭漁をし、 また、 突符村の住民を勝手に入植させて、 大茂内村を突符村の管理下に置こうとするなど、
多くの問題を処理しなければならなかった。 このような問題が起こったとき、 村名主は一々江戸へ飛脚を立てる訳にもいかず、
松前藩の家老松前監物けんもつ家 (村上系松前氏) が代々その代理人として問題を処理し、
重大な事項のみを江戸の松前氏に通報し、 その指示を受けていた。
このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、 その最大のものは白符村との村境争いであった。
これは宮歌村の領内が、 氏子沢・澗内の川を越え根祭岬までで、 白符村とは白符川口で境となっていたため、
白符村の漁民が昆布やニシン、 イワシを獲っても干場がなく、 越境して根祭岬から澗内川までを宮歌村に無断で干場にしていたが、
白符村は我が村有地であるから断る必要はないとして互いに譲らず、 常に紛争が絶えなかった。
元文五年 (一七四〇) の 『福山秘府・年歴部 巻之六』 によれば 「是歳、 自より
二正月
一、 東部宮歌邑むら、 與と
二白しら文ふ邑むら
一論
二其邑界
一。」 と藩の記録に載っているように、 藩町奉行所に持ち込まれている。 これは前年両村で騒動が起き、
白符村は知行主松前内記廣候とき (藩家老-河野系松前氏)、 宮歌村は松前八左衞門の代理人で同じ藩家老松前將監貢を後楯として白州に臨んでいたが、
結局決着はつかず、 後々の時代までこの論争や実力を用いる騒動がしばしば行われていた。
寛永十二年 (一六三五) 頃
小 頭 役 太右衞門
寛永十七年 (一六四〇)
肝 役 彦右衞門
年 寄 役 長十郎 初めて任命
小 使 左兵衞
正保四年 (一六四七)
肝 役 長十郎
年 寄 役 喜右衞門
小 使 左兵衞
明暦元年 (一六五五)
肝 役 喜右衞門
年 寄 役 吉兵衞
小 使 勘兵衞
万治三年 (一六六〇) 五 月 喜右衞門 病 死
肝 役 吉兵衞
年 寄 役 弥四郎
小 使 利兵衞
寛文七年 (一六六七) 十一月
肝 役 弥四郎
年 寄 役 九兵衞
小 使 善兵衞
延宝三年 (一六七五) 九 月
肝 役 太郎兵衞
年 寄 役 善兵衞
小 使 萬右衞門
貞享元年 (一六八四) 十一月
肝 役 彦右衞門
年 寄 役 甚太郎
小 使 吉兵衞
元禄五年 (一六九二)
肝 太次兵衞
年 寄 七右衞門
小 使 定 蔵
元禄十五年 (一七〇二) 六 月
肝 役 利兵衞
年 寄 役 源太郎
小 使 三十郎
正徳二年 (一七一二) 九 月
肝 次右衞門
年 寄 三十郎
小 使 藤兵衞
享保七年 (一七二二) 六 月 肝 次右衞門 死亡
肝 役 萬右衞門
享保十一年 (一七二六)
肝 役 利右衞門 (名主石岡)
小 使 庄兵衞
享保十四年 (一七二九) 十二月
肝 役 利右衞門
年 寄 役 間 平
小 使 彦右衛門
享保二十年 (一六三五)
名 主 石 岡 利右衞門
小 使 石 岡 喜右衞門
元文二年 (一七三七) 八 月 利右衞門 死亡
肝 役 喜右衞門
年 寄 役 太次兵衞
小 使 彦右衞門
五 人 組 利兵衞、長右衞門、萬右衞門、
治郎助
宝暦九年 (一七五九)
名 主 石 岡 利右衞門
年 寄 門 石 長右衞門
長 澤 仁兵衞
小 使 石 岡 嘉右衞門
明和八年 (一七七一) 十二月
名 主 利兵衞
年 寄 長右衞門
権右衞門
小 使 彦右衞門
安永九年 (一七八〇)
名 主 田 口 又三郎
年 寄 成 田 彦右衞門
成 田 藤右衞門
小 使 長 澤 仁兵衞
天明六年 (一七八六)
名 主 田 口 亦(又)三郎
寛政元年 (一七八九)
名 主 利右衞門
小 使 三之丞
寛政八年 (一七九六)
名 主 石 岡 傳右衞門
年 寄 長 澤 友二郎
石 岡 市 松
小 使 大久保 三之丞
文化四年 (一八〇七)
名 主 長右衞門
年 寄 辰 平
吉兵衞
組 頭 平
文政二年 (一八一九)
名 主 市郎兵衞(市兵衞)
年 寄 仁 八
小平治 (次)
百 姓 代 甚太郎
小 使 小太郎
組 頭 仁三郎、 勘 蔵、 金治郎、
喜之助、 萬 吉
文政五年 (一八二二)
名 主 市郎兵衞
年 寄 仁三郎
庄兵衞
百 姓 代 喜之助
小 使 権治郎
組 合 勘 蔵、 新治郎、 丑 松、
喜 平、 長右衞門
文政八年 (一八二五)
名 主 石 岡 傳右衞門
年 寄 久保田 長治郎
村 田 長右衞門
百 姓 代 丑之助
小 使 喜代松
五 人 組 新治郎、 喜兵衞、 松、
伊三郎、 弥之丞、 辰 平
文政十三年 (一八三〇)
名 主 田 口 源太郎
年 寄 久保田 長次(治)郎
能 登 萬 吉
百 姓 代 三 山 丑之助
天保三年 (一八三二)
名 主 田 口 源太(多)郎
年 寄 小 澤 喜兵衞
貝嶋屋 幸 吉
百 姓 代 貝嶋屋 新治(次)郎
組 合 石 岡 多右衞門
菊 地 辰 平
高石屋 福太郎
石 岡 喜右衞門
中 山 宮 松
石 岡 市 松
天保五年 (一八三四)
名 主 田 口 間兵衞
年 寄 小 澤 喜兵衞
百 姓 代 石 岡 善兵衞
小 使 沢 田 甚太郎
組 合 石 岡 市 松
中 山 宮 松
白 橋 仁太郎 (仁三郎)
石 岡 小平次
沢 田 甚太郎
天保六年 (一八三五)
名 主 貝 嶋 幸 吉
年 寄 小 澤 喜兵衞
石 岡 藤兵衞
代 田 口 又三郎
百 姓 代 中 山 宮 松
小 使 沢 田 甚太郎
支 配 方 善兵衞、 弥之丞
五 人 組 石 岡 小平治
村 上 圓 助
石 岡 又右衞門
石 岡 喜右衞門
三 山 善五郎
天保十年 (一八三九)
名 主 小 澤 喜兵衞
年 寄 宮 松
藤兵衞
百 姓 代 又右衞門
小 使 亀治郎
五 人 組 善五郎、 宇兵衞、 藤左衞門、
仁兵衞、 弁之助
天保十五年 (一八四四)
名 主 善兵衞
年 寄 宮 松
又右衞門
百 姓 代 村 田 長右衞門
小 使 与三郎
五人組合 庄兵衞、 仁兵衞、 善五郎、
亀次郎
弘化三年 (一八四六)
名 主 能 登 吉兵衞
年 寄 弥之丈
百 姓 代 又右衞門
嘉永四年 (一八五一)
名 主 弥之丞
年 寄 善兵衞
長右衞門
百 姓 代 甚太郎
安政二年 (一八五五)
名 主 村 多(田) 長右衞門
年 寄 能登屋 治右衞門
村 上 三太郎
百 姓 代 堺 屋 熊治郎
書 役 太 助
安政四年 (一八五七)
名 主 村 田 長右衞門
年 寄 村 上 三太郎
村 田 卯兵衞
百 姓 代 田 口 又 蔵 (原太郎)
書 役 太 助
明治八年 (一八七五)
この年村中主立面々
本 庄 嘉 助、 深 山 藤 松、
石 岡 留 吉、 岩 沢 春 吉、
白 橋 助五郎、 成 田 酉 松、
島 谷 利 助、 棟 谷 音 作
中 山 甚 作、 島 中 由 松、
石 岡 清 八、 能 戸 吉 蔵、
村 上 金 蔵、 山 本 戌 松、
山 内 元 吉、 坂 井 酉 松、
村 田 冨五郎、 菊 地 利三郎
明治九年 (一八七六)
村 用 掛 住 吉 嘉平治
同 助 田 口 又三郎
世 話 方 深 山 甚三郎
桝 谷 徳右衞門
菊 地 辰 平
れたものと思われる。
この吉岡村の沿革は古く、 遠く鎌倉時代に遡さかのぼることが出来る。 『凾館支廳管内町村誌 其二』
によれば、 「文治五年 (一一八九) 七月十五日鎌倉將軍右大將頼朝公藤原泰衡追討ノ節津輕糠部ヨリ里人多ク當國ヘ逃渡リ初メテ定住ストアルヨリ觀ルニ津輕ヲ距ルコト僅カニ七里自然ノ港湾ヲ有スル當地ノ如キ最初ノ上陸地点ナルベキカ」
とあり、 『新羅之記録・上巻』 では 「抑そもそも往古は、 此国、 上二十日程、 下二十日程、
松前以東は陬川むかわ、 西は與依地よいち迄人間往する事、 右大將頼朝卿進発して奥州の泰衡を追討し御たまひし節、
糠部津輕より人多く此国に逃げ渡って居住す。 彼等は薙刀なぎなたを舟舫ふなべりに結び付け、
櫓櫂ろかいと爲して漕ぎ渡る。 故に其因縁によって当国鈑こふねの車櫂は薙刀を象ると云ふ。
奥狄の舟近世迄櫂を薙刀の象に造るなり。 今奥狄の地に彼の末孫狄と僞りて之に在りと云云。」
(『新北海道史 史料編一』 所収読み下し文) とあって、 文治五年源頼朝の奥州藤原氏討伐の際、
その残党や南部・津軽の人達が多く当地方に渡航して居住したといわれる。
源頼朝による藤原泰衡討伐の戦いは、 文治五年七月鎌倉から発向し、 八月には衣川を占拠した。
敗退した泰衡は、 一時、 鎌倉軍の手の届かない北方に逃れて軍の再編を図るべく、 盛岡付近から秋田北部に入り、
大館付近の贄にえの柵まで到ったが、 ここで郎党の河田次郎の反乱によって同年九月三日敗死した。
そこで泰衡の残党の多くは主人の志した北へ北へと逃れ、 海を渡って蝦夷地に定着するものもあり、
また、 その戦乱を嫌って津軽や南部の人達が、 道南地方に定着したというが、 これが蝦夷地への和人定着の始期である。
これら渡航者がどこに定着したかについては、 『吉岡村沿革』 では吉岡村とし、 江差町役場所蔵の
『桧山沿革』 では、 吉岡、 松前、 江差に定着したといっており、 対岸との地理的に見ても吉岡定着を妥当なものとしている。
対岸青森県東津軽郡三厩村には義経、 弁慶の伝説が多く残され、 当町にも矢越岬と義経の伝説があるが、
義経は文治五年閏うるう四月三十日衣川の高館たかだちで戦死しており、 それが伝説として残されているということは、
敗走した泰衡の残党や、 その地方の住民達が、 判官ほうがんびいきで義経を殺させたくなかったという心情が伝説となって残され、
さらにこれらの伝説が蝦夷地に残されているのは、 この時期に和人の定着を見た結果
によるものと解することが出来る。
室町時代に入り、 和人定住者が増加して村落形成が顕著になってくると、 先住者の蝦夷から和人住民を守る手段として、
その地方の土豪が館たて (あるいは館たち) を築き、 そこを根拠に交易あるいは生産活動を行うようになった。
これによって館主はその経済活動を基盤として、 武力、 経済力を貯えて行った。
十五世紀半ばに入ると、 道南地方では、 このような館を構える土豪が各地に点在していた。
康正二年 (一四五六) に発した蝦夷の蜂起も、 このような道南に住む和人の傲慢な行為に対する反発であった。
志苔しのりの鍛冶村 (函館市) で蝦夷が和人の鍛冶にマキリ (小刀) を頼み、 その価格、
利潤のことから口論となって、 鍛冶が蝦夷を殺したことから争乱となり、 翌長禄元年には東部の族長コシャマインを盟主とする蝦夷軍が、
道南地方に点在する各館を襲い、 次々と陥落させた。 『新羅之記録』 では、 この蜂起で道南地方に点在する十二の館のうち、
十館までが陥落したと記されており、 その十館のなかには吉岡村の古名穏内おんない郡の館も含まれている。
この穏内郡の館主は土こもつち甲斐守季直であったというが、 土氏の出自は明らかではなく、
松前廣長筆の 『覆甕草ふくべぐさ』 によると秋田の出身といわれるが、 季直の季○は、
津軽・蝦夷地の領主で津軽市浦 (北津軽郡市浦村) 福島城に居城する安藤 (安東) 氏の諱いみな
(一族だけが用いる名) であり、 また、 この市浦の近くには菰槌こもつちの地名 (西津軽郡木造町)
があるところから、 土氏はこの地の出身で、 安藤氏の抱える武将の一人であったと考えられ、
安藤氏一族の争乱か、 南部氏との福島城攻防戦に敗れ、 渡海し、 吉岡に館を構え居城したものと考えられる。
長禄元年 (一四五七) の蝦夷と和人の戦いで、 僅かに残されたのは茂別館と上ノ国館の二館のみとなり、
上ノ国館主蠣崎季繁の許に客分となっていた、 若狭武田の一族といわれる武田信広が、
僅かな兵を率いて七重浜 (上磯町) 付近で蝦夷連合軍を破り、 ようやくこの蜂起は終わった。
その後土氏はさらに穏内館に居城したようであるが、 『高橋家履歴』 (土氏の後身)
によれば、 松前氏第二世蠣崎光広が、 永正十年 (一五一三) に上ノ国から松前大館に移城したのち、
土氏第二世土兵庫之介季成が蠣崎氏に臣従したようであるが、 その娘は松前氏第三世義広夫人となり、
第四世季広の母となっている。 しかし、 土氏は後継者がなく断絶し、 穏内館も廃館となった。
のち、 寛文年間 (一六六一~七二) に至って、 松前伊豫景広の子が、 高橋仲季信となってこの土氏の名跡を嗣ついでいる。
『新羅之記録』 では、 この穏内館は穏内郡○の館としている。 郡とは、 その館付近の地域の、
という広い意味もあり、 穏内村のみではなく付近の村々も統轄していたと考えられるので、
この地域の村は定住者がある程度居たことを示している。
吉岡八幡神社とその摂社の沿革を見ると、 土甲斐守季直の霊を祀る館神神社は寛永二年
(一六二五) に創建され、 翌三年譽田別命を祀る吉岡八幡神社が創建されているので、
この頃に一つの村として家並構成がまとまってきたと思われる。 さらに 『福山秘府・諸社年譜并境内堂社部 巻之十二』
には、 吉岡村観音堂があり、 創立年代は不詳であるが、 御神体は円空作であるとしている。
円空上人の当地への巡錫は、 寛文六~七年 (一六六六~六七) であるので、 この観音堂の創建は、
この円空巡錫後であると思われる。 当初、 神仏混淆こんこうの形で建立された堂社であるが、
吉岡村では元禄期以降仏教寺院も建立され、 神・仏分離が進められた。 元禄六年 (一六九三)
高庵という道心者が、 松前正行寺を経て藩に願い出、 庵地を拝領して一寺を建立し、
光念庵と号した。 のち吉岡庵、 海福寺と名称を変更しているが、 このような施設が建立されていくことは、
村としてまとまってきたことにもつながっている。
吉岡村戸口の推移を見ると、 他村に比べて戸口が年々増加していて、 その比率は非常に高い。
それを福島村と比べると、
と、 年代を経るに従って戸口の増加が顕著である。
吉岡村の戸口増加の原因は、 船着場としての地理的条件がある。 津軽海峡横断の航路は、
津軽三厩 (三馬屋) から松前へのコ-スが主力であり、 東または南の風に乗って三厩を出帆するのを最良の風としたが、
途中風が南西に変わるような場合は松前に着くことが出来ず、 押し流されて吉岡付近の海上に到着することが多かった。
これを落船と呼んでいる。 この落船が航海の繁多と共に多くなり、 松前藩は寛政期に、
一部の船舶についてはその落船を認めてきたが、 文化四年 (一八〇七) 松前藩が奥州梁川やながわに移封し、
幕府直轄の松前奉行が設置されると、 その不合理を正し、 海上交通の便宜を図るため、
吉岡村沖之口番所を設け、 『取扱収納取立手續並問屋議定書』 を作製し、 松前問屋といや・小宿こやんどの吉岡沖之口での取扱大綱を定めている。
また、 吉岡村代表として、 問屋には船谷久右衞門、 宮歌村名主が株仲間になり、 大河京三 寛政元年
(一七八九)
名 主 木 村 久右衞門
年 寄 木 村 久 七
宇兵衞
太郎左衞門
小 使 与兵衞
文化五年 (一八〇八)
名 主 八兵衞
年 寄 勘左衞門
松右衞門
与八郎
文政二年 (一八一九)
名 主 熊治郎
年 寄 勘右衞門
權兵衞
与太郎
百 姓 代 三太郎
清治郎
天保三年 (一八三二)
名 主 佐 賀 要右衞門
年 寄 木 村 松右衞門
松 田 与三郎
仲 山 九兵衞
百 姓 代 平 沼 三郎兵衞
仲 山 三太郎
天保七年 (一八三六)
名 主 八兵衞
年 寄 九兵衞
金兵衞
平兵衞
百 姓 代 三太郎
半右衞門
小 使 金兵衞
天保八年 (一八三七)
名 主 住 吉 八兵衞
年 寄 八 谷 平兵衞
棟 方 小三郎
仲 山 喜 六
百 姓 代 仲 山 三太郎
笹 森 善兵衞
弘化五年 (一八四八)
名 主 住 吉 八兵衞
年 寄 住 吉 久兵衞
棟 方 小三郎
吉 田 儀兵衞
安政五年 (一八五八)
名 主 柳 屋 專右衞門
年 寄 作右衞門
万延元年 (一八六〇)
名 主 專右衞門
年 寄 作右衞門
權兵衞
元兵衞
明治七年 (一八七四)
名 主 船 谷 久右衞門
年 寄 樋 口 寅 吉
百 姓 代 佐 藤 初治郎
住 吉 久兵衞
新道出来、 峠界」 (『村鑑下組帳』) で、 この文化六年 (一八〇九) 頃には家数四十四軒、
人数百六十二人、 図合船ずあいぶね二艘、 磯舟四〇艘であって、 藩に上納する物産は椎茸一、二〇〇
、 割薪七敷半、 敷笘しきとま一〇枚、 枝門松九三本、 ゆづり葉四貫、 召使男二人で、
村役は名主金三郎、 年寄伊兵衞であったと記されている。
蝦夷地内の和人地は藩主の直領地であることが原則であったが、 これら和人地の各村の中には、
藩主の門閥一族で藩治政に貢献した重臣に采領知行所さいりょうちぎょうしょとして給与された村があり、
礼髭村は村上系松前氏を嗣ついだ松前廣ひろただ (松前家第七世藩主公きん廣四男)
が拝領し、 のちこの家の代々の知行所となっている。 『村上系松前氏系譜』 (函館市中島常行氏所蔵)
によれば、 次の通りである。
始 祖 村上三河 二 代 称村上三河 三 代 称村上三河
∴ 政 儀 季 儀 直 儀
明応五年大館守護 没年月日未詳 室ハ第四世季廣十二女
永正十年六月二十七日大館合戦戦死 寛永八年三月三日没
四 代 第七世公廣四男養子
小字甚三郎 松前氏、 称松前左衞門 五 代 初名廣任
称松前主水 六 代 小字藤松
称松前頼母
廣 ただ 廣 時 廣 孝
覃部・礼髭采邑 延宝七年六月十日執政職 宝永二年八月十日未家継没
延宝二年執政職 宝永七年二月退職 機光院殿玉岩祖輪居士
同六年八月晦日五十歳変死 享保十七年三月二十六日八十一歳没
狐峯院殿格圓光越居士 凌雲院殿一透加箭居士
松前藩主第十一世邦廣五男
小字万之丞 小字繰五郎又大學、 傳蔵
七 代 称松前平治右衞門 八 代 称松前監物 九 代 称松前鐡五郎
廣 行 廣 長 廣 英
正徳三年十二月二十八日家督 宝暦元年七月一日家督 宝暦十一年五月三日生
享保十四年十一月八日執政職 天明二年二月二十九日執政職 天明八年九月一日家督
元文三年十一月十五日君命切腹三十五歳 同八年八月病退隠 文化元年十月十五日執政職
別峯院雲外月笑居士 享和元年五月十日六十五歳没 同五年十一月十四日退職-右仲
廣長院殿徳峯常隣居士 嘉永三年九月二十九日九十歳没
羊蹄院殿道翁仲居士
小字時蔵 称守齢 小字萬五郎 小字與蔵
十 代 称松前監物、 実ハ廣英弟 十一代 称松前修理 十二代 称松前監物
廣 雅まさ 廣 亮あき 廣 休やす
安永八年十二月二十四日生 寛政九年生 文化六年七月二十日生
寛政六年三月二十日兄廣英嗣 文政元年四月晦日兄廣雅之養子
文政九年廣亮之養子
文化十一年五月十日中老職 天保七年四月二十九日家督 天保十年十月十五日家督
同十二年四月八日執事職 同十年十月十五日四十三歳没 同十四年四月二十日執政職格
天保七年四月二十九日五十八歳没 豪徳院殿隣峯成蹊居士 嘉永二年執政職
寛領院殿徳香義範居士 明治五年七月東京引揚
同七年五月十六日六十六歳没
初名廣精、 小字繰太郎
十三代 称松前右京 十四代 称松前義太郎
廣 甫まさ 廣 愛よし
天保五年八月十七日生 安政元年六月二十一日生
嘉永五年九月右京改称 明治元年~二年戦争従軍
安政二年六月家督 同五年八月六日東京移住
文久三年四月執政職格 浅草小島町三番地居住
明治八年十二月三十日御家令辞任
同家譜によれば、 蝦夷地の中心館であって、 大館の守護であった村上三河守家という名門の家系の消滅を恐れた松前氏第七世藩主公廣が、
その四男廣に、 村上氏を松前姓をもって継がせたもので、 その家計を補うため覃部およべ
(松前町字朝日) と礼髭村を采邑地さいゆうちとして与えたものである。 これらの采邑地は本税はその侭藩に納め、
小物成 (付加税的もの) を知行主に納める慣例で、 村内の物産 (薪・山菜・海産物)
を献納し、 また、 仲間を一人か二人毎年屋敷に供出するということであったが、 同家譜の松前廣長の項では、
明和元年 (一七六四) 十月、 「東部吉岡、 礼髭両邑むら登荷三分一宿送蒙許」 となっており、
廣長の時代には吉岡・礼髭の二村の納入税役物の三分の一が知行として認められるという特例が設けられ 元文四年
(一七三九)
肝 伊右衞門
小 使 佐兵衞
宝暦二年 (一七五二)
名 主 徳右衞門
小 使 喜左衞門
明和三年 (一七六六)
名 主 徳右衞門
明和六年 (一七六九)
名 主 徳右衞門
小 使 九兵衞
安永四年 (一七七五)
名 主 三右衞門
年 寄 吉兵衞
安永七年 (一七七八)
名 主 佐 藤 吉兵衞
年 寄 勘 吉
寛政十二年 (一八〇〇)
名 主 万四郎
年 寄 丑之助
小 使 九兵衞
組 頭 太郎助、 徳右衞門、
清 松、 藤 松、 喜之助、
丑之助
文化五年 (一八〇八)
名 主 金三郎
文化十一年 (一八一四)
名 主 佐 藤 金三郎
年 寄 喜 松
文政二年 (一八一九)
名 主 新 山 惣右衞門
年 寄 佐 藤 利久平
百 姓 代 川 口 長左右衞門
文政四年 (一八二一)
名 主 利久平
年 寄 長左衞門
百 姓 代 熊五良
五 人 組 吉 松、 金 蔵、 浅 八
文政八年 (一八二五)
名 主 利久平
年 寄 吉兵衞
百 姓 代 惣治郎
五 人 組 佐 吉、 吉 松、 米五郎、
太 七、 清 吉
文政十三年 (一八三〇)
名 主 佐 吉
年 寄 由兵衞(由 蔵)
百 姓 代 安兵衞
五 人 組 竹 蔵、 浅 八、 萬 吉、
喜 七、 金三郎
天保九年 (一八三八)
名 主 木 村 清 七
年 寄 佐 藤 利久平
百 姓 代 川 口 長左右衞門
五 人 組 藤 田 喜三郎、
濱 屋 庄右衞門、
小 川 仁三郎、
江 口 角兵衞、 喜兵衞
嘉永二年 (一八四九)
名 主 利久平
年 寄 長左右衞門
百 姓 代 多 七
五 人 組 角兵衞、 權三郎、 嘉四郎、
丑 松、 傅三郎
明治二年 (一八六九)
名 主 辧治郎
年 寄 松太郎
百 姓 代 利兵衞
(六)白符村・宮歌村の境界争い
『福山秘府・年歴部 巻之六』(松前廣長安永九年=一七八〇筆)のなかに、元文五年(一七四〇)の記事として「是歳、自二正月一、東部宮歌邑、與二白文邑一論二其邑界一。」とあって宮歌村と白符村でその境界をめぐって争いのあったことを記録している。この論争の火種となったのは、その村の支配体制が異なっていたことによるものと考えられる。
松前家(藩)の支配体制は、藩創立の初期に和人地・蝦夷地の制を定め、和人がアイヌ人の多く住む蝦夷地への進出を禁止し定められた和人地で生活するよう定め、アイヌ人もみだりに和人地に入りこんで和人と紛争が起らないようにしたもので、和人地は当初、東は亀田村から西は相沼内村(現熊石町)までを区轄したが、のち和人の定着増加によって東は石崎村黒岩(函館市)から西は熊石村に拡大されている。藩及び家臣の知行制度については、第三編近世の福島の第一章第七節で詳しく書いたのでここでは割愛するが、和人地では藩主の直領地であることを原則として、本税・小物成(付加税)共に藩へ納入することを原則としていた。その上で藩主は、一族や功績のあった家臣の藩に対する貢献を賞し、これら直領地の支配を任せてその家計の一助に資するという方法をとった。それを拝領する家臣のことを支配所持あるいは給所持といった。
当時は同じ福島町内でも福島村(付属の三本木村、山崎村、一ノ渡村、小谷石村を含む)と吉岡村(貝取澗村を含む)は藩の直支配地で、礼髭村、宮歌村、白符村は家臣の支配給所であった。礼髭村の支配主は村上系松前家で、村上系とは、松前氏第七世藩主公廣の四男廣ただが、大館(松前)館主村上三河守政儀家の名跡を継いで村上系松前氏を称したもので、第十一世藩主邦廣の五男廣長(『福山秘府』全六十巻の筆者)が同家に養子となった名家であり、そのため給所として礼髭村を拝領したものである。白符村は同じく松前氏の一門である河野系松前氏の給所であった。河野系とは、松前氏第五世藩主慶廣の六男景廣が、長禄元年(一四五七)のコシャマインの乱の際戦死を遂げた箱館館主河野加賀右衞
門尉政通家の名跡を名乗り、河野系松前氏と称したものである。景廣は『新羅之記録』を著し、家老として松前藩のために貢献し、この白符のほか、木古内村、北村(上ノ国町)も支配所として拝領している。
宮歌村の場合はこれらと異なり、松前氏より出自した徳川幕府の旗本に対する給地である。この幕臣松前氏は、松前氏第七世藩主公廣の第三子松前八左衞
門泰廣が、寛永十八年(一六四一)江戸に分家したもので、翌十九年将軍家光から切米千俵を賜わって旗本小姓組となり、のち寄合席の二千石の大身旗本となり、本家の松前氏に指導助言していた。しかし、寛文九年(一六六九)に日高シャグシャインの乱が発生した際、時の藩主松前氏第十世矩廣は僅かに十一歳で到底軍の指揮をとることができないため、幕府は特に矩廣の従祖父松前泰廣に命じ、鎮夷の指揮をとらせた。この蝦夷乱は無事平穏となり泰廣は江戸に帰ったが、幕府はこの泰廣の功を賞して五百石を加増し、松前氏はこの同族泰廣に対し、寛永十二年(一六三五)宮歌村を給地として与え、のち宮歌村の枝村として寛永十七年大茂内村(乙部町)九艘川村(江差町)二村も与えている。他村給地は藩重臣に贈られたが、宮歌村は松前氏が特に、同族で幕府の旗本である松前八左衞
門に贈った地である、という誇りもあり、白符村との間がしっくり行かなかった。
さらに両村間の境界も漠然としていて定かでなく、宮歌村は、西は貝取澗境の鍋島から澗内の沢を経て根祭岬までが宮歌村持であるといい、白符村は、澗内の沢から根祭岬まで宮歌の人は一人も住んでおらず、この地域に住み利用しているのは白符村の人達である、従って白符村領の地域であり、白符村は西は澗内の川から東は福島村境の腰掛岩までであるとして譲らず、両者の間の紛争は絶えなかった。
たまたま元文四年(一七三九)澗内川付近の昆布干場のことで争となり、白符村が知行主松前内記廣候を通
じて松前藩寺社町奉行所に訴え出、宮歌村も江戸旗本二千石寄合席松前八兵衞端廣の現地代理人蠣崎三彌を代理人として受けて立ったが、白符村から届け出た申立書は次のようなものである。
白符村百姓口上書
當村之由緒御尋ニ付申上候御事
一 當村之根元ハ津軽ねつこ村馬之助と申者上山中べそり与申所へむかし相渡リ居候所、御殿様御尋御座候而御城下あら町ニ屋舗被下置しバらくはいかい仕候。然共妻子養可申様も無御座在郷願上候得ハ何方なりとも勝手次第ニハ候得共、歌ハ手近ク候間うた内に居候様被仰付、依之唯今之処鮑多ク、夏ハ鱒秋ハ鮭沢山ニ御座候故、ねまつり江罷越居申候。其砌ハしとまい迄家一軒も無御座候所、其後段々身過能商事自由仕候故、人共追々参候而家数ニ罷成候ニ付、頭分之者願上候得ハ 御殿様 則馬之助ニ肝入被仰付候。其時節ハ歌ニ夷弐間御座候
一 鮭引網之儀者歌の御百姓打寄打込ミ引申候。村吟味ハ肝役之者相勤申候。此まない川ノハ馬之助ニ被下置支配仕候、両川共ニ魚御座候よし申傳候。
一 村境の儀ハどれからどれ与申被仰付茂なし境の御制札茂無御座、諸商賣仕候茂歌の御百姓入込たがいニ心能渡世仕候。五六拾年以來肝入弥五八其後弥左衞
門代迄ハ福島宮の歌よりもいろんも無之候得共、三拾年以来弥源次代のころより宮の歌ねまつり迄宮の歌領之よし申候而商賣事ニ付普請ニ付度々我が侭いろん仕折節ハ、たゝき合申躰之事茂御座候。
夫故其砌ハ御屋舗江申上候得ハ、何れ之村所ニ而茂 御公儀御定提与申も無と一面之事候間村々濱中ニ立候ハ、崎から崎まて見渡し候所、切ニ而昆布鱒鯡
取流寄もの之支配茂仕候様ニと被仰付候。此度宮の歌白符村三分弐河のかたの領分と申いろん仕こんぶ干候事茂罷成不申困窮之百姓大難儀仕候間、前々之通
崎より崎迄と被仰付被下置候様ニと偏ニ奉願上候。
一 白符村ハ元來惣名ねまつり与申候処、しらふの御鷹出候より白符村と 御殿様御改被遊候、則御塒茂御座候。
一 まないの沢ニ宮の歌者之畑一枚茂無之候。昔より當村の畑地斗御座候銘々畑地能存罷在候。右之趣者所々年寄の者とも昔よりの由緒承り伝へ罷有候故仍而。
御尋有躰申上候。 以上
元文四年己未年八月
白符村小使 伊四郎 判
惣年寄
惣百姓
肝 入 弥左衞門 判
(『白符・宮歌両村舊記』北海道大学附属図書館所蔵)
この訴書によれば、白符村の草分は馬之助で、澗内の沢は殿様から馬之助に下されたものであり、この川には鮭や鱒も多く入り、またこの地域は昆布干場としても重要な土地である。しかし宮歌村はこの地域は宮歌村の境界内であるといい、いつも論争が絶えず遂には叮き合いになることもあるので、何とかこの境界を明らかにして問題を解決して欲しい、というものであった。これについて知行主の松前内記は口上之覚を提出し、白符村百姓の苦境を次のように述べている。
御役所江申達候
口上之覚
一 宮の歌村白符村江数度境論致打節私方江申入候得共可申付様茂無御座其分々ニ仕有候処別
而今年度々宮歌より申募り白符村まない沢ねまつりの濱迄昆布壱本も干させ申間舗よし宮の歌百姓申ニ而當夏白符前濱ニ干置候こんぶ不残宮の歌ノ百姓海へなげ捨申候由夫より白符百姓共濱江こんぶ干候事相成不申沢ノ入川端の籔ヲかり其所迄かり立し昆布せおい候而山ニ而干申候百姓共困窮之上當夏者別
而難儀仕候仍之私方如何様共境相定呉候様ニ直遍申入候得共私自分ニ而可申付様無御座候故兎角申上御指圖次第可申付候旨申渡之處村之者共尤ニ存御役所より御見分被成下村境被仰
付候ハ、難有奉存旨之儀ニ御座候依而百姓とも覚書ニ村々絵圖相添差出し申候間御役人方御見分之上如何様共百姓難儀不仕様ニ被仰付被下置候様御評儀被成可被下候若子細御尋御座候ハ、百姓共可上候肝入始年寄不残私方ニ詰居候間何時ニ而も御尋之節御役所江差出可申候 以上
未ノ八月
松前内記 廣候
南 條 安右衞門 殿
新井田 五郎左衞門 殿
(『白符・宮歌両村舊記』北海道大学附属図書館所蔵)
この口上之覚では、宮歌の住民は澗内川周辺で干した昆布を海中に捨てたり、暴行を働いたりで、白符の住民は非常に苦しい立場にあるので何とか一日でも早く公平な裁きをして欲しいと、知行主の立場で白符村住民を弁護しながら町奉行に要望している。
この訴えを受けて立つ形となった宮歌村は、同年九月この澗内沢の濱場について次の通
り反論している。
元文四年未ノ九月
當村間内之沢濱場下書之扣
年寄 太次兵衞
小使 彦右衞門
肝 喜右衞門
乍恐以書附申上候境論之御事
一 宮ノ歌村草分ケ百姓津軽鯵ヶ沢出萬助、三吉、弥四郎、重次郎、太右衞門、与市郎右之者共間内へ落附、一両年住居仕間内之沢切分ヶ畑作仕附渡世送り候得共、海辺船附悪敷ク御座候故、當所江相廻り其後ハ家数四拾軒余ニ罷成其節之小頭相勤申候者太右衞
門と申者相勤メ申候。其後ハ彦右衞門と申者肝役相勤申候。其節茂間内ニ畑作仕付渡世送り申候。海川共曵網仕候節村吟味當村重次郎網子者共當村百姓中引網仕候
一 夷蝦発起之節 松前八左衞門様御下り之節間内根祭り崎まて御普請仕候。
一 御巡見様御通之節茂古例之通根祭り崎迄道御普請仕候。
一 御公儀様道法間尺御改御奉行所御通之節御帳箱請取渡之御人足上ハ鍋嶋、下境ハ根祭り崎ニ而請取渡シ仕候。
一 先年間内へ北国乘捨テ船打上ケ申候、其節茂當村支配仕候。
一 間内百五間近年白符村ニ而遣申候得共、其分ニ仕置候処ニ其外ニ當歳百六拾八間昆布干場普請仕置候処ニ、白符村百姓中参候而干置申候。
昆布たくり置夏中白符村之百姓中我侭ニ遣申候。依之當村之百姓中昆布干場無御座候故難義仕候。此以後先年之通
ニ以御慈悲被仰付被下置候ハ、有難可奉存候。以上。
元文四歳
未ノ九月
宮ノ歌村
肝 喜右衞門
年寄 太次兵衞
小使 彦右衞門
蠣崎 時右衞門 様
(『宮歌村古文書』宮歌八幡神社所蔵)
これによると、宮歌村の草分の人たちはまず澗内に落ち付き、二~三年後に船付きのよい宮歌村に移ったが、巡見使が来た際の道普請や人足廻しも根祭岬まで行っており、宮歌村であることには間違いはない。澗内のうち百五間(百九〇メートル余)は白符村に使用させていたが、その外に宮歌村が造成した百六十八間(三〇四メートル)の昆布干場を白符村は断もなく勝手に使用している。しかしこの地域はあくまでも宮歌村の地所であると、村肝(名主)、年寄、小使の村方三役の連書で反論している。
この境界論争は町奉行所で二年に亘って取り調べが行われ、両村役は知行主宅やその代理人宅に泊り込んで争ったが、何れも確乎たる証拠がないため決め手がなく、これを強引に裁決すれば何れかの知行主に傷が付くため、二年に亘る訴訟の割には極めて抽象的な裁決で次のように決定された。
元文五庚申年二月廿三日
宮の歌百姓白符村百姓と村境之致論ヲ去年秋中白符百姓共内記方へ申立候ニ付、無拠右境論申立候書付ニ繪図相添八月中町御役所江差出候處、當正月中此間迄宮の歌白符両村之肝入年寄共度々召出御吟味之處、両村之百姓とも申分さかひの品申傳斗ニ而両方共ニ急度證據与申茂無之ニ付今日被仰出候者、惣而御領給所共ニ古來より何之村ニ而茂境与申儀ハ無之一圓之事ニ候間、今度宮之歌白符境も難被仰付候間、向後両村之百姓共諸商賣相互ニ申合不論様ニ家業いたし候様ニと町御奉行所ニ而両村肝入共江申渡候ニ付拙者方へ同役被申渡候間右之趣記申候
松前内記
廣 候 役 中
(『白符・宮歌両村舊記』北海道大学附属図書館所蔵)
つまり、蝦夷地全体が松前氏の領地であって村境等も確たる取り決めがないのであるから、両村の百姓共は協調し合って仲睦ましく助け合い、境論などは持ち込まないようにとの極めて曖昧な形での和解要請であったと考えられるが、その後の動向からすると、根祭岬から澗内川までの間は宮歌村領と見るのが妥当のように思われる。それは同元文五年七月に次のように、白符村から「借請申一札證文之事」が出されていることによる。
借請申一札證文之事
一 此度當村前濱ニ而昆布干場手廻し候事故右昆布之儀茂干場手取候事も不相成、依而其御村御領分間内濱此度借り請申度旨村中一同相談之上御願申上候処、御聞済被成下右ニ付百姓中一同之凌方ニ相成安堵仕難有仕合ニ奉存候。依是以後境論彼是違乱之筋決而申間敷後日爲念之濱借請一札證文差出し、依而如件
時元文五庚申年(五)七月十七日
白符村
肝役 弥左衞門 印
年寄役 平 助 印
宮之歌村
御肝役
石岡 利右衞門 様
(『宮歌村古文書』宮歌八幡神社所蔵)
これによって二年間に亘る両村の村境紛争は解決したが、『宮歌村古文書』によれば、この紛争はのちの時代まで尾を引き、天明七年(一七八七)、文久三年(一八六三)、慶応二年(一八六六)、慶応四年(一八六八)にまで及んでいる。
第三編 近世の福島
第二章 創業期の各村
(一)村役
第一節の各村の展開でも述べたように、各村の成立は、近世初頭の寛永年間(一六二四~四三)ころと考えられる。これは松前藩の成立が慶長九年(一六〇四)で、初期の藩政の始まった当初であって、各村が創立されても村治の具体的な法制の発布はなく、中世末以来の慣例的な村治方法がとられていたと考えられる。
常盤井家系譜は近世末期に笹井武麗によって編纂されたものであるが、これによると、常盤井家(初祖、二祖は盤、明治改姓後磐を用いている)初祖常盤井武衡は中世末福島(折加内)に定着し、「領主季広公、禄を以て召せども、二君に仕へず、例え、国の爲とて、地頭体にて、村長を、相勤め」慶長八年(一六〇三)神去したといい、二祖武治は同じく「領主松前慶広公の命に依り、地頭の体にて村長を相勤め」元和四年(一六一八)年神去したという。
しかし、この記録は疑問が多い。中世末には、守護、守護代、地頭等の職名は幕府が任命する公式職名で、しかも武家集団の頭染に与えられるもので、例えば地頭体等の表現は誇張が大きすぎるものである。また、中世には名主という地方武士集団の長の呼び名があるが、これは、近世の村を代表する名主とは全く別
の性格をなすものである。また、常盤井家の系譜に出る村長、つまり村を代表する者という意味をもって、そのような表現をしたと考えられるが、そのような正式職名も松前藩は用いていない。
『戸門治兵衞旧事記』では折加内村から福島村に改村された寛永元年(一六二四)以降戸門治兵衞
が初代の福島村名主となったといわれるが、このころが初期村政の始まりと見るのが妥当と考えられる。
松前の寺社、町方、在方支配の機関としては、寺社町奉行があってこれらの指揮監督をしていた。この奉行は慶長十八年(一六一三)創設され、小林左門良勝が奉行となったという記録があり、さらに寛永十四年(一六三七)町奉行酒井伊兵衞
広種の名も見えるので、この時期には民政安定のための町奉行所が機能していたとは思われるが、この時点で町奉行の業務指針の条規的なものは定まっていなかったと考えられる。松前藩の各奉行以下各役職の職掌が具体的に条規化されるのは『松前福山諸掟』によれば延宝六年(一六七八)、元禄四年(一六九一)、享保七~八年(一七二二~二三)と年を追って整備されて行くが、特に享保七年町奉行に与えられた条々は、町奉行および村々民生安定の基本的管掌事項を明示したものである。それによれば寺社町奉行の所掌は、
(一)神仏事、僧侶、神官、寺社訴訟及び普請に関する事。
(二)キリシタン対策及び五人組合、百姓統制に関する事。
(三)駅逓、助郷(人夫役)、人馬宿に関する事。
(四)火の元、火防対策に関する事。
(五)司法の執行、裁判、牢屋管理等に関する事。
(六)物価及び流通対策に関する事。
(七)通用金に関する事。
(八)抜荷対策に関する事。(これは沖ノ口奉行と共同管理)
(九)御鷹餌の確保に関する事。
(一〇)村方統制及び町村寄合に関する事。
(一一)税役の収納、督励に関する事。
(一二)見張番所に関する事。
(一三)漁業秩序維持に関する事。
等々実に広範な社寺、民生、司法、経済、交通の各分野を担当しており、奉行、吟味役、目付、吟味下役等は必ず複数で勤務し、月番として上番のものは一か月奉行所に泊り込んで勤務し、下番後は兼務発令された他の役職に勤務するという過激な職であった。
この町奉行の所掌にかかわる各村の運営を司る村役については、福島村では寛永年間(一六二四~四三)には名主の名が見え、宮歌村は明暦元年(一六五五)、礼髭村は寛文五年(一六六五)の記録に同じく名主の名が見られるので、このころには村役が任命され、これらの人達によって村自治が運営されていた。村には村方三役がおり、名主、年寄、百姓代の三役は、名主は一人あるいは複数、年寄、百姓代は村によって異なるが複数あるいは三~五人の村もあった。また百姓代を肝と呼んだ村もある。このほか小使も役職として置いている村もある。さらに村内の末端を代表する機関として五人組合を代表する組合頭、さらにこの五人組の三~四組を代表する小頭があった。
これら村役の選任については、毎年一月か八月に行われる村中大寄合で名主が選任され、年寄、百姓代、小使等は名主の推せんで村中が承認され、これら選任された村役は、藩庁に届出て藩が認可するという方式をとっていた。名主が任命されると、自宅を役場として勤務し、書役は福島村は例えば美濃屋平吉なる者を任命し、宮歌村は城下より書役を雇い入れている。また、福島村は享和四年(一八〇四)村役場を上町に建立し、ここを勤番所と村役場にしているが、『戸門治兵衞
旧事記』では、
福島村御勤番所家造立地古来村役屋地上町表口十間四方一尺五寸、裏行一六間ニ御座候。御代々御巡見様御宿之節上様御普請被附相勤罷在候。尚又名主役之者家不宜勤り兼候節村中勿寄家作仕爲勤罷有候、近年家普請茂相懸ニ罷成、右役屋地普請も不仕差置候処、松前老圃様御仮屋御建被遊後取解しニ相成只今空地ニ御座候処、表通
り場所草生茂り見苦敷候得共村方取扱ニ茂不相成罷有候。右勤番所家造御普請被仰附被不置度奉願上候。猶又御見分之上外地江見立被仰附候ハ、前書奉願上候通
、古来役屋地村江被仰附被下置度奉願上候。右之通御憐愍を以御執成被仰附被下置度奉願上候。以上。
享和四年正月
年寄 庄右衞門
同 勘九郎
同 治兵衞
名主 達右衞門
中嶋 幸左衞門 様
櫻庭 嘉右衞門 様
となっており、この願書は福島村々役より松前藩寺社町奉行所の下代で在方掛の中嶋、櫻庭宛に提出されたもので、この上町の役屋場とは藩の高札を掲げたり、御巡見使が来た際の御仮家を建てたりしていた。その地を松前将監広長が藩より借り受け隠居所としていたが、三年前の享和元年に死去し、その屋敷地が草生いも激しいので村役場と勤番所を普譜したいので下付して貰いたいと願い出たものであるが、それに対し、藩は、
制札立所役屋地前ニ有役屋地拾四間尺五寸、裏行拾六間右役屋敷松前老圃様御拜借御断返添享和四年二月有之候。
松前鉄五郎様返弁御断元成ニ候而御上様御普請被遊候。
とあって、松前広長の隠居所清音館の建物、土地を息子鉄五郎が返還したので、藩が勤番所と役家を建立したというが、これは村の寄付によってこの隠居所を大改修して利用したものと思われる。そして前段にもあるように名主焼役の者の家が不宜、勤めも出来兼ねるので村役場としても利用されたものと考えられる。
このようにして選任された名主等村役がどのような村行政を進めたかは、次のような項目に分けることが出来る。
(一)一村の取締りに責任を持つ。
(二)村内総百姓に法令を守らしむる。
(三)役銭の徴収と上納。
(四)諸願書えの奥印。
(五)村中の利害に関する申告又は願伺い。
(六)村中寄合又は百姓集合に関与すること。
(七)呼出人ある場合の付添い。
(八)献上物、漁獲品検査の立会。
(九)五人組合に関すること。
(一〇)宗門改帳の作製と管理。
(一一)氏神崇敬および維持に関すること。
(一二)旅人、駅逓、旅宿、道路維持に関すること。
(一三)村内漁業の秩序の維持に関すること。
等が挙げられるが、このほか火消組の設置や組員確保、海難救助、定飛脚、馬匹の確保等の問題もあった。
名主、年寄に任命される人は、各村の古百姓や資産家であったから、村方三役になる人は特定されていて、父子相伝の家が多く、このような役職の継續を藩が認め、苗字を許される家もあった。一般
庶民が紋付羽織袴を着れるのは身内の葬儀か、婚礼の時だけであったが、三役は公式行事の場合紋付の着用が許されており、それが権威の表徴でもあった。
第三編 近世の福島
第二章 創業期の各村
第三節 村治組織
(二)五人組(合)
徳川幕府が島原の乱終了後、寛永一六年(一六三九)鎖国とキリシタン宗の厳禁を断行した。これはキリシタン宗門が急激に台頭し、その勢いは更に激しく、そのままでは日本の国教である仏教、神社神道頽廃につながるばかりでなく、宗教侵略によって日本領土の危機を感じての結果
であった。幕府はこのキリシタン宗制禁の対策として、宗徒の現況を調べ転宗を進めるため、各藩領内の宗徒名簿の提出を求め、さらに各村自治の末端機関として五人組の設置を義務付けた。この五人組は各村五軒を単位
として組合を結成させ、そのうちの代表者を組頭または組合頭として、連帯共同責任、相互監視の機関とし、この組合内にキリシタン宗徒のいないことを確認し合い、もし隠れキリシタンが発見されたときは共同責任を負わせるというものであった。
松前藩の五人組合組織設置の始期は定かではないが、『福山秘府年歴全』によれば、慶安二年(一六四九)に「是歳始呈上宗門名簿」とあって、キリシタン宗門禁制後十年目で松前藩が名簿を提出しているので、五人組合もこの期に設定されたものと思われる。
五人組合は五戸の家をもって単位としてはいるが、その村によっては十戸から二十戸に及ぶ編成の村もあり、福島村の月崎神社の棟札によると、文化年間頃には福島村は枝郷(山崎、市之渡、小谷石)を加えると村戸数が二百五十戸程度で、本村の実質戸数は百五十戸程であるのに、組合頭は十二人程度であるので、一組合当り十二.五戸であり、名称は五人組ではあるが実質的には十戸から十五戸位
の編成であったと思われる。
また、福島村のような組合頭の数の多い村は、通達の伝達や、各組合の連けい強化のため、組合頭のなかから二~三人の小頭を配置している。
五人組の遵守すべき事項は松前藩も示達していたと思われるが、『松前福山諸掟』にも明文が残されていない。しかし、蝦夷地が幕領になった文化五年(一八〇八)以降松前奉行は公領代官地の「村方五人組條々」に、この蝦夷地の特殊性を加味した「五人組御仕置帳條々」を各村に備え付けさせ、大寄合の際これを読み上げさせることを慣例とした。筆者の手元に昭和十七年四月二十五日当時北海道帝国大学教授高倉新一郎が、長万部町小倉範三郎氏から借写
し、これを臨写したものがある。これは最後の一枚が紛失しているので市立函館図書館所蔵の『江指五人組帳』で補完すると次のようなもので、当時の庶民の生活する上で、守るべき事柄が明確となってくる。
五人組御仕置帳
條々
一、前々從公儀被仰出候御法度書之趣弥以堅相守御制禁之儀不相背様村中大小之百姓下々ニ至迄可申附事
一、五人組之儀町場は家並在郷は最寄次第家五軒宛組合子供並下人店借地借之者ニ到迄悪事不仕様組中常々無油断可令詮儀若いたつら者有之名主之申付をも不用候はば可訴出事
一、切支丹転之者並類族有之分は別帳ニ記之切支丹奉行江差出之者他所縁組等に而当村江右之族来候ハば早速可注進事
一、毎年宗門帳三月迄之内可差出若御法度之宗門之者有之は早速可申出候切支丹宗門之儀御高札之旨相守宗門帳之通
人別入念可相改宗門帳相済候以後召抱候下人等は寺請状別紙可取置事
一、父母ニ孝行夫婦兄弟ニ睦敷可仕候若諸親類等不和ニ而異見等不用不孝不義之輩有之は名主年寄五人組遂吟味可申出事
一、惣而家業を第一ニ可相勤百姓ニ不似合之遊芸を好或は悪心を以公事いたし非公事をすゝめ僞をたくらみ人之害をなす輩あらは不隠置可申出何事によらす神水を呑誓詞を書候而一味同心致し徒党ヶ間敷儀不可仕事
一、諸作第一能種を撰候而蒔付耕作入念荒作之様にいたし候者急度可念詮儀獨身之百姓長煩ひ又は幼少ニ而親に離れ耕作仕付難成者有之は名主年寄立会村中ニ而助合田畑不荒様可仕事
一、常々耕作並商賣等も不致家職之稼無之者村中に有之者遂吟味其趣可訴出事
一、田畑屋敷山林等永代賣買之儀停止に候若質物に差入候はば拾ヶ年限證文ニ名主取寄五人組爲致加判田畑を質物に入金銀を借田畑を銀主に作らせ御年貢者地主上納いたし候儀不可仕事
附タリ倍金白紙手形を以田畑山林を質取並ニ重質二重書入不可致事
一、御朱印之寺社領田畑屋敷質に取申間敷候たとひ證文慥とも
御朱印寺社領之田畑屋敷外江取候儀停止に候事
一、衣類諸道具又は門橋之はつし鉄物類出所不知もの一切買取申間敷候右之品々質に取又は預り置へからす出所知候者に而も請人無之候はば質物にも取間敷事
附タリ身分不相應之質物持来候はば押置可致注進事
一、名主は正直を專にして私欲を不仕慈悲之心有之普く小百姓に心を付身上不成ものを介抱いたし何事によらす村中公事出入有之時は名主年寄立会双方趣意を承届親疎好悪を不撰非を能々分別
いたし毛頭無依怙負取扱可相済勿論滞儀有之は可訴出事
附タリ荷擔之者有之者可爲曲事名主年寄不義有之者急度可申訴事
一、旅人は海陸共沖之口御番所御改等不相済徃来手形所持不仕者は片時之立宿も爲仕申間敷候沖之口御番所御改相済候はば猶出所歳並宗旨も慥に承届逗之日数等訴之宿爲爲仕可申候尤當国御作法之趣堅相守候様急度申付若逗留之内商賣之品或は家業躰も不相知胡乱に見およひ候はば不隠置可申出候且又旅人住居を相願候はば其傳手を以可申出若旅人親類に候共不願出差置候儀堅仕間敷候惣而旅人之儀に付被仰出候趣堅守可申事
一、盗賊悪党人有之者訴人可仕褒美可爲取之其上あたをなさざる様可申附事
一、百姓衣類之儀結構なものを不可着名主者妻子共に絹紬は可着之平百姓は布木綿之外不可着之綸子紗綾縮緬之類襟帯等にも致間敷候然共身体宜ものは役所江断を立差図を請絹紬可着之事
附タリ男女ともに乘物に乘べからず惣而家作等目立候請奢ヶ間敷儀仕間敷事
一、聟取嫁取養子之祝儀奢ヶ間敷無之分限より軽く可仕大勢人集大酒飲へからす所に寄蚊屋之祝新宅之弘物産之祝不相應之儀も有之由可爲停止惣而分限に應じ内證にて軽く祝可仕並葬禮之野酒一切停止之事
一、捨子堅不可仕若他所之者捨置候はば村中に而致養育置早速可注進惣而手寄なき老人幼少之者有之は其所に而介抱いたし置其旨可申出事
附捨子を貰又外之者江遣候儀弥停止に候仮令無拠令子細も有之外之者江遣候はば十歳迄之内ハ其訳申立差図次第可遣事
一、獵師之他爲遊興鳥獸不可取雖爲獵師鶴白鳥取候儀停止ニ候若村中ニ而鶴白鳥商賣いたしものあらば可訴出事
一、鉄炮之儀獵師筒威鉄砲渡候外村中ニ不可隠置候もの有之由訴人有之者当人は不及申名主年寄五人組迄可爲曲事持主之外他人は不及申親族兄弟たりとも堅借用申間敷事
一、捨馬之儀前々停止に候飼馬年寄亦者怪我病気等に而不用立様に相成候共不可捨自然はなれ牛馬有之者名主年寄立会養ひ置早速可申出事
一、馬之筋をのへ候儀停止に候牛馬賣買候はば出所聞届請人を取五人組江相断可賣買不慥成牛馬不可買取事
一、新規之寺社建立之儀堅可爲停止総而念佛題目石塔供養塚庚申塚石地蔵之類田畑野山林等又は道路之端ニ一切建間敷候佛事祭礼等軽可執行新規之祭礼不可取立事
一、元来寺院ニ無之百姓所持之地所を寺院江寄附いたし又は譲地等に致し候儀堅不可仕事
一、寺社之儀住持社人替候はば可注進事
附寺社修覆致し候は役所相断差図可請事
一、佛事致開帳候は可注進當村之神仏他国江當分遷し開帳仕候儀有之者前方に可注進又は他所神輿送り来候様成義これからは不可請取之村中に少しの間も差置申間敷事
一、當村に在之出家社人山伏行人道心者店借地借之者穢多非人之類迄常々致吟味胡乱成者住居爲致間敷候名主年寄江不相達候而他所より来候者一夜之宿も不爲仕様村中大小之百姓水呑等に至迄常々堅可申附事
一、村内之者逐電いたし或は身上潰し候而住居難成者有之者可注進又は他村江子細有之立退来候者雖爲親類當村ニ一切不可差置事
一、男女奉公人之請立候は国所宗旨親類等得と承届下請人を取請人に相立可申無下請猥に請人に相立申間敷事
一、他村之者當村に居住致し度と願出候は昔有之出所家職之様子聞届処江所慥成請人手形取之宗旨相糺役所江遂注進候而可差置店借地借等之者置候とも右同断可心得事
一、百姓田畑子孫江讓分候儀高拾石内に当候様に分申間敷候若無拠子細有之は可申出総而新規に百姓有之候はば可注進跡或之儀存生之内名主年寄並親類立会書附後日出入無之様ニ可心懸事
附跡目無之者不慮に死失候はば所持之品々名主年寄其者之親類立会相改可訴出事
一、田畑屋敷山林境論之無之様常々名主年寄吟味可仕置事
一、毎方帳面ニ附有来候酒屋之外新規に酒造不可仕事
一、當村之内能操勧進相撲又は狂言芝居其外見せ物類一切爲致申間敷候私領に而も分郷ニ而も隣村之境目紛敷地に而致し候はば芝居不始以前に早々可注進事
附有来之外遊所人集不可致事
一、惣而遊女野郎之類一切不可置一夜之宿も致間敷事
一、行衛不相知者ニ一夜之宿も不可借旅人其外何者ニ而堂宮山林道端等ニ死人有之は其者持来候雜物等改名主年寄立会様子委細書附候而可注進若堂宮山林等ニ隠れ忍ひ胡乱成者有之は令詮儀品ニ寄搦捕可訴之其外手負又は不審成者他所来候はば出所を尋附届いたし役所江注進之上差図を請候而彼もの相渡可遣事
一、徃来之輩若煩ひ候はば早速醫師ニ見せ随分致養育能々いたわり食物等入念あたへ看病仕置可注進候行歩不叶先江参候儀難成候はば其者之在所を承届迎を呼び手形を取相渡申候療養も不差加村送等ニ而送出候儀於顕者村役人は不及申宿いたし候者共可爲曲事若病死いたし候はば其者之諸道具等相改名主年寄立会候而封印をいたし置差図可請事
一、殺害人或は致自害候者或は倒れ候者等有之は番人を附置早速注進可仕火事盗賊喧嘩口論手負之者惣而不慮成儀出来候はば同断に無断可注進事
一、人賣買御禁制之條堅可相守召仕之男女拘候節は宗門相改慥成請人手形を取可差置事
一、闕落致し百姓有之は早々可相届尤届之節村役人其者之近き親類召連可罷出事
一、無高水呑之類或は忰等之闕落者其趣意を以是亦早々可申出且又欠落之者他所参候はば押置早速可注進事
附諸奉公人致欠落候はば早速受入江申達可相尋若不済儀有之は可申出事
一、御仕置之上立帰候者又は當地引越相済候もの惣而帳面はつれ宿なし者類假令親類知音たり共一宿之儀は不及申片時之立宿ニ而茂不爲仕直ニ押置可申出候若隠置候我取逃し候もの有之は早速可申出事
一、欠込者有之節追手之者慕ひ来其届有之者早速村中馳集随分取逃し不申様致置注進事
一、村中ニ而喧嘩口論有之は名主年寄立会可裁判他村ニ而喧嘩口論有之節不可馳集人を殺立退候者有之は隣郷之者迄出会い搦捕早速可注進搦捕之儀叶不申はば跡を慕ひ落着所急度見届可申届事
一、田畑荒置へからす永荒場起返切添又は新地之田畑有之者早速可申出隠置脇訴出候はば名主年寄可爲越度事
一、新規合船又は古船買求候共委細書附を以願出可請差図假令極印有之船ニ而も無断讓受候儀堅仕間敷事
一、堀を埋出し又道をせはめ秣場林際を切添田畑に不可仕出前々道なき所江道を附牛馬不可入若道を附替新堀不致候而不相叶所有之者可請差図事
一、用水掛引先規之例を以常々申合置濁水之節争論無之様可仕候水論境論之場江刀脇差弓槍長刀等持出令荷暗擔もの有之は其科本人重かるへき事
一、武家諸士に対し慮外仕間敷事
一、御傳馬宿江定助郷、大助郷より人馬寄候はば問屋年寄致吟味猥に人馬觸仕間敷候其宿え馬圍ひ置面
々へ勝手能荷を附候様成儀不可仕 御朱印勿論駄賃傳馬人足之外常々致吟味置雨風を不厭人馬無滞様ニ可仕若囚人通
り候は無油断人馬を差出大切可仕事
附助郷人馬觸来候はば刻限下違可出之若人馬割難心得候共先無滞出之後日可申出事
一、前々被仰出候唐船荷物拔荷置買仕候儀は不及申紛敷唐者他所持来候者有之候共一切不買取定宿も仕間敷候勿論他所江参候而も疑舗物一切買取間敷事
一、長崎御用俵海鼠干鮑賣買停止之儀前々被仰出候通堅相守可申事
一、蝦夷地産物拔荷筋之儀は不及申御軽物矢羽熊膽皮類並諸国廻着之諸品沖口御番所改不相済出所不相知品買取又は旅人等江取次口入りいたし候儀は勿論暫時に而も預申間敷候若胡乱成産物取扱候もの見および聞及候はば早速可申出事
一、渡船有之村は定之通船賃取之徃来之輩晝夜無遲滞可渡之假令雖爲大水之時定之外船賃多く取間敷事
附徃来之旅人に対し不作法成儀仕間敷事
一、御用之人馬は不及申其外徃来之者駄賃馬人足之儀昼夜に不限無滞可出之事
一、御朱印又は御證文も無之人馬を出候様申之或は駄賃を不出通候者有之者其品に寄押置名主年寄立会詮儀之上怪敷躰にも候はば可注進事
一、村中寄合番屋を造番人を附置家別に銘々火消道具を拵置火之用心随分入念風烈敷時分は晝夜を不限町並は町中村方は村中名主年寄も相廻り自身番を仕若出火有之は村中之者馳集情出し火を消勿論御年貢入置候郷蔵大切に圍可申事
附山林並田畑に而食事等いたし候者火之用心堅相守野火不出様村中子供に至迄申付事
一、村順之廻文晝夜に不限先や江相届手形を取置可申事
一、満水之時堤川除圍ひ候節又者盗人狼藉並火事有之聲を立候節村中之もの十五歳以上六十歳以上之男は不残可出若其場江不出合ものあらは名主年寄可致詮儀事
一、御林御立山之儀竹木は勿論枝葉下草等迄御用之外伐取間敷候假令百姓持林並屋舗四壁之木ニ而も目立候木は不可伐採若伐採遣ひ候はば書附差出差図を請可伐之尤伐採候はば苗木可植置事
附堤圍に植置候竹木猥に伐採間敷事
一、入会之野山面々之持山に而も竹林之根を掘取間敷候鶴之觜を入候儀可爲停止田畑山崩砂入等無之様山林に苗木を植置可申勿論山崩之場所は土砂留りたし置可申事
一、博奕三笠附取退無盡総而賭勝負或は百姓講と名付或は商ひに事寄せ博奕に似たる儀何に而も一切不可仕之子供召仕又は旅人等に至まて厳敷申付若違背之輩有之歟又は右之宿等致し候ものあらは早速可訴事
一、百姓ニ不似合之風俗長脇差を帯し喧嘩口論をこのみ或は大酒を飲酔狂いたし行跡悪敷もの有之は可訴之事
一、総而御料之百姓公事訴訟等何事によらす江戸江出候儀役所江不相伺候而猥に罷出間敷候用事之品名主年寄遂吟味以書付役所江可申出事
一、他所江参一夜泊りに罷出候程之儀は名主方江断可罷出若他国江奉公に出候與又は用事に而罷越候はば其子細名主年寄五人組寄より以書附可相断公事訴訟にて 公儀江罷出候共其趣名主年寄五人組江可相届尤名主年寄は右之趣早速可注進事
附所生れ之者たりというとも他所年久敷罷有立帰候者有之者其段可申出事
一、惣而從 公儀被不候人足扶持賃銀等當座ニ銘々割渡帳面ニ請取候趣書付爲致印判可取置惣而継合勘定不可致事
一、毎年御年貢免定等出候はば村中之者江爲致披見名主年寄方より村中大小之百姓出作之者江も不残相觸寄合候而致免割小物成口米浮役臨時之もの共可納之米銀壱人宛委細書附小百姓疑敷不存様其訳爲申聞逸定立会披見仕候旨別
紙書附銘々印形可取置郷蔵之戸にも免定之写いたし可張置事
一、御年貢割仕候即夫銭小入用を御年貢に入交一同に不致之差別を立可割之算違ひ無之様随分入念御年貢之儀は不及申外物共申渡候日限之通
相納候様常々村中可申合事
一、公用之儀又は村中申合等之儀ニ附名主方江百姓寄合候節村入用掛之食物酒肴等一切給申間敷事
一、五人組帳、宗門帳に押置候外ニ印形拵置申間敷候若子細候而印形替候は名主年寄は役所江可相届小百姓は名主年寄江可断名改候はば早速致所五人組帳、宗門帳江も改候名を可記事
一、百姓帯刀堅停止之事
一、御鷹方之儀は前々之通可相心得事
附古来鷹待場有之村方は不及申其外巣鷹籠候場所等見當り候はば名主へ申聞早速可申出事
一、御益ニ成候事は少分之儀ニ而も無遠慮可申出跡々申渡候儀ニ而も時節に寄百姓迷惑仕候儀も有之は其品申出可得下知事
一、御料所国々百姓共御取箇並夫食種貸等其外願筋之儀ニ付強訴徒党逃散候儀堅停止に候處近年之内にも右躰之願筋に付御代官陣屋江大勢相集致訴訟候儀も有之不届至極に候自今以後厳敷吟味之上重罪科ニ可被行候事右之條々堅可相守此旨違背之輩有之者可爲曲事此帳毎年正月五月九月十一月一ヶ年ニ四「度村中大小之百姓寄合慥ニ爲讀聞常々此趣合点仕罷在候様入念可申付者也
文化七年三月
御役所
前條之御ヶ條五人組帳前書ニ被仰付一ヶ奉拜見候則名主方え写置村中大小之百姓壱人も不残被仰渡候趣一ヶ條宛得心仕急度相守申候若此上相背候品御座候ハ、如何様之曲事にも可被仰付候爲其連判差上申候 以上
文化何年何之何月
名主
年寄
小百姓
五人組 」
加紙
一、御制札前は勿論村之内猥に牛馬に不可乘候事
附タリ名主宅前乘馬すへからず徃来之旅人たりとも口取無之分は急度五人組罷出可差留事殊名主宅之義は在郷たりといへとも休泊之役方居合候節は申分難相立自然と村之風儀も不宜御締方相成候条能々入念大小之百姓江可申聞事其上にも不礼有之時は名主年寄可爲曲事候
※「 」は市立函館図書館所蔵『文化七年江指五人組帳』によって補正した。
この御仕置帳は幕府の松前奉行が文化七年(一八一〇)に各村に示達したものである。前文は七十三か条であるが、これは幕府直領の代官所の御仕置案文に蝦夷地の特殊性を加味して作製されたものと考えられる。その内容は名主、年寄が村運営について配慮すべき留意事項について詳細に条文化し、さらに五人組の遵守すべき条項を当時の文章としては平易に分かりやすく示している。
この御仕置帳は各村の名主宅に備え付けられ、従来は一年に一月末、八月一日の二回行われる村内大寄合を、この発布の年は四度にわたって行い、これを村名主が全員に読み聴かせ、さらに全員が署名捺印して帳面
とし、村役場が保管するという徹底した方法で、この仕置の施行を求めている。本村方仕置は前述したように文化四年から文政五年(一八〇七~二二)まで、十五年間の蝦夷地の幕府直轄時代における松前奉行が文化七年に発布したものであるが、松前藩のこれに照応する文章化された仕置帳は未だ発見されておらず、従って藩がこのような形式化されたものを村方には示していないのではないかと考えられる。
松前藩は恒例として正月三日各村名主の登城藩主への拝賀の際、藩法を読み聴かせて、各村名主の村治の自覚をうながすということであったから、具体的な仕置書はなかったのではないかと思われる。
第三編 近世の福島
第二章 創業期の各村
第三節 村治組織
(三)村方の年中行事
近世我が国の年中行事は農業を中心とした行事に暦法や日月が加味されて完成し、生活、文化等はこの年中行事のなかで行われてきた。しかし、農業を持たない近世の蝦夷地では、産業、生活の中心が漁業であったので、年中行事もおのずと漁業を中心としたものであった。しかも、漁業の中心が三月、四月のニシン漁業と、九月から十月にかけてのサケ漁業が中心であったので、総ての行事をこの主要漁業の時期をはずして組み立てられていた。
ニシン漁業の時期の三~四月は彼岸会、潅仏会、ひな祭等の行事があるが、これらの行事は繰り上げるか、繰り下げをして最盛期を避けた。彼岸会は二月の下旬に行い、潅仏会(四月八日)の花祭り、ひな祭は五月に繰り下げていた。二月の初午、節分は漁業を主体とした行事として位
置付けられていて、節分に行われる神社の鎮釜神楽で、煮え湯のあわ立によって漁業の豊凶を占い、漁家では豆撒の豆を炉中の灰に置いて、豆の焼け方によっても豊凶を占っていた。この二月には浜清女神楽を行ってニシン漁の豊漁と安全祈願をしてから着業し、三月に入ってからは網の準備も出来ると、海に響くような一切の音を出さず、時鐘も寺の鐘も鳴らさず、静かにニシンの群来るのを待つ。三月中旬に始まるこの漁は四月を中心とし、五月初旬まで行われ、一年の生活費を稼ぐ。ニシン製品が商人に渡され、その金が漁業者に渡るのが六月の末であるので、昨年来青田買いをしたものや店借を節季払をし、残った金は後の生活費に当てる。
七月から八月には海鼠曳や鮑、若布や昆布、磯廻り漁業をしながら、各神社の祭例には報謝の念を込めて奉仕し、また、お盆の精霊迎には丁重に行う。また、十四日から二十日までは各村の広場や川原で毎夜盆踊があり、思い思いに仮装した男女が短い北国の夏を楽しむ。
九月に入ると蝦夷地の各河川に遡上するサケ漁業に出稼をする者、地場にあって福島川や澗内川にウライ(簗
)を築いたり、網をかけてサケ漁に当り、十一月に終って、この精算で節季払をして正月を迎えるという、正に漁業を通
しての一年の年中行事が組まれている。
今諸史料によってこの年中行事を見ると、次のとおりである。
本表は松前福山諸掟、安政二年五月風俗書上、文政九年四月江差年行事 奥平氏、天保十二年年中行事 蠣崎蔵人広常、松前御目付所 年中行事 奥平貞守、松前蔵時記草稿、菅江真澄 えそのてぶり えみしのさえき、凾館郷土暦元木省吾、維新前町村制度考 村尾元長、松前年中行事 高倉新一郎、新撰北海道史、上ノ国村史、松前町史、白鳥氏日記、常磐井家古文書、宮歌村古文書によって作製した。
第三編第二章
第四節 村民の義務
(一)税役
近世各藩の財政および家臣への扶持は、百姓年貢や店役、住民役が主体であった。各藩が運営されるなかで幕府への助役、参勤交代等で毎年の如く歳費がかさみ、五公五民という百姓年貢が、甚だしい場合は津軽藩のように六公四民にまで賦課強制されていた藩もある。幕府の方針である「百姓は生かさず、殺さず」がその藩の公課基本となっている。百姓年貢五公五民の場合、仮りに百姓が米を十俵生産した場合は五俵を藩に納め、多くは小作であるので二俵半を地主に取られ、二俵半だけより生産者に残らず、これで生活しなければならなかったので、所詮水呑百姓より上ることができなかった。
松前藩の税役として初期に見えるのは、現物役で、砂金税役や漁業製産物等がある。砂金税役については、板倉源次郎筆『北海随筆』中に、
古ヘ砂金盛に出たる時は、他邦の者も多いに入込み、蝦夷地へかけて賑ひける。砂金を採るの運上、御領主へ奉る所一ヶ月に一人砂金一匁(三.七五グラム)づつなり。一匁の運上は聊か成事なれども、数萬人より納る也。其取集る日は彼所に渋紙四五枚敷て砂金を取集め集めする内に、山の如くに砂金は集りけるとなり。御領主へ納る所の砂金は三十歩の一にして、此砂金一国の利潤となる事あげて云うべからず。シャムシャイン乱後砂金業絶えしより、民の利澤も半になりける・・・略
と記述されていて、砂金掘が月に納める砂金は一匁であるが、月平均では三十匁の収入があり、その三十分の一が税役であったとし、この砂金収入は大いに初期の松前藩財政を潤していたという。松前藩の領内は徳川幕府の初期貨幣政策のなかでは、最北陬遠の地であるため、江戸の両・分・朱の貨幣が流通
されず、また、大坂を中心とした銀も、物資交易が中心であったから、殆ど出廻らず、領内の通
貨の流通は砂金が主体であった。これは五匁の砂金を半紙に包み水引をかけ「砂金五匁」と表示して通
用した。普通砂金の通用は十一匁三分をもって一両としていた(寛政期)ので、この五匁包は二分として通
用されていた。従って租税公課も金納のものは総て砂金であった。宝暦年間(一七五一~六三)以前の沖之口番所取扱規則を見ても、現物役以外は総て砂何匁何分と表示されていて、この頃までは砂金流通
が主体で、以後金納と変っているのは、このころから通貨の流通が順調になって来たことを示している。
松前藩政期のうち寛政元年より享和二年(一七八九~一八〇二)までの租税公課は次表のとおりである。
享和二年
一両に付銭六〆五〇〇文 砂金 一分は六〇文 (松)は松前
米一俵は銭二〆二一九文 砂金 一両は七匁二分余 (箱)は箱館
運賃一俵に付 三〇七文 (江)は江差
同揚賃 四文 (在)は在方
参考史資料
江差両御役所御収納廉書文化四年 北海道史 新北海道史
松前沖口御番所取扱御収納取立方手続書文政七年 上ノ国村史 松前町史
維新前町村制度考 村尾元長筆 郷土史辞典 東京堂発行
北海道志十三巻租税 常磐井家文書
新撰北海道史 宮歌村古文書
松前蝦夷地に於ける経済関係中心の和語集解 南鉄蔵
この表に見る通り当時の税役は極めて複雑なものであった。村方の主要税役は漁業と船役であるが、特にその中心となるニシン税役は、外割ニシン、胴ニシン、身欠ニシン、披ニシン、丸干ニシン、数の子等は製品の現物役として十五分の一を村役を通
して、藩庫に納め、昆布も同額、さらに干鮑、海鼠も同様であった。また、鮭は塩引、切囲とも金納であった。漁家の殆どは福島の場合大網を用いず、刺網漁が主体で、ニシン漁一把は、網目長さ二寸三~四分、網の幅目数三九~四〇、長さ二丈七尺を一把、五把を一放しとし、この刺網を二~三人の漁夫と磯舟(保津)、持符船で操業したが、この場合磯舟着業者は二人迄一分、持符船三人二分、三半船四人二分外四五〇文であった。
このほか、場所出稼、追ニシンは蝦夷地番船役は一〆九二〇文と判銭一艘一八〇文漁夫出稼役は一人一〆二〇〇文。その他鰯曳網冥加金は三〆文であるが、福島村の場合享和二年(一八〇二)鰯曳網を一投着業したいと与惣兵衞
から願い出ているが、その際の御礼金は一両であった。
また村方役では薪役があり、福島村は、『戸門治兵衞旧事記』によれば、
文化四年(一八〇七)
當村軒役木御春木与申候、御城内焚用薪四尺二、五尺壱張与仕拾三軒只今迄上納仕候。當村家増百拾軒に御座候。
とあって、約一〇分の一の薪を現物で納め、これを船で松前に送っている。また、福島村の特殊なものに御門松役がある。それは前同史料中の、寛永元年(一六二四)の項に
元和三年(一六一七)金山発掘以来村内不漁不作ニノミ打続キ戸数僅カニ四十戸に及ベリ、火災数々起り今ヤ中絶ニ至ラントセリ、時ニ月崎大神ノ神託アリ、オリカナイ村ヲ改メテ福島村トセヨトノ仰ナリ。仍リテ松前志摩守公広へ右之趣キ申上改村ノ件願出タル處御聴済トナリ、夫ヨリ多漁豊作繁栄ノ村トナリタリ、其御礼トシテ御城内ノ正月ノ御門松ヲ年々献上スルヲ例トセリ。
とあって古来から城中門松用松の枝二〇向分と小松多数を城中に献上する慣例となっており、その外福島神明社の親神に当る松前神明社にも門松一向い、小松二〇本を奉納することになっていた。この門松献上は村内の各小字の村が例えば慕舞村と日方泊村(共に現字日向)と組み合せた小字で、年番に村内や桧倉沢で松の枝を伐り、組み合せ、馬で松前に搬び、城中に献上し、藩からは太儀料として黒米が下賜されていた。
村中庶民に対する税役は、村方役があり、これは上等三〆文から下等の七〇〇文にいたるまで、その分限に応じ、村寄合で決定して賦課徴収したが、このうちには村が藩に供出する仲間料も含まれていた。さらに村内では村方見聞割があったが、これは、村役場(名主役場)の筆墨料、燃料費、書役雇賃等や村役旅費等も含まれていたが、その額は不定で予算を組んだ上で、大寄合で確定した。
商家、職業に対する税役は、商家の場合店の坪数に対する坪割役、手代・丁稚を使用する場合それぞれ役があり、料飲店で女子を抱える場合は抱子役、旅籠を営業する場合は五~六両の営業税を課され、吉岡に多かった酒造も冥加金は七両と高額のものであった。商家の営業税は収入の申告によって決定されたほか、外商のものは棒役、豆腐役、五十集役、諸職人役銭等があった。
農業、林業に対する課税は、畑作の場合詳細な取り決めがなく、耕作者は馬大豆を一~二俵献上するということであったが、寛政年間(一七八九~一八〇〇)にいたって、一反九〇文と定められたが、米についてはまだ試作段階であったので、詳細な税役は成り立っていない。杣人役は入山一人について三匁三分(一両の三分の一)、杣夫が炭竃を築いた場合、一枚に付当初は木炭三六〆であったが、のち、一枚一〆二〇〇文の金納と変っている。
(二) 寄合
各村の運営は、村民全戸が集合して行われる大寄合と、臨時に行われる寄合があり、これには各戸主の出席が義務付けられていた。大寄合は一月二十日から三十日までに行われ、その会場は名主宅で、福島村は村役場の完成した享和年間(一八〇一~三)以降はここが会場であった。一月の大寄合では先ず名主・年寄・百姓代の村方三役の決定と組合頭の任命で、文化四年(一八〇七)の福島村の例では、名主住吉達右衞
門一人、年寄永井勘九郎、笹井庄右衞門、花田伝七の三人、惣組頭(百姓代)永井勘右衞門一人、組合頭甚兵衞
、勘之丞、治右衞門、吉四郎、三太郎、喜兵衞、吉郎兵衞、兵吉、甚八、久太郎、六之丞の十一名であった。村役が決定した後、その年の一月から七月までの行事予定を決定する。この場合、一月から二月にかけての宗門改下書の作製と清書帳の作製、村の主要産業である漁業の操業のうち、鮑、海鼠、若布、昆布等の採取等の予定日程も決める。さらに村の運営費用である村方見聞割の各戸負担額を定めるほか、神社維持および神官の生活維持等も協議し、この外荷物逓送等も決めている。
八月一日には第二回目の大寄合が行われ、夏祭から十二月までの行事を協議決定している。さらに名主が辞任した場合とか、巡見使下向とか、藩公用使役、公用金を課された場合等は不定期の寄合を開催して決定した。『宮歌村文書』のなかでも、
一 名主友次郎病気ニ付退役いたし、百姓中相談之上後役長右衞門相立候由令承知候。是も惣百姓中相談之上誰を名主役ニ仕度段此方へ願出、此方可申付事ニ候。
と知行主の松前八兵衞は村中で決定したことだから、これを承認したと述べている。他村では三役が決定した場合は、その旨を藩町奉行所在方掛に届け出、奉行の承認によって正式に就任した。
宮歌村の例をとれば、各村には次のような帳簿が備えられていた。
天保十三(一八四二)年寅年政役者
名主 能登屋吉兵衞
年寄ハ 善兵衞
百姓代ハ 長右衞門
右政役渡し候節、差送候品左ニ記し置
一 御用状箱 東西行弐つ
一 御用燈籠 壱張
一 同丁ちん 弐張
一 御用継立帳 壱冊
一 村請入用帳 壱冊
一 永調書上帳 壱冊
一 鯡御判書上帳 壱冊
一 御宗門帳 壱冊
一 大茂内願書写 弐冊
一 御用布風呂敷 壱反
右之通寅正月一七日請取渡相済申候。
以上。
とあって、各村々は人馬継立、御用状継立、宗門改等が重要な運営事項であったことが分かる。
(三)各村への賦役
松前藩政時代各村の村民は、多くの税役を納めていたほか、労力を提供する賦役も多く課役されていた。徳川幕府は各街道の整備と併せ、公的物資の輸送や人の往来に必要な馬・人員を供出させる助郷制度を確定したが、これは幕府が発行する逓符所持者から連絡を受けた場合、必要な人馬をその村の責任で供出するというもので、それに働く人は役としての労力奉仕を強要されるというもので、主要街道はこの利用者も多く、それらの村の住民と、また、近くの村にまで助役を求められるなど、住民の迷惑ははなはだしいものがあり、その方法は蝦夷地にも及んでいる。
蝦夷地内和人地は、松前を中心として東は亀田(のちには石崎村)、西は相沼内(のち熊石村)まで、それぞれ一二〇キロメートル間に街道が展開していたので、各村はその村の区域内街道の整備の責任を負わされていたので、その道普請と管理は村民の大きな負担であった。先ず川に架かる橋のかけ替、修理、護岸等はすべて村民の拠金によらねばならないし、街道面
の補修も怠りなく行うなど、村役にとっては厄介な問題であった。とくに福島村から市ノ渡りの知内川の渡しを経、栗の木椹板(湯の里町堺の坂)まで約一六キロメートル間の街道には、兵舞道を通
る四十八瀬の徒渉川があり、さらに急峻な茶屋峠があり、この頂上には御救小屋と称する茶屋もあって、この間の道路管理は容易ではなかった。
各村に課せられる賦役の一つに御用物、御用状の村継送りがあり、この村継も村役の頭痛の種であった。『宮歌村文書』中の嘉永元年(一八四八)の『御用物御用状継送扣留』において常に隣村との間で連絡を取り合って、遺漏のないように心掛けている。
一 兼而先觸之御普請役様方長崎俵物扱昨日尚刻付之おしらせ着ニ相成候、今當村へ御廻り候趣夜中とは申乍ら依之明九日當村之(江)御廻右ニ相成候間明日は在筋順次下ニ相成候間此段案内聢と御しらせ可申上候 以上
九月八日
白符村
村役人
しかし、このような慎重な御用物の取扱いをしながらも、送達が遲れてその原因糾明を迫られるということもあった。これら藩の御用状で急を要するものは刻付帳が添付されていて、何枚が何刻に受け、これを何刻に隣村に渡したことを記入して責任の所在を明らかにしている。前同史料によれば、
右御用状昨十八日七ッ時過(午後四時過)白符村至来仕候処只今御同人様御帰り如何之訳ニ而遅滞いたし候御預御咄ニ候得共前書之訳柄申上候処、何れ之村ニ而滞候哉何日之何ッ頃相達何ッ頃継立候段於村々之添書いたし早々御役所迄差出様被仰付如期御座候 已上
九月十九日
福嶋村
御名主
白符村
先々 御名主衆中
というもので、御用状の送達が遅れ、その手紙を書いた本人が福島に来るという状況で、その御用状が遅れた原因を調査して藩に報告することを求めているという状況で、村役は常に逓送人の確保と、結果
の確認に頭を悩ましていた。
また、街道の人馬継立については、宿場を持つ福島、吉岡の両村が中間起点であった。福島村名主の住吉屋辰右衛門、同吉岡村名主船谷久右衛門は共に旅籠を経営しているので、その采配はほとんどこの両者が行っていた。
このほか、村役とし仲間料がある。これは松前城内の雑事に従事する仲間を、初期にはその村に割当された仲間を、村が若者を選んで、城中に供出していたが、中期以降は仲間料として各村からその賃金を支払う金納と変った。この金額は村方役のなかから支払っていたが、宮歌村のみは江戸旗本松前八兵衛家の支配地であったので、宮歌村から一人、枝村の江差九艘川村と大茂内村(乙部町字栄浜)の二村で一人の計二人を、毎年春に江戸に送り、前年江戸に出ていた仲間が帰村した。この往復旅費はこれらの村の負担であった。
第 三 章 各 産 業 の 進 展
第一節 漁 業 の 変 遷
【ニシン漁業】 近世蝦夷地の漁業の中核をなしたものはニシン漁業である。 ニシンは和名を
「かど」、 「青魚」 「鯖」 「白」 「鰊」 の文字をあてていたが、 近世において特に 「鯡」 の俗字が用いられていた。
蝦夷地では米が穫れず、 ニシンが肥料として本州へ移出され、 米となって還元されて来るので、
米に代わる魚として 「鯡」 という字が造られたといわれている。 それほど、 ニシンは蝦夷地の漁民にとって重要な魚であったが、
また、 海流の関係かこれ程豊凶の激しい魚はなかった。
このニシンは春二月末 (旧暦) 津軽海峡東口に姿を見せ、 順次海峡部、 福山湾を経て北上の過程で、
群をなして海岸に迫って産卵するので、 沿岸は白く泡立ち、 これを 「群く来きる」 と言った。
三月から四月を最盛期とし、 五月には終るが、 五、 六月は製品の処理に追われ、 六月末に完了する。
ニシン漁業は近世のやや末期まで刺網が用いられたが、 その網について 『夷諺俗話いげんぞくわ』
では、
鰊網壱把といふは、 網の目長さ二寸三、 四分、 網の幅目の数三十九、 四十位、 網の長さ弐丈七尺
(約八、 二メ-トル) を壱把とす。 五把を壱放と云ふ。 碇いかり縄は藁にて、 三つ繰に打て、
夫を十尋位に切り、 頭に浮を付く。 浮は木にて長さ七寸位、 枕の如く拵こしらへ細の根に重さ壱貫目位
の石を細縄にて結付る。 是を碇といふなり。 又ナッチ石といふは、 二、 三百目位の石を細綱にて結こしらひ置、
海へ差込む前に網五把壱放に結目々々に結つけ、 網を海へ差込時沈みよき様拵積置事なり。
… 略 …舟を乘出すに図合船は六人乘組、 夷舟は三人にて乘出す。
とあって、 ニシン漁業は網一把 (一反) ×五把で一放 (約四一メ-トル) をおよそ四~五放を磯舟又は保津船で従業漁夫三、
四人で一か統を経営したが、 資力のあるものは図合船を用いて十放から二十放位まで経営する者もあった。
漁業技術が向上し宝永年間 (一七〇四~一〇) ころから漁網が改正され大網が使用されるようになった。
これは場所請負人が請負場所に大形投資をして、 漁獲量を高めるための手段であったが、
そのためには多くの資金と資材、 漁夫を必要とし、 津軽、 下北、 秋田から多くの入稼漁夫が入るようになった。
しかし、 和人地の漁民は資金も乏しく、 幕末まで依然としてこの刺網漁を続けていた。
この大網でニシンを獲る漁業が発達すると、 一度に大量のニシンを水揚げするので、ニシン加工の処理ができず、これを釜で煮て干し、
魚油を製造するほか、 煮魚を干して粕とし、 本州農家の畑作肥料として移出するようになった。
ニシン漁業は豊凶を繰り返す不安定な漁業で、 奥地各場所で大網を用いるようになると、
その豊凶は激しくなった。 明和年間 (一七六四~七一) はこの漁の最も安定した時代といわれるが、
安永五~六年 (一七七六~七七) 道南地方で薄漁となり、 天明二年 (一七八二) 以降は桧山地方が薄漁となり、
同年以降はますますはなはだしく、 生活に苦しんだ漁民は追ニシンをして西蝦夷地に出漁し、
その地方のニシン漁は大いに進展するようになった。 この追ニシン漁者のことを二に・八取はちとりとも呼ばれるが、
それは場所請負人に二割を納めることによるものである。 このようなニシンの薄漁は、
場所請負人が各場所で大網 (角網、 笊ざる網) で一挙に大量のニシンを取り、 これを搾油するからだと、
寛政元年 (一七八九) 江差地方の漁民はその禁止を求めて藩に願い出たが、 藩は何らの措置を講じなかったので、
翌二年には漁民は積丹半島付近まで大網切断の実力行使をするなど紛争は絶えなかった。
藩はそのため追ニシンの石狩までの進出を認めたため、 道南地方の漁業者が二・八取としてこの地方に出稼する者も増加した。
収獲されたニシンは和人地、 西蝦夷地の季節稼働者が多くなると、 さまざまに加工され本州各地に移出された。
領主松前氏の幕府献上品のなかにニシン加工品に鰊披、 鰊干物 (身欠鰊)、 鰊子 (数の子)、
寄鰊子 (寄せ数の子) があるが、 そのほかには粒鰊、 筒鰊、 早割さきり鰊、 外割ほかわり鰊、
胴鰊、 白子、 笹目、 締粕、 鰊油等がある。 粒鰊は生のニシンの事をいい、 筒ニシンは一本干をしたもの、
早割、 外割は背割をしたニシンを披いて干したもので、 披ひらき ニシンともいう。 胴ニシンは身欠ニシンを取った後に干したもので主に肥料となる。
白子、 笹目はニシンの加工の内臓やエラを干したものでこれも肥料となる。 数の子はニシンの腹子を干したもの。
締粕はニシンを大釜で煮て締機で圧縮し、 玉にし、 それを天日で乾燥させたもの、 ニシン油は締粕を造る際、
分離した油である。
ニシンは近世初期には生の食料にするか、 天日で一本干をする筒ニシンあるいは身欠ニシンにするより方途がなかったが、
中期以降に入ると、 九州国東くにさき半島付近で生産され、 全国の農業作物の肥料として需要の多かった干鰯ほしかが渇し、
関東九十九里浜の生産も低下したことから、 近江商人が、 身欠ニシンを取った後の廃棄同様の胴ニシン、
白子、 笹目等を北国、 関西地方の田畑で試用の結果、 干鰯に遜色のないことが分かり、
大々的に喧伝した結果その需要が大幅に拡大した。 この時期は享保年間 (一七一六~三五)
以降といわれるが、 それに従い西蝦夷地の大網使用による大量水揚げ、 入稼漁夫の拡大によって加工品の増産等、
本州需要の増加に対する対応が見られ、 ニシン漁業はますます拡大された。
【福島のニシン漁業】 福島町のニシン漁業のはじまりは、 昭和十年に刊行された
『北海道漁業志稿』 (北水協会編纂へんさん) の冒頭に、 「文安四年 (凡四百四十餘年前)
陸奥の民馬之助と稱する者、 松前地方 (今の白符村付近) に来り、 鰊漁に従事す」 と記されていて、
これが根拠となって福島町がニシン漁業発祥の地であるといわれている。 しかし、 この漁業志稿が何を出典としてこの記事を書いたかは不明であって、
極めて出典根拠に乏しいものである。
馬之介の白符村入植の過程については、 『白符・宮歌両村舊記』 (北海道大学附属図書館蔵)
があり、 元文四年 (一七三九) 白符村と宮歌村との村堺問題で訴訟となったとき、 開村の経過を記した文献があり、
それによると、
當村之由緒御尋ニ付申上候御事
一當村之根元ハ津軽ねっこ村馬之助与申者、 上山中辺そり与申所へむかし相渡り居候所、
御殿様御尋御座候而御城下あら町ニ屋舗被下置、 しはらくはいかい仕候。 然共妻子養可申様も無御座、
在郷願上候得ハ何方なりとも勝手次第には候得共、 歌ハ手近ク候間うた内ニ居候様被仰付、
依之唯今之処鮑あわび 多ク、 夏ハ鱒、 秋ハ鮭沢山ニ御座候故ねまつり江罷越居候、 其砌ハしとまい迄家一軒も無御座候所、
其後段々身過能商事自由仕候故牢人共追々参候而、 家数ニ罷成候ニ付頭分之者願上候得ハ 御殿様則馬之介ニ肝入被仰付候、
其時節ハ宮ニ夷弐間 (軒) 御座候。 …以下略…
元 文 四 己 未 年 八 月
白 符 村 小 使
伊 四 郎 判
惣 年 寄
惣 百 姓
肝 入
弥左衞
門 判
とあって、 津軽ねっこ村 (現在の南津軽郡田舎館村) から馬之介というものが蝦夷地に入って来て、
白符村に居住し、 村の代表者となったことは確かであるが、 前記史料から見ると、 馬之介の白符定着の年代は文安四年
(一四四七) より一五〇年の後の寛永年間以降の事と推定される。 それは殿様の命により肝入となったといっており、
各村役の任命はこの寛永年間以降の事であるので、 馬之介が白符村に定着し、 ニシン取をしたというのは、
それ以後の事であると考えられる。 しかし、 このような口碑伝説のあることを大切にしなければならないが、
福島町のニシン漁業は各村に我々の先祖が定着した時から始められていることは確かである。
福島町内の各村にニシンが廻游するのは、 旧暦の二月中旬から三月にかけてである。
ニシンは津軽海峡東口から海峡中央部を通り、 矢越岬から陸岸沿に松浦の楚湖岬にぶつかり、
方向を変え、 礼髭沖から吉岡海岸、 日方泊を経て月崎、 釜谷を経て大きく迂廻し、 沖合に出て白神岬を越えて、
松前沖を経て北上するというコ-スを取っていた。 従って下海岸、 上磯、 木古内、 知内等は遙か沖合を通
るためあまり漁獲がなく、 本格的にニシン漁の始まるのは福島沖であったので、 福島沖がその年の水揚げの吉凶を占う場所として極めて重要な場所であった。
従って松前領内でニシンの初水揚げされるのは福島湾内であるので、 水揚げをした場合直様すぐさま名主の処に届けられ、
名主はそのニシンを魚献上箱に入れて小役の者に持たせて、 吉岡峠を登って城中に届けると、
藩主以下重臣が列席して祝詞を述べることが慣例となっていた。 また、 ニシンの廻游経路については、
『常磐井家文書』 の日記に詳しく、 次のように記してある。
(天保四年 日記)
二月十三日西ヒカダ風吹晩七ツ半時に禮髭村鯡にしんくぎ始メ其夜夜六ツ半時ニシトマイ沖鯡
くき始メ十四日十五日迄沖上ケいたし候。 尤十五ニハ東風ニ相成誠ニ大漁ニ御座候。
尤巳ノ年之寒之なぎハ十二月十六日、 寒ハあき辰年正月廿七日ハひがんニ入、 土用は二月晦みそか日ニ入候処、
二月十三日初鯡相くき大漁仕候。 御城下表十三日十七日迄鯡大漁ニ御座候。 十三日前浜山中船がくし迄鯡
くき候
(元治元子年 日記)
三月十五日明七ツ頃細澗之沖ニ而鯡くぎ拙者釜谷之仁太郎両人組ニ而鯡漸ようやく三樽計取鯡
ハうす鯡ニ而多取不申名主元兵衞御上様江献上仕、 御上様御尋被成元兵衞申上候ニハ福嶋領細澗之沖ニ而くぎ依而鯡
献上申上奉候。
以上
(慶應二丙寅年 日記)
三月十二日昼九ツ頃福嶋村領しとまへ崎漁少シ鯡くき申候。 拙者仁印組ニ而少計取、
宮歌領ヲッコ沢少シくき候得共、 是も少シ計取神明宮、 稲荷宮江献上仕申候。 但シ弐匹宛四匹上候。
十八日夕四ツ頃干瀉泊り川尻沖ニ而鯡群く来き大漁仕候。 此夕宮歌村領地ニ而鯡少シ群来、
福嶋村領地干瀉泊り相応大漁ニ御座候。 御上様へ御献上申上候。 拙者儀ハ鯡之御役御免御座候、
是ハ古来之通り候。
とあって、 ニシンの初水揚は、 凡そ二月中旬から三月中旬で、 その廻游経路も前述のとおりであるが、
ニシンの群く来きるときは正に漁師の生命を賭した戦の場で、 僅か三十~四十日間で一年の生計を生み出すため、
総てをこの期に集中していた。
年中行事のなかの歳時記を見ると、 村の一年はニシン漁業を中心とした生活であったが、
月別にそれを見ると、
一月
○十一日船魂祭の日で鯡大漁祈願をする。
○十五日吉岡村は八幡宮鯡漁業豊漁祈。
○二十日福島村前浜鯡豊漁御神楽斉行。
○二十~三十日村中大寄合で村中の漁業協約と月別行事の取決めを行う。
○二十日正月終了後若者は山に入り、 その年の薪炭材の伐り出しを行う (約十日間)。
これは鯡釜薪用にもなる。
家庭婦人はこの冬期間内に鯡漁業に用いる刺子、 手甲てっこう、 指貫等の裁縫を行って過ごす。
二月
○節分には、 豆撒の豆を拾い、 これを炉中に並べて焼き、 その豆が白く焼けた場合は豊漁、
黒の場合は不漁とし、 初午祭の際に松前神楽の鎮釜神事では、 煮湯のあわ立が、 鯡の廻游に合わせ、
吉凶を判断した。 この時期に三月三日の雛祭と、 彼岸会法要を二月初旬に行う。 また、
この期には鯡漁業の着業準備に入り、 二月十日頃には浜清女神楽を前浜で行い着業する。
三月
○この月に入ると寺院の鐘や、 消防の半鐘など海に響く音は一切出させず、 また海岸での焚火等は禁止し、
ひたすら靜肅にして鯡の陸岸に近づくのを待つ。 灰色空に鉛色の海が映えるころ、 鯡
の大群が東からやってきて通過する際、 楚湖岬から内湾を通り、 陸岸に群来ると豊漁、
沖を通過して北上した場合は凶漁となるので、 その一瞬をかたずを飲んで見守る。 鯡
が産卵のため陸岸に近づいてくると、 海は白く濁り泡立ってくる。 それを発見した漁師は立火を上げて鯡
の群来たことを知らせると、 大きな船は十~二十放、 磯舟や保津船で漁をする小前の漁師は多く二~三人で五放程度の刺網をかける。
家族は握り飯の仕度や、 加工の準備、 手伝人の呼び集め等に忙殺される。
○いよいよ沖揚が始まって、 網目一ぱいに刺った鯡網を揚げ陸に搬ぶと、 待ちかねた女達が鯡
をモッコで廊下といわれる納屋場に搬び、 ここでは先ず内臓と笹目を取り、 十四匹を縄で通
して一束として納屋に掛けて干す。 このように干した丸干の筒鯡や、 二、 三日干してそれを上部の身の部分のみをけずった身欠鯡
、 外割等を製造し、 大量に獲れる場合は、 釜で煮た上締機で締めて鯡粕を造り積み上げておき、
一段落した後この締粕を砕いて浜に筵を敷いて干し製品にするが、 この群来は漁期中いつでも獲れるものではなく、
何日か群来るのでその一瞬が一年の生計を賄うため、 漁師以外の人でも前出史料のように福島神明社の神主笹井武麗たけあきらさえ、
刺網組の中に入って鯡取をしているし、 商店主、 杣夫を始め村中の男は総て鯡取に働き、
また、 女性は鯡搬び、 加工に働き、 食事も立ったままで握り飯をかむという状況であった。
城下でも侍が鯡取休暇を願い出、 鯡取に当り、 奥方、 女中たちまで手伝いに走り廻った。
○文政六年(一八二三)三月朔日ついたち東部巡視に出発した松前家十四世藩主志摩守章あき広は、
白神の峠を越え、 礼髭村から福島村の沿岸を展望したとき、 正に鯡群来の最中で、 次のような書と俳句を残し、
その盛況を絶讃している。
三月朔身は銀栄の
馬に跨り 白神山
中之嶮道を越し
礼繁(髭)より遙に福島
に至り青魚にしん一円に
群来実に北土の盛
事也
淡雪と
まこう渚の
魚の泡
維 獄 印 印
(松村文氏所蔵)
この同一文書の句軸を函館市五十嵐重雄氏が所蔵しているが、 殿様もこのような鯡
の群来ているなかで、 たくましく働く村民の姿に感動したのであろう。
四月
この月に入ると鯡漁が一段落するので、 北上する鯡を追鯡するため図合船に刺網を積んで積丹半島以北の余市、
忍路、 高島方面に二に・八取はちとりとして出漁する。 残った漁師は四月末ころから粕干や身欠鯡
の取り入れをする。
五月
四月に行われる灌仏会 (四月八日) は鯡漁業のため多忙なので、 慣例として五月八日に行われ、
この月には丸山薬師如来の祭りと春祭が多く行われた。 この月末になると先月末から、
天気の日は毎日浜に筵を敷き干してきた鯡粕が、 干上り、 これを筵包にして、 需要に応じ、
一俵十五〆のたてとして出荷する。 またこの月末には場所に出稼していた二・八取の人達が村に帰ってくる。
六月
鯡製品の出荷も終り、 荷主 (買主)、 金主 (金貸し) との間で、 精算が始まる。 前年末から春にかけて金主から青田で、
米、 味噌、 醤油、 酒、 金等を借りて冬期間生活しているので、 これには高利に等しい利息がかかっており、
精算の際は紛争も多かった。 豊漁の際は青田の払いをしても、 のちの得分は十分にあったが、
凶漁の場合は即青田買で借金から抜け出せない者もあった。 六月の晦日には節季払で、
一年二回の各商店への支払の前半を支払うのが慣例であった。 また磯廻りの若布採り、
鮑取りも行われる。
七月
大口の鯡取業者の精算が終り、 この月 (旧暦) では、 鯡豊漁で精算も得分のあった各家庭は、
安心して夏を楽しむ。 七日盆から十六日の精霊送りまでのお盆の行事、 各家庭は赤飯、
煮〆、 冷麦等で精霊を迎え、 ナス、 キュウリ等の野菜も備える。 盆中の十五日には月崎神社の祭礼が行われる。
十三日から二十日までは各村の広場や川原では毎夜盆踊が行われている。 福島地方の盆踊は三足踊、
また能代踊とも言われるもので、 松前を中心に道南地方に普及したものであって、 イヤサカ、
サッサの囃はやしで草履を引いて踊ったが、 様々の意匠をこらした仮装をしたり、 太鼓や鉦、
金盥等かねだらいを持出してにぎやかに踊った。
八月
八月一日は村の後期の大寄合で、 後半の村行事等を協議する。 その主なものは、 八月十五日の神明社の祭礼の役割分担、
九月末の宗門改についての五人組への注意、 十二月の城内門松納の担当村の取り決め等である。
この寄合の後、 奥地の鮭漁場に出稼する漁夫は出発し、 村内でも福島川、 澗内川も鮭が多く遡上そじょうするので、
ウライ (簗) を築き、 網を入れる。
九月
鮭が両川に遡上する。 この月の後半、 藩特命のキリシタン (切支丹) 宗門改奉行が吟味役と共に各村を廻る。
各村の名主・年寄・百姓代は紋服を着て、 吟味場の準備をし、 名主役場内には藩の幔幕を張り、
門口には高張り提灯を掲げて準備が終ると、 組合頭に連れられた五人組が勢ぞろいし、
三役立会のもとで、 奉行の前に出、 帳役が名前を呼び上げ、 奉行が銘々を確認し、 各組合員はキリシタン宗門の宗徒でないことを誓約してこの宗門改めが終る。
この行事は藩と村をつなぐ重要なものとして位置付けられていた。
十月
この月に入ると畑の野菜の収獲が行われた。 大根、 蕪かぶら、 人参、 牛蒡ごぼう等が取り入れされ、
炉端下の室むろに貯蔵され、 漬物用は天日で干された。 漬物は大根の浅漬、 蕪漬、 沢庵たくあん漬、
ニシン漬、 サケ漬等各家庭が知恵をしぼって冬期間用の漬物を作って貯蔵した外、 イワシ、
ニシン、 ホッケ、 サケの飯寿司いずしも造り冬期間用に貯蔵し、 来るべき冬に備え、
主婦にとっては多忙な月であった。
十一月
月初めには石狩川や奥地諸河川のサケ場所に働く出稼漁業者が帰ってくる。 各漁場の漁夫の三か月間の稼高は、
七、 八両から十両といわれるが、 これで月末までに後半の節季払いをする。
隔年の十一月十五日は城中槍之間で、 城中神事神楽が行われるが、 松前の神道觸頭からの呼出状が届き、
十日ころには福島村笹井家、 白符村冨山家、 宮歌村藤枝家が召に応じて、 神官衣装を携えて城下に登るが、
その際は逓符 (公用の馬を使用する許可書) も届くので、 村役一人が介添し、 馬上で城下へ送り届けるのが慣例であった。
十二月
この月は歳末、 正月迎の準備が忙いそがしい。 二十日には今年当った町内二組で、 桧倉沢に入り、
城中門松用の松を伐り出し、 二十三日までには城中と松前神明社に届け、 太儀料として黒米の下賜を受ける。
餅搗は二十三日から行われるが、 二十四日、 二十九日は縁起が悪いと避けた。 各家は少ない家で二斗、
大家では一俵、 二俵と搗き、 早朝から囃はやし方の太鼓打、 三味線曳を呼んで、 景気よく調子に合せて餅を搗く家もあった。
二十五日ころから煤すす払い、 正月料理に家人は忙殺される。 先ずホッケのカマボコを造る。
軒下に下げて血を抜いたホッケを三枚におろし、 皮、 骨を除いて擂鉢すりばちで擂り、
各家秘伝の味付けをして、 日の出、 焼きカマボコを造ったので、 各家の味が異なっていた。
また、 年越料理に欠かせないのが鯨汁であった。 当時鯨はエビス (恵比須) と言われたが、
それは蝦夷地近海には鯨が多く游泳していて、 一度村に寄り鯨があると各民は数ヶ月も食べられるだけの配分があり、
さらには魚を陸岸に押してくれるということで、 住民に倖しあわせをもたらす神様であり、
この肉を塩漬にしておいて冬期間食べると身体が温まるという有難い食べ物であるので、
年越から正月は必ずこれを食した。
このように春から秋にかけ、 この間貯蔵した海草、 魚、 山菜、 野菜をふんだんに使って豪華に造り上げ、
一年で一番贅沢ぜいたくな料理が年越料理であった。 三十日の大晦みそか日 (当時は三十一日はない)
には、 松飾りをして年越しを終えたが、 この料理のため一年に一度より使わない会席膳を出し、
二の膳も付く豪華さで年祝をして一年を終えた。
この福島町のニシン漁業を中心とした一年の年中行事は、 町史編集過程で知り得た漁業者の生活をまとめ上げたものである。
このような年中行事の過ごし方もニシン漁業の豊凶によって、 年によって極端な生活の変化があった。
豊漁の場合はニシン漁のみで、 一年の生活をするだけの収入があり、 凶漁の場合は全く収入がなく、
磯廻り漁業や鮑あわび、 海鼠いりこ (なまこ)、 若布 (芽) 採、 昆布採、 鰯いわし漁業等でようやく糊口をしのぐという状況であった。
福島町内で往時ニシンがどの位獲れたかを示す史料はないが、 天明二年 (一七八二)
蝦夷地に渡り見聞した平秩へつつ東作の著した 『東遊記』 のなかで、 そのニシン漁業収入のことを次の如くに記している。
今年辰年 (四年) 不漁也といへども、 蝦夷地にて捕たる鯡百三四十萬束も有べき由云り。
一束といへるは十四ヅツ連ねて十三合て百八十弐疋、 是を一束とも一丸ともいふ。 例年は金一両に三丸、
四丸、 五丸位迄賣買せし由。 今年は鯡不漁にて相場高く、 初相場金一両に僅七分、 十両に七丸相場建たり。
其後下りて九分迄に成りぬ。 百三四十萬束といへども、 價にて六百束にもあたるべし。
漁有時には一日一萬両、 三日とるれば三萬両、 見聞せざるものは信用せず、 不獵なれども予が知たる医者三人乘組にて、
網をおろせしに、 一人にて百両餘の鯡を取たり迚とて、 予みな招き、 酒を振舞て歡び悦びけり。
房州の干鰯、 五島のシコ (魚の名)、 當所合せて天下獵の大なるものとするも、 実に理りと覚えたり。
… 略
といっており、 不漁年のこの年でも、 全く素人の医者が三人組んで、 刺網をし、 一人当り百両もの配当を受けたと言っている。
これは誇大であるかも知れないが、 ニシン漁業の入稼漁夫の場合、 二月から六月までの漁期間で、
本州から入稼の平漁夫は十二両、 和人地内の漁夫を使用する場合は十五両、 役漁夫は二十両、
船頭は二十五両というのが当時の相場で、 和人地漁夫は殆ど役漁夫であった。 従って漁業者の収入は、
ニシン漁業の二十両、 磯廻漁業と昆布、 鮑等の収入五両、 サケ漁業への出稼が十両、
併せて三十五両前後というのが当時の漁業者の平均収入であった。
江戸時代の後期、 江戸庶民の生活は、 五人世帯で年十両の生活であったといわれる。
それを蝦夷地と比べれば、 二倍半以上の収入があったことになり、 僻遠の地で物価の高さはあったと思われるが、
ニシンが豊漁でありさえすれば、 漁家の生活は満ち足りたものであった。
【サ ケ】 サケは 「鮭」 「年魚」 「夷鮭」 「過臘魚」 「河豚」 「時不知ときしらず」 「秋味」
とも書く。 この魚は蝦夷地で中世には第一の出産物であり、 近世にはニシン漁業にその首座を奪われたが、
なお漁業の双璧をなす重要な資源であった。 中世の時代は塩が非常に高価なものであったので、
サケの加工には用いられず、 専ら内臓を抜いて一本干をした干鮭からさけ、 または蝦夷人が乾燥を早めるため、
一本干をする際皮に×印の傷を付けて製造するアタツが生産の主体であった。 このサケは近世の中期以降瀬戸内海、
北国地方で塩が特産物として大量に出廻るようになると、 様々な形に加工塩蔵され、
本州地方に出荷されるようになった。
蝦夷地の海岸、 諸河川では、 多かれ少なかれどの川でも夏から秋にかけサケが遡上した。
最上徳内の調査では 『蝦夷草紙』 のなかで、 天明八年 (一七八八) 蝦夷地で生産された塩引鮭は四万四千石、
約二万九千両としている。 鮭の一石は、 三〇束、 一束は二〇尾であるので、 この生産匹数だけでも二、
六四〇万尾にも達している。 蝦夷地内の生産のうちでは石狩場所がその三分の一を生産していたが、
道南の諸河川でも多く獲れた。 特に道南では汐止川 (函館市字石崎)、 茂辺地川、 知内川、
天の川、 厚沢部川、 遊楽部川、 利別川等が多く獲れ、 中野川 (木古内町)、 福島川、 及部川
(松前町)、 石崎川にも遡上した。
福島地方では中世どの河川でもサケが遡上したようであるが、 特に福島川についてはこの時代からサケの獲れていたことが記録されている。
『新羅之記録』 によれば上之国城代南条越中廣継の内儀 (四世季廣の長女) が陰謀を企て露顕し、
斬罪に処されたが、 その際、 「穏内の折加内村を両人の牌所はいしょ、 長泉寺 (のちの法界寺)
領と爲す。 此所の川鮭魚多く入ると雖も、 寺領と爲るの後鮭魚川に入らず。 然るに三十三回忌過ぎて以後鮭魚川に入る事奇特と謂ひつ可きかな。」
とある。 この事件は永禄五年 (一五六二) のことであるので、 三十三年後とは文禄四年
(一五九五) で、 この時には福島川にサケが戻って来た、 と記している。 これは中世の年代にサケが多く遡上していたことを表す証拠である。
近世に入って、 町内では第二の川である澗内川 (字白符と宮歌との堺川) にも多く遡上していて、
これを捕獲していた記録がある。 『宮歌村沿革』 では村の草分け時代に澗内川で曳網によってサケを二三〇束水揚げをしたと記されている。
一束は二〇尾であるので、 この時代澗内川で四、 六〇〇尾以上のサケが捕獲されていたことが分かる。
この数字から類推すると、 福島川ではその三倍以上の水揚げがあったと考えられる。
遡上するサケを採捕するには、 古くはマレックという棒の先に鉄の鈎かぎの付いたものを用いた。
この棒を河中に入れておき、 サケが当るとその先の鉄の鈎が反転して、 サケを押え込み水中から引き上げる方法で、
主にアイヌの人達が多く利用した。 和人は河中に簗やなを設けて遡上を遮断し、 そこに網を張り、
曳網で採捕するという方法が取られていた。
近世になって塩が大量に出廻るようになると干鮭からさけ、 アタツの一本干から、
塩引鮭の製造に主力が移り、 蝦夷地に出向く積取船は船腹に積めるだけの塩叺かますを積んで行き、
現地で水揚げされ内臓を除いたサケを船倉に入れ、 塩漬にして本州各地に出荷した。
十月を過ぎてもサケは遡上するが、 積取船は初冬で危険なため現地には行けず、 そのころ水揚げしたサケは内臓除去の上、
塩をして囲っておき、 冬中は冷凍保存し、 春一番に積取って出荷するものを冬囲ふゆがこいと称した。
当時サケの加工品は、 文化年間末の著と思われる 『松前産物大概鑑たいがいかがみ』
によれば次のとおりである。
鮭塩引 直段 場所売百石ニ付金九十両位但し塩引百石は三百束、 一束と申は二十本に御座候。
是は場所表にて網引次第請取り筋子を取り直に船入塩漬に仕り候、 又は蔵入塩切に仕り候も御座候。
囲に相成り翌年取り候へば値段三割方下直に相成り候由。
筋子 二斗入一樽 銭一貫文より二貫文位仕り候。
是は塩切り候筋腹より取出し候。 簾へ並べ塩切仕り程能キ頃樽詰仕候。
荒巻鮭 直段 一本に付二百文位より百五十文位迄仕り候。
是は塩引同様の製法に御座候へ共甘塩に仕り、 当座相用ひ長持難相成候。 是を 「アラ」
巻と唱ひ申し候。
ゾロリ子 直段 二斗入一樽に付銭一貫二百文位
是は鮭子筋子に不相成筋の繋つなギ損し一粒放れに成り候を塩漬に仕り是を 「ゾロリ子」
と唱ひ申し候。
(現在のイクラに当る)
干鮭 直段 一束二十本結。
是は秋味収納過川上へ上り候鮭を取り揚げ、 腹を取り一本儘まま木の枝へ掛け或は棹さおに掛け干上げ、
程能き頃運上屋夷人小屋に取込火の上へ釣干上け申し候。
鮭アダツ 直段 砂金一匁此銭六百文に付、 目方二貫匁替位
是は鮭一本を三枚におろし、 頭骨を除き尾の方を付置き、 片身四つに割り八つに相成り候を干し上げ、
「アダツ」 と唱へ申し候。 一束二十本結にて目方三貫目位に御座候。
鮭ソワリ 直段 一束二十枚結に付銭五百文位
是は鮭の頭を除き皮へ身を薄く付干上候を 「ソワリ」 と申し候。 漉の身は夷人食用に仕り候。
右の外 鮭の鮓すし 是は鮭薄身に直し筋子を飯に交へ漬け申候。 其の外 鮭の卯
(背ワタ) の類は塩辛、 何れも食料計ばかり、 売買にて無御座候。
というのがサケの加工法である。 これによるとアタツ (アダツ) の製法が近世に入ると、
中世とは異なる製造へと変化している。
サケと同類の魚にマス (鱒) があるが、 この魚は蝦夷地海域、 諸河川で獲れたが、
塩の加工利用が可能になった享保期前後から塩鱒の需要が増加し、 寛政、 享和期 (一七八九~一八〇三)
ころにはマス〆粕、 マス油の生産が多くなった。 特に釧路、 ノシャプ、 国後島から北方の海域に多く、
享和三年のマス〆粕の生産額四十万貫、 代値は一万四、 四二八両に達している。 これはマス油の需給が多かったので、
生マスを煮て油を精製し、 さらにその段階で生ずる〆粕を乾燥した後、 農業用の肥料として関西、
北国方面に売り出し、 好評を得て需要が増加したものである。 マスの加工品としては
鱒〆粕 直段
砂金十匁此銭
六貫文ニ付
目方三十五貫位
是は鰊同様生の儘釜にて煮油を絞り一釜半干上げ筵立一本に相成り申し候。 目方二十二、
三貫位、 油は四釜煮候へば四斗入一挺に相成り申し候
鱒油 直段 四斗入一挺に付
砂金二匁位
此銭七貫二百文
である。 この鮭鱒漁業が陸岸および河中でオコシ網を用いるようになったのは、 文化年間からといわれている。
【コンブ】 中世以降蝦夷地を代表する海産物にコンブ (昆布) があった。 中世には蝦夷地のウンガ
(宇賀) の昆布は室町時代の 『庭訓往来』 のなかで、 主要物産として位置づけられている。
その昆布は中世日本海の貿易港小浜で加工されて、 若狭昆布として関西市場を独占していた。
このコンブの生産地は、 和人の住む地域の東端の宇賀、 志濃里 (志苔) であった。
近世に入るとそのコンブの生産地が拡大し、 内浦湾 (噴火湾) にまで広まっている。
『新羅之記録』 によれば、 寛永十七年 (一六四〇) 六月十三日の項に 「内浦岳 (駒ヶ岳)
噴火し、 その勢で津浪が発生し、 百余艘の昆布取の舟の人残り少なく津浪におほれ死に終る」
と記されていて、 この年代には後の六ヶ場所といわれる鹿部付近にまで昆布の採取地が拡大している。
また、 享保二年 (一七一七) の 『松前蝦夷記』 には、 「一昆布 右東郷志野利浜ト云所より東蝦夷地内浦嶽前浜まて海邊弐拾里余之所ニ而取申候、
尤献上昆布ハ志野利浜宇賀ト申所之海取分能ゆへ取り申由収納」 とあって、 昆布場所が東に伸びる傾向にあった。
さらに商場、 場所請負が進展した享保年間 (一七一六~三五) には太平洋岸の三ツ石、
浦河、 様似付近まで多くのコンブ取が進出し、 また、 アイヌ人の採取、 加工の方法が教えられ、
交易物資の仲に入るようになり生産量は増加した。
コンブ漁は五月末から八月末まで続けられ、 各村では正月の大寄合で予あらかじめその予定を決めておき、
鎌下しは村役で協議して日取りを決定した。 したがってこの鎌下しの日より前の勝手な採取はできず、
元禄五年 (一六九二) の亀田奉行の定書の中にも、 「一、 昆布時分より早く新昆布商売候義堅命停止候」
とあって、 若生い昆布の濫獲を防ぐ対策がとられていた。
この生産されるコンブの質は、 志濃里、 宇賀地方のものは、 幅広で、 丈も長く赤昆布と言われたが、
その理由について 『松前蝦夷記』 では、
一赤昆布青昆布の立違イ申品
赤昆布
生之内より色違紅うこんのことくにて両脇みゝ笹葉色のことく青く赤と青の間本より末まて黄色なる細筋通
り申よし、 是を吟味いたし献上昆布ニ仕立申よし、 右納メ松前ニ而一枚宛相改候仕上ケをいたし献上之昆布に相定メ申よし。
本赤昆布と申ハ右之如く常の青昆布之内千枚に壱枚も他目なきものにて候よし、 青昆布ハ沢山是も本末段々分ケ申由、
本の能所ハ赤昆布のことく不知者ハ是を本赤昆布と存尤常之商賣の赤昆布夫を用申よし、
切と申ハ本のよき所を取末の細キ薄キ所を伐りと申よし。
とあってこの赤昆布を最高級のものとして、 これを亀田地方 (函館市を含む海岸地方)
の採取村民からは一戸に付、 切昆布二十五駄(元揃の良い所を取ったあとの末昆布。 一駄
は長さ三尺のもの五十枚を一把とし四把で一駄) の昆布取税役を課し (のち十三駄となる)、
さらに献上用赤昆布五十枚を課していた。 しかし、 この赤昆布は、 コンブのなかでは品質はよくないものであるが、
色彩的には見映えのするものであったので珍重されていたという。
昆布には多くの種類があり、 津軽海峡から太平洋沿岸にかけての昆布は赤昆布、 青昆布、
元昆布、 真昆布、 三石昆布、 水昆布、 黒昆布等があり、 また産地によって志濃里昆布、
松前昆布等があり、 また、 結束法によって元揃昆布、 長折昆布、 切昆布等と言われた。
太平洋沿岸の大幅、 長尺の良質昆布に比べ、 津軽海峡西部から日本海に生長する昆布は、
丈三、 四尺、 身幅五寸のもので細目昆布で商品価値も少なく、 主に家庭のだしコンブとして利用される事が多かった。
また、 このコンブを乾燥させた上臼で搗いて粉にして保存し、 オシメ昆布として飢饉のときや、
米価騰貴の際の飯に混ぜて食べる食料となっている。 コンブの価格は上一二〇文、 中一〇〇文、
下八〇文程度であった。
このコンブの需要は関西が主体で、 小浜や京都で加工され商品価値を高めていたが、
さらにコンブの需要が伸びたのは、 清国貿易用として長崎へ積出されるようになった元文五年(一七四〇)以降といわれる。
また、 宝暦六年 (一七五五) 以降には長崎産物会所が毎年手代を派遣して、 松前の商人と契約し海鼠いりこ、
白干鮑あわび、 志濃里昆布の三品を買上げていたが、昆布以外の品が、仲々買上げ予定数量
に達せず、 藩がその達成を命令するということもあった。
コンブを採るには鎌または、 捻掉ねじりざお、 二又棒 ま つ か を用いた。 その方法は地方によって若干差があったが、
福島方面では二又棒 ま つ か か、 鎌を用いた。 二又棒は長さ三間程度の棒の先に、
二本の木のマツカを付け、 柄の部分を設け、 これを海中に入れて捻り廻すと、 コンブがからみ付き、
これを力を入れて引き抜き水揚げをする。 また、 鎌はマツカと同じ木の先にのこ切状の鎌を付け、
海中でコンブの根を伐って静かに水揚げるもので、 作業的にはマツカの方が有利であったと言われるが、
この生産量を示す史料は残されていない。
【イカ釣漁業】 イカは 「烏賊魚」 あるいは 「柔魚」 と書き、 製造して乾燥されたものを鯣するめと呼んだ。
この鯣は昆布、 勝栗と共に武将の出陣の縁起物となったり、 貴族の酒席のつまみとして珍重された。
近世初期にはイカ釣漁業は日本海、 特に佐渡島より以南の地で発達していた。
蝦夷地では往古から近海に多く棲息していたが、 これを釣る技術が分からず、 これを本格的に漁獲することが出来なかった。
松前廣長筆の 『松前志』 は天明元年 (一七八一) 刊行されたが、 この中では 「近年海人捕り得ることを得たり」
としているので、 この時代前後に漁獲方法を知り、 この釣漁業が始まったものと考えられ、
この技術は恐らく佐渡島から伝承したものと考えられる。 しかし、 漁業として成り立つ程の本格的漁業ではなかったと思われる。
津軽弘前の郷士平尾魯遷が安政四年 (一八五七) 松前に着いて、 箱館へ向かう途中の村々を描いた
『箱館紀行』 の絵を見ると礼髭村の部のなかで、 婦人が海岸の納屋にイカを干し鯣を製造している場面
が描かれているところから、 この年代頃にはイカ釣漁業と鯣の生産が本格化してきたことが考えられる。
明治初期の一ノ瀬長春筆 『北海道漁業図譜』 に吉岡村のイカ釣用具が描かれているが、
その中にヤマテの絵があり、 この天秤は鯨骨を用い、 その下に二五〇匁の鉛を結び付け、
その両側に餌を付けた釣針が仕掛けている。
また箱館、 上磯、 熊石、 久遠方面ではこのヤマテの針は、 針四分程のものを上向並列し、
上部にイカを巻き付けた針を二組下げており、 瀬棚方面では一尺の桐の木台の先に二本の竹を結び、
その先に針を下げたものなど、 その地域によって漁獲方法も様々に摸索していた時代であった。
この鯣の製造は、 幕末箱館が開港され、 長崎を介さない蝦夷地生産物を直接売捌さばきする箱館産物会所ができ、
清国貿易の俵物類が箱館から積出すようになると、 それまであまり着目されなかった鯣の需要が急に伸び松前藩は安政四年
(一八五七) 領内に 「領内出産鯣は時相場を以て買上るに付き密売買を爲すべからず。
漁業者出産物を引当に前金借入を出願する者は、 会所より米穀又は金員を貸与すべし。
且つ商売等鯣入用の者会所に出願するに於ては払下を爲すべき」 旨を告示している。
これは松前藩の収荷を一元的にその手に収めようと画策していたものと思われ、 安政六年以降箱館産物会所の鯣取扱量
は、 同年一五万八、 五四七斤 (二万五、 三六七貫余) であったが、 三年後の文久三年
(一八六三) には、 鯣取扱量は三〇万五、 二四六斤と量は倍以上に伸びている。
イカ釣の漁法は、 磯舟または保津船で夕時出漁し、 陸岸近い海でかがり火を焚いてイカを集め、
それをヤマデ (山手)、 またはハネゴで釣る。 ヤマデは八尋ないし一〇尋位の深い海中のイカを釣る際に用い、
ハネゴは一尋か二尋というごく浅い海に浮き上ったイカを釣る際に用いたが、 この方法は昭和前期にまで継続されている。
【アワビ突き、 イリコ曳漁業】 アワビは 「石決明」 「鮑」 と書き、 イリコは海鼠なまこ、
この煮干ししたものを海鼠という。 松前地方の磯廻り漁業としてはコンブ、 ワカメ、
雜魚釣と併せ重要な漁業であった。
アワビは古くは串貝に製して本州に移出され、 松前藩の幕府献上物のなかには、 干鮑、
串貝の名が見られる。 このアワビの産地は 『北海道漁業志稿』 では、 その中心が松前地で、
主産地として松前礼髭、 宮の歌、 福島、 小谷石、 知前 (内か) 、 函館等の名が挙げられ、
その他では久遠、 太田、 太櫓、 瀬棚付近、 積丹半島、 厚田、 浜益、 留萌、 天売、 礼文島などが挙げられている。
文久二年 (一八六二) 箱館産物会所清国輸出用アワビの目録を見ると
請 負 高 目 安 高
箱 館 七二五斤 三二四斤
松 前 五二、 六三〇斤 二三、 五〇七斤
江 差 一八、 四六九斤 八、 二四九斤
西蝦夷地 四八、 一七六斤 二一、 五一七斤
合 計 一二〇、 〇〇〇斤 五三、 五九七斤
となっていて礼髭村から小谷石村の生産量が、 アワビ生産上極めて重要な地位を占めていたことが分かる。
福島地方のアワビ突きは春期および夏期の比較的穏やかな日に、 磯舟にアワビ突きの扠やす
() を積んで、 一尋か二尋の比較的浅い磯廻りで漁をする。 扠は長さ三間位の木の棹さおの先に、
鉄で先の尖とがった釘を三本付けたもので、 これを使って水中のアワビを殻を壊さないように挾んで引き上げる。
アワビを採るためには水中を捜すが、 近世初頭ではガラス箱とてなく、 漁師は海中に顔を突っ込み、
水に目を慣ならして扠を使ったが、 幕末に到って外国産の板硝子ガラスが輸入されるようになると、
これを利用したガラス箱が出廻るようになり、 高価ではあったが生産量は増加した。
アワビは生のまま食料にしたほか、 加工されて本州へ移出したり、 長崎俵物として出荷した。
最も古い加工法は串貝で、 丸竹の串でアワビ五個を貫き天日で乾燥し、 十串をもって一連とし、
目方は約五〇〇匁であった。 正徳期 (一七一一~一五) ころからこのアワビが長崎俵物として出荷されるようになると、
清国の需要に従って白干鮑が生産された。 この白干鮑は生アワビを蒸し、 又は煮て塩をふり、
ねせてから乾上げたもので、 このほか黒干鮑もあった。 黒干しはアワビを煮て塩をふらず天日で干したもので、
全体に黒く仕上るので、 値段も安かった。 このほかに〆貝と称して生アワビを塩漬にし、
二斗樽に五〇〇個入れたものもあった。
当時はこのアワビの生息も多く、 当地方の磯廻漁業のなかでは、 コンブに次ぐ収入があり、
ニシン漁からサケ漁までのつなぎの漁業として重視されていた。
イリコは海鼠と書いたが、 方言ではナマコと呼ばれていた。 海鼠 い り こ とはこのナマコを煮て乾燥させたものである。
このナマコは蝦夷地では釧路、 十勝地方を除く全域に生息し、 特に寒冷地帯の沿岸に多く産出された。
古くから食料に供され、 本州へは乾燥して移出した。 寛文七年 (一六六七) の記録には、
敦賀への送り荷物のなかにイリコの名が見え、 松前藩の藩法である 『松前福山諸掟』
に海鼠曳奉行の役職について示している。 それによると、
定
一、 海鼠引船之者共蝦夷江非分之儀不申懸候様急度可申付候
附、 蝦夷之商賣堅爲致間敷事
一、 ゑとも外海鼠引候事望候者、 其品聞届近所之蝦夷地之義者少々爲引候ても不苦候、
尤何程引候と見届帰着候て運上を出候様可申付候事
一、 二人扶持方賄の外金銀諸色共少々ニても致受納間舗候、 若内々ニて其旨申候者、
帰帆の節目附役人共申届可致披露候事
右之趣急度可相守者也
卯 二 月
とある。 年代は不明であるが、 和人地の漁業者が、 蝦夷地のイリコ曳に船で出稼していたことが伺われる。
イリコを曳ひくというのは鉄で枠を造り、 その前部に入口を設け、 下部には鉄の爪つめを付け枠の後方には八尺という網の袋を付けたものを磯舟で曳き、
海中のイリコを獲るというもので、 蝦夷地では一日一艘平均四〇〇個のイリコを獲り、
多いときは二、 〇〇〇個に達したという。 和人地での主要産地として、 礼髭村から福島村が最も良い漁場とされていた。
この水揚げしたイリコは内臓を取り、 丸煮したものを一〇個ずつ串に貫き、 炉上に吊し、
又は日光で乾燥して串を抜き、 バラにして俵に詰め、 俵物として出荷した。
享保年間 (一七一六~三五) ころから長崎俵物の中心として、 アワビと共に清国に送られた。
アワビ、 イリコは全国生産の約七割を占めたので、 長崎会所は入荷の促進を図るため、
毎年手代に金を持たせて松前に派遣し、 松前で一手に買付けする近江商人の団体両浜組合と協議して、
その年の出荷予定量、 予定価格を定め、 契約をして手付金を手交する。 これには藩も立会して、
公正を期した。 この元請人達は、 各村を廻り村役と協議し、 予定量を定めて手付金を交付した。
この手付金は冬期間に交付するので、 冬期で収入のない漁業者は大いに生活が助かった。
したがって、 割当量の出荷が完了するまでは、 長崎俵物以外の横流しは許されなかった。
【イワシ】 イワシは 「鰯」 「海鰮」 とも書き、 蝦夷地では秋九月、 十月に津軽海峡の東口から西に向かって北上し、
主に恵山岬から汐首岬が中心漁場であった。 蝦夷地ではニシン漁が中心であったので、
この漁に重きを置かなかった。 我が国のイワシの中心漁場は九州の国東くにさき半島、
関東の九十九里浜で、 ここでは干鰯ほしかを製造して全国田畑の金肥として供給していたが、
両漁場の資源減少によって、 蝦夷地の胴鯡どうにしん、 白子、 笹目等が、 享保年間 (一七一六~三五)
ころからその代替として急激に需要が増加したものである。
この時代蝦夷地では生で食べるか、 丸干ししたり、 塩漬にしたり、 糠漬にするより方法がなかった。
福島村では月の岬から塩釜 (釜谷) 付近がこのイワシの好漁場であった。 しかし、 この貯蔵のためには塩を必要とした。
そこでこの塩釜地区で製塩をし、 塩釜の地名が生れたものである。 常磐井家文書の 『福島沿革』
では、
安永元年 (一七七二)
塩釜神社ヲ建立、 此以前今ノ大澗へ製塩所ヲ造ル、 塩増栄ノ爲メ該社ヲ建立セラレタリトイフ。
とあって、 この年代の少し前から製塩の始められていたことが分かる。
また、 イワシ網の操業について 『戸門治兵衛旧事記』 には、
享和二年 (一八〇二)
一、 當村支配之内赤川と申処江鰯引小網壱投相立試申度御礼金小判一両上納仕度段
享 和 二 年 七 月
福 島 村 願 人 與 惣 兵 衞
名 主 達 右 衞 門
とあって字月崎と字塩釜間の赤川でイワシ網漁が行われていたことが分かる。 また、
明治元年十月末の箱館戦争の際、 知内村萩砂里はぎちやりに夜営していた徳川脱走軍に夜襲をかけた際、
福島村に出陣した松前藩兵のうち、 渡邊々 ひ ひ を隊長とする約五〇名が、 二艘の鰯枠船で出撃したことが記録されている。
これらを見ると幕末には福島村で、 秋に本格的にイワシ漁が行われていたことが分かる。
【クジラ】 クジラは 「鯨」 と書き、 また 「海鰌」 「勇魚」 とも書く。 古くは 「イサナ」
「オキナ」 「カミ」 「エビス」 とも呼び、 蝦夷人は 「フンベ」 と称した。 このクジラは蝦夷地近海には大クジラは居らず、
長さ拾丈 (三〇メ-トル余) が限度としていたことが 『松前志』 に記されている。
この蝦夷地近海を廻游するクジラは、 沖合の魚を陸岸に追上げるといわれ、 漁業者にとっては幸福をもたらすことからカミ、
エビスと呼ばれた。
このように呼ばれる理由には、 もう一つの訳があった。 蝦夷地近海は多くのクジラが居ながら、
これを捕獲する技術を知らなかったので、 廻游に任せるのみであったが、 たまには弱ったクジラが寄より鯨くじらとして海岸に打ち上げられることがあった。
寄り鯨があった場合は、 藩法に従い発見した村の村役から藩に届け出、 藩の役人の検分を受けて、
その村が所有権を確定し、 村内で解体して配分するが、 その際は近隣の村にも多少配分することが義務付けられていた。
『戸門治兵衞信春旧事記』 (常磐井家文書) によれば、
寛政二年 (一七九〇) 正月四日
いのこ泊り蛇鼻之間赤石と申処江鯨寄町御役所江披露仕候処、 知内村も及御披露境論両村出入混雜ニ及申候。
其節御見分御立会足軽武川七右衞門被仰付御吟味之上福島境蛇鼻迄境御改御披露之上被仰付候。
其砌改湯の野行詰栗の木椹坂麓迄被仰付候。 其砌右栗の木椹海邊見當仕候処海邊蛇鼻ニ相當り申候。
古来當村支配所ニ相違無御座候。
この記録では、 当時福島村の枝村であった小谷石村と知内村の村境であった赤石浜に寄り鯨があり、
この発見を福島村と知内村から藩に報告したが、 その領有権をめぐって紛争があった。
そこで立会見分として足軽武川七右衞門という者が来て、 蛇の鼻岬をもって両村の村境とした。
さらに陸通りも調べ、 陸の村堺は知内川と温泉の川の合流点である栗の木椹たい坂 (さわらの木のある坂)
が、 両村の境界となったといわれ、 したがってこの寄り鯨の所有権は小谷石村のものとなったが、
知内村支村の脇本村にも若干の分配があったと思われる。 一度寄り鯨があると、 村中で解体し分配する。
クジラは肉も油も塩蔵して冬期間の食料にしたり、 内臓や油を煮て鯨油げいゆを採って、
灯明の油にする。 さらに肉は焼いた石の上にあげて熱を通し、 石焼鯨を製造して保存した。
このように寄り鯨があると村内の人達は、 一月ひとつきも二月ふたつきも恩恵を受けるので、
住民に幸いを与えてくれる神様としてエビス様の尊称で、 尊ばれてきたものである。
【サ メ】 サメは 「鮫」 と書き、 または 「鱶ふか」 「ワニザメ」 と称した。 この魚は近海によく廻游したが、
当地方の
人達はあまり漁獵しなかった。 しかし、 この魚が沖合に廻游すると付近の魚がみな恐れて陸岸に近づいてくる。
したがって沖にサメが居ると陸岸では大漁するという言い伝えがあって、 神としてあがめられていた。
今は猿田毘古神を祭神とする松浦の白神神社 (楚湖神社ともいう) は、 古くはこのサメを祀る祖鮫そごう明神が御神体であった。
秋田の文学者であり博物学者であった菅江真澄の旅行記 『えぞのてぶり』 で、 吉岡山道を通
過する際の記録のなかで、
…略…松倉が岳、 泉源が岳など雲がたいそう深く、 いく重えの山々もかくれているが、
青海原の遠近おちこちは晴れていた。
底ふかい谷をへだてて、そう高くない磯山に鳥居が見えるのは祖鮫そごう明神という。海の荒神をまつったのである。
…略
とサメの事を記している。
このほか蝦夷地の北方には多くのチョウザメがいた。 このサメの皮は菊形、 蝶形の模様があって、
これを刀の鞘さやの飾りに用い珍重した。
鮭 秋味 両に35本位
新 鱒 両に150本位
新 鱈 両に40本位
鮭 切囲 両に50本位
鱒 切囲 両に180本位
鱈 切囲 両に150本位
粒 鯡 1丸200疋
1両は4分
(慶長小判で砂金7匁3分)
1分は4朱
第二節 農 業 の 試 練
【米 作】 福島町の農業は幾多の先覚者の努力が重ねられてきた。 しかし、 寒冷地における農業経験を持たない先人達は、 適作品種もなく、 幕末にいたって農業が確着するまでには、
多くの試行錯誤さくごが続けられてきた。 特に米作はその顕著なものであった。
松前藩領内での米作の試みは元禄五年 (一六九二) 東部亀田で作右衞門という者が新田を試みたが、 二、 三年で廃したといい、 さらに同七年辺幾利知へぎりじで墾田を試み、
稔って新米を藩主に上呈したという。 同十三年には江差近郊でも新田の開発をしたが、 いくばくもなく廃止された。 また、 享保十七年 (一七三二) にいたって再び江差で試み、
稔って米一包を藩主に献上したが、 その後は再び廃絶となっている。 これらは米作試行の初期であった。
本格的な米作の造田試作は元文四年 (一七三九) 以降福島村で行われた。 これら一連の米作経過をこの時代藩の執政として奨励し、 隠居後福島村清音館に居住した松前将監廣長が、
その著 『松前志』 巻之六のなかで詳しく述べている。 それによると、
…略…元文四年己未春東部福嶋 古名折ケ内と云へり、 福山城外より、 道矩四里四丁三十間あり
に於て新田を開発せり。 三年をへたれども其利潤すくなかりけるにや、 自ら廃したり。
誠に惜しむべき事なり。 近年又明和の末より二、 三年の間、 東部覃部 (松前町) にてすこしく試みたれど是亦廃すたれたり。
安永戊戍夏 (七年) 宇治の儒生平澤元げんがいと云人、 我藩に游歴して、 墾田の事を藩主えも説きすゝめたり。
安永八年 (一七七九) 己亥春正月羽州秋田襤褸子 ぼ ろ こ 村の農夫成田彌助と云もの来ることあり、
予も亦墾田の志ありければ、 其主意を藩主に告て是春より右の福嶋邑むらの中央を卜ぼくし新田を開発せしが、
初年なる故にや是歳は甚だ不作せるにぞ、 羽州農夫も覚束なく思ひけん、 再び来らざりき。
然れども二十人役ほどもあるべき大新田を、 空く打棄んことの本意ならねば、 翌庚子
(同九年一七八〇) の年には津軽農夫をして試みけるに天幸にや二十俵餘の新米を得たり。
今年辛丑 (天明元年一七八一) より再び早収 わ せ の籾胤一種を以て、 試んと今歳専ら用意をなせり。
されば今秋の告凶如何いかがあるべくもはかり識がたければ、 年数を積まば、 早収 わ せ 米に於ては決して大業成就すべきなり。
白石が論ずる如く土地唯風気多寒を恐るゝにあるのみ、 故に地味自然と熟せば、 年を経ずして永世の国益たるべきこと、
足を峙そばたて待べきなり。 然れども國人多く墾田の志なきことを如何かすべき、 誠に惜しむべきことの至りなるかな。
と述べていて、 多くの先人が試行錯誤しながら稲作に挑戦してきたことが分かり、 安永九年には米二十俵余の収穫があって成功したかに見えたが、 これも天明五年
(一七八五) から八年の東北の大飢饉によって、 一時的に中断したのではないかと思われる。
この失敗を松前廣長は寒冷地向早生 わ せ 品種の種籾たねもみを得ることと、 新墾の田に肥料分を与えて、 田が熟してから、 作付をすることが必要だとしている。
しかし、 江戸金座役人坂倉源次郎の調査記録 『北海随筆』 では、 「霜の降事はやきゆへなるべきか」 つまり寒冷地なるが故であるといっている。 その後四十年程は田作の記録はない。
天保四年 (一八三三) 五月渋谷寅之丞が館の山に熊野神社を創建している。 『渡島管内町村誌-福島村』 によれば、 この熊野神社の創建を天保十四年としている。
同書によれば渋谷寅之丞は天保七年の頃に、 南部鹿角より移住し、 館の山に居を定めたとしている。 さらに寅之丞は自分の出身地である南部鹿角 (秋田県鹿角市字八幡平)
から種籾を取寄せ元治三年 (慶應二-一八六六か) には、 この水田より産出した米二斗および稗五俵を献納したとし、 のち毎年米一俵、 稗五俵を献上したといわれている。
この稲種は福島の地方風土に適合して、 この種子を使って農業を確着する者が増え、 寅之丞の後継者中塚丑松が苦心して一品種としたという。 この品種は恐らく南部早生 わ せ 赤毛であろうと考えられるが、
このころ江差在の小黒部おぐろっぺ村の伊越和吉が同じ南部赤毛を改良し、 伊越早生種を創出したのと同じころである。
『渡島地方調査復命書-農業部』 (道立図書館河野家文書) によれば、 「中塚寅之丞半兵衞澤ニ於テ水田ヲ開ラキ安政年間ニ至り二、 三ノ者之ニ傚ならヒ懇成田三町歩ニ及ヒ明治初年ニ至り八町歩ニ増加セリ二代中塚寅之丞
(中塚丑松) 父祖ノ業ヲ継キ現今専ラ農業ニ従事ス」 とあって、 この中塚家は、 現在字三岳地区の中央部にある土手の家と呼ばれる中塚家が、 その末裔であり、
現在につながる農業を米作と結び付けて定着したのがこの中塚家である。
【畑 作】 近世の蝦夷地では畑作農業はあまり重視されなかった。 それは春の繁忙期とかち合い、 特にニシン漁業に総ての労力が集中するのと、 新あら起きおこし等の労働を嫌っていたからとも考えられる。
文化年間 (一八〇四~一七) 筆と思われる 『村鑑』 において福島町の農業生産物では、 わずかに大豆、 小豆、 蕎麦 そ ば とあるのみである。 これらの生産は伐木、
炭焼を主体とした杣夫が定着し僅かばかり農耕地を造成していたものと思われる。
この福島町の農業のさきがけとなった人達は、 主に南部地方の人達が多かった。 その理由については次項で詳しく述べるが、 これら杣夫として定着した人達は僅かな耕地を開き、
大豆、 小豆、 蕎麦、 栗、 稗、 五升薯のほか、 人参、 牛蒡ごぼう、 蕪かぶ、 蘿ら蔔ふく (大根)、 茄子、 瓜等を作付し、 これを売り生計の足しにしていた。
明治初期中塚寅之丞は田畑六町歩、 杉林凡そ一町歩を耕作、 家族十三人の内二人が学校に通学し、 馬二頭を飼育、 家族二、 三名差網で鯡取をして生計を維持していたというから、
半農半漁の生活をしていたと思われる。
第三節 林 業
福島町は三面を山に囲まれているので林業とのかかわりは深い。 松前家は寛永十一年 (一六三四) 新井田瀬兵衞を知内雜木山奉行に任じ、 知内川流域の雜木を伐採したと同家記録にあり、
字千軒付近もこの時期に伐採されたものと考えられる。 福島川の支流桧倉川は昔からアスナロヒノキの自生繁茂していた地として知られる。 このアスナロヒノキ (羅漢柏)
は桧ひのきの一種で、 寒冷地に育ったことから木質が緻ち密で腐りにくく、 建築材として最高の評価を受けており、 福島から知内にかけての山中には雜木のなかに、
この木が混交していた。
これら知内川流域の雜木伐採に着目したのが、 江戸の材木商飛騨屋 (武川) 久兵衞である。 飛騨屋は飛騨国益田郡湯嶋郷 (岐阜県益田郡下呂町) の出身で、
初代久兵衞は江戸材木商栖原角兵衞の手代となり、 元禄十三年 (一七〇〇) 南部大畑に来てアスナロヒノキの伐採中、 蝦夷地の各山中には厖大ぼうだいな量の蝦夷桧
(蝦夷松) があり、 これが只の様な安さで払い下げを受ける事を知り、 独立して飛騨屋を名乗り、 元禄十五年松前に渡り材木商となり、 蝦夷地全島の山請負をなして大豪商となった家である。
同家にはこれら蝦夷山請負についての一連の文書が残されているが、 この飛騨屋が蝦夷地で事業を進めるためには、 東津軽郡三厩村の名主で、 松前侯渡海の際定宿としていた松前屋山田庄平
(現三厩村長山田清昭氏の先祖) がかかわっていたと考えられる。
飛騨屋が入ってきた元禄十五年から享保二年 (一七一七) までの十七年間の記録はないが、 同三年の臼山 (おふけし川、 べんべ川、 おさるべつ川) の請負証文では、
願人は三馬屋山田庄平、 金主が江戸鉄炮洲てっぽうず明石町飛騨屋久兵衞、 松前宿が岡部權兵衞となっている。 この請負にいたるまでには多くの曲折があったと思われるが、
山田庄平の松前藩とのつながりを利用して蝦夷山請負をさせ、 また杣夫は津軽、 南部人を用いている。 その前一七年間の空白の時期に飛騨屋は、 山田を利用して知内山の桧、
蝦夷松、 雜木混交林の伐り出しを行っていたと思われる。 また、 この契約が基礎となって今度は飛騨屋が、 元文元年 (一七三六) ころから自分名義で蝦夷山請負に進出している。
この飛騨屋文書によれば、 分家の飛騨屋与惣右衞門が宝暦八年 (一七五九) に、 木古内・知内地区の蝦夷山跡請負をしているが、 資金繰りに困り、 飛騨屋久兵衞を事実上の金主としている。
同十一年八月の記録では
覚
喜 古 内 山 材 木 有 高
三 千 四 百 石 余 喜 古 内 并 浜 中 囲
弐 千 石 目 尻 内 川 添 に 囲
六 千 石 目 幸 連 渡 場 囲
都合 壱万千四百石余
右の通相違無御座候。 以上
宝暦十一年巳八月廿三日
武 川 与 惣 右 衞 門
武 川 久 兵 衞 殿
今 井 所 左 衞 門 殿
とあって、 一度伐った木古内・知内付近の山々の跡地でもさらに年に一万石以上の蝦夷松が伐り出されているので、 字千軒の山相も蝦夷松と雜木の混交林であったと考えられるが、
このような乱伐によって桧および蝦夷松は次第に姿を消して行ったと考えられる。
しかし、 桧倉沢にはなお桧の自然林が残されていた。 安永八年 (一七七九) の常磐井家 『寺社沿革』 によれば
東西桧山奉行下國舍人殿江福島村桧倉山壱山木数三百本名主辰右衞門書上ケ仕候。 壱本なり共切事不叶。
とあって樹種保存のため、 この山に残っていた桧の自然木の伐る事を止め、 村名主の責任に於て保存管理することを命じている。 また、 この桧倉山には松・杉等の木も多く、
福島村から松前城中で正月迎えの門松は、 この山の松が用いられていた。
また、 各村で多くの杉の植栽を行っていた。 常磐井家 『戸門治兵衞旧事記』 によると、
寛政九年 (一七九七)
治兵衞 (戸門) 松杉立山作る。 但し寺ノ沢諸木立山寺境岸山平通竪たて横二百間被付山ハ稲荷後口寺山平前也。
とあって藩からの杉松植栽の命令を受け、 法界寺境から稲荷山にかけて、 戸門治兵衞が植栽したといわれている。 福島大神宮境内には八鋒杉をはじめ、 多くは二〇〇年位の杉の大木が残されているのも、
この時の植栽によるものではないかと考えられる。 また、 福島村には蝦夷松同種の椴松のあったことが、 常磐井家 『福島村沿革』 に記されている。 安政六年
(一八五九) 八月十五日 「巽風ニテ日方泊家皆流人々山へ逃ケ上り、 釜谷神社椴木三本倒し」 とあって、 椴松も多くあったことが分かる。
福島の松前-箱館間の街道上には、 多くの名物の木々が旅人の目印となっていた。 福島村と知内村々堺には栗の木椹坂という地名があり、 ここには栗と椹 (さわら)
の大木が目印となっていた。 また、 福島村本村から山崎を経て茶屋峠にいたる間に、 三本木という地名がある。 これは半兵衞沢前方の街道脇にたもの大木三本が並んでいたが、
文久三年 (一八六三) 六月十四日に大雨洪水があって、 この三本木のなかの一本が倒れ、 二本木となったと記録されている。
礼髭村八幡社、 白符神明宮境内に福島町を代表する名木の老杉がある。 礼髭村知行主の松前将監廣長は安永三年 (一七七四) 松前及部川流域の池の岱、 松長根等に植栽しているので、
礼髭八幡社の老杉もそのころの植林ではないかと思われ、 白符神明社も知行主河野系松前氏とかかわりを持っているかもしれない。
このほか林業とかかわり合いのあるものとしては、 福島神明社 (現福島大神宮) の獅子頭がある。 常磐井家文書のうちの 『新社日記』 によれば、
文化四年 (一八〇七)
一、 同年三月九日御獅子知り内山サカサ川材木出来、 長サ一尺五寸、 幅一尺弐寸、 あつさ八寸、 長サ一尺五 寸、 幅一尺弐寸あつさ四寸、 右二枚ハ栃之木也。
山 子 松 右 衞 門
長 作
金 重 郎
六 助
とあって、 神明社が文化四年正月一日に火災を起し、 伝来の松前神楽の獅子頭が焼失したので、 字千軒の杣夫四人が知内川支流の逆さかさ川の栃とちの大木を伐り、
これで獅子頭の上・下板を神明社に奉納したもので、 この材で造られた獅子頭は今もなお、 同社に大切に保存されているし、 この時代にも千軒地区には山子が居て、
盛んに伐木を行っていたことが考えられる。
津軽海峡に面したしらつかり、 岩部山、 疂、 したん、 船隠し、 九つづら沢、 鶚みさご沢、 ますだ泊、 やませ泊と矢越岬の間は断崖の連続であるが、
この間の岩部岳の麓部分は、 薪炭材の美林で、 福島村の薪炭はこの山から供給されており、 村内の漁業者の多くは一月二十日過ぎ、 船隠しや九沢に船で上陸をして自家用薪を伐り、
船で村に搬んだほか、 この地区にも多くの炭焼竃かまがあって木炭を生産していた。
第四節 鉱 工 業
千軒金山の開削とその運営
大千軒岳 (一、〇七二メ-トル) を中心として、 ここから流下する諸河川では昔から多くの砂金が産出されたと伝えられている。 その中心をなしていたのが知内川である。
『大野土佐日記』 によれば、 古くは建久二年 (一一九一) 荒木大學なる者が知内川流域に入って砂金掘をしたといわれるが、 この日記は信憑性しんぴょうせいに薄く、
伝説的なものである。 しかし、 幕府の役人として蝦夷地に入った近藤重蔵が、 知内温泉薬師堂の棟札を調査したところ、 この薬師堂の開創は応永十一年 (一四〇四)
と記録されていたことを伝えている。 ようやく蝦夷地に和人が定着したこの頃、 このような山間で温泉が発見され、 薬師堂も建てられて、 多くの人達がそれを利用しているということは、
砂金との関連も考えられる。
千軒岳の名称は、 近世の史料等によれば 「淺間岳せんげんだけ」 と記されているものが多く、 また付近の山々も灯明岳とうみょうだけや 袴腰岳 はかまごしだけなどの名があり、
当初は山岳信仰の山とされ、 修験者や信民から崇あがめ祀られていた山のようである。 その後砂金の採取によって、 欝金岳うつこんだけ (金の埋まる山)、 砂金掘の家が千軒もあったので千軒岳と呼ばれるようになったという。
この千軒金山は慶長九年 (一六〇四) に発見された。 『福山秘府・年歴部 巻之四』 によれば、 この金山は松前氏が幕府から下賜されている。 徳川幕府は
「山方三法」 を定め、 総ての鉱山は幕府の直営としているが、 松前氏所領下の砂金金山は遠隔の地であり、 鉱床・鉱区が特定出来ないので松前氏に下賜したものである。
この千軒岳の砂金は、 大千軒岳とその山稜から流下する諸河川から産出される。 この砂金掘は、 川床に堆積する粒金を拾うという極めて原始的なものであった。
大千軒岳直下に発する知内川源流を中心に、 福島町、 知内町、 松前町の各河川が総て金山に属していたが、 そのうち福島町の知内川流域上流地帯がその中核を為していたと考えられる。
『福山秘府・年歴部 巻之四』 によれば、 元和三年 (一六一七) には 「是歳東部曾津己 そ つ こ 及大澤出砂金-按曾あんずるに津巳即東部礼比計れいひげ地方也」
とあって、 現在の字松浦、 松浦川から古峠 (吉岡古峠) にかけても砂金が採取され、 金山の範囲もさらに拡大している。 寛永四年 (一六二七) の同記録では、
金山奉行に小平又兵衞の名があり、 翌五年には 「是歳新鑿砂金於千軒嶽、 于時金師喜介害其徒石井五郎左衞門喜介自縊于獄中傳云自是砂金稍減」 とあって、 この年千軒岳で新たな砂金採取が始まったが、
このとき金師 (金山の指導技術者) の喜介という者が、 自分の部下の石井五郎左衞門を殺害して牢屋に入れられたが、 自ら縊死するという事件もあり、 砂金の産出量も減少したといわれる。
この時の金山総司 (奉行) は、 蠣崎主殿、 蠣崎左馬介、 現地責任者は山尻孫兵衞、 水みず間ま木き工左衞門である。
この寛永年間、 蝦夷地は空前のゴ-ルドラッシュで、 千軒金山のほか泊村 (現江差町) 方面の西部金山をはじめ、 寛永八年 (一六三一) には島しま小こ牧まき、
同十年には計乃麻恵けのまい、 同十二年には宇武辺知 う ん べ つ 、 止加知 と か ち 等で砂金金山が発見され、 砂金掘達が蝦夷地内に多く流入するようになった。
寛永十六年 (一六三九) 大澤及び千軒の金山におけるキリシタン宗砂金掘男女一〇六名の処刑は、 領内の金山に大打撃を与え、 多くの砂金掘が逃散ちょうさんした。
翌十七年の 『福山秘府』 記事では 「是歳金師等有騒動而令渡海」 とあって、 前年のキリシタン宗徒処刑によって、 金山で働いていた金師等が本州に逃げ帰っているが、
さらに同年六月十三日から十五日にかけ、 東部内浦岳 (駒ケ岳) の噴火と大地震、 津波等によって金山は全く廃絶したといわれている。
しかし、 キリシタン宗徒処刑後五年を経た正保元年 (一六四四) の同記録では、 江戸の幕府からの差紙さしがみ (命令) によって、 千軒の金山の金鑿かなほり師し
(指導者) 児玉喜左衞門がキリシタンとして訴人されたので、 捕えて江戸送りをするよう命令され、 児玉を捕えて江戸の切支丹奉行井上筑後守屋敷内の切支丹牢に送っている。
これは、 千軒金山でのキリシタン宗徒五十名の処刑は金山に居住したキリシタンの総てではなく、 処刑後五年を経てもなお多くのキリシタンや金掘等が居住していたことを裏付けるものである。
その、 厳密には東部 (松前より東) 金山といわれる千軒金山の範囲がどのようになっていたかについては、 前述したように大千軒岳から流下する諸河川地域がその範疇にあったが、
その中心となる地域は、 福島町内の字千軒地区を流れる知内川上流一帯であった。 この中心地を一六二〇年 (元和六) に訪れたリ-ダッショ・カルワ-リュ神父は
『一六二〇年報告書』 で次のように記述している。
松前マツマイに居るキリシタンたちの告解を聴くのに一週間ほどついやしてから、 約一日路ほどの金山カナヤマで働いているキリシタンの告解をも聴くため、 そこへ出かけた。
途中に高い山があり、 道がはなはだ悪いので、 彼らが告解のために出てくるのが容易でないからであった。 それで私はミサを挙げるのに必要な祭具をも携えて、
その地へ向かった。 路程の大部分を、 徒歩で行った。 キリシタンたちは馬や馬丁を供してくれたが、 その金山への途中の高い山々の中には、 馬で行ける道が少ないからであった。
それらの山々の奥にすこぶる高い一つの山があって、 日本から一〇ないし一二エスパニア・レグア (注、 一レグアは約四キロメ-トル) ほど距てているにもかかわらず、
その山上から眺めて見る人には日本の突端にある山岳さえも、 この山の足許にあるかのように見える。 そこから幾つもの国々や島々や海が見わたされるので、 実に素晴らしい眺望である。
私が金山から余り遠くない所に新しくつくられた藁屋ばかりの一部落に着くと、 …… 以下略
(上智大学 H・チ-スリク神父 訳)
とあって、 カルワ-リュ神父は、 金山のキリシタンの慰問とミサ聖祭を行うため松前から金山に到っているが、 この記述から推測すると、 松前から及部川を遡り、
ドゲ澤林道を経て、 茂草川、 小鴨津川、 大鴨津川を渡り、 ここから急崖を登って、 付近では一番高い山である大千軒岳の鞍部を下っている。 そのすぐ下った所に金山があり、
そこから余り遠くない所に藁屋ばかりの一部落があるといっているので、 金山の本体は、 知内川の最上流地域の、 大千軒岳の六~七合目付近であると考えられる。
この金山の位置の調査については、 筆者によって昭和三十年七月十六~十八日に行われ、 道案内には当時七十二歳であった字千軒の佐藤甚作氏が協力してくれた。
当時は経路もほとんどなく、 徒歩で、 知内川ムサ本流の左岸を出戸二股、 中二股からは右岸、 奥二股からは左岸の崖路を登り、 広い川原をキャンプ地にして、
翌日以降その上流の調査をし、 最上流の大川原に到着した。 ここは、 二方を乱石積で仕上げた約五〇〇平方メ-トル程の平坦な広さの地が三段になっていて、 佐藤氏の話では
「御番所跡」 といわれる所であることが分かり、 この地を 「金山番所跡」 と命名した。 ここに松前藩の金山番所があったことにより、 この地域が千軒金山の所在地の中心であることは明らかである。
その後数年間、 砂金掘の居住地及び砂金採取地の調査を行ったが、 出戸二股川より上流の地域のいたる所に砂金採取跡地が残されている。
その砂金採取方法についてカルワ-リュ神父の 『一六二〇年報告書』 には、
前記した鉱山で金を採掘するには次のような方法をとっている。 まずこの事業に精通する人々が、 そこに金があるだろうと判断して山をよく見てから、 友人・知人と相談して一団体をつくり、
前に述べた松前マツマイの殿トノから、 その山中を流れる川筋幾ら幾らブラサ (注、 長さの単位、 約一間) を金塊幾ら幾らで購い、 その金塊だけを、 実際に金を発見するかしないかにかかわらず支拂わねばならないのである。
このような団体が無数にその川のほとりを進んで行って、 水路を彼方に変え、 それから川岸の下にある堅岩に達するまで砂底を掘る。 それらの岩の裂け目の砂の中に、
海辺の小石のような純良な金が見出される。 そのわけは、 金塊は生じている山々から剥がれ、 流れに運ばれてきて、 重さのために砂中に埋もれ、 そしてまた岩の裂け目へ落ちこむと、
もはや下シモへは流れずにそこに残ることになる。
時には、 小石のあいだで三〇〇タイル (注、 マライ語よりきた重量及び価格単位。 中国の両にほぼ等しい。) 以上にも価する大きな金塊が見つかることがある。
しかし鉱山から收める利益は、 それを売った殿トノにだけある。 なぜなら前に述べたとおりに、 金塊発見の多少にかかわらず、 その鉱山を買った値段を殿に支拂わねばならないからである。
そしてその支拂いが済まないうちには、 日本へ帰ることができない。 それだから、 金掘りで富をつくったものは至って少なく、 多くの者はこの国で死ぬか、 もしくは儲ける利益よりも出費の方が多くて失敗している。
(上智大学 H・チ-スリク神父 訳)
ということで、 例えば佐渡金山のように、 金鉱を掘って地下の鉱脈から金鉱を掘り出すというものではなく、 川の岩盤に挾まっている砂金を拾うという方法や、
山上に水を上げて山を洗い、 そこに残る砂金を拾うという極めて原始的な方法であった。
従って、 川床の岩盤を洗い出すためには、 川面の大石を川の側面に積み上げ、 その裏側に小石や砂利を積んで、 次第に川床の岩盤を露出させて砂金を拾うのである。
そのため砂金掘をした跡地には多くの、 この石垣跡が残されるのである。
知内川本流の場合、 出戸二股川合流地点より上流にその跡地が残され、 中二股川、 奥二股川、 本流では、 広い川原より源流部に至る間にその石垣の残存が顕著であるので、
金山番所跡地を中心として最上流部が金山の本体であったと思われる。
字千軒地区の村落中心部付近は金山にまつわる地名が多い。 字千軒は昭和十七年の字地番改正以前、 碁盤坂という地名であった。 これは、 国道二二八号線が綱配川にかかる鉄橋の下に旧道が通っていて、
鍋こわし坂を下り、 この綱配川を渡ったところに金山番所があって、 ここを御番所と呼び、 そこの坂を御番坂と呼んだものであり、 それが後の碁盤坂につながったものである。
さらに、 この字千軒地区の台地は旧名綱配野と呼ばれたが、 これは砂金掘たちが、 山を洗って砂金を掘るため、 鉱区の地割をするための縄を張っていたことの遺名であり、
この付近も多くの砂金掘が稼働していた地域であることを示している。 昭和期に入って、 千軒小学校地域の地面が陥没したことがあったが、 調査した人の話では、
土を掘り出したらしくトンネル状になっていたという。 恐らくは掘り出した土を洗って砂金を掘り出したものと思われる。
こうして見てくると、 千軒岳の六~七合目から下流に向けた地域の鉱山かなやま管理をする千軒金山番所と、 字千軒地域を主体に鉱山管理をする御番坂御番所の二つの金山番所が設定されていたことが推定される。
その理由は、 二カ所に金山番所があったこと、 カルワ-リュ神父の 『一六二〇年報告書』 にあるように、 千軒金山に至るには、 吉岡・福島を経由せずに松前から直接に至る経路があり、
この経路を多く利用していたこと。 さらに御番坂の金山番所は福島村から内陸を、 茶屋峠を経て到着出来る場所であるから、 ある程度は半定着的に入居した掘り子が多かったことが考えられる。
福島町の字岩部から矢越岬に至る間に船隠しの澗という澗がある。 ここは両岸に山塊が突き出し、 その中央部に島があり、 僅かな入江から船を乗り入れると、
沖合からは船が島の陰に隠れて見えない。 昔からの伝説では、 津軽・秋田から、 金掘として正式の手続を取らないで入って来る密航者が船を隠した場所といわれている。
これらの密航者は、 この澗の川口から左の山塊を登り、 岩部岳 (七九四・二メ-トル) の東部を横切って下ると、 コモナイ川、 宿辺川に至ることが出来るのである。
これらの密航者も、 現地に入って税役を払えば砂金採取をすることが出来たので、 現在の字千軒地域に入って就業したことが考えられる。
さらに、 千軒金山と御番坂の金山が一つの金山地域で、 数千人の人達が働いていたとするならば、 この二つの地域を結ぶ、 資材・食糧を運ぶ生活道路がなければならないが、
一ノ渡を越えた出戸二股から広い川原に至るまでの間には経路らしい経路はない。 最近の千軒登山ブ-ムで、 奥二股まで車で行ける道路は出来たが、 三十年位前までは道らしい道もなく、
多くは本流の川原を徒渉としょうするという状況であった。 これらを総合して考えると、 千軒金山には二つの鉱山 (地域) があったと解した方が良いと考えている。
また、 元和年間 (一六一五~二三) 以降、 なぜ急に千軒金山に多くの砂金掘が入ってゴ-ルドラッシュになったかについては、 元和元年から三年にかけて東北地方を襲った飢饉もその一因と考えられる。
カルワ-リュ神父の 『一六二〇年報告書』 によれば、
鉱山採掘に行く金カナ掘ホりの名義で乘船し、 出発した。 このことを理解くださるために、 この渡海が今は評判になって以前よりも頻繁に行なわれる理由を貴師に知っていただかねばならない。
それはすなわち、 四年ほど前 (元和三) から蝦夷イエゾに純良な金を豊産する鉱山が発見されたので、 日本中からそれを目指している人が毎年おびただしくかの大きな国へ渡るようになったことであって、
その人数が昨年は五万人を越え、 本年も三万人以上だろうと言われている。
(上智大学 H・チ-スリク神父 訳)
と、 報じている。 元和三年、 津軽の流刑キリシタン慰問のため、 秋田から津軽に入った 『デ・アンジェリス神父の報告書』 によれば、 碇いかりケ関直前の矢立 や たて 峠では、
夏八月といいながら、 腰を没する雪があったと報じているので、 元和元年から三年までの三か年に及ぶ東北地方の飢饉は冷害によるもので、 この冷害で食も収入も全く見通しのないとき、
蝦夷地で新金山が発見され、 蝦夷地に行き砂金を掘ってさえいれば何とか生活が出来るとして殺到して来たものである。
それにしても、 この元和年間といえば、 蝦夷地に住む和人の数はせいぜい一万五、 〇〇〇人程度であったと考えられる時代、 一年に五万人から三万人もの金掘が蝦夷地に入ったとは考え難く、
また、 これらの人達総てが金山に入ったとも考えられない。 ソッコや大澤、 石崎川、 大鴨津川、 小鴨津川などの金山周辺地にも多くの砂金掘が入っていたと考えられるが、
そのうち知内川上流部の千軒金山には、 その名の通り千人位の砂金掘が入っていたと見るのが妥当と思われる。
金山で砂金掘に従事する者に対する税役は、 一人一か月に一匁もんめ (約四グラム) で、 一か年十二匁の砂金を礼金 (税) として支払っていた。 それは一人当りの生産量の三〇分の一に相当するといわれる
(『北海道史』 河野常吉著) から、 金掘達は月に三〇匁以上の砂金を採取していたことになる。 近世においては砂金流通は七匁四分を以て一両と交換されたが、
千軒金山の砂金は純度が高い (二十二金といわれる) ので、 一両を砂金五匁として和紙に包んで通用した。 幕末の増田家 『港省衞規則』 では、 「一両ニ山砂金五匁二分」
としている。
第五節 海 上 交 通
全面に海を控え、 本州北端地方と対峙する福島町にとって、 本州との船をもっての海上交通は、 極めて重要なものであった。 遠くは文治五年 (一一八九)
藤原泰衡の残党が蝦夷地に渡海する際は、 三厩 (東津軽郡) から船に薙刀なぎなたを結び艪櫂ろかいとして、 吉岡村へ漕ぎ渡ったといわれる。 しかし、 本州最北端の龍飛岬から本道最南端の白神岬まで二十二キロメ-トルの間は、
龍飛・白神・中の潮といわれる最も激しい潮流が流れており、 航海上危険が多く、 犠牲者も多かったので、 近世初頭においてはこのル-トを避け、 比較的に潮の流れの弱い日本海側の小泊
(北津軽郡) と松前を結ぶ線か、 海峡中央部を佐井 (下北郡) から箱館に向うル-トが多く利用されていた。
徳川幕府が将軍代替の際派遣する巡見使の行程を見ても、 第一回の寛永十年 (一六三三) の分部左京らの一行は、 北津軽の小泊から松前に入国し、 同じコ-スで津軽に渡っている。
また、 元和元年 (一六一五) 第七世藩主公きん廣参勤交代出途の際も松前から小泊を経て、 高岡 (現弘前市) に至っている。 これらは白神、 龍飛間の危険な海峡を避けて往行していたものである。
しかし、 安全だと思われる地域の航海にしても、 良風を経なければ渡海ができなかった。 一六一八年 (元和四) のアンジェリス神父の 『第一回蝦夷国報告書』
で、 恐らく鯵あじが沢と思われる港を出たところ逆風のため深浦 (西津軽郡) に入港し、 ここで二十二日も風待ちをした上で出帆したが、 嵐に遭い松前には着けず、
ツガ (テンガ-、 天の川) という港に着いたが、 僚りょう船は瀬棚まで流されている。 このように海峡を横断するということは、 経験豊かな水主 か こ をしても、
容易なことではなかった。
寛文年間 (一六六一~七二) ころになるとようやく津軽半島の東側の港三厩と松前との間の海上交通の記録が現われる。 寛文二年に津軽産米を青森から積み出し、
松前に移送したとする記録があり、 当然この海峡を横断したことが考えられる。 さらに寛文九年 (一六六九) の日高地方の騒乱の際、 松前藩応援の津軽藩士の筆になる
『津軽一統志 巻第十』 によれば、
松前への海上船道積
一青森より 二十二里 一油川より 二十一里
一内真部 (青森市) より 二十里 一田より 十八里半
一蟹田より 十七里 一野内より 十五 里
一平館より 十四里半 一今別より 十 里
一三馬屋より 九 里 一うてつより 七 里
一深浦より 二十五里 一金井澤 (が) より 十八里半
一鯵ケ澤より 十八里 一十三より 十一 里
一小泊より 八 里
とあるので、 この寛文年間には、 これらの港と蝦夷地の間の海上交通が行われていたと思われる。 しかもその海路の拠点となるところは東津軽郡地方が多いのは、
この地方が近世初頭より利用されていたことも考えられる。 『新羅之記録』 によれば、 「永禄三年 (一五六〇) 春慶広朝臣 (松前氏第五世) 十三歳にて津軽に渡り波岡の御所右衞門督顕すけあき慶朝臣よしあそんに謁す。
此時松前より渡海船着のため、 稲我郡潮潟の野田玉川村を賜わる」 とある。 野田は現在の東津軽郡平館村に字野田の地名があるので、 蠣崎慶広 (のち松前)
が本州へ渡る場合の船着場として、 波 (浪) 岡城主北畠顕慶朝臣から拝領したとされている。 その後顕慶が津軽爲信に討ち滅されているので、 この船着場は利用されなかったと思われる。
松前氏の三厩まで海行し、 ここから青森を経て陸奥街道または東北道と呼ばれる街道を通り、 江戸へ参勤交代するル-トの初見は、 『青森沿革史』 によれば、
延宝四年 (一六七六) 九月松前若狭守 (矩広の私称か) は、 平館を発足、 当御所御着、 御定宿大坂屋与兵衞方に御入り遊ばさるとしていて、 この時点では平館を松前からの渡航先としている。
しかし、 十七年を経た元禄五年 (一六九二) の 『松前主水広時日記』 では、 松前渡海の拠点を三厩に移している。 同日記によれば、 江戸参勤出仕中の松前家第十世藩主矩広が、
元禄五年二月九日出立帰国の途につき、 三月四日松前到着までを詳細に記しているが、 この行路は二十六日間に及ぶ長いものである。 この間の青森から松前間の旅行を摘記すると、
廿七日
(野辺地) 暁七ツ時 (午前四時) 御発。
小湊御昼、 夕七ツ時 (午後四時) 過青森御着御泊り。 津軽越中守様より御使者。
廿八日
暁七ツ時御発駕。 蟹田御昼、 夕七ツ時平館御着泊り。 松前より御迎として太田六郎兵衞参り御目見。
廿九日
暁六ツ時 (午前六時) 御発駕。 今別御通りに小鹿喜右衞門宅へ御立寄御馳走有之被下被遊。 御道中天気能、 夕七ツ時過三馬屋へ御着。
三月朔日
風下り、 御風待。
同二日
西風、 同
同三日
同合風、 同
同四日
東風天気能御船中万端無二御別条一、 昼四ツ時過松前へ御安着、 御社仏参。
同五日
御家中一同御礼被おう爲けな二御され請らる一。
とあって、 元禄年間より三厩 (三馬屋) が松前氏の着船基地となっていたものと考えられる。 しかし、 同記録中には、 三月十五日江戸への使者として出帆した蠣崎蔵人くろうどは平館まで直航し、
その際の船賃 (借上料) は小判二十七両二分であったとあるので、 三厩、 平館が混用されていたものと考えられる。
三厩-松前間の藩主参勤コ-スとしての航路が確定されてくると、 航海の安全を計るため、 白神岬と龍飛岬に狼煙のろし台が設けられた。 寛政二年 (一七九〇)
最上徳内筆の 『蝦夷草紙 巻之一』 には、
狼煙のろしの事
一、 松前の領主東都へ参勤の時、 松前と津軽の灘を渡海の節、 定例にて長者丸、
貞松丸、 〔別本貞祥丸に作る〕 といふ手船二艘にて、 松前の泊を開帆して津軽三馬屋の泊に渡り至る。
海上無事に着岸すれば、 津軽領の宇鐵村清八といふ獵師の定役として狼烟をあげ、 海上無事に着岸ありたる其しるしを、
松前へ告知らしむるあひづなり。 松前の白上 〔別本に白神に作る〕 にて此の狼煙を見て、
主人つゝがなく三馬屋に着岸ありたるを知て、 白上にても相図の篝かがりをたく。 此かゞりを見て、
松前城中にても又篝をたく也。 宇鐵、 白上、 城中と三ヶ所の火を通して後宇鐵の火の消るを見て、
白上と城中ともに皆火を消すなり。 此狼烟は松前と津軽と隣国の好みによって也。 津軽の領主にてもかねて用意ある事也。
松前領主よりは獵師清八に青差二貫文褒美として給はる也。
(北門叢書第三冊による)
とあって、 松前城中と白神岬、 対岸龍飛岬の三か所に狼煙台があり、 特に津軽の領地内である龍飛岬の狼煙台は、 三厩村の枝村宇鉄の清八に対し、 松前藩が手当を与えて管理させていた。
松前藩主の参勤の場合、 日程が決まると藩主は菩提寺法幢寺、 八幡社、 神明社に巡拝して、 参勤留守中の領内安穏と、 行旅の安全を祈る。 さらに日を定めて侍中、
神官、 僧侶、 町年寄、 村方名主、 御用達等の挨拶を受けたのち、 日和ひより待ちに入る。 各神社では海上安全、 道中安全、 御日待のお神楽を斉行して、
出帆のできる良風が吹くのを祈る。 松前を出帆するには北、 北西、 西の風で津軽地方に向けて船出し、 同地方から松前に向かう場合は、 東、 南東、 南の風が良いとされていた。
渡海日和となると侍中に出発時刻が知らされ、 御目見得以上の者は馬出口から沖之口役所前に並んで藩主を見送り、 沖合の本船までの間は橋船で連絡し、 乘船が終った本船は、
数十艘の曳船で潮路にまで曳き、 開帆して三厩に向かう。 三厩に安着し狼煙が揚がると、 白神がこれを受け、 城中に知らせる。 城中はこれを受けると太鼓櫓の太鼓が鳴り響き、
諸侍中は裃で盛装して登城の上、 大広間で留守居の家老に 「御無事の御渡海、 執着しゅうちゃくに存じます」 と挨拶をするのが慣例となっていた。
一方、 三厩から松前への航海は、 天明八年 (一七八八) 七月巡見使藤沢要人、 川口久助、 三枝さえぐさ十兵衞の一行に随従した地理学者古河古松軒正辰が、
この巡見で見聞したことを記録した 『東遊雜記』 に詳しいので、 その詳細を知るため、 次に引用する。
七月十九日天気悪しく、 松前渡海ならずして、 三厩に滞留。 宿主越後谷権十郎、 この所を三馬屋と称せし伝説を云ふ。 …略…
三馬屋浦にて浦人を招き、 松前渡海の里数を尋ね聞きしに、 みなみな海上七里という。 予遠見せしに信じ難く、 この辺の土人は陸地の行程をも知らぬことなれば、
猶更に知れ難く思い、 夫れより松前の地へ度々渡海せる船頭をたづねて、 其の家に至りて聞きしに、 一定ならず、 又津軽侯より御馳走に出し給う御船頭に対面して尋しに、
我らは鯵ケ沢居住の者にて、 この度渡海は始めてのことにて詳しくは存せずという。 鯵ヶ沢という所は、 弘前より西に当る所にて三馬屋より三十里もへだてし浦なり。
御巡見使御下向について、 御船頭役にこの地へ御召しにて始終夢中の人々なり。 予もおかしく詮方なく思いし所に、 町はずれに手習師匠せし若者に佐兵衞という人あり、
この者万事に才ある由聞き出して、 其の尋ね行きて海辺の地理を尋ね見しに、 所相応の才子たりしゆえ、 大いに嬉しく、 海上汐の行事まで委しく聞きしことなり。
三馬屋より龍浜鼻まで三十六町、 道にて三里近し。 龍浜鼻より白神まで七里、 しかし松前の津までは十里に少し遠し。 右の如く僅かなる海上といへども、 西の方数千里の大海より東海へ行く汐片潮にて、
其の急なること滝の水の如し。 海上に三つの難所あり。 所謂いわゆる、 龍浜の汐、 中の汐、 白神の汐と称し、 龍浜の汐というは、 汐の流れ龍浜の鼻の岩石に行きあたり、
そのはねさき至って強く、 汐行き一段高し。 中の汐というは、 龍浜鼻よりはけ出し、 汐さきと白神鼻よりはけ出し、 汐さきと中にて戦う故に、 逆波たち上りて時として定かならず。
(三一書房刊 『日本庶民生活史料集成第三巻』 による)
この汐行き、 汐くるい不案内にて、 一棹誤る時は、 船を汐におし廻され忽ち危きに至ることにて、 日本第一の瀬戸なり。 南より北方に渡り海上長く南風にて渡り難し。
その故、 汐行き早き所にて船を東へ押し流し、 松前の津へ入れ難し。 数里の海辺みなみな石磯にて船を寄すべき所なし。 箱館の浦へ志すのみなり。
夫れ故に東風の強き時は、 船のほさきを小島の方へさし向け、 汐に逆らいて西へ西へと乘り抜いて、 松前の津に入ることにてたやすからぬ渡海ながら、 この度などは御領主より御念入り玉いて、
功者の舟人数十人乘船申すことにて候得ば、 少しも気づかいなき事と、 しばらく物語りして宿所に帰りし事なり。
七月二十日、 未明より順風に候まま、 御船へ召され候へと、 津軽の役人中より案内ありし故に、 御三所の上下取り急ぎ、 五つ頃乘船す。 津軽侯より古例にまかされ、
百石積み位の館舟数艘にて紫の絹幕引き廻し、 鳥毛の長柄十本吹貫 (のぼり) 一本 (是れは黒白赤の目印にて、 引舟に合印の籏立ててあり) 引舟は本船一艘に三十艘宛。
供船三艘、 津軽侯御馳走の役の舟三艘、 何れも幕をかけ、 彼れ是れ百艘ばかりの舟数故に海上賑々敷く、 上の御威光の厚きに感じぬ。
夫より津軽侯の役人より船玉へ御酒を捧げ、 船歌を奏すれば、 水主、 揖取同音にうたう。 定めてならしなどもせし事にや。 声を揃いて面白き音声なり。 後に聞けば黄帝という舟歌なり。
右祝言終れば御本使の船を始め、 太鼓をたたき立て、 引舟合印の目印に合せて、 我れ一番に漕ぎ出さんと引綱を本船に投げかけ、 大勢曳々えいえいと声を揚げて漕ぎ出す体、
陸の案内者とは引替り海上なれし漁士どもなれば、 中々いさぎよく、 船軍抔ふないくさもかくあらんと大いに面白く、 各々興に入りし事なり。
程なく龍浜近かくに至ると、 船を止め、 鳥毛を始め幕に至るまで取り納め、 板を以って船を包み廻し、 揖穴までも汐入の処に苫を立て、 船頭より申し上ぐるには、
是より海上荒く候まま御用心のため、 恐れながら是に差し置き候とて、 板にて結びし小さなる桶を数々取り出せしなり。 何にせる事にやと心を付けて見れば、 船に酔うて吐逆せる時の用心桶なり。
各々これを見て気味悪しく思いし事なり。 夫より水主二人、 海草にて製したるを頭よりかぶる蓑みのを着し、 艫に出て環に綱を通して己が腰に高々と引きまとい、
汐越波になで落されぬ用心なり。
揖取四人、 右の装束にて揖つかの左右に並び、 各々の環に同じく綱を以って其の身をくくり付ける事なり。 龍浜鼻にかかると引舟はちりちりばらばらとなりて、
元の三馬屋へ漕ぎ帰る事にて、 船頭の太鼓の拍子につれて夫より帆を揚げ、 龍浜鼻の汐を乘り出すと艫の水主声を揃えて 『只今龍浜の汐にかかりし』 と高声に揖取りに知らす。
(同音に声を揚げざれば波音高く揖取りの処へ聞えず) 取揖、 おも楫も隙なく知らせ、 船行き、 汐の調子にかなえば 『ソロウタ引け』 と呼ばわる。
荒波立上りて船の上を打越す時は、 水主、 揖取り、 同音にて 『船玉明神たのむぞたのむぞ』 と声を揚げて太鼓を打て拍子に乘じて船をつかう事なり。
この日三枝侯の召されし船、 仕合せよくていづれの汐も程よく乘り切り、 一番に松前国に入れば、 又々元の如く船かざり急がしくことたる事にて、 松前の津には引舟数十艘、
合図の籏をひらめかし御迎えに出るより、 御三所の船には船頭初めの如く同音にうたいつれて、 鼓をならし櫓拍子高くこぎ入れば、 引き舟来たりて綱繁く入るよそほい筆紙に尽くし難し。
陸には松前侯の諸士列を揃えてお迎えに出向かう。 海上より城郭を見れば、 楼造りにして遠見いわん方なく、 市中軒をならべ、 かかるよきところとは、 人々夢にも知らざりしと目を驚かせしことなり。
この渡海のことを追々委しく聞しに、 昔より難船の沙汰なし、 至って難海故随分と日和を見定めて、 少しにても心にかかる天気なれば、 決して渡海せざる故という。
尤もの事にして万事にこの心ありたきものなり。 …略
このように、 津軽海峡を本州北端から蝦夷地に向って乗り切ることは、 この海峡を熟知している船頭、 水主 か こ でも容易なものではなく、 従って万般の準備と、
十分の天候調査をした上でなければ出帆はしなかった。 龍飛岬に差しかかると神仏の加護を願いながら必死に操船を続けて、 松前の港に入った。
松前藩は当初長者丸、 貞祥丸の二艘の手船を所有していたが、 文化四年 (一八〇七) の移封の際これを商人の委託に任せた。 その後天保年間 (一八三〇~四三)
の 『近江藩蝦夷記録』 によれば、 松前藩の手船は、
吉祥丸 六百三十一石 船頭惣兵衞
宿阿部屋利兵衞
長者丸 九百十三石 船頭百造
宿大津屋武左衞門
叶 丸 九百三十一石 船頭喜四郎
宿種田屋治左衞門
天神丸
の四艘で、 これら手船は総て商人に委託し藩主が参勤交代の際や巡見使の来島等の公用にのみ使用し、 それ以外は商人の運用に任せていた。
このような約千石の大船は狭い海域で、 激しい風と浪では操船は容易ではなく、 遭難の可能性も高いので、 あまり用いず、 小形の百石から二百石の船が主に用いられた。
これらの船は中漕船なかこぎせん、 中遣船なかやりせん、 押切船、 小廻船、 早船と称する天当てんとう船等が主体となって海峡を運行していた。 このように海峡の航行が頻繁になると海難事故も増加する。
さきの 『東遊雜記』 では、 この海峡横断は万全を期しているので遭難は少ないとしているが、 この海峡を乗り切れず、 吉岡や福島に多くの船が漂着したり、
破船する船も多かった。
松前から三厩、 平館へと航路が定形化すると、 この航路はさらに青森港に延長するようになり、 蝦夷地向けの生鮮食糧品や野菜等の供給港となり、 一方は佐井、
大澗を通して箱館との交流が盛んになるが、 危険も増大してきている。 次の史料を見ても松前から出帆した買積船が三厩から平館を経て、 青森に入港したのは二日後で、
荷積や風待ちで十日間を経ている。 さらに青森を出帆して龍飛岬を経て松前に向ったが、 海峡を乗り切れず、 吉岡、 福島方面に落船し、 南西の風を避けるため矢越岬を越えて、
知内村枝村の脇本 (現在の同町涌元) に避難し、 ついには漂流して札苅村コウレン崎で破船をしているが、 その間の日数は二十二日も要している。
御 城 下 湯 殿 沢 町
宝 栄 丸 弁 財 弐 人 乘
直 乘 船 頭
惣 吉
寅 三 十 五 才
水 主 馬 形 町
長 助
寅 三 十 三 才
水 主 佐 渡 扇 田 ノ
勇 吉
三 十 三 才
同 津 軽 小 泊 ノ
寅 吉
子 廿 五 才
以 上 四 人
右 申 口
当月十八日朝五ツ時頃札苅村附コウレン崎ニおゐて破船仕候ニ付御村方御届奉申上候処御見分として被成御越 始末逸々御糺ニ御座候。
此段私共儀年来船乘渡世罷在候処、 此度津軽表江相越米買調申度、 右之段御城下沖ノ口御役所江御願申上、 十月九日御切手頂戴仕候処風筋不長々滞船罷在、 十月廿七日亥子風ニ而御城下出帆仕候処、
津軽平館沖ニ而午未風ニ爲替、 廿八日平館ニ而滞船翌廿九日亥子風ニ而青森江入候所、 同所ニ而餅米弐斗入百叺かます、 白米四斗入四拾俵、 味噌拾五樽、 にんじん牛房六拾箇、
玉子七千積入十一月九日迄日和待滞船罷在候処、 同日朝五ツ時午ノ風ニ而青森出帆、 同日夕六ツ時三厩江着船。 翌十日亥風ニ而同所出帆仕候処タツヒ沖ニ而未申風ニ爲替烈風ニ相成候ニ付、
漸々脇本迄相越滞船仕候處、 打続大時化浪高ニ而、 十一月十日同十七日迄無止事烈風浪高故昼夜無油断改相凌繋留罷在候処、 十七日夜ニ入弥増大時化繋留候儀も相成兼無拠浪よんどころなく風ニ任せ子丑ノ風ニ而御城下江向ケはしり居候処、
次第烈風吹募り同夜四ツ時過ニ相成南風ニ爲吹替、 致方無之猶又風ニ任せ箱館江相向居候処、 大雪ニ相成地山相見得不申、 弥増大浪風故船も危、 手当ニ任せ上荷物投当別迄相越申度種々相働候得共、
近寄候儀相成兼、 彼是仕候内札苅村コウレン崎江吹付られ手出しも相成不申浪風ニもまれ罷在候内、 明方ニ相成濱辺を見候処、 御人足大勢声掛ケいたし呉候ニ付、
大ニ力を得相働居候内大浪風ニ而コウレン崎江打揚ケられ、 船底大ニ痛水船ニ相成候事故 …以下略
前書之通聊いささか相違不申上候
寅十一月廿日
水 主 勇 吉 爪印
〃 定 吉 〃
〃 長 助 〃
船 頭 惣 吉 〃
札 苅 村 問 屋 五左衞門 印
当 別 御 改 所
伊 藤 源 兵 衞 殿
(『松前浦証文並海難聞取書』 市立函館図書館蔵)
寅年は安政元年 (一八五四) と考えられるから、 この記録によって、 海峡横断の風行とそれによる船の運行方法、 さらにはこれらの船の積荷状況、 また青森から松前への航海途上での風行の変化と、
落船して札苅村で遭難するまでの過程が手に取るように、 かいま見ることができる。
このように帆船が松前の港に入れず、 落船 (風に押されて目的地に着けず他の港に着いた船) の事故が多くなる。 しかし、 その港には沖ノ口役所がないため入国手続や積下しができないため、
松前・江差・箱館の三湊のほかにも沖ノ口役所を設けるべきだという考えが時代が下るに従って強まってきた。 とくに吉岡貝取澗、 宮歌澗には避難する船が多く、
そのため吉岡村に沖ノ口役所 (船改所) 設置の必要性が、 年と共に強まった。
第六節 陸上交通・駅逓・宿場
松前から箱館にいたる街道は二十七里あり、 この道はあまり手をかけない海岸の平地や、 自然道あるいは杣道を利用したものであったが、 それでも蝦夷地の幹線道路であった。
この道のうち福島町内の六里半の道を見ると、 その行路は安政二年 (一八五五) 津軽弘前の人平尾魯遷筆 『箱館 (松前) 紀行』、 越後長岡藩士森一馬筆
『罕有かんゆう日記』、 松浦武四郎筆 『渡島日記』 等に詳しいが (史料編、 來遊客日記等収載)、 これらを綜合して見ると次のようなものである。
松前を出て大沢、 荒谷村を過ぎると炭焼沢村 (現松前町字白神) に入る。 ここから街道は白神岬を迂回する白神山道、 吉岡山道、 あるいは茶屋峠と称する二里の道程みちのりの山道があり、
福島から知内に至る間の茶屋峠と共に、 街道の二大難関であった。 この白神山道は登りが一里、 下りが一里であるが、 炭焼沢からだらだらと登り、 標高三六二メ-トルの白神岳の山麓を巡ると、
上部の台地には棚に囲まれた石地蔵の立像が立っていた (現在吉野教会の石仏がそれらしい)。 その向い側には巡見使等が来島した際には仮小屋を建て湯茶の接待をしたが、
平尾魯遷のスケッチでは、 ここに立派な建物があり、 休所となっていたと思われる。 松浦・吉野 (当時は楚湖そっこ・礼髭といった) の下りは急峻で、 駄馬の通行がやっとの状況であった。
この下り道は幅二間、 深さ五尺~三尺で、 今もその街道の規模、 構造がよく分かる。 下りには、 福島の村々の配置や矢越岬、 本州の山並が指呼に眺望できる。
また右の断崖からは岬 (明神岬) の上に楚湖明神 (現白神神社) を見ながら、 かつて砂金掘で多くの人が入り込んだ楚湖川へ出て、 さらに礼髭村に出た。
海岸を白神岬を越えて礼髭村に至るには、 岩礁地帯を跳はねながら歩行し、 岬から東部では数か所腰まで海水に漬つかっての歩行であった。 とくに瀧の澗 (界川)
から明神岬までの間は岩礁の連続で、 ミネコの岬 (みないこの岬) という名があるように、 男女共腰までまくって海中を歩くので、 お互いに見ないことにしようということで、
この名が生れていた。 したがってこの海岸道路は、 海が荒れた場合は歩行できず、 危険も多いので殆ど利用されなかった。
礼髭から吉岡までは海岸の砂地の道を利用し、 両村の境界は界川あるいは市ケ沢。 吉岡村は沖ノ口役所のあったこともあって、 船宿、 旅籠はたごもあり、 水主らに春をひさぐ鴈がの字と呼ばれる女性もいたという。
貝取澗と宮歌の澗には多くの船が仮泊しており、 黒瀧と鍋島の村界、 宮歌村はここから澗内の岬と呼ばれた根祭岬、 さらに白符村は福島堺の馬越まで、 ここ慕舞の岬に腰掛岩があって、
ここには村界の大門が立っていて、 萬一の場合に閉鎖するようになっていた。 さらに日方泊を経て福島寺町前と上町に入り、 松前からは五里の宿場に泊まるのが例となっていた。
福島では名主住吉屋辰右衞門家や戸門治兵衞家も旅籠はたごを漁業と兼ねて営んでいたが、 福島も吉岡と同じく歓楽街があり、 飲み屋、 そば屋等が多く、 その中に
「地じ烟草たばこ」 と呼ばれる女性が春をひさいでいた。
福島から知内までの街道は七里で、 しかも、 四十八瀬、 茶屋峠を越えるため大変な難路であったので、 明ケ六ツ時 (午前六時) には吉田橋前の大門を出立して知内に向った。
途中には三本木というたもの三本の大木があり旅の一つの目標になっていた。 ここから山崎にかけては若干の田畑が開けていたが、 これらの人達は多く杣夫、 炭焼で生計を立てていた。
ここから少し行った山裾から左に分かれるが、 ここには道標石柱が立っていて、 左箱館、 右山道と書かれていた。 この左へ入る道は現在の兵舞道で、 当時はシャウマイ道と呼ばれ、
福島川本流の多くの瀬を渡るため四十八瀬と呼ばれる。 この行き詰まった処から茶屋峠を登るが、 その行程一里は正に絶壁を登るようで、 松浦武四郎は、 「九折恰あたかも蜀嶮の棧も此の如しと思われる処しばしば」
と中国蜀の道の悪さを表現した李白の詩を引用する程である。
この峠を登りつめた処に休息所としての茶屋があり、 代々与助という人が、 ここでお茶を出し、 駄菓子を売っていたことから、 峠の名茶屋峠の名が残った。
この経路は旧松前線の茶屋トンネルの直上部分に当る。 ここから東部は、 なだらかな下りで知内川本流の一の渡り (市ノ渡りともいう) に着く。 この川には丸木船が備え付けられていたが、
橋そだばし (木の枝等の粗末な橋) があり、 ここを渡り急坂を登った綱這野つなはいの (綱張野または綱配野=字千軒) に松前藩が建設し、 佐藤甚左衞門が管理する御救小屋があった。
これは知内川一の渡りが増水で渡れない場合、 休泊ができるように旅人の利便を考えて造られたものである。
ここ綱這野を過ぎ、 知内川支流綱配川へ下る坂を御番坂あるいは鍋毀坂なべこわしざかと言った。 この川を渉り、 湯の尻までの間を湯の野といい、 イタドリ、
エゾエウ (ニオ) が丈余に伸びていて、 道は草に覆われていて先が見えないので、 熊と正面衝突して襲われ死亡する旅人が多かった。 そして供養のため鉄輪のついた卒塔婆の菩提車が、
あちこちに建っていたと言われる。 知内村との村堺は湯の野の坂を下った知内川支流の湯の沢川近くの栗の木椹たい坂 (椹はさわらの木) であったが、 ここから東は知内村領であった。
【駅 逓】 松前領内の主要街道である松前-箱館間、 松前-江差間には駅逓が設けられていて、 人馬継立が行われていた。 とくに吉岡は沖ノ口御番所のあることによって船宿、
福島村は宿場町としてこの中継基地であった。 この継立は村の義務として公用物である御用状および御用物は無料で、 御用継を村送りしなければならなかった。 これらのもので急ぐものは刻付帳が添えられていて、
何処 ど こ の村が何刻ときに受け取り、 何刻に何村へ引き渡したということを克明に記しておいて責任の所在を明らかにしておく。 しかし礼髭村から白神村への伝達、
さらには福島村から知内村のような遠隔地の場合、 刻付で急用を要するもの以外は、 駅逓から荷駄馬の往還を利用したものもある。
有料の人馬の継立は宿場で行ったが、 福島も吉岡も名主が旅籠を経営していたので、 ここが取り扱った。 『戸門治兵衞旧事記』 によれば、 この継立は天明八年
(一七八八) で福島、 松前間四里二四丁三〇間 (約一八・一六四キロメ-トル) で、 その馬一頭の駄賃は一六八文四分、 軽尻 (軽い荷) 馬は一一二文、
半荷の場合は四六文で、 福島から知内までは七里一〇丁二五間 (約二八・五四三キロメ-トル) で駄賃は二六二文三分、 軽尻一七五文、 半荷一三一文であった。
この馬継立に用いる馬は知内村と一の渡りの佐藤甚左衞門 (仁右衞門) の馬が用いられた。 『罕有日記』 には、 知内を発足して福島に向かう道中を
五ツ時 (午前八時) 前馬にて発途此節雨晴たり宿端より山間に入る原野の如く雜草多し。 知内川を右にして行事一里些いささか之昇降数処あり、 此辺左右柊樹ひひらぎ多し、
又壱里にてハンチヤリ川 (圓木船渡し馬は渉す知内河上) 半里許にて湯元道坂下道の追分あり (湯元は右山中にあり) 又半里ゴバン坂昇降して民屋一宇あり (民屋の辺地味聊いささかよろしく畑作をなす)
草わ鞋らじ等売って行人に便にす。 此辺楢なら、 榛せん、 ブナ等の大木多し、 且つ古木は焼枯し伐り倒し、 往来近辺山々を焼事夥おびただし、 馬夫に問えは、
さん候草深けれハ熊羆来て馬を取り喰へ候故に、 年々春中草木共に焼払候なり…略…
一之渡驛 (知内より四里半)
山間稍やや平かにして休泊所壱軒あり、 大家にして佐藤仁右衞門といふ昼ひるげす。 …略…
家に牡馬七疋畜ふ (此宿より松前まで牡馬を遣ひ、 箱館より是迄は牝のみなり、 野飼するに牝・牡当を得されば害あるよしなり)。 飯おわりて馬に跨り又山道左右林立の地なり拾丁程にて一之渡り嶺或者福島嶺といふ。
…略…
降り半里余の間盤曲弐拾餘折あるべし、 中に就て絶頂より十三、 四折の間嶮峻の至極といふへし、 石道素より 狭きょう隘あいにして輿こしも停むる処なり、 山々重疂して波涛の如く澗谷陰々として其深きを見ず、
馬は戦慄せんりつして四蹄を縮め、 人は出汗して眩暈げんうんするか如し、 嶺上よりは諸山を見、 奥州山も望あり、 …略…茶屋壱軒甚た粗なり、 ここより一渓流を縱横渉ること数十度、
四十八瀬といふ。 川幅五、 六間より乃至拾間左右にして寒冷指を落すが如しと、 霖雨りんう或は雪解には掲けいれい成し難く、 時々逗留ありと。 右之茶屋より一里計之間緩やかなれども坂道にして、
左右山間纔わずかに拾弐、 参間榛せん、 楢なら、 橡とち、 ブナ、 柳樹の巨木覆ひ日光を遮さえぎるか如し。 途上ハ四拾八の流れあり、 是を茶屋の沢と字す。
とあって、 多くの人々は熊害を恐れて、 馬子の先導する土産子馬に跨って旅をしたといい、 特に茶屋峠から四十八瀬への下りには馬も蹄を縮める程の恐ろしさで、
乗る者も眩惑するほどの恐ろしさであったという。
【宿 場】 福島は旅人の宿営地、 吉岡は沖ノ口御番所があることによる船の出入で、 船宿があった。 福島旅籠はたごの第一は名主住吉屋辰右衞門の経営する住吉屋を第一とし、
戸門治兵衞、 花田六右衞門等も旅宿を経営していた。 この旅宿に投宿した前述 『罕有かんゆう日記』 の筆者森一馬は、 「此客舍ハ手広く普請も見事に既に (座敷拾五、
六疂なり) 料理も入念なり」 と高く評価している。 吉岡村は名主船谷久右衞門が船宿営業していたほか、 ここも多くの旅宿があり、 宿泊料一泊二食付で標準は二五〇文であったが、
素泊りの木賃宿きちんやどは三五文であった。
一の渡りの松前藩が設けた休泊所については、 数回にわたって建て替えられたらしく、 常磐井家文書 『慶応二年日記』 によれば、
四月二十五日
一、 一野渡り甚左衞門願ニ付、 御本陣普請ニ付、 新宅御祈祷。
とあるので、 このころ、 さらに建て替えられていたことが分かる。
第七節 変 災
福島町は中世の時代から多くの災害を経験している。 地勢上福島川の氾濫はんらんや、 海岸に連担する漁家が、 一度大きな波浪があると、 大きな被害となった。
さらに東北地方に冷害があれば、 村民の生活に直接影響がある。 また、 医療の発達していないこの時代には、 疫病、 天然痘 (疱瘡) の流行病が多く、 抵抗力の少ない児童の罹患が多く、
生れた子供が十歳までにその半分は死ぬと言われた。
これら変災を常磐井家が保存する 『福島沿革史』、 『戸門治兵衞旧事記』、 各年代日記等によって見れば、 次のとおりである。
明応元年 (一四九二)
野火烈しく月崎神社焼失、 春日ノの作タル た る 御神像光ヲを放シし飛失タリ た り 。
天文元年 (一五三二)
四月ヨリより九月マテ ま で 雨降ラズ ら ず 。
天文二十一年 (一五五二)
南条越中広継妻 (第四世領主季広長女) 逆意顕れ生害し、 長泉寺を牌所としたが、 この年より三十三回忌の済むまで福島川にサケ上らず。
天文二十三年 (一五五四)
夏たびたび大洪水あり、 冬大雪降り山を成せり。
天正十三年 (一五八五)
折加内川 (福島川) にサケ元の如く入る。
慶長十六年 (一六一一)
十月東部津浪起て和人、 蝦夷多く死す。
寛永元年 (一六二四)
折加内村に火災度々発生し、 村中絶せんとし、 月崎神社の神託により、 福島村と改称。
寛永十七年 (一六四〇)
六月十二日東内浦岳焼山崩、 十三日滄海動揺してつなみ起る。 百余艘の船並和人、 蝦夷溺死、 十四日国中闇の如くして前後を弁せず、 硫黄いおうの灰降り天地震動甚だしく毛虫降る。
十五日天漸く明かなり。
寛永十八年 (一六四一)
疱瘡流行、 子供多く死す。
万治元年 (一六五八)
春夏疱瘡流行して人多く死す。
秋亀田大熱病、 疱瘡人多く死す。
寛文二年 (一六六二)
三月六日より二十日まで日月紅の如し、 国中闇夜朝夕焼火を点ずるに至りぬ。 此に於て村民一同相謀り神明社に参寵し、 祠官常盤井今宮に願出御神楽修行、
爾後正・五・九月祭月定め永代之を勤むることにせり。 天下太平、 当所安全の爲なり。 (これ松前神楽の始期という)
寛文三年 (一六六三)
七月十二日夜乙部洪水、 沢に蛇が出、 所々山崩れる。
七月十四日宇須嶽焼出。
寛文四年 (一六六四)
秋蝦夷地に鼠ねずみ出て人を喰ふ。 冬慧星出る。
寛文五年 (一六六五)
太平山 (上ノ国) 鳴り天ノ川河口塞ふさがる。 春慧星出る。
寛文六年 (一六六六)
冬中東風吹かず国中米絶て飢饉に及ぶ。 領主米・鮭・昆布をもってこれを救う。
六月十一日一の渡の川を渉るとき死亡したものあり。
寛文七年 (一六六七)
正月大雨前代未聞。
九月領主蠣崎広林を使者とし、 松前数年困窮の趣言上、 米三千石拜備。
元禄五年 (一六九二)
疱瘡流行、 子供多死す。
元禄六年 (一六九三)
八月十五日夜不思議な星出る。
図
元禄七年 (一六九四)
七月二日より内浦岳焼灰降り沖中の船々灰に閉さる。
元禄九年 (一六九六)
津軽・秋田の沖ノ口止まり、 大飢饉死者甚し、 松前一人も餓死者なし。 二月十八日秋田越前屋の舟米四五〇俵積来り、 夫より米舟続々来る。
元禄十四年 (一七〇一)
七月二十九日大風雨高浪にて亀田村洪水。
八月六日大風雨畑作皆無、 破船数百艘、 秋より当島前代未聞の飢饉、 領主十二月より施粥がゆ二万人。
宝永元年 (一七〇四)
三月より八月まで疱瘡流行子供多く死す。
寛保元年 (一七四一)
七月十七日地震之様に度々相聞へ大島に候由。 十六日夜中より十七日の明まで城下、 及部迄一面に焼灰降申候。 上在、 下在共降候由、 所により七、 八分、
壱寸程まで降り候由。 十九日西風にて天気能明前より雨降り、 海上夥敷おびただしく鳴渡り、 無程明迄の内津浪打来り前浜之澗掛り之船不残一時に打揚並之家共潰家半潰家共に有之候。
三鷁さんげき丸船は大松前役所之下迄打揚、 大松前橋は欄干らんかん付候侭にて馬坂橋之上へ打揚、 同橋へ能代船弐百石計りの船入申候。 浜通りの家へは王餘おうよう魚、
タナコ抔など入候。 ヱゲフ (生符-松前町字大磯) 畑中へは磯魚、 色々の貝類浪に打揚淤お泥でい之内に有之候。 札前村より熊石村まで村々溺死都合千三百七十人余、
百姓旅人共に家数准之。 新谷より吉岡村迄十九軒、 疵家二十軒、 溺死十六人右之通公儀へ御断あり。
福島村死亡者一人もなし。 (『常磐井家文書』) 皆々稲荷山へ逃上る。 下町、 寺町五、 六戸浪ニ取られ、 上町は何事もなし、 山沢崩痛む。 (『福島沿革』)
天明三年 (一七八三)
凶作、 不漁わらび根海草を食したれども餓死せし者無之、 続々内地より移住者入込て餓死を免れたり、 領主より蔵々吟味致し米改の上売米穀させたり。 村々名主より家内を書上させ、
壱人に付弐合五勺、 壱はかり百文宛町役所より買受仕候。 内々売は十二両、 十三両位也。 (『福島沿革』)
同年
津軽凶作にて四十万人がし仕候。 仙台、 秋田、 南部夥敷死別而して仙台、 津軽人多く死去。 (『戸門治兵衞旧事記』) この年より寛政七年まで十四年間ニシン群来ず。
天明四年 (一七八四)
春米船下り申さず候。 内二十五両迄仕候。
寛政二年 (一七九〇)
この年より太櫓より城下まで悉無しつかい、 乙部は三月一日少々くき、 殿様へ弐百匹上り候。 益々困難なり。 殿様より四月上在諸村稼商売税金御免となる。
蝦夷地二に・八取はちとり鰊夏漁業総て御免となる。 古宇までは御免。 黒米三両五、 六分、 秋田米三両壱歩、 本庄三両弐歩。
享和三年 (一八〇三)
十一月十六日夕七ツ時 (午後四時) 上町西村茂右衞門火元にて、 隣家久太郎上方二軒隣紋兵衞方は潰家とまり。 東の方下通吉四郎、 治兵衞、 伝七、 林兵衞、
彦兵衞、 善八、 次右衞門、 清八、 市右衞門、 三太郎、 治五右衞門以上十三軒焼失。 治兵衞表口六間、 裏行八間。 火元寺入七日にて御上様引廻し。
十一月月崎社ニ灯明の如き火形上る。
文化元年 (一八〇四)
八月晦日九ツ半時 (午後一時) ひかた大荒、 大浪、 城下大被害。
福島村にては壱人も死不申候。 皆々稲荷山江逃上り、 下町、 寺町家五、 六軒取られ、 町何事も無之、 山沢崩痛む。
文化二年 (一八〇五)
閏八月三日大洪水諸木流杣子九兵衞溺死、 死体日方泊に寄り上る。
文化四年 (一八〇七)
正月朔日朝五ツ半頃 (午前九時) 神明宮御拜殿中未明に参詣相済候跡焼失、 御神鏡、 御獅子、 金幣、 鰐わに口、 大太鼓、 御幕焼失、 笹井肥後差扣となる。
新社出来、 肥後正改名治部正武彦となる。
天保三年 (一八三二)
疫神祓被仰出候間、 明十二月二十日迄に可罷登候 (風邪流行か)。
天保十三年 (一八四二)
五月疱瘡はやる地震度々有、 凡三十日計、 其の音雷公の如し。 稲荷山、 館古山江小屋掛致、 釜谷明神江小屋掛致し、 干潟泊りにて山の上小屋掛致す。
安政二年 (一八五五)
六月大旱。
七月二十日大地震津浪あれども痛なし。
安政三年 (一八五六)
九月月崎出火三戸焼失。 火元兵五郎。
安政六年 (一八五九)
八月十五日巽風にて日方泊家皆流人々山へ逃げ上り、 釜谷神社神木椴木三本倒れ、 南部よりの栄寿丸吉岡沖ノ口へ船改の爲廻航せし処破損に及べり。
十月一日夕四ツ時 (午後十時) 日方泊出火十一戸焼失、 安之助火元。
文久二年 (一八六二)
正月より八月まで悪病流行、 犬多く死す。
文久三年 (一八六三)
六月十四日大雨洪水、 三本木の大木一本流れる。 むかしたもの大木三本ありしという。
八月七日吉岡峠あられふる。 当村四ツ頃大あられ降る。
元治元年 (一八六四)
寺町火元幸七、 十一戸焼失。
十一月十六日当村中願に付、 疱瘡平癒之御神楽勤行仕候。
慶應元年 (一八六五)
夜八ツ時 (午前二時) 福島村領地しとまへの崎細澗之磯江三国の谷通丸上破舟いたす、 千三百石の船。 二十七日また破船七百石の船に御座候。 是も当村にて諸事あつかい仕候。
皆々いたみ鍛冶丈五郎九十両にて買求め。 七月二十二日昼九ツ半 (午後一時) 下りヒカタ大風、 大々時化夜四ツ頃大波、 干潟泊り皆々痛み、 月崎神社拜殿後の小川、
神木まで波上り、 小谷石も家大痛み。 吉岡宮歌澗掛船大小九艘破舟、 海死六人、 澗内の沢に三人寄り、 白符腰掛石弐間計江女人死体上る。
八月十二日東風にて大風時化夜四ツ頃大あられ降る。 此度初雪に御座候。
明治元年 (一八六八)
十一月二日福島村山崎徳川軍との大会戦、 さらに町内合戦の上、 本陣法界寺を焼き松前藩兵敗退。 法界寺のほか門前の家三戸類焼したほか、 慕舞五、 六戸焼失。
白符、 宮歌、 吉岡、 礼髭村残らず兵火に罹る。
第 四 章 宗教・文化
第一節 近 世 宗 教 の 展 開
慶長九年 (一六〇四) 松前氏 (蠣崎氏) 第五世伊豆守慶広が徳川家康から、 蝦夷地采領の黒印制書を拝領して松前藩が立藩された。 この藩で宗教政策を管掌したのは寺社町奉行所である。
この奉行所の設置は慶長年間の記録にも見え、 寛永年間には制度化され、 民生・司法・蝦夷のことを主要職務とし、 町奉行所としていたが、 その後、 神道・仏教を加えて寺社町奉行所および奉行と名称が変更された。
この寺社町奉行の名称変更について松前八幡社白鳥家の 『八幡録』 においては、
一元禄五年ニ隼人、 若宮両人江被仰付候は向後社人之支配致両人可相勤旨被仰付候。 尤隼人儀は御禮式先ニ可相勤様傳承り罷在候。
隼人病死仕候忰勘太夫与申者家督ニ罷成、 官職之儀被仰付上京仕、 於吉田家官職相調親通り隼人佐与改相勤罷在候。
とあって、 元禄五年 (一六九二) 松前八幡社と松前神明社の両神主が、 領内社人の支配役を命ぜられ、 両人の藩での序列は八幡社を上席とすることが定められているが、
これが直接町奉行の支配下に入ったか否かは明かではない。 さらに前掲史料は次に、
一正徳二年辰正月八日隼人佐江初而頭御役以後代々可相勤候様被仰付。 猶又御殿中御禮式以後獨禮可申上様被仰付被下置候。 時之寺御奉行高橋淺右衞門殿ニ御候。
とあって、 正徳二年 (一七一二) に寺社奉行の高橋淺右衞門を通じて社頭職に任ぜられたが、 これは寺社奉行という単独のものではなく、 町奉行の兼摂の役で、
両者を合して寺社町奉行の名称が用いられ、 このころから正式に寺社町奉行所の機能が発揮されている。
松前藩の藩法の集大成ともいうべき 『松前福山諸掟おきて』 の寺社町奉行の項においては、
定
一、 毎月仏并親類江之致精進、 或者宮寺江参珠数其外後生之道具不爲取者に宿仕間敷候事。
若此旨相背におゐてハ急度曲事可申付者也。
寛永十六年七月廿日 是歳幾利支丹
宗門爲制禁
但此札寛文十三年ニ行
定
一、 きりしたん宗門前々より雖爲御穿鑿さくせん弥以可致吟味之旨、 今度被仰出候、 仏を不信仰或者珠数其外後生之道具并寺判不爲取持、 不審成者於有之者可申出、
其品ニより褒美可爲取之、 若他所よりあらわるゝニおゐてハ従公儀被仰出之通其五人組迄可行(爲)曲事者也。
寛文十三年五月十日
とあるように、 寛永十六年 (一六三九) のキリシタン宗門禁制による住民への対策として、 神道または仏教の国教を信仰し、 月一度は必ず、 社参または仏参して信仰の証しを立てることを義務付けている。
従って中世末以降に福島地方に展開されてきた、 神仏習合 (神とも仏とも分別できない) の信仰が、 次第に神道、 仏教に分離されてくるが、 それでもなお丸山薬師信仰のように、
慶應三年 (一八六七) の幕末にいたっても、 山岳信仰の遺形として、 丸山神社の祭祀は猿田彦大神を祭神として神主笹井家が担当し、 同じ社に祀る薬師如来の信仰は釜谷の了然という山伏が別当となるなどの変則的な在地信仰も続けられている。
【松前藩の神道政策】 松前藩の神道政策は前述のように寺社町奉行より発せられる神道政策を、 和人地内の管下神主に浸透させ、 これを守らせることを主眼として正徳二年正式に社頭職両人
(八幡、 神明両白鳥家) が任命されている。 この社頭職は、 社しゃ家け頭とう、 注連頭しめがしらまた一書にはシカリ役としており、 各社家の上位にあって藩の意を帯して、
神道体制の強化に努めることであった。 また、 この社頭職は京都の神道卜うら家べの司家吉田家と深く結び付いていて、 大神主あるいは正神主と普通神官より高い位の待遇を受けており、
神官跡目相続者の教育、 吉田社家からの継目相続の介入、 神主資格と叙位任官等に深くかかわっていた。 蝦夷地は京都から見れば極めて遠隔の地ではあるが、 しかし、
この規律は厳格に守られていた。 奥羽地方においては神主資格保持者は少なく、 村落では堂守別当的な存在が多く、 かつまた神仏習合の修験者が多かったことから見ても、
蝦夷地神道は神官の統制を含めて厳密に行われていた。 常磐井家記録のなかでも、 相続者がしばしば上京しているが、 これは、 吉田卜うら部べ家からの神主資格の取得と、
敍位敍官のための上洛であった。 社頭職である松前八幡社白鳥家、 松前神明社白鳥家の両家は、 その祖は陸奥国和賀郷 (岩手県和賀地方) に発し、 上ノ国八幡社に奉仕し白鳥称宜ねぎと称したが、
その子なく修験者大蔵院が二代を受け、 三代海蔵院が神道神主となり圓太夫となって大館 (松前) 館神八幡に奉仕した。 寛永二年 (一六二五) 福山館の後方
(現さくら見本園位置) に松前藩主松前氏の氏神として八幡宮 (社) が創建され、 圓太夫がその祠官となった。 四代森太夫には二人の子があり、 兄若宮が別家して神明社
(伊勢堂) 祠官となって若宮太夫を称し、 弟隼人佐はやとのすけは八幡宮社司を継ぎ、 両家は、 両白鳥家として神道觸頭の地位を保ちつつ、 明治まで営々と栄えた家柄である。
また、 この両家を補佐する准觸頭に馬形まがと神社社司の佐々木家がある。 これは八幡社白鳥家に嗣子がいない場合、 佐々木家から養子を迎えることの慣例から、
このような待遇が与えられたものである。
社頭職がどのような活動をしたかを示す史料に 『白鳥氏日記』 がある。 この第一巻 (天明~享和三=一七八一~一八〇三=筆者白鳥家神明社四代遠江守とおとおみのかみ政武)
によれば、
寛政十年
十二月一日島村一家中へ笹井佐波當家江出入相止メ申義書状ニ而趣左に相記し先年近在鯡くき候砌者家諸士打揮し鯡取申事ニ而船役並御印も相給申候然ル所近年近在邊不漁ニ付家諸士者一統ニ蝦夷地江者鯡取ニ不参御座候所左波
(ママ) 義只壱人家ニ而雪中遠蝦夷地迄乘込居候間御用之事も相欠キ罷在候ニ付親父者家中へも無面目年々罷在候仍而先達而同人江鯡取ニ参り候義不宜様申入候へとも承及候處此間新艘ヲ仕立候由故我大病之便申遣候仁江船はき候故見舞ニも参り兼るよし相聞へ候故親父殊の外立服ニ而又候遠蝦夷地鯡取ニ参り候義相不止候義旁々以不相済候故右之段只一家之者共へ計申遣候所同月三日永井勘九郎土門治兵衞住吉達右衞門右三人名代トして一家弐人村方小役(使か)多七ト申仁参り候仍而左波義惣村中申訳可申上様ニ私村役人名代ニ罷上り候ト申候扨而左波義者人之内只壱人のミ年々遠蝦夷地迄雪中もいとわす罷越候義ハ百軒餘り之村中扶助成兼候而下々難 澁ニ而 参り候 哉又者只壱人人養生旨海上大切ニ氣間外内職ニ而海上遠方之商賣者無用致し候へと申而も同人聞入無大切之事ヲ欠其上かけい無身分として欲心ニ而参り候哉此両様承度候ト申候所多七申ニハ其義者村鯡取船と申ニも無之又同人よくニ而参るニも無之只古取來り候ト申故古來之諸士家一統ニ鯡取候筋申聞候所彼仁元來他國來り近年島村有付ノ仁配ノ其義ハ不存無答候又彼仁申出候ハ先申聞被下候村扶助之義ハ左波商賣ヲ留守いたし故に申ト言義も成兼候仍而此上者村名主其外之役人來り右之訳申而も私申義ニ相替る事無候と申候故然ハ島之大村ニ有之名主も年寄も皆貴殿之意けん外ニ仕案もふんべつも無き役人ニ而貴殿ハ惣村之事知り候而惣役人中をないかしろに致候申分故此上村之役人中相尋候ニ不及貴殿壱人之意けんニ埓明キ不申然ハ是迄之通り左波遠蝦夷地へ乘込海上萬一之義有之候時者役人中何ト此方へ相断り候哉又寺所へも何ト断候哉其上京都吉田御本所へ之断共ニ今此所ニ而一々申訳ヲ申聞セ入候方ニ安堵致し候様ニ被申へしと申されハ是又當惑之躰ニ而外弐人者も同し多七申す□仕候段遠江前後も不存申上候義真平御免被下度趣とつて申事ニ御座候故先ハ村へ帰り候而とくと役人中ニて相談も承り候而此方へ申出べきと申候所右三人同し申候ニハ此度之義甚尤ニ候義ニ而仍而左波江ハ何分村方相談之上ニ而品相立可申様ニ我々如何様とも申入筋を付可申上候間何卒左波殿へ御出入ノ義前々之通り御免成被下度由重ねて申事ニ候間然ハ其義ハ雪中之砌ト申行來数度も氣之毒ニ候間右願之義親父江願入見可申候而明日各々参へしト申返候
一四月四日親父江申談仕候所願之通りニ致し遣せト申事ニ而昼頃右之三人夜前願之趣ヲ爲承度参候故仍而左波義者前之村通り各願通りニ可致候間前文之三人申立通り村中相談ニ而笹井家江品を付候様ニ被下度可被申しト申返し候
一十二月三日島村組合甚兵衞并ニ一家之内勘之丞右両人一家中之書状を持参致し段々左波一件之義ニ付先日御書状并ニ先日三人之者共江も被仰下候御義御尤千萬奉存候仍而以來當村役人相談之上ニ而遠海上之商賣ハ相止させ如何様ニも村中取つゝき之筋相立候事ニ仕候仍而何卒當年仕込置候道具者左波不参候而ハ損毛ニ相成候間何卒明一春計御ゆるし被下置度旨願出候間親父も此義只一春之事ニ候故ゆるしニ致可申と之義ニ付然ハ只此度之書状者一家計之事ニ候間此上村役人中之書状印判爲遣候ハヽ右願之通り致し可遣候段申含返し遣し候
一享和元丙十二月八日出之書状ニ而左波義以來遠蝦差遣候義不仕趣村一統ニ相心得同人義扶助致し可申ト名主善八郎年寄清八郎同組合中印形之書状同月九日ニ相達し両度之書面日記箱ニ入ル
十二月廿一日先日八日附書状印行ニ而嶋村役人参候節左波義何分宜敷此末取計ひ可被旨本日請状左波ニ遣申候
これは福島神明社の神主笹井佐波(常盤井家八代のち治部)が、 本来の職業である神主の仕事に専従せずに、 冬より夏まで遠蝦夷地に出稼をし、 神事を蔑ないがしろにして鯡にしん取をしているのは甚だ不届で、
よって神主資格を剥奪し、 出入を差し止めるというものである。 笹井家の記録 (『福島沿革』、 『戸門治兵衞旧事記』) によれば、 「主常盤井武雄村人数名ヲ連レ小樽マサリニテ漁場ヲ開ク、
同年稲荷ヲ建立セリ」 とあり、 また 「尾足内おたるないマサリ称宜場所稲荷大明主笹井日向正大願主別家笹井庄右衞門始而造営」 とある。 マサリ場所とは小樽市朝里町に柾里まさり神社があるので、
この時に創始されたものであるので、 笹井別家の庄右衞門が同地に鯡取の出稼をしていたのに、 神主佐波が毎年同行し、 その間福島の神事祭儀等が、 代務者によって斉行されていたからである。
この時の村名主は住吉屋達右衞門、 年寄永井勘九郎、 戸門治兵衞であるが、 三人の名代として村方から小使多七、 一家中より二人の計三人が城下に出、 神明社の觸頭白鳥遠江守に申開きをした。
福島一村百余戸の村で一人の神主を抱えることが出来ず、 十分な生計維持も果せず、 止むを得ず出稼をしているという釈明に対し、 遠江は神主資格を与えられた神職者がその地に居る以上、
村民の責任としてこれを扶養するのが義務であり、 福島にあって地元人と組んで短期間の鯡取であれば許されるが、 出稼等は以っての外であると論追し、 翌年一年のみは出稼を許し、
以後は一切認めないことで合意している。 この件は觸頭職の一般社家に対し、 藩および吉田社家を背景とした強い姿勢の現われである。
さらにその姿勢を示す史料として、 同日記第七巻 (筆者伊豫信武) の文政四年 (一八二一) の項に、
一十月二日今日ハ司里美事ニ付一滞留ニ及候同人事段々是迄不行跡ニ付態々も當村江罷越程之儀候得は村役人も相願ニ付名主今五郎方江暮方村役不殘大野土佐親類不殘相寄り段々之内談数刻ニ及相尋見候所誰壱人かれヲ善与申者無之躰ニ候故先数々之非ハ置拙者可申渡支細有之候故里美呼ニ遣セ無程罷出候故皆烈
(列) し候所ニ而
申渡之事左之通り
其方先々月弁天御祭禮ニ付両頭事出勤可致之召札ニ而其方相詰候故在名前書記御役所江差上候向は御奉行所御承知有之事也然所其方十四日十六日迄之御事中 (ママ)
程ニして何方江参り出勤不爲哉終ニ頭役江届ニも不得見哉右之儀申聞キ有之哉無之者可申渡儀有之与申向候得共一言之支細無之躰ニ候故其方職を召放し還俗爲致當村を追出し候此方御城下へ着早々御奉行所江届書差出候也用事済候故此座相立可退出与申渡し候名前ハ産名之喜八と可致与言付候同人退出之跡ニ而座中ニ申付候者扨而つく
() 不便之事ニ候此上拙者存寄之旨ヲ相談ニ及度候餘之儀不存かれか母之心躰殊ニ前土佐が無キ与而今様ニ難義之出來候物か此上者還俗之申渡ルハ相定り候得共今一應上向之届ヲ相扣こらしめ見度候其仕方ハ早速請取なし江て嶋村ノ治部方へ今一年相頼ミひん之還俗故炭焼山へなりいわし引込奉公同様之仕置ニ而致置候ハヽ其内面之一心ニ付書讀候とも致す気ニ相成候ものにも有之間敷哉各方之願与申立上書ヲ差扣置様躰ニいたしこらしめ見度候与申候所一同難有候也何卒左様ニわれも致し見度与之事ニ付治部ヲ呼ニ遣参候故申付候所困り候躰ニハ候得共左茂致候而不見候時ハ是非御上江達し候より外無之候与申候得者同人も相請呉候ニ付村方一同も相頼ミ候也仍而是すく内へ帰ル事不成一家之子之助方江預ケ置治部同道ニ而嶋村連可参を申合翌日出立候治部へハ其元今一日滞留致し道具家財迄一々一家立合改帳相記し村役へ一冊此方へ一冊相認可参与申付三日ニ知内出立致し候甚た快晴也
一同月廿二日知内村江里美帰村申付候ニ付村役へ書状遣其
文躰
一去己年九月里美儀不作法ニ付職取上嶋笹井治部方江預ケ置所本心ニも立帰り候由殊ニ村方初同人之母顫煩き願申事ニ付今一度本職ニ立帰候様左様御心得可被成候此末職勤まり兼候ハヽ村役方一統可被申出候
己二月廿二日
頭
正 主
白 鳥 伊 豫
知 内 村
名 主 金 四 郎 殿
里美へ申渡書付
其元儀是迄不行跡ニ付職取放置候得共村役方其元之母煩願候ニ付今一度本職ニ立帰らせ申候
此末心違有之候時は急度寺御奉行所江可申達段兼而申入置候
文政五年己二月廿二日
頭
白 鳥 伊 豫
大 野 里 美 殿
一筆致啓上候先以春和之砌各様彌以無事珍重存上候
一去秋里美儀不行跡ニ付こらしめ之爲職取放嶋村主へ預ケ置候所此度村役方初同人母並治部茂今一度帰村爲致度旨与申候ニ付其旨村方並里美へも申達候間左様御心得可被成候夫ニ付同人妻之事者外ニ存寄り有之候得共先達而脇本返遣候婦人に今同人之時節相得外へ不嫁居候哉各方方相尋候方可然事ニ存候もし又其儀ニ無之候ハヽ先ニ當分何れ茂嫁ヲ迎候儀可被差扣右之段里美母へも御申談置可被下し候 以上
午二月廿二日
白 鳥 伊 豫
子 之 助 様
權 太 郎 様
平 吉 様
とあるように知内村雷公神社の大野里美が、 目に餘る不行跡が多く、 こらしめの為神主資格を剥奪し、 還俗させて平人に下おとし、 追放したものである。 それについては里美を一年間笹井家預とし、
本人悔悟の情が明かになった段階でその後の措置を決めることにしているが、 その間の神社財産も笹井家が管掌している。 翌文化五年二月里美の改悛と福島神明社での神道修業の成果が認められ、
さらに母の歎きも考慮に入れ、 神主免許を返し、 神職継続が許されているが、 このように神と村民との橋渡し役としての神主の存在は、 極めて厳密な戒律の下におかれていた。
福島町には近世福島神明社の神主常盤○井氏 (のち笹井氏、 さらに常磐○井氏) と、 宮歌八幡神社の神主藤枝氏、 白符神明社の富山家の三家があり、 それぞれ村の存立の核となって変遷してきた家々である。
特に福島村の笹井家は、 村創業の草分の一人として中世から村の成盛発展のため貢献した家であるといわれる。 また、 多くの古文書、 日記等も保存している。
しかし、 福島神明社は文化四年 (一八〇七) 正月元日社殿より火を発し、 御神体、 社殿、 社務所も焼き、 同年再建されていることから、 現在残されている古文書、
史料等はそれ以後に筆記されたものが多い。 従って一九〇年位前の時代に書かれた記録に、 三~四〇〇年前の記述があるのは、 想像の域を出ない口碑伝説的なものの多いのは否めないが、
他に史料のない現在では、 これらの史料を用いなければ福島の歴史が成り立たない面もある。
この常磐井家の一家である利尻郡利尻町仙法志利尻山神社常磐井武祝氏が所蔵する同家系譜によれば、 同家累代は次のとおりである。
元祖 常磐井治部大輔藤原武衡たけひら
近江国一城主なり。 城所郡郷不詳、 天正元年 (一五七三) 八月十五日南部野辺地より松前に渡海し、 島村に居住す (旧跡館古山と唱う)。 同三年五月十三日蝦夷館大将クジラケン乱を起し、
武衡これを討つ。 領主季広公禄を以って召せども仕へず、 国の爲とて、 地頭体にて村長むらおさを相勤め、 慶長八年 (一六〇三) 九月二十七日六十歳にて去。
二代 常磐井大宮藤原武治
武衡長男なり。 領主松前慶広公の命に依り、 地頭の体にて村長相勤め、 元和四年 (一六一八) 二月十一日四十三歳にて去。
長男 常磐井宮太郎藤原相衡すきひら
武治長男、 元和四年十七歳の時松前長門ながと守利広 (蠣崎季広四男) に奉仕し、 利広陰謀露顕し本州に逃げ渡る際随行し、 行跡不詳。 その際相衡以前の系譜持ち去る。
三代 中興元祖祠官笹井今宮藤原道治みちはる
武治二男、 寛永十六年 (一六三九) 九月二十一日明を再建して職となる。 同二十年九月十六日居宅を現在の地に移し大笹原を拓く。 村民笹屋と言えしにより笹井と改姓。
慶安二年 (一六四九) 明を再築し、 松前明より小鏡を安置す。 正徳四年 (一七一四) 上京、 吉田殿より継目許状を受け、 享保四年 (一七一九) 九月二十七日百三歳にて去。
四代 祠官笹井治部藤原武次
道治の長男なり。 享保三年 (一七一八) 七月二十六日吉田殿より継目許状相受る。 席次は知内村職次席となる。 同十九年九月二十三日六十九歳去。
五代 祠官笹井治部藤原武種
武次長男なり。 延享四年 (一七四七) 七月十八日吉田殿より継目許状。 安永三年 (一七七四) 六月二十三日六十九歳にて去。
六代 祠官笹井日向藤原武重
武種長男なり。 安永四年 (一七七五) 七月二十二日吉田殿より継目許状。 寛政九年 (一七九七) 六月十一日七十四歳で去。
七代 司笹井筑江ちくえ藤原武雄
武重長男なり。 継目任官せず職を勤む。 安永五年 (一七七六) 十一月御城内大竃かまど祭御楽にて、 領主道広公より笛の名手としての御賞言を賜わる。 天明二年
(一七八二) 十二月十四日二十四歳にて去。
姉 志気-夫別家笹井庄右衞門婦
姉 應登-夫花田善五郎婦
姉 知加-夫川村治右衞門婦
女 -元祖三国安次郎婦
弟 笹井嘉吉、 別家元祖
八代 主笹井治部藤原武彦
武雄長男なり。 享和二年 (一八〇二) 十一月二十三日吉田殿より継目許状。 文政五年 (一八二二) 主号免許。 家名を輝し、 中興先祖なり。 天保三年
(一八三二) 九月二十三日五十七歳にて去。 妻戸門紋兵衞二女のぶ。
長女 普宮ふみ 原田清左衞門妻
二男 武幸 天明六年 (一七八六) 五歳にて宮歌八幡祠官藤枝武爲養子。
三男 尚義 原田治五右衞門名跡を継ぐ。
九代 主笹井治部藤原武昌
笹井庄右衞門二男なり。 文政五年 (一八二二) 四月二十六日吉田殿継目許状。 天保十年 (一八三九) 七月七日四十三歳にて去。
十代 主笹井肥後藤原武義
武昌の長男なり。 天保十五年 (一八四四) 十月十一日吉田殿継目許状。 嘉永三年 (一八五〇) 八月二十七日三十三歳にて去。
十一代 祠官笹井市之進藤原武良
武義二男なり。 武良は継目任官せず祠官として奉仕し、 安政三年 (一八五六) 十歳で去。 しばらく家名中断。
十二代 祠掌兼訓導笹井参河みかわ藤原武麗たけあきら
天保十年 (一八三九) 生れ、 原田治五右衞門二男なり。 安政四年 (一八五七) 十二月二十三日武良妹肥茂ひもに入夫養子、 十六歳にて家督。 慶應三年
(一八六七) 継目許可。
明治十七年二月四日四十一歳で去。
武麗末流
長男武胤-利尻山-武知-武秀-武祝
二男秀太-福島大宮-武季-武宮
三男栄太-熊野 (絶家)
白符村に居住し、 同地の鎮守社神明社 (白符大神宮) の社家として永年奉仕してきた富山家の閲歴については、 同家が昭和九年六月の火災で、 伝承してきた古文書類を一切焼失していてよく分からない。
幸い白符大神宮には七十七枚の神社棟札が残されており、 これによって見ると社家富山家の歴代は次のとおりである。
富山 守衞
元文五~天明二年 (一七四〇~八二)
富山 登
寛政十年 (一七九八) ~
富山 左近
文化十三年 (一八一六) ~
富山 丹波正勝見
文政元年 (一八一八) ~
富山 丹波正豊次郎
天保十三年 (一八四二)
富山兵部正義辰
嘉永五年 (一八五二)
富山 出雲正義信 (のち宣辰)
安政五年 (一八五八) ~
息富山刑部正宜信は、 神主として奉仕し、 社司を継承しないうちに箱館戦争となり、 松前藩神職をもって組織する郷兵に徴用されて参戦。 明治二年五月十一日奇兵隊士として奮戦中桔梗野で戦死し、
家格は士分に引き揚げとなった。
富山 宣次
明治十二年まで神職
宮歌村八幡神社の社家藤枝家についての来歴を詳記したものはない。 この姓から見て、 松前羽黒神社 (全生室あぜむろ神社) の社家藤枝家の同族ではないかと考えられる。
松前羽黒社の祖は修験者の出身で、 松前愛宕神社、 江差姥神神社の藤枝家も同族である。 宮歌八幡神社の棟札八十二枚から抽出すると、 その代々は次のとおりである。
別当 泉蔵坊
明暦元年 (一六五五) ~
別当 大学院
寛文五年 (一六六五) ~
別当 秋本太夫
元禄十二年 (一六九九) ~
別当 長
元禄十五年 (一七〇二) ~
主 藤枝 宇明
享保十一年 (一七二六) ~
主 藤枝右門武重 (武次)
享保二十年 (一七三五) ~
主 藤枝 式部
宝暦九年 (一七五九) ~
主 藤枝 滝之進
明和六年 (一七六九) ~
主 藤枝 駿河するが (武爲)
安永九年 (一七八〇) ~
主 藤枝 梅之進 (のち蔵人正武保)
文政二年 (一八一九) ~
主 藤枝 兵衞武安 (武保)
天保十五年 (一八四四) ~
主 藤枝 武伴
安政四年 (一八五七) ~
これら福島町在地の神主たちは松前藩の神道政策に従って、 神道觸頭の両白鳥家か准觸頭の松前馬形神社の社家佐々木家かのいずれかと子弟関係を結んでいた。 その関係は別掲のとおりであるが、
笹井家 (常磐井家) は松前神明社白鳥家、 白符富山家は松前馬形社の佐々木家、 宮歌藤枝家は松前八幡社の白鳥家と、 それぞれ子弟関係を結んでいた。 この関係はそれぞれの社家の子弟が、
神職修業する場合、 先ず親神社で凡そ二年間修業し、 神職の基本を学ぶ。 この期間が過ぎ十分な経験を得たと認められる場合、 觸頭から町奉行所に神主として認めるよう願い出、
認められた場合、 吉日を選んで觸頭立会のもとで藩主に御目見得をし、 晴れて神主に任命される。
神主には笹井家の治部正 じ ぶしょう、 藤枝家の駿河正するがのしょう、 富山家の刑部正ぎょうぶのしょうのように官位に似た呼称が多い。 これは京都の神道総取締の吉田神社吉田卜うらべ部家から拝領する神職の官位を表すものである。
藩から神主になることを認められても、 この官位はもらえない。 松前藩は觸頭を通じて吉田家と深く結び付いていて、 神主となったものは必ず、 吉田家に参向して神主裁許状と継目相続許状さらには神主官位の敍位敍勲を受けることになっていた。
常磐井古文書のなかにしばしば神主上洛の記事があるが、 これは、 このようなことからの上京であって社家を嗣ぐ者の宿命でもあった。
この上洛 (京都へのぼること) のためには路銀や裁許状、 敍任を受けるための、 資金の捻出と土産物の用意が必要で、 往復期間は早くて三か月、 遅い場合は六か月を要し、
その費用は凡そ三十両位を要した。 その半額程度は村方の負担で、 村名主、 年寄等が各家を廻って寄附を集めて用意し、 あとの半額はその社家が負担した。 資金ができると觸頭に願い出て、
その添書をもって出国の申請をする。 出国の許可は出切手と荷物逓符を頂戴し、 また、 觸頭からは吉田社家家老中への添書を持って出発する。 京都では旅籠はたごに泊って吉田神社に通い、
神道学を学んだ上、 神主裁許状、 継目相続許状のほか、 神主官位の敍位敍官を受けて帰国する。
帰国すると両觸頭に報告の上、 その添書を付して寺社町奉行所に届け出、 奉行は藩庁にその旨を報告する。 藩庁は日を改めて藩主への御目見得をする。 その際は藩主在国の場合は藩主、
不在の場合は世子が御台子の間で謁見し、 一件書類を觸頭立会のもとに披露し、 ここで晴れて一人前の神主となった。 このような厳格な規程によって誕生する神主であるので、
領内においては士分に次ぐ別格者として、 庶民の上に位置付けられ、 村にあっては相談役的存在であった。
松前藩と各神社の関係は、 藩よりは年代によって異なるが二~三俵の扶持米を支給して、 連携を強めていたほか、 藩主から多くの神社に懸額等が納められていた。
また、 神社の再築等の場合は若干の助成もしていた。 各神社の千木や梁等に松前藩主の家紋 「丸に割菱」 が付されているが、 これも藩に願い出て許可を受けて彫り込んだものである。
このほか祭礼に用いる家紋入りの幕や高張提灯たかはりちょうちんも一々藩に願い出、 寺社町奉行所の貸し出しを受けて用いたもので、 藩は神の信仰に篤い在地の庶民の心を利用しながら、
藩の威厳の強化に利用していたものである。
【近世仏教の展開】 近世に入っての福島町内各村の仏教は、 福島村においては中世以降建立した法界寺、 吉岡村
の光念庵は別として、 各村は観音堂、 地蔵堂といった神仏の混淆こんこうした (神か仏か分からない) 形の信仰が続けられていた。 『福山秘府・巻之十二』
(諸社年譜并境内諸堂社部) によると、 福島町では、
一八幡 礼髭村
造立年號不相知。
一觀音堂 同 村
造立年號不相知。 體圓空作。
一八幡宮 吉岡村
造立年號不相知。 古来ヨリ此所ニ有之由。
一觀音堂 同 村
造立年號不相知。 神體圓空作。
一惠美須宮 同 村
造立年號不相知。
一八幡宮 宮ノ歌村
明暦元年造立。
一大日堂 白府村
造立年號不相知。 古来ヨリ此所ニ有之由。
一荒 同 村
造立年號不相知。
一明 島村
慶安二年造立。
一觀音堂 同 村
造立年號不相知。 古来ヨリ此所ニ有之由。
一十羅女とらめ堂 同 村
同 上。
一羽黒社 同 村
延宝七年造立。
一毘沙門びしゃもん堂 同 村
延宝五年造立。
一稲荷社 同 村
天和二年造立。
とあって、 礼髭村、 吉岡村には観音堂があり、 そこには圓空作の仏像が奉斉されていたが、 この礼髭村の分は現在吉野教会の尊像で、 さらに吉岡村の分は、
明治にいたり排仏毀釈の命によって海に投げ棄てられていたものを、 吉岡村の漁民が拾い上げ、 のちに函館市称名寺に寄贈したといわれるが、 両像とも来迎観世音菩薩座像で、
神道で奉斉すれば神像、 仏教では仏像とするもので、 神仏分明し難い像である。 この像を信仰する在地の人達は正に神仏混淆の信仰であったと考えられる。
白符村の鎮守社は白符神明社であるが、 創立当初は大日堂と呼ばれる堂舎であったと思われる。 この堂は大日如来を祀っていたからその呼称が生じたと考えられ、
この像は真言宗の影響を持った修験者によって草創されたものではないかと思われる。
福島村では観音堂とあるのは月崎神社の前身で、 この社も当初は観音信仰の堂社であったと思われ、 十羅女とらめ堂もこの観音堂の併堂で、 福島川の川裾を守る意味で、
女性の人達が建立したと思われ、 それが鏡山に移転し、 神明社の摂社として川濯 (かわそ・川裾) 神社となったものである。
近世初頭の福島村には浄土宗法界寺と、 吉岡村の浄土宗光念庵の二か寺よりなかった。 従って他の村は仏教信者の集会施設といえば、 村の観音堂か地蔵堂で、
現在残る吉野教会等はその遺形と見ることが出来る。 しかし、 松前藩は幕府の示したキリシタン対策によって、 毎月寺参りし、 施行の際は常に数珠を持参することが義務付けられ、
もし持参しない者には宿をしてはならないと定められていた。 松前藩が宗門名簿を幕府に上呈したのは慶安二年 (一六四九) であるから、 この時点以降では各村は宗門御改書上帳が備え付けられていて、
世帯主をはじめ世帯員は総て仏教寺院の寺檀となることが定められていた。 また、 家族に異動が生じた場合は、 丹那だんな寺から離檀請状を貰って書上帳の補訂をしてもらうことになっていた。
従って仏教寺院と檀徒との結び付きは非常に強固なものであった。
また、 キリシタン類族と認められ、 名簿に登載された者は強制的に仏教檀徒となることが義務付けられたが、 仙台藩は胆沢郡福原領主の後藤寿庵の弟子であったキリシタンを、
棄教させた後、 幕府の命によって強制的に時宗檀徒に組み入れている。 松前藩はキリシタン類族が死亡した場合、 『元禄五年松前主水広時日記』 にあるように、
江差の類族が死亡したとき、 「江差村古切支丹類族佐蔵娘本人同然のせん、 今月九日致病死候申来、 江差村肝煎差添死骸見届、 塩詰に致正行寺之埋」 とあって、
遺骸を樽に入れ塩詰にし、 肝煎 (村役) 差添の上松前に搬び、 藩の検死を受けて浄土宗正行寺墓地に葬ったとあるので、 松前藩の類族は浄土宗檀家に組み入れていたと考えられる。
法界寺墓地は近世の時代、 村の共同墓地であったと考えられ、 各宗派の墓がある。 この中で笏谷石 (産地福井県) の緑色凝灰岩で一きわ立派な五輪塔型式の墓がある。
一基は浄秋禅定門という曹洞宗の戒名が入っており、 寛文元年丑己□月廿七日とあって、 三三〇年以上を経た高さ一・六一メ-トルという堂々たる墓である。 さらにもう一基は清念禅定門の戒名はあるが、
年号は磨滅して不明であり、 月日は六月廿五日と彫られ、 高さ一・八一メ-トルのものである。 の墓は中村由蔵家、 の墓は○福鳴海吉一家のものであるが、 このような古い時代に福島村にこのような立派な墓が存在したことは、
仏教信仰の篤さと定着者の安定さを示すものとして、 貴重な文化財である。
また、 この時代の仏教宗派における福島町の教勢を詳細に知る史料はないが、 福島村の法界寺、 吉岡村の海福寺 (広念庵) は共に浄土宗であるので両村共に浄土宗の檀家が多かったと思われるが、
他宗の檀家もあったと思われる。
宮歌八幡神社が保存している宮歌村文書のなかに天保十三年 (一八四二) と安政二年 (一八五五) と年代の異なった 『宗門御改書』 がある。 この書上げは北海道では熊石町に残る相沼内宗門御改書と共に一村の戸口、
宗門動態等を知る上で誠に貴重なものである。 しかし、 宮歌村の安政二年分は断片的なものであるので、 天保十三年分を見ると上表のとおりである。 宮歌村の戸数は枝村大茂内村
(現乙部町) の四戸を含め八七戸であるが、 そのうち五三戸、 総数の六一パ-セントが福島村法界寺の檀家、 三四パ-セントが松前城下の寺院に所属している。
また宗派別で見ると浄土宗が七八パ-セント、 浄土真宗 (東本願寺派) が一〇パ-セントで曹洞宗、 日蓮宗は極めて少ない檀家である。 浄土真宗は、 享保六年
(一七二一) に松前専念寺吉岡掛所かけしょが建立され、 その檀家となった人達と考えられるが、 宮歌村が吉岡村の隣村にありながら、 吉岡村海福寺の檀家とならず、
遠い福島村法界寺の檀家となっていたもので、 法界寺が海福寺より創立が古いことによるものではないかと思われる。 なお表中の長徳寺は乙部村、 清順庵は大茂内村
(現乙部町字栄浜) の寺院で、 枝村とかかわり合いを持った寺である。
第二節 社 寺 の 創 建
中世の時代、 修験者や遊行僧によって創建された社寺は、 住民の屋敷神も、 村中の中心となった氏神に併殿もしくは摂社となって祀られるようになり、 各村の氏神社としての威厳を持つようになった。
道南地方の口碑のなかでは、 松前藩の政策として、 武の神様としての八幡信仰の八幡神社 (社) は庶民には関係ないとして、 伊勢皇大神宮の分霊を祀る神明社
(のちの大神宮) の創建を奨励したといわれている。 これは庶民の本当の意味での生活を守ってくれる神様だという、 認識のもとに進められた藩の政策である。
福島町の場合、 福島村、 白符村の氏神は神明社で、 明治以降社名を大神宮と改め、 吉岡村、 礼髭村、 宮歌村は八幡神社 (社) であった。 特に福島村では、
中世の時代折加内川 (福島川) の河岸に造立された月の崎 (月崎) 明神社があり、 この社を中心とした摂社群があったが、 これは近世に入って福島村神明社が創建されて、
村の氏神化してくると川濯かわそ神社 (川裾かわすそ神社) 等が月の崎明神社から神明社境内地に移建されるなど、 中心が神明社に移っている。 しかし、 神明社が方六尺の本殿と小規模の拝殿であったのに対し、
月の崎明神社は間口五間、 奥行八間三尺の威風堂々の建物であったことからすれば、 村内の氏子が月の崎明神社に多かったと思われる。
一方仏教は中世末期に建立された福島村の淨土宗法界寺が、 一村一宗的立場で檀徒の上に君臨し、 吉岡村は淨土宗広念庵があって、 近世中期には寺号公称を得て海福寺となり、
また、 専称寺は松前専念寺の掛所となり、 のち真宗東本願寺派の寺として公称されて行く。
これらの村々には淨土宗、 真宗以外の檀徒もあったが、 拠るべき寺がなく、 松前城下の寺院の檀徒となった真言宗、 曹洞宗、 日蓮宗の檀信徒も多い。 以下に町内各社寺の沿革を記す。
福 島 町 字 福 島 ( 鏡 山 )
旧 郷 社
福 島 大 神 宮
( 旧 福 島 村 神 明 社 )
一祭 神 天 照 皇 大 御 神
創立年代は不詳といわれるが、 当初はカムイナイという小沢にあったという説もある。 福島村中の人達が慶安二年 (一六四九) 九月十六日、 松前神明社から小神鏡を奉遷して一社を創立し、
笹井氏 (のちの常磐井氏) が代々神職として奉仕した。 文化四年 (一八〇七) 正月元日朝社殿を焼失し、 本殿及び伝来の古文書を失い、 同年六月現在の位置に社殿を再建し、
翌文化五年八月二十日松前神明社から古神鏡を遷して御神体としている。 明治四年十一月村社に列せられ、 福島大神宮と改称、 同九年十一月郷社に列せられ、 さらに同十一年社殿の再築を行っている。
摂 社
福 島 町 字 福 島 ( 稲 荷 山 )
旧 無 格 社
稲 荷 神 社
祭 神 宇 迦 之 御 魂 命
明暦二年 (一六五六) 八月中に村中の人達で建立したといわれる。 御神体は万治二年 (一六五九) 戸門長作の寄進。
福 島 町 字 福 島 ( 稲 荷 山 )
旧 無 格 社
川 濯 神 社
祭 神 伊 邪 那 岐 命
伊 邪 那 美 命
瀬 織 津 姫 命
明応元年 (一四九二) 月の崎観音堂 (のち月崎神社) の摂社として建立され同年五月十六日女石神海中より上り、 これを御神体としたといわれる。 近世期には十羅女とらめ堂ともいい、
女性の信仰深く、 古来女講中によって例大祭が執行されてきた。 明治にいたり現在地に遷社。
福 島 町 字 月 崎
旧 無 格 社
月 崎 神 社
祭 神 月 夜 見 命
この神社は福島神明社が創立されるまで福島村の氏神で、 その沿革も古い。 草創は不明であるが、明応元年 (一四九二) 野火のため春日作といわれる御神像が火を放って飛び失せたので、
同年再建したといわれている。 当初は月ノ崎観音堂、 月ノ崎大明社ともいわれた。 萬治三年 (一六六〇) には社殿が整ったと思われ、 下図のような棟札が残されている。
その後、 文化三年八月 (一八〇六) 従来の観音堂を大明神社と改める。
なお現存する石鳥居の刻銘には安政二年 (一八五五) 乙卯四月日、 願主花田伝七とある。 この社は八幡社とも呼ばれていた。
合 殿 社
福 島 町 字 月 崎
旧 無 格 社
羽 黒 神 社
祭 神 木 花 咲 夜 姫 命
俗に山の神といわれる神様で、 元和九年 (一六二三) 今井佐兵衞が願主となって建立された。
合 殿 社
福 島 町 字 月 崎
旧 無 格 社
馬 形 神 社
祭 神 大 御 食 都 神
寛文二年 (一六六二) 願主福士学右衞門によって創建され、 元文六年 (寛保元-一七四一) 福士小八郎再建。
摂 社
福 島 町 字 月 崎
旧 無 格 社
八 雲 神 社
祭 神 須 佐 男 命
永禄二年 (一五五九) 戸門治兵衞を願主として創建され毘沙門社と称したが、 のち松前藩家老蠣崎蔵人願主となり、 明暦二年 (一六五六) 再建され、 八雲神社となる。
福 島 町 字 塩 釜 ( 釜 谷 )
旧 無 格 社
釜 谷 神 社
祭 神 猿 田 彦 大 神
安永元年 (一七七二) 釜谷村中建立。
境 内 摂 社
旧 無 格 社
稲 荷 神 社
祭 神 宇 迦 御 魂 命
文政三年 (一八二〇) 創立。
福 島 町 字 塩 釜 ( 釜 谷 )
無 格 社
丸 山 神 社
祭 神 大 己 貴 命
少 彦 名 命
文政四年 (一八二一) 開山願主吉兵衞、 桶屋佐太郎の両人である。 このほか修験者開山による薬師堂もあった。
福 島 町 字 浦 和 ( 濱 端 )
無 格 社
稲 荷 神 社
祭 神 宇 迦 之 御 魂 命
文政十年 (一八二七) 漁業者中造立。
福 島 町 字 岩 部 ( ツ ヅ ラ 沢 )
無 格 社
稲 荷 神 社
祭 神 宇 迦 之 御 魂 命
文政十年 (一八二七) 出漁者中造立。
福 島 町 字 岩 部 ( シ ラ ツ カ リ )
無 格 社
稲 荷 神 社
(白鹿しらつかり松神社ともいう)
寛政十一年 (一七九九) 造立、 慶応三年 (一八六七) 御神位奉安、 願主瀧屋小八、 石川忠左衞門、 花田太次兵衞、 山本屋初蔵、 金屋貞三郎其外出稼浜総中。
福 島 町 字 三 岳 ( 館 の 山 )
無 格 社
熊 野 神 社
祭 神 伊 邪 那 美 命
女神 (山の神、 農業の神)、 天保七年 (一八三六) 渋谷寅之丞ならびに杣子中が建立した。
福 島 町 字 千 軒 ( 一 の 渡 )
無 格 社
千 軒 神 社
(一の渡神社ともいう)
祭 神 大 山 祗 命 金 山 彦 命
岡 象 女 命
寛永元年 (一六二四) 一の渡住民佐藤甚左衞門建立、 千軒大権現社、 千軒山三社大明神ともいう。 享和二年 (一八〇二) 松右衞門、 金十郎、 六助、
長作の四人で再建立した。 また、 『馬形社佐々木家日記』 によれば、 白符神明社にあった三社大権現の三体の御神像のうちの一体を文化十二年 (一八一五)
千軒神社の御神体として奉遷したという記録がある。
福 島 町 字 白 符 ( 日 影 山 )
旧 村 社
白 符 大 神 宮
( 白 符 神 明 社 )
祭 神 天 照 皇 大 神
寛文六年 (一六六六) 松前藩主一族松前美作守みまさかの景広 (河野系松前家祖) が、 自分の采領地である白符に一社を創立したものである。 当初は大日堂と呼ばれ、
のち神明社となり、 明治にいたって大神宮となった。 富山家代々がその社司を勤めている。
合 殿 四 社
恵 比 須 神 社
祭 神 事 代 主 命
建立年代不明、 享保二年 (一七一七) 本社に合殿。
千 軒 神 社
祭 神 金 山 彦 神
建立年代不明、 文化十一年 (一八一四) 本社に合殿。
熱 田 神 社
祭 神 日 本やまと 武たける 命
建立年代不明、 明治四年本社に合殿。
鹿 島 神 社
祭 神 武たけ 甕いか 槌つち 神
建立年代不明、 明治四年本社に合殿。
福 島 町 字 白 符 ( 野 々 上 )
旧 無 格 社
稲 荷 神 社
祭 神 宇 迦 之 魂 命
宝暦八年 (一七五八) 村中一統建立。
福 島 町 字 白 符
旧 無 格 社
荒 神 神 社
祭 神 素す 盞 鳴さのお 命
享保元年 (一七一六) 村中一統建立。
福 島 町 字 宮 歌
旧 村 社
宮 歌 八 幡 神 社
祭 神 譽ほん 田だ 別わけ 命
明暦元年 (一六五五) 知行主幕府旗本松前八左衞門泰広が、 知行地の平安を祈り建立し、 正八幡宮ともいわれ、 八左衞門使用の弓矢、 連歌、 鬮くじ箱等を献納した。
草創時の棟札が現在も残されており、 当初の別当は泉蔵坊で、 のち藤枝家が代々これを勤めた。
その後元禄八年 (一六九五) 寛延四年 (一七四七) 、 安永四年 (一七七五) と新社殿を造立している。 この宮歌八幡社には近世初頭から明治にいたる宮歌村文書八十七点が保存されていて、
北海道内では一村古文書として貴重なものであると、 評価されている。
合 殿 四 社
稲 荷 神 社
祭 神 宇 迦 之 御 魂 命
宝暦十年 (一七六〇) 村中建立。
川 上 神 社
祭 神 瀬 織 津 姫 命
享保二年 (一七一七) 村中建立。
恵 比 須 神 社
祭 神 事 代 主 命
明和五年 (一七六八) 村中建立。
産 胎 神 社
祭 神 木 花 咲 耶 姫 命
伊 弉 諾 尊
伊 弉 冊 尊
社地山伏山に嘉永三年 (一八五〇) 村女中建立。
福 島 町 字 宮 歌 ( 氏 子 沢 )
旧 無 格 社
氏 子 沢 稲 荷 小 社
明和二年 (一七六五) 宮歌八幡社末社として氏子沢村中建立。
福 島 町 字 吉 岡
旧 村 社
吉 岡 八 幡 神 社
祭 神 譽 田 別 命
寛永三年 (一六二六) 村中建立。 元文四年 (一七三九) 松前藩主第十一世邦広公再建しているが、 当初は宮守笹川見嶋で、 のち宮歌八幡社の藤枝家の兼務である。
安永七年 (一七七八)、 天明七年 (一七八七)、 文化七年 (一八一〇) と再建されている。
境 内 二 社
館 神 神 社
祭 神 土 甲 斐 守 季 直
穏内館主土甲斐守季直の霊を館神大明神として慶長十七年 (一六一二) 村中でこれを祀ったが、 寛永二年 (一六二五) 創始説もある。 宝永二年 (一七〇五)
再建。
金 比 羅 神 社
祭 神 大 物 主 命
文政九年 (一八二六) 村中建立。 当初は広念庵寺内にあり、 のち八幡社内に移る。
合 殿 二 社
稲 荷 神 社
祭 神 宇 迦 之 御 魂 命
宝暦四年 (一七五四) 村中、 金比羅神社に合殿して創始。
恵 比 須 神 社
祭 神 事 代 主 神
宝暦四年 (一七五四) 村中、 金比羅神社に合殿して創始。
福 島 町 字 吉 野 ( 礼 髭 )
旧 村 社
吉 野 八 幡 神 社
祭 神 譽 田 別 命
寛文五年 (一六六五) 知行主松前左衞門広ただ (松前家第七世藩主公きん広四男=村上系松前家祖=延宝六年 (一六七八) 弟の家老幸広と斬死) が創建、
その際の棟札は下図のとおりである。
その別当大学院とあるのは宮歌八幡社の二代目別当 (修験者) であると考えられる。 その後この神社は元文五年 (一七四〇)、 寛延二年 (一七四九)、
宝暦六年 (一七五六)、 安永五年 (一七七六) と修理、 再築が行われてきた。 また、 松前藩の家老で文学者として有名な松前監物広長も、 この神社を深く崇敬し、
その子鉄五郎広英は、 父広長の遺品の抱琴をこの社に寄進していたが、 今はない。
合 殿 三 社
船 玉 神 社
祭 神 建たて 波は 夜や 須す 佐さ 之 命
宝暦七年 (一七五七) 村中創始。
恵 美 須 神 社
祭 神 事 代 主 命
宝暦七年 (一七五七) 村中創始。
廣 峰 神 社
祭 神 松 前 広 峯 の 霊
村上系松前氏第七代平治右衞門広行 (広峯) 由あって元文三年 (一七三八) 切腹し、 縁のあった境内に一社を設けたもので、 寛延二年 (一七四九) 創建。
福 島 町 字 松 浦 ( ソ ッ コ )
旧 無 格 社
白 神 神 社
祭 神 猿 田 毘 古 神
寛文七年 (一六六七) ソッコ、 あるいは祖鮫そごう明神といわれた。 寛政元年 (一七八九) この地方を旅行した菅江真澄の記録 『えぞのてぶり』 のなかにも、
「そう高くない磯山に鳥居が見えるのは祖鮫明神という、 海の荒神をまつったものである。」 と言い、 漁業者の尊崇の篤い社であった。 祖鮫とはサメの事で、
魚を海岸に押してくる神様として、 この種の神社は北海道には二社しかない。
福 島 町 字 松 浦 ( 折 戸 )
恵 美 須 神 社
祭 神 事 代 主 命
文化二年 (一八〇五) 村中創建。
このほか藩政時代には矢越神社、 小谷石大明神社 (観世音社)、 湯倉明神社 (湯の里温泉) 等も福島神明社管掌の神社であったが、 遠距離のため、 のち知内雷公社大野氏の管掌と変った。
寺 院
福 島 町 字 福 島
観念山寿量院 法 界 寺
宗 派 淨 土 宗
この寺の沿革については享和元年 (一八〇一) 五月、 福島村土 (戸) 門治兵衞の 『由来縁記』 がある。 それによると、
由 来 縁 起
一 抑 そもそも当寺之昔明應年中 (一四九二~一五〇〇) 之頃大渕まふち川 (知内町) とてみなきりさかふ寺あり、 おり藤の枝ともおぼしきに光り有こはいかなると不思議に気を付ケ見るに大蛇のことく形ち渕よりあかり藤の枝につらなり、
角をさし、 上ケ眼ハ日月のごとく紅の舌をまき、 我真理一言転ニ悪業一成ニ善業一たれいうともなく、 末世濁世の衆生弥陀名号にて疑情も、 知識の一句ニ解ん。
既に此地退転せん、 但一念徃生住ニ不退地一といふ声かすかにきこへ否や、 光りをはなし西江飛去る。
家数ありといへともちりになり、 夫より無量諸仏に祈誓し奉るに、 ある夜の夢に呼声あり、 忽然として地蔵菩薩のすかたにて無量の諸仏觀ニ一念一を肝膽をくたき、
折加内村一寺建立法界平等利益せん。 末々念仏繁昌土地ならんと告ると思うに、 忽夢ハさめにけり、 夫より深意をくたき、 右解文の一句をひろへ山院の号を改、
建立成就如件。
大永三癸末年月日
観 念 山 寿 量 院 長 泉 寺
…一部略…
右之通代々当寺法界寺由緒什物萬端書附私開檀那故預罷在候。 然ル処近来在寺故出家無之、 正行寺 (松前) 世話ニ成、 住主直シ置候。 客末之寺ニ御座候を末寺ト心得、
甚難渋死去人殊ニ取置込入、 三、 四年以前住主無之死去人彼是正行寺致申候而、 町御役所へ願出、 下代中挨拶正行寺出家罷越所置申候。 後住主有之候委細古来ノ由緒書扣正行寺ニ無之候。
法界寺ニ始終書一切無之候得共、 此度毘沙門宮申上候ニ付奉差上候。 以上。
福 島 村
土 門 治 兵 衞
享和元酉年五月日
とある。 この縁記には創立期の沿革が詳しく記録してあるが、 それによると、 大渕まぶち (知内村萩沙里) の長泉寺が折加内村 (のちの福島村) に移ったのは明応二年
(一四九三) といわれる。 その後上之国城代南條越中守広継 (脇本館主の末裔) の室 (松前家三世蠣崎義広の長女) が謀反し、 斬罪に処され、 長泉寺に埋葬し、
その碑所とし、 折加内川 (福島川) を長泉寺領としたという。 その後天正十三年 (一五八五) 折加内川から一尺五寸の阿陀仏が出現したのを機に寺号を法界寺と改め、
淨土宗となる。 開山は然蓮社天譽真、 正和尚、 中興は深蓮社廓譽鉄荘和尚である。 さらに、 同十七年夏正行寺、 光善寺と共に松前家五世蠣崎慶広 (のち初代藩主)
に謁し、 客末となり、 さらに正行寺末寺となっている。
法界寺は明治元年十一月一日の徳川脱走軍との福島の戦闘で松前藩の本陣となり、 戦火によって焼失し、 明治六年本堂及び庫裡は復元されたが、 さらに昭和二十年十二月にも火災で焼失し、
往時を伝える史料は全く残されていない。 しかし、 常磐井家文書等によると若干の記事がある。 それによると、
寛政九年 (一七九七) 『戸門治兵衞旧事記』
法界寺地間数左ニ記ス
表口二十八間 内門通路垣岸垣迄四間、 裏行横通表口治兵衞蔵屋敷迄下岸迄三十四間、 横通裏行五十四間。
本堂建地 九間
ろうか〃 三間
庫裡 〃 八間
文化七年 (一八一〇) 『福島沿革』
正月十六日夜九ツ時 (午前0時) 法界寺住職斬首セラル。 取調ノ結果、 該寺ニ奉公セル仙台浪人東之助所置(行)ナルヲ相分り、 三月十一日吉岡八幡宮ヘ隠レ居リシヲ発見。
此件ノ爲八幡宮御本殿建立仰付ラル。 神主藤枝駿河、 奉行 (幕府松前奉行) 荒尾但馬守見分セラル。
とある。 この史料を見ても、 藩政時代の法界寺の規模を知ることが出来るが、 その豪壮な建物といい、 寺侍まで置いていた法界寺は、 一村一宗の寺として権勢を誇っていたことを物語っている。
歴代の住持は次のとおりである。
初代鉄荘和尚-二代仏鑑和尚-三代直正和尚-四代法界和尚-五代長悦和尚-六代良悦和尚-七代懐益和尚-八代義詮和尚-九代順的和尚-十代音察和尚-十一代察立和尚-十二代円海和尚-十三代廓栄和尚-十四代弁秀和尚-十五代専澄和尚-十六代源随和尚-十七代本随和尚-十八代義瑞和尚-十九代海信和尚-二十代智定和尚-二十一代智洞和尚-二十二代智運和尚-二十三代智現和尚-二十四代法運和尚-二十五代戒運和尚-二十六代定克和尚-二十七代隆清和尚
(現住)
なお、 この法界寺境内の墓地はかつて、 村内共同墓地があったと思われ、 各宗派の戒名の彫まれた墓があり、 特に寛文元年 (一六六一-三三三年前)、 淨秋禅定門の彫銘をもった墓ともう一基の緑色凝灰岩製の曹洞宗徒の墓は、
この年代の福島地区の葬祭文化を現すものとして貴重であるほか、 明治元年の戦争の際、 福島村で戦死した徳川脱走軍兵士毛利秀吉の墓もある。
福 島 町 字 吉 岡
広 念 山 大 法 院 海 福 寺
宗 派 淨 土 宗
常磐井文書 『大公儀様江松前之寺所寺烈御答之控-寛政十年写』 によれば、 「年号相知不申候。 嶋村百姓弥平治、 先祖吉岡村ニ所縁御座候。 老年ニ相成隠居致剃髪法名広念ト付、
仏所立墓守ニ相成。 広念坊宝永八年 (一七一一) 死去後広念庵ト改島村法界寺末寺」
とあり弥平治という者が一庵を建て、 その法名広念から広念庵と称したといわれる。 『福山秘府 寺院本末部』 によれば
○吉岡庵
正徳四年 (一七一四) 甲午依正行寺察玄之願与其地。 又元禄六年 (一六九三) 癸酉冬十月記録日、 道心者高庵以正行寺願庵地于吉岡。 是正説也乎。 當時光念庵。
安永七年迄八十六年也。
とあって、 高庵という道心者が松前正行寺を頼み、 吉岡村に一庵を許され、 吉岡庵と称したが、 その後光念庵と改めたとされていて、 この説の方が正しいと述べている。
また、 『吉岡村沿革史』 にあっては貞享二年 (一六八五) 僧廣念の開基であるとしているが、 その開基は定かではない。 吉岡八幡神社に宝暦四年 (一七五四)
合殿された稲荷神社、 恵美須神社はこの寺の境内にあったといわれている。
寺号が公称許可となり、 海福寺と称するようになったのは、 明治十二年六月三日である。 また、 歴代住職は次のとおりである。
開山応念和尚-二代念信和尚-三代弁秀和尚-四代若堂和尚-五代梅元和尚-六代厚順和尚-七代竜弁和尚-八代本随和尚-九代在冏和尚-十代隆道和尚-十一代洞海和尚-十二代素澄和尚-十三代白進和尚-十四代泰順和尚-十五代霊順和尚-十六代淨誉和尚-十七代真哲和尚-十八代義全和尚-十九代智鏡和尚-二十代麟山和尚-二十一代真賢和尚-二十二代真広和尚
(現住)
福 島 町 字 吉 岡
速 成 山 専 称 寺
宗 派 真 宗 東 本 願 寺 派
松前専念寺系譜によれば、 七代瑞玄の代の享保六年 (一七二一) に、 「吉岡村ニ一宇創建掛所かけしょ吉岡專念寺ト言フ」 とあるが、 掛所とは真宗で出張所を意味している。
また、 海福寺の項で引用した常磐井家記録では、
一 向 宗 專 念 寺
福島村、吉岡村百姓とも松前表江雪中之砌、猶又難所故僧用之時節難儀仕候ニ付、 知願と申道心数年專念寺差遣置候。 仍享保十三甲年右両村檀中願ニ付、 草庵爲立申候。
宝暦七辰年本寺免許ニ付願ニ付願出申付候。
としているが、 創建は享保六年が正しいと思われる。 さらに寺号公称については、 同じ專念寺系譜によれば、 十二代厳證の代の 「明治五年五月吉岡外四ヶ所ノ掛所ノ称ヲ除キ留主居ニ住職爲致度旨出願ニ依リ之レヲ許可シ吉岡專念寺ヲ專称寺ト改称セラル」
としていて、 この時点より専称寺と称するようになった。 その後の住職は次のとおりである。
入 江 恵 音 - 入 江 普 嘉 美 -
福島町にはその後日蓮宗妙蓮寺、 曹洞宗諦玄寺、 真宗東本願寺派專徳寺、 天理教北福島布教所があるが、 これらは何れも明治以降の創立であるので、 下巻で詳記する。
第三節 福島と蝦夷地のキリシタン
キリシタン宗とは、 キリスト教のうち、 我が国に渡来された旧教のうちのイエズス会 (ヤ ソ会)、 フランシスコ会などの会派の宗教である。 我が国ではこの宗教をキリシタン宗・切支丹宗・幾利支丹宗と呼び、
また、 この禁制以降は邪宗門と呼ばれたものである。
そのうちのイエズス会は、 ポルトガル国の支援を受け、 同国が東洋進出の足場としたインドのゴアに根拠地を求め、 ここから東洋の布教活動に入り、 さらに東進して中国のマカオに前線基地を置き、
ロ-マ法王庁から正式の日本布教権を獲得した。 また、 スペイン国の支援を受けたフランシスコ会はルソン島 (フィリピン) の布教権を獲得し、 共に東洋で活動するのは十六世紀中期のことである。
日本布教の先鞭を切ったのは、 フランシスコ・ザヴィエル神父 (イエズス会所属) である。 ザヴィエル神父は天文十六年 (一五四七) マラッカで鹿児島生まれの日本人アンジロウと会い、
日本伝道に闘志を燃やし、 同十八年同僚のトルレス神父、 フェルナンデス修道士を伴い、 アンジロウの案内で鹿児島に渡来し、 我が国での布教活動に入った。
その後ザヴィエル神父は西日本から京都にかけて二年間にわたって布教活動をして日本を去ったが、 その間には多くの南蛮文化や鉄砲などの物質文明を伝えた。 戦国大名達はこれらの文化の導入によって領国強化につなげようという風潮が目立ち、
特に九州の諸大名にその傾向が強かったので、 キリスト教のうちの旧教に属するイエズス会 (ヤソ会) は多くの布教師 (神父) を派遣し教勢の拡大に努めた。
また、 イエズス会はポルトガル国の後援を得て、 ロ-マ法王から日本国内の布教権を獲得し、 一方では同じく東洋に進出したスペインの援助を得たフランシスコ会がフィリピンのルソン島を中心として布教活動に当り、
さらに、 我が国へも布教進出する計画をしていた。
織田信長が天下を掌握するとイエズス会は信長に近づき、 京都、 安土に教会を造ることを認められ、 教勢は大いに揚がったが、 豊臣秀吉が天下を治めた天正十三年
(一五八五) 頃には、 全国のキリシタン宗徒は七〇万人にも達していたといわれる。 その二年後の天正十五年、 九州の島津家討伐のため出兵した秀吉は、 九州地方で異常なまでに発展を遂げているキリシタン宗の教勢に驚き、
キリシタン宗門の禁教と宣教師 (神父) の国外追放を発布したが、 大きな効果はなかった。
徳川幕府が江戸に開府し、 幕府の制度が着々と進むなかで、 宗教政策として国教である神道と仏教を庇護するため、 新来のキリシタン宗の排除の政策を進めた。
特に家康の政策顧問であった京都南禅寺 (臨済宗) の僧、 金地院崇伝はキリシタン宗の国内布教の禁止を強く進言し、 家康の裁許によって慶長十八年 (一六一三)
キリシタン宗禁教令の案文を崇伝に起草させ、 同年暮、 遂にこれを発布した。
それによると、 我が国でキリシタン宗門の活動は一切許さず、 外国人神父は国外追放し、 国内の宗徒は禁教令によって、 その宗を捨てることを命じ、 これに違背いはいするものは処断するという厳しいものであった。
この禁教令発布と共に慶長十九年 (一六一四) 一月以降、 宗徒の迫害が京都を中心として行われた。
先ず国内各地で布教活動をしていた外国人神父の総ては国外退去を命ぜられて、 長崎に集められ、 便船びんせんを待ってルソン島やマカオ (中国) に送られた。
さらにこの禁教令の効果を高めるため、 高山右近や内藤如安らの大名も逮捕されて、 国外追放となったが、 その際、 京都・大坂の宗徒が多く逮捕投獄されて、
棄教を迫られたが、 それに応じない者は、 津軽に流刑されることになり、 これらの流刑キリシタンが、 後に蝦夷地と福島のキリシタン宗と大きなかかわりを持つと思われる。
京都・大坂で逮捕され棄教しないキリシタン宗徒は、 京都四十七人、 大坂二十四人の男 女・子供達であったが、 四月初旬これらの宗徒を 「津軽外ケ浜に流す」
(『徳川実紀』) ことが決定され、 五月一日これらの流刑宗徒は裸馬に乗せられ、 大津からは琵琶湖を塩津へ渡り、 塩津街道を北上して敦賀に入り、 ここで津軽からの出迎船を待った。
五月二十一日には津軽藩差廻しの船で敦賀を出帆し、 六月十七日西津軽郡の鯵ケ沢に着いたと思われ、 ここから高岡 (後の弘前) へ着いた。 「同国の大名 (津軽信牧)
は、 この善良なキリシタン達を同情を以て迎へ、 その生活費を一部助けてやりたいと思った。 然し、 彼は君主の命令によって、 彼等を百姓の荒仕事に就かせなければならなかった。
然も流人達は悦んで之を承認し、」 (『日本切支丹宗門史・上巻』 レオン・パジェス著 岩波文庫) 流刑地に到って農業開拓をして流刑生活を送ることになった。
同書は一六一六年 (元和二) のその生活状況を 「聖なる津軽の流人達は、 到着以来、 真に辛い耕作に從ってゐた。 彼等は名門の出で、 富裕の間に成長したので、
農具のことなどは全く知らないも同然であった。 …… 略 …… 飢餓は、 又彼等を苦しめんとし、 普通ロ-マの一エキュ-の二十分の一であった米相場は一エキュ-に暴騰した。
之等士分の流人達は草根で命をつなぎ、 而しかも之を発見することが出来る中はまだ仕合せであった。 彼等の主要な、 否寧むしろ唯一の資源は、 長崎からの布施であった。」
と述べている。
この流刑キリシタンの惨状が長崎に知らされ、 宗徒達は慰問の金品を集め、 津軽の宗徒に届けようとしたが、 国外追放を受け、 長崎で船を待っていた外国人神父のジェロニモ・D・アンジェリス神父が率先志願し、
死を賭してこれを届けることになったが、 のち、 この神父が蝦夷地と深いかかわりを持つようになった。
アンジェリス神父は一五六八年シシリア島のエンナに生まれ、 十八歳でイエズス会に入会して神学生となり、 敍品じょひんの終わらないうちにインドへ派遣され、
司祭に昇進した。 ゴアからマラッカを経て中国のマカオへ着いた神父は、 ここで一年余滞在して日本語を勉強し、 一六〇二年 (慶長七) 日本に着いた。 一六〇三年には京都伏見の修道院で一年間日本語を学び、
その後京都から駿府付近までを持場として、 布教活動に入った。 しかし、 慶長十九年 (一六一四) キリシタン禁教令による外人神父の国外退去の命を受け長崎に集結して、
船待ちをしていた時に、 この津軽訪問を決意したのである。
さきの流刑キリシタン宗徒達がどこの流刑地に入植したかについては、 元和三年 (一六一七) のディエゴ・結城神父は、 「津軽にキリシタンの五団体があり、
中二つは流人、 他の三つは新たに改宗した土着者から成っていることを知った。」 と述べているが、 流刑者の団体は京都四十七人、 大坂二十四人と考えられ、
他の三団体は津軽の人達ではなく、 流刑キリシタンを慕った越前やその他の地方から来た改宗した人達であると考えられる。 さらにこれら流刑キリシタンの流刑された場所については、
おおよそ次のような説がある。
弘前市鬼沢説
この地は昔、 備前村といい、 流刑キリシタンを慕って来た人達の住んだところという。 (松野武雄氏説)
鯵ケ沢から弘前の間。 (小館衷三氏説)
高岡即ち弘前市。 (浦川和三郎氏説)
十三合・十三湖。 (ゲルハルト・フ-ベル氏、 永田富智説)
とあって確定はされていないが、 このうちの説が有力とされている。
このように津軽藩領内に流刑されたキリシタン達の消息は、 そのうちのマチヤス・長庵という医師が高岡 (弘前) で布教活動をしたということで捕えられ、 他の関係した者と六人が元和三年
(一六一七) 処刑されたが、 その後、 この流刑者達の消息を伝える津軽藩の記録は全くない。 これは流刑者達が逃散ちょうさんし、 そのため藩庁がそれを秘するため記録を残さなかったことも考えられるが、
その原因は前述したような元和元年から三年にかけての津軽の大飢饉も上げられ、 元和三年には三万人から五万人の砂金掘が蝦夷地へ渡航し、 ソッコ (楚湖) ・大澤・千軒の金山へ入り、
砂金掘をしたという事実。 矢越岬近くの船隠しの澗に、 津軽・秋田の砂金掘が、 ここに船を隠して千軒金山に到って砂金掘をしたという福島町内の伝承。 さらには千軒金山のキリシタンのなかには大坂・堺・長崎から来たキリシタンがいる等のことを推定すると、
福島町のキリシタンと、 津軽のキリシタンは多分に関係あるのではないかと考えられる。
日本で布教活動を続ける外人神父達にとって、 奥羽地方の北方に拡がる広大な島、 蝦夷島を知ろうとするのは当然で、 イエズス会の神父達が聴き知ったことは逐一、
ロ-マに報告されて、 機会があれば一度は訪ねて見たい地であった。
この蝦夷地の領主松前氏が医師を求めていることを知ったカミロ・コスタンゾ神父は、 堺の医師である宗徒を、 異教徒を信仰に導くための洗礼の授け方、 教会での祈祷方法や慣習等を教え、
慶長十九年蝦夷地に派遣し、 多くの信者を獲得したといわれている。
元和四年 (一六一八) 蝦夷地に渡航したアンジェリス神父は、 出羽 (秋田) から松前を経て津軽の流刑キリシタンを見舞おうとしたが、 松前に来たのは、
兼ねてアンジェリスの上長でマカオ (中国) に駐在しているアフォンソ・デ・ルセナ神父の指示で、 蝦夷地がダッタン半島 (黒龍江) の一つの岬なのか、 それとも島なのかを調べ、
そこの住民を詳細に調べることであった。 その結果によってはヨ-ロッパへの通信も可能になるのではないかとの期待が目的で、 さらに松前にはさきに堺から派遣された医師が若干の信者を獲得しているので、
これらの人達に福音ふくいんを与えるためでもあった。
このアンジェリス神父の第一回蝦夷地訪問は、 秋田から乗船出帆したが、 風向が悪く蝦夷地には向かえず、 深浦 (青森県西津軽郡) に着き、 ここで松前行の順風を風待ちした。
八〇人もの乗客は浜に小屋を建て、 二十二日も風待ちした上、 ようやく出帆し、 六月松前に向かったが、 海上が荒れ、 船は目的地には着かず、 ツガという港に着いた。
このツガという地名は、 アンジェリス神父の蝦夷国地図の説明から上ノ国付近と推定される。
この船中では松前氏の乙名 (重臣) の一人で殿様の甥おいが乗っていたが、 着船と同時に馬で松前に向かった。 その後神父は徒歩で松前に着いたが、 先行していた乙名は松前に到着後、
宗徒達に神父の来ることを告げ、 もし来たなら検断 (町奉行所か沖之口奉行所) を宿舎としてもよいと言ったという。
アンジェリスは松前で十五人程のキリシタン宗徒と逢い、 福音を与え、 さらに若干の人に洗礼を授けた。 さらにこの乙名を訪ねたところ、 「殿はパードレ (神父)
の松前へ見えることはダイジモナイ (大事もない) 、 何故なら天下がパードレを日本から追放したけれども、 松前は日本ではない、 と付け加えました。」 とあるように、
禁教令が発布されているにもかかわらず、 寛大な態度を取っていたことがうかがわれる。 アンジェリスはこの第一回蝦夷地訪問で、 松前滞在の十日間の間に数多くの蝦夷に逢い、
蝦夷地の状況を調べて秋田に帰り、 その詳細を十月に上司に報告している。
そのなかで、 金山のことについても触れていて、
蝦夷に多数の金の鉱山があるけれども、 彼等 (蝦夷) がそれを採掘しないで、 二年前から松前殿がようやくそれらの鉱山を開き始めたところでございます。 小生はその金を視ましたが、
甚だ純良であります。 日本の金のように、 というのはそれは極く微粒の砂ですが、 砂金すながねではなくて、 最も小さな片でも一分いっぷんはある金の砕片であります。
あるときには百六十匁もんめの重量ある金塊を見付けました。 それらの金の山からは、 恰あたかも 〔金でてきた〕 陸地であるかの如くに 〔多く産出致します〕。
後になって、 日本人が 〔金の〕 山を採掘しているのを知って、 蝦夷人に欲心が起るかどうか小生にはわかりません。
(上智大学 H・チ-スリク神父 訳)
というように、 千軒・楚湖そっこ・大澤等の金山の開削当初は、 正に粒金を拾うように多くの砂金が採取されたといっている。
松前滞留中アンジェリスは前記の殿様の甥に当たる乙名の宅を訪問しているが、 この乙名はコンタツ (数珠・ロザリヨ)、 聖画像などの如き信者の物や、 信者の道具類を持っていてそれを手離さずにおり、
彼は信者ではないにしても、 少なくとも立派な贔屓ひいきであると述べている。
アンジェリスは七月秋田に帰ったが、 その後すぐ松前氏は領内でのキリシタン宗を厳禁している。 それはこの月何らかの政策の変更があって、 それまで寛大な態度を取っていた松前氏が厳禁に踏み切ったものと考えられるが、
それには多分に松前利廣の問題が絡んでいたと思われる。
松前利廣は松前家第五世藩主慶廣よしひろの三男で、 小字は龍丸、 初名は行廣、 松前長門守ながとのかみと称した。 妾出めかけ であるが豪邁で、 武技に長じ、
書及び医術をよくしたといわれる。 最初南部信濃守利直の養子となったが、 その後帰国して家老となり、 元和四年 (一六一八) 七月二十六日異謀が発覚し、
本州に逃れ、 その後行方不明となったといわれる人である。 恐らくアンジェリス神父が乗船した船に乗り合わせた、 松前殿の甥で乙名の人というのは、 この利廣ではないかと考えられる。
この前々年の元和二年、 父の第五世慶廣が死亡し (六世盛廣は十年前死亡)、 元和三年に至って甥の公きん廣が十九歳で藩主になっているので、 その間の相続争い等があったのではないかと考えられ、
その結果の逃走ではないかと思われる。 また、 利廣がキリシタン宗に寛大であったことから、 厳禁に踏み切ったのではないかと考えられる。
この利廣の逃走事件については福島町も大きく関係している。 『常磐井家系譜』(利尻町所在常磐井武秀氏所蔵)によれば、 常盤井氏の二祖武治の長男相衡は、
利廣に同心して、 共に日本国に逃げ渡ったが、 その際、 同家に伝承されてきた系譜や宝器類を持ち出したため、 常盤井家の先祖の事歴が全く分からなくなったと記されており、
この松前利廣と常盤井相衡とが同じ行動を取っていたものと思われる。
今、 松前藩主松前家墓所 (松前町・国指定史跡) 内の裏門入口を入り、 一段高い所に建っている第七世公廣の室椿姫 (大納言大炊御門資賢おおい みかど
すけかたの姫) の右隣に小型の五輪塔型式の墓があり、 これには地輪座に 「円応族山良勝居士、 明暦四年七月日没」 の刻銘がある。 法幢どう寺 (松前家菩提寺・曹洞宗)
の 『松前家過去帳』 にも、 この戒名はあるが、 この人は誰であるかは記されていない。 それは一族であって同家墓地には葬ったが、 何らかの理由でその氏名を隠したと思われる。
しかも、 この墓の五輪塔には上層から基盤にいたる五輪の内側に、 Tの記号が入っており、 このTの記号が利廣の頭文字か、 それともキリシタン記号であるかは、
今後の解明を待たなければならない。
元和六年 (一六二〇) 八月カルワ-リュ神父が、 蝦夷地への第一回渡航を行った。 このカルワ-リュ神父は、 ディオゴ・カルワ-リュといい、 一五七八年ポルトガルのコイムブラに生まれ、
十六歳でイエズス会に入会し、 神学生のときインド行きを志願し、 一六〇〇年 (慶長五) 他のイエズス会士十五名と共にポルトガル領インドのゴアに上陸した。
翌年日本を目指す十余名の宣教師 (神父) と共に中国のマカオに至り、 ここで神学校を卒業し、 司祭に敍品された。 マカオでは日本語を学び、 一六一三年
(慶長十八) 最初の任地天草に赴任し、 その後京都にも登っている。 翌十四年キリシタン宗禁教令によって、 長崎から追放された七十三名のイエズス会士の一人であった。
一六一六年 (元和二) マカオから密入国したカルワ-リュ神父は、 管区長の命令で、 東北地方で活動するアンジェリス神父の補助として布教活動するよう命ぜられ、
翌元和三年東北地方に入り、 仙台藩伊達家家中で高名なキリシタンである後藤寿庵 (千二百石) を陸中見分 (現在の岩手県水沢市字福原) に訪ね、 寿庵の援助を受け、
アンジェリスの指示によって布教活動に当った。
元和四年 (一六一八) アンジェリス神父が第一回渡航の際は、 十分な日時もなく、 また途中の警戒が厳しいため、 ミサ聖祭の用具を持参出来なかったので、
彼の命令で蝦夷地へ渡航することになった。
カルワ-リュ神父は、 先ず秋田に入り、 ここから津軽に入国し、 その上で蝦夷地に渡る考えであったが、 津軽領の取り締りが厳重なため、 秋田から先ず松前に入り、
ここから津軽入りすることにし、 七月二十五日鉱山採掘に行く砂金掘の名義で乗船した。 彼の報告書では松前氏の領内に純良な金を豊産する諸鉱山が発見され、 昨年は五万人、
本年も三万人もの金掘達が松前に渡っていると述べている。 しかしこの時代、 蝦夷地に居住する和人の数はせいぜい一万人程度であり、 そこへ五万人、 三万人もの金掘が入ることは、
食糧、 食料品の需要が賄えないとも考えられ、 その数はやや誇大に過ぎるのではないかと思われる。 しかし、 それら渡航金掘のなかには多くのキリシタンが混じっており、
カルワ-リュも知り合いのキリシタン宗信者の連れの一団に従者と共に加わって松前に渡った。
松前に着いたカルワ-リュ神父は、 雪の聖母の日の八月五日、 蝦夷地最初のミサを行ったが、 この日は以前から蝦夷地に住む信者や、 師が奥州で洗礼を授けた人達も交わって厳おごそかに行われ、
このミサ聖餐せいさんに与あずかった信者達は感激の余りに涕泣ていきゅうする者もあり、 親しく告解こっかいしていない信者達は非常な満悦だったという。
さらに千軒岳の金山には多くのキリシタン宗徒がいたが、 距離も遠く、 町に出て来られないため、 カルワ-リュはミサの道具を携え、 この金山に赴く途中の情景は、
すでに千軒金山の部で記した通りである。 金山におけるカルワ-リュの行動は、 その報告書によれば、
私が金山カナヤマから余り遠くない所に新しくつくられた藁屋ばかりの一部落に着くと、 一人のキリシタンの小屋で祭壇の仕度をした。 その小屋の壁は木の板でできていて、
屋根はコルクに似た樹皮で葺いてあったが、 非常に清潔で、 幕で飾ってあり、 私の到着前に一種の祭壇が板でうまい具合いに作ってあった。
その家で私は聖母被昇天 (八月十五日) の祭典を挙げた。 その時、 私は日本の諸地方で見てきた豪華な、 かつ立派に装飾された教会堂でこの祝日に多数の人が集まり、
キリシタンたちのいろいろな遊戯や余興を加えて催された祭典を思い出して、 涙を禁じえなかった。 それもその追憶の故よりも、 このたび発見された最果ての地において、
私こそこの聖なる日を祝うことのできた最初の者である、 という慰悦の故でもあったのである。 キリシタンたちの告解を聴いてここで一週間を過ごしたが、 金山カナヤマのキリシタンたちはみんな、
病人までも加えて、 そのために入れ替り立ち替りしてやってきたし、 また仕事から離れることのできた幾人かにも洗礼を授けた。 それが終わって松前マツマイの町へ戻った。
キリシタンたちはいちじるしい親愛の様子を示し、 名残りを惜しんで、 私に別れを告げた。 ことに、 かつては我が会の同宿ドウシュク (教え方) であり今はその地に金掘り カ
ナ ホ となって働いている人、 すなわちドウキュウ・ドミンゴスとガイファン・ディオゴの二人は、 私について行きたいと希望し、 私のキリシタン団の仕事で我々、
パードレ (神父) ・アンジェリスと私とを援助してもらうのに連れて行きたかったのだが、 鉱山に働く契約がまだ終了してなかったのである。 それでもこの仕事が終れば、
年内にも來ると約束をした。
(上智大学 H・チ-スリク神父 訳)
と千軒金山カナヤマでの砂金掘のなかに、 多くのキリシタン宗徒がおり、 金山の中心部落に仮設の教会堂があり、 ここで八月十五日の雪の聖母被昇天ひしょうてんのミサ聖祭を厳粛のうちに挙げ、
さらに一週間この地に留まって、 信者の告解こっかいを聴き、 多くの人達に福音ふくいんを与え、 また新たに洗礼を授かる者もあったことを記録していて、 千軒金山の具体的規模と、
そこに住むキリシタン宗徒の信教状況を詳しく述べていて、 福島町のキリシタン史上、 極めて重要な史料となっている。
帰路カルワ-リュは松前から津軽に渡っているが、 その際、 堺から来た二人の信者が一行のため船一艘を借り、 同行していた同宿どうしゅくの円甫イエンポシマンが組頭となって一団を組織し、
円甫は大坂五郎助という名で、 手判を受け、 税役を払って出国した。 この円甫シマンは遠甫シモンともいわれ、 天正八年 (一五八〇) 肥後の野津に生まれ、
十六歳のときイエズス会で洗礼を受け、 さらにセミナリヨ (神学校) で勉学し、 その後は同宿 (助修士、 伝道士) として活躍し、 慶長十九年 (一六一四)
の外人神父追放令のとき一緒に逮捕され、 一時中国マカオに追放されたが、 また我が国内に潜入し、 元和三年 (一六一七) 東北地方に入り、 アンジェリス神父の良き協力者として活躍している人である。
日本国内でのキリスト教カトリック会派の布教権は、 ポルトガル国の援助を受け、 東洋に進出したイエズス会(ヤソ会)がロ-マ法王から許可を受けていた。一方ではスペインの援助を受けたフランシスコ会はルソン島を中心とした布教活動に当たっていたが、
やがてこの会も日本国内で布教活動を行うべく指向してきた。その尖兵となったのが、ルイス・ソテロ神父である。
ソテロはイエズス会の日本国内布教を好まず、 みずからルソン島から日本に乗り込み、 慶長十五年 (一六一〇) 江戸にフランシスコ会布教の足場を造った。
その時たまたま伊達政宗の側室が重症の病となり、 ソテロに同行した助修士が助けたことから、 翌年帰国の政宗はソテロを同行して仙台に帰り、 慶長十六年十一月二十三日布告を発し、
領内でのキリシタン宗宣教の自由と家臣の入信を許した。 ソテロは仙台付近で布教活動に当り、 一年間で一、 八〇〇人に洗礼を授けている。
ソテロは東北地方をフランシスコ会派の勢力下に置き、 伊達政宗に外国交易をさせ、 それによって、 さらに政宗と結び付き、 経済的援助の強化を図ろうとして、
訪欧使節の派遣を政宗に働きかけた。 その結果幕府の許可もあって造船も完了し、 慶長十八年 (一六一三) 十月二十七日訪欧使支倉常長以下一八〇名、 先導者フロイス以下外国人四十名が乗り組み、
仙台湾月の浦を出帆した。 一行はメキシコからイスパニヤ (スペイン) に着き、 マドリッドからイタリアのロ-マに着いた。 帰路にあったとき、 慶長十九年の徳川幕府の禁教令に遇あい、
ソテロの奥北地方の教勢拡大とそれによって日本司教となる夢は、 はかなく消え、 ルソン島に残り、 支倉常長らの日本への帰着は元和六年八月二十六日で、 七年間の旅行の間に世情は一変していた。
日本布教権を持ちながら、 東北地方の布教には何ら手を塗めずにいたイエズス会は、 フランシスコ会の東北布教に為す業すべがなかったが、 ソテロの訪欧使節先導で出発後、
禁教令、 外人神父の国外追放、 さらには東北地方北端へのキリシタン宗徒の流刑と続き、 この流刑宗徒救援のため潜伏外人神父の東北進出によって、 イエズス会の東北進出が、
元和四~五年頃から急激に増える一方、 フランシスコ会派の退潮が目立って来た。 この元和六年頃には、 外国宣教師の国外追放が行われた後であるにもかかわらず、
東北地方にはイエズス会ではアンジェリス、 カルワ-リュ、 アダミ、 パブロ、 マルチノ式見の五人の神父、 助修士ではシモン・遠甫、 ジュアン・山がおり、
フランシスコ会ではフランシスコ・ガルベス、 フランシスコ・バラザスの二人の神父が仙台を中心として活躍していた。
元和七年 (一六二一) にはアンジェリス神父の、 第二回目の蝦夷地訪問が行われた。 その目的は、 第一回渡航の際の報告よりも正確な蝦夷地の状況を上長達が望んでいるということで、
この詳細を調べて報告することと、 一人でも多くの信者を獲得することであった。 この元和七年のアンジェリス神父の報告書では、 蝦夷地での教勢拡張のための行動、
あるいは蝦夷地にいる宗徒のことには全く触れず、 専ら、 蝦夷地の地理、 原住者のことに文言を集めていて、 これをまとめて上司であるパ-ドレ・フランシスコ・パシェコ神父に送っている。
それによると全体を十三項目に分けて記述し、 これに蝦夷国地図とその書き入れの説明付図がのっているが、 それによると、
一 蝦夷地の地理の具体例
二 地図上から見た蝦夷地と諸国、 諸外国との関係、 蝦夷地の原住者
三 原住者の衣服、 装飾
四 原住者の武器
五 松前への交易物資
六 原住者の信仰
七 原住者の夫婦生活
八 原住者の夫婦の定め
九 蝦夷地の犯罪
十 原住者の数のかぞえ方
猟虎皮の生産
蝦夷人の船
蝦夷人の礼儀
等これによっても、 アンジェリス神父や外人神父らは、 蝦夷地の大きさ、 さらに諸国、 外国との位置、 交通関係、 蝦夷地に住む原住者の衣・食・住、 風俗習慣、
産業、 信仰等に大きな関心を持たれていたことが分かる。 この報告書は一年後ロ-マ法王庁内のイエズス会本部に届き、 関係者に注目され、 五年後の一六二六年
(寛永三) イタリアのミラノで活字印刷されて、 ヨ-ロッパ各国に配付された。 当時の本州では津軽の北方に、 蝦夷地という島があって、 僅かな和人と先住者の住む島という理解よりなかったが、
このアンジェリス神父の 『蝦夷国報告書』 によって、 ヨ-ロッパ人はすでにその詳細を承知していた。
蝦夷キリシタン史上大きな足跡を残したジェロニモ・D・アンジェリス神父は元和四年 (一六一八) の初渡航以来、 元和七年の渡航では 『蝦夷国報告書』 を作製し、
元和八年にも渡航しているようであるが、 これを証する明確な史料はない。 さらにアンジェリス神父の良き補佐役であったディオゴ・カルワ-リュ神父は水沢 (岩手県)
近くの福原に居住する伊達家々臣のキリシタン後藤寿庵の庇護を受けながら東北地方を中心に活躍し、 元和六年には蝦夷地に渡り、 松前および金山で最初のミサを挙げ、
さらに金山に入り多くのキリシタン達に福音ふくいんを授け、 その後元和九年 (一六二三) にも蝦夷地に渡っているようであるが、 その確証はない。
元和八年 (一六二二) 蝦夷地から東北地方に帰ったアンジェリス神父は、 秘かに江戸に潜入し、旗本原主水らと連携をとって布教活動に当った。翌元和九年二代将軍秀忠が職を退き、
その子家光が三代将軍となったが、江戸内におけるキリシタンの迫害を強めた。このとき旗本原主水の召使いが主人を裏切って江戸地内のキリシタンとその隠れ家等を密告し、アンジェリス神父やフランシスコ会の神父フライ・ガルベス、さらにアンジェリスの助手として活躍していたシモン・遠甫等と日本人キリシタン宗徒一〇〇余人が逮捕されて小伝馬町の牢に収容された。ここでは、これらキリシタンの棄教を迫ったが応じなかったので、
元和九年 (一六二三) 十月この逮捕者のうち五十名を火刑に処することを宣告した。
十二月四日処刑者の一行は小伝馬町の牢から日本橋、 京橋、 銀座、 新橋、 浜松町、 三田を経て品川手前の札之辻に到着。 ここに設けられた柱に縛り付けられ、
その廻りに薪束を積上げ、 刑吏が次々に松明たいまつに灯された火を投げ込み処刑され、 日本キリシタン史上、 とくに東北、 蝦夷地のキリシタン史上に貢献したアンジェリス神父は五十五歳で没した。
リ-ダッショ・カルワ-リュ神父は元和九年二回目の蝦夷地渡航を終えて、 後藤寿庵の住む福原館に帰った。 この年江戸では十二月四日東北地方とかかわりの深いアンジェリス神父らが逮捕処刑されたが、
十二月七日将軍家光は仙台藩領主伊達政宗を城に招き、 伊達家の領内にはまだ多くのキリシタンがいるのでその処断を迫り、 政宗もそれを了承し、 その旨を仙台に書き送った。
また、 政宗は寿庵にも棄教するよう書簡をもって迫った。
寿庵およびカルワ-リュ神父は、 仙台藩の討手の来ることを知り、 福原館に多くの宗徒を集め、 キリスト御降誕節(クリスマス)の聖祭を行い、 寿庵は南部領内に逃散し、
カルワ-リュは福原館を発し、 胆沢川を遡り、 二十五キロメ-トル程離れた横手(秋田県)に入る山道から左側の沢中颪江おろせの千軒原の鉱山に逃れた。 この銀山には多くのキリシタンが居り、
カルワ-リュ神父の連絡場所の一つであった。
寿庵およびカルワ-リュの逃走の元和九年十二月十八日か十九日の翌日、 仙台藩の捕手が福原館を急襲したが、 二人はすでに逃れた後で、 捕手は福原館に火をかけ、
その逃亡先を探索したが、 前日の雪に足跡が残されており、 これをたどって颪江おろせにいたり、 この鉱山でカルワ-リュ等を捕えた。
十二月二十一日捕われた人達は水沢を経て仙台の獄舎に投ぜられた。 同月二十九日 (洋暦一六二四~寛永元年二月十七日ころ) 仙台城前の広瀬川川原に引出され、
この川原を掘って水を張った穴に入れられ、 水責で棄教を迫ったが、 棄教者はなく、 残りの宗徒が殉教した。 生き残った長崎五郎衞門 (カルワ-リュの日本名)
ら七人は、 二月二十二日水責にかけられ殉教した。 翌日遺骸は穴から引き出され、 細かく切り刻まれ広瀬川に流された。 このようにして蝦夷地のキリシタン史に大きく貢献したカルワ-リュ神父は四十六歳で殉教し、
両神父の死去によって、 東北・蝦夷地のキリシタンは、 その中心となる支えを失い、 この後は次第に教勢を失ったといわれる。
しかし、 最近の研究では、 『南部キリシタン文書』 のなかに、
南部領内きりしたん宗旨改人数之覚
……略……
一、 新 七 大迫村町人、 津軽のもの
松前にて伊勢嘉衞門と申
者の弟子由
一、 女 房
……略……
寛永拾弐年極月十五日
とあって、 津軽の人新七と、 その女房三十七歳は、 松前で伊勢嘉衞 (右) 門という人から洗礼を授けられたキリシタンであるが、 その二人がこの時点で南部領内の稗貫ひえぬき郡大迫おおはざま村に住んでいてキリシタンとして逮捕されたという記録がある。
両神父の殉教後十二年を経た時代になっても、 松前には伊勢嘉右衛門というキリスト教の洗礼を授けることのできる人が存在したことは、 東北地方のキリシタン宗徒迫害が厳しくなった段階で、
その迫害の手が届かない蝦夷地に秘密の教会があり、 東北地方の人達が密ひそかに入国して洗礼を受けていたのではないかと考えられ、 その教士の居た処は、 恐らく千軒金山ではないかと思われる。
寛永十四年 (一六三七) に九州天草地方に発生した百姓一揆は、 同地方のキリシタン宗徒を捲き込んで宗教戦争の様相を呈した。 この一揆鎮定のため幕府は九州地方諸侯の兵力に出兵を求め、
さらには老中松平信綱が総指揮をとり、 原城を主力に立籠る一揆軍を攻撃し、 二年に亘る戦闘の末、 この乱をようやく平定した。 この一揆は天草地方のキリシタン宗徒が主体となって闘い、
宗教を根底とした団結力の強さが誇示され、 一面では幕府の威信を深く傷付けた。
寛永十五年乱平定と同時に幕府は、この乱を教訓としてキリスト教奉信者を国内から駆遂することを目的に、切支丹宗の厳禁と、この国内流入を阻止するため鎖国を布告した。幕府が定めた諸侯の参勤交替は、一年在国、一年は江戸勤仕で二年に一勤であった。
寛永十五年領主公広は嗣子氏広と共に参勤し、 氏広は八月に帰国したが、公広は伊豆で温泉治療のため、帰国を一年延期し、同十六年五月二十日帰国した。帰国に際し、第七世藩主公広は幕府からキリシタン宗禁制と領内の宗門取締について厳重に注意されて帰国したことが考えられ、
ついに同十六年八月は金山の金掘達を主体としたキリシタン宗徒の大量処刑という事態に発展した。 『福山秘府・年歴部巻之四』 (市立函館図書館蔵) の寛永十六年の頃には、
又按是あんずるに歳有幾利支丹宗門制禁、 蓋がい島原賊徒起寛永十四年至同十五年而平治故、 是歳秋八月於本藩東部大沢亦刎首ふんしゅ其宗徒男女都すべて五十人也。
検司蠣崎主殿友広下国宮内慶季よしすえ酒井九十郎長野次郎兵衞池木利右衞門也。 後日又刎首殘党六人於西部日市邑ひいちむら。 後又於金山刎首餘党五十人悪宗徒都すべて一百六人也。
蠣崎友広者今之佐士広重之第二祖也、 下国慶季者主典由季之子也。 是自今之下国勘解由季致すえとき已上五世之祖也。 酒井氏見上其名未詳、 長野氏又見上即半左衞門重定之子乎、
池木未詳。 日市邑一作比石ひいし今之西部石崎邑むら也。
とある。 これによれば、 同年八月藩は家老蠣崎主殿、 下国宮内等を検司 (死) 役人としてキリシタン宗徒の弾劾をはじめ、 先ず、 大沢金山の宗徒五十人の男女を刎ふん首処刑したというが、
刎首とは即ち首を剥はぐことで斬首したものである。 さらに大沢金山から逃れたと思われる六人を西部石崎 (上ノ国町字石崎) で捕え処刑をした。 その後藩の処刑役人達は蝦夷キリシタンの本拠ともいうべき千軒の金山を襲い、
ここでキリシタン宗徒を探し出し、 ここでも五十人の宗徒を刎首処刑し、 この年の弾劾で、 一〇六人もの大量のキリシタン宗徒を処刑したものである。
この処刑を考察すると、 元和三年 (一六一七) 開削された大沢金山で働く金掘のうちのキリシタン宗徒の男女五十人を刎首処刑しているが、 この処刑地は大沢としているので、
宗徒弾劾を効果的に領民に見せ付けるために、 大沢村か、 村に近い処で処刑したのではないかと考えられる。 また、 その餘党六人も西部石崎 (上ノ国村) で逮捕して処刑したといわれるが、
この人達も石崎川流域砂金採取に当っていた金掘であったのではないかと思われる。
この二ヵ所の処刑を終えた松前藩は、 キリシタン達の最後の砦ともいうべき金山を急襲した。 この金山というのはD・アンジェリス、 カルワ-リュ神父の報告書にも明確なように、
大千軒岳直下の知内川上流の金山番所付近に展開する千軒金山のことである。 ここでは五十人の男女のキリシタン宗徒を捕え、 刎首処刑をした。 この処刑地については前記の報告書にあるとおり、
金山番所のあるこの地域の中心集落のあった地域が、 その場所であると考えられる。 これらを推考すると千軒金山を急襲した松前藩兵は、 ここの金掘り中のキリシタン宗徒を捕え、
このなかの男女五十人をその中心地に集め、 数個の大きな穴を掘り、 その縁に莚むしろを敷き、 そこで打首で処刑し、 遺骸はその穴に埋め塚状にしたと思われるが、
現在までにその跡地と目され付近の調査が行われてきたが、 その跡地を特定することはできない。
このキリシタン宗徒一〇六人の処刑を考察すると、 処刑者は大沢および金山で五十人ずつという数が、 その地域での総てのキリシタン宗徒の数ではなく、 現地で五十人ずつを選んで処刑した可能性があり、
後にいたってからキリシタン宗徒であることを発見し、 逮捕江戸送りをされている者もあることからも、 決して総てのキリシタンが処刑されたものではない。
また、 一〇六人の処刑者が総て金山の金掘であることも注目されることである。 これは幕府の厳重な注意を受けた松前氏が、 他国者の金掘を処刑して、 キリシタン宗弾劾の実績を作り幕府に報告し、
領内に多く住んでいる領民のキリシタンを庇かばったのではないかとも考えられる。 その例としては、 金山の検司 (死) 役人として処刑に立会した池木利右衞門という藩士が、
五十年後の記録には古切支丹 (キリシタン本人) であったことが明らかになっている。 結局は藩が自国の民百姓を庇かばうため、 他国人の金山の金掘キリシタンを犠牲にして迫害の実績を作ったものと考えられる。
この金山キリシタンの処刑後、 金掘の多くが逃散し、 さらに翌寛永十七年 (一六四〇) 六月内浦岳 (現在の駒ケ岳) が大爆発をし、 それに伴う津浪もあって多くの死傷者があり、
その影響からか、 金山の産金量が減り、 千軒金山は廃絶したという伝承があるが、 しかし、 のちに述べる児玉喜左衞門という金山番所役人が、 五年後幕府の差紙
(命令) によって逮捕江戸送りとなっている事実から見ても、 金山番所が存続し、 金掘も多くいたことを物語っている。
寛永十六年 (一六三九) の松前藩領内のキリシタン宗徒の大処刑によって、 蝦夷地内のキリシタン宗徒は根絶ねだやしとなったと思われていたが、 その後五年を経た正保元年
(一六四四) にいたって、 千軒金山の役人児玉喜左衞門が幕府の差紙 (命令) によって逮捕され、 江戸のキリシタン牢に護送されるという事件が起った。
『福山秘府・年歴之部』 の正保元年の頃に
是歳金鑿師児玉喜左衞門因切支丹而仙台国之菊地文平有訴故搦捕之即於江府演送井上筑後守
とある。 これは、 この年金山の金掘指導者の児玉喜左衞門がキリシタン宗徒であることが、 仙台国人の菊地文平の訴人で明らかになり、 これを搦からめ捕えて江戸送りするよう命令を受け、
江戸小石川にある切支丹奉行井上筑後守の官邸に送ったというのである。 このことは 『福山秘府・年歴之四』 には、 さらに詳しく、
正保甲申年
又按是歳夏五月廿二日飛札到仙台人菊地豊平訴悪宗徒児玉喜左衞門児玉見是時賜御制書
又按是歳秋七月十二日於金山今井五左衞門工藤勘之丞山口金之丞搦捕児玉喜左衞門而後蠣崎左馬介今井五左衞門携 児玉到送井上筑後守之第
とある。 喜左衞門については、 寛永十一年 (一六三四) の同記録では 「金山小吏」 という役職になっており、 この年の金山関係の役職では金山総司 (奉行)
として蠣崎左馬介、 下国内記の名が見えるが、 この二人の奉行は藩の重臣で、 役職だけで現地に駐在はしておらず、 現地はこの金山番所の責任者として喜左衞門が取り仕切っていたものと考えられる。
また、 訴人した菊地豊平ぶんぺい (年歴之四) は、 菊地文平ぶんぺい (年歴之部) となっているが、 どちらも 「ぶんぺい」 と読み、 前後の関係から
「文平」 が正しいと考えられる。
喜左衞門が逮捕、 江戸送りされた井上筑後守の第てい (邸) というのは、 切支丹奉行の井上筑後守 (一万五、 〇〇〇石) の屋敷で、 その邸内には切支丹牢があり、
そこに収容されたのである。
この児玉喜左衞門を訴人した仙台人の菊地文平は、 後藤寿庵と共に東北地方を代表するキリシタン宗徒である。 元和三年 (一六一七) イエズス会は日本国内の代表的キリシタン宗信者に対し、
この教えに忠誠を誓い、 さらに、 その地方を巡回する神父の行動に協力する証文を提出させているが、 現在ロ-マ法王庁に残されている東北地方の代表者の証文が三枚あり、
そのうち一枚は見分みわけ (現在の岩手県水沢市字福原) 地区の代表者のものである。 それによると、 志津村、 見分村、 矢森村など磐井郡地方のキリシタン宗徒四五〇余名の代表者十六名の名が元和三年十月九日付で、
記されており、
伊 達 政 宗 内
見 分 村
後藤 寿庵 常 (花 押)
同 今沢忠兵衞尉羅はる (花 押)
同 菊地四郎兵衞尉志まん (花 押)
同 遠藤内蔵助恵ウスタキア (花 押)
同 菊地文平登明 (花 押)
となっていて、 文平は登明 (たかあき) という名を持つ武士であることが分かる。 さらに磐井地方の元禄四年 (一六九一) の切支丹類族帳によれば、
磐井郡下黒池村霜後瀧住居之
牢人
古切支丹
一菊地文平
比文平儀正保三年二月廿日五拾六歳ニ而江戸ニ被相登於江戸ニ如何様ニ被仰付候歟相不知申
とあって、 正保三年 (一六四六) この菊地文平が逮捕されて、 喜左衞門と同じく江戸送りとなっている。 H・チ-スリクの論文 「元和三年における奥州のキリシタン」
(キリシタン研究第六輯) では、 どちらかの年代が誤っているのではないか、 としているが、 これについては異論がない訳ではない。 いずれにしても児玉喜左衞門が蝦夷地を代表するキリシタン宗徒で、
これが菊地文平の訴人によって明らかになり、 幕府からは児玉を捕えて江戸送りするよう命令があり、 江戸小石川の切支丹牢で取調べを受けた児玉の白状によって、
二年後、 今度は菊地文平が逮捕されて江戸送りとなったが、 二人がその後どのような結末を遂げたか、 知る由もない。
この切支丹奉行井上筑後守の切支丹牢は、 一度入れられれば死ぬ迄出られないという例えばなしの様に、 多くの牢屋が並び、 取調べも峻厳で、 調べ室に穴が掘ってあり、
取調べ事項について白状しなければ、 この穴に逆さ釣し、 何日もその侭にし、 遂に死亡する者も多く、 信教を棄てたものも古キリシタンとしてそのまま牢内につないで置き、
一生をこの牢内で過ごすということであった。 切支丹牢は隠れキリシタンの全くいなくなった寛政四年 (一七九二) 廃止となり、 当時の一切の書類は江戸城内の和田倉門に格納していたが、
安政二年 (一八五五) の安政の大地震による火災によって総てが灰燼に帰しているため、 この児玉と菊地の二人のその後の消息は全く分からない。
しかし、 この事件は寛永十六年 (一六三九) の松前藩領内のキリシタン宗徒の大迫害から五年を経て起きた事件であり、 この時期には松前藩領内のキリシタンは根絶ねだやしされたと考えられていたときの事件であって、
この寛永十六年のキリシタン処刑は、 その一部分に過ぎなかったことを物語っていて、 その後の松前氏の諸記録にも、 そのことが明らかになって行く。
松前主水もんど広時は、 門昌庵事件の柏巌峯樹大和尚 (法幢寺六世住職) の処遇について、 同じ家老である弟、 幸広と城中で延宝六年 (一六七八) 八月晦日斬り死した、
第七世藩主公広の四男広ひろただの長男で、 松前氏の家老となり、 礼髭村の知行主であった。 この主水広時の元禄五年 (一六九二) 一年間の日記が、 旧松前藩主の末裔松前之広氏のところに保存されている。
これには多くのキリシタン宗に関する記述があり、 摘記すれば、 次のようなものである。
『松前主水広時日記』
正月廿六日
古切支丹類族作蔵曽孫およ娘旧臘廿七日出生、 つちと申候由、 廿三日の便の節申来候に付、 御断の御証文認申候。
廿七日
古切支丹類族作蔵曽孫出生、 御断御証文、 切支丹両奉行所へ惣左衞門 (近藤) 致持参候処、 無相違納り申候。
三月十三日
江差村古切支丹類族佐蔵娘本人同然のせん、 今月九日致病死候申来、 江差村桧山肝煎差添死骸見届、 塩詰に致正行寺 (松前) え埋。
九月七日
古切支丹半三郎弟又左衞門病死断有之。
九月廿七日
知内かな穿御運上金四匁差上げ致披露候。
十月九日
江差村にて古切支丹、 加平治曽孫本人同然のつま孫ごよ娘当月二日に 出生、 さると申候由申来致披露候。
十月廿日
東郷宗改、 嘉藤忠左衞門罷帰。
十一月七日
西在郷宗門改。 今井孫七郎、 高橋忠右衞門罷帰り。 古切支丹類族加平 治孫本人同前のつま孫こよ忰三太、 今月四日病死届。
十一月十日
江差村古切支丹類族作蔵孫本人同前のたつ忰、 萬蔵今月七日病死。 作蔵曽孫たつ孫とり娘、 うめ同日病死届有之。 十二月十七日
湯殿沢古切支丹、 池木利右衞門曽孫本人同前のかん孫はな娘とり、 四歳の者病死届有之。
十二月廿七日
古切支丹類族加平次聟むこ、 本人同然のいそ夫蔵町九蔵、 当申四十八歳にて昨夜病死届。
これを見ると、 松前藩の執政職 (家老) の一年間の日記に、 十件ものキリシタン宗類族 (その末裔) の記録があり、 キリシタン宗禁教後、 仏教諸宗派に転宗した元宗徒は、
藩庁の切支丹類族帳に登載され、 その本人は古切支丹、 その子、 孫は本人同然、 曽孫は類族として取扱われ、 常に藩、 村役、 五人組合の監視を受けていて、
出生、 死亡の場合は、 必ず村役から藩に届出、 藩はこれを江戸の切支丹奉行に届け出て、 その処置をどうするかを伺っていた。
また、 三月十三日の例のように、 江差の古切支丹佐蔵の娘せんが死亡した際は、 江差桧山肝煎 (村三役) が死骸を見届け、 樽に入れ、 塩詰にして差添って松前に搬び、
藩の検死を受けたのち、 馬形下町 (字豊岡) の浄土宗正行寺墓地に葬ほうむられるという厳重な方法がとられていた。
この日記のなかで最も重要な記事は十二月十七日の項で、 湯殿沢古切支丹池木利右衞門という名前の出てくることである。 この池木利右衞門については、 寛永十六年
(一六三九) のキリシタン処刑の 『福山秘府・年歴之四』 の記事のなかでは、 この池木利右衞門がこの処刑の際、 藩から検死の役人として派遣されていることが記録されている。
しかし、 それから五十三年を経た、 この 『松前主水もんど広時』 の日記では、 古切支丹池木利右衞門の曽孫ひまごで本人同然のかんという者の孫はなという者の娘とりという四歳の子供が病死したことが報告されている。
キリシタン宗禁制後、 幕府は棄教したキリシタンを古キリシタン本人とし、 その類族は各藩の類族帳に登載され、 その上江戸の切支丹奉行に報告されて、 その管理下に置かれ、
その類族の出生、 死亡について総て届け出が義務付けをされていて、 本人男女をはじめ、 その子、 孫、 曽孫、 玄孫、 耳孫にいたるまでが類族として厳重な監視の下に置かれており、
この池木利右衞門の末裔も、 松前藩のキリシタン宗徒の処刑後、 自分もキリシタンの一人であるが棄教したことを届出、 藩の管理下に置かれる古切支丹として制約されてきたものである。
正保元年 (一六四四) の児玉喜左衞門の逮捕、 江戸送りによって蝦夷地におけるキリシタンの殆どは、 逮捕、 処刑、 棄教によって根絶となったと考えられているが、
万治元年 (一六五八) の 『切支丹出申候国所之覚』 によれば、 「奥州之内松前四五人」 とあって、 この年代には棄教した元キリシタン宗徒のいたことを明示している。
しかし、 この元宗徒の数は四、 五人なのか四十五人なのかは、 なお論義の多いところである。
慶安二年 (一六四九) には 「是歳始呈宗門名籍」 (『福山秘府・年歴之部四』) とあって、 この年はじめて元切支丹で、 現在棄教している古切支丹の名簿を松前氏が作製し、
徳川幕府に上呈しているが、 その名簿は現在残されていない。 しかし、 この年代ころから、 隠れキリシタンの取締りや、 元キリシタンであって棄教した古切支丹、
あるいは、 その類族の取締りが制度化され、 厳密に行われるようになったと考えられる。
市立函館図書館に残る松前藩の制札 (告示) の写しによれば、
定
きりしたん宗門は累年御制禁たり自然不審なるもの有之は申出へし御ほうびとして
ば て れ ん の 訴 人 銀 五 百 枚
い る ま ん の 訴 人 銀 三 百 枚
立 か へ り 者 の 訴 人 同 断
同 宿 并 宗 門 の 訴 人 銀 百 枚
右之通可被下之段同宿宗門之内たりといふとも訴人に出る品により銀五百枚
可被下之隠し置他所よりあらはるゝにおひては其所の名主并五人組迄一類共
に可被處嚴科者也
仍 下 知 如 件
天和弐年五月日 奉 行
この制札にあるばてれんとは伴天連とも書き、 キリシタン宗の神父のことをいい、 いるまんとはイルマン、 助修士あるいは日本人教士、 立かへり者とは、 教えを棄てた筈の宗徒
(棄教者) が秘かに信仰を続けている者、 あるいは一度逃散した宗徒が、 秘かに自宅に隠れ住んでいる者等のことをいい、 このような人達を発見した場合は速すみやかに届け出ること、
この訴出をした人には褒美ほうびとして記載した金額を与えるというものである。 この賞金は厖大ぼうだいな金額でこれを与えても隠れキリシタンを探し出そうとする幕府や、
領主の態度は、 キリシタン宗門を根絶しようとする意欲の強い顕われである。
この制札のなかに名主の下に五人組の字句が表われている。この五人組の制度は幕府が寛永十六年(一六三九)に行った鎖国と切支丹禁制の一環として、諸領主に命じ、行政最末端の相互監視の機関として五人組合(組)の設置を義務付けた。そして慶安二年(一六四九)には藩からキリシタン宗門名簿を幕府に上呈して、隠れキリシタンの発見と取締りの強化に入っている。さらに、天和二年(一六八二)には幕府が制定した制札案に従って、蝦夷地内にキリシタン禁制と探索の高札を掲げ、さらに貞享四年(一六八七)には幕府からキリシタン及びその類族改めの法が制定され、元禄四年(一六九一)には、各藩の宗門改の時、名主、五人組揃って寺判を示し質問を受けることの内容を中心とした宗門改についての覚えが通達されている。
このように、 キリシタン宗取締対策の末端相互監視機関として、 各村内の五戸から十戸を一単位とする五人組合(組)が設置されたが、 福島町内では、 各村の鎮守社の棟札等を調査すると、
各村は十戸を一単位とする組合が結成されていたと考えられる。 また、 このキリシタン宗門取締りのための、 宗門改めとそれに伴う諸種の届出行為、 行事等が定形化されていて、
各村の年中行事にとり入れられていた。
毎年一月の松引きと共に各村名主の管理下に置かれている村会所に、 宗門改下組帳が備え付けられ、 各戸主は自分の旦那寺に行き、 その家族一同の氏名と年令、
さらにはその一家が切支丹宗門でないことの証明を受け、 それを持参して、 この下組帳に記入してもらい、 それを村の帳役が書写して 「宗門御改書上」 (帳)
が二月には出来、 これを村名主が管理する。 その記述内容は、 宮歌村天保十三年 (一八四二) の例を見ると次のようなものである。
一 浄 土 宗 法 界 寺 源 太 郎
當 寅 六 十 八 才
一 同 宗 同 寺 妻 ふ 美
五 十 四 才
一 同 宗 同 寺 忰 又 藏
二 十 二 才
一 同 宗 同 寺 二男 源 藏
二 十 才
一 同 宗 同 寺 三男 市 藏
十 五 才
以 上 五 人 内 男 四 人
女 一 人
というように記入されている。 これらの人員に異動を生じた場合 (死亡、 転出、 転入) にはその都度旦那寺の離檀状、 あるいは離檀請状を貰い受け、 これをもって御書上帳の訂正をしてもらう。
松前藩の切支丹宗門御改奉行による宗門改は毎年、 城下、 東在、 西在を改める奉行が発令され、 九月に松前城下、 十月には東西両在の宗門改が実施される。
九月一日には各村の五人組員がまた各旦那寺に赴いて、 寺請状を貰い受け所持しておく、 この寺請状は和半紙半枚に木版で印刷されたものを用いたらしく、 熊石町字相沼無量寺過去帳の表紙下張りに用いていたものが現在残されている。
それによると、
寺 請 状 之 事
一
右先祖代々浄土宗當寺の檀家に有之御公儀御法度之切支丹には無之若不有之
者拙者罷出可申訳候為後日寺印仍而如件
明和元年申九月朔日
浄土宗 無量寺
御奉行所
という雛形で、 これに檀家々族の住所、 氏名、 続柄、 年令を記載し、 寺印を押して交付したものである。
十月の宗門改には藩から派遣された御改奉行が一段の高座に扣え、 吟味役、 下役、 足軽が排列する中、 村役は名主、 年寄、 百姓代 (その村によっては小使)
が扣え、 先ず 「宗門御改書上帳」 によって、 村内の一年間の人口の増減を調べた上、 各五人組合頭に引き連れられた組合員が出頭し、 旦那寺から頂載した
「寺請状」 を提示し、 切支丹宗徒でないことを証言して、 改を終る。 終った段階で名主は御改書上帳の末尾に左のように記入し、 (出生、 病死、 縁談等人員の出入を明確に記入した上)
右之通増減御改相違無御座候。 以上。
天保十三寅十月
同 村 百 姓 代
又 右 衞 門
同 村 同
藤 兵 衞
同 村 年 寄
宮 松
宮 之 歌 村 名 主
喜 兵 衞
御 掛
御 役 人 中 様
という人口増減とその理由を明記して、 奉行の確認を経て藩の宗門改は終るが、 この行事自体が庶民の宗教活動を監視する手段であったから、 毎年のこの行事に村役差添い、
五人組合の全員が奉行の前でキリシタン宗徒でないことを誓約するということは、 かなりの精神的苦痛であった。
松前領内の古切支丹といわれる、 キリシタン本人で棄教した者は、 キリシタン宗徒処刑後約二十年を経た万治元年 (一六五八) で、 領内で四十五人あったといわれるが、
同じく六十三年を経た元禄五年 (一六九二) の 『松前主水広時日記』 では、 すでに古切支丹は死滅し、 孫、 曽孫、 玄孫の時代に入っており、 これらのキリシタン類族は、
類族帳に登載されていて、 厳しい藩や五人組合の監視を受けていて、 隠れキリシタンとして秘かに信教はできなかったので、 この年代ころには隠れキリシタンは蝦夷地では存在しなかったと思われ、
ただ、 古切支丹の子孫ということだけで、 類族帳に登載され、 出生、 死亡、 婚姻等に厳しい監視が行われていたものである。
第四節 松前神楽の発祥と展開
神楽とは 「鎮魂を目的とした呪術じゅじゅつ。 平安中期、 宮中の神事用の音楽としてまとまる。 現存する神楽歌は約九十首。 はじめ宮廷外の人が宮廷に参上した神事芸。
里神楽ともいい、 民間の神社で祭礼の時行われる。 仮面をかぶり、 笛、 太鼓、 鉄拍子に合わせ、 無音で舞う。 祓 (はらい) の行事から演劇的に移行したもので、
特に江戸後期に発達。」 (『角川日本史辞典』) とある。 また、 さらに詳しくは、 「神道と関係を持ち鎮魂を目的とした呪術に神楽があるが、 この神楽が平安時代中期には宮廷神楽として発展するが、
これと併行して伊勢あるいは出雲等の大社を中心とした神楽式ができ、 さらに田楽を主体とした里神楽が近世前期以降我が国全域にわたって流行する。 特に東北地方では番楽と山伏神楽の二大系流がある。
…北海道の松前神楽などそれぞれの地方で同類を伝波普及していた。」 (『平凡社世界大百科辞典四』) とあって、 この神楽の発祥と地方浸透の過程を論じている。
中世蝦夷地に勧請された寺社の多くは、 神仏混淆したものも多く、 その奉斉者も出羽三山の天台、 真言宗から発した山岳信仰の修験者 (山伏) が多く、 これらの人達が、
十三湖の阿吽寺、 山王社、 深浦円覚寺、 恐山等を足場として当地方に進出しているので、 初期の神、 仏教は奥州北部と深い係わりを持っている。 この修験者達は、
出羽三山に発達した山伏神楽の伝承者でもあったので、 中世の蝦夷地では、 山伏神楽が普及していたものと考えられる。
初期の松前神楽は近世初頭に発祥したといわれるが、 そのさきがけとなったと思われる記録が若干ある。 『新羅之記録・下巻』 によれば、 松前家六世藩主盛広が家督前の天正十五年
(一五八七) 京都に越年し、 太鼓打観世与左衞門尉の子与十郎の弟子となって太鼓打を習い、 その名手となったといわれている。 これは観世家の能楽を主体とした太鼓であると考えられ、
直接神楽と結び付くものではないが、 伏線とはなり得るものである。 さらに慶長十九年 (一六一四) 松前家五世慶広 (初代藩主) の四男数馬之介由広が大坂方に組して反乱を起こそうとした際、
七世公きん広に近侍していた太鼓打樋口石見の弟子で、 江州八幡山の住人大塗師屋ぬしや与四右衞尉が、 これを留めたとあるので、 七世公広も音曲や神楽には理解を示していた一人であると考えられる。
寛永二年 (一六二五) 夏六月松前八幡宮が建立された。 同史料によれば 「福山城の北方に新たに御宝殿、 同じく拜殿并に神楽屋を造営し、 四方に築地を構え、
其内に松樹花木を植え交え、 高く鳥井を立て、 八幡大菩薩を六月十五日の良辰に遷宮し奉るなり」 (原漢文) とあって、 この寛永二年に神楽殿が新築された記事が、
松前藩の神楽に関する記事の初出であるが、 ここで斉行された神楽が松前神楽であるという根拠はない。
和賀白鳥家 (八幡社司-神道觸頭) の 『御社記』 (天明八年筆) によれば、 同家は、
一御當家御氏神八幡宮三所は其元寛正三年 (一四六二) 上國に御造営此節社司職白幡と申者社役相勤候様御 座候。
一永正十三年 (一五一六) 八幡宮上ノ國より大館江御引キ御造営此節は大蔵と申山伏社役相候様御座候。
一寛永二年大館より今之所江御造営此時神主私先祖白鳥縁之太夫章武此名は従殿様被下置是より始而社家と御究 被仰付候。
とあり、 修験者である白鳥家は八幡社の社司職に任命されたとあるので、 この時点で建立された神楽は山伏神楽を主体としたものであろうと考えられる。
松前神楽と福島との深い係わりを示す史料として、 常磐井家所蔵の 『福島沿革史』 があり、 その中に、
寛文二年 (一六六二)
三月六日ヨリ廿日マテ日月紅ノ如シ、 国中闇夜朝夕燈火ヲ点スルニ至リヌ。 此ニ於テ村民一同相謀り、 明ニ
参籠さんろうシ、 祠官常磐井今宮ニ願出御楽修行、 爾後正・五・九月祭月定メ、 永代之ヲ勤ムルコトニセリ。 天下太平、
当所安全ノ爲ナリ。
と記していて、 これが松前神楽の始まりであるとされている。 しかし、 この記録が正確なものであるとするならば、 当然福島の最古の記録である 『戸門治兵衞旧事記』
の中にこの記事が掲載されているべき筈であるが、 全く記載がない。 さらにこの時代は常盤○井氏であった筈が、 常磐○井という明治二十年ころの氏名が記入されていて内容にも誤りがある。
『福山秘府』 (年歴部・五) によれば、 「寛文二年夏六月二十日日並出。 日一
作月」 とあって、 日月に異変があったのは六月であるとしているので月が合わない。 また、 この年は冬大雪山の如しとしていて、 註には我が藩に於ては大雪は不祥の兆しであるが、
中国の文献では豊年の瑞兆であると記している。 この 『福島沿革史』 の記述内容が正当を得ているとは考えられず、 また、 この行われた神楽が松前神楽という名称で呼ばれたという証拠もない。
さらに松前神楽の一座厳修の場合には太鼓、 笛、 鉄拍子(茶釜)等の楽人が必要であり、 この時代には、 未だ神楽式は定まっておらず、 恐らく番楽系統の神初歌形式の簡易なものではなかったかと思われる。
松前神楽の発展の過程で見逃すことの出来ないのは、 松前神明社白鳥家の 『白鳥氏日記』 であるが、 この第十一巻には、 天保十四年十二月二十四日の記事として、
寺社奉行所より熊野神社の御獅子頭取調べ方に対し、 熊野神社には、 御 獅 子 頭 一 頭 寛 文 巳 年 二 月 廿 六 日
羽 州 秋 田 住 人
大 塚 理 兵 衞 正 吉 作
御 願 主 志 州 松 前 公 広 様
御 獅 子 一 頭 王 安 永 二 年 癸 巳 年 十 二 月 三 日
御 願 主 松 前 志 摩 守 様
の二頭の獅子頭の存在していたことを明らかにしている。 特に古い方の一頭は寛文五年 (一六六五) 秋田の大塚理兵衞なる者の彫刻による頭が藩主から奉納されている。
その願主は七世公広とあるが、 九世高広の誤りで、 この時点で獅子頭が奉納されていることは、 このころ各神社祭儀として獅子神楽が定形化して来たのではないかと考えられる。
それから十一年後の延宝二年 (一六七四) 藩主招請による隔年御神楽が、 城中で行われるという画期的な行事が行われた。 奥平家文書中の 『松前御目附所 年中行事』
(北海道大学附属図書館蔵) によれば、 この城中神楽は、
十一月十三日 三年御神楽ニ付於御鎗之間御門清之裏御門御通り被遊節は御勘定奉行当役御吟味役裏御門江罷出候事。
御祭禮休年之節は十一月十五日於御城内三年楽修行有之候事。
昼四ツ時 (午前十時) 御事相始候事。 御出被遊候節御先番役相勤候。 夫御事中當役壱人弓之間ニ相詰居進退致候。
尤御事相済候処ニ而頭白鳥刑部当役江申達有之、 夫御側頭中迄御帰之御案内申上候事。
御家老下段ニ詰合申候。 尤御屏風ニ而仕切南之一間御奥之方中之一間
殿様北之方一間御役人中相詰候事。
御修行御纒封有之、 夫表御門、 裏御門江七五 し め 三縄張いたし候。
今日十五日忌服掛り之面々出仕無之。 十四日昼四ツ時人不残登城下御臺子之間ニ小楽舞三番修行有之其節当役御勘定奉行御目付御事席江相詰候。
右相済而致御礼候、 猶又人江及挨拶候事。
同十五日朝六ツ時 (午前六時) 人一統相詰而湯漬被下候。 同下御臺子間にハ人江御酒肴被下置候。
右同断ニ付御役人中両書院江罷出恐悦申上候事。
当日御事掛として御徒士壱人、 御足軽壱人被仰付候。
御 城 内 大 事 規 條
白 鳥 刑 部
本 御
次 諸 勧 請
次 四 方 拜
次 御 楽 初
次 四 箇 散 米 舞
次 鶏 名 子 舞
次 容 舞
次 跡 祓
次 大 釜 清 女
次 御 楽
次 御 湯 上
次 御 釜 御 湯 上
次 注 連 脱
次 大 祝 詞
中 休
次御獅子拾弐手之舞
次 千 歳 舞
次 翁 舞
次 三 番
次 七 五 三 祓
次 恵 比 須 加 事
次 湯 倉
次 送
次 騰 拜
右隔年御事延宝二寅年十一月十五日
矩廣院様御代相始て文政九戌年迄二百五十四年に成ル猶又右御事舞数先規は三十三事に有之処文政五午年十一月
改而七事ニ被仰出候。
とあって延宝二年藩主矩広の時、 十一月十五日御城内大神事として神楽が鎗之間で斉行された。 この神事神楽がのち規範となり、 文政五年 (一八二二) 七事に省略されるまで、
一四六年間に亘って継続され、 文政五年七事に省略はされたが、 明治四年の廃藩まで継続されている。 この御城内大神事神楽と一体となるものに御城内獅子祓神楽がある。
前同史料によれば、
正月十二日
例年之通獅子楽ニ付御鎗之間江
御出御家老中御用人中御左之方ニ列御年男、 御勘定方、 吟味役迄御右之方江列、 何れも継上下ニ而相詰候事。
一御楽舞三番相済御帰被遊候。 御出入共大書院御廊下通也。 右相済候而御家老中、
御用人中頭江御挨拶有之事。
但御玄関鏡板外紫御幕張疂弐疂御刀掛ニ、 御火鉢御左右江出候事。
御出之節弓之間御襖北之壱間はつし、 御鎗之間杉戸北弐間、 同壱間はづす。
となって、 正月の城中祓神楽は藩主以下、 家老、 用人も出席して、 熊野神社から迎えた獅子頭をもって城中祓を行う。 この慣例はいつの年代から行われるようになったかは不明であるが、
恐らく御城内大神事に対する正月城中祓の神楽として、 延宝二年より近い年代に制定されたと考えられる。
この正月城内獅子祓い神楽は、 松前家が移封した文化五年 (一八一八) 以降も幕府松前奉行により継続されているが、 この年代に筆記したと思われる 『松前歳時記草稿』
にはこの城中祓神楽が次のように詳記されている。
正月九日
御獅子迎とて (十一日には旧例によりて、庁の玄関にて獅子舞神楽あり) 明の主、 熊野権現の宮に有る処の獅子を迎
ふ。 (此獅子古物にて名人の作といふ) 獅子を請取人等数多打拍子楽にて途中をはやし、 明へ供奉す。
十一日 庁の玄関にて獅子舞楽を奏す。 明主、 八幡主其餘松前里中の人一同相詰る。 礼服して玄関上座
し、 鎮台をはじめ其餘有司下吏等迄一統並居、 獅子舞数曲を奏す。 此時明主 (祭文) 読む。 其文に曰く (空白)
右獅子楽終りて帰途家々の旧例もあり て立寄、 獅子舞をなす。 其謝儀並納等 其家々の定格ありといふ。 祈祷の札を贈 る。 彼の年賀饗応の席なとへは不時に獅 子を舞込、
興を添るもあり、 此日より廿 日まで日々市中在々迄も獅子舞を出す事 恒例なり。
とあって、 幕府の松前奉行も正服にて列座し、 この神楽座に列席していて、 松前家以来の慣例を尊重している。
この松前神楽は各社家で創始されたものが、 松前藩主の崇敬と庇護によって集約され城内神事神楽として位置付けられ、 さらには十世藩主矩広の作といわれる曲も生れたということは、
藩主がこの神楽を通じて、 神への鎮魂と領内安穏、 五穀豊饒を願うと共に、 この神楽信仰に篤い領民を精神的につなぎ止める役割をも果していたと考えられる。
従って、 その伝承は厳密を極めていた。 城内神事神楽の場合は二年に一度であり、 その間各社家は各社で、 一人が二人の神主と楽人によって奏されるため、 各人各様舞様さまがあり、
伝承と異なる形体となることもあり、 城内神事神楽が斉行される際は、 その伝承を正す事にも意が払われていた。 『白鳥氏日記第十三巻』 によれば、
安政元年 (一八五四)
十一月九日 あら町へ両人共相詰家一統揃之上稽古けいこ爲致何れも相心得候ニ付十日十一日右両日休日ニ致し而十 二日ニは舞惣調ニ候積リニ申合右両人はあら町。
同十二日 家中あら町へ相詰舞惣調致候処至極宜敷出来ニ御座候ニ付則家中帰宅致候。
と記されている。 文中のあら町へ両人とあるのは觸頭の両白鳥氏が、 各社家の神楽舞統一をして、 十五日の城中大神事神楽に備えるための温習さらえをしていたことを記している。
このような厳密な修得過程を経て、 社家によって松前神楽は伝承されたが、 中には舞を得意としない社家もあった。 例えば和賀白鳥家の 『八幡録』 によれば、
一享保廿卯年 (一七三五) 白鳥右近江仰付候は諸事之砌舞はね不致候共少茂不苦御氏惣觸頭之事故道を守
り天下國家之御第一ニ可相勤様被仰付候。
と、 八幡社社司の白鳥右京が、 舞が得意でないので、 大神事神楽の際は舞は舞わず、 神事にのみ力を注ぐようにと十一世藩主邦広の命があったことを記録しており、
両觸頭が神楽の指導する地位にあったことは確かである。
延宝二年 (一六七四) 御城内大神事規條として神楽三十三手が定められた後、 新たに考案定型化して加えられた神楽舞も多く、 福田舞、 利生舞、 荒馬舞、
鈴上舞、 幣帛舞、 鬼形舞、 兵法舞、 神遊舞、 山神舞等があり、 さらに後代にいたって八乙女舞、 御稜威おみいつ舞、 太刀振荒馬舞、 太刀振行列も加わってきた。
このような松前神楽の伝承者は強固健全な体力と精神が必要であった。 先ず精神修養では一月十一日以降行われる正月獅子祓神楽の場合、 各神社と氏子との間の交礼や町内払は五日までに終了し、
在方の神主は城下に参集し、 七日は藩主への謁見礼を行って、 一度帰村し、 一月十一日か十二日 (その年によって異なる) の城中祓獅子神楽に合してまた参集する。
これには城下の七社 (八幡・神明・馬方・熊野・羽黒・西館稲荷・浅間の各社)、 在方では、 江良町八幡社佐々木家、 福島神明社笹井家、 知内雷公社大野家、
宮歌八幡社藤枝家、 白符神明社富山家の五家である。 これらの神主によって城中御獅子祓神楽が行われ、 下城後直ちに藩家老、 用人等の自宅に赴いて祓いをし、
十三日から凡そ十日間に亘って城下内の隅々まで祓い、 さらに大沢村にまで巡行する。
折柄時節は大寒のときである。 狩衣に獅子頭を捧げ、 吹き付ける寒風に耐えながらの巡行であるので、 常人には出来る業ではなく、 肉体的にも精神的にも卓越してなければならなかったし、
その苦行の代替で多くの志納金を得、 神主の生活を補完した。 『白鳥氏日記 第十八巻』 によると、 正月町祓の志納金精算では出勤各社一社当り金三両と米十二俵が配分となっている。
これは社家の生活安定のためにも大きな支えとなっていた。
この藩主および藩の神楽崇敬の思想は、 神職一同の伝承尽力によって、 地方神楽の代表的なものにまで発展して行った。しかし、この興隆を陰から支えたのは庶民の力である。住民達は神楽を信仰することによって神への結び付きを強め、
それによって我が家の平安を祈願するという念が強まり、機会ある毎に神楽の上奏を社家に依頼した。『常磐井家文書』、松前神明社の 『白鳥氏日記』、馬形社 『佐々木家日記』
等によって、 神楽の目的別種類を上げると、 次のとおりである。
〇藩との関連を持つ神楽
正月城中獅子祓神楽、 城内大神事神楽 (隔年に一度)、 武運長久神楽、 道中安全神楽、 御日待神楽、 海上安全神楽、 鯡神楽、 御代参神楽、 異国船退散神楽、
疫神祓神楽。
〇神社関係神楽
例大祭 (宵宮、 本祭) 神楽、 開官神楽、 遷宮神楽、 名越神楽。
〇漁業・農業との係わり合いをもつ神楽
鯡場神楽、 浜清女神楽、 場所行神楽、 場所神楽、 川清女神楽、 鮭場豊漁神楽、 鰯場神楽、 虫送神楽、 場所寄付氷
退散神楽。
〇交通と係わりのある神楽
手船新造神楽、 手船乘出神楽、 道中安全神楽、 海上安全神楽、 龍神神楽、 御日待神楽。
〇変災・病疫等と係わりのある神楽
火災消滅神楽、 疱瘡安全神楽、 疫神祓神楽、 水無月神楽、 御安産神楽、 嵐祭神楽。
これらの神楽を斉行して貰う場合は謝儀、 志納金として、 最低五〇〇文から一両位で、 それを出勤した社家、 楽人に配分した。 徳川中期では金一両が銭六貫五百文
(六、 五〇〇文) であったから、 一座修行にはこのほか供物等を備えなければならなかったので、 これを依頼する人は相当の篤信家でなければ出来なかった。
また場所請負人依頼の場所神楽は三両三分であった。
松前神明社の場合は、 神主のほかに門治、 保五郎等もおり、 必要な場合助勤を求めることが出来たが、 在社の場合、 例大祭のような場合のみ助勤を仰ぐということであった。
福島の場合は、 宮歌八幡社藤枝家、 白符神明社富山家、 知内雷公社の大野家に助勤を求め、 特別の場合祭主として松前神明社の白鳥家を迎える事もあった。 福島神明社の笹井家の場合、
松前神楽を奏上するのは、 神主が一人であるため、 舞曲を演ずることが少なかったので、 鎮竃祈祷による湯立神楽が多く、 笹井家 『慶応元年日記』 にも、
同年九月二十七日
御湯立神楽勤行、 笛ハ三国屋常太郎。
拙者一人ニ而。
とあるように、 湯立神楽が多かったことと、 一人では神楽が出来ないので笛は、 福島村の住民である三国屋常太郎が吹いていたと記しており、 各村社でもおのおのこのような楽人を養成していたものと思われる。
松前神楽の名称がいつから用いられたかは分からない。 古文書を通覧しても松前 ○ ○ 神楽の名称は付いておらず、 前述したように目的名を付した神楽名である。
例えば城中獅子祓神楽、 城内大神事神楽、 鯡神楽等であって、 松前の名は付いていない。 この神楽が対外 (領外) に向けられた呼び名として、 松前 ○ ○ の名が付されたものであろう。
その名が最初に呼ばれたのは、 文化二年 (一八〇五) 松前に渡航した幕府御目附遠山金四郎景普かげくにが、 翌三年 (一八〇六) 正月松前神楽について、
家老志鎌万輔まんすけを通じて下問した答い書 『文化三年佐々木一貫 (松前西館稲荷社神主) 記 松前神楽答書』 にその名称が、 初出していて、 松前神楽として定着するのは、
明治期以降のことである。
第五節 松前神楽と社家笹井家
福島町の福島大神宮 (福島神明社) の神主は、 現在の常磐井氏の遠祖代々が継承してきた。 福島村にその祖が定着したのは天正元年 (一五七三) といわれる。
この初祖、 二祖は常盤井姓を名乗り館古山に居住した。 三代を継ぐべき相衡つねひらが、 松前長門利広に同心して、 元和四年 (一六一八) 本州に逃げ 「松前家ノ亡ほろぼス処トナレリ」
(常磐井家福島沿革史) として常盤井家は断絶した。
二代武治の二男道治みちはるが一家を創立し、 笹井姓を名乗った。 しかし、 同家に伝えられる京都神祇官発行の神道裁許状では佐々井を姓としている。 この笹井姓に移行する過程は、
利尻山神社常磐井家の系譜に詳しく、
…略…寛永十六年己丑九月二十一日村中心を同じゆうする者協力して、 神明社再建し、 此処に始めて神職となる。
同二十年九月十六日初雪の頃、 今の居宅を、 大笹原を開墾して、 笹葺の家を造り、 館古山より引移る、 住居の地内より笹を掻かき分けて、 山の清溜を汲む。
村人誰人誰言ふとなく、 笹屋、 笹家と称ふ。 遠祖より代々常磐井と号(盤の誇り) すれども、 笹は四季色香不変にして、 萬代不窮の常盤ものなるを以って、
常磐も笹も同意なるに困り、 常磐井の井を取りて、 笹井と改む。
と、 笹井姓移行の過程を述べている。 この笹井今宮藤原道治が笹井家中興元祖で神職となって一〇三歳で、 享保四年 (一七一九) 没するまで福島神明社の興隆と笹井家の家門隆昌に尽力したといわれる。
正徳四年 (一七一四) 八月九十八歳の時松前神明社白鳥若宮伜多宮と共に上洛、 神道神祇官吉田卜部家より神主裁許状と継目相続を許され、 任官名今宮と称したと言われる。
しかし交通事情の整備されていないこの時代、 九十八歳の老人が蝦夷地からの上洛は考えられないが、 同家所蔵 『職初代継目任官上京旧記』 には、
正徳四甲午年八月廿八日松前明之司白鳥若宮太夫藤原光武上京、 嶋村明之仕司笹井今宮藤原道治数年来伊勢講結して老體生死を不圧、 伊勢参宮ニ罷登り、 十一月廿三日京吉田殿江同道ニ罷出。
…略… (明治十四年十月旧記改写、 笹井武麗あきら)
と記されている。 しかし、 この頃は今宮の息子治部武次が職を行っていたと思われ、 和賀白鳥家 (松前八幡司) の 『天明八年御記』 では、 この今宮上洛の二年前の、
一正徳二辰年正月八日今朝國中惣頭役永々被仰付候。 人例年之通り御相勤候。 隼人官職仕壱人立先へ、 夫 對馬、 多宮一所ニ其後段々相勤候。 上ノ國伊織、
宮ノ歌見嶋、 福島村宮松○○○○○も来候。
とあり、 この宮松が父に代って今宮名をもって上洛したことも考えられる。 さらに同史料には、
一正徳四年午八月廿五日嶋村称宜宗宮○○○○○○○願望御届候ニ付、 参宮ニ罷登り之由。 依之通判判願上候。 壱人登り候よし、 隼人申上候。 廿七日ニ願之通被下之候。
と記され、 同家に残る通り判には、
通 状 写
此 人 上 方 江 相 越 候 徃 還
無 滞 可 願 御 通 者 也
正 徳 四 午 年 八 月 廿 七 日
蠣 崎 主 殿
下 國 勘解由
所 々 人 改
御 番 衆 中
となっているが、 この記録は肝心の使用する人の名が記されておらず、 後代の作である事が分かる。
今宮道治の神主時代の慶安二年 (一六四九) に、 それまで折掛 (草屋程度) だった神明社を村中の協力によって、 新
社を再建し、 松前神明社より、 藩主の命によって小鏡を勧請し、 さらに川濯かわそ神社も月崎明神社から移築する等、 社地整備に大いに尽力している。 この今宮の後半の年代は四代治部武次
(幼名宮松と考えられる) が実質的には神主として活躍し、 享保十九年 (一七三四) 六十九歳で没している。
現在常磐井家には多くの神道裁許状が残されているが、 これは文化四年 (一八〇七) の火災では焼失を免れていたと考えられるが、 この状の最古のものは五代治部正武種の延享四年
(一七四七) の吉田卜部家発給のものであるが、 武種は安永三年 (一七七四) 七十四歳で没している。 六代は日向正武 (初名雅楽うた) のち武重で、 弟武爲は宝暦八年
(一七五八) 六歳で宮歌八幡社神主藤枝爲次の養子となっており、 その後、 七代筑江の子丹弥も武爲の養子になるなど、 常磐井家と藤枝家は親類としての交流があり、
神楽についても両者の深いきずながある。 武重は寛政九年 (一七九七) 六十三歳で没している。 七代筑江武雄は天明二年 (一七八二) 二十四歳で若死したが、
笛が巧みであったと言われる。 八代肥後正武彦は武雄の長男で、 初名佐浪、 治部正と称し、 人格高潔で笹井家中興先祖と言われ、 天保六年 (一八三五) 五十五歳で没しているが、
この肥後正の神主時代の文化四年 (一八〇七) 正月元日神明社本殿から出火、 建物および社宝の総てを全焼し、 同年再建、 現在同社神宝として残される猿田彦面、
獅子頭、 金幣等はこの際の再製である。
九代雅楽 う た 武昌は別家笹井庄右衞門の二男で、 文政五年 (一八二二) 継目相続し、 初名和泉、 典膳、 のち治部正となり、 天保十年 (一八三九)
四十三歳で没している。 十代肥後武義は天保十五年 (一八四四) 継目相続し、 嘉永三年 (一八五〇) 三十三歳没、 十一代市之進武良は継目相続をせず、
社職を勤め十歳で安政三年 (一八五六) 没した。
幕末から明治にかけ活躍したのは笹井参河みかわ武麗である。 武麗は原田治五右衞門の二男安太郎で、 安政四年市之進死亡後の笹井家の娘ひもに入婿むこ、 十六歳で家督した。
このことは 『白鳥氏日記 第十四巻』 に詳しく記されている。
安政四年
一十一月廿六日嶋村村役人并笹井親類惣代として九兵衞氏子惣代として惣次郎右両人相見得九兵衞申ニは早速 なから申上候餘り延日ニ相成候得共當夏中申上候笹井家聟養子之義村中漸相談決着ニ相成同村治五右衞門二男安 太郎貰請候ニ付此段御届ニ罷出候と申事ニ付拙者申ニは夫は目出度事ニ候當方ニ而も安心致候と申入候九兵衞申 ニは何れ御當家様へ追々安太郎義願上候拙者申ニは其義ハ村方へ差置候而も職分難覚何れ村中相談之上可然と申 聞候九兵衞申ニは在方掛りへ爲知不申候而も宜敷哉問合ニ付其義ハ爲含置候而可然猶又願書御聞届ケニ相成候ハヽ
安太郎義ハ拙者方へ届ケニ可差出候明日願書差出候間御聞届迄逗留致候様申聞候其節村方中そい弐掛九兵衞 壱掛持参被致候
一同廿七日笹井故市之進姉すも方へ聟養子貰請候ニ付村中相談相究御役所江書面差出其文面
乍恐以書附奉願上候
私配下嶋村人笹井故市之進姉すも方へ同村治五右衞門忰二男安太郎儀双方熟談之上聟養子ニ貰請申度奉存 候間何卒御聞済被仰付被下置度此段奉願上候以上
巳十一月廿七日
白 鳥 對 馬 印
寺
御 奉 行 所
右は拙者持参下代冨永与三兵衞ニ頼置候
一十二月四日御用使有之司差出候処嶋村笹井故市之進姉方へ聟養子之願書御聞届ニ相成候趣下代櫻庭嘉右衞門達 ニ御座候其節拙者采女方へ事罷越留主中ニ而在方掛り代ニ参り居候九兵衞方へ達有之候儀九兵衞拙者方へ相 見 得申置候得共帰宅不致候故翌五日ニ又候相見得其節申渡遣候
一同十八日嶋村先例之通松内之者來り候昨年迄参り候者ハ當年かわり改而村方被申付候様申事ニ候尤小松 十向不足ニ付其段申遣候黒米八舛塩引弐本差遣候
一同十五日嶋村人笹井安太郎相續方之義御聞届ニ相成候ニ付両頭へ肩衣ニ而村役之者三人付添相見得其節鱈 弐掛持参被致 (順序原本のママ)
一十二月廿三日嶋村人笹井安太郎村方願書ニ付見習ニ來尤村方一統九兵衞親類庄五郎六次郎代ニ而相見 得申候其節樽肴持参四百疋拙者弐百疋家内へ司夫婦へ百疋ツヽ亀三郎夫婦茂吉夫々心付有之候盃差出帰り儀弐 朱差上候
安政四年安太郎は神主見習として松前神明社白鳥對馬つしまおよび司つかさについて修行、 文久二年 (一八六二) 八月、 五年間の神主基礎の修行を終え、 福島へ帰社したが、
白鳥司からの申し渡しは同史料によると次のとおりである。
申 渡 之 事
一天下太平國家安全五穀成就上は大御君を始め万民至迄彌安穏殊ニは其村安全として朝ニ無怠日奏可相勤事
一其村ニおゐて時々之御事平日御至迄相勤候節ハ兼而相教置候通り職之作法相守り修行可致事
一正月七日御禮式の節は無間欠前日出登いたし七日御規式御盃頂戴隔 (ママ) 式之順席相改メ御可申上様可致事
一正月御獅子御事并霜月御城内隔年之御事の砌は其筋出登可致旨之書状相達候ハヽ時刻無間欠出登いたし當 方ニ而彼是不申更様猶順序改メ相勤可申事
一七并弁天両様ニ不限御祭の砌は其筋呼出しの書状相達次第態人を以拙者へ其旨可申遣右ニよらす万端下知 を請候様可相心得事
一両殿様御儀御参府并御入國の砌は御見送御出迎共拙者呼出しの書状相達不申候共御順風ニ付而其村役人出登之 砌同道いたし御入城又ハ御出帆之砌恐悦可申上事
一暑寒之砌入日前日に出登致居當日ニは拙者共同道ニ而寺御奉行所江罷出御伺可申上候事
一五節句三朔日式日ニは其村鎮守御相済候上當本式日之拜并恐悦として出登いたし候様可相心得事
一其村始持場之村鎮守新規御建之小至迄本拜殿并鳥居祠繕ひ建替之節は出登之上拙者江相届手を入可申左 も無之一己之了簡ニ而取計候砌は譬ひ出來共取解しの上急度慎ミ申付候間左様相心得可申事
一御事用向并御用向有之候節は拙者呼出し之書状差出候間右日限無間欠出登可致様相心得可申事
右之條々申渡候間急度相守心得違ひ無之様相勤可申候若病氣ニ而彌出登相成兼候ハヽ其段態人を以早速當方江 可申遣遠方之事故万一虚病ニ而及不参後ニ而相知れ候節は其村役人同道ニ而呼出急度叱之上慎ミ申付候条僞無 之様相勤可申事
文久二壬戌年閏八月八日
本 大 主
昭 武
笹 井 森 美 江
右之通相認メ差遣し其節村役惣代として百姓代七郎兵衞忰親類惣代勇吉右の仁共拙者申渡趣承り罷帰り被申 候以上
この申渡状から見ても当時の神主子弟の関係が、 いかに厳格なものであったかが分かるし、 この武麗が、 幼主の続いた笹井家保持の断絶しかかった神楽を、 松前神明社修業の五年間に総てを学び取り、
これを子孫に伝える役割を果たしている。 慶応三年 (一八六七) には上洛、 吉田卜部家より継目許状を得て参河正みかわのしょうに任じている。
武麗は笹井家の保持して来た古文書類が、 神主裁許状以外の総てが、 文化四年 (一八〇七) の福島神明社の火災で消失していて、 その沿革、 伝承等の滅失を恐れ、
福島の旧家であり、 名主でもあった戸門治兵衞家 (土門)、 原田治五右衞門家、 笹井庄右衞門家等から史料を収集して、 多くの常盤井家、 笹井家史料を作製している。
従ってこれらの史料は幕末に編集されたもので、 信憑性しんぴょうせいに欠けるものもある。
武麗は箱館戦争の際、 神官をもって組織した図功隊士としても活躍し、 さらに神明社と神楽をもって村民とのつながりを強める等、 神楽の伝承に大いに貢献し、
明治十七年四十一歳で没した。
武麗には三人の男子があり、 長男は武胤 (慶應元年生れ)、 二男は秀太 (明治四年生れ)、 三男は榮太 (明治六年生れ) で、 後それぞれ神職となったが、
武胤は笹井姓を常磐井姓に改めるべく、 明治二十六年五月松前郡役所に願い出て許可され、 現姓に改めた。 これは遠祖の姓常盤○井姓を復古しようと改めたものであるが、
その際盤は岩の浅い上面を指すので、 それより深く根強い磐に改め、 常磐○井姓となったといわれる。
その後武胤は明治四十四年利尻郡沓形村北見富士神社社掌となって福島大神宮を離れ、 同社 (福島神明) は弟秀太が社掌となって現在の常磐井家となっている。
さらにその弟榮太は福山町に移り、 熊野神社の社掌となったが嗣子がなく、 死絶している。
なお、 神職としての笹井 (佐々井) 家、 および常磐井家の系譜は次のとおりである。
常盤井家、 笹井 (佐々井) 家、 常磐井家系譜
初 代 二 代
常 盤 井 治 部 大 輔 藤 原 武 衡ひら 常 磐 井 治 部 藤 原 武 治
相つね 衡
三 代 ( 笹 井 家 初 代 ) 四 代 ( 笹 井 家 二 代 ) 五 代 ( 笹 井 家 三 代 )
笹 井 今 宮 藤 原 道 治 治 部 藤 原 武 次 治 部 正 武 種
寛永十六年主、 正徳四年継目 享保三年継目 木之進延享四年継目
享保四年百三歳去 享保十九年六十九歳去 安永三年七十四歳去
六 代 ( 笹 井 家 四 代 ) 七 代 ( 笹 井 家 五 代 ) 八 代 ( 笹 井 家 六 代 )
日 向 正 武 ( 武 重 ) 筑 江 武 雄 肥 後 正 武 彦
安永七年継目、 雅楽 天明二年二十四歳去 佐浪、 治部正、 享和二年継目
寛政九年六十三歳去 天保三年五十五歳去
宮歌八幡
駿 河 正 武 爲 丹弥 (宮歌八幡)
滝之進、 藤枝式部武次養子 藤枝駿河正継目、 式部正
文化十年六十一歳去 文化元年二十三歳去
九 代 ( 笹 井 家 七 代 ) 十 代 ( 笹 井 家 八 代 ) 十 一 代 ( 笹 井 家 九 代 )
雅 楽 武 昌 肥 後 武 義 市 之 進 武 良
笹井庄右衞門二男文政五年継目 嘉永三年三十三歳去 職勤め安政三年十歳卒
和泉、 典膳、 治部正
天保十年四十三歳去
十 二 代 ( 笹 井 家 十 代 ) 十 三 代 ( 常 磐 井 と改 姓 )
三 河 武 麗あきら 武 胤 武 知 武 秀
原田治五右衞門二男 利尻山司 慶応三年養子十六歳
秀 太 武 季 武 宮
明治十七年四十一歳去 島大神宮司
榮 太 … ( 死 絶 )
松前熊野社司
笹井家と神楽の関係は、 前第四節で述べた如く、 常磐井家 『福島沿革史』 によれば、
寛文二年 (一六六二)
三月六日ヨリ廿日マテ日月紅ノ如シ國中闇夜朝夕燈火ヲ点スルニ至リヌ。 此ニ於テ村民一同相謀リ明ニ参籠シ、祠官常磐井今宮ニ願出、 御楽修行。 爾後正・五・九月祭月定メ永代之ヲ勤ムルコトニセリ、
天下太平当所安全ノ爲ナリ。
とあって、 この年初めて福島村に於て神楽が行われたとしていて、 これが松前神楽の創始だと常磐井家では伝承している。 しかし、 これについては異論もある。
この神楽より三十七年前の寛永二年 (一六二五) 松前八幡社移築の際、 御宝殿、 拝殿と共に神楽屋も新築されている。 ここで行われた神楽も現在の松前神楽に通ずるものであるか否かは不明である。
その後、 寛文巳年 (五) に松前藩主が羽州秋田の住人大塚理兵衞正吉作の御獅子頭一頭を松前熊野神社に寄進している。 これは松前神楽のうちの獅子神楽が体形化されて来たことを示している。
また、 この熊野神社の獅子頭が藩主の寄進になるところから領内第一の獅子頭とし、 正月十一日または十二日に行われる城中正月獅子祓神楽の場合、 熊野神社から前日八幡社か神明社に迎え仮座し、
翌朝この獅子頭を捧げて城中に向かうことを慣例とした。
福島村においても明和元年 (一七六四) 御獅子が初めて造立されたことが 『戸門治兵衞旧事記』 に記されている。 「明和元年御獅子初而造営願主島村司笹井治部正藤原武種代當明江御鎮座仕候」
とある。 この獅子頭は松前城下を離れた東在の礼髭村、 吉岡村、 宮歌村、 白符村、 福島村、 知内村の六か村では第一の獅子頭として城下に習い、 各村神社の例大祭には、
福島神明社から獅子頭を迎えて斉行するのが慣例となっていた。 この獅子頭は寛政九年 (一七九七) にも再造されている。
延宝二年 (一六七四) 城中大神事神楽が制定されて松前神楽祭儀形式が定まったが、 その際の演技者は誰か明確な史料はない。 しかし、 後代の記録からは次の諸社家が参加していたと考えられる。
松 前 八 幡 神 白 鳥 家
神 明 白 鳥 家
馬ま 形がと 神 佐々木 家
熊 野 神 木 村 家
羽 黒 神 藤 枝 家
浅 間 神 木 村 家
西 館 稲 荷 神 佐々木 家
江 良 町 八 幡 神 佐々木 家
福 島 村 神 明 笹 井 家
白 符 村 神 明 富 山 家
宮 歌 村 八 幡 神 藤 枝 家
知 内 村 雷 公 大 野 家
で、 これらの諸家が伝統的な松前神楽の伝承者であった。
この神楽の伝承については、 松前藩領内で神職となるには前段で述べた如く、 その子第が三~五年は觸頭の両白鳥家か準觸頭の佐々木家かの何れかで修業することが義務付けられており、
その必修すべきものの中に神楽があり、 ここで定形化された神楽の研修が行われていた。 また、 城内大神事神楽の際は、 この三日程前に出演する社家一同は、
松前八幡社と神明史社が交互に参集して温習をし、 舞手の揃った段階で登城をしていた。
このような厳格な伝承過程のなかで、 松前城下に限らず、 和人地領内では不遍的に神楽が行われて来たが、 地域的にはグル-プ形成も行われていた。 松前城下では前記七社と江良町佐々木家。
東在は笹井家と宮歌八幡社藤枝家、 白符神明社の富山家、 知内雷公社大野家が一グル-プを形成して、 笹井家と藤枝家は親類で特に密接なる関係を保持していた。
西部では江差姥神社の藤枝家、 上ノ国八幡社の小瀧家、 乙部神社の工藤家のグル-プ。 さらに箱館地区では亀田の藤山家を中心に、 箱館の菊地家、 尻沢部の沢辺家、
湯川の中川家、 有川の種田家、 戸切地永井家、 茂辺地池田家が一グル-プを形成していて地域毎にも研鑚を重ねている。
福島町内で具体的にどのような神楽が行われたかについての詳細な記録はない。 常磐井文書中に次のような文政十一年 (一八二八) の神楽式の記録がある。
宮 遷 次 第
先 躰 鎮 座 次 御 開
次 酒 渡 次 奉 幣
次 御 次 小 楽
次 惣 拜 家 中
退 下
御 楽 式 次 第
先 拜 家 中 次 四 方 拜 同
次 御 楽 初 富 山 丹 波 次 四 劒 舞
次 鳥 名 子 舞 藤 枝 蔵 人 次 容 丹 波
和 泉 和 泉
次 跡 払 笹 井 治之進 次 釜 清 女 富 山 丹 波
和 泉
次 御 楽 笹 井 治 部 次 利 生 舞 富 山 丹 波
和 泉
次 御 湯 上 笹 井 治 部 次 太 詞
中 休
先 御 獅 子 和 泉 次 山 祇 富 山 丹 波
次 千 載 次 翁
次 三 番 藤 枝 蔵 人 次 番 学
次 天 王 遊 次 七 五 三 払 和 泉
次 上 惣 家 中
都 而 二 十 一 事
文政十一戌子年秋九月十日
祭主主 笹井治部正代
千 鶴 萬 亀
これは福島神明社が文化四年正月火災に焼失し、 同年秋再建されたが、 さらにこの年の再々築した際の御安産神楽で、 祭主は笹井家八代神主武彦で、 笹井和泉とあるのは、
のちの九代神主雅楽武昌と思われ、 治之進とあるのは、 のちの十代神主肥後武義と考えられ、 それに宮歌村藤枝蔵人と白符村富山丹波の五人で斉行しているが、
笹井家は親、 子、 孫と父子相伝の形でこの神楽に参加していることは注目されるし、 さらに藤枝家 (親族)、 富山家が加わっているのは、 福島グル-プの典型的なものである。
また、 十二代三河正武麗たけあきらが、 青年 (当時安太郎) で松前神明社修行中福島村神明社で行われた神楽について、 『白鳥氏日記 第十五巻』 では、
安政六年 (一八五九)
一九月十八日島村迎馬参り出立仕候。 出勤頼ミ候主ハ白鳥主殿殿 (八幡)、 佐々木正親殿 (馬形) ニ御 座候。 拙者 (白鳥司)、 安太郎ニ而罷越申候。
白符村刑部 (富山) 一人出勤、 拙者分ハ親服中ニて祭主白鳥 主殿殿ニ相頼、 都合四人ニ而御楽修行済ニ相成候。 同日中ニ御幣束いたし十九日之御神楽ニ御座候。
定例正、 五、 九之御楽ニ壹集ニいたし川濯明、 稲荷大明之御遷座御楽仕、 舞学も有之数左之通、 容、 鶏名子舞、 跡拂、 御獅子、 七五三拂らひニ御座候。
無滞相済候。 御事跡ニ而御馳走有之、 翌廿日帰宅ニ相成候。 御初穂 金弐百疋ツヽ (銭一貫) 主殿、 正親、 拙者也。 刑部儀ハ壹朱也是ハ御遷座御初穂也。
外ニ定例正、 五、 九月之 御初尾 (穂) ニ指出し候由承りし、 猶又御鎮座、 御動座御初穂修行仁へ弐百文ツヽ指出。
とある。 この川濯神社、 稲荷神社の再建御遷座を安太郎修行中であるので松前神明社に祭主を願い出たが、 白鳥司が親の喪服中なので松前八幡社に祭主を願い出たものである。
この際、 親族の宮歌八幡社の藤枝駿河は出席していないが、 それは駿河に不届な事があって觸頭から出入差留となっていたからである。
笹井家は代々松前神楽の名手といわれるが、 三代 (笹井家初代) 今宮道治みちはるは寛文二年 (一六六二) 初めて神楽を行い、 百三歳の高齢で没したといい、
四代治部武次、 五代治部武種、 六代日向武重共に高齢で没しているので、 同家の伝承する神楽は確実に伝えられて来たことが考えられる。 七代筑江は安永五年
(一七七六) 十一月十四日、 十五日の城内神事大神楽の際に、 笛を吹割り、 藩主十三世道広公より笛の名人との御賞言を賜わったというが、 惜しいかな二十四歳で若死している。
八代治部武彦も笛の名手として知られ、 天保二年 (一八三一) の松前七社大祭礼の際の門祓かどばらいの笛を吹き、 その孫治之進は鉄拍子 (茶釜) で参加している。
九代治部武昌 (雅楽・和泉・典膳) は継目まで圓吉の名で、 松前神楽の奏者としてしばしばその名があり、 十代肥後武義は幼少から治之進の名で、 神楽奏者、
演者として活躍したが三十三歳で没し、 その子十一代市之進も十歳で没し、 一時笹井家は断絶に頻したが、 十二代参河武麗たけあきら (原田治五右衞門二男安太郎)
が、 市之進姉のすもとの婿養子となって十六歳で家督、 五年間の松前神明社での修業で、 神楽の基礎を学び、 慶応三年 (一八六七) に京都吉田家より神主裁許状を得、
明治十七年四十一歳で没するまで松前神楽の伝承と、 普及に尽力をした人で、 その子武胤、 秀太、 栄太はそれぞれ、 明治から大正、 昭和初期にかけて松前神楽の名手として名を馳せた人達である。
松前藩領内の神楽に対しての崇敬は、 他藩では見られない異常な程で、 藩主自体が作曲したものがあると言われ、 それを支える住民の熱意も篤いものがあった。
住民の神楽奏上を願った種類等は、 前段で述べたが、 福島村内の正月御獅子門祓には、 巡行先で年祝い、 新宅祝いのある家は、 皆々御獅子様の 「お上り」
を戴いて祓い清め、 また、 鯡にしん漁業に従事する人達は、 正月の鯡神楽をはじめ、 二月の浜清女神楽、 九月には豊漁神楽を行って神に感謝し、 鎮魂をするのが慣例となっており、
これら神楽斉行願いの志納金は、 神主の生活を補完するものでもあった。
また、 例祭の場合、 福島町の町民は神楽を見聞して佳境に入ると 「ようそろ」 の掛け声を掛ける。 松前町などでは今はこの声を発しないが、 これは、 藩政時代音曲と演技が一体化し見事な出来栄ばえの場合、
観客が発する 「良くて候」 の賞め言葉の遺形である。 松前神楽を正しく上演し、 さらに氏子がその演技に酔い痴れ、 この声を発するのは、 庶民の神楽に対する思慕であり、
それを造り上げて来た笹井家、 常磐井家は高く評価されるべきものである。
松前神楽に用いた用具には獅子頭、 猿田彦面、 鳥兜等がある。 その代表とされる獅子頭は福島村神明社では、 神楽の創造期には獅子頭の製作、 安座があったと思われるが詳しい史料はない。
ただ、 寛延元年 (一七四九) の礼髭村八幡社御遷宮の際、 福島神明社の獅子頭をお迎えした記録があり、 この期には獅子頭が献備されていた。 その後寛政九年
(一七九七) 社司笹井佐波の代にも再造された。 しかし、 この獅子頭は文化四年正月朔朝五ツ半頃 (午前九時頃) の火災で焼失したが、 『戸門治兵衞旧事記』
には、
明宮御拜殿中未明ニ参詣相済候跡焼失、 御鏡、 御獅子、 金幣、 鰐口、 大太鼓、 御幕焼失、
笹井肥後正差控となる。
と記されていて、 本殿及び器物、 文書類の一切を焼失した。
その後、 同年中神明社再建が行われたが、 御獅子頭も再彫されることになった。 『新日記』 では、
一、 同年三月九日御獅子知内山サカサ川材木出来。 長サ一尺五寸、 幅一尺弐寸、 あつさ八寸。
長サ一尺五寸、 幅一尺弐寸、 あつさ四寸、 右二枚は栃之木也
山 子 松 右 衞 門
長 作
金 重 郎
六 助
と御番坂 (碁盤坂=今の字千軒) 居住の山子四人が、 栃とちの大木を割って獅子頭用の材木を献上したので、 この材をもって松前城下蔵町居住の彫物師清兵衞に細工代二両三分と、
御祝儀二分、 御樽肴代銭一〆六百文で依頼、 御幕は七反此代金は六〆三百文で、 九月初旬に完成した。 この御獅子様の造立には、 この神明社の御獅子を毎年お迎えする各村も協力し、
白符村名主五右衞門より金二分、 宮歌村名主長右衞門より金二分、 吉岡村名主八兵衞より金二分、 礼髭村名主由兵衞より銭一〆文の寄進あった。
文化四年九月十二日町中御幸を相済ませ、 さらに各村でも御開眼御神楽を行っているが、 同記録によると、
御獅子御開眼御神楽入用覚
一拾四〆百六十六文之義ハ右四ケ所ニ而御割合ニ御座候。 當村ハ五〆百六十文。
一三 貫 文 礼 髭 村 中 名 主 由 兵 衞 代
一同 三 貫 文 宮 ノ 歌 村 中 名 主 長 右 衞 門 代
一同 三 貫 文 白 符 村 中 名 主 五 右 衞 門 代
一金 壱 両 三 歩 (分) 吉 岡 村 中 名 主 八 兵 衞 代
一五 貫 弐 百 文 當 村 中
名 主 達 右 衞 門 代
組 頭 勘 右 衞 門 代
御 獅 子 様 寄 進 連 中
當 村
花 田 六 右 衞 門
川 村 太 郎 兵 衞
花 田 清 七
花 田 善 七
西 村 子 之 助
市 太 郎
花 田 兵 七
福 原 巳 之 助
となっており、 この御獅子頭造立に合わせ、 猿田彦面、 大鈴金幣、 大太鼓、 附太鼓等も調製され、 この御獅子頭が現在福島大神宮に社宝として、 秘蔵されている。
松前神楽が、 どのような神楽で、 どのような過程を経て、 蝦夷地に流入定着し、 生成発展したかについては不明である。 しかし、 演技形式と音響、 演技序列あるいは諸史料によって見ると、
この形式は湯立神楽と舞学神楽とに二分することが出来る。 湯立神事神楽は古来より我が国で行われてきた 「盟神探湯くがだち」 の変形化したものである。 この盟神探湯は
「古代の裁判法の一つ。 正邪を決しにくい場合、 関係者に熱湯の中の石をひろわせ、 手のただれた者を偽りありと判定する。 室町時代に、 湯起請として復活した。」
(『日本史用語辞典』 柏書房) とあるが、 近世に入っては神前で祓い清めた湯で吉凶を占い、 この湯で悪を祓うという方法が採られ、 これを神楽前段の神事に取り入れられていて、
松前神楽が神事神楽と言われる所以ゆえんもここにある。
また、 舞学について故常磐井武季氏の説 (『正統松前神楽発刊に当りて』) では、
松前神楽の基本は下座神楽とは異なり、 神社祭式を織り込み、 鎮釜湯立式の正神楽を基として編成され、
山伏神楽 の脈も一部入り、 京都の舞学が重要な要素となっている事は、 楽曲の王座を占める雅楽用の龍笛を用いており、
… 略…庭散米の鳥兜は雅楽用の採物で、 京都吉田神道によって統一された祭式方法が神楽の作法、
手振りに含まれ、 それ等が基調となって本道の特色ある神事となり、 楽曲も亦本道独自ものに発達したものである。
と述べている。 これらを参酌すると松前神楽は、 岩戸神楽や伊勢神楽、 吉田神道を中心とした京神楽、 さらには東北地方の番楽といわれる山伏神楽。 これに加え蝦夷地で創作された神楽等が渾然一体となっている。
さらにこの舞は、 神前の方六尺の板の上で、 太鼓、 小太鼓、 鉄拍子 (手拍子-茶釜)、 七穴の龍笛の一穴を詰めた笛、 それに神楽歌の伴奏によって演技され、
目、 手、 腰、 足先の総てが、 伴奏に合致することが要求され、 これらが松前神楽の特色でもある。
現在、 道南地方に保存伝承されている舞楽は次のとおりである。
〇祝詞のりと舞
幣帛みてぐら舞、 榊さかき舞ともいう。 斉主が狩衣、 烏帽子えぼうし姿で、 青木、 白木綿、 麻糸を付けた 「清道幣」 を持って舞う。
〇跡祓舞あとばらい
福田ふくでん舞ともいい、 狩衣、 烏帽子で、 斉竹に青木、 御幣、 麻糸を付けた御幣を両手に持って舞う。
〇庭散米にはざこ舞
二羽散米舞、 鳥名子舞とも書く。 狩衣姿で二人で舞う。 雄は羽根に瑞雲 (天)、 雌は羽根に海波を描いた鳥兜を頭に載せ、
頭と羽根の中間に稲穂の紋を付す。 天地に撒く米を入れる折敷、 五色絹垂付の玉鈴、
舞扇を用いるが、松前神楽を代表する舞楽の一つ。
〇神遊かみあそび舞
天皇遊びともいう。 胸当を被り長烏帽子、 白鉢巻、 白襷たすき、 一人三本、 一人二本の弓矢を負い、
左手に弓、 右手に玉鈴を持つ武神二人の舞。 この舞は松前家十世藩主矩広作と伝えられる。
〇四しヶ散さ米ご舞
三種の舞ともいい、 胸当て (鬼狩衣)、 長烏帽子に白鉢巻、 四人で、 弓、 剣、 刀の三品を持って舞う。
最後には三人で舞納めるが、 これは太平の御世に治まり、 玉鉾の道正しく君臣民の立栄え行くを表現したといわれ、
これも藩主矩広の作といわれ、 主に遷座式に斉行されたという。 福島ではこの音曲、
服装から発想された四ケ散米舞行列があり、 他ではこれを見ることはできない。
〇千歳せんざい舞
この舞は翁舞、 三番叟舞の御箱開きの舞で、 狩衣、 烏帽子に短刀を指し、 面箱および中啓
(扇) をもって、 身体強健、 寿命長久を祝い祈る舞。
〇翁 舞
狩衣、 烏帽子に白の神楽面を付け、 中啓を持って舞う。 翁は 「とうとうたらりやらととふ」、
「千秋萬歳の」 の掛声を掛けながら、 息災延命、 立身出世を願って舞う最もめでたい舞である。
〇三番叟さんばそう舞
黒面を被り、 左手に扇、 右手に十二鈴を持ち、 背低く、 色は黒いが、 なお矍鑠かくしゃくとした健康長寿を示す舞で身体の 構え、 手のさばき、
足のさばきが奏楽の 「ハンヨイ」 の掛声と揃うのが見せ場という。
〇荒馬舞
松前遊しょうぜんあそびともいう。 城中神楽の際藩主の機嫌が悪いので、 馬の好きな藩主を慰めるため、
神主一同が即興的に舞ったといわれ、 鬼狩衣、 白襷、 麻糸の髪しゃがを被り、 跡祓舞の御幣二本を斜めに腰に指し、
扇二本、 五色絹垂(十二鈴)を持って舞う。
〇鈴上舞
狩衣、 烏帽子、 左手に舞扇、 右手に十二鈴を持って舞う。 鈴は神の心を鎮めるといい、
これを上下するので鈴上という。 本来は神官の舞であったが、 最近は女性が舞っている。
〇山神舞
山神楽ともいう。 白衣袴に赤し熊や毛が (髪) を被り榊を付した御幣二本を背腰に交互に指し、
剣を腰に差し舞うが、手指を交差するのは大山祇神、 木花咲耶姫このはなさくやひめ神の二人の男、
女山神を表現し、 山神を祭る舞である。
〇八乙女舞
女性二人が白衣、 緋袴、 千早を着し、 扇を持って舞う。 松前神楽は本来男性の舞で、
この舞は後代にいたって創造されたものと考えられる。
〇鬼形舞
赤熊毛しやが、 鬼狩衣、 白襷で、 背腰に扇一本を差し手拍子 (茶釜) を持ち、 二人で舞い蝦夷の生活を表現しているといわれる。
〇利生りしょう舞
神々に初穂を献じ、 鎮魂を祈るため、 烏帽子、 狩衣、 扇、 玉鈴を持ち、 跡祓の御幣を一本傾に指し、
折敷、 瓶子、 湯笹の順に二人で舞う。
〇兵法舞
一人は狩衣、 烏帽子に白襷をかけ、 狩衣の袖を肩に結び刀を持つ。 一人は鬼狩衣、
白襷、 麻の赤熊毛しやがを被り、長刀なぎなたを持って二人で舞うが、 これは松前家祖武田信広が蝦夷と闘った姿を表現しているといわれる。
〇神容かみいり舞
狩衣、 烏帽子で背腰に跡祓の御幣一本を右に頭を向け傾に指し、 二人で、 扇、 玉
鈴、 米を入れた折敷、 鎮釜の瓶子へいし一対を持って舞う。 扇の手、 折敷の手、 神酒の手
(節湯立) の順に舞う。
〇獅子舞
十二回手が変ることから十二の手獅子舞ともいう。 獅子頭は黒塗低額鹿系統の獅子頭で、
それに十二反の黒地に白の日月を染抜いた幕に、 麻糸の尾を付したものを用いる。
御稜威舞 (獅子の上)、 扇の手、 劒の手、 獅子五方、 糸祓、 柱固め手、 鈴の手、 三方頭、
面足獅子の順に行われるが、 これには獅子取役、 尾取役、 猿田彦役、 角出つのだし役等が必要である。
〇注連祓しめばらい舞
七五三 し め 祓舞とも書く。 狩衣、 烏帽子で襷をかけ、 真刀を腰に指し、 舞いながら殿天井に張られた注連を刀で斬り落としながら舞い、
神事の終りを告げ、 天下太平、 五穀豊饒を祈る。
このほか、 荒神舞、 湯倉舞等もあったようであるが、 現在は伝えられていない。
七五三 し め 祓舞とも書く。 狩衣、 烏帽子で襷をかけ、 真刀を腰に指し、 舞いながら殿天井に張られた注連を刀で斬 りと落としながら舞い、 神事の終りを告げ、
天下太平、 五穀豊饒を祈る。
このほか、 荒神舞、 湯倉舞等もあったようであるが、 現在は伝えられていない。
第六節 円空の巡錫と貞伝
近世の我が国を代表する仏教彫刻家に円空がある。 この円空の作像は近世の蝦夷地の神道および仏教の展開に大きな役割を果たした。
円空は寛永九年 (一六三二) 美濃国 (現在の岐阜県羽島市上中島) に生れた。 若年のころ洪水で母を失い、 その供養のため十八歳で仏門に入り天台宗の僧となり、
伊吹山山内の平等岩で修業をし、 同宗寺門派に属した。 円空は宗祖行基菩薩の行願を慕い、 修験道の優婆塞聖うはそくひじりとして諸国を巡って作像行脚あんぎゃすることを志した。
円空の作像は寛文三年 (一六六三) ころからといわれ、 翌四年には白山神社に参籠さんろう作像し、 同五年には蝦夷地に向って発足したと思われ、 秋田県内にはその際の作製と思われる作像が残されている。
その後津軽地方を経て寛文六年蝦夷地に渡航したと考えられていたが、 最近になってそれを裏付けする史料が発見された。 この史料は市立弘前図書館所蔵の 『津軽藩庁日記 寛文六年正月』
の項に次のように記されている。
正月廿九日
一圓空と申旅僧壱人七町ニ罷在候處ニ、 御國ニ指置申間敷由被仰出候ニ付而、 其段申渡候所今廿六日罷出、 青森へ罷越し、 松前へ参る由。
此の年円空は三十五歳である。 その前年秋田から北上して津軽西沿岸部に作品を残して弘前入りをしたが、 勿論入国鑑札を持たず、 破れ衣に彫刻道具のみを持った行脚僧あんぎゃそうの姿は津軽藩の役人にとっては胡乱うろん
(怪あやしい者) な者としか見られなかったのであろう。 七町という町に滞在していた円空に対し、 正月二十六日退去するよう命じたところ、 これから青森に向い、
そこからさらに松前に渡海することを申し出ている。
したがって松前に渡海したのは、 寛文六年四月か五月である。 松前に入国する場合各藩発行の出切手と、 松前での身元引受人が必要であったが、 このような遊行僧であるのにどうして入国が出来たか不明である。
しかし、 広尾郡広尾町禅林寺に一体の観世音菩薩像が残されており、 その背面には墨書で、 「願主松前蠣崎内蔵くろうど 武田氏源広林ひろしげ敬白 寛文六丙午夏六月吉日」
と記されている。 松前内蔵広林は松前藩主の同族で、 幼年の藩主の続くなかで事実上藩政を切り廻していた筆頭家老である。 この広林が自分の知行地である広尾禅林寺に納める像を、
円空に彫らせているところを見ると、 恐らく何らかの形で広林が円空とかかわり合をもっていたと思われる。 この像は六月に完成しているので、 二、 三か月間は松前に滞在していたと考えられ、
その間に、 松前馬形神社の六尺余 (一・八二メ-トル余) の観音像を刻んだと思われるが、 この像は明治六年の福山枝ケ崎町出火の大火で焼失している。
六月から七月初旬にかけて蝦夷地内の作仏行脚あんぎゃのため、 松前を出発した円空は、 礼髭村観音堂、 吉岡村観音堂の来迎らいごう観世音菩薩像等を刻んだ後、
木古内、 札刈、 泉沢、 茂辺地、 富川、 戸切地、 大中山、 汐首、 砂原、 山越内、 礼文華岩屋等で彫像して、 最終目的地である有珠善光寺に至った。
ここでは善光寺奥の院である洞爺湖観音島 (虻田町) に参籠して観音像を製作したが、 その像の背後には陰刻で、 「うすおくのいん小島 江州伊吹山平等岩像内 寛文六年丙午七月廿八日 始登山 円空 花押」
と記されている。 従って七月末には、 この奥の院で、 菅江真澄の 『蝦夷之手布利えぞのてぶり』 に記されている 「のほりへつゆのこんけん」、 「しりへつのたけこんげん」、
「うちうらたけこんげん」 の三体の像を刻んで善光寺に納めてもらうように頼んで南下し、 その途中寿都海神社の像を八月十一日に完成させ、 八月末には松前に帰着したものと考えられる。
九月には桧山地方の西海岸を北上し上ノ国石崎村、 上ノ国、 江差、 乙部、 熊石村を経て太田岬岩上の岩屋に参籠して、 多くの作品を残した。 菅江真澄の 『えみしのさへき』
では、 太田権現社 (久遠郡大成町字太田) の岩屋に祀られている多くの円空作像を見、 さらに蝦夷地での見聞を体験しようと、 寛政元年 (一七八九) 四月太田に向かって松前を発足した。
この文中で真澄は、
路傍の木の根に刻んだ斧ぼりの仏像に、 衣を着せて手向けしているのもおもしろく尊かった。
太田山のいわくら (神の御座所) もやや近くなったのであろう。 高くそびえたって、 とてものぼることもできないような岩の面に、 二尋ひろ (十二尺)
あまりの鉄の鎖をかけてあり、 これをちからにたぐりのぼると、 窟いわやの空洞にお堂がつくられてあった。 ここに太田権現が鎮座しておられた。 太田ノ命みことをあがめまつるのであろうかと思ったら、
ここは於お多たという浦の名であるが、 なまって太田おおたというのであった。 ヲタは砂というアヰノことばで、 砂崎があったのだろうか。 奥蝦夷の国には砂路沢ヲタルナイというコタン
(村) もあると、 人が言っていた。 斧で刻んだ仏像が、 このお堂内にたいそう多く立っておられたのは、 近江の国の円空という法師がこもって、 修業のあいまに、
いろいろな仏像を造っておさめたからである。 また別の修行者も、 近ごろこの窟にこもって、 はるばると高い深谷をへだてた岩の面に注し連めを引きまわし、 高足駄をはいて山めぐりをしていた。
その足駄がなおのこっている。 小鍋、 木枕、 火打箱などが岩窟の奥においてあるのは、 夜ごもりの人のためであるとか。 神前の鈴をひき、 ぬかずいて拜んでから、
外に出て、 いささか岩の上をつたっていくと、 また岩の空洞があったが、 そのなかにも円空の刻んだ仏像があった。
『えみしのさえき』 (東洋文庫 菅江真澄遊覧記 2) による。
と記している。 天台宗の修験僧にとって岩窟は聖なる修業の場であり、 また円空にとっては彫像製作の場であり、 このような岩窟を捜しながら作像の旅を続け、
この太田山岩屋には多くの彫像を残したほか、 熊石町字泊川にも円空滞留洞窟と名付けられた洞穴があったり、 さらに蝦夷地礼文華の小幌岩屋にも五体の円空仏が祀られていた。
また有珠善光寺に於いても本堂に二体、 その傍の小祠に三体、 さらには各地に奉斉する彫像八体も、 善光寺奥の院といわれる小幌岩屋で製作したといわれ (五来重筆
『円空佛』)、 そのうちの七体は寛政十一年 (一七九九) 松田傳十郎によって背銘の霊山に納められたといわれている。 このようなことから見ても円空にとって岩窟は極めて神聖な作像の場であった。
安永七年 (一七七八) 七月、 日本国内の廻国納経行脚途上の木喰行道が太田山に登拝し、 その岩屋に並ぶ円空の彫像に感動して作像行脚を志したといい、 その十二年後には菅江真澄が、
同じ岩屋を訪れ円空仏と対面している。 その際残した写生画を見ると、 立木や枯木にも彫像を刻んでいて、 数えきれない程の作品が残されていた。 これらの作品も年と共に減り、
太田山の場合大正十一年六月二十八日修験者の火の不始末によって岩窟内の円空仏の総てを焼失し、 また、 明治以降本道でも行われた排仏棄釈はいぶつきしゃく (神仏の明確でない像を破棄する)
令によって、 吉岡村観音堂に祀られていた円空仏のように破棄を命ぜられて、 海に投棄され、 それを拾った住吉家がのちに函館市浄土宗称名寺に寄贈されていたり、
七飯町大中山富原家のように同地神社の管理をしていて、 この排仏棄釈によって神社神像としては適当ではないので、 個人管理となってその侭伝えられているもの、
あるいは野火や保管方法が悪く滅失したものもあって、 現在北海道に残されている円空仏は次のとおりである。
1、観世音菩薩立像熊石町字根崎躯高 九二センチメ-トル根崎神社所蔵
2、 来迎観世音菩薩座像熊石町字泊川 〃 五八センチメ-トル北山神社所蔵
3、 来迎観世音菩薩座像熊石町字相沼 〃 四五センチメ-トル相沼八幡神社所蔵
4、 来迎観世音菩薩座像乙部町字豊浜 〃 二〇センチメ-トル本誓寺所蔵
5、 来迎観世音菩薩座像乙部町字三ツ谷 〃 三一センチメ-トル漁民研修センター所蔵
6、 来迎観世音菩薩座像 〃 四五センチメ-トル
7、 来迎観世音菩薩座像乙部町字元和 〃 一八センチメ-トル元和八幡神社所蔵
8、 来迎観世音菩薩座像乙部町字鳥山 〃 四四センチメ-トル地蔵堂所蔵
9、 阿弥陀如来座像江差町字泊 〃 三八センチメ-トル観音寺所蔵
、 来迎観世音菩薩座像江差町字尾山 〃 四五センチメ-トル岩木神社所蔵
、 来迎観世音菩薩座像江差町字柏町 〃 三八センチメ-トル柏森神社所蔵
、 十一面観世音菩薩立像上ノ国町字上ノ国 〃 一四五センチメ-トル観音堂所蔵
、 来迎観世音菩薩座像 〃 四〇センチメ-トル
、 来迎観世音菩薩座像上ノ国町 〃 七五センチメ-トル郷土資料館所蔵
、 来迎観世音菩薩座像上ノ国町字木ノ子躯高 五二センチメ-トル光明寺所蔵
、 来迎観世音菩薩座像上ノ国町字石崎 〃 四八センチメ-トル石崎八幡神社所蔵
、 阿弥陀如来座像上ノ国町字石崎 〃 四〇センチメ-トル西村初男氏所蔵
、 来迎観世音菩薩座像(本地観世音菩薩)松前町字白神 〃 四六センチメ-トル三社神社所蔵
、 来迎観世音菩薩座像福島町字吉野 〃 四八センチメ-トル吉野教会所蔵
、 来迎観世音菩薩座像木古内町字木古内 〃 五〇センチメ-トル佐女川神社所蔵
、 来迎観世音菩薩座像木古内町字札刈 〃 四五センチメ-トル西野神社所蔵
、 来迎観世音菩薩座像木古内町字泉沢 〃 四七センチメ-トル古泉神社所蔵
、 来迎観世音菩薩座像上磯町字茂辺地 〃 五〇センチメ-トル曹溪寺所蔵
、 来迎観世音菩薩座像上磯町字富川 〃 五三センチメ-トル富川八幡神社所蔵
、 来迎観世音菩薩座像上磯町字会所町 〃 四九センチメ-トル上磯八幡神社所蔵
、 来迎観世音菩薩座像七飯町字大中山 〃 五二センチメ-トル富原喜久夫氏所蔵
、 阿弥陀如来座像函館市船見町 〃 四二センチメ-トル称名寺所蔵
、 阿弥陀如来座像戸井町字汐首 〃 四四センチメ-トル観音堂所蔵
、 来迎観世音菩薩座像砂原町字会所町 〃 五一センチメ-トル内浦神社所蔵
、 来迎観世音菩薩座像八雲町字山越 (推 定 で き ず) 諏訪神社所蔵
、 来迎観世音菩薩座像寿都町字磯谷町 〃 四四センチメ-トル島古丹海神社所蔵
、 観世音菩薩座像伊達市字有珠躯高 五八センチメ-トル善光寺所蔵
、 来迎観世音菩薩座像苫小牧市錦岡 〃 四七センチメ-トル樽前神社所蔵
、 観世音菩薩座像広尾町字中通 〃 一一センチメ-トル禅林寺所蔵
、 来迎観世音菩薩座像釧路市米町 〃 四三センチメ-トル厳島神社所蔵
、 観音座像 (頭部欠落) 豊浦町字礼文華小幌岩屋所蔵
、 観世音菩薩座像長万部町字長万部 〃 四五センチメ-トル平和祈念館所蔵
これら蝦夷地で寛文六年から七年にかけて作像奉斉された像以外に、 明治以降本州から持ち込まれた円空像は六体あり計四十三体以上の円空仏が存在する。
円空仏の作像傾向は、 蝦夷地に向かって作仏行脚を続けていた寛文五年 (一六六五) の秋田県男鹿市や能代市、 青森県田舎館村、 弘前市に残されている十一面観世音菩薩立像を見ると、
全体の組立や条帛じょうはく (着物のひだ) や裳裾もすそ (着物) の状況などは不自然で、 正に初期の拙劣を感じさせる作品が多い。 また、 津軽から本道にかけて多く残されている作像は観音像と呼ばれる仏の座像が多いが、
この像は来迎らいごう観世音菩薩座像と呼ぶのが正しいと五来重氏は、 その著 『円空佛』 で述べているので、 その説に従うこととした。
さらに同氏は、 この来迎観世音菩薩座像の型式は津軽から北海道にかけて分布する一つの様式を完成させたものとしており、 その特色は、
それは満月相にうれいをふくんだ伏目、 ひくく彎曲わんきょくしているがするどく隆起する鼻梁、 口元は微笑をふくみ頸はなく、 通肩つうけんの衣帯をゆるくかけ、
これを細い線刻衣文の並行線でかざる。 手は膝の上で定印をむすび、 多く小さな蓮台をのせる。 台座は岩座または臼座に筋彫蓮弁の二重台座。 洞爺湖観音はこの様式のなかで、
化仏げぶつをつけ宝髻ほうけいの上から白衣をかむり、 高い岩座だけの台座にのっている点がことなるのである。
と述べているが、 私はこの一連の来迎座像で、 明らかに定印 (指と指の組み合わせ) を結んでいるものを阿弥陀如来座像とし、 定印の上に蓮鉢を置いたものを来迎観世音菩薩座像とした。
これら道内に残されている円空作の仏像のなかで、 字吉野所在吉野教会に保存、 奉斉されている来迎観世音菩薩座像は、 同作中の傑作と賞讃されている尊像で、
古来礼髭観音堂から現在に伝承されて来たものである。 躯高は四八センチメ-トルと座像の標準の高さをもつ桧木の半割木の作品である。 螺髪らはつ (髪の毛)
は烏帽子えぼし形に組み、 円形豊の顔相の中に杏仁きょうにん形の目がある。 唇はやや下向気味に微笑の相を現わし、 ふくよかな体躯に軽く納衣のうい (ころも)
を着せた如くに彫り出され、 手は法界定印ほっかいじょういんを結んだ上に蓮鉢を載のせて、 結跏趺坐け っ か ふ ざ の型式をとっている。 さらにこの像の台座は二重蓮弁台座になっていて、
その下にさらに岩座が荒いタッチで刻まれていて、 正に蝦夷地で構成された来迎観世音菩薩の典型的なものであるばかりでなく、 保存状態も極めて良好である。 町はこの像を平成二年七月十三日福島町有形文化財に指定し、
保存の万全を期している。
また、 函館市船見町称名寺に所在する阿弥陀如来座像は元吉岡村観音堂本尊であったことが 『福山秘府諸社年譜并境内堂社部』 に見られる。 この像は明治初期の廃仏棄釈によって海に捨てられたものを、
同村の住吉家が拾い保存し、 のち同家から称名寺に寄贈されたといわれている。 本像も吉野教会の来迎像と同じく保存が良く、 両像が同年代に彫像されていて、
北海道を代表する円空仏の双璧をなしている。
円空仏は鉈なた彫、 鉈造りと言われ、 彫像は荒いタッチで刻まれている。 しかし、 それは年代的に熟練して行った過程でのことであって、 蝦夷地での円空仏像は省略もあるが、
これが一型式となっていて、 非常に丁寧に作り上げられた作品であり、 木割等には斧や鉈を用いたとは思われるが、 面部や体躯等は鑿のみを用いて仕上げをしている。
円空の場合一躰の像を造建するのに、 一日は木材の調達と作仏構想を立て、 二日、 三日で彫刻、 四日目には完成し、 開眼法要を行ったといわれるが、 それは木彫習熟後であって、
蝦夷地の初期作像ではもう少し日程を要していたと考えられる。
円空仏は微笑を浮べ、 常に村人達を温かく護ってきたといわれ、 近親感を持って親しめる仏様であった。 なかには寺社から子供達が外に持ち出し、 共に遊んだと言われている。
熊石町字相沼八幡神社や、 上磯町字茂辺地曹溪寺の仏像などは、 その擦過傷のため彫刻の跡が見えない程に痛んでいる。 果たして子供達が付けた傷だろうか。 これは実は村内の病送りに常に利用され、
その結果生じた傷であると考えられる。 近世の時代疱瘡 (天然痘) や流行病はやりやまい (感冒やはしか)、 伝染病が一度起きると、 その予防方法も確立されておらず、
一度発生すると大蔓延し、 特に抵抗力を持たない子供達は、 ばたばたと死んで行った。 このような場合村人たちはひたすら神仏に加護を求めなければならず、 観音堂や地蔵堂に集まって、
百万遍の数珠を廻し、 鉦を叩いてその退散を祈った。 また、 病送りと称しておこわ (赤飯) を焚き、 これを米の空俵の蓋ふた (さんぶた) に載せて曳き、
村中の婦人が鉦を叩いて行列を組み、 村堺に運んで病送りをした (その村によっては船の模型を造り、 供物を添えて海に流した)。 その際円空仏が病送りに一役買わされて、
縄をかけられ一緒に曳かれて行った時の傷跡が、 それであると考えられる。
福島町内にあった二体の円空仏の保存状態が極めて良好であるのは、 住民が円空仏の慈悲を感得し、 これをひたすら祈り護ってきたからに外ならない。
【貞伝作像】 貞伝とは青森県東津軽郡今別町浄土宗本覚寺第五世住職良船貞伝上人のことである。 享保元年 (一七一六) 住職として入寺した貞伝は、 本堂の再建、
多聞天堂の建立など仏門の振興に大いに努力したほか、 余暇を木彫、 鋳造に趣味を持ち、 多くの仏像を造った。 その代表的なものに有珠善光寺秘仏となっている如来像があるが、
本覚寺にも多くの作品を残している。 また貞伝は鋳造による万体仏の作製を発願し、 銅と亜鉛を混合する簡単な方法で、 高さ五・五センチメ-トルの阿弥陀如来立像を鋳造領布した。
この像は持つと不思議と幸運をもたらすということで、 漁民の多くがこの像の分賦を受けた。 福島町からも海を渡ってこれを今別まで拝領に行く人が多く、 現在本町には字三岳太田昌徳宅、
字月崎木村フミエ宅、 字日向富山福政宅、 字白符高橋善蔵宅、 字吉岡神田巳之丞宅、 字吉野新山キエ宅、 新山長三郎宅の七体の像が保存されている。
第七節 松前廣長と福島
松前広長は、 松前氏第十一世邦広の五男として元文二年 (一七三七) 十二月二十五日福山館に生れた。 母は家臣土橋嘉六の娘左尾子である。 兄には第十二世藩主資広、
柳生備後守俊峰の養子となった柳生俊則がいる。 十九歳の時、 松前家第七世藩主公きん広の子広ひろただの嗣いだ村上系松前家の養子となり、 家老となって藩政に大いに貢献した。
広長は小字を繰五郎、 長じて傅蔵、 監物けんもつと称し、 雅号を豹関ひょうかん、 老圃ろうほ、 琴書堂、 沈流ちんりゅう館、 清音館などと称した。
広長は村上系松前家に養子となった宝暦五年 (一七五五) 藩家老となり、 三十四年間多難な藩政に当り、 天明八年 (一七八八) 致仕 (隠居) し、 家督を長男鉄五郎広英に嗣ぎ、
後は文筆活動や風流三昧さんまいの生活を送り、 『福山秘府・全六十巻』、 『松前志・全十巻』、 覆甕草ふくべぐさ、 毛夷掌観図もういしょうかんず自序 (蠣崎波響筆夷酋列像自序)、
福山正系譜等多くの著書を残し、 享和元年 (一八〇一) 五月十日六十五才で没、 松前法源寺の村上系松前氏の墓地に葬られ、 法号を廣長院殿徳峯常隣居士と称した。
広長と福島町とのかかわり合いについては、 第三編第二章第二節で述べた如く、 礼髭村 (字吉野) が、 代々村上系松前氏の和人地知行所であったので、 そこでその関係を詳しく述べたので参照していただくが、
そのほか、 広長は館の沢 (館古の沢) に鷹場所を拝領していたほか、 隠居後覃部川畔に建造した枕流館 (琴書堂) で風流三昧の生活をしていたが、 自然と気候、
風土の良い福島をこよなく愛し、 数度訪れているうちに、 この福島に住みたくなり、 前藩主邦広 (広長の父) が生前福島村の館古に建立した別業地 (別荘)
があり、 この別荘は邦広の死去する八日前に完成したというので、 この藩主邦広侯のことを福島村の人達は八日様と呼んでいた (常磐井家記録) というが、 この別荘が、
そのまま空いていたので、 藩主道広 (十三世) に願って、 寛政六年 (一七九四) 借り受け、 これを改修して清音館と名付け、 ここに召使を連れて住みつき、
風花日月を愛し、 あるいは庭前の畑を楽しみ、 獨酌をしながら陶然の気を養いながら文字に親しむという、 正に世捨人の生活を送り、 福島に住み着くこと八年、
六十五歳をもって享和元年 (一八〇一) 五月十日に没した。
広長がいかに福島を愛したかは、 その著 『覆甕草ふくべぐさ』 (市立函館図書館蔵) の 「清音館記」 で述べている。 漢文であるので読み難いが、 福島の自然、
山岳、 河川から動植物、 さらには村の戸口から、 造田開発にいたるまで、 詳細に記述しているので、 これを次に掲げる。
清 音 館 記
邑乃福島。 古名乃唱里葛那必民家八十餘戸。 山水清麗。 皐澤遼。 風色真可愛。
而三秋錦山之候。 其奇観益無窮矣。 盍所距福山府城。 五十里而近。 其間者失辣瓦
密獄。 烟雲空濛。 不分咫尺。 其嶮岨寔無比矣。 東距齋し栗り烏室邑うちむら七十里。 深谷
薈罕見。 渉河四十有八。 其間有大河。 有太獄。 即曰齋栗烏室獄。 其険阻亦相等
矣。 可謂用武地也。 南隔海遥望南津諸山大洋漫心曰豁然。 近望東北有館山。
土人一曰館澤。 昔者羅捕鷹鶻處。 即是附屬余之釆地。 其捕者子孫相継在此邑矣。
西北又有檜裏澤。 古昔多檜樹。 今無在焉。 又西北遥見一太獄。 峩々獨傑出衆獄之上。
名鬱金獄。 方俗曰千軒獄者訛也。 登其絶頂。 則萬象皆在眼下。 是乃山水清音。 固非管絃之比也。 比獄夏月有雪。 楢断路。 又東州二山。 一曰茂山。 一曰丸山。
而茂山多樹。 丸山無樹。 所以名焉。 昔時丸山有樹。 故土人或曰之濱茂山。 其海岸有漁
家五六戸。 曰屋。 古者煮塩處子。 又有月崎。 又大澤中央有大河。 其東者有小堂。
安観音。 華表建干其南矣。 喬樹森々。 青松鬱々亦爲一景焉。 又汀涯二巖突出。 竝
峙呑潮吐月。 名秀巖。 土人或曰大秀小秀。 真是爲觀最。 又北十里。 有山人之居。 曰
山崎。 是尾也。 此處土色黄白地味厚潤。 老夫各終日芸稗粟。 朝暮清泉。 綴苦茗
之外。 更無他咾好言。 其困情可羨矣。 是此太澤平遠盡處也。 自今歳五十有餘年前。
元文四年己未春。 藩主第十一世傑巖公。 卜此地而始試墾田焉。 耕四年。 未見全熟
者。 而寛保癸亥春。 受病終不能起。 至夏閏四月逝矣。 故不朽之大業亦自廃棄矣。
噫実可惜之秋也哉。 近安永己亥春。 余不侫恭奉継
傑巖公之盛意。 請前侯。 於此地之中央。 試墾田都三年。 庚子秋田天幸。 得新米二十有餘苞。 然天明壬寅春。 有故而又終廃棄矣。 鳴呼不可奈何焉。 是乃天命也。
余
姓蕩疎懶。 且自幼有好飛鷹馳駒之僻。 故逍遥此邑数次。 鄙情常慕此勝之矣。
今也迫耳順。 致仕而無用於世矣。 唯是樗檪。 何羨松柏之操哉。 客歳甲寅冬。 借得
此邑邸手君侯。 遂営小於邑之東崕。 怡然盲帰手我居琴書堂也。 幽居惟。 對山水。 或灌園以養心目耳。 可謂老圃之事足矣。 尚且獨酌濁醪。 下物山水。 陶然吟咏。
意日闊然。 是其奇顴所以無窮也矣。 因自名此小。 曰清音館。 是遠取左太沖之辭而已矣。
また、 松前広長は琴書堂と雅号する如く、 琴を愛し、 常に座右に置いて獨弾していたが、 その事は前記の 『覆甕草』 のうちの 「箏曲抄序」 に詳しく載っていて、
余昔従一師而学琴。 又学筝。 而以供獨楽。 似畧得旨趣者矣。 近与小筝女児。 児亦幸好之。 人情同好心私喜之。 何倣奪小琵琶之域哉。 雨窓偶見女児此俗筝譜。
爲辨其本。 序以語児。
とあるように琴、 尺八、 琵琶びわの音曲を愛し、 音曲の名手であった。
今はその所在は不明であるが、 かつて吉野八幡神社に村上系松前家から奉納された十三絃げんの抱琴があり、 それを筆者が昭和四十年六月に調査をしているが、
それによると、 最大幅十七センチメ-トル、 長さ一、 二メ-トルの桐きり製のこの抱琴は、 糸道が十三絃で、 表胴体に 「斜抱雲和染見月」 の墨書と、 胴裏には
「謹奉納 文化戌辰五年 夏四月 松前銕五郎源広英」 の墨銘があり、 これは広長の愛用した抱琴を息子の銕てつ五郎広英が、 文化五年 (一八〇八) 松前氏が幕府から転封を命ぜられて、
奥州梁川に出立する際、 村上系松前氏の建立である礼髭八幡社 (現吉野八幡神社) に寄進したものであるが、 社殿改築の際行方不明になったのは、 返す返すも残念なことである。
第四編 幕末から明治維新の福島
第 一 章 各村の変化
第一節 幕末の松前藩
一 北方の危機と松前藩
徳川幕藩の中期以降、 蝦夷地、 唐太 (樺太-サガレン)、 千島方面に外国船が頻出し、 松前藩の秘匿にもかかわらず、 国内輿論として北方の危機が叫ばれるようになった。
安永八年 (一七七九) 千島列島から南下をしたロシア人は厚岸に来て、 我が国と通商を求めたが、 応待した松前藩士は国禁であるとこれを断わり、 これを幕府に報告しなかった。
寛政四年 (一七九二) にはロシア使節アダム・キリロウイッチ・ラックスマンが、 伊勢の国からの漂民光太夫ら三人を連れて根室に来て通商を求めた。 幕府も漂民移送ということもあり、
事を穏おだやかに納めようと、 松前に役人を派遣して接見することになった。 寛政五年 (一七九三) 六月ラックスマン一行は箱館から陸路松前に到り、 藩家老下国斉宮いつきの浜屋敷で会見し、
長崎以外での交渉は認められないので、 長崎で交渉するよう諭し帰した。
これより先の明和八年 (一七七一) ハンガリー人でポーランド軍大佐としてロシア軍の捕ほ虜りょとなって、 カムチャッカに追放されていたベニョフスキーが、
船を奪って逃亡し、 阿波の港について徳島藩の保護を受け、 さらに琉球の大島で薪水供給を受けた礼として、 長崎商館長に、 ロシア人が千島に砦を築き、 松前およびその他の諸島をうかがっていると警告し、
国内は北方に注視するようになった。 さらに林子平の 『三国通覧図説』、 工藤平助の 『赤蝦夷風説考』 等の刊行があり、 その危機論が増大した。 このようなこともあり幕府も捨ててはおけず天明五年
(一七八五) 勘定組頭土山宗次郎らに蝦夷地の調査と、 蝦夷地交易試験とアイヌ人達への介抱を命じている。 この調査行で青島俊蔵の配下で竿取り (測量助手)
として活躍したのが、 最上徳内である。 調査を推進した田沼意次おきつぐは、 将軍家治が同六年九月死亡したことから逼塞ひっそくを命ぜられ、 その調査は沙汰止となった。
意次としては幕府の財政立て直しのため、 蝦夷地の一港を開いて、 貿易を行いたい考えであったといわれる。
このようななかで松前家第十三世藩主志摩守道広は、 性豪直で度量があり、 文学、 兵学、 馬術、 砲術等にも秀でていたが、 何分にも十二歳で藩主になり放縦の生活が長かったので、
幕府に対する反撥が強く、 薩摩島津侯あるいは仙台伊達侯をはじめ、 将軍家斉いえなりの実父一橋治斉はるさだ等とも交際していた。 また北方危機論の高まりのなかで言行も謹まず、
寛政四年 (一七九二)、 五年のラックスマンの来航等もあって批政が多く、 幕府は道広の隠居致仕を求め、 同四年九月には幕府目附朝比奈次左衞門が来藩して、
道広の血誓書を提出させている。
家督は第十四世を道広の長子章広が継いだが、 迫り来る外圧に対し小藩松前家のみの力だけで、 これを乗り切ることは出来ないと判断した幕府は、 対露防衛策として段階的に松前藩から領地を召し上げて、
東北六藩の出兵を求めて警備と開拓を図り、 住民を撫育して領土の保全を図ろうとした。 寛政十年 (一七九八) 十二月書院番頭松平信濃守忠明を蝦夷地御用取締掛に任命した。
翌十一年には勘定奉行石川忠房、 目附大河内正寿まさひさ、 吟味役三橋成方も御用取締掛に命じて蝦夷地の経営に入り、 浦河から知床岬までとその属島を公収し、
のちさらに知内川以東浦河までも公収し、 その替地として武州埼玉郡久喜町に五、 〇〇〇石の地と金子若干が与えられた。
東蝦夷地の経営を決めた幕府は、 享和二年 (一八〇二) 箱館に蝦夷奉行を置き、 さらにこれを箱館奉行と改めた。 文化四年 (一八〇七) 三月にいたって、
蝦夷地、 唐太、 千島とその属島の総てを公収し、 領主松前家を九、 〇〇〇石の交替こうたい寄合席小名 (旗本) に降ろし、 陸奥国梁川 (福島県伊達郡梁川町)
に移住することを決定した。 松前家には、 この梁川のほか上野国こうずけのくに (群馬県) 甘楽郡、 群馬郡、 常陸ひたち国信太郡、 鹿島郡九、 〇〇〇石も与えられて、
実質的には一万八、 〇〇〇石を拝領したが、 大名から小名 (旗本) に格下げとなるのは、 大名であった者にとっては最大の屈辱であった。
文化四年十一月五日藩主章広以下は断腸の思いで松前を出発した。 それまでの家臣の数は三四〇人であったが、 これからの封地ではとても養うことが出来なかったので、
士分六六名、 医師四名、 部屋住一六名計八六名の士籍を削り、 さらに足軽七〇名も召し放っての出発であった。
松前氏発途後松前には幕府直轄の松前奉行が設置され、 川尻春之、 村垣定行、 戸川安諭やすさだ、 羽太正養まさやすの四人が奉行に任命され、 福山館を政庁として、
松前・箱館は津軽、 南部藩に警備を命じた。 文化五年以降奉行は二人体制となったが、 奉行の下には吟味役、 吟味役格、 調役、 調役並、 調役下役元締、
調役下役、 調役下役格、 在住のほか勘定方 (会計) には御勘定、 支配勘定、 御普請役等があった。 蝦夷地の警備については会津藩、 仙台藩、 南部藩、
津軽藩の出兵を求めて警衛に当らせたが、 その出兵地域は次のとおりである。
地 名 守 備 藩 名 出 兵 人 数 指 揮 者
松 前 会 津 藩 二〇〇人 松 前 奉 行
箱 館 仙 台 藩 八〇〇人 使番 (派遣) 小菅猪右衞門
江 指 津 軽 藩 一〇〇人 使番 (派遣) 村上監物
エ ト ロ フ 仙 台 藩 一、 二〇〇人 西丸書院番 (派遣) 夏目長右衞門
ク ナ シ リ
ネムロ~サワラ 南 部 藩 二五〇人
カ ラ フ ト 会 津 藩 一、 三〇〇人 小姓頭 (派遣) 山岡伝十郎
ソウヤ~シヤリ
テシオ~ハママシケ 津 軽 藩 五〇人
イシカリ~リイシリ || || 幕 府 直 轄
タカシマ~クマイシ 津 軽 藩 一〇〇人
その後警備地の変更もあって、 秋田藩兵も加わっているが、 東北諸藩の兵は突然酷寒の地での警備や越冬生活に体が慣れていないし、 衣服も袷あわせ綿入に袖無そでなし程度であった。
そのほか野菜不足もあって、 脚気や水腫病で陣没する将兵も多く、 あわてて国元から犬の毛皮や朝鮮人参、 食料を急送するという状況であった。
このような状況での警備が続くうち、 ロシアの千島列島を通じての南下の勢は強く、 文化八年 (一八一一) には国後島でゴローウニン事件が発生した。 ロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローウニン少佐は、
千島列島から沿海州にかけての測量を命ぜられ、 五月択捉えとろふ島にきた。 そして薪水糧食の補給を受けようと国後島の泊にいたったが、 同所在勤の松前奉行調役奈佐瀬左衞門と守備の南部藩と交渉中、
上陸したゴローウニン少佐、 ムール少尉、 操そう舵だ手フレブニコフ、 通訳アレキセイ (ラショワ蝦夷) と水手四名の計八名を逮捕し、 ディアナ号副艦長リコルドは、
南部藩との間で砲撃戦を行った上帰航した。 ゴローウニンら八名は松前に連行され、 奉行直々の取調べの上捕ほ虜りょとして抑留することになり、 福山館南方天神坂上の旧松前家重臣の空家を改装して牢獄とした。
翌九年四月二十日 (新暦) ゴローウニンらはモール、 アレキセイの二人を残して脱走し、 城北背後の山を北向し、 茂草川から小鴨津川を経て海岸に出、 海沿いに北上し、
五月二日木ノ子村 (上ノ国町) で捕えられるまで十三日間山中や海岸を隠れ歩いていた。 再逮捕された一行は、 神明社後方の大松前川支流のバッコ沢 (松前町字神明)
に建てられた堅牢な牢屋に収容された。
この文化九年八月リコルド少佐は、 中川五郎治および六名の漂民を乗せて国後島の泊に来て、 ゴローウニンの釈放について交渉したが不調に終り、 たまたまケラムイ岬沖を航行中の高田屋嘉兵衞の手船観世丸を襲い、
嘉兵衞と四名の水か主こを捕えてカムチャッカに連行し、 ゴローウニンらとの交換を申し入れた。 翌十年九月にいたってゴローウニンらと高田屋嘉兵衞らの交換が決定され、
一行を箱館に移した。 そして九月十七日リコルド副艦長の指揮するディアナ号が箱館に入港し、 両者の交換を終え、 この問題は二年三か月ぶりに解決し、 その後しばらくの間北方地域は平穏となった。
【松前氏の復領】 奥州梁川へ九、 〇〇〇石の小名に降格されて移封した松前氏は、 蠣崎将監広年 (画名波響) が主席家老となって、 梁川陣屋の建設から家臣の扶持、
幕府や諸大名への復領嘆願、 さらには漁業の藩から農業の藩への脱皮等多大な苦労をしのばねばならなかった。 当時の梁川は阿あ武ぶ隈くま川と広瀬川に挾まれた石河原と段丘地で田地は少なく、
段丘畑地や養蚕で、 畑作物を売って米を買い税を納めるという地帯であった。 二〇〇人近い家臣の扶持は容易ではなく、 家老でも一五〇石、 士は足軽同様の三人扶持
(一人扶持は一日米五合支給) という状況であった。 このような困苦のなかでの復領運動は、 その費用の捻出が容易ではなく、 松前での松前氏代理人の桜庭左そ右う吉きちを介して募金運動をしたり、
借上金をして復領運動をし、 波響は家老の多忙な日課を割いて絵を描き、 これを売って運動資金に当てていた。
松前氏が復領運動の標的として賄賂わいろを贈ったのは幕府老中首座水野出羽守忠成(山形城主、 五万石)であった。 忠成は将軍家斉いえなりの覚えもよく、 また、
将軍の父一橋治斉ひとつばしはるさだとも懇意で、 治斉と十四世藩主章広の父道広が遊び仲間であったこともあって、 松前氏は水野出羽守に復領の嘆願と賄賂を集中していた。
文政四年 (一八二一) 十二月七日、 幕府は突然松前氏の蝦夷地復領を発表した。 これは老中首座水野の独断で決定したもので、 他老中と評議をせず専断し、
これが賄賂であったことは、 「天下周知の事実」 といわれていた。 しかし、 水野にしてはゴローウニン事件後北方が平静になったこと、 ナポレオン軍のモスクワ進攻でロシアは極東の兵力をヨーロッパに移動させたので一応の危機は去ったという判断もあった。
翌五年正月元日この報は松前城下に知らされ、 町中は大騒ぎとなったが、 松前家の去った後幕府の松前奉行下で場所請負人達の近江商人や大商人は、 松前家にはろくな挨拶もしなかったので右往左往するばかりであった。
三月家老蠣崎将監広年と松前内く蔵ら広純ひろずみ、 用人工藤八郎右衞門貞矩さだのりらが松前に来て、 四月松前奉行吟味役森覚蔵がくぞうから福山館と、 蝦夷地とその属島の図籍を引き継いだ。
五月二十九日藩主章広と嗣子見広ちかひろが十四年振りに松前に帰り、 住民は歓呼してこれを出迎えた。 幕府松前奉行治下の松前では、 北方危機への不安、 不審火の続発、
疫病、 疱瘡 (天然痘) の流行、 ニシンの凶漁が続いていたが、 この年からまたニシンが獲れ出し「殿様下さがればニシンが下る」 と喜び合ったといわれている。
松前に帰着した松前家は、 幕府の厳重な指示もあり、 また梁川時代の苦境を踏まえ、 大いに改革するところがあった。 その第一は家臣への場所知行給与を止め、
総ての場所を直領とし、 場所請負人の入札、 経営に任せた。 第二に家臣の扶持を石高制と切米きりまい制度とした。 寄合よりあい席の家老は五〇〇石、 準寄合は四〇〇石、
大書院・弓之間席は二〇〇石、 中ノ間席は一五〇石、 御先手組席は一一〇石。 切米取の徒か士ちは九〇石、 足軽は六〇石とした。 第三に砲台および勤番所の増設で、
松前城下には六か所の砲台を設け、 箱館六か所、 江差二か所のほか、 白神岬・吉岡村・矢不来やぎない・汐首岬にも砲台を設けた。 勤番所については東蝦夷地には山越内・絵鞆えとも・勇払ゆうふつ・様似・釧路・厚岸・根室・国後くなしり・択捉えとろふに、
西蝦夷地は、 石狩・宗谷・唐太に三か所の勤番所を設置した。 家臣は春三月出発し、 秋十月に帰着したが、 越冬は在住のみで警備を行っていた。 この勤番の強化によって家臣は大幅に増加し、
梁川から帰着の際約二〇〇名であった家臣が、 僅か二年後の文政七年 (一八二四) には五五七名に達し、 その財政負担も大きくなった。
二 松前城の築城
徳川幕府中期以降幕末までの松前藩主を再掲すれば次のとおりである。
※五世初代藩主慶広より松前氏を名乗る。
このうち、 第十四世藩主章広は梁川から蝦夷地に帰国し、 閲意藩の立直しに尽力し、 天保五年 (一八三四) 病没した。 章広には見ちか広という後嗣がいたが文政十年
(一八二七) 七月二十三歳で病没していたので、 見広の長男良広が家督を嗣ぎ十二歳で十五世藩主となった。 しかし良広は在世五年で天保十年 (一八三九) に病没し、
良広の弟昌広が十五歳で十六世藩主となった。 昌広は在世十年ではあったが大いに藩政を改革した。 しかし、 強度の心神消耗の病気となり藩主を引退することになったが、
その子徳広は五歳で多難な藩政を総覧できなかったので、 後嗣について幕府に伺っていたところ、
十五世
良 広
十四世藩主
章 広 見ちか 広
十六世 十八世 十九世子爵
広 経 昌 広 徳 広 修 広 ……
(勝千代)
十七世 男 爵
崇 広 隆 広 ……
(敦千代)
幕府の裁定は、 章広の五男崇広 (当時二十一歳) を藩主とし、 昌広の子徳広が将来成人した場合養嗣として次代を嗣ぐべしというものであった。
嘉永二年 (一八四九) 七月一日崇広は将軍家慶に閲し、 襲封家督の御礼言上をして第十七世藩主となった。 同月十日老中松平和泉守乘全のりまさ (三州西尾城主六万石-昌広の義父)
から 「近年屡しば々辺警アリ松前地方特ニ要害ニ居ルヲ以テ当まサニ城塁ヲ新築シテ以テ海防ヲ嚴ニスベシ」 と松前家を城主大名に格上げし築城を命じた。 崇広および家臣の喜びは一しおで、
早速和歌に託し国元に知らせている。
東にて搗き立てそめし白餅 (城持) を
堅く備えんふる里の神
と、 喜びと城主大名としての決意の程を示している。
築城位置とその縄張 (設計) を誰に依頼するかについて、 幕府の意図もあり、 種々選衡を重ねた結果、 当代我が国の三大兵学者の一人である長沼流の市川一学に依頼することが決定され、
抱主である高崎藩主松平右京亮輝聴すけてるあき (八万二、 〇〇〇石) に礼を尽くして協力を要請し、 その許可を受けた。
嘉永三年三月七十八歳の高齢であった市川一学は、 介添えとして息子の市川十郎を連れて松前に渡った。 松前を相見した一学は、 その地が狭隘で治城の地ではないので領内一巡の上で城地を決定したいと、
領内和人地全域を跋渉した結果、 箱館在桔梗野と大川境の庄司山への築城が最適であると答申した。 それに対して松前家々臣一同は、 幕府の築城意図である海峡の防衛の問題があるばかりでなく、
松前城下は蝦夷地第一の戸口を有し、 政治・経済・文化の中心地であり、 松前氏累代墳墓の地である。 さらに全く新たな地に新規築城と城下町を構成することは藩の財政能力からしても無理であると反対し、
藩は両者の意見を添えて幕府の裁決を求めた結果、 幕府は松前への築城を決定した。 一学はそれでもなお松前に築城するのであれば、 福山館のある福山台地 (字松城)
より、 馬形台地の方が広域で、 火砲も届き難いので、 この地に築城すべきだと申し述べている。 藩は馬形野築城は新規築城と同じで多大の費用を要するので、
福山館の概存建物を利用し極度に費用を押えて築城することが決定された。
嘉永三年 (一八五〇) 六月には松前内蔵広当ひろまさ (広純ひろずみ) を築城総奉行に任じ、 その配下に新井田備寿まさひさ、 蠣崎広明、 下国定季、
三輪信庸のぶひろ、 近藤武美、 工藤衍こう蔵、 石塚泰永やすなが、 竹田忠憲ただのり、 土谷高貞、 富永義鄰よしちからを置き、 建築は棟梁近藤吉五郎、
池田重吉、 副工頭 (石垣と土工) は野村大作、 橋詰彦右衞門が担当した。
工事はまず旧福山館の不用部分を撤去し、 堀を掘り石垣を築くことから始められた。 石垣用の緑色水成凝灰岩ぎょうかいがんは、 将軍山の東南麓の石伐場から伐り出され、
主要部は兵庫の本御影石 (赤色花崗岩)、 越前福井の笏谷石しゃくたにいし (緑色凝灰岩) が使用され、 夏期に伐り出され、 冬期に馬橇ばそりで工事現場に運ばれた。
木材は上ノ国・江差桧山ひのきやまの桧ひ葉ば材 (アスナロ桧、 羅漢柏)、 及部川流域、 知内川流域を中心とした知内村、 福島村からは栗や桂の大木が伐り出された。
この築城に当っての最大の悩みは、 その費用の捻出であった。 普段でも参勤交代など臨時の出費に事欠く藩は、 御用金や借上金等で賄う状況であったから、 築城資金に充てる貯たくわえなどは全くなかった。
藩はこれの財源として沖之口口銭二分を一分増の三分とし、 嘉永五年から安政元年 (一八五四) の三年間とした。 しかし、 この増口銭は安政四年まで継続しているところを見ると、
財源の捻出は思うに任せなかったようである。 さらに、 家臣の俸禄の一割を献上させたり、 一般町家にも寄付金の協力を呼びかけ、 寄付額は五か年間の年賦で支払うように通帳を作製して、
その年の寄付金の領収割印をするようにした。 また、 金銭協力の出来ない者には労力奉仕をする等、 領内住民挙げての協力であった。 特に場所請負人や問屋といや、
小宿こやんど、 御用達等の大商人や株仲間には巨額の献金を要望し、 近江商人のなかには櫓一台分、 門一基を献納した者もあった。
『下国家旧記』 によれば、 この築城に費した費用は、 沖之口増口銭一分増分で五か年分が一一万〇、 三一六両に達しており、 その他の献金を併せると一五万両から二〇万両にも達していると思われる。
工事中の嘉永五年八月築城総奉行の松前内蔵が没したのち、 安政元年には下国安あ芸き崇教たかのりが総奉行として工事を指揮し同年九月末完成した。 十月二十四日には幕府目付堀織部正利煕おりべのしょうとしひろが属員と共に来て、
新城の検分に当り、 松前福山城と呼ぶことになった。
この出来上がった新城の規模は、 『御新城縄張調』 によれば、 次の通りである。
総面積 二万一千七十四坪二分九厘余
内 一 本丸 八千五百九坪八分余
一 二丸 四千七百二十九坪九分余
一 三丸 四千四百九十三坪二分余
一 堀廻り三千五百七十一坪二分余
内
三重櫓やぐら 地ノ間十二間四面
二階 九間四面
三階 六間四面
惣高サ 土台上桁けた迄五丈四尺六寸
二重櫓 地ノ間 七間四面
二階 四間四面
惣高サ 土台上桁迄三丈二尺五寸
太鼓櫓 地ノ間 五間四面
二階 三間四面
惣高サ 土台上桁迄三丈二尺
櫓 台
高サ 一丈三尺
一渡櫓 弐ヶ所 追手おって桝形ますがた内
梁間 弐間半桁行七間
巽桝形内
梁間 弐間半桁行十三間
一櫓門 弐ヶ所
内銅葺 梁間三間
追手門 桁行五間
同 同 断
巽門 同 断
一平門 四ヶ所
一堀重門 弐ヶ所
一柵門 四ヶ所
一総堀 百七十九間一分余
一惣土居八百四十一間一分余
一惣柵 二百四十三間六分余
一総地歩 都すべて二万三千五百七十八歩 (坪)
完成した松前福山城は、 旧式築城では我が国最後のものである。 そして本丸御殿、 太鼓櫓等は旧福山館時代の建物をそのまま利用し、 従来城郭外であった福山館南方の海岸崖上部分には、
重臣達の役宅の建物が建っていたのを撤去して三ノ丸とした。 ここには七座の砲台を築いている。 城地内の配置等も日に日に進化して来る火砲に対する防備も配慮されていた。
新城の工事と共に嘉永四年 (一八五一) 松前広休ひろやすを奉行として砲台新設の工事も併せて進められ、 城西西館東・西砲台、 立石野、 折戸、 城東宮前、
寅向どらむき、 根森、 白神、 吉岡の各台も完成し、 城中砲台と併せ、 十六砲台三十三門の大砲が海に向かって配備され、 その後、 筑つき島、 生符えげっぷの海岸砲台も完成し、
一応幕府の意図する海峡防衛拠点とする築城目的は達せられた。
十月末には完成を祝う祝典が行われ、 各村名主や年寄の役職者や大口献金者等も招かれ、 新城の竣工を祝い合った。 その際藩主からの引出物として配られたのが、
松前家の裏紋である叶印かなえじるしの朱色硯蓋すずりぶたであり、 これが今でも各村に散在している。
三 ペリー来航
松前福山城の完成した年の安政元年 (一八五四) 三月三日月番老中松平伊賀守忠固ただかた (信州上田城主、 五万三、 〇〇〇石) から松前藩江戸藩邸家老に呼び出しがあり登城したところ、
浦賀来航中のアメリカ極東艦隊の司令官ペリーが松前沿海へ赴くことを願っており、 もし渡航した場合軽率な待遇をしてはならないという通達をした。 また、 前藩主昌広の義父で老中の松平和泉守乘全のりまさからも申添えがあった。
江戸藩邸は三駄早の飛脚を仕立てて、 十日後の三月十四日在国中の藩主崇広の下に届けられた。 今回のアメリカ艦隊来航は松前藩にとっては全く予期せぬことであり、
来航目的の具体的内容も承知していないので、 困惑するばかりであった。 しかし、 すでに三月三日日米和親条約が締結され、 そのなかで、 「伊豆下田、 松前地箱館」
の両港の開港が決定されていたものであった。 したがってペリー艦隊の来航は、 箱館港の事前見聞調査であった。
寝耳に水の松前藩の対応は、 いかに平穏のうちに彼らを帰航させるかにあった。 先ず藩を代表する首席応接使を誰にするかであったが、 四人の家老はいずれも高齢であったため、
前年奥用人から家老格に昇格したばかりの松前勘か解げ由ゆう (蠣崎広伴 〔蠣崎波響の子〕 の二男で松前準十郎広重の養子) が、 首席応接使に選ばれ、 副使には用人遠藤又左衞門、
町奉行石塚官蔵、 箱館奉行工藤茂五郎が第一応接使に任命され、 第一応接使に事故がある場合の予備として第二応接使に藤原主馬しゅめ、 関央かなえ、 箱館在住の代島剛平、
蛯子えびこ次郎等に待機の命が下った。 警備については番頭佐藤大庫おおくら、 旗奉行近藤簇やから、 脇手頭奥平勝馬、 駒木根篤とく兵衞、 目付高橋七郎左衞門等の一番隊四七名と箱館在住者で警備をすることになった。
四月五日には箱館住民に触書を出し、 もし、 アメリカ船が来航した場合、 浜辺や高い所に立って見物をしてはならない。 小舟を乗り出したり、 みだりに徘徊してはならない。
アメリカ人はよく人家に立入り食物や酒を求め、 「或ハ婦女子ニ目ヲ掛小児ヲ愛ス」 るので、 婦女子は山手方面や遠方に避難させ、 商店は休業せよという指示を出し、
大騒ぎとなった。
四月十五日ペリー艦隊の帆船マセドニヤン、 ヴァンダリヤ、 サゥサンプトンの三艘が入港、 二十一日には汽船ポーハタン号、 ミシシッピー号が入港した。 二十二日にはペリー一行はボ-トで箱館に上陸し、
山田寿兵衞宅裏座敷で、 松前勘解由以下の松前藩応接使と会見し、 通訳はペリー艦隊に同行していた清国人羅森が当り、 日本側には漢文で通訳した。
アメリカ側は神奈川応接掛林大学頭から松前藩主松前伊豆守宛の添書を提出したが、 幕府から松前藩に対しては何らの指示もなく、 通訳さえ派遣されなかった。
そのため具体的協議ができなかったことを怒ったペリーは、 松前に赴き、 直接協議すると言い出し、 応接使を苦しめた。 しかし、 松前勘解由の温厚篤実さや、
貴公子然とした態度はペリーに深い感銘を与えたという。 またその交渉は 「松前勘解由のコンニャク問答」 として諸大名の評判になったといわれている。
四月二十四日蝦夷地巡回調査のため向地三厩村に滞在中の幕府目付堀織部正おりべのしょうと勘定吟味役村垣与三郎のもとに、 松前からの急使が訪れた。 このため、
一行の中にいた外国通の部下安間純之進、 平山謙二郎、 武田斐あや三郎の三人が箱館に急派され、 ペリー応接の手助けをした。 ペリーは箱館湾や内浦湾 (噴火湾)
の測量を行い、 箱館の港が予想以上の良港であることに満足し、 細かい取り決めは下田で協議することにして、 五月八日退帆した。 この北辺の箱館が開港場の一つに選ばれた理由を、
ペリーの書には 「箱館は捕鯨船の通り道にあたり便利な位置にあるため、 将来我が国の捕鯨船によって頻繁に利用されるであろう。」 とあるように、 捕鯨船の薪水、
食糧の補給基地として北方の一港を開く必要があったからである。
四 蝦夷地の上地と三万石格大名
箱館開港によって幕府は種々の外交問題の処理と、 蝦夷地の警備、 拓殖が問題となったが、 弱小松前藩の力のみでこれを進めることは困難な情勢となってきた。
まず、 開港場箱館の外交処理機関として安政元年 (一八五四) 六月末日勘定吟味役竹内清太郎保徳、 目附堀織部正利煕としひろの二人が箱館奉行に任命され、
仮に外国人遊歩地域として箱館より五里地方が上地され、 翌二年三月から開港することになった。
その後、 箱館開港によって蝦夷地近海での外国船の出没も多くなり、 幕閣はさらに北方警備の強化、 蝦夷地への拓地殖民の推進を図るためには、 蝦夷地全島と属島を含めた地域の支配体勢を強化し、
これらの島々を幕府の直轄地とするため、 松前家の支配下にある蝦夷地のうち、 東は木古内村、 知内村境界の建有川から西は乙部村蚊柱までの間を残し、 他の蝦夷地、
千島、 樺太と属島を上知することになり、 翌二年二月松前家に通知し、 代りの領地は後日改めて決定するということであった。
蝦夷地の支配、 場所との交易、 さらにはこれらの物資の交易経済によって支えられている松前藩は、 和人地の一部のみ領有となれば、 藩の産業基盤が根底から覆くつがえることになり、
出稼や場所で働く人達にとっては死活問題となり、 一方的な上地のうえ、 替地の決定しない幕府の決定を不服とする家臣や漁民の不安と焦慮は日増しに強まり、 領内に不穏の動きが現われるようになった。
【老中駕籠訴かごそ】 十七世藩主松前伊豆守崇広は、 同年三月十日自ら布告を発し、 幕府からの代替知行地の決定があると思うので、 家臣、 領民は軽挙妄もう動は慎むよう戒いましめている。
しかし、 家臣のなかには密かに松前を抜け出し、 伊達家を通じ復領嘆願をしようと、 松前家の親族で白石城主 (一万八、 〇〇〇石) 片倉小十郎、 同じく同族である松前主水もんど
(二、 〇〇〇石) を通じ伊達侯に復領運動しようとするものがいた。 さらに、 三月二十一日には川村佐七、 湊浅之進らが仙台に赴き、 四月五日には関佐守、
山下雄城ゆうきら若手家臣が、 また五月三日には工藤丹下たんげらも仙台に赴いて嘆願している。 このような動きは、 幕閣に対しての駕籠訴かごその危険性をもはらんでいたので、
崇広は家臣を集め 「三年待て、 軽挙妄動は許さない」 と厳命し、 自らの真意を嘆願書にして仙台藩を通じて幕府に提出している。
松前から閣老駕籠訴のため江戸に登った町人の第一回駕籠訴は、 四月二十一日松前市人五人によって、 各老中の登城途次に強訴した。 これら老中への駕籠訴をした場合、
政道が乱れるということもあって死罪となることが定法であったが、 幕府はその非もあってか、 寛典に済ませ身柄を松前藩江戸藩邸に移し、 五月松前に移送している。
しかし、 史料がなく、 この第一回駕籠訴の詳細は不明である。
第二回目の駕籠訴は西在各村代表と城下代表で協議した上で、 五月十六日一行三十名は出発した。 途中仙台で江戸から移送されてきた第一回強訴から松前に返還される一行と逢い、
江戸の状況を聴き、 取り敢えず仙台藩に上書をした。 しかし一行は他出を禁じられ、 仙台藩の賄を受けていた。
一方松前城下では住民主体の復領運動成功の祈願祭が城西立石野で行われることになり、 各村役、 村民の参加を求める廻章が十九日近在に配られた。
立石野祈願祭告知
当春中、 東西蝦夷地、 嶋村迄一円御上知の仰を蒙らせられ候御事は、 誠に以て御互に驚き入り奉り、 途方に暮れ候儀に存じ奉り候。 扨御国の儀は、 享徳年中、
御先代様初めて御入部にて、 御辛苦東西嶋々の蝦夷乱を御取鎮め遊ばされ、 唯今迄三百七十余年に相成、 全体御他領と相違ひ、 屋敷畑山之御年貢御収納並御用金等一切仰せ出されず、
且数度の飢饉の節も、 他国より袖乞に参り候者夥しく御座候へ共、 諸国より米穀沢山に御買入御救ひ下され候間、 御国には一人も袖乞飢餓死等の者御座無候。 御恩沢の程有難く誰しも存じ奉り候事は、
申述候迄も御座無く候。 数百年の間、 何の不自由も無く渡世致し来り候も、 畢境御代々の御殿様の御仁徳に御座候、 別しても御当代様には、 御百姓も深く憐ませられ、
鰥寡孤独迄御行届き在らせられ、 一同恐悦此上有まじき殿様と有難き仕合せに存じ奉り候処、 思ひもよらず、 当春上知仰せ出され、 御先代様御草創の御大業竝御当代様の思召も空しく成らせられ、
御不運重々恐多く、 御痛ましく存じ上げ奉り候。 莫大の御恩沢に報い奉り候時節に候間、 父母妻子を捨て一命を捧げて出国致し、 御大家様に御救ひ下され候様願出候人々数多有レ之、
誠に心事を流し、 感歎仕り居候。 此上、 御国中の老若男女迄も、 神仏に願懸致し候より外御座無く候、 之により、 明二十日、 立石野に於て、 御国中の百姓申合せ、
寺社の修者へ相頼み、 御武運長久竝に出国の人々身体堅固に心願成就致し候様祈願仕り候間、 御国恩を有難く存じ奉り候人々、 信心をこめ、 丹精をこらし、 御参詣なさるべく候
安政二卯年七月十九日
御 祈 知 事
この通知を受けた各村は代表者を送り、 二十日立石野で会合し、 駕籠訴の成功を祈ったが、 参加者は一、 四〇〇人にも達した。 これを首宰した通知書の御祈祷知事というのは城下大松前町の輪島屋太左衞門と唐津内町の岩田又七等であったが、
その陰に居たのは町奉行飛内とびない策馬であったと思われる。 この祈願祭終了後さらに駕籠訴後続者の募集と、 旅費や運動資金の募金も行っている。
【第二回駕籠訴】 仙台藩の介護を受けていた五名の第一回駕籠訴の者達のほか、 松前から江戸に向かって強訴の者達が続々と出発していることを知った仙台藩は相去関を中心に警戒していたが、
六月に入ると熊石村多十郎等五名、 六月十七日には福島・吉岡村を中心とした東在の者で福島村助三郎らの一行三五~六名がこの関所で足止めになった。 さらにこの警戒を潜って上ノ国の百姓達が仙台に到り、
さきの護送者と逢い、 四一名の連名で仙台藩に嘆願したが、 仙台藩は松前藩からの申し入れがあり、 上ノ国名主の久末善右衞門ら三名の者を残し、 他の全員を松前に帰国をさせた。
しかし後続の嘆願者が詰めかけたので、 久末らは四一名の一行となり、 九月九日に仙台を出て、 九月二十八日に江戸へ入っている。 十月二日夜江戸で大地震 (安政の大地震)
と大火に遭遇した。 一行は出国して江戸で待っていた同志と語らい、 生命を堵して駕籠訴をすることを決め、 先ず訴状をもって桔梗口門、 龍之口門へ十月十六日明六ツ半時
(午前七時) 上訴し、 さらに二十日登城の老中へ駕籠訴することにし、 各老中への出訴者を次のように決定した。
堀田様へ (堀田備中守正篤)
枝ケ崎町 藤五郎
博知石町 訓 平
阿部様へ (阿部伊勢守正弘)
湯殿沢町 彌 六
袋 町 宗次郎
久世様へ (久世大和守廣周)
端立町 万次郎
牧野様へ (牧野備前守忠雅)
博知石町 和 吉
端立町 巳之松
内藤様へ (内藤紀伊守信親)
川原町 吉 松
神明町 甚 八
二十日駕籠訴の一行九名は登城する各老中へ嘆願書をもって上訴したが、 その書は次のとおりである。
乍恐以書付奉歎願候
松前伊豆守所領之ものに御座候、 去ル三月中乙部村木古内東西蝦夷地嶋々一圓上知被仰出候処承知仕、 一同微心魄奉驚入領主元祖蠣崎若狭守享徳年中南部国蠣崎村西蝦夷地ヲコシリ嶋江渡西在上ノ国村与申所江引移旅籠居諸浪人為致、
蜂伏 (起) 東西蝦夷人発起数度取鎮其功告恐多茂御神君様深く被為召聴難有茂松前之性を被下置領主十四代松前志摩守文化之度奥州梁川江所替被仰付候得共、 文政年中ニ至リ再蝦夷地草創之家柄数百年は取領ニ候得共旧家格別之儀被為思召以前江返下置候儀を伝ひ承り下々之私共ニ至迄一統涙之御仁徳を難有奉存上、
一体松前は御地領と殊違享徳之初より当安政二卯年三百七拾余年町在屋敷畑山年貢収納且而無御座其外ヱトロフ北蝦夷地抔之大嶋を始メ多く之場処々々被為切開海岸御固、
御築城アメリカ人五度長崎表江護送其外打続御物入莫大之ニ御座候得共、 往古御用金且而不被仰出、 况哉諸役御用捨且而難量、 孝養老人御賞は勿論火水奇難之御手当五穀実法り茂無之地ニ乍生数度之飢饉を無事ニ相凌候茂、
諸国米穀沢山ニ御買入窮民を厚御救被下置候得ばこそ国元より御他領に出袖乞等致し候もの噂を茂承り不申数百年之間何ニ不自由茂無之連面致相続来候茂境御代々御領主一方ならぬ御仁恵別而、
当御領主御公儀様之御趣意大切ニ相守且下々を被為憐候事、 前書ニ弥増寡孤獨蝦夷之八海ニ住ひ候もの共ニ至迄感儀銘肝ニ此上有間敷、 御殿様何卒万分之一茂奉報御恩度一同心掛罷有候得共、
近年打続不漁一向御恩之上之御恩然候処、 今般上知被為仰蒙御先代様千辛萬苦之御草創田徳ニ一敷大切之場所々々被召上、 殿様御不運又漁業而已渡世仕殿様壱人を奉堪父母妻子を養ひ、
私共此後如何成行可申哉と人数ならぬ蝦夷人共至迄寝食を失悲歎ニ沈、 無何と国中騒々敷、 春中数百入替り々々仙臺国迄罷越歎願奉申上候得共尓今何之御沙汰無之、
一同出府仕可奉願上と申合候得共、 御固嚴重ニ而出国之もの三人と不相成、 色々手を尽し下在福嶋村近辺夜に紛小船ニ取乗渡海仕候、 最中逆風に吹当何国ともなく風ニ任せ漂行候処、
南部国大澗と申所江翌々日漂着仕候得共出判所持不仕故、 本道中難登又止宿難成野を分ケ山を越へ谷に出、 九牛一毛ニ而茂年来莫大之奉報御恩沢聊度父母妻子を捨て昼夜わかたず捧一命、
恐多茂御乗物ニ奉縋、 何卒格別之以恩召松前東西蝦夷地嶋村ニ至迄是迄之通り領主松前伊豆守江被下置、 国中永久安堵相成様厚御沙汰被下置度、 此段幾重ニ茂以死奉願上候。
右願之通被仰付被下置候はば国中一同挙而難有仕合ニ奉存候、 以上
安政二卯年十月
松前町在惣代
何 町 ……
何 町 ……
この駕籠訴の九人は幕吏によって捕えられ、 取調べを受けたが、 この強訴は一揆的なものではなく、 蝦夷地を元の如く松前家の領知にしてほしいとの嘆願であり、
幕府も一方的に蝦夷地を上知しながら、 代替知行も与えないという非もあり、 特別の慈悲をもって訴人達は江戸松前藩邸に引き渡されている。 主謀者の江差の茂右衞門、
上ノ国名主善右衞門、 松前町代要右衞門、 同藤七等は別行動をとって伊達家江戸邸へ嘆願したりしていたが、 十一月十六日松前藩江戸藩邸からの呼び出しを受けたので、
出向いた処抱禁され、 嘆願者一同は松前に送還されたが、 この出訴者に対し藩は何らの処罰をせず、 脱藩家臣の帰参も許された。 このような住民の盛り上がりによる運動の結果もあって、
十二月四日幕府は松前崇広に対し、 蝦夷地上地の替地として奥州梁川 (福島県)、 出羽国村山郡東根 (山形県) に三万石の領地を賜わり、 さらに出羽国尾花沢一万石を預り地とし、
また毎年幕府から一万八、 〇〇〇両を賜わり、 家格も三万石家班に列せられることになった。 この駕籠訴の訴状にもある通り、 強訴の一行は福島村から小廻船で下北半島の大澗へ渡っており、
また、 この中には福島村の助三郎も含まれるなど、 村民のこの運動に対する協力は大きなものがあった。
【第三回駕籠訴】 安政二年十二月蝦夷地南部の和人地のうち建有川 (知内村) から乙部村まで領有の無禄の状態にあった松前家が、 奥州に采地を得て三万石格の大名とはなったが、
蝦夷地内は東北諸藩が出兵して警備にあたり、 出費の一助とするためその地域内の場所請負はその藩が運上金を徴収し、 また従来の松前藩の特権を認め、 出入荷物は松前・江差・箱館の三港のいずれかを経由するということとなった。
さらに、 請負人は東北各藩に冥加みょうが金を納めなければならないということで二重の負担となり、 松前での商業権益の確保もむずかしくなってきた。
安政六年 (一八六〇) 十一月幕府は蝦夷地に出兵している東北諸藩に対し、 その警備地を各藩に分与してその藩の領地とし、 警備と開拓に当らせることを決定した。
その分轄領地は次のとおりである。
会津藩 東蝦夷地根室場所から西蝦夷地斜里、 紋別まで
庄内藩 歌棄より天塩まで (秋田領増毛を除く)
南部藩 恵山岬から幌別まで
仙台藩 白老から根室、 国後、 択捉島まで
津軽藩 久遠から神威岬
秋田藩 神威岬から東は斜里まで、 唐太島
この決定によって松前藩の産業、 経済基盤が根底から崩れることになった。 東北諸藩が蝦夷地内の警衛地を領地とした場合、 その各藩が場所の直支配をするため松前とかかわりなく、
産物の移出入を直接行うことになるので、 この交易経済の断絶は松前藩自体の存立をも危あやうくする事態となり、 住民生活にも大きな影響を及ぼすことにもなるので、
この幕府の決定に反対し、 松前家に元の如く蝦夷地を返して欲しいという住民運動を行うことになったが、 これが第三回の駕籠訴である。
この第三回の駕籠訴についての大寄合は、 安政六年 (一八五九) 十二月十七日に東在は大沢村、 西在は根部田村で行われ、 各村、 場所請負人、 御用達等に配られた廻章は、
廻 章
明十七日於大沢村ニ町々并東西村々御百姓一同志願之儀ニ付、 大寄合致候間御仲間ニ而、 焚出四千人前朝五ツ時同村江籏印目当ニ御差出被下度奉存候。 以上。
(安政六) 十二月十二日
市在
御百姓 一同
御用達衆中
請負人衆中
追 廻 章
同月十五日印迄いすれ之者を相届候間、 直様私店ニ而御用達、 請負人中江相触候事
田付新右衞門家 『御觸書扣帳』
で、 四、 〇〇〇人もの東、 西各村百姓による大寄合が計画された。 同年十二月十七日東在住民の多くは大沢村に集まって、 江戸で行われようとする第三回の老中駕籠訴が成功するよう気勢を上げているが、
この集合場所や参加人員は不明である。 また、 この強訴の中心となったのは前回同様松前城下大松前町 (字福山) の呉服商輪島屋太左衞門であるが、 御用達、
場所請負人、 問屋仲間等から旅費の援助を受け、 十一月には数百人の領民が江戸に旅立っていた。
同年十二月十六日、 十八日、 二十日の三回にわたって松前領民の駕籠訴を行ない、 翌安政七年 (万延元年-一八六〇) 一月に入り、 十九日、 二十一日と五回にわたる公訴で、
時の大老井伊掃部頭直弼かもんのかみなおすけをはじめ各老中に対し、 執拗しつような程の駕籠訴であったことから、 幕府は領主松前伊豆守崇広の差扣 (登城を許さない)
を命じた。 『北門史綱 巻之参』 によれば、
正月廿一日大老掃部頭井伊直弼近江国犬上郡彦根
城主三拾五万石ノ過ル十九日登城之途ニ於テ領民ノ強訴之ヲ駕訴
ト云フ スル者アルヲ以テ崇広差扣ノ内旨ヲ伺ハル、 仍チ在府の藩士草丁ニ至ルマテ公務ノ他邸外ス可カラサルヲ命令ス。
とある。 この公訴は一個人の庇政を論じたものではなく、 ご政道にもかかわることであり、 しかもその訴人の人数があまりに多く、 その処分ができないので、
松前藩に内々引き渡され、 藩士が付添い松前送りとなったが、 このような大量の訴人が、 処断を受けなかったのは全く異例のことである。
この訴人は幕府のみではなく、 蝦夷地を分与された東北諸藩に対しても行われているが、 特に秋田、 庄内に対しては蝦夷地を松前藩に返地して欲しいと嘆願し、
これらの一行は十二月二十四日秋田・庄内藩境の吹浦口留番所に到着し、 庄内藩へ嘆願しさらに江戸へ登ろうとして逮捕され、 松前藩の東根陣屋 (山形県東根市)
に引き渡しとなっているが、 二月中三厩、 野辺地から船で返された訴人の人達は、 二六四人余の多きに達している。
この公訴の結果、 松前家の蝦夷地の領地は、 東は建有川 (知内町) から西は乙部村迄であったものが、 熊石村迄と若干の領地の延長が認められ、 各藩分治のなかでの場所請負の上り荷物、
下り荷物は松前・江差・箱館の三湊を経由、 税役を納めることで決着した。
【箱館奉行の設置と松前藩】 安政二年 (一八五五) 二月二十三日幕府は松前藩に対し、 東部は木古内、 西部は乙部以外の地を上地させ、 それ以外の地および島々は総て幕府の直轄地とし、
その警衛および開港地箱館の外交問題を処理する機関として箱館奉行を設置した。 同年六月から八月にかけ竹内清太郎保徳、 堀織部正利煕としひろ、 村垣淡路守範正のりまさ等が任命され、
旧松前藩箱館奉行所を庁舎として開庁した。 蝦夷地の警備については東北五藩 (のちには六藩) の出兵を求めた。 箱館から木古内までの海岸警備については、
松前藩が担当することになり、 特に箱館港防護のための箱館押付おつけ浜台場に対峙する戸切地村 (上磯町) 矢不来やぎない台場防禦の兵の常駐が必要であったことから、
戸切地村穴平 (向陽台、 清川) に同年陣屋を構築し、 松前陣屋と称した。
また箱館奉行所は箱館山の中腹にあって、 遊歩する外国人からも丸見えの状況であったのと、 幕府の本格的蝦夷地経営のための本拠としての政庁の築設を行うことになり、
同三年五月には奉行から箱館付近の台場 (砲台) の統合拡大と、 のちの五稜郭といわれる亀田土塁役所の築設についての調書を提出した。 これによると、 箱館の弁天岬と筑島に砲台を築き、
大砲は下海岸地方の砂鉄をもって鋳造する。 箱館山中腹と千代ケ岱には出張陣屋を設け、 亀田村に洋式の保塁と庁舎、 役宅等を建設するというものであった。
この計画は二十か年四一万八、 〇〇〇両余の計画で実施されることになり、 安政三年十一月には先ず弁天岬砲台の築設と備砲の整備を合わせ一四万両で工事に着手し、
諸術調所教授の武田斐あや三郎が西洋の築城書によって設計し、 岬地先海面を埋めたてた上、 堅固な石垣による砲台を築き、 石工いしく工事は備前の喜三郎が当り、
七年の歳月を経て文久三年 (一八六三) 完成した。 その形状は六角形で周囲は延長七〇〇メートル余、 高さは一一メートル余、 砲座眼一五を設け、 六〇斤きん砲二、
二四斤砲一三座を備え、 当時としては最も進歩した砲台であった。
五稜郭は当初亀田土塁役所の名で、 武田斐三郎が設計し、 安政四年工事に着手し、 八年の歳月を経て、 元治元年五月完成した。 当初塁濠に九万八、 〇〇〇両、
庁舎、 役宅、 亀田川掘割などに四万五、 〇〇〇両、 備砲四万両の見込で着手、 濠割は松川弁之助、 石垣は井上喜三郎、 庁舎は中川源左衞門が当った。 この西洋式保塁は面積五万四、
一二二坪、 高さ約一丈五尺 (四・五四メートル) で、 濠内に三か所の門を設け、 五か所に出塁を設ける予定であったが、 一か所の出塁に留まり、 完成を見ずに竣工した。
箱館の開港は安政元年 (一八五四) 三月三日アメリカ極東艦隊司令官ペリーと幕府とで結ばれた神奈川条約において開港が決定している。 その条約の第二条では
「一、 伊豆下田、 松前地箱館の両港は、 日本政府に於て、 亜墨利加船薪水、 食料、 石炭欠乏の品を、 日本にて調候爲め渡来の儀差免し候。 尤下田港は、
条約書面調印の上、 即時にも相開き、 箱館は、 来年三月より相始候事。」 とあって、 安政二年より開港となった。 これは開港といっても薪水、 食料、 石炭等の供給をすることが目的であったが、
我が国で二港を開港するのに、 伊豆の下田と北辺の箱館が選ばれたということは、 特に箱館は外国捕鯨船が蝦夷地近海に殺到している時だけに、 その薪水、 食料の補給のため、
蝦夷地内にどうしても一港の開港が必要であったからである。
外国船、 外国人の往来が激しくなると、 当然の如く貿易が必要になり、 安政五年六月十九日米、 露、 英、 蘭、 仏との五か国間に通商条約が締結され、
箱館は同六年六月二日から貿易港として開港された。 アメリカは貿易事務官ライスを安政五年二月箱館に派遣し、 同年ロシアは領事ゴスケウィッチや家族、 医師
(ゼレンスキー)、 宣教師 (イワン・マホフ) 等一五名、 同六年にはイギリス領事ホヂソンが来て仏領事を兼ね、 さらにユースデンと変り、 のちにはプロシア
(ドイツ) もR・ガルトネルを派遣し、 貿易の開始と共に箱館は急激に西洋文化に浸ひたり、 また、 市街も人口が急激に厖張し、 一大都市化が図られるようになった。
五 松前崇広の老中入閣
文久三年 (一八六三) 四月二十八日江戸参勤中の松前家第十七世藩主伊豆守崇広に対して、 幕閣より即刻登城すべき命があり、 登城すると、 芙蓉ふようの間に於て老中筆頭松平豊前守信篤
(亀山城主、 五万石) が、 将軍家茂の令旨をもって寺社奉行に任ずることを伝えた。 寺社奉行は幕府三奉行の一職で、 神道方あるいは坊主、 寺社の統制管理に当り、
さらに江戸町奉行、 勘定奉行と共に公く事じ評定に加わる役柄で、 他奉行は旗本から任命されるが、 寺社奉行は大名のなかから選出され、 将来の老中候補として幕政を勉学する場でもあったので、
外様大名の小藩松前家としては誠に名誉なことであり、 崇広にとっては異例の出世であった。
崇広がこのように幕閣入をした要因については、 崇広は二十一歳で藩主になるまで、 江戸藩邸にあって捨扶持を貰って生活し、 自ら田楽でんがく (おでんの一種)
を造って食べる等極めて世情に通じていたばかりでなく、 国内留学を終えて帰国した家臣があれば、 必ず近侍としてその者の修学した内容を吸収し、 また、 多くの学者から蘭学や英語、
文学、 兵学さらには西洋事情、 西洋科学等を学んでいた。 その上で国内情勢を分析していたので、 大名中では西洋通として高い評価を受けていた。 したがって幕末の混迷を続ける幕府としては、
このような大名の入閣が必要であったと考えられている。
崇広は松前藩上屋敷を本所邸と定め、 寺社方を遠藤又左衞門、 公用人に柴田浦人を任命してその業務に当り、 同年五月六日には三職協議し、 「寺・町・勘定三奉行、
連書シテ外交拒絶・三港閉鎖ノ断行ハ、 皇国ノ崩壊ナル所以ヲ論ジ、 大将軍ノ職ヲ辞スベキヲ幕府ニ建言ス」 (『維新史料綱要巻四』) と、 幕府の攘夷強行体制に反対をする等、
開港論者としての片鱗をうかがわせている。
外様大名でしかも最北の小大名からの寺社奉行への就任は、 大名間交際の拡大、 江戸藩邸の人員増強等、 多大な費用を要したので、 参勤交代の旅費も御用金や借上金で賄っていた藩としては容易ではなく、
両浜商人 (近江) や場所請負人、 株仲間に献金を呼び掛け、 約五、 七三〇両の献金を集めているが、 それでもこの栄職に対しての住民の負担は大きかった。
家臣の中でも 「外様大名である松前家が今の時期になって幕府の爲に働かなければ、 ならないのか」 と反対する者が多く、 また、 江戸日本橋に崇広および一橋家士平岡圓四郎の二人を弾劾しようという立札が立ち、
開明藩主崇広の身に危険の迫ったこともあって、 崇広は七月幕府に辞任を求め、 七月十三日老中板倉周防守指令によって退職が認められ、 在任僅か二か月余で元席の柳之間詰大名となった。
この年十一月二十日夜大沢村櫃ひつの下にイギリスの商船エゲリア号が遭難するという事件が発生した。 この年二月には孝明天皇より、 幕府の外国船打払い (攘夷)
の時期決定が問われ、 幕府はその期日を五月一日と定め、 八月には攘夷親征の詔勅がでるなど、 我が国近海に侵入する外国船との間は正に一発触発の情勢下にあった。
この危機の十一月二十日夜の午後八時頃 (戌刻過ぎ) 大沢村字櫃の下の岩礁にイギリス商船エゲリア号が乗り上げた。 この状況を見た大沢村名主佐々木栄吉は寺社町奉行所に急報すると共に、
村民を総動員して船長モウーラほか十八名 (計十九名) の全員を救助した。
寺社町奉行所からは飛内策馬奉行、 工藤長善町吟味役、 駒木根篤兵衞勘定吟味役らが急拠駆け付け、 難破船の見える場所に救難小屋を建てて収容し、 食料、
衣類等を給与する等手厚い介護を行った。 また、 各国の箱館駐在領事達や、 箱館奉行揮下の定役等も船で大沢に来てその処理に当った。 このような時勢で起きた遭難事件であったのに対し、
松前藩家臣達は問題を的確に処理し、 なお、 遊歩地域外である松前城下の寺社を見学させる等適切に対応したが、 それに比べ、 箱館奉行所から派遣された役人は権勢を笠に着て、
尊大で無能であるとイギリスの箱館駐在領事ワイスは報告し、 横浜駐在の領事アールコックも、 この松前藩の行動を高く評価している。
遭難者一行は、 同船に積んであったバッテイラ (ボート) 二艘に分乗して揆送かいおくりすることになり、 一月下旬箱館に向かったが、 『工藤長善履歴書』
によると、
正月下旬彼レ十九人所有ノバッテイラ二艘へ、 荷物モ積入レ揆送リ以テ大沢出航セシカ、 揆送リトナレハ水夫疲労途中落舟モ難計議題ヲ起セリ、 因よっテ小生附属両三名ト共ニ福島村ニテ出張、
同所ヨリ海岸支村へ使番差立、 捜索セシメ落船セシ模様曽かつテ無之、 彼レ大沢出航当日ノ正午頃、 矢越岬沖乘通シタルヲ漁師共沖合ニテ見掛ケタル旨、 使番申出其夜福島一泊翌日帰藩復命シ、
本藩ニ於テハ開港場ニ無之故ニ悉皆しっかい救助セラレタルモノナシ、 合計三千円 (両) ヨ之臨事費ヲ要セリト櫃ノ下出張会計吏ノ説ナリ。
同年四月ニ至リ前年冬分ヨリ本年正月ニ至リ、 永ク櫃ノ下タ出張勤労ヲ賞セラレ、 御章服及銀拾五枚下賜セラレ拜受ス。
とあって松前藩としても、 この問題を大きく取り扱っていたことが分かる。
このような人命尊重の立場から手厚い介護を行った松前藩主崇広の行為は、 外国使臣に深い感銘を与え、 特に当事者であるイギリスは領事アールコックの報告によって、
元治元年 (一八六四) 五月イギリス国ビクトリア女帝は、 松前崇広に感謝の意を込めて、 イギリス皇帝より松前崇広に贈る旨を彫り込み、 松前家の定紋丸に割菱紋入の金側懐中時計が贈られ、
崇広は死没するまでこの時計を肌身離さず大切にしていた。
【崇広の入閣】 元治元年六月崇広は帰国挨拶のため老中酒井雅う楽たの頭 かみ 忠績ただもり (姫路城主、 一五万石) 邸に参向したところ、 幕命として帰国をしばらく延期するよう下命があった。
この時点で幕府は政事総裁松平春獄以下の閣老が、 その威信を貫き通すことが出来ず、 水野和泉守いずみのかみ、 牧野備前守の二人を除き他は辞任を申し出、 その後釜をどうするか頭を痛めていたときであった。
そのため老中には諸藩連合あるいは外国事情に精通していて、 一定見を持つ諸侯から選ぶ必要があり、 崇広の将軍家茂が親征して長州を降し、 幕府自強の策を構ずべきであるという持論が、
崇広の老中入閣候補とする最大の理由であった。 この考えは尾張侯をはじめ藤堂和泉守、 牧野備前守等が強く支持し、 六月の政変で老中となった阿部豊後守正外まさと
(奥州白河、 一〇万石) も崇広と意見の一致を見、 豊後守の薦すすめもあり、 同年七月七日には老中格、 海陸軍総奉行に任じ、 蝦夷地旧領のうち乙部村から熊石村までの西在八か村が松前家に還付された。
幕閣老中および老中格は、 従来徳川譜代大名で五万石から一〇万石程度で、 特に徳川家の覚目出度い大名中から抜擢ばってきされていたから、 最果ての外様の小大名から登用されるなど、
全く思いのかけなかったことで、 彼が諸大名中でいかに勝れていたかを知ることができる。
幕閣入した崇広は江戸城内常盤橋の前老中有馬道順 (越前丸岡城主、 五万石) の官邸を引継ぎ、 ここを役宅として政務に入り、 公用人に島田興、 遠藤又左衞門、
柴田弥太郎が当り、 案詞奉行には明石遊亀尾、 島田能人、 工藤長善、 厚谷清が任命されて老中業務体制を整え、 前年来の閣老経験者である牧野備前守忠恭たか
(越後長岡藩主、 七万四、 〇〇〇石)の指導を受けた。
老中格は老中の発する奉書に加判、 自書はしないが、 他業務は何ら変るものではない。 崇広は最も気の合った阿部豊後守と協議を進め、 軍艦奉行勝安房守、
講武所奉行遠藤但馬守、 久貝養翠ようすい、 歩兵奉行下曽根甲斐守、 陸軍奉行竹内遠江守ら意中の旗本を指揮下に収めて、 幕府直轄軍の再編制と拡充に努めた。
同年十一月に従四位四品に敍せられ、 加判老中となり、 専ら長州征討のことに当った。 この年八月将軍家茂いえもちが上坂して征討の総指揮をとることになっていたが、
幕府財力の低下や種々の問題があって発向できず、 広島に出征中の総将尾張中納言が中国地方諸藩と合力して長州を攻めるも、 戦況進まず、 幕府より督戦の意を以って崇広に出張を命じた。
十一月二十三日幕府の陸軍諸隊三六四人と溝口陸軍奉行、 駒井大目付、 向山目付等を従えた崇広は、 十二月十五日入京した。 その間に第一回の長州征伐は十一月に広島に於て総将
(総督) 徳川慶よし勝と、 長州支族吉川経幹との間で長州藩主毛利父子の伏罪書によって一応の落着きを見ていた。 崇広に課せられたもう一つの問題は、 将軍後見職徳川慶喜を江戸に連れ帰ることであった。
その理由は、 「また江戸と京都に分裂している幕府勢力を江戸に集中し、 東西の意見の対立を統一しようと試み……老中松前崇広を上京させて、 一橋慶喜を江戸に帰らせようとした。
しかし、 それは成功せず、 かえって諸方面から当面する諸問題解決のため将軍が上京するよう督促された」 (『日本の歴史19』、 小西四郎筆 「開国と攘夷」
中公文庫)。
崇広はこれらの措置の急であることを考え、 急拠帰幕することにし、 十二月二十四日京都を発し、 元治二年一月八日 (四月七日慶応と改元) 帰府復命したが、
これに対し老中水野和泉守 (山形城主、 五万石) は、 京都にあって幕政に批判的な一橋慶喜と結んでいて、 崇広を難詰したので、 崇広は幕閣の腑甲斐ふがいなさを論じ、
席をけって退出し、 翌日より二月中旬まで四〇日余病気引籠りと称して出仕しなかった。
二月中旬月番老中より押して出勤すべき書簡があり登城出仕、 四月は月番で東照宮二五〇年祭等があり、 また、 月番のため各藩の使者が詰めかけ、 これに昼から夜まで酒饌付膳部、
茶菓等を差し出し、 四月ひと月で上屋敷の経費は三、 〇〇〇両に上ったといわれ、 さらに老中守護、 藩邸警備等で、 松前から家臣の派遣、 さらに新規召抱え等で出費も多く、
国元の家老達はこの資金捻出のため、 各村や町人達に呼びかけ献金集めに躍起となっていた。 福島町内の旧家等でよく松前家々紋入の大盃盞を見掛けることがあるが、
これは崇広の老中入閣資金寄付協力者に贈られたものである。
【長州征伐と崇広】 幕府は四月五日将軍家茂の発進に付随従老中を本庄伯耆ほうきの守秀豊 (丹後宮津藩主、七万石)および阿部豊後守、 松前伊豆守の三名に命じた。
本庄伯耆守は征討に対する各大名との連携、 豊後守は外交と京都、 大坂間の連絡、 伊豆守は将軍守護とそれぞれの業務を分担した。 連絡を受けた松前藩は家臣二〇〇名を急據江戸に派遣し、
在府兵二〇〇名と合して四〇〇名の松前藩行旅出陣軍を編成し、 松前右京が指揮をとった。
五月十六日将軍家茂は諸兵を率いて江戸城を発し、 崇広もこの行に扈従こじゅうして十七日発程、 幕府歩兵一、 〇〇〇名を指揮して堂々の行進を重ね、 この行列は、
「総計十万三千人余、 将軍家旅泊セル駅所ヨリ先五里、 跡五里拾里間宿泊所木小屋雜倉ぞうくらニ至ルマテ明キ家ハヨシナク、 旗本衆ノ旅宿割ナトハ六丁敷ヘ八人詰メノ由」
(『工藤長善履歴書』) という状況であった。 閏五月二十二日入京した将軍家茂は崇広のみを連れ参内し、 長州再征の事由を奏上ののち、 二十六日大坂城へ入った。
大坂は幕藩兵で充満し、 老中の崇広ですら宿舎がなく、 谷町三橋楼という料理店を旅宿に借りるという状況で、 これでは老中の体面を汚すと再三交渉し、 大坂城代牧野備中守の交代屋敷を借りて政務を執った。
将軍家茂の大坂城での政務は、 孝明天皇から宣下された攘夷決行の決断と、 第二次長州征伐の発進、 さらには英国、 米国、 仏国、 和蘭おらんだ国の四か国による兵庫開港日限の切迫に対する措置等の緊急の用務が山積していた。
下坂した三老中のうち、 特に阿部豊後守と松前伊豆守の二人は、 幕臣旗本の絶対の信頼を得ており、 阿部は幕権過信派 (『日本の歴史19』 小西四郎筆 「開国と攘夷」
中公文庫) といわれ、 松前は幕権拡張論者 (石井孝筆 『明治維新の国際的環境』 三九二頁) として、 長州征伐で各大名が出兵している機に斜陽化している幕府の権威を回復しようとした。
それに対し京都に在る将軍後見職一橋慶喜よしのぶと、 京都守護職松平肥後守容保かたもり (会津藩主)、 京都所司代松平越中守定敬さだあき (桑名藩主) の兄弟は京都と密着した攘夷推進派であり、
事毎に対立を重ねていた。 一方長州藩の藩政は開明派によって占められ、 着実に軍事力を増強しつつ、 富国政策を進めていた。
その間閣老としての崇広は将軍守護という立場もあって、 家茂の信任が極めて厚く、 夜間親しく人払いをして、 将軍と時局の推移について話し合いを続け、 正に懐刀的存在となっており、
将軍からは着衣や膳部を賜わったり、 御猪口の御酌を頂戴したり、 また、 崇広からは自分愛用の遠目鏡とうめがねを献上する等、 その信頼は予想以上のものがあった。
九月十二日崇広は海陸軍総裁となって、 直接長州征伐の大権を握って出動の準備をしていたが、 同十六日四か国 (英・仏・米・蘭) の軍艦が摂海に進入して、
兵庫 (神戸) および大坂の開港を要求し、 英公使パークスは速急に条約の勅許を得られなければ、 直ちに上陸して京都に至って談判すると強硬な申し入れをした。
京都が夷敵に蹂じゅうりんされることは幕府の面目は丸潰れであるので、 何とかこれを阻止することになり、 家茂の命によりその談判を阿部豊後守と松前伊豆守が担当することになった。
同二十三日豊後守は兵庫に至ってパークス公使と会見し、 二十六日までの猶豫を得て帰坂し、 崇広は京都との間を往復して朝廷との間の周旋をしていたが、 最終的にこの問題はあくまで外交問題で、
幕府行政の裁量権の内であって勅許の必要はないとし、 幕府の権威を示すためにも兵庫開港をすべきである、 という将軍家茂の裁可を取り付け、 条約調印をすることになった。
これに対し下坂した徳川慶喜、 松平肥後守、 松平越中守らは京都公家を煽せん動して、 兵庫の開港を強行した場合、 攘夷派の蜂起は必死であり、 条約調印の期限を延しておいて、
その間に勅許を受くべきであると主張した。
二十六日早朝 「幕府首脳一同登城し、 将軍臨席のもとに会議が開かれた。 慶喜は、 なお外国側を説得して決答の期日を延期すべきことを主張し、 阿部と松前は、
すでに将軍の同意を得ていることだから、 許可のほかないとして依然譲らず、 老中格小笠原長行 (唐津藩主、六万石長子) だけが慶喜の意見に同調した。 かくて議論は分裂し」
(石井孝著増訂 『明治維新の国際的環境』 三九五頁)、 「その折衷せっちゅう案として慶喜と同心の若年寄立花出雲守種恭 (三池、 一万石) を神戸に派遣し、
条約日限の延期交渉に当らせ、 若干の日限の延長を外国使臣が認めた。 そのため両老中は見通しを誤ったと責任を追求され、 自ら差扣えを願わざるをえないはめに陥った」
(同前史料三九八頁)。 しかし両老中は依然として出仕しているのは不届であるとし、 二十九日慶喜・容保・定敬の三人は参内してその状況を説明し、 両老中の処分について朝議が開かれ、
両人は改易 (領地の召上げ)、 切腹の極刑に処することが決まったが、 あわてた慶喜は今度は助命嘆願に廻り、 最終的に官位剥奪、 国元謹慎を決定した。 将軍家茂の最も信頼を受け、
幕権の擁護のため渾身の努力をしてきた阿部、 松前の両閣老は徳川家一門によって、 栄光の座から引きずり下された。
十月一日この命を受けた崇広は、 三日大坂を発足し帰国の途に就くとき、 将軍家茂上書し、 このような難局に当り、 天子の命令だからといって、 皇国の事を考えるなら其侭お請することなく、
徳川家康公以来の徳川家のことも考慮すべきで、 この様な場合断乎として将軍職を辞め筋を通すべきであると、 強い調子で政情を批判し帰国の途についた。
崇広は十月十八日江戸に着き、 十一月十五日家老松前右京以下一一一名の家臣に守られて北上、 十二月十三日三厩着、 日和待の上慶応二年一月八日松前に帰着した。
松前城内での崇広は月代さかやきを剃らず、 ひたすら謹慎の意を表していたが、 同年四月二十六日熱病を患い (一説には急性腹膜炎とも言われる) 三十八歳の若さで急逝し、
一部には毒殺説も流れる程であった。 それにしても北溟ほくめいの英主と謳うたわれ、 松前藩の名を天下に知らしめた崇広の死は、 あまりにはかないものであった。
六 十八世藩主徳広の嗣立と明治維新
崇広が病没したのは慶応二年 (一八六六) 四月二十六日であるが、 藩は謹慎の身でもあったことから喪を発せず秘匿ひとくして、 先ず崇広の隠居と養嗣徳広を藩主とすることを願い出、
六月十九日幕府の許可によって十八世藩主を襲封した。
徳広の父は松前家十六世藩主志摩守昌広で、 昌広は兄良広 (十五世藩主) の死によって十三歳で藩主となり、 二十三歳の嘉永二年 (一八四九) 発疳の病
(強度の神経消耗) により隠居した。 その時徳広は十一歳で多難な藩政を乗りきることが出来ないと判断し、 一時叔父の崇広を藩主としたもので、 徳広成人の上は崇広の養嗣として、
次の藩主とすることが幕閣との間で約束されていた。 その系譜は次のとおりである。
14世藩主 15良よし 広
章あき 広 見ちか 広
16昌まさ 広 18徳のり 広 19勝 千 代
(のち修広子爵)
廣 経
17崇たか 広 敦あっ 千ち 代よ
(のち隆広分家男爵)
藩主となった徳広は頭脳明晰せきで皇学、 古文、 文学等に深い造詣をもち、 すでに 『蝦夷島奇観補註』、 『災妖考』、 『梅桜植物誌』 などの著書があり、
皇国史観に徹し、 勤王家として知られていたが、 しかし、 持病が肺結核で、 しかも痔疾が重病で座起もままにならない状況であった。 そのため一度は藩主になったものの、
この躰での藩政執行はできないと判断し、 十一月七日には用人柴田矢太郎を通じて引退の意志を江戸より藩庁に伝えてきた。
この報を受けた筆頭家老松前勘か解げ由ゆう、 家老蠣崎将監らは、 もし引退した場合には前藩主崇広の嫡男敦あっ千代を藩主に擁立しようと企策し、 崇広栄進を陰から支えた蠣崎監三、
関佐守、 山下雄城ゆうき、 遠藤又左衞門がこれを支持した。 これに対し松前勘解由の藩政壟断ろうだんに反対する家臣は、 徳広の引退を思い止まらせ、 この際佐幕派
(幕府を助ける) 的な藩政の立て直しを図るべきだという意見が多くなり、 十一月二十一日には江戸家老藤倉織部や、 下国貞之丞、 下国左近、 蠣崎采女うねめ、
蠣崎次郎等は反対である旨の上書をし、 さらに北見伝治ら中書院同志、 蠣崎勇喜衞等も同趣旨の建言をしているが、 さらに鈴木織太郎、 新井田主悦ちからは退隠を止め藩治を親政し、
藩内の奸賊を討つべしと、 勘解由らと対決する構えを見せている。 また、 蠣崎広備、 北見伝治、 鈴木織太郎、 岡口繁蔵らは脱藩して江戸に登り、 徳広の引退阻止を働きかけるなど藩内は物情騒然としていた。
一方国内では討幕運動と尊皇維新への動き、 全国的百姓一揆、 打こわし等が続発し、 明治新政への始動がはじまっていた。
【箱館裁判所の設置】 慶応三年 (一八六七) 十二月九日王政復古の大号令が発せられ、 攝政、 関白、 将軍職、 幕府制の廃止と、 新機構として総裁、
議定、 参与の三職が設置され、 同四年一月十七日 (九月八日明治元年と改元) には新政は整ったが、 その間に鳥羽・伏見の敗戦を契機として徳川幕府は崩壊の一途を辿り、
新政府は将軍慶喜の官位を剥奪し、 幕府旧領地を押収した上で、 薩・長を主体とした東征軍を編成して、 慶喜討伐に発遣し、 ついに戊辰ぼしん戦争へと発展した。
この明治政府は蝦夷地の開拓の方針を三月二十五日 「蝦夷地開拓の事宜三条」 を議事所に提出、 その諮問を求めた。 第一条 箱館裁判所被ニ取建一候事。
第二条 同所総裁、 副総督、 参謀人撰之事。
第三条 蝦夷名目被レ改、 南北二道被レ立置テハ如何いかが。
このうち、 第一条、 第二条は原案の通り決定し、 第三条は今少し経過を見る事となった。 この過程を経て同年四月十二日仁和寺宮嘉彰親王を以って箱館裁判所総督に任命し、
箱館裁判所設置は確定された。 さらに副総督には侍従清水谷公考きんなる、 越前大野藩主土井利恒の二人が選任され、 そのほか権判事等も任命された。 その後裁判所人事の変更もあって総督には清水谷公考、
判事に井上石見いわみ (鹿児島藩士)、 松浦武四郎 (徴士)、 権判事に岡本監輔 (徴士)、 小野淳輔 (高知藩士)、 堀真五郎 (萩藩士)、 宇野監物けんもつ
(徴士)、 山東一郎等も任命され、 蝦夷地に向かうことになった。 清水谷総督らの一行一〇〇名余は閏四月十四日 (閏-四月が、 ふた月ある) 京都を発し、
二十日汽船華陽丸に搭じて敦賀を出帆し、 二十四日江差に到着。 ここから山東、 小野の両名が陸行し、 二十六日に一行は箱館に上陸している。
その前徳広は松前に帰着していたが、 清水谷総督がもし松前に上陸した場合は、 松前城をもって本営に充てることとし、 自らは家老下国安芸の屋敷に仮寓し、
ひたすら忝順の意を表していたが、 総督の箱館上陸を知った上で松前城に入っている。
この間に官制の改正があって、 同月二十四日箱館裁判所は箱館府と名称変更され、 総督の官名も府知事と呼ばれることになった。 したがって同年五月一日五稜郭での開庁時点では箱館府であるが、
この時点では通知が届いておらず、 「府」 として活動するのは五月中旬以降の事である。
清水谷府知事以下の北下に対する松前藩の態度は、 藩主徳広が皇学を学んでいた関係もあり、 前藩主崇広の佐幕 (幕府を助ける) 的思想が一変し、 尊王思想の啓発に努めていたので、
藩政は新政府側寄の路線に向かっていた。 前述のように清水谷府知事の北下の際、 もし松前に立ち寄れば松前城を本営とするよう申し入れたり、 敦賀出帆の際は用人山下雄城を派遣して道中案内させ、
五稜郭には守備の兵員がいないので、 戸切地屯営 (松前陣屋) の隊長藤原主馬の率いる兵員で守っている。 これより先の三月二十八日京都御所守護のため、 名代として庶弟敦千代
(第十七世崇広嫡男十一歳) に一隊を付し、 京都に登り御所の警備に当らせている。
しかし、 一方で松前藩は東北諸藩との佐幕連合にも顔を出している。 それは東北地方、 北越地方は会津、 庄内、 越後、 仙台等の諸藩に佐幕勢力が強く、
これらの諸藩が連繋して政府軍 (薩・長連合軍) に徹底抗戦しようというもので、 もしこれに参加をしなければ奥州連合に攻撃される恐れがあり、 閏四月二十三日に奥州諸藩が白石で会盟を結ぶことになったので、
この会盟に家老下国弾正を派遣して日和ひよりを見させ、 さらに一方では秋田に転進中の沢爲量ためかず東山道鎮撫副総督のもとに家臣布施泉を派遣し、 藩金六、
〇〇〇両を献金する等、 正に首鼠しゅそ両端を持たすという構えをとっていた。 これらは小藩松前家を維持するための藩筆頭家老の松前勘解由崇効たかのり等の苦肉の策であったと思われる。
七 松前藩内のクーデター
世情は佐幕から尊王に移り変り、 諸藩の政治動向も大きく様変りをしてきたが、 松前藩に於ても従来の藩主と門閥同族をもって構成される藩政を改革しようという動きが、
軽輩家臣のなかに台頭してきた。 それは藩主徳広の引退を阻止し、 徳広の尊皇思想を巧みに標榜して同盟の士を集めて藩政の改革を計ろうとするもので、 微禄びろくの青年家臣に参加する者が次第に多くなってきた。
その始期は慶応二年十一月の徳広引退阻止の建白書に在来の佐幕重臣の弾劾要求に発していると思われるが、 慶応三年三月の 『松前正議士文書』 (市立函館図書館所蔵)
は、
今般
殿様尊奉ノ儀ニ付身命ヲ抛なげうチ忠節ヲ守ル事。
機密ノ談判親子兄弟タリト雖いえどモ猥みだりニ不相洩事。
諭盟迷約ノ輩於有之ハ同志中ヨリ其罪ヲ糺シ速ニ加天誅事。
右載盟之趣上下ノ祇殊ニ我宗廟靈ノ照鑒ニ備フ。 仍テ血誓如件 くだんのごとし。
慶応三年三月
何 某
正 議 士
という案文に従って血誓自書して提出したもので宛名の正議士とは正議しょうぎ隊のことで、 これは尊皇を意味している言葉でもあり、 世情を巧みに捕えた名でもある。
この隊には松井屯たむろ、 鈴木織太郎、 新田千里、 三上超順、 田崎東、 下国美都喜等の少壮家臣が加入結成したもので、 その目的は藩政改革、 佐幕派重臣の抹殺であって、
この時期には各藩でも一斉にこのような計画を進める者が多かった。 しかし、 松前藩の正議隊の計画は藩主をまき込んで、 門閥、 佐幕家臣の排除と、 それによって改革が成功した場合は、
自分達で藩政を牛耳ろうという計画であった。
このような時勢下に箱館には新政府の箱館府が開庁し、 これと結ぶことによって今後の行動が有利になるので、 下国東七郎を密かに箱館に潜行させ、 清水谷府知事に謁し、
判事堀真五郎、 小野淳輔、 山東一郎らとも会見して藩情を述べて、 もし決起の場合は然るべき応援を依頼し、 帰りには針銃五〇挺を購入して持ち帰っている。
【クーデター決行】 慶応四年七月二十八日松井屯、 鈴木織太郎、 下国東七郎の三士を代表とする正議士一行は登城し、 在番の家老下国安あ芸きを強要して藩主徳広に謁し、
佐幕家臣を弾劾し、 藩政を勤王派 (尊皇) に路線替をするよう求めるクーデター強行のための建白書を提出し、 徳広の同意を求めたが、 その内容は次のとおりである。
今般臣等叩頭泣皿
閤下ニ拜伏シテ三年以來痛心疾首無限ノ赤心今日不顧死罪奉哀訴三百年餘國家海嶽之
君恩奉報答候昔日
明君御遜位之尊命一出重臣松前勘解由更ニ憂色無ク
崇行公大喪發臣子血涙中淫酒ニ耽リ既ニ明君御遜位之尊命廟議之日勘解由退出ノ路ヲ迂シ御祈願所阿吽寺ニ於テ呼ヒ同類蠣崎監三齋藤帶刀關左守蠣崎衛士鈴木守上田一彌尾山徹三田原藤右衛門等ト酒宴歌舞心跡行状禽獸ニ等シク臣等憤怨ニ不堪ト雖明君御親政之時嚴譴不可免ヲ知ル山下雄城是ヲ糺彈シテ其邪ヲ正ス然而昔雄城等寛量公ニ奉仕ルヤ御大漸ニ臨ミ不臣ノ罪貫盈櫻井小膳建白書ニ顯然明白其心底
明君ヲ尊戴スルニ意ナキ語言中ニモ相露レ擧動ニモ相発臣等尊奉ノ志ヲ妨タル數回其大奸天地不可容ノ罪魁臣等日夜切歯ニ堪ヘス今春皇都ニ於テ既ニ
敦千代君ヲシテ傳統セシメント謀ルト雖臣等ノ正論ヲ憚リ暫ク其形跡ヲ掩フニ到ル臣等是ト同シク生ルヲ欲セス加之遠藤又左衞門御幼弱ノ
敦千代君ヲ輔助シ阿百万徒ニ財貨ヲ散シ崇行公ヲシテ御一誤アラシムルノミナラス敦千代君ヲシテ再誤セシメントス是亦積年ノ姦徒ナリ依之此徒ノ不臣ヲナス皆是レ
明君多士萬民ノ屬望ニ負キ給ヒ
御高蹈御遜譲ノ尊命僥倖シ
君位ヲ蔑如シ諫争ナク正議ヲ排斥シテ採用セス旧冬王政御一新以来天下ノ形勢大変國體ノ強弱ト人心ノ離合ニヨリ他ノ侮辱ヲ招キ来ス他藩ニ殷鑑不遠臣等日夜恟々タリ仰キ願クハ
御遜譲 御高踏ノ 御尊心然宗廟ノ為メ蒼生ノ為メ今日ヨリ 御聽政邪ヲ退ケ正ヲ擧ケ非常ノ御一新奉翹企候不然御政事多門ニ出士庶嚮ヲ所不知已ニ滅スルノ奸邪再燃勘解由監三左守ノ如ク其虚ニ乗シ要路ニ當リ弄政スルニ至ル慨嘆長大息ニ堪ヘス今臣等斧鉞之誅ヲ甘心シテ所以奉哀訴候也 誠恐惶謹言
慶應戊辰四年七月廿八日
蠣 崎 勇喜衛
蠣 崎 民 部
杉 村 矢 城
北 見 傳 治
青 山 荒 雄
村 山 左 冨
小 林 頼 母
蠣 崎 衞 守
氏 家 左 門
蠣 崎 孝 作
蠣 崎 健三郎
田 崎 東
牧 村 可 也
明 石 邦太郎
牧 村 求 馬
松 井 屯
小 林 小源太
鈴 木 織太郎
酒 井 九郎司
今 井 興之丞
土 屋 守 外
下 國 美都喜
土 屋 庫三郎
下 國 東七郎
酒 井 玄 洋
鈴 木 次郎藏
鎌 田 十萬里
尾 見 毅一郎
湊 浅之進
谷 十 郎
池 田 健 藏
松 崎 多 門
渡 邊 整 吾
岩 谷 直 藏
工 藤 大之進
安 田 拙 造
安 田 純一郎
武 藤 玄 省
早 坂 元 長
櫻 井安右衞門
館 野 市 郎
櫻 井 長三郎
岡 林 繁 藏
佐々木 銕 藏
(蠣崎敏記=中島家文書)
というもので、 これは現在の藩政の責任者を皆殺戮さつりくして、 全く新たな藩執行部体制を築こうという要旨である。 これは松前在住の家臣四四名の連書で、
新田千里は儒者、 三上超順は僧籍にあるので員外となっていたほか、 江差奉行の尾見雄三、 同目付役の氏家丹宮も同志の盟約をしている。
この建白書を上呈した際藩主徳広は肺結核が亢進して病床にあったのを起きて出座はしたものの、 痔疾も悪化して座ることができず、 横臥しながらこの建白書を読むという状況で、
思慮分別に欠けるような健康状態にあったので下国安芸、 松前右京、 松前伊豫等中立派の家老の意見をもって建白書を取り上げ、 前記の松井、 鈴木、 下国の三士を近習頭とし、
松前勘解由、 蠣崎監三、 関左守、 山下雄城等の重臣に謹慎を命じ、 老体で日和見的な家老下国安芸を執政として藩政改革と、 反対家臣の粛清に当ることとなり、
正議士が城中の警備の任に就いた。
自宅にあった勘解由はこの急変を聴いて急據登城したが、 門衛は入城を拒否したため、 憤激した勘解由は君命を怒り、 同志を町役所 (寺社町奉行所) に集めたところ、
その数は一、 〇〇〇人にも達したというから城下在住の家臣のほとんどであった。 勘解由は集まった家臣に命じて松前藩の武器弾薬庫である威遠館 (字愛宕-練兵場、
二大隊の銃砲弾薬を収む) の銃砲弾薬を奪い、 法華寺境内に排列して城中を砲撃しようとしたが、 水牧梅ほう干やや蠣崎広胖らが君臣の分をわきまへよとの説得で、
ようやくこれを思い留まった。 一方城中の警備は宿居とのいの士を含め六〇名程度で、 もし勘解由が強行すればこのクーデターは失敗しただろうと考えられるが、
当夜の状況を下国美都喜筆 『蝦夷錦血潮之曙』 (市立函館図書館所蔵) は、 「城中警備最厳ナリ、 恰モ籠城ノ如ク灯火天ヲ焦シ市街騒然終夜灯ヲ滅セス、 実ニ数百年来未曽有ノ変ナルヲ以其煩悶鼎沸ノ如シ」
と述べている。
八月一日主導権を握った正議士中は、 その参加者をもって正議前隊とし、 その後に入隊する者を正議後隊と称し、 本格的にクーデターに乗り出した。 鈴木らは先ず前隊を四つに分け、
第一隊は長松崎多門以下五名で、 松前勘解由宅、 第二隊は長安田拙三以下五名で、 関佐守宅、 第三隊は長渋谷十郎以下四名で山下雄城宅、 第四隊は長杉村矢城以下四名で蠣崎監三宅を急襲し、
それぞれ君命によって誅することを宣言し、 一気に四重臣を抹殺しようとした。
同夜松前勘解由宅を急襲した五名は、 「曰いわく、 勘解由ノ家備固クシテ恰あたたかモ小城郭ノ如シ、 寡かヲ以テ伐リテ敗ヲ取ランヨリハ四隊ヲ合シテ伐うツニ如しカトス」
(前掲 『蝦夷錦血潮之曙』) として斬り込むことを躊躇するという腰抜け振りを見せている。 蠣崎監三家に向かった第四隊は監三を誅殺し、 第二隊は関佐守家に踏み込んだが佐守が留守で、
弟の賜が居合せたので兄の所在を聞いても言わないので、 賜を連行して城北寺町法源寺前で斬り殺している。 前掲史料によれば 「此夜暗昏黒大雨盆ヲ傾ク、 北郭外ヲ通ル者賜ノ死骸ヲ踏ミ、
或ハ驚キ、 或ハ怪ミ街説巷談各々紛々タリ」 とあるように松前城下は上を下への大騒ぎとなった。
山下雄城家を襲った第三隊は、 家中を捜したが発見できず、 妻子が池に隠れているのを発見し尋問したが分からず断念して引き揚げている。 この日の夜、 兼ねて盟約を結んでいた江差奉行の尾見雄三、
目付氏家丹宮が奉行所の半鐘を打鳴して属員を集め、 松前城下が大火のため急拠警備に行くと言って出立し、 途中でこのクーデターに参加するので反対する者があればこの場で斬ると威し、
参加の同意を得て来援した。
二日勘解由を自宅の一室に禁錮に処し、 正議隊士一五名が警備を固めた。 逃れていた関左守は柴田弥太郎を尋ね、 観念して矢太郎の介錯によって自刃した。 三日勘解由は自分が生きているのが藩の為にならないのであれば切腹すると届け出、
城中から検死役人として佐藤男破魔が来たので、 その前で切腹して果てた。 残ったのは山下雄城一人で、 雄城は大松前町 (字福山) の廻船問屋佐渡屋川岸家の土蔵に隠れていたが、
雄城が出て来なければ妻子を殺すと高札を掲げたことから、 逃去五四日目の九月二十四日遂に自分の菩提寺法源寺に至りここから自訴逮捕投獄された。 雄城は下国東七郎、
鈴木織太郎と面語したいと申し入れたが許されないので、 二十五日獄舎で衣襟を剥いで自縊し果てた。 勘解由の処分を終えた正議隊は、 さらにその一派である酒井湧味、
因藤慎六郎、 高橋熊雄、 蛯子愿十郎、 上田一弥、 菅原悦三、 中嶋半九郎も処刑し、 田原藤左衞門、 尾山徹三、 福井佐吾六、 小西弥蔵等に謹慎を命じた。
さらに下国弾正季定、 松前右京広圃、 松前伊豫広治、 蠣崎勇喜紀広興、 新井田隼人備寿まさひさ、 飛内策馬長和等の重臣の職を免じた。 また、 江戸詰家老遠藤又左衞門、
京都詰取次役高橋の二人を処刑の為それぞれ討手を差し向けている。 これらの処分を終えた正議隊は、 日和見的で好々爺の下国安芸を傀儡かいらい執政とし、 下国東七郎、
鈴木織太郎、 松井屯、 尾見雄三、 氏家丹宮を執政、 参政として、 正議隊の意志のままに藩政改革に入った。 しかし、 松前城下の住民達は正議隊のクーデターが、
血で血を洗う残酷なものであったため、 かえって勘解由ら一派を慕うという逆効果を来し、 正議隊には協力せず、 離反の態度が多かった。
【藩政改革と館城の築城】 藩政改革の第一は人心の刷新であった。 この政変で家臣の強制的な信任を得て輿論を統一した正議隊は、 従来の藩主一門、 あるいは遠祖以来の門閥による藩世襲的な藩治を止め、
有能者の登用を目指した。 家老職は寄合席から御先手組席までの広範な家臣の中から抜擢登用し、 用人以下は足軽以上のものから人選し、 一般町人の中でも才覚のある者は勘定奉行まで採用できるよう旧規を改め人事の開暢と刷新を図った。
職制については八月四日軍謀局を開き、 また合議・正議の二局を置き、 当分の間は合議局で評議したものを正議局に廻付し、 正議局のものは合議局に廻し、 これを再評定して決定をするという公平を期した。
九月には軍謀・正議の二局を廃止し、 文武合一の文武館を設立して新田千里を総裁とし、 入学は一般庶民子弟にも利用の途を開いた。 また上書箱を市街に配置して民意の開申を図り、
さらに事務処理の簡略化、 迅速化をも図った。 宗教面では神仏混淆を明らかにするため将 (勝) 軍地蔵尊、 大鳥明神等の堂宇を壊し、 破戒僧数名も罰している。
第二の改革は農業開拓と館城の築城であるが、 蝦夷地は従来寒冷地で農作物の稔結が悪く、 業としての農での生活はできないとされ、 杣夫、 炭焼等との兼業によって僅かに自家用生産を賄ってきた。
しかし、 文化年間以降渡島平野方面では八王子同心の屯田、 あるいは南部あるいは磐城いわき伊達郷の人達の入植、 さらには江差在の小黒部にも入植者があり、
特に寒冷地適合の作物が作られ、 米については南部赤毛あるいは井越和生等が普及してくると、 従来は漁業一辺倒の藩であった松前藩が、 狭められた領地のなかで、
農業開拓によって藩財政の強化を図ろうとした。 その最も注目した地域は厚沢部川流域 (厚沢部町・江差町)、 天の川 (上ノ国町)、 知内川流域 (知内町)
で、 この流域の造田開発を強力に進めようとし、 その拠点として館城 (厚沢部町字館) を築こうというものであった。
この開発と館城築設の計画は前藩主崇広の時代から行われていて、 文久三年 (一八六三) 家老下国弾正の調査の際 「本年ニ至リ千間 (軒) 麓ヨリ館村曠野ニ至ル間道開鑿さくハ、
万ニ一非常外国軍艦ト砲台ト戦端ヲ開ク場合ハ、 福山ハ海岸ニシテ要害ヨロシカラス、 館曠野ヘ営柵ヲ造り山手通御密行ノ目的ナルヨシ弾正氏ヨリ内密洩シタリ」
(工藤丹下長善履歴書) としていて、 その際は農業開発よりも防衛を中心としたものであった。
館城の築立に最も執心であったのは下国東七郎で、 これはクーデターに当って江差奉行尾見雄三を抱え込むための取り引きであったと思われ、 江差商人達は館城が築立される場合、
松前城下の商権が総て江差に移行することによって、 松前城下に取って替ることの出来る目録みがあって、 クーデターの際江差商人が多くの軍用金を醵出していた。
それに引き替え、 松前城下住民の正議隊に対する評判が極めて悪いので、 人心の一新からも移城すべしという考え方が多かった。
一応政変の終息した段階で下国東七郎は箱館に赴き、 箱館府に対し藩論の勤王統一の挨拶と、 館城の築設についての許可願を提出した。 これについては事が府知事の裁量外であるので、
上京して太政官の許可を受けることとし、 判事小野淳助と共に軍務官に許可願を提出するよう指示を受け、 築城の一応の内諾を受けて帰城した。
館城築城の要員は八月二十八日牧村右門、 鈴木文五郎、 今井徽あきら、 鈴木治郎蔵、 三浦巽たつみ、 石塚知平を館に派遣し、 江差奉行には氏家丹宮、 三上超順ちょうじゅんを勧農方、
村山左冨を江差奉行吟味役、 さらには江差の豪商関川平四郎を勘定奉行兼作事主員に抜擢したが、 これは江差商人からの借上金、 献金等を容易にするための苦肉の策であった。
九月十日には本格的な工事に入ったが、 設計は三上超順と牧村右門と考えられ、 築城の総指揮は鈴木文五郎が当り (河野常吉筆 『松前家史料』 岡口利恒談話)、
江差よりの出役二二名、 在方掛材木其外諸事取扱森省吾、 材木川流掛石塚彦右衞門、 諸小屋掛青山幸二郎、 棟梁濱田仁兵衞、 副棟梁三郎兵衞、 土方小頭幸太郎、
同安五郎、 土方総人足廻し清右衞門 (『北門史綱 巻之八』) 等をそれぞれの責任者として工事に当った。
館城の築城は会津若松城の攻防等奥州での徳川に組する諸藩と、 政府軍との間で激烈な戦闘が展開されているなかで、 昼夜兼行で工事が進められ、 十月十五日頃には将来の本丸と目される地域のみが一応の完成を見たが、
この築城場所は、 鶉村 (厚沢部町内) から約四キロ東寄の館村本村を、 さらに糠野川に添い約二キロ東方の台地 (字館城岱) に構築されていて糠野川からは標高差五〇メートルの台上の中央部に本丸を設け、
順次二の丸、 三の丸と台上一帯を城郭にしようと計画されたものらしく、 本丸右脇の丸山には砲台を築設することも計画されていた。
一応の完成を見た館城本丸の規模を明らかにする史料はないが、 藤枝家館城図 (北海道大学附属図書館)、 江差町増田家館城図等によれば、 百間四方 (一八一メートル四方、
三万二、 七六〇平方メートル) の堀と土塁を巡らし、 正面に正門、 左手に裏門を配し、 建物は中央に藩主居館、 藩庁役所、 武士部屋二棟、 賄部屋、 米倉を配したもので、
人夫居小屋等は郭外に設けていた。
館城が一応完成したことによって、 藩主以下は移転の準備に入ったが、 その噂が表面立てば城下住民の反撥を招く恐れがあるので、 内密のうちに準備を進め、
住民達に対しては、 「奸賊伏誅国家安寧物情ノ静況ニ復スルヲ抃へん舞シ市民挙テ三日間ノ盛典ヲ行フ」 (『北門史綱 巻之八』) と申し渡し、 十月十五日より同十八日までの祭礼挙行を命じた。
住民は全く謂いわれのない祭礼に寒さにふるえながら踊っているうちに、 藩主以下は館城へ向けて出発した。 しかし、 この発向が城下市民に知れ猛烈な反撥を招いたが、
正議隊は反対する家臣を衆人の見ている前で自裁させているが、
館新城へ御出発ノ砌町人共遮テ歎願可化風聞專ラ有之候処不一方事件ニ付、 聊いささかノ罪ヲ糺シ光善寺ヘ町内ノ頭役ノモノ相集メ同時ニ(寺か) 於テ平沼清左衞門自刃介錯シ其上百姓共強願致候者ハ清左衞門同様死刑ニ致シ候間篤ト百姓共ヘ可申諭旨達ニ付百姓共驚嘆致シ候事。
(『庚午事件録』)
と、 血で輿論をはね除けるという誠に残忍なことをしての移城であった。
藩主徳広、 世嗣勝千代、 徳広夫人、 先代崇広夫人らは、 家老下国安芸以下二小隊 (約百人) が護衛して、 十月二十日北西の風に雪の降りしきるなか松前を発足したが、
この日の朝すでに徳川脱走軍は森村支村鷲ノ木村に上陸した。 二十四日になって松前にもこの報がもたらされ、 藩は臨戦体制を組み、 蠣崎民部を目代、 尾見雄三を城代、
鈴木織太郎、 田崎東を副将として、 四〇〇余の兵力で松前城を守備することを決定した。
第二節 福島村番所の設置と機能
福島村に松前藩の関係する建物が建設されたのは、 千軒金山番所は別として、 寛保三年 (一七四三) を嚆矢こうしとしている。 その建物とは松前家第十一世藩主邦広が
「御仮家屋敷」 として建造したもので 『戸門治兵衞旧事記』 の記録には、 「館古山、 是ハ邦広公十一代御代仮家屋敷御気附普請地 拵こしらえ 、 寛保三年四月八日逝去、
八日様といふ。」 とある。 松前藩主一族家系を記した 『松前家記』 にも 「寛保三年癸亥閏四月八日邦広卒ス、 年三十九先塋せいえいノ例そばニ葬ル」 とあるが、
福島の口碑のなかでは、 この御仮家の建物が完成して八日目に御殿様が逝去したので、 八日様と呼ばれていたと言われている。
この御仮家 (御狩屋か) の建っていた場所について、 館古山の地名が出てくる。 この館古とは現在の字福島地内館古山麓野の館古と呼ばれている地域とは若干異なり、
福島大神宮のある鏡山、 川濯神社、 稲荷神社のある稲荷山の前麓と坊主沢との間の通称上町と称せられる旧岡本医院跡地付近が、 その場所であろうと考えられる。
なぜ福島にこのような藩主の別業 (別荘) を建築したかというと、 特に十一世藩主邦広は領内の新田開発に意を注いでいたので、 福島を数度検分して福島川流域の造田開発をしようとし、
藩主自ら率先してこれに当ろうとしても適当な宿所がなかったからである。 しかし、 その宿願を達することなく、 三十九歳の若さで逝去したものである。
この御仮家建物は、 その後使用されることなく放置されていたようであるが、 五十一年を経た寛政六年 (一七九四-甲寅) 邦広の五男で永らく藩執政を勤めた松前監物けんもつ広長が、
藩から隠居所として借り受け、 大改修してここに住まい 「清音館」 と名付け、 風花日月を賞でていて、 福島村を讃美した 『覆甕草』 中の清音館記もここで作詩されたものである。
福島村館古に八年間住まっていた松前広長は六十五歳で享和元年 (一八〇一) 五月十日に没し、 松前曹洞宗法源寺村上松前家墓地に葬られた。 その後、 この建物については
『戸門治兵衞旧事記』 では、
享和三年 (一八〇三)
福島村御勤番所家造立地、 古来村役屋地上町表口十間四方一尺五寸、 裏行十六間ニ御座候。 御代々御巡見様御宿之節上様御普請被附相勤罷在候。 猶又名主役之者家宜勤り兼候節村中勿寄家作仕爲罷在候。
となっていて、 藩主が福島で宿泊の場合や、 御巡見使が検分巡行の場合に宿舎として利用した。 また、 福島村の名主を選ぶ場合は自宅を村役場と役宅とにしていたので、
旅籠屋はたごや等の大家主でなければ名主となれなかった。 したがって、 戸門治兵衞家や住吉辰右衞門、 花田六右衞門、 原田治五右衞門、 金屋助三郎家のような代々村役となる家々は、
漁業を兼ねて旅籠屋をも経営し、 これを役宅として人馬逓送等の業務も行っていた。 しかし、 福島村にはこのような藩の建物が町の中心部に空家となっていたので、
これを修理して村会所としたことが分かる。
これより少し前の寛政元年 (一七八九) に発生した国後くなしり・目梨めなしの蝦夷乱に、 領内警備のため、 福島村に番所を取り建て、 慕舞腰掛岩前と吉田橋内側に大門を建て、
堺弥六、 新井田瀬平様 (兵衞か) が御役人として出張している。 その後は享和三年 (一八〇三) の前掲史料では、 「三月牧村忠左衞門様、 下役奥村久太郎初而当村御勤番。
上ケ月代り新井田源左衞門様、 下役工藤忠太。 右受代蠣崎周七様、 下役田村半平十一月中ニ而御引取後下ル。」 とあって、 三月から十一月までの間に三か月交代で藩士が番所に詰めており、
外国船の来航監視を主業務としていたようであるが、 この番所は前記の建物が利用されたようである。
笹井家 (現常磐井家) の 『天保三年日記』 を見ると、 福島神明社境内に御台場 (砲台) があり、 この掛りの者が、 神主笹井家に下宿していたが、
この年九月二十三日笹井治部正が死亡したので、 別家の原田、 三国屋安次郎宅に宿を頼み宿替を認められており、 福島番所の役人と御台場掛とは異なっていたと思われる。
また、 宮歌村 『嘉永元年 (一八四八) 御用物御用状継送扣留』 によれば、 福島村御役所詰の役人には村井徳五郎、 柴田半二郎、 成田庄蔵の三名が駐在していた。
さらに明治元年 (一八六八) 十月二十七日徳川脱走軍の襲来を茶屋峠から福島村で防ぐべく出兵した松前藩兵は、 城代蠣崎民部を中心として法界寺を本陣とし、
蠣崎民部の宿舎としていたが、 十一月二日の決戦で法界寺は焼失している。
第三節 沿岸警備と砲台
徳川幕政期も末期に近い天保年間 (一八三〇~四三) になると、 北海道近海は外国船の出没が多く、 沿岸警備が重要な課題となってきた。 世界の鯨漁業はノールウェーを中心とした北氷洋であったが、
この時期には資源が枯渇し、 新漁場を求めて各国の捕鯨船が捜していた。 すると蝦夷地近海には多くの鯨のいることが分かり、 各国の捕鯨船が殺到して来た。 これらの捕鯨船は薪水、
食糧の補給をしなければならず、 密かに蝦夷地の海岸に着いて薪水の補給をしていた。
幕府は寛永十六年 (一六三九) 以降国を鎖とざし対外貿易は開港地長崎でオランダ以外は認めなかった。 さらに国禁を冒して入り込んで来る船は、 理由のいかんを問わず打払うよう幕府から厳命を受けていた時でもあり、
国防上からの見地からしても沿岸防備のため、 砲台の築設が必要であった。 そのため船舶の出入の多い吉岡と、 仮泊地の福島沖を守るため両地に砲台が築かれた。
福島砲台 (御台場) は、 福島神明社神主笹井家の日記によれば、 天保三年 (一八三二) 九月には御台場掛りが勤務し、 笹井家に下宿をしていたことが記されているので、
この砲台は福島神明社前の海岸に対する崖上にあった事が考えられるが、 砲台の規模、 大砲の口径等を知る史料は残されていない。 ただこの笹井家の日記によれば、
同年九月には星野利兵衞、 十月工藤忠太で、 工藤は十一月一日に勤番を引払い松前に帰っている。 翌天保四年の日記では、 御台場詰として三月十五日より四月まで森作右衞門、
四月より五月まで工藤治兵衞、 五月より六月まで岡儀八、 六月より七月星野利兵衞、 七月二十二日より小杉六右衞門が在勤し、 この年若殿様 (第十五世良広)
が砲台を巡視している。 これら在勤の藩士は、 士分の者であるので、 二名程度の足軽も帯同してきたと思われる。
一方吉岡砲台については天保十五年 (一八四四) の 『松前藩警備状況』 (北海道史) によれば、
吉岡村台場 三百目筒一挺、 百五十目筒一挺。
大筒掛士一騎、 徒士二人、 足軽二人
で士一騎と、 徒士、 足軽が二人ずつ計五人が吉岡村に常駐していたことが分かる。
この砲台の場所、 規模については、 函館市中島良信家所蔵の 『松前家史料』 のなかに 「吉岡村御台場見取図」 がある。 その場所は吉岡八幡神社東側の崖上と推定され、
その説明では、 「砲門より海岸水迄弐拾七間余 (四八・八メートル)、 海岸水上より亀甲坂上までは高サ拾壱間四尺余 (二〇・六メートル)」 で、 この亀甲坂を登り詰めたところに入口門があり、
この東・西・北の三面は幅五尺余、 足高一丈余の長方形の土塁となっており、 土塁内側は拾間二尺余の正方形で、 その南面し海に向かう砲座は、 土手足四間三尺余、
中央に物見台を設け、 その両側に二間三尺余の砲台が設けられていた。 当初砲座二か所で大砲二門の砲台であったと思われるが、 安政三~四年 (一八六七~八)
松前藩は大沢村字根森に大砲鋳造所を設け、 新鋳の大砲を製造したほか、 旧式砲も性能のよい新式砲に改鋳したと考えられ、 幕末には三百匁砲三門が配備されていた。
この天保十五年頃の吉岡砲台の築設によって、 福島神明社前の福島砲台は廃止となった。
明治元年の福島の戦争では福島神明社前の砲台と、 徳川脱走軍軍艦蟠龍、 回天との間で激しい砲撃戦を展開したが、 この砲台は出兵した松前藩兵が臨時に設けた砲台で、
三百匁砲四門であった。 また、 茶屋峠上に仮設の砲台を設け、 ここに備えた大砲二門は、 吉岡砲台の備砲を運搬したものである。
このような外国捕鯨船の出没を警戒するなかで、 吉岡沖之口役所の収税倉庫が、 一時外国人抑留者の収容所となったことがある。 北アメリカの捕鯨船ライテント号
(三二人乗組) が樺太 (唐太-サガレン州) 東海岸ヲロタという地の沖に仮泊し、 嘉永二年 (一八四九) 六月三日乗組員一八名が上陸して薪水の補給をしていたが、
その内三名が森中に踏み迷い、 一行は帰船出帆し、 三名は松前藩勤番兵に救助された。 この三名の名は、
北アメリカ洲 ネウヨルク ゼームスフェルリス 二十三歳
同 デニルウィルソン 二十六歳
同 ジョルヂロウワルド 二十三歳
というが、 彼らの持ち物は、 白雲斉筒袖、 木綿筒袖、 紺雲斉股引ももひき、 丸頭巾、 手拭、 紺足袋、 団扇うちわ、 鏡、櫛、 きせる、 小刀、 化粧筆を持っているので、
森林に迷い込んだものではなく、 覚悟の棄船脱走であったと考えられるが、 救助した家臣も方途なく、 抑留者としてこれを松前に送致した。
しかし、 このような外国人抑留者があった場合、 直接松前城下にこの者達を入れると、 城下の展望や防禦が丸見えとなってしまうので、 これらの者を吉岡村に抑留した。
『北門史綱 巻之壱』 にも、 八月十六日の項として、 「樺太島漂到ノ亜墨利加国人此年六月廿四日
ノ漂着ニ係ル三員ヲ航致シテ東部吉岡港
ニ着航ス市北傳治沢ニ拘置シ、 以テ幕府ノ命ヲ俟ツ」 とある。
吉岡の拘置所に当てられた場所は吉岡沖之口番所の通り庭倉庫 (通関手続倉) であったろうと考えられる。 その後松前城下の中心から東へ一キロメートルの傳知沢に藩の米倉が連立しており、
この倉を改装して抑留者を吉岡から移しているが、 吉岡での拘置がどの位の日数であったかは不明である。
翌嘉永三年五月五日藩は物頭田村胤保たねやす、 目付平田貞昭等をもって傳知沢拘置のアメリカ人三名を護送しているが、 長崎へ到着したのは七月二日であり、
長崎奉行の報告 『通航一覧続輯 巻之百二十一』 によれば、 介添警固の松前藩兵は物頭田村逸平次、 目付平田五左衞門、 組士鈴木藤左衞門、 天野七郎、 徒士目付谷や梯はし啓三、
徒士松崎龍蔵、 高橋左仲太、 医師菊地立郎、 足軽小頭両人、 足軽八人と併せて上下三五人にも達し、 藩は多大の出費を要していた。
第四節 飢饉と福島
飢饉とは天候不順等で稲作をはじめ、 農作物が稔結せず、 そのため食糧に窮し、 遂には餓死するという状況をいい、 近世においてはこの事象がしばしばあった。
特に東北地方においては、 その状況が激しかった。 東北地方の三大飢饉とは元和、 天明、 天保の年代に起きた飢饉をいい、 これに元禄年間を加えると四大飢饉という。
元和の飢饉は元和元年から三年 (一六一五~一七) である。 この飢饉は寒冷と積雪で作物が全く稔らなかったという。 元和三年津軽に流刑されているキリシタンを慰問するため、
秋田から矢立峠、 碇ケ関を経過したイエズス会の神父D・アンジェリスの報告書では、 夏にもかかわらず、 矢立峠では腰を没する雪があったと報じている。 そのため津軽、
秋田の領内では食うことのできない領民の多くは、 金掘となって蝦夷地内に逃散ちょうさんし、 大千軒岳を中心とした諸河川に入って砂金掘をしている。 楚湖そっこ
(字松浦) と大沢に砂金が採出されたのもこの年であり、 また、 船隠しの澗の伝説もこのころ入った砂金掘の伝説であり、 この元和の飢饉と当地方とのかかわり合いは深い。
元禄の飢饉は元禄九年から同十四年 (一六九六~一七〇一) である。 『常磐井家 福島村沿革』 によれば、
元禄九年
津軽、 秋田ノ沖口止リ、 大飢饉餓死甚シ、 松前一人モ餓死者ナシ。 二月十八日秋田越前屋ノ舟米四百五十俵積来、 夫レヨリ米舟続々来ル。
元禄十四年
七月廿九日大風雨高浪ニテ亀田村洪水。 八月六日大風雨畑作皆無破船数百艘、 秋ヨリ当島前代未聞ノ飢饉、 領主十二月八日ヨリ施米二万人
とその惨状を記録しているが、 幸い福島地方では、 餓死者がなかった。
東北地方の住民が半減したという天明の飢饉は天明三年 (一七八三) から八年まで、 かつてない惨状を呈し、 津軽藩内では人口二十四万人のうち、 八万人が餓死、
四万人が逃散し、 その人口が半減するという全く悲惨なものであった。 特に同三年、 四年に被害が集中し、 同八年にいたってようやく七分作となった。 三月は寒気が強く、
五月には霖雨りんう-長雨と冷気-でやませが強く、 夏にいたっても寒く遂に作物は稔結せず、 平成五年と同じような状況となった。 そのため住民は山菜の根を掘り糊口をしのいでいたが、
翌年春までには全く食糧がなくなり、 遂には犬、 猫から、 果ては人肉相喰むというかつてない惨事となり、 ばたばたと死んでいった人が多い。
天明五年西津軽地方から津軽平野に入った秋田の旅行者で博学者でもある菅江真澄は、 その著 『そとが浜風』 では村に入ると入口に餓死者の亡骸なきがらがうず高く積み上げられていて、
正にこの世の地獄であったというし、 夜村中を歩いていると、 死骸を踏み、 その凄惨さは正に筆舌に尽くし難いと述べており、 蝦夷地に渡れば何とか食えるだろうと、
三厩や小泊等の湊場に集まる人達は、 長蛇の列を造っていたという。
福島村においても、 この凶作が大きく影響した。 特に住民収入の大宗を占めるニシンがこの年から凶漁ということで、 二重の生活苦を体験した。 『戸門治兵衞旧事記』
では、
天明三年 (一七八三)
津軽凶作ニ而四十万人がし (餓死) 仕候。 仙台、 秋田、 南部夥敷おびただしき死、 別而仙台、 津軽人多死去。 天明三年秋凶作蔵々御吟味ニ而、 米改米持ニ売米爲致村々名主家内書ニ而壱人ニ二合五勺、
壱斗百文町役所買受仕。 内々賣十二匁 (両) 、 十三位(両) (一俵四斗入)。 天明四年春米船下り不申候。 内 (々) 廿五匁 (両) 迄仕候。
とあって米価が日を追う毎に高騰して行く状況が、 手に取るように分かる。 さらに 『常磐井家 福島村沿革』 においては、
天明三年
凶作、 不漁、 わらび根、 海草を食したれども餓死セシ者無之、 続々内地ヨリ移住者入込テ、 餓死ヲ免レタリ。 領主ヨリ蔵々吟味致シ、 米改ノ上、 売米穀サセタリ。
村々名主ヨリ家内ヲ書上サセ、 壱人ニ付弐合五勺壱ハカリ百文宛町役所ヨリ買受仕候。 内々売ハ十二両、 十三両位也。
とあって、 津軽・南部から密かに餓死を免れようと渡海する人達が多かった。 ニシンが豊漁であれば何とか生活は可能ではあったが、 換価作物的な要素を踏まえていた蝦夷地では、
凶漁によって生活ができず、 藩よりのお救米に手当たり次第に物を混入して食いつなぎ、 海草のコンブを粉にして粥に混ぜたのもこの時である。 これは干上がったコンブを臼で搗き、
粉にしたものを 「おしめコンブ」 として食したほか、 わらび、 笹の実等の山菜の根を食べてしのいだという。 また翌年 (四年) 以降寛政七年 (一七九六)
まで十四年間道南地方の前浜でのニシン凶漁は続いた。 当地方の漁民たちは、 近場所から中場所にかけて追ニシンをして、 収入の確保に懸命の努力を続けた。 前記『福島村沿革』では、
天明四年
春船来ラス其内廿五両 (一俵) マテ致セリ、 鯡にしん走おそく、 三月七日一度漁ニテアリキ、 夫ヨリ段々不漁打続、 鰊にしん取ニ参ナリ、 近場所瀬田内上へ参申候。
であった。 地元住民でもこのような飢渇を体験しているので、 蝦夷地へ密入国した人達の生活は更に困窮していた。 本来松前、 蝦夷地に入国する者は、 入国手形と松前で身元引受人を必要としたが、
それを持たない彼等は藩の目の届かない六ヶ場所 (亀田郡、 茅部郡地方) や口蝦夷地 (久遠、 太櫓、 瀬棚地方) に潜入して、 漁業を通じて糊口をしのぎ、
その地方に定着する過程を作って行った。 この天明の飢饉で、 松前藩領内では餓死者はなかったと公表しているが、 寺院のなかには、 餓死者慰霊の大施食法要を行っている寺もあるところを見ると、
若干の餓死者はあったものと考えられる。
天保の飢饉は、 天保三年から十年までの間 (一八三二~三九) に、 同五年を除き、 七年間連続の凶作であった。 天保三年の飢饉は土用に入っても快晴を見ることなく、
九月中旬降雪が二尺に達したといい、 そのため凶作による不作の連続で住民は全く食糧がなく、 津軽藩は被害の少なかった関西や九州方面で米の買い付けを行っているが、
米価は高く、 住民の救済が出来ないため、 餓死者は続出した。
天保七年の津軽地方凶作の天候状況や凶作状況を知る史料に三厩村(東津軽郡)名主の松前家の本陣松前屋庄平 (三厩村長山田清昭氏の祖先) より、 松前藩家老の蠣崎将監
(広伴とも-広年、 波響の子) に宛てた手紙に、 次のように報じている。
農業之者初メ一同不案心相募罷在候処、 土用過ニ相成候所、 存之外稲作、 雜穀ニ至迄立直り既ニ六、 七歩 (分) 位之作年ニ相納り可申段一統申唱候ニ付、
平年同様之用意茂不仕相楽ミ罷在候処、 八月上旬ニいたり両三度霜降大障可相成候由。 此節苅立最中ニ付夫々見分方巡行仕候処、 不存寄実入無御座一円平均壱歩年無覚束候見込ニ而、
全く皆無同前飢饉ニ相成候程ニ御座候。 然者當国者米穀第一之国産ニ而、 津出米無御座候而者金銭不融通ニ而當時買入米船々手段ニ及兼、 殊ニ近年違作続ニ而国中一同不時之用意茂喰尽し此節殆と手を束、
困窮差逼り追日雪中ニ茂相成候ハヽ飢渇之者モ不少候相聞説、 寔まことニ歎敷奉存候。
申 十 月
松 前 屋 庄 平
蠣 崎 将 監 様
御 取 次 中
このような状況であったので、 同八年の冬の飢饉は激しく、 この年は三分の二の作柄ではあったが、 連年の凶作の余波を受け、 住民に財力もなく餓死者四万五、
〇〇〇人余、 逃散者は一万人に達したという。 僅か一年間でこのような死者数であるから、 この天保の飢饉の七年間に死亡した餓死者は相当数に達したと思われる。
一方松前藩領内については、 天保四年、 五年の松前町会所 『町年寄抜書』 に於ては、 津軽、 南部地方の凶作を見越して、 幕府の越後払下米や、 大坂、
勢州から肥前、 肥後といった関西から九州地方にかけて近江商人や場所請負人を通じて米を買い集め、 領内の食糧安定のために努めていることが記されている。
また、 七年の飢饉は深刻なものであった。 『松前家記』 の第十五世良広の項には、
是歳 (天保七年) 奥羽大飢ユヘ米価貴騰ス。 乃チ蓄穀乾魚ヲ以テ封内ノ貧民ヲ賑恤ス。 曽かつテ餓死之者ナシ。 〇春ヨリ冬ニ至リ南部、 津軽ノ流民北渡スル者甚多シ、
人毎ニ銭、 糧ヲ給シテ之ヲ還ス。
という藩としても領民はもとより、 他国からの流入者の介抱にも配慮しなければならなかった。 幸い松前藩領内は手当も迅速だったので本州からの廻米も多く、 各村には安価の救助米が配備され、
住民は何とか糊口を凌ぐことが出来た。 『宮歌村文書 村方日要覚』 の中にも、 この飢饉の際の廻米記録が記されている。
天保七申年秋八月下旬より
米高直ニ付
御上様より市中在々一同江御払米被仰付當村方へ四斗入三拾五俵直段拾壱匁五分右御米代金即納可致由被仰出福嶋村金屋助四郎殿金廿七両借用仕
御上より御買請取相済右之米霜月朔日より桝賣ニいたし壱舛代百六拾貳文ツツ、 尤壱俵ニ付諸掛百五拾文ツツ割合
一兵庫米貳拾壱俵
但し元桝三斗九舛弐合
直段拾貳匁九分五厘
右は吉岡村江御城下曰印米積落船ニ付時沖之口御詰合
中 村 清 七 様
御手配被成下候而當村方へ右米八拾俵小俵三斗弐舛三合入三拾四俵割合被仰付候得共、 此内福嶋村役人中願ニよって拾俵配分致遣村方入米都合俵数百四俵ニ成、 右之内廿三俵ハ村有金ニて買請此分ハ村米ニ定置、
残リ大小八拾三俵は今年烏賊漁業之銘々江相拂。
一其後金屋助四郎殿宮ノ歌爲救御上様江御拂米願出候所、 早速御聞届被遊右願之通被仰付、 依而當村方へ右印願請御拂米三拾五俵御貸附ニ被成下候ニ付、 村役人中手配いたし人足は村中三半船壱艘積取加勢ニ差出し、
福嶋村迄百俵積送候所、 御同家より右太儀料として名主殿へ素壱箇、 鮭十本、 役人中へ鮭十五本素壱箇、 船運賃ニ錢壱叺御持参被成下候得とも運賃は御断申上候て三半船主兼助殿へハ船代ニ素壱箇遣し双方無殊
(ママ) 大慶ニ納リ申候、 依之右吉岡米并印米都合五拾六俵は貸附仕候上ニて別帳に記し置者也。
于 時
天保七申十一月朔改メ置
時 村 役
名 主 鈴 木 幸 吉
年 寄 山 本 喜 兵 衞
同 仲 山 宮 松
百姓代 岩 沢 弥 之 丞
表百姓代 石 岡 又右衞門
申十二月八日御觸書至来即披見仕候所村々極難之者共江御救米御下ケ被下置候間村役并請取人同道ニて明九日迄罷登リ可申由ニ付、 先達而調子上候極難之人数左ニ記
一 辰 平
家 内 九 人
尤壱人ニ付黒米三舛ツヽ子供ニ壱人ニ弐舛都合弐斗弐舛被下候
一 喜代松
家 内 三 人
右 同 断 九 舛
一 万兵衞
家 内 三 人
右 同 断 九 舛
仁太郎
弐 人
子供両人故 五舛
一 権兵衞
一 幸 七
右両人孤獨者書上仕候壱人前三舛ツヽ両人分六舛、 此分は喜右衞門家内なよ壱人當村江住宅致、 喜右衞門親子之儀は當秋より小谷石村江参リ候故、 なよ至極難渋ニ付右両人之六舛ハなよ江遣し申候。
其節御城下表之取沙汰ニハ蝦夷地行船々飯料不足之者には御上様より仕送リ米御拂之由承リ、
時ノ在方御掛
石 黒 善 吉 様へ
御内々御伺申上候所、 人数取調子可差出由被仰付候ニ付、 御米五拾俵人数十九人ノ名前ニて願上差出置申候。
天保七申十二月十三日
在 方 御 掛
石 黒 善 吉 様
下 役
葛 西 吉 藏 様
在方御見巡リニ付極窮之者御尋ニ相成當時村方人別之内小谷石村ニ住宅致候仁太郎家内弐人申上置候。
これによると、 藩の御払米は一俵一両二分程度であるが、 これは通常価格の三倍ではあるが、 市販の米が内緒売で十両から十二両位であったから、 十分の一位の価格で払い下げられていた。
この時宮歌村には金がないため、 福島村の金屋(谷) 助四郎から借り、 他はイカ釣漁業での鯣するめで返す青田借りとしている。 また、 病人や独居者の世帯については、
特に名主が取り調べて藩に申告し、 藩からは救済米が下付された。
松前藩領地内では餓死者もなく、 この飢饉を乗り切ることができたが、 向地の津軽、 南部、 秋田地方を逃散して蝦夷地に入る人達が多く、 発見されると少しの米と干魚等を与えて、
向地に返している。 しかし、 この目を逃れて山稼者になったり、 小村落に入り込む人も多かった。 例えば福島町の農業のさきがけとなった渋谷寅之丞等も、 この天保飢饉の年代に福島へ入ってきている。
『古来御巡見様松前江御発駕覚』 (福士忠次郎筆 天保十二年 市立函館図書館蔵) によれば、
南部数野 (鹿角) 之寅之助 (丞) 卜申者歳々當村祐五郎 (金谷) 方江出稼ニ罷越候。 天保四癸巳歳向地山作ニ付、 當村字館ノ沢ト申候處川向ニおゐて小家を掛ケ、
越歳致候。 田畠少々計造、 米稗ひえ少々取上ケ、 同十二辛丑歳同村御名主祐三郎 (金谷)、 儀兵衞 (福士)、 祐四郎、 祐五郎、 百姓代彦次郎 (金沢)、
治兵衞 (戸門) 右之処へ身元引請、 金重郎 (中塚) を以百姓入願出候ニ付、 御聞済之上御百姓いたし候。
とあり、 最初は杣夫の山稼として入国、 家を建て、 田畑を耕すことによって、 ようやく九年後福島村に居住権を得た過程が詳細に分かる。
また藩政時代、 福島村の枝村であった小谷石村の生活を伝える 『松前天保凶荒録』 では次のように記録されている。
同郡知内・小谷石両村
天保年間ノ凶荒ノ時ハ、 旧松前藩主ヨリ一日壱人ニ付米一合ツヽノ積ヲ以テ月々三度ツヽ払下アリ。 依之蕨わらび并葛くずノ
根ヲ堀採搗碎シ、 汁ヲ取り、 又イゲマ (方言但蘿蔔
ニ以タリ) ヲ掘採り、 灰水ニテ煮テ搗碎キ、 汁ヲ取り桶ニ入レ水ヲ清シ、ら ふ く
濃キ処ヲ取り穀類ニ混和シテ食シ (多ク食スレハ腫病ヲ煩フ) 又楢ならノ実ヲ同上製シテ食シモアリ、
其外馬鈴薯、 蘿蔔らふく等ハ相応ノ作ニテ、 右等ヲ以テ助命シ餓死壱人モナカリシヨシナリ。
とその生活が容易なものでなかったことを記している。 蘿蔔らふくとは大根のことで、 僅かに藩から払い下げられる一人一日一合の米に、 この大根や、 馬鈴薯
(二に斗どう薯いも、 五舛薯ごしょういもともいう) やわらび、 くずなどの澱粉、 コンブのオシメ等を食べ、 露命をつないだが、 札苅、 泉沢、 木古内村方面では、
「此際青森地方ヨリ続々渡航セシ人アリテ、 漁業ヲ営ミ、 後土着移住、 今尚残留セルモノ数多アリ」 と述べていて、 これで道南地方各地に定着して行った過程がよく分かる。
第 二 章 産業の変化
第一節 ニシン漁業の興廃と代替漁業
道南和人地に住む漁民達にとってニシンは重要な資源であり、 一年の計は主にこのニシンによって賄われていた。 このニシン漁業については第二編第三章第一節で詳述したが、
幕末の年代には、 このニシン漁業の様相も若干の変化を見せて来た。 天明八年 (一七八八)、 天保三年以降十年迄 (一八三二~三九) のこの二回は東北三大飢饉の年であったが、
特に蝦夷地においては、 それまで豊漁の続いたニシン漁も凶漁で、 例年ならばこの漁によって安易に過ごせる漁民は、 入米が少なく、 入っても例年の一〇倍もする米価では主食に窮し、
干鱈たらや昆布を搗いて粉にして製したオシメ昆布に雑穀を交ぜて糊口をしのぐという状況であった。
この天明の飢饉以後ニシンの豊凶が、 その年によって異なり極めて不安定な漁業となってきた。 翌寛政元年 (一七八九) もニシン漁業が不漁となったため、
江差・乙部・熊石付近の漁民達は、 その原因は奥地場所の請負人達が投資を拡大して、 各場所に大網 (笊ざる網) を使って大量のニシンを獲り、 これの加工に手が廻らないので、
簡単に加工できる魚粕にして売り出すために資源が枯渇してしまったから、 この大網を禁止するよう藩に願い出、 もし、 願望が容れられなければ実力行使も辞さないという態度をとったので、
藩も事態を重視し、 大網の使用禁止を命じている。
この禁令は守られず場所請負人達は密かにその場所で大網を使用していたので、 奮激した熊石村外八か村の漁民五〇〇人が徒党を組み、 安政二年 (一八六六)
西蝦夷地の近場所や中場所 (積丹半島付近まで) へ船々に乗り込んで北上し、 大網を切断して廻るという事件があった。
このように蝦夷地の中でも渡島半島の和人地はニシン漁業が不安定であったのに対し、 それより以北の積丹半島までの口蝦夷地、 さらにそれより石狩川付近までの中蝦夷地、
さらにそれより以北の奥蝦夷地は比較的不漁も少なく安定していたので、 これに目を付けた福島の漁民達が比較的に古い時代から、 この中蝦夷地方面にニシン取として出稼している。
常磐井家所蔵 『戸門治兵衞旧事記』 では、 次のように記されている。
天明六年 (一七八六)
当村天明六年之頃市右衞門ヲタスツ場所江壱艘鯡にしん取参候。 一 場所ニ而同印仕入ニ而一ケ年ニ四百本、 五百本取
なかいち
申候。 佐五右衞門高嶋江同七年之頃参候。 別而宜敷御座候。
歌棄うたすつは十佐藤栄右衞門の請負場所であるが、 一 印は住吉屋西川准兵衞 (近江商人) である。 したがって□一印住吉屋
かくじゅう なかいち
の仕入を受け、 十印佐藤屋の請負場所で追鯡漁の出稼をしていて、 四~五〇〇本の身欠鯡や胴鯡を得たという。 ニシンの一本はニシン一把一〇〇本で、 これを二十八把入、
つまり二、 八〇〇本入を莚包にしたものが一本であるから、 四〇〇本でも百万尾以上のニシンを獲ったことになる。 したがってこの追ニシン漁は地元地先でニシン漁をするより収入も大きく、
安定しているので、 皆先を争って出稼をするようになった。
前同 『戸門治兵衞旧事記』 では、 寛政元年 (一七八九) 尾足内 (小樽内) マサリ称ね宜ぎ場所に大願主笹井庄右衞門が稲荷大明神の社殿を建立したが、
その時の神主は笹井日向正佐波が勤めたと記されており、 さらに常磐井家の 『福島村沿革』 では 「神主常磐井 (笹井) 武雄村人数名ヲ連レ小樽マサリニテ漁場ヲ開ク、
同年稲荷社ヲ建立セリ」 とあって、 笹井家別家庄右衞門や神主笹井佐波らがこの場所に出稼していた事が分かる。 マサリ場所とは現在の小樽市朝里町で、 この町には当時建立した稲荷神社が残されている。
『福島町史第一巻史料編』 の 『白鳥氏日記 第一巻』 (二四一~四三頁) にある如く、 神主である笹井佐波が半年もの間神主の職を放擲てきして遠蝦夷地へ鯡取に出稼するのは甚だ不届であり、
さらに船を新造して本格的操業をしようとするのは言外であると、 神道触頭ふれがしら白鳥遠江から神道裁許を取り消すと、 お叱りを受けたのはこの時である。 その後神主笹井家はこの追鯡漁を止め、
福島に留まり、 ニシン漁期には前浜刺網漁業者の組に入って操業している。
これら追鯡漁業者は二に・八取はちとりとも呼ばれていた。 それは場所請負人の占有している場所に入漁する場合は、 先ず予め場所請負人の許可を受け、 数人が組となって乗替船
(五~七人位乗)、 図合船 (六~九人位乗) 等の小型船に食糧、 漁網等を積んで場所に行き、 操業の上製品の二割を場所請負人に納めるので、 二・八取と呼ばれていた。
これらの漁場のうち増毛、 留萌、 苫前等の奥場所は殆どが開発されていないので、 これに着目した福島を代表する漁業者であった花田伝七、 中塚金十郎らが、
安政年間以降場所請負人栖原六右衞門の同意を取り付け、 花田は鬼鹿 (小平町)、 中塚は天登雁 (小平町) で漁業を始め、 以来営々努力して北海道を代表する漁業家となった。
河野常吉編になる 『北海道史人名彙下』 によると、
はなだ-でんしち 花田 傳七
本道屈指の漁業家なり。 先祖傳七姓を上林と称し、 芸州広島の郷士たりしが、 享保十五年故ありて南部盛岡に移り、
後、 渡航して、 松前郡福島村に住し、 姻族の氏を冒して花田と改む。 子孫世々傳七と称し、
松前藩の陣屋を勤む。 数代の後漁業を始む。 其子傳七、 幼名を治三郎と称す。 天保元年七月を以って福島に生る。
奮励多年、 該地方屈指の漁業家となり、 次で西蝦夷地留萌場所鬼鹿に出稼して、 漁場を開く。
文久三年一家挙げて、 鬼鹿今の鬼鹿村大字天登雁に移り、 更に進んで宗谷・利尻等に漁場を設け、
巨利を博し、 天塩国有数の漁業家となれり。 傳七性孝順にして公共の念篤く、 村総代其他の公職に就きて功績多し。
安政年間松前藩主より其の孝心を旌表して青緡あおさし三貫文を賞賜せられ、 明治二年三月苗字帯刀を許さる。
…以下略
とあって、 この鬼鹿場所を開拓し、 これを足場に宗谷、 利尻島等の奥場所の開発と、 その成功によって厖大な産をなして行く、 花田傳七の姿をよく表現している。
また、 今一人の同地方開拓者である中塚金十郎についても、 前掲同史料では、
なかつか-きんじふらう 中塚 金十郎
漁業家なり。 渡島国松前郡福島村の人。 文政八年を以て生る。 父も亦金十郎と称し、 年々西蝦夷地小樽内場所字熊確くまうすに出稼し、 差網を以て鰊を漁す。
金十郎天保十一年十六歳にして父に従ひ、 熊確に出稼せしが、 会たま々三四年間薄漁のため損失を来し、 終に漁具を挙げて他人に交付す。 是に於て金十郎薪を採り炭を焼き、
之を福山に運搬売却して、 僅に生計を立て、 再び差網五六放を準備し、 熊確に出稼せしに、 相応の漁獲あり。 次年には差網を増して、 十余放となし、 安政三年には五十放となり、
漁夫数名を雇使するに至る。 五年苫前場所字天登雁てんとかりに出稼し、 荒地を拓き漁場を設け、 建網一統を以て鰊を漁す。 以後年々同地に出稼をなし、 明治十二年迄は毎年概おおむね鰊四百五拾石を収獲し、
…以下略
とあるように、 初期には小樽内場所の熊確でニシン差網を立て、 さらに鬼鹿村で隆々辛苦して漁場主となってゆく過程をよく表現している。
このように福島村や吉岡村の村民達は幕末以降留萌場所中の天登雁村と鬼鹿村 (共に小平町)、 苫前場所中の力昼りきびる村 (苫前町) の三村に集中していて山口藩の明治四年戸口調
(『小平町史資料第一編』) によると、 天登雁、 鬼鹿村永住者中の福島、 吉岡村出身者は、 次の人達であると推定される。
阿部 甚衞門 雇 十六人
笹井 安二郎 雇 二十一人
中塚 金十郎 雇 三十二人
阿部 久 吉 雇 二人内女一人
花田 清左衞門 雇 二十人
住吉 安 蔵 雇 二十三人
荒関 孫 六 雇 十九人
阿部 藤次良 雇 十三人
福士 藤次良 雇 十九人
花田 傳 七 雇 二十六人
等で、 しかも多くのニシン場雇を使役している。 この名簿のほかに鳴海辰六、 横内兼吉、 福士儀兵衞等もあると思われる。
一方苫前場所中の力昼りきびる村は 『苫前町史資料第二編』 から摘出すると福島、 吉岡村の漁業経営者で明治初期までに漁場を開いたものは、 金沢友次郎、
畑中藤吉、 畑中佐助、 福士傳吉、 福士覚右衞門、 福士儀兵衞、 福士栄吉、 金谷五郎、 奥山善四郎、 笹森長太郎、 金谷松五郎、 住吉幸太郎、 白符子之松、
花田六右衞門、 金沢藤吉、 永田七蔵、 原田駒太郎であったと推定される。 これらの人達の発展状況を河野常吉 『天塩国調査』 (明治三十年調査) によると、
○力昼村 大谷源蔵氏 (より聴取)
一、 村内平均二万石ノ収獲アラサレバ不可ナリ。 二万四五千石ナラザレバ善シト云フ能ハズ
一、 福島、 吉岡人多シ。 越年者デ建網ヲナスハ三戸ノミ。
一、 安政四年頃ハ出稼人ハ盛ナラン。 字力昼ニ観音アリ。 其台ニ安政四年支配人伊助ト彫刻シアリ。 福島 (金沢彦次郎ノ父?) 最早ク、 荒関孫二郎 (今居ラス鬼鹿也)
次テ来レリト。
一、 当地ヨリ天登雁ハ三年二年ハ宜シカラン。 澗ハ大ナルモノナシ。 ノ前ニ自分ノ枠位入レ得ル所アリ。
(四項略)
一、 大漁業者
金沢友次郎 福島 角四
建三 (内二ハ試験)
福士 儀平 福島 角二
建六
畑中 藤吉 福島 角一
建一
福島、 吉岡ノ人ニテ原籍ハ大抵当地ニアレ共漁期終レハ帰去ル也。
茶俊内ト力昼トウエンビラノ三区ニ分チ海鼠ヲ引カシム。
一、 金沢、 福士二人が仕入主ナリ。 羽幌、 苫前マデ及ブ。 畑中モ多少仕込メリ。 小樽辺ヨリ青田ニテ資金ヲ仰クモノ二三戸アリ。
(以下略…)
と、 両村からの出身者が、 これら出稼先村々の経済を牛耳っていたことを記している。
この出稼者達は、 先人もかつて経験したことのない奥蝦夷地への場所開拓のための出稼は、 正に決死の勇が必要であった。 旧正月を越えてすぐ、 一〇〇石、
二〇〇石の小帆船に、 漁具や食糧を積んで、 怒涛逆巻く日本海を北上するのは決死の覚悟でなければできなかった。 当時の想い出を、 先祖が福島出身である金谷丹次郎は、
『小平町史資料第二編』 のなかで、 次のように語っている。
一 帆船・蒸汽船・宿 (はたご)
字広富 金 谷 丹次郎
帆船渡航時代
旧鬼鹿村へ本州人が初めて来たのは和歌山県 (旧紀州藩) の栖原村の角兵衞なる者の手代小右衞門と云う人が天明の初め番屋の澗 (現広富) にて鰊とりをしたのが初めてと云ふことです。
その後道南地方を主として東北地方などから来村の者が多くなり鰊漁業を主とした村づくりにより鬼鹿村が誕生したのでありますが、 鰊漁業の興亡については確実な資料が残っていることでしょうから、
私が先祖から口伝されている帆船渡航時代のことを記憶によって記したい。
私の家 ◯ロ (ゼン) 印金谷家は、 何百年前より松前郡福島村 (現町) を根拠地として鰊漁業を主体とした漁業を経営しており鰊の北上と共に、 慶応元年より旧天登雁村に来村して建網漁業をした草分けであった。
その頃は二、 三百石位の番船又は弁才船で漁具や食糧などを満載して福島港を出帆致すのは旧暦の小正月だったそうです。 当時としては魚場所行きと云へば遠い外国へ行く様なもので、
下着を取替へ妻子と水盃をして、 髪を結い直して乗船したものだそうです。 それでも各番屋の船共々何十艘の船が屋号を染めた大漁旗や吹流しを建てて勇躍出港する様は現在の北洋へ向う船団にも似ていて海の男の晴の場所でもあった。
そして松前郡、 檜山郡、 爾志郡、 寿都郡、 岩内郡と海岸沿いに日和を見て帆走し、 時化るとみれば最寄りの澗に入り積荷を陸揚して船を捲き揚げ、 粗末な丸小屋を建て枯木や枯イタドリをたいて炊事をしながら凪待ちをし、
また帆走して神威岬まで来て航海中最大の難所である世に云う 「神威渡」 の日和を待つのである。 ひと度出帆致せば戻ることの出来ない大石狩湾、 船団は慎重に日和を待たねばなりません。
満天の星がきらめき岩内湾から俗に云う寿都物が強く吹き出して北へ向うには追い風だ。 この風を利用して石狩湾の中程まで行けば次は石狩物が出している筈だ。 船団の打合せが出来て、
お神酒が海にそそがれ全員盃を酌み交し、 そそり立つお神威様に航海の安全を祈り帆を捲き揚げて次の寄港地ルルモッペの川港まで直行する。 そこで上陸の準備をして日和がよければ留萌出し、
小平しべ出しを利用して鬼鹿の各番屋澗に直行して苦労を重ねた長途の船旅を終へるので、 時化の多い年は一ケ月近くもかゝったそうであります。 私も後年この航路を何度か機械船で航海したが、
その昔小さな帆船で天気予報も何もない時代によくぞこの遠方まで来航したものと、 その開拓者魂に敬服致したものであります。 漁場が終ればこれと逆の航海をして帰ったものだが、
帰途は初夏でもあり往路の様な苦労も無かったことと思います。 蒸汽船渡航になってからは、 福島、 鬼鹿間は十八時間から二十時間位のものであった。
(以下略…)
一方福島地方に残った人達は、 磯舟や三半船に刺網一放か二放を、 三、 四人が組んでニシン取をするという小前の漁師が多かった。 常磐井家の 『慶応元年日記』
(一八六五) によれば、
三月十五日
明七ツ頃 (午前四時頃) 細澗之沖ニ而鯡くぎ拙者釜谷之仁太郎両人組ニ而漸三樽計ばかり取、 鯡ハうす鯡ニ而多取不申、 名主元兵衞御上様江献上仕、 御上様御尋被成元兵衞申上候ニハ、
福島領細澗の沖ニ而くぎ依而献上申候。
と、 この年のニシン漁が期待した程ではなかったようである。 前にも記したがニシンは津軽海峡中央部を東から西に向かって北上し、 矢越岬から白神岬手前の明神崎に突き当って、
福島湾内に逆戻りして、 釜谷 (字塩釜) 沖から体勢を立て直して松前方面に向かうが、 細澗はその中間の慕舞沖のそりである。
同日記の慶応二年の記録では、
三月十二日
福島領しとまへ崎漁少し鯡くき申候。
拙者仁印組ニ而少計取。
三月十八日
吉岡滝ノ澗鯡少シ群来申候。
三月十九日
干潟ひかた泊り、 川尻沖ニ而鯡群来大漁。
とあるようにその年によって豊凶が繰り返され、 一度凶漁年となれば、 食にも事欠くということもあって、 奥蝦夷地への出稼者が増加して行った。
それに引替えイワシ (鰯) 漁業が比較的豊凶年もなく安定していた。 この漁は近世初頭では網を用いず、 海岸に寄ったイワシを拾うという状況であったが、
中期末の時代に入って鰯網が導入され、 毎年秋にこの漁業が行われるようになった。 釜谷村に塩釜神社が建立されたのは、 常磐井家文書 『福島村沿革』 では、
「安永元年 (一七七二) 塩釜神社ヲ建立、 以前今ノ大澗へ製塩所ヲ造ル、 塩増栄ノ爲メ該社ヲ建立セラレタリトイフ」
となっていて、 鰯漁業が始まり塩鰯を造るため塩が必要であるが、 高価なため自家製塩をして、 これを利用し、 塩釜神社を祀ったといわれているので、 この建立時前のころに鰯漁業が始められたと思われる。
その後着業者も増え、 『戸門治兵衞旧事記』 によれば、
享和二年 (一八〇二)
一、 當村支配之内赤川と申処江鰯引小網壱投相立申度、 御礼金小判一両上納仕段。
享和二年七月
福島村 願人 与惣兵衞
名主 達右衞門
とあって、 福島村の与惣兵衞が名主住吉屋達右衞門の奥書を付し、 鰯引網を一年一両の御礼金をもって着業したいので許可を願いたいと許可願を提出しているのを見ても、
この頃からの着業者が増えて来たと思われ、 幕末には原田治五右衞門、 花田六右衞門、 花田傳七、 中塚金十郎等も着業していたようである。
鰯漁業は、 福島、 月の崎、 釜谷の前浜が中心漁場で、 月の崎から浜中にかけては多くの鰯浜納屋が造られていた。 この漁は十月、 十一月が中心漁期となるため、
ニシン場出稼の漁業者の帰村後に行われるため、 越冬用生活費補完のためにも重要なものであり、 したがって漁業者は大きな関心を寄せていた。
正月福島神明社笹井家の獅子神楽門祓の際は必ず、 この鰯浜納屋も御祓いをしてもらう慣例となっていたほか、 毎年九月には、 「当村鰯取中願ニ付、 前浜鰯漁業之御神楽月崎殿ニ而御湯立御神楽」
と鰯取浜清め御神楽を行った上で着業していた。 箱館戦争の際の明治元年十一月一日松前藩五〇名が隊長渡辺々の引率のもとに、 福島村から鰯枠船三艘に分乗して小谷石村に上陸し、
知内本村に夜襲をかけているが、 その際はこの鰯漁に従事していた人達が櫂を漕いで行ったものと思われる。 このようにして幕末のころは不安定なニシン漁業を、
補完する漁業として鰯漁業が盛んであったが、 その生産量についての史料はない。
また、 イカ (柔魚) 釣漁業も幕末の頃から盛んになった。 マイカは日本海沿岸の富山湾から佐渡島にかけ多く生産されていた。 道南地方にも多く廻游していたが、
その漁法、 加工法も知らなかったので、 販売品として加工せず、 専ら自家用に用いる程度であった。
安政元年 (一八六四) 箱館が開港されて、 のち貿易港となり、 箱館に産物会所ができると、 それまで蝦夷地物産の串貝、 干鮑あわび、 い海り鼠こ等が、
松前藩の専売品として長崎に送られ、 俵物たわらものとして清国貿易に振向けられていたが、 箱館開港によって箱館産物会所がこれを扱うことになり、 俵物に鯣するめも加わったことにより、
従来着目されなかったこの漁業が需要の拡大によって盛んになった。 最も早く着業したのは小谷石村といわれるが、 確証はない。 平尾魯遷 (津軽・弘前の人)
が安政四年 (一八六七) 松前から箱館に向かう途中の記録 『箱館紀行』 には、 礼髭村 (字吉野) で婦人がイカ干納屋にイカを干している図が描かれているので、
この期には漁業として定着していたと思われる。
第二節 吉岡沖口番所の設置と運営
近世以降松前城下が、 蝦夷地交易経済の中心となってくると、 敦賀を基点とする北国船の往来が激しくなり、 さらに対岸三厩や平館等津軽半島への海上輸送も日を追って増して来、
松前港への出入船は年間三、 〇〇〇艘といわれた。 これらの海上交通のなかで特に松前~三厩間の航路は本州への最短コースにあって極めて重要なものであった。
しかし、 本道側の白神岬と本州突端の龍飛たっぴ岬間の僅か二二キロメートルの海峡は、 龍飛・白神・中の汐の三潮流が川の如くに流れ、 汐堺には大きなうず巻が発生し、
一度この汐に巻き込まれれば大船でも乗り切ることは容易ではなく、 最大の難所として恐れられていた。 また、 海岸の地形上から風力の変化が激しく、 目的地に着けず、
吉岡村沖に落船したり、 福島沖で風待ちをする船が多かった。 しかし、 これらの船は藩法によって沖之口役所のある松前・江差・箱館の三港以外で勝手に上陸をして薪水食糧の補給や荷捌等は許されなかった。
しかし、 松前~三厩間の航路あるいは松前~箱館間の航路が激しくなると、 目的地に着けず吉岡へ落船する船が多いため、 吉岡に沖之口番所を設け、 出入人改や通関手続、
税役の取り立て等、 松前沖之口奉行所業務の一部を、 吉岡で行うことにし、 吉岡港を松前の副港とした。 『福山海口廨かい年表略稿』 によれば、 寛政六年
(一七九四) 吉岡に問屋といや二軒を新規に仰付おおせつけたと記録されている。 問屋は口銭を取って通関手続をする商人であるから、 この時点から吉岡沖之口番所は始められたと思われる。
その後、 前同記録によれば、 「文化六年 (一八〇九) 吉岡村沖口番所ト唱可申旨被仰出」 とあって、 正式名称として吉岡沖口御番所と呼ばれることになり、
翌同七年には、 「八月吉岡沖口御番所新規御取立、 去巳年迄御旧領以来ニテ名主八兵衞宅御番所唱」 とあって、 松前藩松前家の所領時代に設けたこの御番所を幕府直轄の松前奉行の治政下でもこれを踏襲するということで、
名主八兵衞 (住吉) 宅を以って御番所としたという。
松前藩政時代に設けられた藩法としての沖之口取扱規則はそのまま、 幕府松前奉行も引き継ぎ継承しているが、
『福島町史第一巻史料編』 に収載した 「松前 吉岡沖之口取扱御收納取立方手續並問屋議定書 全」は、この松前奉行治下に成文化され施行されたものである。
それによると吉岡沖口御番所は士分一人、 足軽程度で松前から派遣され、名主宅を御番所として執務した。
これらの番所役人は出入人改と荷物改の監視が主体で、 出入人面役銭の取立、 出入船々役、
荷捌通り庭口銭の徴収等は問屋といや、 小宿こやんど等が行った。
吉岡の場合、 松前城下問屋衆中の管理下に置かれ、 自場からの問屋は船谷 (屋) 久右衞門と石岡傳右衞門 (宮歌村代表) の二人であったと思われ、 のち吉岡の大河京三郎が小宿株を取得している。
この沖口御番所の荷捌を中心とした管理運営は、 問屋・小宿・附舟つけぶねの三つの株仲間があり、 問屋は荷物全体の七割を捌き、 小宿は残り三割を取り扱い、
附舟は出入船の薪水供給、 船宿の手配をするほか、 遭難船のある場合は救助を義務付けられていた。
宮歌村として石岡屋傳右衞門が問屋株を取得したのは、 吉岡村船着場の荷物の揚下しは実質的には貝取澗 (字豊浜) と宮歌澗で行われていたので、 この沖口番所の機能を活かすためにも、
宮歌村に問屋を設ける必要があり、 藩はその地域の状況を判断して、 村に問屋株を持たせたものである。 しかも、 この時代宮歌村は村治方式に於ても秀でており、
何度となく、 藩に願い出漸ようやく許されたのであった。 『福島町史第一巻史料編』 中の宮歌村文書のなかでは、 宮歌村に正式に問屋株式が免許されたのは天保十四年
(一八四三) である。 天保十年六月十日 「吉岡ノ京三郎 (大河) 新規小宿株被仰付、 同村へ新規常燈京三郎取立」 とあるほか、 翌十一年には 「吉岡沖口御番所御普請」
(『福山海口廨年表略稿』) とあって、 吉岡船着場の整備も進み、 大河京三郎が小宿株取得を機会に、 澗口常灯台を設け出入船の便宜を図っている。 さらにこの翌年には吉岡沖口番所の独立建物が完成し、
従来吉岡村名主宅で行っていた業務を新建物に移して行っている。 沖口番所には、 通関倉庫としての荷捌用通し庭が付設されるのが慣例であるので、 吉岡にもこの倉庫が併設されたものと考えられ、
嘉永二年 (一八四九) アメリカ人抑留者三人を吉岡に抱置したのも、 その倉庫ではないかと考えられる。
しかし、 『宮歌村文書』 中の 「永代之記録」 では、
覚
一於町御役所御奉行下國舍人様、 御吟味役新井田嘉藤太様御揃之上願之通宮歌村問屋職傳右衞
門江被仰付候。 以上。
寛政六年寅九月十四日
と吉岡沖之口番所開設と同時に宮歌村問屋株が免許となっているが、 天保十年以降の吉岡沖口の整備充実によって宮歌村の免許取消し等の紛争もあったが、 宮歌村は松前の株仲間の仲介によって漸く収めるということもあった。
沖口番所の業務は藩自体が行う出入船、 出入人改めと、 出入荷物の監視があり、 番所付の通し庭で検査をし、 その荷扱いは問屋・小宿が行った。 入国者を番所で裸にし、
入墨や刀痕等の有無を調べ、 有る者は次便で本州に戻し、 無い者は諸国藩の発行した切手を持ち、 さらに松前地 (和人地) 宿請人 (身元引請人) の居る者だけは、
面役銭六〇〇文を払って入国を許された。 また、 旅行や出稼をする場合は、 本人から村名主に願い出、 名主の奥書した申請書を町奉行所に提出し、 その許可書を沖口番所に提出して面役を支払った上鑑札を受け出帆したが、
鑑札の雛形は次のとおりである。
という厳格な方法が取られていた。 これは他国から胡乱うろん (あやしい) な者の入国を防ぎ、 また、 自国民の勝手な旅行や逃散ちょうさんを防ぐためでもあった。
問屋は入船があると船足と船の大きさを計り、 積荷の調べ書を書き出させ、 陸揚する荷物は番所の通し庭へ入れ、 数量を確認し、 船主には入船役、 穀役、
棒杭役、 常灯役を支払わせ、 これを番所に納めさせる。 これら荷扱いは問屋が立会し、 荷物の販売等の斡旋をし、 蔵敷料と口銭を徴収した。 それによると、
越後柴田米が二二文、 庄内・新庄米が一八文、 秋田米が一〇文等となっていたが、 問屋は荷扱いをするだけで厖大な収入があり、 正に特権商人といわれる所似であった。
この沖口番所で扱う船々の大きさと別の呼称や機能、 乗組員数は次のようなものであった。
船 の 呼 称 船 幅 帆 の 反 数 乗 組 員 数 石 数 そ の 他
磯 舟 二尺~二尺九寸 一
持ほ 荷つち 船 三尺~三尺九寸 二 小橋船ともいう
三 半 船 四尺~五尺九寸 大橋船ともいう
図 合 船 六尺~七尺 小廻船、 番船ともいう
中なか 遣やり 船 七尺一寸~八尺九寸
大中遣船 九寸~九尺五寸
中漕船、 乗替船ともいう
弁 財 船 一〇〇石船 一一~一二 二 一〇〇~一五〇
弁 財 船 二〇〇石船 一三~一四 三 一六〇~二五〇
同 三〇〇石船 一五~一六 四 二六〇~三五〇
同 四〇〇石船 一八~一九 五 三六〇~四五〇
同 五〇〇石船 二〇 六 四六〇~五五〇
同 六〇〇石船 二一 七 五六〇~六五〇
同 七〇〇石船 二二 八 六六〇~七五〇
同 八〇〇石船 二三 九 七六〇~八五〇
同 九〇〇石船 二四 一〇 八六〇~九五〇
同 一、 〇〇〇石船 二五 一一 九六〇~一、〇五〇
同 一、 一〇〇石船 二五~ 一二 一、〇六〇~一、二〇〇
等の船の大きさについての早見表的なものがあり、 凡およそ船の大きさは帆の反数と乗組員の数で石数が分かるようになっていた。
この吉岡沖口番所には幕末から明治初期にかけては、 松前藩士鈴木忠美、 張江善三郎等が駐在し、 箱館戦争の際の徳川脱走軍の管理下では、 松前奉行人見勝太郎
(幕府遊撃隊長) 配下の倉本勇太郎、 市川靜馬の二人が吉岡沖ノ口掛調役並勤方として勤務している。
第 三 章 箱館戦争と福島
第一節 奥羽戦争の開始
箱館戦争とは、 明治元年 (慶応四年戊辰ぼしん) 蝦夷地に上陸した徳川脱走軍と政府軍 (松前藩を含む) との道南地方を戦場として闘った戦争で、 さらに翌明治二年
(己き巳し) 五月にいたる一連の戦争のことを言い、 あるいは戊辰戦争、 己巳の役とも言われている。
慶応三年 (一八六七) 十二月に発生した鳥羽・伏見の戦後、 長州・薩摩藩を主体とした政府連合軍は、 徳川幕藩体制の打壊の軍を組織した。 その鉾先は江戸の制圧、
さらには奥羽の会津・庄内に集中し、 朝廷は翌四年二月九日沢爲量かずを奥羽鎮撫総督に任じ、 副には醍醐中敬を充てたが、 さらに強化するため、 同月二十六日九条道孝を総督とし、
沢を副、 醍醐を参謀として奥羽に向け発進した。 当初仙台藩の会津救済の嘆願書を提出したのに対し、 鎮撫使は全く反応を示さなかったので、 奮激した仙台・米沢・南部の奥羽一二藩等は白石に集まり閏四月十二日さらに嘆願書を提出したが許さず、
遂に奥羽諸藩に檄を飛ばして、 同二十日北越諸藩を含めた二五藩をもって白石会盟を組織し、 政府軍への徹底抗戦する態度を確認した。 松前藩もこの会盟に加わらなければ、
これらの諸藩と戦わなければならず、 仕方なく家老下国弾正を派遣して会盟には参加していたが、 一方では箱館府、 秋田転進中の鎮撫使に通じる等、 万一の場合でも藩屏の維持に両端を持する苦肉の策をとっていた。
松前藩内ではクーデターが敢行され、 藩論がようやく尊王に固まって来た八~九月にかけ (九月八日慶応四年を明治元年と改元) 宇都宮から会津・米沢の戦が展開されていたが、
会津藩は九月二十二日降伏、 仙台藩はそれより前の八月二十七日に降伏していた。 この戦乱で北越・会津の戦争に参加し、 敗れた諸兵は降伏を潔いさぎよしとせず、
北上を続けて仙台領に流入した。 このとき榎本釜次郎武揚たけあきを首領とする徳川軍軍艦開陽以下七艘が、 九月十五日松島湾に到着したので、 これらの諸兵はこの軍隊に合流した。
榎本らは幕府海軍の廃止によって軍艦の政府引き渡しを拒こばみ、 八月十九日の夜開陽、 回天、 蟠ばん龍、 神速、 千代田、 長崎、 長鯨の七艘の軍艦と美加保、
咸臨かんりんの二艘の輸送船に海軍兵力一、 〇〇〇人それに彰義隊、 神木隊等の陸兵四〇〇を乗せ、 品川沖を脱走した。 しかし館山沖から犬吠いぬぼう崎で台風の大時化に遭い、
両船共曳船の軍艦との綱が切れ、 美加保は銚子沖で沈没、 咸臨は大島沖から清水港に漂流して政府軍に占拠された。 この美加保と咸臨の両輸送船には武器、 弾薬、
食糧等の戦争機材が多く積み込まれていたので、 その後の戦争は大きな打撃を受け、 さらに旗艦開陽も舵を損傷する等の被害を受けての松島湾入港であった。
この奥羽の政情不安によって蝦夷地に出兵警衛に当っていた奥羽六藩の兵は、 会津・仙台・庄内藩は七月中に兵員を本国に引揚させ、 八月十三日には南部藩奥羽会盟に参加のため陣屋を焼いて撤退、
翌十四日には津軽・秋田藩兵も出兵を辞退したため、 蝦夷地内には兵員の駐在が全くなく、 僅かに箱館五稜郭を守る箱館府役人と府兵約二〇〇人、 戸切地村 (上磯町)
穴平松前陣屋の兵一五〇人、 松前城守備兵四〇〇人余、 館城および江差在住兵二〇〇人で総てを合しても一、 〇〇〇人程度の兵力より存在していなかった。
第二節 徳川脱走軍の蝦夷地占拠
松島湾在泊中の榎本艦隊は、 戦闘を続けている庄内藩救援のため千代田、 長崎の二艦を派遣し、 幕府から仙台藩へ貸し付け中の輸送船大江、 鳳凰ほうおうの二艘を取り上げ、
海軍の再編成をした上、 開陽、 回天、 蟠龍、 神速、 長鯨、 大江、 鳳凰の七艘で十月九日仙台領東名浜を出帆し、 途中折ノ浜、 宮古に寄港して薪水を補給して蝦夷地に向った。
東名浜出帆の際榎本は平潟口の四条鎮撫総督に対し、 「一同軍艦ニ爲乘組、 今日当所出帆、 北地ニ渉リ、 開拓之業ヲナシ、 身ヲ容レ凍飢ヲ凌ガントス」 と蝦夷地開拓に赴かんとし、
もし聴き入れざる時は一戦も辞せずと嘆願書を提出しているが、 このような勝手は、 国の大局的立場からは到底許さるべきものではなかった。
この徳川脱走軍の艦隊と陸兵諸隊は、 以後の戦争で大きくかかわってくるので、 一覧表で示すと次のとおりである。
徳川脱走軍艦船一覧
(麦叢録、 箱館戦争と大野藩、 箱館開戦史話、 甲賀源吾伝、 歴史読本昭和五十四年九月号 「戦闘参加諸隊」、 江差町発行開陽丸によって作製)
徳川脱走軍編成表 陸軍二、 四一五人 海軍八〇〇人 計三、 二〇〇人
隊 名 隊 長 名 人 員 主 戦 闘 場 所 そ の 他
彰 義 隊 菅沼三五郎、 池田大隅 二六〇人 松前、 矢不来、 大川
神 木 隊 酒 井 良 助 一五〇人 六〇余南部宮古降伏 高田脱藩、 品川乗船
杜 陵 隊 伊 藤 善 次 七〇余 矢不来、 千代岱
小 彰 義 隊 渋 沢 成 一 郎 五〇余 一本木、 千代岱 幕 兵
遊 撃 隊 伊 庭 八 郎 一〇〇余 松前、 折戸、 木古内 (人見勝太郎)
会 津 遊 撃 隊 諏 訪 常 吉 一〇〇余 矢不来 (福島)
陸 軍 隊 春 日 左 衞 門 一六〇余 松前、 亀田
一 聯 隊 松岡 四郎次郎 二〇〇人 松前、江良、折戸、木古内 旭隊奥山八十八郎二〇人
余後参加 (三木軍次)
伝 習 士 官 隊 滝 川 充 太 郎 一六〇人 東北、 二股、 千代岱
歩 兵 隊 本 多 幸 七 郎 二二五人 東北、矢不来、二股、一本木 (伝習歩兵隊)
砲 兵 隊 関 広 右 衞 門 一七〇余 東北
衝 鋒 隊 古屋佐久右衞門 四〇〇余 東北、二股、矢不来、木古内
亀田、千代岱1大隊 天野新太郎
2大隊 永井蠖伸斉
額 兵 隊 星 恂 太 郎 二五〇余 松前、 矢不来、 有川 仙台、 赤衣歩兵
新 撰 組 森 常 吉 一〇〇余 松前、 七重、 台場
見 国 隊 二 関 源 治 四〇〇余 千代岱、 有川、 大川、 室蘭 南部明2、 4参加
工 兵 隊 吉 沢 勇 四 郎 七〇余 亀田、 五稜郭
明治元年十月二十日 (旧暦=新暦換算では十二月三日) 榎本艦隊は内浦湾の森村支村の鷲ノ木村 (森町) 沖に現われ、 陸兵は折からの風雪を冐して上陸を開始した。
箱館府は兼ねて旧幕府軍北上の浮説に動揺する庶民対策に頭を痛めていたが、 八月二十九日の諸道鎮撫使に対して脱走者の始末についての布告があって、 事態はいよいよ急を告げていることを知っていて政府に対し兵員の増派を要請していた。
九月政府は取り敢えず庄内藩鎮定後の備後福山、 伊豫宇和島、 越前大野の三藩兵を出兵させることにしたが、 たまたま南部藩が旧幕軍に組して津軽藩を攻撃し、
津軽藩兵が苦戦していたので、 取り敢えず三藩兵を応援させることにした。 このとき急に南部藩が降伏したので予定を変更して、 箱館府に応援することになり、
十月十九日には津軽藩は四個小隊が箱館に上陸し、 徳川脱走軍が上陸したその日の二十日には備後福山藩兵七〇〇余人、 越前大野藩兵一七〇余人も箱館に着いて、
同地の警備についた。
鷲ノ木に上陸した徳川脱走軍 (旧幕軍、 東軍、 脱走軍等々の呼び方があるが、 ここでは当時この地方の人達が呼んでいた慣用語を用いる) は蝦夷地渡島した趣旨を箱館府に訴えかつ朝廷にふたたび嘆願することにした。
その内容は 「蝦夷地の義は、 徳川家より兼ねて朝廷へ出願の趣も有之候に付、 暫く同家へ御預け被下置度、 自然御許容無之候はば、 不得止官軍へ抗敵可仕云々」
という一方的な押し付け文句であった。 この書を人見勝太郎 (幕府遊撃隊隊長) に持たせ三〇名程の兵を付けて箱館府に提出させることにして先発させたが、 それは見せかけのことで、
同時に土方歳三が下海岸を鹿部、 尾札部 (南茅部町) を経、 川汲山道を経て箱館を挾撃する体制を整えている。 また、 人見の先遣隊の後方には大鳥圭介の率いる本隊が後続していた。
この徳川脱走軍の鷲ノ木上陸の飛報は、 二十日午後三時ころ五稜郭に届いたが、 この時間に救援の越前大野藩兵が箱館に上陸したところで箱館府はこの報を受け早速軍議を開いて徳川脱走軍と対決することを決め、
備後福山藩と越前大野藩兵は市内警備と弁天砲台を担当し、 府兵一小隊、 津軽藩一小隊を茅部方面に斥候として出陣させた。 二十一日は府兵二小隊、 津軽藩二小隊、
松前藩二小隊は大野村に進出、 二十二日には七重村支村城山 (現七飯町字藤城) に本営を設けた。 同二十二日の夜人見勝太郎らの先遣隊が峠下村 (七飯町)
に宿泊したが、 政府軍に二手に分かれ、 一隊は峠に向かい、 一隊は宿舎を襲撃したが、 午後八時ころ大鳥軍の本隊が来援し、 政府軍は城山に後退した。 二十三日は城山で交戦、
二十四日は大野、 文月 (大野町)、 苫根別、 有川 (上磯町)、 七重 (七飯町) で戦闘が行われ、 大野、 文月の戦いでは、 意お富お比い神社の境内を陣地とする穴平の松前陣屋の守備兵が戦ったが、
遂に利なく、 陣屋を焼いて箱館に後退した。 今なお意富比神社の東面する水 おんこ松、 杉等の樹幹には多くの弾痕が残されている。
箱館府の府知事清水谷公考きんなるは寡兵をもって五稜郭を守ることは困難と考え、 一時青森に撤退することとし、 出兵各藩に告げ、 碇泊中の秋田藩購入の軍艦陽春
(別名加賀守) に乗り、 箱館府兵五二人、 松前藩兵一五五人、 大野藩兵八〇人、 備後福山藩兵四〇〇人が同乗し、 二十五日午前二時頃箱館を出航し、 青森に向かった。
さらに残余の兵もイギリス船を雇い上げて青森に逃れている。 このとき脱走軍の軍艦回天が鷲ノ木から箱館に回航していて、 これらの船を目撃したが、 開港地のため外国人居留地や外国船を考慮して発砲できなかったという。
二十六日早朝赤川村 (函館市) を発した脱走軍本隊の大鳥圭介らは五稜郭に入り、 箱館市街および諸施設を占拠したが、 旧幕臣の小杉雅之丞 (進) 筆 『麦叢録』
では、
廿六日拂暁赤川村ヲ発シテ本道五稜郭ニ向フ。 松岡隊先鉾ニテ郭内ニ入ル。 兵糧弾薬等散乱狠籍タリ。 …胸壁上ニ廿四斤砲四門据付ケノ侭放棄シアリ、 大鳥、
人見、 佐久間、 松岡等郭内ヲ巡視シ、 火ノ元、 盗賊等ノ取締方ヲ嚴命シ、 各兵隊ヲ郭ノ内外ニ分宿セシム。 此日土方ノ兵及仙台脱藩星恂太郎ノ率ユル額兵隊、
春日左衞門ノ陸軍隊等川汲ヨリ皆到着ス、 是ニ因テ我軍兵ヲ交ヘヅシテ五稜郭ヲ抜ク時ニ廿六日ナリ。 …
とあって、 箱館府が五稜郭を引き揚げる際には相当の混乱があったようで、 備砲もその侭使用できるようにしたままで、 兵器や糧食も散乱したままであったという。
一般的に徳川脱走軍の五稜郭占拠は、 十月二十五日といわれているが、 前記史料からすると、 二十六日が正しいと思われる。
汲ヨリ皆到着ス、 是ニ因テ我軍兵ヲ交ヘヅシテ五稜郭ヲ抜ク時ニ廿六日ナリ。 …
とあって、 箱館府が五稜郭を引き揚げる際には相当の混乱があったようで、 備砲もその侭使用できるようにしたままで、
兵器や糧食も散乱したままであったという。 一般的に徳川脱走軍の五稜郭占拠は、 十月二十五日といわれているが、
前記史料からすると、 二十六日が正しいと思われる。
第三節 福島・松前城の攻防戦
徳川脱走軍が五稜郭を占拠したその日の二十六日、 兼ねて松前藩江戸屋敷の家老遠藤又左衞門、 京都御所守衛松前藩取次役高橋敬三の二人の佐幕派家臣誅殺のため出張中の松前藩の家臣達が、
その目的を終えて箱館に帰って来た。 その一行中の渋谷十郎の筆になる 『渋谷十郎事蹟書上』 (函館市中島良信氏所蔵)は、 箱館より、 知内・福島を経て松前城の攻防にいたるまでを詳細に記していて、
この戦争を知るための手掛りとなるので次に掲出する。
前文略…
十月廿五日午後十二時凾(ママ)館へ入港ノ処、 港東津軽陣営火起リ火焔天ヲ焦ス。 然ルニ市街寂トシテ警火撃拆たくノ声ホ粛然タリ。 敢テ失火ノ景况ニモ非ス於是乘組一同警怪シテ変事タルヲ知ラス。
忽チ外国人バッテイラ (ボート) ニ乘リ運上所ニ至ル。 少時ニシテ来リ報ス、 本月某日徳川脱艦鷲木村ニ揚陸、 以来弘前 (津軽) 及備後福山、 館三藩ノ兵隊知府事清水谷殿ノ令ヲ奉シ、
大野口ニ於テ接戦ノ処軍利アラス惣軍一旦青森へ退陣依之賊徒今宵凾館ヘ屯集ノ旨ナリ。 於是進退維レ窮ルト雖モ艦中ニ在テ事果ツベキニ非サレハ一同ト決議シ此夜ハ先ツ一泊、
翌廿六日早天上陸直チニ運上所ニ到リ、 各々姓名ヲ陳ヘ隊長ニ面会シテ事由ヲ逑ンヲ乞フ。 賊中伊奈善太郎ナル者応接シテ曰ク、 陸軍隊長松平太郎鷲木村ヨリ来着迄旅宿ニ扣居ルヘキトノ事ナリ、
仍テ一同定宿亀田屋藤兵衞方ヘ一宿ヲ投ス。
仝廿七日陸軍副隊長土方歳三馬乘ニテ旅宿ヘ訪来ル、 余友安田純一郎之ヲ一室ニ請シ定テ歳三曰ク、 各々我等ニ面会ヲ望ムハ如何ナル事情ナルヤ、 余等応テ曰ク、
余等去八月中内奸剪除ノ命ヲ受ケ京都并ニ江戸邸ニ於テ其所置ヲ遂ケ、 復命ノ爲本月廿三日横浜ヲ発シ一昨夜入港スルニ豈科ヤあにはからん今般ノ事変、 殊ニハ本藩ノ兵隊既ニ大野口ニ於テ貴方ト交戦ノ趣、
今又貴方ノ先陣巳ニ茂邊地ヘ出張セリトテト聞ク如期道路要塞ノ上譬ヒ微服潜行セントテ万一捕獲ニ逢フ時ハ一身ノ恥辱ト藩名ヲ汚スヲ如何セン、 故ニ断然首出ス、
希クハ武士ノ情ケ臣子ノ裏情愍察アランヲ乞フ、 各々ニ於テモ弾丸雨注ノ間戦地ノ経歴シ来タルハ亦其君ノ爲メニ尽ス所ナラスヤ、 今余等カ生命爰ニ迫マレリ助クルト否トハ君等ノ欲スル所ノ侭ナリ、
伏テ願ハクハ、 ノ籠中ヲ脱シ一去復命スルヲ得ハ実ニ再生ノ高恩ナリト、 歳三曰ク各々陳言スル所ニ虚説ナラサルヘシ、 雖然今ヤ貴藩ト戦端ヲ開ケリ全体以テ之ヲ処セハ如期寛大ニ差置ヘキニアラサレトモ、
譬ヒ各々ヲ捕ヘ断頭ニ処セシトテ敢テ思ヒニ快然ナルモ非ス、 何レニモ隊長松平ト評議ノ上差図ニ及フヘキ旨挨拶シテ去ル。 仝日夜伊那善太郎ヨリ左ノ書簡ヲ送ル、
明廿八日松平太郎面会候条午前十時五陵(ママ)郭ヱ出頭可有之候。 仝廿八日余ハ安田、 井口、 高橋、 斉藤ノ五士ヲ従ヒ第十時五陵郭ニ到ル。 松平太郎玄関上面ニ在リ、
土方歳三左側ニ陪席ス。 兵隊二行左右ニ整列ス。 太郎曰ク昨日土方歳三ヘ陳逑スル所ノ事情余深ク感激セリ、 仍テ福山ヘ起程苦シカラス尤モ有川村ニ於テ土方ヨリ懇々御談ノ次第モ有之ニ付、
今夕同村ニ待受ケラルヘシト、 仍テ該所ヲ辞シ一同行李ヲ調ヒ薄暮凾館ヲ出立、 第九時有川村ヱ着兵隊ノ動静ヲ探索スルニ、 先隊已ニ泉沢辺ヘ進行ノ曲ナリ、 於是安田、
小林、 斉藤ノ三人ヘ賊徒ノ挙動ヲ密示シ潜カニ領分知内村ヘ報知セシム。 尤道路捕獲ノ憂アラハ是レヲ以テ辨解スヘシト彼ノ伊那善太郎ヨリ送ル処ノ書翰ヲ授ク、
三士ハ第十時仝村ヲ出発ス。 夫ヨリ余ハ高橋孫六ヲ従ヒ土方歳三ノ旅館ニ至ルニ、 徳左衞門 (種田) 主人ハ縛ニ就キ居リ、 見ルモ気ノ毒ニテアリシ、 歳三余ヲ奥敷ニ伴ヒ、
従容語テ曰ク、 我徒先般鷲木村ヘ揚陸セシハ固ヨリ戦事ヲ好ムニ非ス、 凾館惣督府ヘ懇願ノ次第有之其故如何トナレハ既ニ奥羽連衡(合)ノ諸藩朝廷ヘ謝罪降伏セシヨリ、
我徒戦略士人牾施スヘキノ術ナキヲ以テ仙台侯ニ迫リ、 朝廷ヱ謝罪寛大ノ典ニ預ランヲ只管懇願スト雖モ、 敢テ許容ノ色アラス却テ我徒ヲ放遂セントノ動静アルヲ窺ヒ、
頓ニ彼地ヲ脱シテ北海ニ来リ、 開拓十分ノ成功ヲ遂ケ前罪ヲ贖ハント欲ス豈科ヤ督府ノ兵隊俄然トシテ襲撃一時論説ヲ以テ禦ク旨キニ非レハ、 武門ノ習ヒ不得止接戦ノ処、
却テ勝利ヲ得ルニ至ル。 是レ果シテ我徒ノ幸ナルカ將タ不幸ナルカ未タ知ル可カラス、 然リト雖モ、 苟モ兵力ヲ以テノ地ヲ掌握セシ以上ハ、 我徒ノ措置前日ノ思考ヲ以テスルノ類ニ非ス、
今我兵三千アリ、 益兵伏ヲ調ヒ大ニ運粮ヲ続カハ全島ノ平定ニ旬ヲ過キス、 其餘勇ヲ奥羽越振ハン掌中ニアリテ存ス、 唯リ南端松前氏アリテ孤守ス。 抑モ先公豆州公
(崇広) 殿ハ徳川家ニ於テ閣老タリ、 而シテ其勲績アルモ亦私徒ノ能ク知ル所ナリ、 然ルニ当志摩 (徳広) 殿ノ存慮如何ナル持論アリテカ大野ニ出兵セラレシヤ聞ク子モ亦役員ニ列セリト請フ、
其藩論ヲ聴カント。 余答テ曰ク吾公積年勤王ノ志深ク既ニ大政維新ノ際実績ヲ奏セントスルノ期ニ当リ、 権門要路ニ奸従アリテ君上ヲ欺キ且ツ後難ノ身ニ迫ランヲ恐レテ、
仝類ト深ク謀リ廃君ノ大逆ヲ主張ス。 依之憂国ノ徒数十名夫死建白ニ及タル処、 去ル八月忽チ内命ヲ蒙リ奸臣ヲ前(ママ)除シ、 国体ヲ一新竟ニ勤王大義ヲ確守スル処ニシテ、
今般大野口エ出兵セシモ則チ仝藩王命ヲ尊奉スル所ナリ、 高諭ノ如ク松前家ノ徳川氏ニ於ケル固ヨリ構怨アルニ非ス、 大義人情両立シカタキヲ如何セン、 此辺深ク亮察アランヲ乞フ。
歳三断然トシテ曰ク、 然ラハ則チ尓後戦ハンカ、 余思ラク今私わレ戦ヲ断言セハ彼レ忽チ兵ヲ福山ニ発セン、 思フニ本藩孤軍戦備未タ全タカラス、 若カス戦期ヲ延ベ官軍ノ応援ヲ待タンニハト、
仍テ徐々ニ謂テ曰ク、 先般大野ヘ出兵セシハ督府ノ護衛ニシテ所謂管外ノ一戦ナリ、 自今ハ貴方ト本藩トノ対戦若シ一敗振ハサルニ致ラハ管民塗炭ニ陥ル実ニ金藩ノ大事ナリ、
敢テ軽議然諾スヘキニ非ス、 仍テ明早天福山ニ走リ軍議数次藩論一定ノ上、 来ル十一月十日ヲ限リ和戦ノ両条共決答ノ使者ヲ送ルヘシ、 依テ右期日迄松前封境ヘ兵隊発進ノ義ハ停止アルヘキヤ否ヤ、
歳三曰ク和ヲ講セントナラハ当方素ヨリ好ム所ナリ、 故ニ暫ラク進軍ヲ停メン、 雖然若シ期日ヲ違ハハ、 即時ニ兵ヲ発セン、 余曰夫レヲ食言セスト互ニ之ヲ約シ、
且ツ余等カ道路通行差支ナキノ印鑑ヲ乞フ。 歳三曰ク明朝茂辺地出張渋沢某 (誠一郎-小彰義隊長) ヱ各々通行差支ナキ様取計ラハセ申分書面ハ明朝相渡スヘシト言フ、
依テ土方ノ室ヲ出テ宿ニ帰レハ巳ニ鶏鳴ナリ。
仝廿九日土方ヨリ渋沢ヘ送ル処ノ書翰夫卒持来ル、 即チ之ヲ請取リ一同有川村ヲ発シ茂辺地ニ到ルニ、 賊兵二百人余屯集渋沢精(誠)一郎之ヲ総括ス。 即チ土方ヨリ付記ノ書翰ヲ渡シ、
尚ホ歳三ト応接ノ一二ヲ語リ辞シ去リ、 夫ヨリ漸次木古内村ニ到ル、 賊徒亦二百人余集合セリ、 所謂斥候隊ト見ヘタリ。 如斯景况思フニ賊徒ノ點計我等ヲ欺キ、
陽ニ信義ヲ厚クシ陰ニ襲撃ヲ謀ルナラン、 若カス一刻モ早ク福山城ヱ報知セント飛馬急行。 午後三時尻内村ニ到レハ、 本藩兵隊既ニ出張セリ。 漸ク心ヲ安ンジ仝村ニ憩ヒ食ヲ喫シ四時出発、
深夜雪風ヲ浸シテ萩斜里ヲ経過シ一ノ渡リニ向フ、 暁三時一ノ渡陣営ニ着陣代蠣崎民部ヱ賊情ヲ具申シ、 即時仝所ヲ発シ、 仝三十日福山着城代尾見雄三ヱ廿五日以来ノ事情ヲ具サニ陳逑ス。
とあって脱走軍の松前進攻の経過と、 松前藩士渋谷十郎と土方歳三との交渉過程、 さらには脱走軍の進攻軍備況を詳しく述べている。 これによると、 十月二十七日に五稜郭を発足したといわれる土方は、
この日まだ郭内に止まっていて、 二十八日有川村 (上磯町) の種田徳左衞門方に泊り、 翌二十九日泉沢に泊まったと思われ、 三十日には先鉾が知内村に達していたと思われる。
徳川脱走軍の松前城進攻隊の編成は、 総指揮官 (隊長) に新撰組副長であった土方歳三が当り、 隷下の各隊は彰義隊、 幕府士官隊、 幕府陸軍隊、 仙台藩額兵隊、
新撰組、 砲兵隊等約七〇〇余で、 これに作戦参謀として、 カズヌーヴ、 プーヘー等のフランス軍人も参加している。
これに対し松前城を守備する松前藩は、 城代蠣崎民部、 総長松前右京、 隊長鈴木織太郎、 尾見雄三、 軍事方新田千里、 三上超順等四〇〇余であったが、
徳川脱走軍の襲来の報を受けると、 松前城を死守することにし、 その前段として、 茶屋峠 (字千軒~字三岳間の山道) と白神峠 (字松浦と松前町字白神間の山道)
の二つの天嶮を利用して迎え撃つ体制を取り、 二十七日松前藩の各隊は福島村に集合、 陣代蠣崎民部、 隊長鈴木織太郎らが出張し、 浄土宗法界寺を本陣とし、
その背後の山に砲座を設け、 吉田橋前の大門から内側へ市内の守備陣形をとった。 さらに福島神明社前には天保年間松前藩が設置した砲台があったが、 吉岡砲台の整備によって廃止となっていた場所を利用して急造砲台とした。
また、 二十八日には福島を守るための砦として茶屋峠の頂上付近に防塞を築き、 松前藩砲術隊長の駒木根篤兵衞が兵一三人と遊軍五〇人そして三〇〇匁砲二門を吉岡砲台から廻し備え付けた。
この茶屋峠に大炮 (砲) 隊長として、 陣頭に立った松前藩砲術隊長駒木根篤兵衞正甫まさもとの履歴書が旧館藩に残されており、 それによると、
嫡 子 初 メ 徳 兵 衞
五 代 駒 木 根 篤 兵 衞 正 甫
文化十三子年二月廿九日生
章広公御代
文政十一年二月廿五日初而御目見
同年三月朔日御奉公新組御徒士席
天保五年十一月廿七日父千之亟家席御直シニ付御先手組席ヘ御繰上
天保十一年十二月家督
となり、 松前家臣となっているが、 篤兵衞は森重流炮術、 西洋炮術、 起倒流體術、 宝蔵院流鎗術等の稽古けいこ世話掛をする武人で、 ユウフツ、 エトモの勤番頭、
戸辺地 (上磯町) 御陳家脇備頭、 勘定吟味役、 勘定奉行を経、 箱館戦争の際は五十二歳であった。
この履歴書には茶屋峠・山崎 (字三岳) ・福島での徳川脱走軍との戦闘を詳細に述べているが、 それによると、
明治元年十月中 野戦大炮惣司被仰付。
同元年十月廿六日夜 大炮隊隊長被仰付
同隊士中上原久七郎 (勘定奉行)、 御徒士中村嘉吉、 御足軽石山喜平治、 斉藤百太郎等ヲ率テ此時百目御筒五挺御渡シ。
同廿七日 御名代 (松前右京) ニ差添福嶋村ヘ止宿
同廿八日 福嶋村出立一ノ渡リヘ止宿、 三百目御筒弐挺吉岡村ヨリ御廻ニ相成候旨差之上右大炮ヲ茂掛リ相兼候様御達ニ付一同ヘ申達置。
同廿九日 御名代知リ内村ヘ御出張之砌リ、 峠ノ上ヘ相備候様被仰付。
同日 三百目御筒弐挺ノ掛リ六人付添到着、 一ノ渡リニ於テ大炮掛リ弐人被仰付。
前同日ヨリ峠御場ヘ掛リ一同詰切リ。
十一月朔日 暮六ツ時 (午後六時) 福嶋村御本陣ヨリ一同引揚御達同夜九ツ時 (午前〇時) 頃福島村ヘ着ノ処直チニ引返シ出張被仰付
同夜 七ツ時頃 (午前四時) 福嶋村出立翌二日朝五ツ時 (午前八時) 頃峠ノ下迄進行、 賊兵峠上ノ御場迄押来リ字ヒョウマイ (字三岳) ニ於テ大小炮ヲ以テ賊兵ト一戦ニ及ヒ山崎
(字三岳) 迄引揚進撃隊ト一手ニ相成即時大小炮ヲ打放シ終日ノ奮戦ニ及ヒ衆寡難敵、 終ニ日没ニ及テ一同引揚討死等有リ同隊上原久七郎、 中村嘉吉ト三人居残リ、
死体等ヲ取片付漸々福嶋村迄引揚ケ。
十一月五日 御城内ニ於テ防禦終ニ落城、 江差地方ヘ引揚、 上ノ国素浜ニ於テ大炮ヲ以テ賊徒防禦可致旨被仰付士卒ニ命、 大炮ヲ素浜ニ備置。 然ルニ江差御本陣ニハ引揚ニ付、
該場モ一戦ニ不及引揚
同年十二月中 以降略……
明治二年十二月廿四日 右戦時之御賞典左ニ
客冬山崎奮戦爾後慕
君志ヲ表シ御警衛候条
仍而爲御賞永世上席被
仰付且拾五石御加増
とあるように、 十月二十八日には峠の配備を完了し、 二十九日福島本陣陣代蠣崎民部は前線本部を一の渡りに移し、 その尖兵は知内村に出兵し、 三〇日はそこで一戦を交え後退し、
十一月一日には徳川脱走軍 (以下脱走軍という) は萩砂里はぎちゃり (萩茶里-知内町字上雷小字東菜) まで進出してきた。
その間に前記渋谷十郎らと行動を共にしていた桜井怒き三郎が、 脱走軍の説得を受けて、 松前藩への和平の使者として、 福島に来て要旨を告げたところ、 隊長鈴木織太郎が怒り、
藩論を乱す不届者として福島で処刑したといわれている。
また、 福島へ出陣する際の二十七日各神社の神主で編成する図功隊を組織したが、 福島からは神明社笹井三河、 白符神明社富山刑部、 知内雷公神社大野石見等も参加していて、
笹井三河の 『御答書上』 によれば、
昨冬十月廿七日福嶋村江御出陣之砌御用使ニ而罷出候処、 隊長白鳥遠江 (福山神明社司) 殿被申渡ニハ圖功隊江相加ヘ出兵可致旨被仰付直其場出兵仕候。
同廿八日福嶋村一之渡江出兵其夜同所ニ而宿陳(陣)之砌、 明朝早々田崎東殿ニ随ヒ御城下警衛可致旨隊長白鳥遠江殿ヲ以被仰出候。
同廿九日一之渡御城下江引返シ夜四ツ頃文武局江着仕御局ニ詰合居候義ニ御座候。
と神主達まで駆り出して戦闘員として参加させている。
【福島の攻防】 松前に向け進撃を続ける脱走軍と松前藩との戦闘は十一月朔日に行われた。 この日の午後脱走軍の軍艦蟠龍ばんりゅうが津軽藩旗を掲げて松前湾頭に姿を現わした。
城中では不審に思っている間に松前城を砲撃し、 城中も砲撃したが、 技ケ崎 (字福山) 地先の筑島砲台より打ち出す弾丸が蟠龍に当り、 一発は士官室に、 一発は艦頭の槍出しに当ったため、
蟠龍は沖合に出、 帰路 (同日夕刻) 福島の松前藩の出張本陣を砲撃し、 松前藩側もそれに呼応して、 神明社前の海岸砲台からの百匁砲四門、 法界寺山より同砲二門で砲撃を行っている。
前述の駒木根篤兵衞の履歴書にあるように、 蟠龍の砲撃のため茶屋岬の駒木根隊も応援のため福島へ向かったが、 蟠龍が箱館に帰航した後なので、 夜中茶屋峠に引き返している。
この朔日に福島市街で戦闘が行われたと考えられているが、 実際の戦闘は二日に行われている。 朔日には福島を基地として松前藩兵のハギチャリ夜襲という奇襲作戦が、
松前口での戦闘の緒戦となった。 『松前藩戦争御届書』 (ハギチャリ合戦一件-函館市中島良信氏所蔵) では、
明治元年十一月朔日辰ノ上牌 (午前八時) 一小隊ヲ率ヒ隊長渡辺々 ひ ひ (ノチ芳丸ト改姓ス) 小舟三艘ニテ福嶋村ヨリ小谷石ヘ上陸間道ヲ踰こえテ戌ノ中牌
(午後八時コロ) 知内村ニ至リ、 賊徒屯所ノ戸隙ヨリ動靜ヲ窺うかがヒタル所賊徒酒會ノ様子ニ付、 副長目谷小平太臨機ノ謀ヲ以テ大隊進撃の令ヲ虚発きょはつシ一斉ニ銃撃シ続テ短兵乱入ノ処賊徒狼狽暫時ニ六十餘人ヲ斫斃きりたおシタリ、
中ニ金帽紫衣ノ者アリ賊中ノ長官ナラン又外國人死骸アリ其他疵ヲ受クル者ハ此潰散ス、 我総勢ヲ引揚福嶋村へ凱還セシハ寅ノ下牌 (翌二日午前五時)。 其時副長目谷小平太、右嚮導きょうどう海野謙三郎、
小隊司令士浅利右八郎、 銃隊小頭穂高長蔵被創、 銃卒三浦此二、 荒井幾三郎戦死、 三浦省八郎、 加藤健次郎被傷、 町兵菊四郎戦死。
とあるが、 松前藩の報告はいささか誇大があるように思われ、 脱走軍兵士六十余人を斫斃したという数字は正に過大の報告で虚偽であると軍務官からも批判を受けていて、
のちに問題となり、 明治になって 『北洲新誌』 等で議論されている。
また、 仙台藩脱藩で、 額兵隊の七番隊惣小荷駄隊長として、 この戦闘に参加した荒井平之進 (蝦夷地では佐馬介) 宣行の著になる 『蝦夷錦 乾・坤』 の関係文では、
…略… 彰義隊額兵隊ハ萩去ト云處迄進ム土方歳三ハ陸軍隊トニ知内ニ宿陣セリ是ヨリ先松前氏ニテハ奥羽合從シテ徳川氏ノ再興ヲ計ントスル者有リ又王命ニ背キ難ク薩長ニ同盟シテニ國家ヲ保ント云者モ有テ國中議論兩端ニ別レシ所清水谷侍從凾舘ニ渡海有シカハ其勢ニ恐レ徳川氏ヲ助ント議論ヲ立シ者松前右京ヲ始四十餘人或ハ囚レ又死ニ行ハレ終ニ清水谷ニ降ル然ルニ櫻井怒三郎等松前ニ到テ榎本ノ言ヲ告ケシニ蠣崎民部等是ヲ拒ミ脱走ノ徒何程ノ事アラン各國家ノ爲ニ是ヲ防禦シ此ノ城ヲ守ラハ秋田津輕ニ居タル官軍ノ応援アラン彼等ニ降テ惡名ヲ殘ス勿レトテ榎本ヘハ更ニ一言ノ答モナク防禦ノ策ヲ運ラシ即チ蠣崎民部ヲ大將トシテ其兵五百餘人福島マテ進發ス所々ノ臺場ニ大砲ヲ構ヘ先手ハ一ノ渡山道ヘ進テ陣ヲ取タリ然ルニ此日蠣崎ハ福島ヨリ鈴木織太郎ヲ始トシテ壮盛ノ勇士五十餘人小舩ニテ脇本ヘ遣リ知内ヘ夜撃ニ向ハシメタリ知内ニテハ萩去ノ先鋒ヘ送リ出スヘキ兵糧ヲ周旋セシ處其夜初更ニ至テ村ノ中ヨリ火ヲ放ツモノアリ陸軍隊ノ陣營近ク小銃ノ音聞ヘシカ海岸ノ方ヨリ大隊進メノ號令ニテ進ミ來ル春日左衞門直チニ令ヲ下シ喇叭ヲ吹カシム軍兵ハ鞋ヲモ解カズ油斷ナク守リシナレハ即時ニ本陣ニ整列シ敵ニ向テ小銃ヲ放ツ又額兵隊網代清四郎澤木武治ハ兵士四五人トニ此ノ驛ニ止リテ兵糧焚出シノ周旋ヲ爲ス所ニ小銃ヲ放ツ否ヤ扉ヲ蹴破リ鎗ヲ持テ突入ル者兩人有リ砲卒喜三郎側ナル短刀ヲ抜テ是ニ向フ處ヲ下腹五寸計突通サル持タル短刀ヲ敵ニ投付腹ニ立タル鎗ヲ抜キトリ敵ニ向テ突掛レハ敵支ル能ハズ逃出ス是ヲ追ントスル處ヲ殘ル一人ニ又三寸計リ脇下ヲ突レケレ喜三郎事トモセス鎗ヲ拂テ突掛シハ手コタヘセシト思フ處ヘ網代澤木等刀ヲ抜テ切テ出ツ是ニ依テ敵ハ直チニ逃退ク喜三郎深傷ヲ受シカ後治療ヲ加ヘテ全快セシカ不養生ニシテ再金瘡破レテ死ス此夜西風烈シク火ハ倍々盛ンニ成リ敵風下ヨリ攻入シナレハ火煙ニムセビ意ノ如クナラズ吾カ兵天ノ助ケト連發數十ナリ依テ敵戰死四人傷者數多出テ敗走シテ脇本ニ引退ク吾カ軍地利ヲ知ラス殊ニ夜中ノナレハ遠ク是ヲ追ズ兵ヲ收メテ死傷ヲ檢スルニ額兵隊砲卒喜三郎陸軍隊兵士一人傷ヲ受クル而已ナリ又火ヲ防カシメテ民屋ヲ救フ此時星忠狂ハ萩去ニシテ火モユルヲ見テ敵知内ノ吾カ後軍ヘ夜撃セシヲ計リ速ニ行テ是ヲ救ヘトテ三橋光種ニ一小隊ヲ引カシメ應援トシテ向シメタリ同二日春日左衞門陸軍隊一小隊額兵ノ應援一小隊ヲ引テ脇本ヘ到ル敵福島ヘ引揚シ跡ナレハ乃チ福島ニ向フ此時太田貞泰中村實相及ヒ吾ハ木古内ヘ宿陣セシカ知内ノ火ノ上ルヲ見テ村中動揺シ知内ヘ戰爭始レリ必此ノ村ヘモ放火アラント家財雜具ヲ持運フ者尠ナカラ