以下の文章は、福島町史第三巻通説編(下)の940~968ページの内容です。
福島町と駆逐艦柳
鎌 田 純 一
〈目次〉
はじめに
一、福島錨地で任務につくまでの駆逐艦柳の行動
(一)駆逐艦柳の造船とその性能
(二)福島町に至るまでの行動
二、福島錨地での駆逐艦柳
三、七月十四日の戦闘
四、その後の駆逐艦柳
あとがき
はじめに
平穏な福島町、そこにも満州事変より日華事変、大東亜戦争の波は寄せた。何人もの人々が応召され、戦場へと馳せられた。また、東京方面より戦災をうけ、転じて来られた人々もあった。しかし、もし駆逐艦柳がこの地の沖に停泊、哨戒行動をしていなかったならば、この地が直接戦場となることもなく、戦死者、戦傷者をこの地に収容することなどもなかったであろう。
昭和二十年七月十四日朝になって、その駆逐艦柳と敵機動部隊よりの艦載機とのあいだで、烈しい戦闘がこの沖でなされたことで、その戦傷者の収容看護、また後始末に町民が懸命に当られ、戦争と大きくかかわることとなられた。
その戦闘状況を、当時眺められた人々の一人笹森幸雄氏は、そのすさまじい状況を後世に語り伝えなければと考えておられたが、昭和六十三年五月、駆逐艦柳の元乗組員達がこの地に集い、戦没者の慰霊祭を行ったのを機会に、その乗組員達の証言等を求め、さらに町民各位よりも広く聴取され、アメリカ海軍機動隊の戦闘報告等も詳しく調査、町広報誌『ふくしま』に平成元年五月より八月までの間、その戦闘状況を連載された。しかも、それで終えられるのではなく、さらに広く史料、証言を求め調査を続けられたのであり、それより終に、平沼邦夫氏を会長に記念塔建立委員会が結成され、平成三年五月三日、館崎のトンネルメモリアルパークに「駆逐艦柳平和記念塔」が建立除幕され、中塚橋の月崎側海岸の地に「駆逐艦柳応戦展望の地」なる指示標柱も建立された。
そして、それより毎年七月十四日、慰霊祭を行うこととされた。元乗組員の一人として深謝に耐えないが、平成六年七月その慰霊祭に参列させて頂いた時、福島町史編集長から、駆逐艦柳の記録を町史に掲載するから記すようにと機会を与えられた。さらに深謝しつつ、ここに一筆記させて頂く。
一 福島錨地で任務につくまでの駆逐艦柳の行動
(一)駆逐艦柳の造船とその性能
駆逐艦柳は決して古い艦ではない。昭和十九年八月二十四日、丁型(松型)駆逐艦の一隻として、大阪市の藤永田造船所で起工された艦である。当時既に太平洋上での巨艦主砲の戦闘の時代でなく、米国が多数潜水艦を日本近海に、また日本への海上補給路に出撃させ、厖大な航空兵力とともに、日本の海上交通作戦行動破壊を繰り返すなかで、それに対抗するために従来の兵装でなく対空、対潜兵装を主とした護衛型駆逐艦として丁型駆逐艦が次々と急造されていたのである。柳はその型としては最後の艦として起工されたのであり、厳しい警戒体制の大阪で、正に昼夜兼行して造船され、同年十一月二十五日には進水したが、それより歴戦のつわものどもが竣工後の乗組員たるべく、他艦船部隊より転勤し、艤装任務に当った。すなわち、実際に航海、戦闘できるよう、細部の工事指示に当り、やっと昭和二十年一月十八日午後になり、竣工引き渡しの式のあと就役、任務についた新鋭の艦であった。
基準排水量一、二六二噸、全長一〇〇米、水線長九八米、最大幅九・三五米、吃水三・三米であり、軸馬力一九・〇〇〇HP、最高速力二七・八ノット、航続距離一八ノットで約三、五〇〇海里(一海里は一、八五二米)であった。対空用兵装として四〇口径一二・七糎高角砲を前部に一基、その二連装を後部に一基、二五粍三連装機銃を前部に一基、中部に二基、後部に一基、ほか同単装機銃を十一機備え、対潜、対水上戦闘兵装として、爆雷砲台(投射機、投下機)二台、九三式魚雷発射管六一糎四連装一基を備え、対空、対水上索敵探信用に二二号、一三号電波探知機、対潜索敵用に水中聴音機、水中探信機を備え、また当時として最新式の通信装置の赤外線を用いた哨信儀二基を備えていた。なお機関としては艦本式タービン二基、艦本式ロ号缶二缶、ターボ発電機一基、内火発電機二機を持ち、機関の配列は缶、主機、缶、主機の型式をとっていた。即ち、それまでの駆逐艦に比し、最高速力では劣るが、対空対潜戦闘能力を重視した一等駆逐艦であった。
(二)福島町に至るまでの行動
艤装員長海軍少佐大熊安之助は、竣工とともに駆逐艦長となり、艤装員、艤装員付はそのまま乗組となって、翌昭和二十年一月十九日早朝、藤永田造船所を後に出港、母港となる呉軍港に向け瀬戸内海を回航したが、その竣工の一月十八日付で連合艦隊付属第十一水雷戦隊に編入され、第一訓練部隊に入れられた。よって、呉で弾薬、食糧その他を搭載のあと、主として瀬戸内海周防灘で、他造船所でやはり新造の僚艦とともに、まず訓練に励んだのである。乗組員はそれまでに、戦艦、巡洋艦、航空母艦での戦闘経験はあるが、駆逐艦は初めてとか、同じく駆逐艦の経験はあるが、この松型は初めてというのが殆ど大半であり、全員一致してこの艦に習熟し、戦闘するための調練である。なかで回天特攻隊との共同訓練も何度かした。ここで記して置くが、駆逐艦柳の船籍は呉鎮守府であり、士官は別として、下士官兵は呉鎮守府管下の地域、すなわち愛知、三重、大阪、兵庫、鳥取、鳥根、岡山、広島、山口の府県出身者が主であった。(福島町で、柳乗組員はすべて沖縄県出身との噂が戦後あったようであるが、そのようなことはない)
その訓練も終り、三月十五日第五十三駆逐隊が編成され、その一艦となった。桜、楢、椿、欅、柳、橘の編成である。司令は海軍大佐豊島俊一であった。それより編隊諸訓練中、三月十八日、十九日に初めて敵機動部隊艦載機群と伊予灘で交戦した。但しこの時、敵は艦船襲撃を目的としていなかったようであり、激戦とはならなかった。そのあと、三月二十六日豊後水道で回天基地隊と演習中、夜に入り第一遊撃部隊に編入との報をうけて、急據呉港に帰投、出撃準備をした。菊水作戦であり、旗艦大和、巡洋艦矢矧とともに十数隻の駆逐艦によりなる編成で、沖縄方面に来襲の敵機動部隊への特攻作戦である。いよいよ、柳にも出撃の時は来たと、不要物等を一切陸揚げし、もう二度と呉へ帰れぬことを覚悟しての準備であった。二十八日それを完了し、諸打合せも終り、いよいよ出港との命を持つうちに、その編成より第十一水雷戦隊は除くとの報が入った。全乗組がっかりし、その理由は何故と殺気立ったが明らかにされなかった。上層部で判断されたところであり、記録もなく未だにその理由は明らかではないが、駆逐艦では冬月、涼月二隻の他は、磯風、浜風、雪風、初霜、朝霜、霞六隻の古い艦の出撃したところより察すると、正に決死の特攻作戦であり、最小艦艇にしぼり、第十一水雷戦隊の新造艦は後の戦闘にと考えられたものかと察せられる。事実、この戦闘で沖縄より手前、豊後水道を出て間もなく敵の大攻撃をうけ、大和、矢矧は沈没、浜風、磯風、朝霜、霞も沈没、涼風は大破、わずかに冬月、初霜、雪風が残ったが、わが方の大打撃をうけた戦闘であったことは周知のごとくである。
そのあと、四月一日第二艦隊に編入され、第一待機部隊第一部隊に合同、瀬戸内でまた訓練を繰り返し、待機するうち、同二十日には、また聯合艦隊付属となった。敵の近迫は烈しいが、それに容易に抗し得難くなっていたのである。この頃、敵の潜水艦が日本近海に出没し、盛んに味方船舶を攻撃し始めた。ことに北方方面にそれが烈しく、千島よりの撤退作戦行動中の船、北海道より内地へ石炭、その他の物資輸送の船舶が攻撃をうけ始めた。
そのため、それに対応すべく、五月七日第五十三駆逐隊の柳、橘は、海上護衛総司令部部隊大警護衛部隊に派遣され、任務につくこととなった。それで北方海域で対潜掃蕩すべく、必要物資等を搭載整備し、いよいよ出港との頃、敵爆撃機が盛んに呉、廣島地区にも来襲するようになり、それと応戦もし、大湊へ関門海峡を経て日本海を北上して急航することとし、同十三日午後呉を出港、同夜は山口県屋代島沖で仮泊、翌十四日早朝出発したが、夜明けてまもなく、周防灘で敵機と交戦、戦死者一名、重軽傷者四名を出した。柳として最初の戦死者であった。そのあと予定通り関門海峡より日本海へ出て、北上せんとしたが、関門海峡に敵が磁気機雷を多数投下していて危険であり、航行禁止との命をうけた。よって、門司の東方の部崎沖に警戒停泊、戦死者、重傷者はそこで陸に掲げた。
関門海峡では昼間、機雷処理部隊がそれを懸命に除去したが、それの完了しない中に、夜になると敵機はまた来襲、機雷を多数投下することを連日の如く繰り返した。それで終に待ち切れず、五月十九日午後関門海峡南側を極度に接岸しつつ警戒通峡、日本海は安全な航海で急航することが出来て、二十一日昼大湊港に到着した。しかし、その頃どうしたことか敵潜水艦による被害報告が大湊警備府にとだえたために無駄な索敵行動も出来ず、大湊港に待機するしかなく、そのようにしたが各地での戦闘情報を聞き、全員気が気ではなかった。六月十日、やっと竜飛崎方面で敵潜水艦による船舶の被害報告が入り、急據二三〇〇対潜掃蕩のため日本海に出撃、北奥尻島より南入道崎に至る間を哨戒した。当時潜水艦の水中速力はそれほど早いものでなく、なおその付近に潜航行中と判断してのことである。その途中、敵潜水艦の攻撃をうけ漂流中の運送船乗組員を収容した。そして十四日午後、日方泊岬北西方面で敵潜水艦と遭遇、その雷撃をうけたが、それを回避、被害無く、これに対し爆雷攻撃を烈しく加えた、それよりさらになお警戒し同海域方面航行中の味方輸送船の護衛に当り、無事を得て、十七日二一三〇大湊に帰港、改めて作戦を練り直した。
即ち、その敵情より積極的に津軽海峡で警戒掃蕩に当るべく、柳は福島町沖に停泊して竜飛岬との間を、橘は函館沖に停泊して大澗崎との間を水中深信、水中聴音して敵潜水艦の通過を捕捉掃蕩することを第一とし、その間に恵山岬、尻屋崎方面其の他で、味方の被害報告があれば、その他に急航、爆雷戦で攻撃することとし、六月二十二日一七三〇柳は福島町沖に停泊、津軽海峡西口対潜哨戒、船舶管制警戒任務についたのである。
二 福島錨地での駆逐艦柳
日本海北部における敵潜水艦によるわが輸送船の被害、その敵潜水艦は間宮海峡、宗谷海峡より侵入したか、或いは不敵にも津軽海峡より侵入したか、津軽海峡東口には恵山岬南方海域に、また尻屋崎北西海域等に広範囲に機雷を敷設し、防禦海域を設けていたが、その間の味方艦船の安全に航行する水域を敵は偵察して、そこを潜航侵入したか、ともかく室蘭沖方面と同様、奥尻島より艫作崎さらに入道崎方面で味方船舶が多く被害をうけるようになって、津軽海峡防備に当らざるを得なくなった。柳、橘二艦でそれに当るに、いずれの地点を選ぶか、北海道沿岸か、青森県沿岸か、海図の上で、地形、水深、海流その他を綿密に検討し、柳は福島町沖で、橘は函館沖でと決定したのである。柳の大熊艦長は、後輩の橘の林艦長に、少しでも安全とみられる地を譲ったのである。福島港、その東の水域に港の妨害とはならず、水深、潮流ともに適当とみられる地、防諜上も安全とみられる地のあるのをみつけ、そこへ向け、昭和二十年六月二十二日一〇〇〇大湊港を出港、途中磁気羅針儀の自差修正をし、一七三〇到着、錨を入れた。福島町月崎南東方向沖約一粁、水深二十二、三米、港灯台を二百七十度前後約一粁にみる時点であり、それ以後碇泊は凡そその付近の地点であった。(『航海日誌』に福島港灯台の何度何粁の地点に投錨と、その都度正確に記していたことは勿論であるが、戦後この「航海日誌』の焼却を命ぜられ、それに従ったので、現在それがなく、正確な位置は不明)
それより、水中聴音機による聴音、水中探信儀による探信をはじめ、十三号、二十二号電波探知器で昼夜を問わず、対空索敵もはじめ、肉眼見張員も勿論交替でつき、大湊警備府とは絶えず連絡をとり、橘とも連絡は絶やさなかった。
そのような中で、陸上をみると緑が美しく、双眼鏡でみても平和そのものであった。大阪藤永田造船所で昼夜兼行の造艦艤装、その間にも空襲があったし、呉付近の緊張した雰囲気をみて来たわれわれにとって、大湊軍港の地ものどかにみえたが、この福島の地は全く戦争とは無縁の如くみられた。ただ、この港湾警備のため、福島連綴基地が置かれていた。そこに海軍準士官一名のもとに、大型運貨艇一隻数名の兵員の配置されているのをみた。
対潜哨戒と云っても、碇泊してのことであり、毎朝〇八〇〇に軍艦旗を掲揚、夕刻日没時にそれを降下する際、吹奏するラッパの音は陸上にまで響いたことと考えられるが、何日目かに「村長が表敬訪問をしてよいか」との問い合わせがあった。艦長がよろしいとの回答をして、どのような形でと艦長は緊張し、ともかく略綬をつけ待っているところへ、村長は平服というより作業衣とみられる姿で、自ら通船を漕ぎ、するめいかの大束を片手に舷門を上って来られた。艦長に生鮮食糧の納入、その他協力出来ることを申し付けてほしいとのような意を云いに来られたようであった。
それを直ちに受けとめたわけではないが、先任将校は敵情を判断して緊急出港のことはないとみた時間に、乗員を何班かに区分して、入浴上陸をさせた。入浴の極めて不便な駆逐艦のことである。兵員は喜んで福島中塚橋近くの風呂屋さんで、有難く入浴させて頂いた。また水の貴重な艦のことである。先任将校は、洗濯のための上陸もさせた。いまその場所が当時のままに存在するか否か解らないが、福島川の河口より約一粁ほど上流、町里を離れてその右岸方向への一支流、川幅四、五米のところであり、そこで洗濯をさせ、終ったあとそこで水浴もさせた。このような機会の自由行動、それは寸時の機会であったが、兵員は町民に親切にして頂いたようであった。戦死した水測士岩谷中尉は兵庫県下の一真宗寺院の後継者であったが、そのことから、いつの間に行ったのか、福島町の真宗寺院法界寺住職と懇意となっていたことを、後で聞いた。一ケ月も足りない間の哨戒停泊、その間に交替しての二、三時間の上陸、それでも福島町の方々の御親切は、柳の将兵に忘れられないものとなっていた。
七月一日、敵本日は来襲せずと判断、一〇四五福島発、一五四〇大湊着、それより、その日より二日にかけ補給をした。また警備府で諸情報の詳細を入れ、打ち合わせをした。七月三日、一〇〇〇大湊を出港、一五四五福島着、S作戦開始、対潜哨戒の上に、船舶航行管理、護衛警戒任務についた。七月四日、警備府よりの味方船舶の潜水艦による被害情報を得て、一四五三福島を緊急出港、日本海に向かい、江差沖、大島、小島付近を広範囲に橘とともに索敵行動、翌五日さらにその南を索敵したが、発見出来ず一七〇〇掃蕩をやめ、一八四〇福島錨地に帰投した。この時であったか、橘の林艦長は柳艦長に、「クカヨクカ、ハコダテハギョモウオホクテウネリダイ、ウキヨバナレノワガハクチカナ」と信号をよこした。「駆逐艦長(クカ)より(ヨ)駆逐艦長へ、函館は漁網多くてうねり大、浮世離れの我が泊地かな」との和歌であるが、大熊艦長は艦橋で、遠ざかる橘を微笑みながら、「余裕のある奴だな」と云っていた。索敵行動中、艦の舷側に沿って、いるかの群が艦の速力に合わせ同行するのも、緊張の中に一つのうるおいを覚えることであった。鮮やかな真昼の海の色も忘れられない。
七月八日、また緊急出港である。一二〇五福島発、竜飛岬西方へ向かったが、大湊より恵山岬東方で、その刻頃被害船発生とのことで、こちらの方が確実にその付近になお潜航中と判断、そちらへ急航した。太平洋のうねりは日本海とまた異なる。この恵山岬付近の防禦海域より東へ出て、その被害船地域を中心に室蘭付近まで掃蕩する。夜間、橘と哨信儀で連絡をとりつつ懸命に索敵するが、発見出来ない。九日となる。浮遊機雷を発見、橘がそれを処分する。敵潜水艦を発見出来ぬまま、いつまでもそれを追跡出来ず、一二〇〇掃蕩をやめ、一七〇〇福島に帰投、固有任務についた。
当時、北海道より本州への石炭その他の物資輸送、それが海上でどの程度になされていたか、いま資料を持たないが、戦時下ではそれが重要なものであり、敵もそれを知り、その海上輸送路を絶つべく、潜水艦で攻撃して来たのである。その輸送船団を護衛し、警戒して対潜掃蕩をする任務、この福島沖を通過する船舶をも注意深く見張り、その安全を願っていたが、水面下の敵を求めての行動は、気が気ではなかった。その柳近くで漁をしている船は、私どもがそれまで見たこともなかった丸木舟であったりして、珍しく、またのどかで、誰が聞いて来たか、その丸木舟でいか漁に夢中になっているうち、とれたいかが舟の中一杯となるのも気付かず、その重みで沈みそうになってやっと気付いたこともあるというようなことを話し、また艦尾で非番の下士官がいか釣をしたがよく釣れたとの叱るに叱れぬ話の出たのも、その緊張の中のことである。
ある日、上陸した私は、小牛が放牧されのどかに歩いているのに先ず驚き、その季節にしろつめ草が一面に咲いているのにまた驚いたが、二、三人の女の子がそれを上手に編み、首かざりをつくっていたので、思わず賞めたら、「兵隊さん、これあげる」と恥ずかしそうにくれたのには嬉しかった。その子の好意をうけて、軍服の上にそれをつけて、海岸で迎えの短艇を持つあいだに、二人の男の子がその砂浜に来た。その子らと語るうち、その一人が東京よりの疎開児であり、私と語るなかで「ああ、東京へ帰りたいなあ」と云ったのに対し、もう一人が「馬鹿、東京は焼野原だぞ、帰っても家なんかないだろう」と云ったことで、厳しい現実をこの子供達もと改めて覚え、自分の責務をきびしく考えたことも記憶している。
駆逐艦柳、艦長大熊安助少佐、先任将校砲長井健二大尉、機長岡崎道則大尉、航海長山兼敏大尉、水雷長野村治男大尉、通信士石谷昌三中尉、機関長付中川英二中尉、主計長大畠永弘主計中尉、軍医長三宅敏夫軍医少尉、水雷士岩谷教英少尉、砲術士永津弘光少尉(階級は七月十日現在)ほか、戦時下の特別編成で増員されての二百七十余名の乗組員、福島町沖での任務、日数とすれば一ヶ月にみたず、上陸したことも時間的には長くとも数時間にしか過ぎなかった筈であるが、生涯の思い出の地として、福島町を皆懐かしむのは、このあとの七月十四日の戦闘があったからであり、そのあと町民の懸命の協力をうけたことがあったからであろう。
三 七月十四日の戦闘
戦局は日ごと急となり、敵第三十八機動部隊すなわちエセックス、レキシントン以下正規航空母艦八隻、バターン、インデペンデンス以下特設航空母艦五隻を主力とする大勢力部隊が金華山沖を北上中との情報は得ており、本艦でも、十三号、二十二号電波探知器で対空厳重警戒していた。
七月十四日早朝午前三時半頃であったか副直将校であった私は電探室よりの通報で飛び起きた。(戦艦等でなく駆逐艦の当直、副直勤務は二十四時間勤務であり、碇泊中の夜は就床出来る体制であった)まだ真っ暗である。電探室で「敵大編隊らしきもの、東南東海域を北上中」とキャッチしたのである。当直将校、艦長に通報させ、大湊にも通報させた。艦長の命令で、機関科即時待機に入った。しかし、まだ総員配置につくのは早い。「目標次第に北上する」と電探室は着実に把握している。大湊にまた連絡させる。しばらくしてラジオで「青森県地方警戒警報発令」と報ずる。午前四時五十分だったか、こちらが通達して一時間くらいたってのことである。またしばらくして「青森県地方空襲警報発令」と報ずる。これも約一時間遅れている。本艦が一番早く発見したのか、他にもキャッチしていたか、ともかくそれを大湊にすばやく報告しているのに、このラジオ放送は遅過ぎるといらだつ。艦橋に上って暗い中で待機していたが、北の夜明けは早い。東天紅らむ頃、キラキラと光る敵大編隊機群の北上するのがみえた。艦長に知らせさせる。艦長の「総員配置につけ!!」の号令が出る。それまで静かだった艦内が瞬時に活気づく。各科の報告が来る。「機関科配置よろしい!!」「砲術科配置よろしい!!」「航海科配置よろしい!!」⋯の如くである。それをうけて艦長に「艦長、各科配置よろしい」と航海士の私が告げる。艦長が「はい、各科油断をするな」、各科へ「各科油断をするな」と電話、伝声管で伝令を伝える。緊張してはいるが、先程みた編隊機群は室蘭、函館方面へ向かったのか、山陰にかくれて見えなくなった。見張員達も「異状なし」を報じている。先任将校が艦橋上の対空指揮所より艦長に「近錨にしますか」と伝声管で尋ねる。艦長はその余裕はないと判断して捨錨しようと答え、「捨錨用意」と令する。前部甲板の運用長に「捨錨用意」が伝えられる。緊急出港は必至であろう。いま出している八節(一節は二十五米)の錨鎖を揚錨機でつめておく時間的余裕もなければ、さらにそのあと、錨を揚げる余裕もないであろう。よって錨鎖を切り捨錨して、出港する用意である。勿論、後で回収出来るように浮標をつけ、用意している。機関もいつでも発進の用意は出来た。全高角砲、全機銃に弾丸は装填され、瞬時にでも攻撃を開始出来る状況になっている。敵機が来襲する前に自ら沖合に出て、敵より発見され易くする愚は出来ない。また、敵機がわが艦を発見して来襲するのに、碇泊停止のままで、攻撃し易い体制はとり得ず、緊急出港して応戦するとともに、敵攻撃を回避航行するのが第一である。さらに、ここに碇泊のままならば、福島町月崎付近は勿論、福島港付近もその攻撃範囲で大変な被害を受けることとなるであろうから、それは絶対避けなければならず、そのためにも出港しなければならない。
艦橋のなか、まだ静かであるが、緊張が続く。対空戦闘の場合、全員鉄兜着用、第三種軍装の上に弾丸破片等を少しでもよけるためコート着用、また簡単な応急手当はまず自分ですべく腰に止血棒を下げることとし、高角砲ほかの発射時の空気圧で鼓膜の損傷するのを避けるため、耳栓をすることとなっていた。夜半、真っ先に艦橋に上った私はずっとそのままであり、下りて士官室まで行く暇もなかったことで、コートを着用しないままであったが、かえって海図台の前で動作し易かった。それによる身の危険は覚悟の上である。当時、艦長は三十三歳であったが、士官は先任将校も二十四歳であったか、あと皆それ以下である。下士官兵のうち応召兵で三十歳を超えたものもいたが、大半が二十歳代、伝令配置の兵の大半は志願兵の十八、九歳代である。皆、この刻になって本土防衛のため戦うのみである。
先程から東方海上を主にみていたが、青函連絡船が見え始めた。見張員もそれをつげる。双眼鏡で眺めたが間違いなし。青函連絡船第三青函丸である。何たる無謀、空襲警報発令中である。敵は陸上鉄道列車も容赦なく攻撃破壊の報も入っている時に何たることと思う。艦橋内、皆案ずるが、まもなく北より反転して来た敵機が盛んにそれを攻撃し始めた。ここからは、それを助けることも出来ない。無防備の船、たちまちに朦々たる黒煙が上ったとみたら、つぎに紅蓮、そしてやがて沈没したか白煙のかげになって見えない。嘆息する閑もなく、敵機は三厩方面に向かい、その沖の小さな漁船であろう機帆船まで攻撃し始めた。瞬時もなく、それが轟沈するのがみえる。漁船は、まさか自分の船は攻撃されまいと操業していたのであろう。何たることと憤りを覚える。
艦長が「近づくまで撃つな!!」と令する。各砲にそれを伝える。
金華山沖より本州東岸に沿って北上した敵機動部隊より発した大編隊機群は、北海道各地を攻撃のあと、主として函館方面より反転南下する頃、岩部岳の影にいた本艦を直ちに発見出来なかったのであろう。三厩方面沖を先に攻撃した。しかし、遂に本艦も発見された。
「敵機近づく、近い!!」見張員の声。「捨錨!!」「前進一杯!!」「面舵にあて!!」艦長が令する。〇六五六である。錨鎖には、ところどころに仕掛けがあり、それを外せば切れることとなっている。処置した運用科員が本来の配置へ急いで帰る。「敵機急降下!!」「打方始め!!」、瞬時を置かず後部高角砲の発射音、動き始めたわが艦の右四十五度、二十米、左九十度、二十米に爆弾投下、海底にもぐり込んだのか、水柱は立たないが、大きな波紋、それより彼我の弾丸の烈しさ、轟音、騒音、そのなか艦長はともかく、すぐ南下させ、行動し易くすべく広い海域へと進めるが、それも烈しい敵の攻撃のなか、回避運動をしつつであり、「取舵一杯!!」、「面舵!!」と次々と令するが、轟音のなかで聞きづらい。伝令に私が更に伝える。機関調子もよく、すぐ高速となる。敵F6F、TB5、正面から、右から、左から、艦尾からと構わず、次から次へと約五十機の攻撃である。SB2Cもいる。わが艦よりの烈しい攻撃、轟音に続く轟音、艦がきしむ。機銃弾が艦橋の中にもどんどん飛んで来て、火花が散る。左二番見張、浅田兵曹がひっくりかえった。操舵長が思わず「浅田兵曹!!」と叫ぶ。それに応えようとしたのか、かすかに口を動かそうとしたかの如くみられたが、もう土色の顔色、戦死。それをどける暇もない。機銃弾が、ひっきりなしに艦橋にも入る。羅針儀横で通信士がしゃがんだとみたら、右大部より血がふき出している。「石谷!!、しっかりしろ!!」、水雷長が気がつき、叫んでいるがその眼はすぐ敵方をにらみつけている。艦橋にもいつのまにか、水しぶきがとんでいる。至近弾による水柱のためか。海図の上もぬれている。敵の烈しい攻撃、ロケット射撃、それを艦長はにらみつつ、面舵、取舵でかわしつつ進む。本艦の攻撃もすごい。「舵故障、艦長、舵が効きません!!」操舵長が叫ぶ。「応急操舵、配置につけ!!」艦長の命令、私がそれを操舵員に伝える。舵機室へ操舵員二名が必死の状態で走る。操舵系統の油圧装置が、機銃弾でやられたのだろう。手動の応急接舵、配置についた連絡が来る。艦は更に回避運動くり返す。本艦が一秒間に何発の弾丸を発射出来たか、記憶にないが、ともかく全砲の一斉の攻撃のすごさ。それに対して敵も攻撃を止めない。騒音、轟音のなかで、絶えず烈しいきしみ、激震、海団台上の棚に並べた秘密信号書が、そのきしみで落下しそうになる。この信号書はいざという時、海底に沈むべく鉛板表紙であるが、それらも烈しく揺れ動くのである。どこから出たのか海図台にも鉄屑が散乱しているが、それをどける暇もない。
さらに烈しい振動、艦橋の全員が烈しく揺れた。何事か、攻撃はなお続く。航海長が「艦長、行脚がありません!!」艦長も気付いている。「機関科へ、機関故障か」、機関長より「主軸、フル回転しています!!」と。
「艦長、艦尾がやられました!!」と、何事と右舷に立ち後方をみたら、後部砲塔の後より艦尾がまくれ上がっている。やられたのだ。各科より連絡が来る。急に静かになった。敵機よりはそれで本艦は沈没とみたのであろう。全機引き揚げて行った。わが艦もそれに対する攻撃は止めた。「応急修理、配置につけ!!」、後部隔壁、その他、点検修理。みれば艦橋の計器類全部狂っている。電源も故障と伝えて来る。ともかく今の位置を海図に記入しなければならないために転輪羅針儀をまずみたら、完全に狂っていて用をなさない。すぐさま、磁気羅針儀をみたが、これも完全に狂っている。急いで六分儀を出し、方位角を計り位置を出し、海図に記入したが、白符の真南五粁位の地点だったように記憶する。艦橋のなか、重傷の通信士や戦死の浅田兵曹をいつ下げたか記憶はない。艦長は旗甲板より全体掌握のため移動、水雷長、航海長もそれぞれどこへ行ったのか、皆各部点検である。
艦が右舷に傾斜し始める。艦長より大湊へ通報を命ぜられるのが、電源故障で通信出来ないと電信室より云って来る。艦尾約十米位が切断、舵も推進器もなくしたのだ。応急操舵のため舵機室に走った二人は、その艦尾とともに瞬時にしてすっとんだのではないか。機関長が上って来て、缶室、主機に異状なく主軸回転していることで進んでいるものと思っていたという。ともかく、推進器なくして如何することも出来ず、発電機の故障、いま懸命に修理に当たっていることを告げる。先任将校はすぐの再度の空襲に備えるべく砲術科員の戦死傷状況を早速と調査している。海上に敵の攻撃のはずみですっ飛ばされた兵あちこちに漂流している。先任将校がそれをみつけ、大声で「助けに行くぞお!!、しっかりして待ってろ!!」と叫ぶ。その声の届いた筈の童顔の兵、こちらを向いている顔は、にこりともせず、力のなかったのは既に下半身やられていたのであろうか。すぐ救助すべくカッター(短艇)、運貨艇を下ろすにも、艦の傾斜烈しくそれが困難の上に、いずれにも敵弾でいくつも穴を開けられていて用をなさない。また、それを助ける兵員の余裕もなく術もないのだ。
夏の日射しが照りつけ出した甲板上は正に修羅場、血まみれの戦傷者があちこちで苦しんでおり、敵弾による破壊のあとが各処にみられる。士官室は戦闘中、救護所となるのであるが、そこで軍医長が衛生兵と応急看護をしたが、重軽傷者が多過ぎ、大変のようであった。後で私が入ったのは負傷者を陸揚げしたあとであったが、机上にしていた書物が床に落ち、血まみれになっていた。その士官室で艦橋でやられた通信士石谷中尉の、その右大腿部の手当を早くしようとしたのに対し、通信士は下士官兵の手当を先にと息もたえだえのなかで云って、そのようにさせたことを後で聞いた。結局通信士は出血多量での戦死であった。主計兵が「航海士、食糧です」と鑵詰食糧を配り歩いて来て、朝食前の戦闘であったことに気付いた。艦尾を切断したその被爆は〇七一六のことであったのである。
本来の静けさにもどったなか、艦上は大変な様であり、艦内にも被害個所多く、応急処理で沈没は免れたものの、航行は不能、通信も不能、漂流のほかない状況、それでまたくじけることも出来ず、再度の空襲にいつでも戦う覚悟と云っても、電源故障ですべて手動、しかも兵員少なくなってのそれであり、正に最後の戦いとなることを覚悟して待つ外なかった。
そこへ福島連綴基地の大型運貨艇が向かって来てくれたのである。艦長が、「あれに信号を送れ、ワレヒバク、エイコウタノムと送れ」と云う。信号兵に大形手旗で、その通りに送らせる。艇はそれで直ちに引き返すのではなく、横付けして打ち合わせをした。この近づく途中、艇から手旗で橘が函館沖で轟沈したことを知らせて来たが、艦長はそれを「皆には黙ってろ」とのように云った。艦長として士気に影響することを考えてのことと知ったが、その信号を何名かの兵も見ていたのであり、皆が知るのに時間はかからなかったが、皆また艦長の心も汲んで多くは語らなかったし、その話題で深く話している余裕もなかった。その艇は、その着舷付近の戦死傷者をともかく移乗させて、一旦帰ったあと、四隻の漁船とともに曳航に来てくれた。それでそれぞれの船と曳き網を結び、いざ曳航を始める段階で、それぞれの船の進行方向が一致していないように本艦上からみられ、事実行脚がなかなかつかなかったことから、航海長が一定方向にとのことを大声でどなりつけたことは今となって申し訳なく思う。善意で、また危険をおかして来てくれた漁船である。感謝の言葉を先にすべきであったかも知れないが、航海長だけでなく私たちは、そのような心の余裕もなかった。基地の準士官が、われわれにも聞こえる声で、「いま艦の人々は気が立ってるから荒いことをいう。だけどわれわれは折角来たのだから曳こう」とのような意を語り、月崎方向を各船一致して目指し、曳き始めた。それで、やっと順調に進みはじめ、一二三〇、灯台の四十八度、八百二十米、水深四米の地点に到着した。それより、さらに残りの戦傷者を陸上に移した。
その頃、私はその基地の準士官が艦長に語るなかで、通信士と水測士との戦死を初めて知ったのである。艦長もそれを知らず聞くなかで、準士官は「少尉の方は艇に移す時に、亡くなって居られました。中尉の方は、艇へ移す時まだ生きて居られましたが、陸上に移す時には、もう亡くなっておられました。」と。通信士が目の前でしゃがみこみ、自分で大腿部をおさえながら、顔面が次第に蒼白となって行くのはみたが、水測士の戦死は全く知らなかった。対潜戦闘でなく対空戦闘のため、水測士は艦内の配置場所でなく、旗旒甲板付近にいたが、敵機銃弾が左肩より直撃し、即死だったと。
こちらも殺気立っていたのであろう。艦橋内のことはすべてみて居り、また航海士としての任務に関することはすべて処理するが、他のことまで、とても目が廻らない。その曳航船の来るまでの間に、舵機室の損傷を実際にみるため、艦尾まで一応行ってみたが、戦死傷者のあちこちに横たわるなかで、甲板士官でもある水測士に出会わなかったことを、後で気付き、この忙しい時に水測士の奴、どこで何をしてるのかと思ったことも、後で改めて気づいたのであった。砲術士も軽傷ではあるが、陸揚げという。通信士、水測士、砲術士の三人分と私自身の分、四人分の任務がのしかかった感であった。それは私だけでなく、何の負傷もしなかった者、皆その周辺配置で戦死傷した者の分を引き受け、勤務することを覚悟した筈であり、またその戦死に驚き悲しみ、戦傷者の一刻も早い回復、元の配置への復帰を願ったことを今も思っている。
その日の戦死者名を記すに、
(戦死者名は省略)
の如く二十一柱である。この佐々木上等兵曹以下には、砲術科員で甲板上の機銃配置であったものがその大半を占め、あと航海科の見張員一柱、操舵員二柱の如くである。他に重傷下士官一名、兵二名、軽傷準士官以上二名、下士官十五名、兵四十名であった。
また、船体、兵器の被害は前記の如く、後部砲塔より艦尾部分の切断沈没があり、それにより、第六兵員室、舵機室、水雷科倉庫、爆雷庫、後部食糧倉庫、予備倉庫を喪失、舵及舵機、両舷推進器を船尾軸より切断喪失のほか、第五兵員室に浸水約一米、その上方甲板左舷に径二十五糎の破孔、船体三ヶ所の外鈑鋼鈑歪曲、甲板鋼鈑一ヶ所歪曲横皺を生じ、後部機械室に一部浸水、前部鑑底亀裂により錨鎖庫に浸水、一部の重油タンクまた予備真水タンクに海水侵入、後部甲板上の二十五粍単装機銃四基、爆雷砲台の投射機二基、投下機二基を艦尾とともに喪失、後部砲塔の十二、七糎連装高角砲一基は旋回不能、二米高角測距儀も使用不能、さらに送信機室にも浸水で送信機使用不能となった。その上、水中聴音機、水中探信儀も故障、使用不能となっていた。また、捨錨したことで右舷主錨及び錨鎖八節を亡夫した(この捨錨時、後に回収する目的で浮標をつけていたが、発進直後の敵爆弾により、その浮標繋留綱が切断したのか、それを発見出来ず、七月十六日、十七日に付近海域の海底を捜索したが、その爆弾で海底の砂が乱れ、砂中に埋められてしまったのか、ついに発見出来なかった、現在も存するか。)
ちなみに、先に記した如く、僚艦橘はこの日、〇六五三、葛登支燈台九十度二分、三粁の地点で轟沈、戦死者百四十名を出した。
戦死傷者は福島町町民各位の懸命の協力を得て、法界寺に移し、戦死者の遺体は丁重に安置され、戦傷者には矢野旅館等の蒲団も血まみれとなり、のち使用不能となることもいとわず提供され、町内の医師も処置に協力、大日本愛国婦人会、国防婦人会、女子青年団の皆さん方が、昼夜を問わず、看護に当って下さることとなった。医療機械機具、薬品も全く不備のなかで、五十名近くの治療に当る軍医長、衛生兵の言語、態度が、負傷者に対して極めて厳しく冷たく婦人方にはみられたかも知れない。よって、それに代ってやさしく、ともかく心の底よりの善意と誠意をもって婦人方は対応して下さったのであった。軍医長、衛生兵も決して厳しいのではなく、それにより生きる力を自らと懸命に願い当っていたことであった。
私は、町民が私ども駆逐艦柳がかく戦いながら、敵機を撃墜すること僅かに六機(うち不確実三機)、このように無惨にも大破されたことで、大変な叱責をされるのではないか、何故もっとうまく戦えなかったかと自責の念に耐えなかったのであるが、町長はじめ皆さん一人残らず、戦死者、戦傷者に誠意をもって温かく対応して下さり、艦が大破して食事にも事欠くのではないかと案じて下さることにも烈しく心を動かされていた。
しかし、感傷にふける暇もない。ともかくまだ戦闘し得る能力はある。空襲がいつあるかも知れず、それへの対応準備とともに、自力で故障修理の出来る機械機具の整備をと元気な艦長以下は当り、また明日よりのことを協議、大湊とも密接な連絡を、陸上の機関とこの日遅くまで当ったのである。
この日の烈しい戦闘を終えてあとの町民各位の善意に溢れる行動、柳乗組員全員終生忘れ得ぬ思い出の地となったのであった。
(なお、駆逐艦柳のことについて、片桐大自氏著「聯合艦隊軍艦銘々伝』〈昭和六十三年、光人社発行〉に「七月十四日、小樽―秋田間の一貫護衛作戦中、津軽海峡、函館湾で空母機の攻撃をうけて大破、〈中略〉さらに八月九日、大湊付近で空爆を受け再び大破、付近の海岸に擱座してからくも沈没をまぬかれた。そのまま終戦を迎え、戦後昭和二十一年十月から翌年五月にかけて解体された。」とあり、また、「丸」編集部編『写真集・日本の駆逐艦(続)』〈昭和五十年、光人社発行〉に、「七月十四日、津軽海峡で空母機の攻撃をうけ、艦尾を切断して函館に回航された。」また「終戦直前の七月十四日と八月九日に大湊付近で敵機動部隊艦上機の攻撃をうけて損傷し、付近の海岸に擱座してからくも沈没はまぬがれた。戦後の昭和二十一年十月十六日―二十二年五月二十日に、大湊船渠で解体された。」とあるのも正確な記事でないこと、福島町民には理解されることと思うが、このほか更に不正確な記載の書の多いことを付記して、よく注意されるよう希望したい。)
四 その後の駆逐艦柳
烈しい戦闘の翌昭和二十年七月十五日、第十一水雷戦隊は解隊した。また第五十三駆逐隊も解隊した。水雷戦隊として編成行動するに、もはやその戦法の時機でなく、艦艇の数もそれを編成するには不足したためか。第五十三駆逐隊桜、楢、椿、欅、柳、橘の六隻のうち、司令駆逐艦桜は七月十一日大阪湾頭で敵の投下機雷に触れ沈没、楢は六月三十日関
門海峡付近で触雷中破しており、柳の大破、橘の沈没でこの処置がとられたのであろう。
柳はその駆逐隊解隊とともに、この日付で大湊警備府警備駆逐艦とされ、欅は大阪警備府警備駆逐艦とされた。
沖縄への特攻作戦で敗れたあと、本土への空襲が日毎烈しくなるなかで、海軍艦艇の活躍の場は少なくなり、瀬戸内の島陰にかくれる艦の多くなっていた五月よりあと、北洋に活躍の場を与えられたことは有難いことであった。ただ対空戦闘でなく、対潜戦闘で海上交通防衛のみに当るのであれば、さらに活躍出来たかも知れないが、悲惨なこととなった。
航行能力を全く無くし、月崎沖に仮泊したその七月十四日夜から、大湊の船渠での修理は不可能と判断、舞鶴へ如何にして回航修理をするか、それへの努力、そのようなことにつき、士官室で語っていた一方で、機関長付、主計長たちが上陸し、戦死者の処置、戦傷者の治療、看護、さらに大湊海軍病院への護送のことで各方面と連絡していた。先任将校がこのような時、実に機敏に行動、適確な判断で、事を次々と処理したのであり、水雷長が温和に折衝に当り、機関長、航海長は艦に残って艦長中心に、艦内の処理とチームワークは万全であった。その翌十五日も敵機動部隊よりの北海道方面の船舶に対する空襲が烈しく行われていたが、福島町方面への来襲はなかった。航海士である私は終日殆ど艦橋にいて、見張員たちとともに警戒の任についていたため、陸上の様子は伝聞でしかないが、機関長付が立ち合い見守るなかで、この夜、戦死者の火葬がなされた。その遺体、前記戦死者のすべての遺体が存したのではない。艦尾とともに瞬時にその身体もとび散った戦死者、海上に爆風によってふっとばされての戦死者たちの遺体はなかった。さみしく、やりきれないが、これが戦いの真姿である。
次の日、遺骨を拾い、運用科員が懸命になって一夜のうちに、製作した遺骨箱にそれぞれ納め、前部砲術科倉庫に仮安置した。戦死者全員には出来なかったが、このように町民の協力を得て厳粛に火葬することが出来、その遺骨を納めることの出来たこと、福島町に深謝の他ない。軍への協力の是非とかとの問題でなく、この時の町民各位の心意、これは後世に長く語り伝えて頂きたいところと皆の感じたところであった。この夜であったか、風が海側より少し強く吹いて艦首が砂浜にのし上ってしまった。安定したとは云えるが、曳航に不便となるか、ともかく風のなせる業、ない詮方ことであった。この頃には、本艦の発電装置は復旧していた。機関科員懸命の努力の結果である。電探での索敵もそれで再開していた。
しかし、七月十七日二四〇〇をもって、S62作戦を終結した。水中聴音機、水中探信儀の故障修理は不能で索敵能力を失っていたのであり、航行能力もなく、対潜用の爆雷発射能力もなく、船団護衛の不能な本艦、僚艦橘も轟沈したことで当然であったが、申し訳ないことであった。
七月十八日であったか、少しく波浪の烈しい日、大湊より戦傷者輸送の船が来てくれた。それに戦傷者全員を移乗し輸送した。戦傷者のなかに、この無防備の船で、安全に大湊まで行けるのか、言葉に出さないが顔色にそれをはっきり示している者がいたが、烈しい戦闘のあとであり、ましてそれにより負傷した本人として、その恐怖は当然であったであろう。しかし無事輸送出来た。
七月二十日、晴れた海上穏やかな日であった。大湊より救難船淀橋が来てくれた。大湊まで曳航である。前記の如く、十四日月崎へ曳航された時は、水深四米付近まで艦首を砂浜に向け直角に入れ、繋留していたが、風で艦首が完全に砂浜にのし上ってしまっていた。まずその引卸し作業より始めなければならない。一〇〇〇引き卸し作業開始、しかし動こうとしない。それで、満潮を待ち一二三〇再び作業開始、一二三五引き卸し成功、それより艦首に曳航索をつけ改めて、一三〇〇曳航開始、お世話になった福島をふり返りつつ大湊に向かう。曳航速力十ノットであるが、実速は最大六・五ノット、最低三ノット、海峡の海流のせいであり、さらにその影響で本艦艦首が左右にゆれる。最大振れ幅四十五度、最小幅五度、時に大きく横揺れもする。陸奥湾に入って日もくれ、二十一日一〇〇、大湊港外に仮泊した。そして、〇八〇〇に改めて、内港浮標に前後係留替えした。
それより、戦況日々不利となる中で、柳の修理の困難さは解り、全員次の配置への転勤命令を待っていた。機関長付、主計長に付、他より逸早く転勤命令が来て離艦して行った。
八月九日、また敵第三十八機動部隊よりの艦載機群が早期より東北地方に来襲、大湊地区にも午前、午後数次にわたって、F6F、F4F、 F4U、SB2C、TBF延約二百数十機が来襲、それも恐山方向から急降下急襲して来たが、停泊艦十数隻がこれに一斉に応戦した。わが艦の前部高角砲、機銃群も大活躍である。また本艦の十三号、二十二号電波探知器もその飛来前より索敵に大活躍したが、敵は恐山方向より急に現れて、これを妨害のため、まず欺瞞紙を散布する。それがキラキラと光る。電探の機能は一時衰えるがつぎの来襲までの間にそれは落下し果てて、それほどの妨害とはならない。この日、数次の来襲に本艦は被害なし。但し停泊艦艇中最大の大艦である敷設艦常磐が大きな被害をうけていた。
翌八月十日も早朝より来襲、昨日より烈しく延五百機が何度かにわたって来襲、これと応戦したが、本艦も重傷兵一名(のち戦死)、軽傷兵一名を出した。
それより、いらだつ日が続いたが、八月十五日、〇八〇〇軍艦旗掲揚のあと、大熊艦長は大湊警備府の護衛参謀に転勤のため、乗組員に挨拶があった。そのあと、一二〇〇天皇陛下の終戦の詔の玉音放送を甲板上で先任将校以下が聞いた。
先任将校は機敏の処置で、この午後より各科兵器等揚陸還納を始め、国内の混乱のないうちにと、鉄道と連絡、翌八月十六日呉に向け陸路第一次兵員輸送の手配をした。この八月十五日付で本艦は第四予備駆逐艦とされた。そして、八月十八日第二次兵輸送、また竣工の一月十八日より毎月十八日を艦内神社例祭日としていたが、この日神社撤去式を斎行、翌八月十九日第三次兵員輸送で兵員全員が呉に引揚げた。航海士の私がその最後の輸送指揮に当らせられたが、最後駆逐艦柳の船体といよいよ別れる時、全員に「帽をふれ」の挨拶をさせたがさみしいことであった。この第三次輸送は翌二十日東京着、宮城二重橋で拝礼ののち、午後東京発、翌二十一日午後呉着、下士官兵は全員呉鎮守府付となり、士官はそれぞれ次の任務に分散した。この二十一日夕刻、鎮守府が柳の最後を手短かに報告した時のことも私は忘れられない。
それよりあと、駆逐艦柳の船体は大湊港外に移され、敷設艦常磐とならべて海外に擱座させられていたようであるが、昭和二十三年北九州洞海湾まで曳航され、駆逐艦涼月、冬月の船体とともに防波堤に利用された。このような利用のされ方が当時あったのである。北九州市若松区安瀬町の地先にあるその防波堤は「軍艦防波堤」とその地で呼ばれているが、三艦のうち、柳の船体が、次第にコンクリートで固められて行くなかで、一番後までその船体をみせていた。柳乗組の何人かが、この地を訪ね、この船体をみて涙を流して来たのであった。
昭和五十一年四月七日、北九州市若松区高塔山に、若松海友会の尽力によって「駆逐艦涼月、冬月、柳戦没者慰霊碑」が建立され、それより毎年四月第一日曜日を目標に慰霊祭が行われている。また、その碑の傍らに、平成二年防波堤の柳の船体右舷中部甲板上に存した双繋柱一基を遷し置かれた。
あとがき
駆逐艦柳の元乗組員による「柳の会」は、終戦直後、その兵員の大半は呉鎮守府付となったが、それよりすぐ復員した者、他の任務についた者、ともかく慌しく、また急な別離であり、連絡名簿等を作成する暇もなかった。よって、別離より三十年、昭和五十一年北九州高塔山に慰霊碑が建立された時、連絡のとれた何人かがやっと初会合したのが、最初で、あと出来るだけの手を尽くして来たが、十分でなく一部乗組員の会合にしか過ぎない。しかし、それよりあと、毎年四月高塔山の慰霊祭に会員が参加して来たほか、昭和五十四年九月二十三日母港の呉で慰霊祭をし、翌五十五年四月六日には高塔山慰霊碑前に石灯篭献納慰霊祭を、昭和五十九年二月十九日には造船した大阪で慰霊祭をし、昭和六十三年五月四日一番思い出深い地福島町法界寺で慰霊法要を、鏡山神社で慰霊祭を斎行させて頂いたのである。
さらに平成二年七月二十二日靖国神社で慰霊祭をしたが、平成三年五月三日福島町に「駆逐艦柳平和記念塔」が立派に建立され、「駆逐艦柳応戦展望の地」の碑が建立され、その除幕式に参列させて頂いた。
そして、さらに平成六年七月十日、五十回忌の法要を法界寺で、五十年慰霊祭を記念塔の前で鄭重に斎行して頂いた。
福島町と駆逐艦柳、後世の人々はこれをどのようにみられるか、それは知らない。ただ、駆逐艦柳乗組員にして福島町沖での戦闘で戦死した英霊の遺族をはじめ、乗組員全員が当時暖かい御世話になった方々、さらにその慰霊祭を年々斎行して下さる方々に深甚の謝意を表していることを御心にとめて頂ければと願っていることを知って頂きたい。
(元海軍中尉、駆逐艦柳航海士)
注釈
対潜水艦用で爆雷を備えた速力の速い小型の軍艦 | |
船が錨(いかり)を下ろして停泊する所 | |
日中戦争のこと | |
呼び出しに応じること。特に、在郷軍人などが召集に応じて軍務につくこと。 | |
敵の侵入や襲撃に備えて、周辺あるいは特定の区域を警戒すること | |
銅像や記念碑などの建設が終了した時に、おおいかぶせた幕を取りさり、初めて公開すること | |
膨大のこと | |
新造船を水上に浮かすこと | |
船体が完成したあと就航に必要な種々の装備を船に施すこと | |
船舶が水に浮いているときの、船体の最下端から水面までの垂直距離 | |
敵軍の位置・状況・兵力などをさぐること | |
航海計器の一つで、主に艦船の速度を測定するための装置 | |
同じ任務に就いている、味方の軍艦 | |
旧日本海軍が第二次大戦中に用いた、人間が操縦する魚雷の名 | |
旧海軍の機関で,海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した | |
艦船・航空機・兵隊などが基地に帰りつくこと | |
特攻攻撃を実施した日本海軍の作戦。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来する。 | |
連合のこと | |
敵などをすっかり追いはらってしまうこと | |
とらえること。つかまえること。 | |
敵の諜報活動を防ぐこと | |
停泊のこと | |
勲章や褒章(ほうしょう)の代わりに用いる略式の綬 | |
船体の側面 | |
錨鎖の長さが、船を停めておける最低限の長さになった状態 | |
船舶が錨泊中に天候の急変、津波の来襲などによって、揚錨する時間がない場合、錨鎖を切り放して出港すること | |
霧・煙・ほこりなどが立ちこめるさま | |
艦船が、砲撃や爆撃などを受けて瞬時に沈没すること | |
船首を右に向けるときの舵の取り方 | |
相手と自分 | |
船首を左に向けるときの舵の取り方 | |
戦闘機の名前 | |
船などがそれまでの勢いで進み続けること | |
物標(目標となる物)または天体の高度や角度を測定する計器 | |
船が他の船や荷物を引いて航行すること | |
船舶で、国際信号旗を組み合わせてマストに掲揚して行う信号法 | |
一人一人についての伝記 | |
船舶が浅瀬、暗礁に乗り上げて動けなくなること | |
「まぬがれた」の意 | |
船舶を建造または修繕するために入れる構築物 | |
どうしようもない | |
アルミ箔を紙に貼った短冊状の妨害片 | |
天皇のことば | |
丁重のこと |