第一節 古代の福島 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
福島町には文化財保護法で定められている届出を済ましている周知の埋蔵文化財包蔵地として、次の三十二件の包蔵地がある。
これらの遺跡は、畑地の表土に散乱している土器や石器によって確認されたり、公共土木工事によって発見されたものも多いが、字館崎台地上のように青函海底トンネル基地造成によって初めて発見された個所もあるが、本格的な発掘が行われたのは、1、穏内館遺跡、2、館崎遺跡、、館崎遺跡の三個所のみで、この町に住んだ先住民の全体像を知ることができない。またこの三十二個所の周知の遺跡のほか、海岸より二〇~三〇メ-トルの高地には多くの遺跡の存在したことが考えられるし、また、現在の海岸線の人家の建て込んでいる地帯も、かつては遺跡が在ったと思われるが、永年の家屋使用によって、その痕跡が失われている処と思われる。それでは、私達の先祖の住み着く以前に、この町に住み着いた人達はどのような人達で、どのような文化を持った人達なのかを調べて見よう。 【旧石器時代】北海道に人類が住み着いたのは四万年位前からだといわれる。それから一万年位 前までの時代を旧石器時代と呼んでいる。この時代の遺跡は土中の深い処のロ-ム層中や、その接点付近で発見されるが、そのため大きな土木工事等で発見されることもある。この旧石器時代の遺跡は、土器を伴わない打製石器だけを所見することができる。これはこの時代の人達は未だ土器を造ることを知らず、石を欠いて石器のみを造っていたもので、北海道内では北見、十勝地方から多く発見され、道南では寿都町樽岸、知内町湯の里4遺跡等で発見されているが、福島町からは未だ発見されていない。 【縄文時代】旧石器の時代が終り、今から二、五〇〇年程前までの時代を縄文時代と呼ぶ。そのうち八、〇〇〇年から六、〇〇〇年位 前の土器時代を縄文早期と呼び、それから四、〇〇〇年位前までを前期・中期の時代、さらに三、〇〇〇年位 以降のものが後期、その後は二、五〇〇年前のものが晩期と言われる時代である。 縄文早期の土器特長は、台座がなく底部が尖がっていて乳房状になっている。これは恐らく砂地に土器を刺し込んで安定させて、使用したといわれ、この時代の人は台座を造って安定させることを知らなかったともいわれる。この土器は尖底(せんてい)土器と言って、函館市の住吉町から一番先に発見されているので、住吉町式ともいっている。しかし、最近考古学の発達によって、すでにこの時代台座の付いた同年代の土器が十勝地方等で発見されていて、この尖底土器を最古とするという考え方は変りつつある。 【縄文前期・中期の時代】この時代は今から六、〇〇〇年位前から四、〇〇〇年前までを縄文前期の時代といい、それから一、〇〇〇年位 下った時代までを、縄文中期の時代と呼んでいる。この時代は円筒形土器時代といわれるように、非常に大きな円筒形の土器を造り、それに穀物等の貯蔵をしたり、煮炊きをする道具に使用したりした。このような大型の土器を造るため、粘土の中に植物の繊維(せんい)を混ぜて甕自体が丈夫になるよう工夫するようになった。この前期の場合縄紋や縄状貼付紋が主体であるが、中期に入ると型はさらに大掛かりになり、胴部に縄を回転させた模様を付し、口唇部(こうしんぶ)には大胆で華麗な紋様となる。この型式で前期のものを円筒下層式あるいは余市式といい、中期のものを円筒上層式と呼んでいる。 青函海底トンネル基地とするため、緊急発掘調査を行った本町の字館崎台地一面 は、丁度この円筒前期から中期の遺跡で、二〇〇個体の完形土器の復元ができたほか、無数の土器破片も発見されている。またこの時代には石器の製作使用も盛んで、石鏃(せきぞく)(矢の根石)、石槍、石匙(せきひ)(石小刀)、石斧(ふ)(石おの)、擦石、冠石等も多く発見されているが、この遺跡の特色として石錘(せきずい)が多数発見されている。これは石の重りを使い、海で魚を獲っていたもので、採取生活のなかで海とのかかわり合いを示す資料でもある。この館崎遺跡のほか、福島町では館古遺跡も同年代のものである。 【縄文後期の時代】縄文の後期の時代は、今から三、〇〇〇年から二、五〇〇年前のことである。この期には大型の円筒形式土器は退廃し、代って小型で、土器文様も複雑になり、器形も多様化する時代である。この時代北海道では野幌式という土器が非常に発達し、これが南下を続け海峡を越え、東北地方にまで及んでいる。またこの期に関東で発達した加曽利B式という土器とも共通 点が見い出され、北海道と本州の交通がますます頻繁になったことを示している。この期の遺跡は福島町では少ない。 【縄文晩期の時代】今から二、五〇〇年位前から二、〇〇〇年前の土器年代を縄文晩期の時代というが、この時代は遮光土器(しゃこうどき)といわれる人形型をした土器に代表されるが、その土器の出土の中心が青森県西津軽郡木造町亀ケ岡の出土であるので、亀ケ岡式土器という。この土器は発生後東北地方はもちろん、道南地方にも多くこの形式が流入し多くの遺跡を残している。この土器は薄形でさまざまな型と華やかな文様があるが、遮光土器の土偶(どぐう)(人形)や祭祀に使われたと思われる坏(つき)など、呪術(じゅじゅつ)の支配する社会のあったことを裏付ける出土品も多い。福島町ではこの時代以降の土器は発見されていない。 【続縄文の時代】この時代は二、〇〇〇年前から一、〇〇〇年前までの時代を続縄文時代という。この時代本州では農耕を主体とした弥生時代へと移り変わって行くが、北海道では稲作が行われず、漁撈や採取に重きがおかれていた。この時代道南では恵山地方で多く出土する恵山式土器と、本道東北部に発展した後北式土器があるが、この期には石器の使用が非常に少なくなる。これは本州で発達した鉄器が道南にも流入し、次第にその文化のなかに組み入れられて行ったと考えられる。また、北海道には本州文化の弥生式土器は流入されていないと言われてきたが、最近の研究では瀬棚町瀬棚遺跡、松前町札前遺跡等で発見されていて、弥生文化が北海道にも上陸していたことを物語っている。 【擦文時代】八世紀ころになると古墳文化、農耕文化が東北地方にも伝播(でんぱ)し、それまでの深い竪穴住居が次第に変化し、方形のカマドを持ち、住居も浅い表土に建つものが多くなり、土器は焼成度が高く、土師器(はじき)の影響を受けた文様のない盃(さかずき)や、高坏(たかつき)などが多くなる。このころ北海道も原始的な農耕が行われたと考えられる。また、この時代、石器はほとんど使用されず、遺跡から鉄器やフイゴの羽口、織物を織るために用いる紡錘車(ぼうすいしゃ)などが発見されていて、製鉄、機織(はたおり)等が行われていたことが分かる。この時代は決して平穏な時代ではなく、各地にチャシ(砦)が多く築かれた時代でもあり、字館崎台地の蝦夷館山(チャシ)もこのころ築かれたものであろう。福島町では、19、吉野遺跡に鉄渣(さ)の発見がある。 このような先住民の土器文化の時代を経て、福島町は歴史時代に入るのである。 |