第三節 松前氏と京都の関係 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中世の時代以降松前と京都の関係が近かった。それは蝦夷地の交易品が弁財船で北国地方から敦賀、小浜にかけて輸送され、熊川街道、塩津街道を駄 送され、塩津、海津から京、坂に送られたが、とくに近世に入ると、これら蝦夷地の特産品は、進出した近江商人によって独占流通 されていたので、地域的にも江戸より京都との交流が強かった。 松前藩の領主松前氏と京都を結ぶきずなを作ったのは花山院忠長である。花山院少将忠長は、大納言花山院定好を父に持つこの時二十二歳で将来を約束された公達(きんだち)であった。このころ宮廷内では左大弁烏丸(からすま)光廣、左近衞 権中将大炊御門(おおいみかど)頼国、花山院忠長、左近衞少将飛鳥井(あすかい)雅賢、左近衞 権少将難波宗勝、徳大寺実久、中御門宗信等の青年公が後陽成天皇の女官唐橋氏、中院氏、水無瀬氏、唐橋氏の命婦讃岐等と日夜飲食に更(ふ)け、京の町にもその不倫の噂(うわさ)が拡まり、ついに後陽成天皇に聴こえ、天皇は京都所司代を通 じて幕府にその処断を求め、自らも退位しようとした大事件であった。幕府はこれら関係者を遠島、遠国流罪とすることを慶長十四年(一六〇九)七月決定し、二十二歳の公達花山院忠長は蝦夷地に向かったが、その状況を『角田文書』では、
と流刑の哀あわれさを記録している。忠長は役人に付添され、寒中を日本海沿いに北上し、秋田・津軽を経て、翌慶長十五年三月蝦夷地の上ノ国に到着し、廃館になっていた花沢館に入って謹慎していた。 江戸参勤から帰国した領主慶廣は、このことを聴き早速家臣を派して、城北寺町の万福寺(真言宗)に迎え、賓客(ひんきゃく)のあしらいをした。これは忠長の姉が一の台という家康の内室であったことから、その処遇を依頼されたこともあるようである。同十七年春には梅見の宴を催し、その際の発句に
と詠みながら、 終日酒宴遊興したという。 慶長十九年 (一六一四) 五月二十八日忠長は罪一等を減じられて津軽に流刑替となったが、 蝦夷地での五年間の流刑生活で厚遇を与えた松前氏に対し、 好意を持ち、 その後松前氏と京都公家との婚姻等に盡力したものと思われる。 松前藩主およびその世子が京都公家から婦人を迎えているのは、 次の通りである。
このように松前氏には、京都公家から六人の女性が輿入している。徳川幕府は大名家の私婚を禁じ、特に外様大名間の婚姻を極度に押える政策を取っているほか、京都公家との交流も嫌っていた。その婚約についても幕府に願い出、許可のあった者でなければ、婚姻は出来なかったので、松前氏のような小藩が六人もの女性を京都から輿入させているのは、異例のことであって、松前氏と京都公家との間に交流の深かったことを示すものである。 また、松前家から逆に京都へ輿入している人もいる。十四世藩主章廣の長女梁姫は京都公高野刑部大輔保右(ぎょうぶだいすけやすあき)の室として、文化十三年(一八一六)四月京に登っている。さらに十二世藩主資廣の三男武廣は摂家一条家々臣の難波備中守の嗣子として享和三年(一八〇三)同家入りし、難波掃部(かもん)と称し、のち伊予守に任ぜられ、天保四年(一八三三)十月没している。 このように藩主、家臣の京都との交流は松前地方に多くの文化を招来した。例えば十三世道廣の室敬姫入輿の際は、右大臣という格式の高い花山院家からであるので、京都から五十人もの腰元を従え、江戸を経て行列を組んでの入輿であったが、これらの女中のなかには松前家々臣に嫁入し、京都の風俗、習慣、生活を松前地方に定着させる役割をも果 している。 |