松前氏第五世慶(よし)廣以降の松前氏一族は、多くは家臣となって、藩主を補助し、家老または重臣となっているが、家臣の少ない松前藩が同族企業体的な藩であるといわれる所以ゆえんもそこにある。しかし、なかには幕府に旗本として禄仕したり、仙台藩に禄仕して側面 から松前家を庇護した家もある。
五世慶廣の二男忠廣は、慶長四年(一五九九)冬、父と共に上洛の際、大坂城で初めて家康に謁し、同九年二代将軍秀忠の旗本となり、同十五年には従五位 に敍され千石の領地を賜わっている。同二十年の大坂夏の陣の合戦で二ケ所の手疵を受けて活躍し、さらに千石の加増を受け二千石の大身旗本となり、寄合席にまで昇進しているが、その一族は次のとおりである。
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この忠廣の一族が幕府旗本として松前家から禄仕した「旗本松前氏」の本家筋に当り、松前藩主松前氏を側面 から補翼した。特に松前家十世藩主矩廣は世子富廣が早世していて嗣子がなく直廣の分家本廣の孫が養子となって、松前氏の宗系を守っている。この旗本本家の役宅は小石川片町、本廣家は本所南割下水であった。
さらに幕府旗本中でも重職となった家に、松前八左衞門(八兵衞)家がある。この家は松前氏七世藩主公(きん)廣の三男八左衞 門泰(やす)廣である。公廣には五人の男子があり、長男兼廣は早逝し、二男氏廣が藩主となり、三男泰廣は幕臣、四男廣ただ、五男幸廣は藩に禄仕して家老となっている。旗本となった泰廣は甚十郎、八左衞 門を名乗り、正保三年(一六四六)旗本となり、御小姓組に列し、廩米(りんまい)(蔵米のこと)千俵を賜わった。松前氏九世高廣六歳、十世矩廣も七歳と幼令の藩主が続いたので、幕府から特に後見を命ぜられ、特に寛文九年(一六六九)のシャグシャイン族長の蜂起に際しては督軍として世子嘉(よし)廣、三男當(まさ)廣を連れ、松前に来てその治定に当った。そのようなこともあって幕府旗本である泰廣に対し、松前氏から知行地として宮歌村と江差九艘川村(江差町中歌町と思われる)、大茂内村(乙部町字栄浜)の三村と余市上場所を拝領しており、宮歌村が親村、他の二村は枝村とし、領主との知行役納等は総て宮歌村が取り仕切っている。この八左衞 門家とその一族の系譜は次のとおりである。
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この松前泰廣の妻は、幕府大目付北条安房守正房(三千四百石)の娘であり、この妻の死亡後は側用人牧野成貞(三万三千石)の父儀成の娘を迎えている。このような背景もあって泰廣の系統の三家は二千石、千五百石、六百石の大身旗本に立身し、寄合席、大目付、御目付等の旗本最高の役職に昇進している。延宝六年(一六七八)に発生した門昌庵事件は藩主十世矩廣が中心となり、藩の重臣達もかかわった事件で、このことが遠く江戸にも聴こえ、幕府から厳重な注意を受けたが、幕法からすれば「松前藩の措置よろしからず」と改易されるべき処を、戒告だけで済んだのは、この牧野、北条氏の陰の力があずかって大であり、また泰廣一門の与えた影響が大きかった。
このほかもう一家の旗本松前氏がある。この家は、松前氏四世蠣崎季廣の九男作左衞 門吉(よし)廣が慶長五年(一六〇〇)家康に謁し、廩(りん)米二百俵で旗本になったもので、その家系は
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等である。
この江戸旗本松前氏諸家のほか、のちに仙台藩とのかかわりで、松前氏に援助、協力した家に仙台藩に禄仕した松前安廣がある。安廣は松前藩主第五世慶廣の八男で、松前右衞 門を名乗り、慶長十四年(一六〇九)仙台藩に禄仕して市正と称し、元和九年(一六二三)には二千石の一門格となっている。寛永六年(一六二九)には白石城主片倉小十郎の娘と結婚し、景長、廣国の二人の男子を設けている。晩年自休と号し、寛文八年(一六六八)七月八日六十三才で没している。この安廣の長男景長は白石城主片倉家を相続し、伊達家一門となっているが、従って松前氏とは親族に当り、松前藩主が参勤交代の節は、必ず白石に泊り、片倉氏を訪問するのが慣例となっていた。廣国は二千石を相続しているが、「仙台萩」で忠臣として活躍する鉄之助はこの家から出ている。松前氏は何か重大な事件が起きると仙台藩を介し、幕府に上申していたのも、このような関係からである。なお、松前藩は安廣に対して知内村を采領(知行)地として与えている。
また、松前氏から柳生家へも養子となっている。十一世藩主邦廣の二男賢(ただ)廣は正徳三年(一七一三)七月柳生備前守俊峰の嗣子となり、俊則を名乗り、柳生一万石の大名となって従五位 下に敍され、但馬守に任じている。俊則は文化十三年(一八一六)六月三日八十五才で没している。
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