第八節 幕府巡見使 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幕府は将軍代替りの節、役人を各地方に派遣して、各大名の領域に立入らせ、その藩の領地、藩の治政、藩主の性行、城地、物産、住民動向にいたるまで詳細に亘って検分を実施した。この巡見使は幕府上級旗本三人をもって一組として各地方に発遣させたものである。それは一人の場合、各藩からの贈賄等によって事実を曲げて報告する恐れもあり、その歪曲を正す目的として、三人一組となったものである。 巡見使は主席が二~三、〇〇〇石、以下一、〇〇〇石位までの上級旗本から任命され、その巡見使にはおのおの家老、取次役、右筆等四〇名程度の家来(幕府扶持人も加わる)で編成されていたので、一行は少なくも一二〇名以上の大人数での渡航であった。 巡見使の発遣が決定すると、松前藩にとっては重大事である。何分にも藩の内情がすべて明らかになってしまい、事実を隠蔽していることが分かった場合は、正に命取りになってしまう。従って質問に対する答弁まで統一するように配慮し、あまり必要のない処は巡見をさせず、御馳走攻(せめ)にしておくことに心掛けた。巡見使滞留中は藩重役の居宅を宿舎とし、場所請負人、問屋株仲間、御用達等の特権商人を介抱人と指定して一切の世話をさせた。また、巡見使見分巡行の乙部から石崎(函館市)までの和人地内は、各村の道普請、橋の掛替、各村会所の整備、人馬継立等あらゆる準備に忙殺された。 徳川幕藩体制下で蝦夷地に発遣された巡見使は次の九回である。
この巡見使に対する松前藩の受け入れについては、和田郡司氏茂記録の『天明八年巡見使一件』はその詳細を列記していて、その大要を知ることの出来る史料なので、次に掲げる。
と巡見使の領内巡視の事を詳しく述べているが、この巡見使三枝十兵衞 に随従して一行と共に渡海した古川古松軒(名は正辰、備中国〔岡山県〕の医師、地理学者)は、側面 から一行の動向を詳細に観察して、不朽の名著といわれる『東遊雜記』をものしているが、このなかで、津軽海峡の渡海について次のように詳しく述べている。
この三馬屋から松前への渡海については一日の風待ちだけで、船出をしているが、当時津軽海峡の横断がいかに困難なものであるかを如実に現わしており、これを前記のように掲げたものである。 巡見使一行の西在検分が終り、東在の見分のため、七月二十九日松前を発足した。その行路は前記史料『東遊雜記巻之一五』に詳細に記されているが、福島町関係を摘記すれば、
と記している。福島には七月二十九日に止宿したが、この日大雨となり知内川が出水したため、一日まで三日間逗留をし、八月二日に出立しているが、その行程では福島川上流から茶屋峠登り口までの通 称四十八瀬は出水で一〇〇回以上も川渡りをしたといい、さらに茶屋峠は壁を登るような峻嶮さであったという。一の渡りの知内川はこの時代丸木舟で渡していたと思われるが、この一行は橋で渡ったといっているので、巡見使一行が通 行するため臨時に架橋したのではないかと思われる。この橋から登った処に御休所があったと記しているが、これは松前藩の休泊所として藩が建立し、管理を同地の佐藤甚左衞 門に任せていたもので、甚左衞門は一の渡りを丸木舟で川渡しをして賃銭を得、また、休息施設の運営で生活していた。 また、この記事中で特に注意を要するのは熊の害によって死亡する旅人の多かったことである。一の渡りから知内までの間の街道脇の各所に、真新しい菩提車の卒塔婆が十本も建っていたと記しているが、その場所は現在の字千軒地区から知内町の湯の里にいたる現国道に併行する碁盤坂(御番坂)、綱張野、湯の野から萩沙里付近と考えられ、この時代はいかに熊が多く人に害を与えていて、旅行者が熊からの防衛をどうするか、真剣に考え乍ら歩行していたことが隙うかがえる。 しかし、この天明八年(一七八八)の巡見使一行の蝦夷地滞在は七月二十日から八月二十日まで三十一日にも達し、福島では大雨のため三日滞在し、また東在検分の帰路にも一日と四日も宿泊している。さらには巡見終了後十二日間も渡海の風待をしている。その間この一行の者は城下で幕府の威光を傘に着て、横暴の限りを尽くし、「東西在々故如例見分相済、城下逗留、下々之者其夜遊ニ出、商人茶屋之者共迷惑に及ぶ、此度巡見至て不埒(ふらち)の事多し其以我侭なり」(『福山旧事記』)とその非道を記している。福島にもこの一行の者が町に出て酒食を強要し、金を払わなかったという口碑が残されている。 【巡見使に対する村の対応】 巡見使の一行の行旅日程が決定すると、和人地内各村に対し、道路の修繕、清掃と各村継の夫人足の確保、馬匹の調達を命じ、行程表に従って昼食所、宿泊所を定め、松前藩家臣を村並の大きな村に張付け、遺漏のないよう準備した。福島町の場合、松前城下を発った巡見使の最初の昼食地が吉岡で、福島は宿泊地で、翌日は福島から四十八瀬を渡り、茶屋峠(福島峠)に到り、ここには臨時の休所が設けられる。さらに知内川の一の渡り渡わたし場は普段は丸木船で渡すが、ここは臨時の麁橋(そだばし)(木の枝で造った橋)を渡って、佐藤甚左衞 門家が管理する藩の休泊所で昼食を摂(と)って、知内村を目指して出発し、帰路はその逆となる。 天保九年(一八三八)十二代将軍家慶(いえよし)代替による巡見使発向は、奥羽、蝦夷地筋は四月任命され出発し、五月二十七日松前に渡航、六月十二日青森に向け出帆している。その一行巡見使は、
で、一人の巡見使には家老、用人、取次、目附、御近習、取頭、筆、元〆役、医師、中小姓、徒士(かち)、中間(ちゅうげん)という行列構成で、それに松前藩の警護役人を加えると、その一行行列は優に三〇〇人を超えるという状況であった。 『天保九年 巡見使要用録』によると松前藩の福島町における世話掛役人、亭主役は次のとおりである。
この亭主役は萬屋、福島屋が場所請負人。川内屋(河内屋)、阿部屋、京屋、廣嶋屋は問屋株仲間。柏屋、川内屋等は小宿株仲間で藩の特権商人であり、藩の利権で生活している商人であるので、このような場合に財力をもって接待の助役を命じたものである。福島では旅宿が少なく、一行の総てを宿泊させることが出来なかったので、名主宅、年寄宅をはじめ寺社にまで宿泊させた。さらにこれら一行の宿舎に備え付けるものが決まっていたので、この準備調達も大変で、正使の室には三幅対掛物、刀掛、三方熨斗(のし)、火鉢、金屏風、御朱印台、蒔絵硯箱(まきえすずりばこ)、煙草盆、手水盥(ちょうずだらい)等一点欠かさず整え、廊下を張り替え、湯殿も新調し、食器から瀬戸物にいたるまで準備をしたが、これに要した費用は総て亭主役が負担した。 いよいよ巡見当日になると福島村では、名主・年寄の村役は紋付羽織袴で、神主は官服で白符村境の慕舞腰掛岩で出迎え、きれいに清掃された道路の盛砂の上を一行が進み、先ず、月崎神社に参拝し宿舎に入った。福島神明社(現福島大神宮)への参拝は帰路が多かった。 福島での宿所は幔幕を張り、宿舎札を掲げ、篝火(かがりび)を焚いて藩兵が終夜警戒するという物々しさであったが、食事も雛形(ひながた)が藩から示されていて、その集めた材料を藩から派遣された料理人が調理して差し上げるという慎重さであった。従って村中は巡見使の巡行が終るまでは、夫人足の助役を命ぜられたり、名主の指示で飛脚に立ったりで、緊張した毎日を過ごしたが、中には天明八年(一七八八)の巡見使のように知内川の川止めのため、三日も福島に滞在し、その一行の者が夜間村内の茶店で只飲をして迷惑をかけるなど、住民にとっては全く有難迷惑であった。 |