第四節 村民の義務 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(一) 税役 近世各藩の財政および家臣への扶持は、百姓年貢や店役、住民役が主体であった。各藩が運営されるなかで幕府への助役、参勤交代等で毎年の如く歳費がかさみ、五公五民という百姓年貢が、甚だしい場合は津軽藩のように六公四民にまで賦課強制されていた藩もある。幕府の方針である「百姓は生かさず、殺さず」がその藩の公課基本となっている。百姓年貢五公五民の場合、仮りに百姓が米を十俵生産した場合は五俵を藩に納め、多くは小作であるので二俵半を地主に取られ、二俵半だけより生産者に残らず、これで生活しなければならなかったので、所詮水呑百姓より上ることができなかった。 松前藩の税役として初期に見えるのは、現物役で、砂金税役や漁業製産物等がある。砂金税役については、板倉源次郎筆『北海随筆』中に、
と記述されていて、砂金掘が月に納める砂金は一匁であるが、月平均では三十匁の収入があり、その三十分の一が税役であったとし、この砂金収入は大いに初期の松前藩財政を潤していたという。松前藩の領内は徳川幕府の初期貨幣政策のなかでは、最北陬(へき)遠の地であるため、江戸の両・分・朱の貨幣が流通 されず、また、大坂を中心とした銀も、物資交易が中心であったから、殆ど出廻らず、領内の通 貨の流通は砂金が主体であった。これは五匁の砂金を半紙に包み水引をかけ「砂金五匁」と表示して通 用した。普通砂金の通用は十一匁三分をもって一両としていた(寛政期)ので、この五匁包は二分として通 用されていた。従って租税公課も金納のものは総て砂金であった。宝暦年間(一七五一~六三)以前の沖之口番所取扱規則を見ても、現物役以外は総て砂何匁何分と表示されていて、この頃までは砂金流通 が主体で、以後金納と変っているのは、このころから通貨の流通が順調になって来たことを示している。 松前藩政期のうち寛政元年より享和二年(一七八九~一八〇二)までの租税公課は次表のとおりである。
この表に見る通り当時の税役は極めて複雑なものであった。村方の主要税役は漁業と船役であるが、特にその中心となるニシン税役は、外割(ほかわり)ニシン、胴ニシン、身欠ニシン、披ニシン、丸干ニシン、数の子等は製品の現物役として十五分の一を村役を通 して、藩庫に納め、昆布も同額、さらに干鮑(あわび)、海鼠(いりこ)も同様であった。また、鮭は塩引、切囲(きりがこい)とも金納であった。漁家の殆どは福島の場合大網を用いず、刺網漁が主体で、ニシン漁一把は、網目長さ二寸三~四分、網の幅目数三九~四〇、長さ二丈七尺を一把、五把を一放しとし、この刺網を二~三人の漁夫と磯舟(保津)、持符(もちぶ)船で操業したが、この場合磯舟着業者は二人迄一分、持符船三人二分、三半船四人二分外四五〇文であった。 このほか、場所出稼、追ニシンは蝦夷地番船役は一〆九二〇文と判銭一艘一八〇文漁夫出稼役は一人一〆二〇〇文。その他鰯(いわし)曳網冥加金は三〆文であるが、福島村の場合享和二年(一八〇二)鰯曳網を一投着業したいと与惣兵衞 から願い出ているが、その際の御礼金は一両であった。 また村方役では薪役があり、福島村は、『戸門治兵衞旧事記』によれば、
とあって、約一〇分の一の薪を現物で納め、これを船で松前に送っている。また、福島村の特殊なものに御門松役がある。それは前同史料中の、寛永元年(一六二四)の項に
とあって古来から城中門松用松の枝二〇向分と小松多数を城中に献上する慣例となっており、その外福島神明社の親神に当る松前神明社にも門松一向い、小松二〇本を奉納することになっていた。この門松献上は村内の各小字の村が例えば慕舞村と日方泊村(共に現字日向)と組み合せた小字で、年番に村内や桧倉沢で松の枝を伐り、組み合せ、馬で松前に搬び、城中に献上し、藩からは太儀料として黒米が下賜されていた。 村中庶民に対する税役は、村方役があり、これは上等三〆文から下等の七〇〇文にいたるまで、その分限に応じ、村寄合で決定して賦課徴収したが、このうちには村が藩に供出する仲間料も含まれていた。さらに村内では村方見聞割があったが、これは、村役場(名主役場)の筆墨料、燃料費、書役雇賃等や村役旅費等も含まれていたが、その額は不定で予算を組んだ上で、大寄合で確定した。 商家、職業に対する税役は、商家の場合店の坪数に対する坪割役、手代・丁稚(でっちを使用する場合それぞれ役があり、料飲店で女子を抱える場合は抱子役、旅籠(はたご)を営業する場合は五~六両の営業税を課され、吉岡に多かった酒造も冥加金は七両と高額のものであった。商家の営業税は収入の申告によって決定されたほか、外商のものは棒役、豆腐役、五十集(いあば)役、諸職人役銭等があった。 農業、林業に対する課税は、畑作の場合詳細な取り決めがなく、耕作者は馬大豆を一~二俵献上するということであったが、寛政年間(一七八九~一八〇〇)にいたって、一反九〇文と定められたが、米についてはまだ試作段階であったので、詳細な税役は成り立っていない。杣人(そまと)役は入山一人について三匁三分(一両の三分の一)、杣夫が炭竃(すみがま)を築いた場合、一枚に付当初は木炭三六〆であったが、のち、一枚一〆二〇〇文の金納と変っている。 |