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第一節 漁業の変遷

【ニシン漁業】 近世蝦夷地の漁業の中核をなしたものはニシン漁業である。ニシンは和名を「かど」、「青魚」「鯖」「白」「鰊」の文字をあてていたが、近世において特に「鯡 」の俗字が用いられていた。蝦夷地では米が穫れず、ニシンが肥料として本州へ移出され、米となって還元されて来るので、米に代わる魚として「鯡 」という字が造られたといわれている。それほど、ニシンは蝦夷地の漁民にとって重要な魚であったが、また、海流の関係かこれ程豊凶の激しい魚はなかった。

 このニシンは春二月末(旧暦)津軽海峡東口に姿を見せ、順次海峡部、福山湾を経て北上の過程で、群をなして海岸に迫って産卵するので、沿岸は白く泡立ち、これを「群来(くき)る」と言った。三月から四月を最盛期とし、五月には終るが、五、六月は製品の処理に追われ、六月末に完了する。

 ニシン漁業は近世のやや末期まで刺網が用いられたが、その網について『夷諺俗話(いげんぞくわ)』では







鰊網壱把といふは、網の目長さ二寸三、四分、網の幅目の数三十九、四十位 、網の長さ弐丈七尺(約八、二メ-トル)を壱把とす。五把を壱放と云ふ。碇(いかり)縄は藁にて、三つ繰に打て、夫を十尋位 に切り、頭に浮を付く。浮は木にて長さ七寸位、枕の如く拵(こしら)へ細の根に重さ壱貫目位 の石を細縄にて結付る。是を碇といふなり。又ナッチ石といふは、二、三百目位 の石を細綱にて結こしらひ置、海へ差込む前に網五把壱放に結目々々に結つけ、網を海へ差込時沈みよき様拵積置事なり。…略…舟を乘出すに図合船は六人乘組、夷舟は三人にて乘出す。


とあって、ニシン漁業は網一把(一反)×五把で一放(約四一メ-トル)をおよそ四~五放を磯舟又は保津船で従業漁夫三、四人で一か統を経営したが、資力のあるものは図合船を用いて十放から二十放位 まで経営する者もあった。

 漁業技術が向上し宝永年間(一七〇四~一〇)ころから漁網が改正され大網が使用されるようになった。これは場所請負人が請負場所に大形投資をして、漁獲量 を高めるための手段であったが、そのためには多くの資金と資材、漁夫を必要とし、津軽、下北、秋田から多くの入稼漁夫が入るようになった。しかし、和人地の漁民は資金も乏しく、幕末まで依然としてこの刺網漁を続けていた。この大網でニシンを獲る漁業が発達すると、一度に大量 のニシンを水揚げするので、ニシン加工の処理ができず、これを釜で煮て干し、魚油を製造するほか、煮魚を干して粕とし、本州農家の畑作肥料として移出するようになった。

 ニシン漁業は豊凶を繰り返す不安定な漁業で、奥地各場所で大網を用いるようになると、その豊凶は激しくなった。明和年間(一七六四~七一)はこの漁の最も安定した時代といわれるが、安永五~六年(一七七六~七七)道南地方で薄漁となり、天明二年(一七八二)以降は桧山地方が薄漁となり、同年以降はますますはなはだしく、生活に苦しんだ漁民は追ニシンをして西蝦夷地に出漁し、その地方のニシン漁は大いに進展するようになった。この追ニシン漁者のことを二・八取(にはちとり)とも呼ばれるが、それは場所請負人に二割を納めることによるものである。このようなニシンの薄漁は、場所請負人が各場所で大網(角網、笊(ざる)網)で一挙に大量 のニシンを取り、これを搾油するからだと、寛政元年(一七八九)江差地方の漁民はその禁止を求めて藩に願い出たが、藩は何らの措置を講じなかったので、翌二年には漁民は積丹半島付近まで大網切断の実力行使をするなど紛争は絶えなかった。藩はそのため追ニシンの石狩までの進出を認めたため、道南地方の漁業者が二・八取としてこの地方に出稼する者も増加した。

 収獲されたニシンは和人地、西蝦夷地の季節稼働者が多くなると、さまざまに加工され本州各地に移出された。領主松前氏の幕府献上品のなかにニシン加工品に鰊披、鰊干物(身欠鰊)、鰊子(数の子)、寄鰊子(寄せ数の子)があるが、そのほかには粒鰊、筒鰊、早割(さきり)鰊、外割(ほかわり)鰊、胴鰊、白子、笹目、締粕、鰊油等がある。粒鰊は生のニシンの事をいい、筒ニシンは一本干をしたもの、早割、外割は背割をしたニシンを披いて干したもので、披(ひらき)ニシンともいう。胴ニシンは身欠ニシンを取った後に干したもので主に肥料となる。白子、笹目はニシンの加工の内臓やエラを干したものでこれも肥料となる。数の子はニシンの腹子を干したもの。締粕はニシンを大釜で煮て締機で圧縮し、玉 にし、それを天日で乾燥させたもの、ニシン油は締粕を造る際、分離した油である。

 ニシンは近世初期には生の食料にするか、天日で一本干をする筒ニシンあるいは身欠ニシンにするより方途がなかったが、中期以降に入ると、九州国東(くにさき)半島付近で生産され、全国の農業作物の肥料として需要の多かった干鰯ほしかが渇し、関東九十九里浜の生産も低下したことから、近江商人が、身欠ニシンを取った後の廃棄同様の胴ニシン、白子、笹目等を北国、関西地方の田畑で試用の結果 、干鰯に遜色のないことが分かり、大々的に喧伝した結果その需要が大幅に拡大した。この時期は享保年間(一七一六~三五)以降といわれるが、それに従い西蝦夷地の大網使用による大量 水揚げ、入稼漁夫の拡大によって加工品の増産等、本州需要の増加に対する対応が見られ、ニシン漁業はますます拡大された。



【福島のニシン漁業】 福島町のニシン漁業のはじまりは、昭和十年に刊行された『北海道漁業志稿』(北水協会編纂(へんさん))の冒頭に、「文安四年(凡四百四十餘年前)陸奥の民馬之助と稱する者、松前地方(今の白符村付近)に来り、鰊漁に従事す」と記されていて、これが根拠となって福島町がニシン漁業発祥の地であるといわれている。しかし、この漁業志稿が何を出典としてこの記事を書いたかは不明であって、極めて出典根拠に乏しいものである。

 馬之介の白符村入植の過程については、『白符・宮歌両村舊記』(北海道大学附属図書館蔵)があり、元文四年(一七三九)白符村と宮歌村との村堺問題で訴訟となったとき、開村の経過を記した文献があり、それによると、













 當村之由緒御尋ニ付申上候御事 
當村之根元ハ津軽ねっこ村馬之助与申者、上山中辺そり与申所へむかし相渡り居候所、御殿様御尋御座候而御城下あら町ニ屋舗被下置、しはらくはいかい仕候。然共妻子養可申様も無御座、在郷願上候得ハ何方なりとも勝手次第には候得共、歌ハ手近ク候間うた内ニ居候様被仰付、依之唯今之処鮑(あわび)多ク、夏ハ鱒、秋ハ鮭沢山ニ御座候故ねまつり江罷越居候、其砌ハしとまい迄家一軒も無御座候所、其後段々身過能商事自由仕候故牢人共追々参候而、家数ニ罷成候ニ付頭分之者願上候得ハ 御殿様則馬之介ニ肝入被仰付候、其時節ハ宮ニ夷弐間(軒)御座候。…以下略…
  元文四己未年八月




白符村 小使



伊四郎 判

惣年寄

惣百姓



肝入



弥左衞門 判



とあって、津軽ねっこ村(現在の南津軽郡田舎館村)から馬之介というものが蝦夷地に入って来て、白符村に居住し、村の代表者となったことは確かであるが、前記史料から見ると、馬之介の白符定着の年代は文安四年(一四四七)より一五〇年の後の寛永年間以降の事と推定される。それは殿様の命により肝入となったといっており、各村役の任命はこの寛永年間以降の事であるので、馬之介が白符村に定着し、ニシン取をしたというのは、それ以後の事であると考えられる。しかし、このような口碑伝説のあることを大切にしなければならないが、福島町のニシン漁業は各村に我々の先祖が定着した時から始められていることは確かである。







ニシン漁業の図




 福島町内の各村にニシンが廻游するのは、旧暦の二月中旬から三月にかけてである。ニシンは津軽海峡東口から海峡中央部を通 り、矢越岬から陸岸沿に松浦の楚湖岬にぶつかり、方向を変え、礼髭沖から吉岡海岸、日方泊を経て月崎、釜谷を経て大きく迂廻し、沖合に出て白神岬を越えて、松前沖を経て北上するというコ-スを取っていた。従って下海岸、上磯、木古内、知内等は遙か沖合を通 るためあまり漁獲がなく、本格的にニシン漁の始まるのは福島沖であったので、福島沖がその年の水揚げの吉凶を占う場所として極めて重要な場所であった。従って松前領内でニシンの初水揚げされるのは福島湾内であるので、水揚げをした場合直様(すぐさま)名主の処に届けられ、名主はそのニシンを魚献上箱に入れて小役の者に持たせて、吉岡峠を登って城中に届けると、藩主以下重臣が列席して祝詞を述べることが慣例となっていた。また、ニシンの廻游経路については、『常磐井家文書』の日記に詳しく、次のように記してある。








(天保四年 日記)

二月十三日西ヒカダ風吹晩七ツ半時に禮髭村鯡(にしん)くぎ始メ其夜夜六ツ半時ニシトマイ沖鯡 くき始メ十四日十五日迄沖上ケいたし候。尤十五ニハ東風ニ相成誠ニ大漁ニ御座候。尤巳ノ年之寒之なぎハ十二月十六日、寒ハあき辰年正月廿七日ハひがんニ入、土用は二月晦(みそか)日ニ入候処、二月十三日初鯡 相くき大漁仕候。御城下表十三日十七日迄鯡大漁ニ御座候。十三日前浜山中船がくし迄鯡 くき候

(元治元子年 日記)

三月十五日明七ツ頃細澗之沖ニ而鯡くぎ拙者釜谷之仁太郎両人組ニ而鯡漸(ようやく)三樽計取鯡 ハうす鯡ニ而多取不申名主元兵衞御上様江献上仕、御上様御尋被成元兵衞申上候ニハ福嶋領細澗之沖ニ而くぎ依而鯡 献上申上奉候。

以上



(慶應二丙寅年 日記)

三月十二日昼九ツ頃福嶋村領しとまへ崎漁少シ鯡くき申候。拙者仁印組ニ而少計取、宮歌領ヲッコ沢少シくき候得共、是も少シ計取神明宮、稲荷宮江献上仕申候。但シ弐匹宛四匹上候。

十八日夕四ツ頃干瀉泊り川尻沖ニ而鯡群来(くき)大漁仕候。此夕宮歌村領地ニ而鯡 少シ群来、福嶋村領地干瀉泊り相応大漁ニ御座候。御上様へ御献上申上候。拙者儀ハ鯡 之御役御免御座候、是ハ古来之通り候。


とあって、ニシンの初水揚は、凡そ二月中旬から三月中旬で、その廻游経路も前述のとおりであるが、ニシンの群来るときは正に漁師の生命を賭した戦の場で、僅か三十~四十日間で一年の生計を生み出すため、総てをこの期に集中していた。

 年中行事のなかの歳時記を見ると、村の一年はニシン漁業を中心とした生活であったが、月別 にそれを見ると






























































   一月
十一日船魂祭の日で鯡大漁祈願をする。
十五日吉岡村は八幡宮鯡漁業豊漁祈。
二十日福島村前浜鯡豊漁御神楽斉行。
二十~三十日村中大寄合で村中の漁業協約と月別行事の取決めを行う。

二十日正月終了後若者は山に入り、その年の薪炭材の伐り出しを行う(約十日間)。これは鯡 釜薪用にもなる。

家庭婦人はこの冬期間内に鯡漁業に用いる刺子、手甲てっこう、指貫等の裁縫を行って過ごす。




 二月

節分には、豆撒の豆を拾い、これを炉中に並べて焼き、その豆が白く焼けた場合は豊漁、黒の場合は不漁とし、初午祭の際に松前神楽の鎮釜神事では、煮湯のあわ立が、鯡 の廻游に合わせ、吉凶を判断した。この時期に三月三日の雛祭と、彼岸会法要を二月初旬に行う。また、この期には鯡 漁業の着業準備に入り、二月十日頃には浜清女神楽を前浜で行い着業する。

 三月
この月に入ると寺院の鐘や、消防の半鐘など海に響く音は一切出させず、また海岸での焚火等は禁止し、ひたすら靜肅にして鯡 の陸岸に近づくのを待つ。灰色空に鉛色の海が映えるころ、鯡の大群が東からやってきて通 過する際、楚湖岬から内湾を通り、陸岸に群来ると豊漁、沖を通過して北上した場合は凶漁となるので、その一瞬をかたずを飲んで見守る。鯡 が産卵のため陸岸に近づいてくると、海は白く濁り泡立ってくる。それを発見した漁師は立火を上げて鯡 の群来たことを知らせると、大きな船は十~二十放、磯舟や保津船で漁をする小前の漁師は多く二~三人で五放程度の刺網をかける。家族は握り飯の仕度や、加工の準備、手伝人の呼び集め等に忙殺される。
いよいよ沖揚が始まって、網目一ぱいに刺った鯡網を揚げ陸に搬ぶと、待ちかねた女達が鯡 をモッコで廊下といわれる納屋場に搬び、ここでは先ず内臓と笹目を取り、十四匹を縄で通 して一束として納屋に掛けて干す。このように干した丸干の筒鯡や、二、三日干してそれを上部の身の部分のみをけずった身欠鯡 、外割等を製造し、大量に獲れる場合は、釜で煮た上締機で締めて鯡粕を造り積み上げておき、一段落した後この締粕を砕いて浜に筵を敷いて干し製品にするが、この群来は漁期中いつでも獲れるものではなく、何日か群来るのでその一瞬が一年の生計を賄うため、漁師以外の人でも前出史料のように福島神明社の神主笹井武麗さえ、刺網組の中に入って鯡 取をしているし、商店主、杣夫を始め村中の男は総て鯡取に働き、また、女性は鯡 搬び、加工に働き、食事も立ったままで握り飯をかむという状況であった。城下でも侍が鯡 取休暇を願い出、鯡取に当り、奥方、女中たちまで手伝いに走り廻った。

文政六年(一八二三)三月朔日(ついたち)東部巡視に出発した松前家十四世藩主志摩守章広は、白神の峠を越え、礼髭村から福島村の沿岸を展望したとき、正に鯡 群来の最中で、次のような書と俳句を残し、その盛況を絶讃している。








三月朔身は銀栄の馬に跨り 白神山

中之嶮道を越し礼繁(髭)より遙に福島に至り青魚一円に群来実に北土の盛事也



淡雪と



まこう渚の



魚の泡



維獄 印印



(松村文氏所蔵)

この同一文書の句軸を函館市五十嵐重雄氏が所蔵しているが、殿様もこのような鯡 の群来ているなかで、たくましく働く村民の姿に感動したのであろう。

 
 四月

この月に入ると鯡漁が一段落するので、北上する鯡を追鯡するため図合船に刺網を積んで積丹半島以北の余市、忍路、高島方面 に二(に)・八取(はちとり)として出漁する。残った漁師は四月末ころから粕干や身欠鯡 の取り入れをする。
 
 五月

四月に行われる灌仏会(四月八日)は鯡漁業のため多忙なので、慣例として五月八日に行われ、この月には丸山薬師如来の祭りと春祭が多く行われた。この月末になると先月末から、天気の日は毎日浜に筵を敷き干してきた鯡 粕が、干上り、これを筵包にして、需要に応じ、一俵十五〆のたてとして出荷する。またこの月末には場所に出稼していた二・八取の人達が村に帰ってくる。
 
 六月

鯡製品の出荷も終り、荷主(買主)、金主(金貸し)との間で、精算が始まる。前年末から春にかけて金主から青田で、米、味噌、醤油、酒、金等を借りて冬期間生活しているので、これには高利に等しい利息がかかっており、精算の際は紛争も多かった。豊漁の際は青田の払いをしても、のちの得分は十分にあったが、凶漁の場合は即青田買で借金から抜け出せない者もあった。六月の晦日には節季払で、一年二回の各商店への支払の前半を支払うのが慣例であった。また磯廻りの若布採り、鮑取りも行われる。
 
 七月

大口の鯡取業者の精算が終り、この月(旧暦)では、鯡豊漁で精算も得分のあった各家庭は、安心して夏を楽しむ。七日盆から十六日の精霊送りまでのお盆の行事、各家庭は赤飯、煮〆、冷麦等で精霊を迎え、ナス、キュウリ等の野菜も備える。盆中の十五日には月崎神社の祭礼が行われる。十三日から二十日までは各村の広場や川原では毎夜盆踊が行われている。福島地方の盆踊は三足踊、また能代踊とも言われるもので、松前を中心に道南地方に普及したものであって、イヤサカ、サッサの囃(はやし)で草履を引いて踊ったが、様々の意匠をこらした仮装をしたり、太鼓や鉦、金盥等を持出してにぎやかに踊った。
 
 八月

八月一日は村の後期の大寄合で、後半の村行事等を協議する。その主なものは、八月十五日の神明社の祭礼の役割分担、九月末の宗門改についての五人組への注意、十二月の城内門松納の担当村の取り決め等である。この寄合の後、奥地の鮭漁場に出稼する漁夫は出発し、村内でも福島川、澗内川も鮭が多く遡上(そじょう)するので、ウライ(簗 )を築き、網を入れる。
 
 九月

鮭が両川に遡上する。この月の後半、藩特命のキリシタン(切支丹)宗門改奉行が吟味役と共に各村を廻る。各村の名主・年寄・百姓代は紋服を着て、吟味場の準備をし、名主役場内には藩の幔幕を張り、門口には高張り提灯を掲げて準備が終ると、組合頭に連れられた五人組が勢ぞろいし、三役立会のもとで、奉行の前に出、帳役が名前を呼び上げ、奉行が銘々を確認し、各組合員はキリシタン宗門の宗徒でないことを誓約してこの宗門改めが終る。この行事は藩と村をつなぐ重要なものとして位 置付けられていた。
 
 十月

この月に入ると畑の野菜の収獲が行われた。大根、蕪(かぶら)、人参、牛蒡(ごぼう)等が取り入れされ、炉端下の室(むろ)に貯蔵され、漬物用は天日で干された。漬物は大根の浅漬、蕪漬、沢庵(たくあん)漬、ニシン漬、サケ漬等各家庭が知恵をしぼって冬期間用の漬物を作って貯蔵した外、イワシ、ニシン、ホッケ、サケの飯寿司(いずし)も造り冬期間用に貯蔵し、来るべき冬に備え、主婦にとっては多忙な月であった。
 
 十一月

月初めには石狩川や奥地諸河川のサケ場所に働く出稼漁業者が帰ってくる。各漁場の漁夫の三か月間の稼高は、七、八両から十両といわれるが、これで月末までに後半の節季払いをする。

隔年の十一月十五日は城中槍之間で、城中神事神楽が行われるが、松前の神道觸頭からの呼出状が届き、十日ころには福島村笹井家、白符村冨山家、宮歌村藤枝家が召に応じて、神官衣装を携えて城下に登るが、その際は逓符(公用の馬を使用する許可書)も届くので、村役一人が介添し、馬上で城下へ送り届けるのが慣例であった。
 
 十二月

この月は歳末、正月迎の準備が忙(いそが)しい。二十日には今年当った町内二組で、桧倉沢に入り、城中門松用の松を伐り出し、二十三日までには城中と松前神明社に届け、太儀料として黒米の下賜を受ける。餅搗は二十三日から行われるが、二十四日、二十九日は縁起が悪いと避けた。各家は少ない家で二斗、大家では一俵、二俵と搗き、早朝から囃方の太鼓打、三味線曳を呼んで、景気よく調子に合せて餅を搗く家もあった。

二十五日ころから煤(すす)払い、正月料理に家人は忙殺される。先ずホッケのカマボコを造る。軒下に下げて血を抜いたホッケを三枚におろし、皮、骨を除いて擂鉢すりばちで擂り、各家秘伝の味付けをして、日の出、焼きカマボコを造ったので、各家の味が異なっていた。

また、年越料理に欠かせないのが鯨汁であった。当時鯨はエビス(恵比須)と言われたが、それは蝦夷地近海には鯨が多く游泳していて、一度村に寄り鯨があると各民は数ヶ月も食べられるだけの配分があり、さらには魚を陸岸に押してくれるということで、住民に倖(しあわせ)をもたらす神様であり、この肉を塩漬にしておいて冬期間食べると身体が温まるという有難い食べ物であるので、年越から正月は必ずこれを食した。

このように春から秋にかけ、この間貯蔵した海草、魚、山菜、野菜をふんだんに使って豪華に造り上げ、一年で一番贅沢(ぜいたく)な料理が年越料理であった。三十日の大晦日(みそか)(当時は三十一日はない)には、松飾りをして年越しを終えたが、この料理のため一年に一度より使わない会席膳を出し、二の膳も付く豪華さで年祝をして一年を終えた。






松前章広発句




 この福島町のニシン漁業を中心とした一年の年中行事は、町史編集過程で知り得た漁業者の生活をまとめ上げたものである。

 このような年中行事の過ごし方もニシン漁業の豊凶によって、年によって極端な生活の変化があった。豊漁の場合はニシン漁のみで、一年の生活をするだけの収入があり、凶漁の場合は全く収入がなく、磯廻り漁業や鮑(あわび)、海鼠(なまこ)、若布(芽)採、昆布採、鰯(いわし)漁業等でようやく糊口をしのぐという状況であった。福島町内で往時ニシンがどの位 獲れたかを示す史料はないが、天明二年(一七八二)蝦夷地に渡り見聞した平秩(へつつ)東作の著した『東遊記』のなかで、そのニシン漁業収入のことを次の如くに記している。







今年辰年(四年)不漁也といへども、蝦夷地にて捕たる鯡百三四十萬束も有べき由云り。一束といへるは十四ヅツ連ねて十三合て百八十弐疋、是を一束とも一丸ともいふ。例年は金一両に三丸、四丸、五丸位 迄賣買せし由。今年は鯡不漁にて相場高く、初相場金一両に僅七分、十両に七丸相場建たり。其後下りて九分迄に成りぬ 。百三四十萬束といへども、價にて六百束にもあたるべし。漁有時には一日一萬両、三日とるれば三萬両、見聞せざるものは信用せず、不獵なれども予が知たる医者三人乘組にて、網をおろせしに、一人にて百両餘の鯡 を取たり迚(とて)、予みな招き、酒を振舞て歡び悦びけり。房州の干鰯、五島のシコ(魚の名)、當所合せて天下獵の大なるものとするも、実に理りと覚えたり。…略


といっており、不漁年のこの年でも、全く素人の医者が三人組んで、刺網をし、一人当り百両もの配当を受けたと言っている。これは誇大であるかも知れないが、ニシン漁業の入稼漁夫の場合、二月から六月までの漁期間で、本州から入稼の平漁夫は十二両、和人地内の漁夫を使用する場合は十五両、役漁夫は二十両、船頭は二十五両というのが当時の相場で、和人地漁夫は殆ど役漁夫であった。従って漁業者の収入は、ニシン漁業の二十両、磯廻漁業と昆布、鮑等の収入五両、サケ漁業への出稼が十両、併せて三十五両前後というのが当時の漁業者の平均収入であった。

 江戸時代の後期、江戸庶民の生活は、五人世帯で年十両の生活であったといわれる。それを蝦夷地と比べれば、二倍半以上の収入があったことになり、僻遠の地で物価の高さはあったと思われるが、ニシンが豊漁でありさえすれば、漁家の生活は満ち足りたものであった。



【サ ケ】 サケは「鮭」「年魚」「夷鮭」「過臘魚」「河豚」「時不知(ときしらず」「秋味」とも書く。この魚は蝦夷地で中世には第一の出産物であり、近世にはニシン漁業にその首座を奪われたが、なお漁業の双璧をなす重要な資源であった。中世の時代は塩が非常に高価なものであったので、サケの加工には用いられず、専ら内臓を抜いて一本干をした干鮭(からさけ)、または蝦夷人が乾燥を早めるため、一本干をする際皮に×印の傷を付けて製造するアタツが生産の主体であった。このサケは近世の中期以降瀬戸内海、北国地方で塩が特産物として大量 に出廻るようになると、様々な形に加工塩蔵され、本州地方に出荷されるようになった。

 蝦夷地の海岸、諸河川では、多かれ少なかれどの川でも夏から秋にかけサケが遡上した。最上徳内の調査では『蝦夷草紙』のなかで、天明八年(一七八八)蝦夷地で生産された塩引鮭は四万四千石、約二万九千両としている。鮭の一石は、三〇束、一束は二〇尾であるので、この生産匹数だけでも二、六四〇万尾にも達している。蝦夷地内の生産のうちでは石狩場所がその三分の一を生産していたが、道南の諸河川でも多く獲れた。特に道南では汐止川(函館市字石崎)、茂辺地川、知内川、天の川、厚沢部川、遊楽部川、利別 川等が多く獲れ、中野川(木古内町)、福島川、及部川(松前町)、石崎川にも遡上した。

 福島地方では中世どの河川でもサケが遡上したようであるが、特に福島川についてはこの時代からサケの獲れていたことが記録されている。『新羅之記録』によれば上之国城代南条越中廣継の内儀(四世季廣の長女)が陰謀を企て露顕し、斬罪に処されたが、その際、「穏内の折加内村を両人の牌所(はいしょ)、長泉寺(のちの法界寺)領と爲す。此所の川鮭魚多く入ると雖も、寺領と爲るの後鮭魚川に入らず。然るに三十三回忌過ぎて以後鮭魚川に入る事奇特と謂ひつ可きかな。」とある。この事件は永禄五年(一五六二)のことであるので、三十三年後とは文禄四年(一五九五)で、この時には福島川にサケが戻って来た、と記している。これは中世の年代にサケが多く遡上していたことを表す証拠である。

 近世に入って、町内では第二の川である澗内川(字白符と宮歌との堺川)にも多く遡上していて、これを捕獲していた記録がある。『宮歌村沿革』では村の草分け時代に澗内川で曳網によってサケを二三〇束水揚げをしたと記されている。一束は二〇尾であるので、この時代澗内川で四、六〇〇尾以上のサケが捕獲されていたことが分かる。この数字から類推すると、福島川ではその三倍以上の水揚げがあったと考えられる。

 遡上するサケを採捕するには、古くはマレックという棒の先に鉄の鈎(かぎ)の付いたものを用いた。この棒を河中に入れておき、サケが当るとその先の鉄の鈎が反転して、サケを押え込み水中から引き上げる方法で、主にアイヌの人達が多く利用した。和人は河中に簗 (やな)を設けて遡上を遮断し、そこに網を張り、曳網で採捕するという方法が取られていた。

 近世になって塩が大量に出廻るようになると干鮭(からさけ)、アタツの一本干から、塩引鮭の製造に主力が移り、蝦夷地に出向く積取船は船腹に積めるだけの塩叺(かます)を積んで行き、現地で水揚げされ内臓を除いたサケを船倉に入れ、塩漬にして本州各地に出荷した。十月を過ぎてもサケは遡上するが、積取船は初冬で危険なため現地には行けず、そのころ水揚げしたサケは内臓除去の上、塩をして囲っておき、冬中は冷凍保存し、春一番に積取って出荷するものを冬囲(ふゆがこい)と称した。当時サケの加工品は、文化年間末の著と思われる『松前産物大概鑑(たいがいかがみ)』によれば次のとおりである。








鮭塩引 直段 場所売百石ニ付金九十両位但し塩引百石は三百束、

       一束と申は二十本に御座候。

 是は場所表にて網引次第請取り筋子を取り直に船入塩漬に仕り候、

 又は蔵入塩切に仕り候も御座候。

 囲に相成り翌年取り候へば値段三割方下直に相成り候由。



筋子 二斗入一樽 銭一貫文より二貫文位仕り候。

  是は塩切り候筋腹より取出し候。簾へ並べ塩切仕り程能キ頃樽詰仕候。



荒巻鮭 直段 一本に付二百文位より百五十文位迄仕り候。

  是は塩引同様の製法に御座候へ共甘塩に仕り、

  当座相用ひ長持難相成候。是を「アラ」巻と唱ひ申し候。



ゾロリ子 直段 二斗入一樽に付銭一貫二百文位

 是は鮭子筋子に不相成筋の繋ギ損し一粒放れに成り候を塩漬に仕り

 是を「ゾロリ子」と唱ひ申し候。(現在のイクラに当る)



干鮭 直段 一束二十本結。

 是は秋味収納過川上へ上り候鮭を取り揚げ、

 腹を取り一本儘(まま)木の枝へ掛け或は棹(さお)に掛け干上げ、

 程能き頃運上屋夷人小屋に取込火の上へ釣干上け申し候。



鮭アダツ 直段 砂金一匁此銭六百文に付、目方二貫匁替位

 是は鮭一本を三枚におろし、頭骨を除き尾の方を付置き、

 片身四つに割り八つに相成り候を干し上げ、「アダツ」と唱へ申し候。

 一束二十本結にて目方三貫目位に御座候。



鮭ソワリ 直段 一束二十枚結に付銭五百文位

 是は鮭の頭を除き皮へ身を薄く付干上候を「ソワリ」と申し候。

 漉の身は夷人食用に仕り候。



右の外 鮭の鮓(すし) 是は鮭薄身に直し筋子を飯に交へ漬け申候。 其の外 鮭の卯(背ワタ)の類は塩辛、何れも食料計り、売買にて無御座候。


というのがサケの加工法である。これによるとアタツ(アダツ)の製法が近世に入ると、中世とは異なる製造へと変化している。

 サケと同類の魚にマス(鱒)があるが、この魚は蝦夷地海域、諸河川で獲れたが、塩の加工利用が可能になった享保期前後から塩鱒の需要が増加し、寛政、享和期(一七八九~一八〇三)ころにはマス〆粕、マス油の生産が多くなった。特に釧路、ノシャプ、国後島から北方の海域に多く、享和三年のマス〆粕の生産額四十万貫、代値は一万四、四二八両に達している。これはマス油の需給が多かったので、生マスを煮て油を精製し、さらにその段階で生ずる〆粕を乾燥した後、農業用の肥料として関西、北国方面 に売り出し、好評を得て需要が増加したものである。マスの加工品としては








鱒〆粕 直段 砂金十匁此銭六貫文ニ付 目方三十五貫位

是は鰊同様生の儘釜にて煮油を絞り一釜半干上げ筵立一本に相成り申し候。

目方二十二、三貫位、油は四釜煮候へば四斗入一挺に相成り申し候

鱒油 直段 四斗入一挺に付 砂金二匁位此銭七貫二百文


である。この鮭鱒漁業が陸岸および河中でオコシ網を用いるようになったのは、文化年間からといわれている。



【コンブ】 中世以降蝦夷地を代表する海産物にコンブ(昆布)があった。中世には蝦夷地のウンガ(宇賀)の昆布は室町時代の『庭訓往来』のなかで、主要物産として位 置づけられている。その昆布は中世日本海の貿易港小浜で加工されて、若狭昆布として関西市場を独占していた。このコンブの生産地は、和人の住む地域の東端の宇賀、志濃里(志苔)であった。

 近世に入るとそのコンブの生産地が拡大し、内浦湾(噴火湾)にまで広まっている。『新羅之記録』によれば、寛永十七年(一六四〇)六月十三日の項に「内浦岳(駒ヶ岳)噴火し、その勢で津浪が発生し、百余艘の昆布取の舟の人残り少なく津浪におほれ死に終る」と記されていて、この年代には後の六ヶ場所といわれる鹿部付近にまで昆布の採取地が拡大している。また、享保二年(一七一七)の『松前蝦夷記』には、「一昆布 右東郷志野利浜ト云所より東蝦夷地内浦嶽前浜まて海邊弐拾里余之所ニ而取申候、尤献上昆布ハ志野利浜宇賀ト申所之海取分能ゆへ取り申由収納」とあって、昆布場所が東に伸びる傾向にあった。さらに商場、場所請負が進展した享保年間(一七一六~三五)には太平洋岸の三ツ石、浦河、様似付近まで多くのコンブ取が進出し、また、アイヌ人の採取、加工の方法が教えられ、交易物資の仲に入るようになり生産量 は増加した。

 コンブ漁は五月末から八月末まで続けられ、各村では正月の大寄合で予(あらかじ)めその予定を決めておき、鎌下しは村役で協議して日取りを決定した。したがってこの鎌下しの日より前の勝手な採取はできず、元禄五年(一六九二)の亀田奉行の定書の中にも、「一、昆布時分より早く新昆布商売候義堅命停止候」とあって、若生い昆布の濫獲を防ぐ対策がとられていた。

 この生産されるコンブの質は、志濃里、宇賀地方のものは、幅広で、丈も長く赤昆布と言われたが、その理由について『松前蝦夷記』では、








一赤昆布青昆布の立違イ申品

赤昆布

生之内より色違紅うこんのことくにて両脇みゝ笹葉色のことく青く赤と青の間本より末まて黄色なる細筋通 り申よし、是を吟味いたし献上昆布ニ仕立申よし、右納メ松前ニ而一枚宛相改候仕上ケをいたし献上之昆布に相定メ申よし。本赤昆布と申ハ右之如く常の青昆布之内千枚に壱枚も他目なきものにて候よし、青昆布ハ沢山是も本末段々分ケ申由、本の能所ハ赤昆布のことく不知者ハ是を本赤昆布と存尤常之商賣の赤昆布夫を用申よし、切と申ハ本のよき所を取末の細キ薄キ所を伐りと申よし。


とあってこの赤昆布を最高級のものとして、これを亀田地方(函館市を含む海岸地方)の採取村民からは一戸に付、切昆布二十五駄 (元揃の良い所を取ったあとの末昆布。一駄は長さ三尺のもの五十枚を一把とし四把で一駄 )の昆布取税役を課し(のち十三駄となる)、さらに献上用赤昆布五十枚を課していた。しかし、この赤昆布は、コンブのなかでは品質はよくないものであるが、色彩 的には見映えのするものであったので珍重されていたという。

昆布には多くの種類があり、津軽海峡から太平洋沿岸にかけての昆布は赤昆布、青昆布、元昆布、真昆布、三石昆布、水昆布、黒昆布等があり、また産地によって志濃里昆布、松前昆布等があり、また、結束法によって元揃昆布、長折昆布、切昆布等と言われた。太平洋沿岸の大幅、長尺の良質昆布に比べ、津軽海峡西部から日本海に生長する昆布は、丈三、四尺、身幅五寸のもので細目昆布で商品価値も少なく、主に家庭のだしコンブとして利用される事が多かった。また、このコンブを乾燥させた上臼で搗いて粉にして保存し、オシメ昆布として飢饉のときや、米価騰貴の際の飯に混ぜて食べる食料となっている。コンブの価格は上一二〇文、中一〇〇文、下八〇文程度であった。







昆布場の図




 このコンブの需要は関西が主体で、小浜や京都で加工され商品価値を高めていたが、さらにコンブの需要が伸びたのは、清国貿易用として長崎へ積出されるようになった元文五年(一七四〇)以降といわれる。また、宝暦六年(一七五五)以降には長崎産物会所が毎年手代を派遣して、松前の商人と契約し海鼠(いりこ)、白干鮑(あわび)、志濃里昆布の三品を買上げていたが、昆布以外の品が、仲々買上げ予定数量 に達せず、藩がその達成を命令するということもあった。

 コンブを採るには鎌または、捻掉(ねじりざお)、二又棒(まつか)を用いた。その方法は地方によって若干差があったが、福島方面 では二又棒か、鎌を用いた。二又棒は長さ三間程度の棒の先に、二本の木のマツカを付け、柄の部分を設け、これを海中に入れて捻り廻すと、コンブがからみ付き、これを力を入れて引き抜き水揚げをする。また、鎌はマツカと同じ木の先にのこ切状の鎌を付け、海中でコンブの根を伐って静かに水揚げるもので、作業的にはマツカの方が有利であったと言われるが、この生産量 を示す史料は残されていない。



【イカ釣漁業】 イカは「烏賊魚」あるいは「柔魚」と書き、製造して乾燥されたものを鯣(するめ)と呼んだ。この鯣は昆布、勝栗と共に武将の出陣の縁起物となったり、貴族の酒席のつまみとして珍重された。近世初期にはイカ釣漁業は日本海、特に佐渡島より以南の地で発達していた。

 蝦夷地では往古から近海に多く棲息していたが、これを釣る技術が分からず、これを本格的に漁獲することが出来なかった。松前廣長筆の『松前志』は天明元年(一七八一)刊行されたが、この中では「近年海人捕り得ることを得たり」としているので、この時代前後に漁獲方法を知り、この釣漁業が始まったものと考えられ、この技術は恐らく佐渡島から伝承したものと考えられる。しかし、漁業として成り立つ程の本格的漁業ではなかったと思われる。







礼髭村のイカ干し図




 津軽弘前の郷士平尾魯遷が安政四年(一八五七)松前に着いて、箱館へ向かう途中の村々を描いた『箱館紀行』の絵を見ると礼髭村の部のなかで、婦人が海岸の納屋にイカを干し鯣を製造している場面 が描かれているところから、この年代頃にはイカ釣漁業と鯣の生産が本格化してきたことが考えられる。

 明治初期の一ノ瀬長春筆『北海道漁業図譜』に吉岡村のイカ釣用具が描かれているが、その中にヤマテの絵があり、この天秤は鯨骨を用い、その下に二五〇匁の鉛を結び付け、その両側に餌を付けた釣針が仕掛けている。

 また箱館、上磯、熊石、久遠方面ではこのヤマテの針は、針四分程のものを上向並列し、上部にイカを巻き付けた針を二組下げており、瀬棚方面 では一尺の桐の木台の先に二本の竹を結び、その先に針を下げたものなど、その地域によって漁獲方法も様々に摸索していた時代であった。

 この鯣の製造は、幕末箱館が開港され、長崎を介さない蝦夷地生産物を直接売捌(さばき)する箱館産物会所ができ、清国貿易の俵物類が箱館から積出すようになると、それまであまり着目されなかった鯣の需要が急に伸び松前藩は安政四年(一八五七)領内に「領内出産鯣は時相場を以て買上るに付き密売買を爲すべからず。漁業者出産物を引当に前金借入を出願する者は、会所より米穀又は金員を貸与すべし。且つ商売等鯣入用の者会所に出願するに於ては払下を爲すべき」旨を告示している。これは松前藩の収荷を一元的にその手に収めようと画策していたものと思われ、安政六年以降箱館産物会所の鯣取扱量 は、同年一五万八、五四七斤(二万五、三六七貫余)であったが、三年後の文久三年(一八六三)には、鯣取扱量 は三〇万五、二四六斤と量は倍以上に伸びている。

 イカ釣の漁法は、磯舟または保津船で夕時出漁し、陸岸近い海でかがり火を焚いてイカを集め、それをヤマデ(山手)、またはハネゴで釣る。ヤマデは八尋ないし一〇尋位 の深い海中のイカを釣る際に用い、ハネゴは一尋か二尋というごく浅い海に浮き上ったイカを釣る際に用いたが、この方法は昭和前期にまで継続されている。



【アワビ突き、イリコ曳漁業】 アワビは「石決明」「鮑」と書き、イリコは海鼠(なまこ)、この煮干ししたものを海鼠という。松前地方の磯廻り漁業としてはコンブ、ワカメ、雜魚釣と併せ重要な漁業であった。

 アワビは古くは串貝に製して本州に移出され、松前藩の幕府献上物のなかには、干鮑、串貝の名が見られる。このアワビの産地は『北海道漁業志稿』では、その中心が松前地で、主産地として松前礼髭、宮の歌、福島、小谷石、知前(内か)、函館等の名が挙げられ、その他では久遠、太田、太櫓、瀬棚付近、積丹半島、厚田、浜益、留萌、天売、礼文島などが挙げられている。

 文久二年(一八六二)箱館産物会所清国輸出用アワビの目録を見ると










 請 負 高目 安 高

箱 館

松 前

江 差

西蝦夷地

合 計

七二五斤

五二、六三〇斤

一八、四六九斤

四八、一七六斤

一二〇、〇〇〇斤

三二四斤

二三、五〇七斤

八、二四九斤

二一、五一七斤

五三、五九七斤


となっていて礼髭村から小谷石村の生産量が、アワビ生産上極めて重要な地位 を占めていたことが分かる。

 福島地方のアワビ突きは春期および夏期の比較的穏やかな日に、磯舟にアワビ突きの扠(やす)を積んで、一尋か二尋の比較的浅い磯廻りで漁をする。扠は長さ三間位 の木の棹の先に、鉄で先の尖(とが)った釘を三本付けたもので、これを使って水中のアワビを殻を壊さないように挾んで引き上げる。アワビを採るためには水中を捜すが、近世初頭ではガラス箱とてなく、漁師は海中に顔を突っ込み、水に目を慣(な)らして扠を使ったが、幕末に到って外国産の板硝子(ガラス)が輸入されるようになると、これを利用したガラス箱が出廻るようになり、高価ではあったが生産量 は増加した。

 アワビは生のまま食料にしたほか、加工されて本州へ移出したり、長崎俵物として出荷した。最も古い加工法は串貝で、丸竹の串でアワビ五個を貫き天日で乾燥し、十串をもって一連とし、目方は約五〇〇匁であった。正徳期(一七一一~一五)ころからこのアワビが長崎俵物として出荷されるようになると、清国の需要に従って白干鮑が生産された。この白干鮑は生アワビを蒸し、又は煮て塩をふり、ねせてから乾上げたもので、このほか黒干鮑もあった。黒干しはアワビを煮て塩をふらず天日で干したもので、全体に黒く仕上るので、値段も安かった。このほかに〆貝と称して生アワビを塩漬にし、二斗樽に五〇〇個入れたものもあった。

 当時はこのアワビの生息も多く、当地方の磯廻漁業のなかでは、コンブに次ぐ収入があり、ニシン漁からサケ漁までのつなぎの漁業として重視されていた。

 イリコは海鼠と書いたが、方言ではナマコと呼ばれていた。海鼠(いりこ)とはこのナマコを煮て乾燥させたものである。このナマコは蝦夷地では釧路、十勝地方を除く全域に生息し、特に寒冷地帯の沿岸に多く産出された。古くから食料に供され、本州へは乾燥して移出した。寛文七年(一六六七)の記録には、敦賀への送り荷物のなかにイリコの名が見え、松前藩の藩法である『松前福山諸掟』に海鼠曳奉行の役職について示している。それによると、














一、海鼠引船之者共蝦夷江非分之儀不申懸候様急度可申付候

附、蝦夷之商賣堅爲致間敷事

一、ゑとも外海鼠引候事望候者、其品聞届近所之蝦夷地之義者少々爲引候ても不苦候、尤何程引候と見届帰着候て運上を出候様可申付候事

一、二人扶持方賄の外金銀諸色共少々ニても致受納間舗候、若内々ニて其旨申候者、帰帆の節目附役人共申届可致披露候事

右之趣急度可相守者也

卯 二 月


とある。年代は不明であるが、和人地の漁業者が、蝦夷地のイリコ曳に船で出稼していたことが伺われる。

 イリコを曳(ひ)くというのは鉄で枠を造り、その前部に入口を設け、下部には鉄の爪(つめ)を付け枠の後方には八尺という網の袋を付けたものを磯舟で曳き、海中のイリコを獲るというもので、蝦夷地では一日一艘平均四〇〇個のイリコを獲り、多いときは二、〇〇〇個に達したという。和人地での主要産地として、礼髭村から福島村が最も良い漁場とされていた。

 この水揚げしたイリコは内臓を取り、丸煮したものを一〇個ずつ串に貫き、炉上に吊し、又は日光で乾燥して串を抜き、バラにして俵に詰め、俵物として出荷した。

 享保年間(一七一六~三五)ころから長崎俵物の中心として、アワビと共に清国に送られた。アワビ、イリコは全国生産の約七割を占めたので、長崎会所は入荷の促進を図るため、毎年手代に金を持たせて松前に派遣し、松前で一手に買付けする近江商人の団体両浜組合と協議して、その年の出荷予定量 、予定価格を定め、契約をして手付金を手交する。これには藩も立会して、公正を期した。この元請人達は、各村を廻り村役と協議し、予定量 を定めて手付金を交付した。この手付金は冬期間に交付するので、冬期で収入のない漁業者は大いに生活が助かった。したがって、割当量 の出荷が完了するまでは、長崎俵物以外の横流しは許されなかった。



【イワシ】 イワシは「鰯」「海鰮」とも書き、蝦夷地では秋九月、十月に津軽海峡の東口から西に向かって北上し、主に恵山岬から汐首岬が中心漁場であった。蝦夷地ではニシン漁が中心であったので、この漁に重きを置かなかった。我が国のイワシの中心漁場は九州の国東(くにさき)半島、関東の九十九里浜で、ここでは干鰯(ほしか)を製造して全国田畑の金肥として供給していたが、両漁場の資源減少によって、蝦夷地の胴鯡 (どうにしん)、白子、笹目等が、享保年間(一七一六~三五)ころからその代替として急激に需要が増加したものである。

 この時代蝦夷地では生で食べるか、丸干ししたり、塩漬にしたり、糠漬にするより方法がなかった。福島村では月の岬から塩釜(釜谷)付近がこのイワシの好漁場であった。しかし、この貯蔵のためには塩を必要とした。そこでこの塩釜地区で製塩をし、塩釜の地名が生れたものである。常磐井家文書の『福島沿革』では、 とあって、この年代の少し前から製塩の始められていたことが分かる。








安永元年(一七七二)

塩釜神社ヲ建立、此以前今ノ大澗へ製塩所ヲ造ル、塩増栄ノ爲メ該社ヲ建立セラレタ


 また、イワシ網の操業について『戸門治兵衛旧事記』には、








享和二年(一八〇二)

一、當村支配之内赤川と申処江鰯引小網壱投相立試申度御礼金小判一両上納仕度段

 享和二年 七月



福島村 願人  與惣兵衞

名主  達右衞門



とあって字月崎と字塩釜間の赤川でイワシ網漁が行われていたことが分かる。また、明治元年十月末の箱館戦争の際、知内村萩砂里(はぎちゃり)に夜営していた徳川脱走軍に夜襲をかけた際、福島村に出陣した松前藩兵のうち、渡邊々(ひひ)を隊長とする約五〇名が、二艘の鰯枠船で出撃したことが記録されている。これらを見ると幕末には福島村で、秋に本格的にイワシ漁が行われていたことが分かる。



【クジラ】 クジラは「鯨」と書き、また「海鰌」「勇魚」とも書く。古くは「イサナ」「オキナ」「カミ」「エビス」とも呼び、蝦夷人は「フンベ」と称した。このクジラは蝦夷地近海には大クジラは居らず、長さ拾丈(三〇メ-トル余)が限度としていたことが『松前志』に記されている。この蝦夷地近海を廻游するクジラは、沖合の魚を陸岸に追上げるといわれ、漁業者にとっては幸福をもたらすことからカミ、エビスと呼ばれた。

 このように呼ばれる理由には、もう一つの訳があった。蝦夷地近海は多くのクジラが居ながら、これを捕獲する技術を知らなかったので、廻游に任せるのみであったが、たまには弱ったクジラが寄(よ)り鯨(くじら)として海岸に打ち上げられることがあった。寄り鯨があった場合は、藩法に従い発見した村の村役から藩に届け出、藩の役人の検分を受けて、その村が所有権を確定し、村内で解体して配分するが、その際は近隣の村にも多少配分することが義務付けられていた。

 『戸門治兵衞信春旧事記』(常磐井家文書)によれば、








寛政二年(一七九〇)正月四日

いのこ泊り蛇鼻之間赤石と申処江鯨寄町御役所江披露仕候処、知内村も及御披露境論両村出入混雜ニ及申候。

其節御見分御立会足軽武川七右衞門被仰付御吟味之上福島境蛇鼻迄境御改御披露之上被仰付候。其砌改湯の野行詰栗の木椹坂麓迄被仰付候。其砌右栗の木椹海邊見當仕候処海邊蛇鼻ニ相當り申候。古来當村支配所ニ相違無御座候。


この記録では、当時福島村の枝村であった小谷石村と知内村の村境であった赤石浜に寄り鯨があり、この発見を福島村と知内村から藩に報告したが、その領有権をめぐって紛争があった。そこで立会見分として足軽武川七右衞 門という者が来て、蛇の鼻岬をもって両村の村境とした。さらに陸通りも調べ、陸の村堺は知内川と温泉の川の合流点である栗の木椹(たい)坂(さわらの木のある坂)が、両村の境界となったといわれ、したがってこの寄り鯨の所有権は小谷石村のものとなったが、知内村支村の脇本村にも若干の分配があったと思われる。一度寄り鯨があると、村中で解体し分配する。クジラは肉も油も塩蔵して冬期間の食料にしたり、内臓や油を煮て鯨油(げいゆ)を採って、灯明の油にする。さらに肉は焼いた石の上にあげて熱を通 し、石焼鯨を製造して保存した。このように寄り鯨があると村内の人達は、一月(ひとつき)も二月(ふたつき)も恩恵を受けるので、住民に幸いを与えてくれる神様としてエビス様の尊称で、尊ばれてきたものである。



【サ メ】 サメは「鮫」と書き、または「鱶(ふか)」「ワニザメ」と称した。この魚は近海によく廻游したが、当地方の 人達はあまり漁獵しなかった。しかし、この魚が沖合に廻游すると付近の魚がみな恐れて陸岸に近づいてくる。したがって沖にサメが居ると陸岸では大漁するという言い伝えがあって、神としてあがめられていた。今は猿田毘古神を祭神とする松浦の白神神社(楚湖神社ともいう)は、古くはこのサメを祀る祖鮫(そごう)明神が御神体であった。

 秋田の文学者であり博物学者であった菅江真澄の旅行記『えぞのてぶり』で、吉岡山道を通 過する際の記録のなかで、





…略…松倉が岳、泉源が岳など雲がたいそう深く、いく重えの山々もかくれているが、青海原の遠近(おちこち)は晴れていた。底ふかい谷をへだてて、そう高くない磯山に鳥居が見えるのは祖鮫(そごう)明神という。海の荒神をまつったのである。…略


とサメの事を記している。

 このほか蝦夷地の北方には多くのチョウザメがいた。このサメの皮は菊形、蝶形の模様があって、これを刀の鞘(さや)の飾りに用い珍重した。













海産物単位表









































































品目単位備考
〆粕1俵12貫目500匁大俵15貫目、20貫
数の子1俵8貫目500匁大俵14貫目500匁
秋味1石目40貫目百石目この魚6、000本
鱒〆粕
1俵

1石

15貫目

45貫目
百石此俵300俵
昆布
1把

1駄

500匁~1貫目

4貫目

上ミツイシ、中ウガ-大阪

下ウガ-長崎
早割鯡1束3貫目7~800匁(200本)44本入銀75匁位
外割鯡1束3貫目500匁 
筒鯡1束2貫目位 
白子1本21貫目 
数の子1本18貫目
貫上銀5匁4分4厘

並 3匁3分3厘
笹目1本20貫目 
干鮭1束3貫目20本
干鱈1束
1貫目3~400匁

3貫目4~500匁
20本、50本銀12匁
身欠1本18貫目 
串貝1本2貫目300匁 
イリコ1本16貫目 
白干鮑1本16貫目 
鮫がら1束2貫目 
鮫油
2斗入

4斗入

1貫目

23貫目
銀72匁
鮭塩引1束20本百石300束
塩鱒1束20本百石600束
筋子1樽2斗入銀20匁
布海苔1俵16貫目 

鮭 秋味 両に35本位

新 鱒  両に150本位

新 鱈  両に40本位

鮭 切囲 両に50本位

鱒 切囲 両に180本位

鱈 切囲 両に150本位

粒 鯡  1丸200疋

1両は4分(慶長小判で砂金7匁3分)

1分は4朱