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 大正八年の十一月の寒い日であった。松前のお殿様の直系の子孫である松前勝広(よしひろ)子爵が碁盤坂村に来て、これから千軒岳の山に埋蔵金を掘り出しに行くから手伝いの屈強な若い者を四、五人世話をせよと言うのである。村役はびっくりして若い者を五人ほど選んで世話をした。そのなかに当時十八歳になった佐藤甚作さんもいた。

 一行は勝広殿様についてきた行者(修験者)が鈴を鳴らして祈祷しながら徒歩で千軒岳に向い、杣道を越え、知内川本流を出戸二股、中二股、奥二股等の枝川を越え、その日はようやく広い川原に着き、小枝やドングイ(イタドリ)等を集めて小屋掛をしたが、小雪がちらついて寒くて寒くて一睡もできず、焚火で暖を取っていた。

 翌朝神様からのお告げがあったのか、行者は一行をうながして奥へ、奥へと進み、千軒岳の七合目位 のところの大河原という処に到ったとき、行者の目は輝き、神に祈って何かを捜していたが、ここだと叫んで指さしたところ、何とその場所は石垣が組んであり、人為的に地均(ならし)をした今でいう金山番所跡と呼ばれる地域であった。佐藤甚作さんらの若者達は、行者に「ここを掘れ」と命ぜられるまま、夢中になってその場所を掘った。五尺、十尺と掘っても何かあったような形跡はない。そのうちに掘り上げた土が崩れ出し、佐藤さんの身体半分が土砂に埋まってしまった。これなら出面 賃(賃金)を貰うより生命(いのち)の方が大事だから、逃げるべえと皆で逃げ帰ったが、殿様や行者はそのままそこに居た。後で聴いた話だが、殿様達は宝物を掘り出せなかった。…と。

(昭和三〇年 佐藤甚作さんから聴取)

 この話は恐らく、今から三五〇余年前の寛永十六年八月、千軒岳の金山(かなやま)に入って砂金を掘っていた金掘(かなほり)のなかに、多くのキリシタン宗の宗徒が居たのを、松前藩が幕府の命令で、首を斬って殺したという古実を知っていた行者に、霊感がひらめいて宝捜しとなったのだろう。また、字千軒地域には、このキリシタンの人達が持っていた黄金を集めて穴を掘って隠して、死地に赴いたという伝説が残されていて、この宝捜しをする人が後を断たず、現に筆者が昭和三十年九月キリシタン遺跡調査に知内川上流へ、佐藤甚作さんの案内で入った際も、広い川原の近くで埋蔵金捜しをして穴を掘っている人達を見たが、ついぞ発見したと言う話を聴いたことはない。