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第一節 松前藩・館藩の崩壊

 松前藩を明治元年(一八六八)十月二十日の館城が完成した日をもって館藩と称したという説がある。しかし、明治元年十月から翌二年五月の政府及び藩の発する公文書は、松前藩の名で統一されているので、館藩と名称を変更したのは、同年六月以降のことである。この月各大名の藩籍奉還が行われ、各藩主は知事として扱われることになり、その指令書には、








松前勝千代



館藩知事被仰付候也

 明治二年六月廿四日



行政官



という任命で、この時点以降明治四年の廃藩置県までを館藩と呼称している。なぜ藩名を変更したかについては、明治元年以降の藩政治が正議隊幹部によって牛耳られていた。これらの幹部達は松前市民の目から見ると、成り上り者が多かったので、正議派行政に対しては非協力的な態度を取り続けていたので、人心一新と厚沢部川流域の開発によって農業をも取り入れた新たな藩体制を造り、その拠点として館城を築いたが、この城は完成僅か二十五日目で徳川脱走軍の攻撃を受け焦土と化してしまった。

 しかし、箱館戦争終了後の松前城下は、全くの焼野原と化し、松前城自体が海上艦船の砲撃には全く弱い城だという事を露呈していたので、さらに館城を再構築しようという計画もあったことから、その藩名を館藩と改称したことが考えられる。その証拠として『北門史綱 巻之拾壹』において、政府から一〇万両を借りて館城を再築しようと、八月廿九日知事兼広(前勝千代、のち修広)から弁官に対し、「可奉泣血悃ハ天朝也、仰願クハ至慈ノ御旨趣ヲ以テ金拾万両拜借ノ命ヲ蒙リ速ニ館築スル事ヲ得ハ臣兼広至願之ニ過ス」と今や城郭等は無用の長物化しているとき、時代に逆行して、さらに館再築城を願い出るなど、重臣等自体が藩の将来を見通 すことが出来なかった。

 この月藩は新時勢下での機構改革と人心の一新を図るため、家老、用人、奉行等の藩政体制を次のように改めた。


















































































管轄局   
管轄松井 屯  
君上傅(ふ)役松井 屯  
督事村上 勇  
奥用人奥平 肇  
権督事金田 普(しん)右衞門 
大監察
野村庵

 (いおり)

井本新

 (あらた)
 
小監察土谷 守外工藤 大之進 
士頭北見 伝治  
文武局   
管轄尾見 雄三  
副管轄新田 主悦(ちから) 
総隊長松崎 多門  
副隊長下国美都喜今井 晦輔(ぶすけ)
民政局   
管轄松前 右京  
副管轄藤倉 右近  
督事布施 泉  
権督事伊沢 司湊 浅之進 
    
会計局   

管轄

副管轄
蠣崎 靱負之助(ゆきえのすけ)
督事新井田 早苗(さなえ)明石 廉平藤井 衞門
権督事種田 金十郎吉田 衡(こう)平

港司

国産方
稲川 辨二郎柿添 安蔵 

土木司

算数方
上原 久七郎  


の四局とした外、督事として箱(凾)館留守居、江戸詰の公議人等も発令されたが、このなかの主な役職者は正議隊出身の軽輩者が多い。特に正議隊出身の執政三人のうち、二人までがその姿を隠している。一人は下国東七郎で、藩臣の多くが正議隊と現在迄の藩行政陣に対する反感が根強いのを察知して、病と称してこれを受けなかったことと、今一人の執政であった鈴木織太郎は、戦争中軍律に反したとして家臣を処刑したり、また、横暴の振舞があって江戸邸内に監置され(のち死亡)たこともあって、松井屯を管轄局管轄とした藩行政に移行したものである。

 従来松前藩時代の知行制度は、初期においては場所知行及び扶持切米給与であったが、文政五年(一八二二)の大改正で場所知行は廃止され、扶持米制度に切替り、














寄合席準寄合
弓の間~

大書院席

中書院席

中ノ間席御先手組席徒士足軽
五〇〇石四〇〇石
三〇〇石~

二〇〇石
一五〇石一一〇石九〇石六〇石


五〇〇石から一一〇石高までを士とし、徒士はそれに準じて、藩主封禄のなかから分与されてきたものである。しかし、藩籍奉還となり藩主は知事に任命されてから知事には、旧封土の十分の一の内庭費しか支給されず、旧家臣の藩庁役員は役料を頂戴するが、役を持たないものは士族として待遇され、扶持は当初十三石であったが、のち十一石、徒士および足軽は九石となってしまった。幸い松前家は箱館戦争によって多大の被害を受けたとして政府から永世二万石の賞典を賜わったが、これも戦争に参加した兵士に十一石、卒に九石の加増をしたが、これすら支払の方針が立たない程藩財政は逼迫(ひっぱく)していた。

 そこで藩は苦肉の策として藩札の発行に踏み切った。二年八月館藩は一両、二分、一分、二朱、一朱の五種類の藩札を八月一日から発行流通 させたが、九月までの製造高は四万七、一五八両一分二朱であったというが、その発行理由は、「藩地平定ノ交輸(ゆきあえ)入船舶等ノ齎(もたらし)来ル弐分金概シテ諸藩ノ膺造ニ係ルモノニシテ通 用頗ル渋滞選抜スル金貨ト雖モ亦其価格ノ低減スルニアラサレハ授受スル能ハサルニヨリ仮リニ藩札ヲ製シテ藩内ヲ期シテ流通 セシメ」(『北門史綱 巻之拾壹』)とは言っているが、実質的藩政運営源泉としようとしている。

 発行はしたものの財政不安定な藩のこの藩札は当初から不評判で引取手がないため、藩は御用達、請負人、株仲間等に談じ込んで強制的に通 用させたが、当初から半額程度で引き取られ、藩への公課納入の場合のみに利用するということであったので、藩札発行がかえって藩財政を困窮させることになり、明治四年十一月廃藩の段階での発行高は一〇万三、〇〇〇両に達したといわれ、これがやがて政府に引き継がれる段階で、藩は架空の藩札発行によって、書類を偽造し一一万四、九七七両余を搾取しようとしたことが明かになり、その書類に名を貸した人達は大変な迷惑をするという事件もあった。

 実質的な士としての扶持を離れ、秩禄の十一石あるいは九石で暮さなければならなくなった家臣に対して、藩はその秩禄のみも支払することが出来ず、しかも箱館戦争への出兵と敗退、さらには家族避難中の戦災による大火で、多くの旧家臣は丸裸の状態で、衣・食・住の総ての面 で困窮していた。

 藩財政の逼迫のなかで、明治二年九月当年限りの御手当金(生活資金)支給の方法を、
















一、加増金は不残当年限り御借上。
一、戦死の面々は相続の者無之共当年限り家族へ下さる。
一、この御手当金九月半方、十月半方下さる。
一、御米は当九月より午二月迄御家中、一般家族人民に応じ、一人に付一日玄米四合づつ下さる。


として本年は取り敢えず金子をもって次のように支給している。
















一金百十両寄合中・准寄合中、
一金四十五両中書院・中ノ間・御先手、
一金三十両古組徒士・同並、
一金二十両惣足軽、




というものである。しかし、慶応年間から明治初頭にかけては、慢性的な凶作と政情不安から、文化、文政期(一八〇四~二九)に比べ物価は約一〇倍にも達し、米一俵(六〇キログラム)が二両位 から四両にまで上昇していて、この御手当金では息のつく暇もなかった。三年になると藩より秩禄の支給が全く行えず、四年になってもその方途は立たないため、苦肉の策として、松前城内建物の銅瓦を剥いで売り、この金で各扶持人一戸当り五両の御手当金を払う状況であった。