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第三節 福島と蝦夷地のキリシタン

【キリシタン宗の渡来】 キリシタン宗とは、キリスト教のうち、我が国に渡来された旧教のうちのイエズス会(ヤソ会)、フランシスコ会などの会派の宗教である。我が国ではこの宗教をキリシタン宗・切支丹宗・幾利支丹宗と呼び、また、この禁制以降は邪宗門と呼ばれたものである。

 そのうちのイエズス会は、ポルトガル国の支援を受け、同国が東洋進出の足場としたインドのゴアに根拠地を求め、ここから東洋の布教活動に入り、さらに東進して中国のマカオに前線基地を置き、ロ-マ法王庁から正式の日本布教権を獲得した。また、スペイン国の支援を受けたフランシスコ会はルソン島(フィリピン)の布教権を獲得し、共に東洋で活動するのは十六世紀中期のことである。

 日本布教の先鞭を切ったのは、フランシスコ・ザヴィエル神父(イエズス会所属)である。ザヴィエル神父は天文十六年(一五四七)マラッカで鹿児島生まれの日本人アンジロウと会い、日本伝道に闘志を燃やし、同十八年同僚のトルレス神父、フェルナンデス修道士を伴い、アンジロウの案内で鹿児島に渡来し、我が国での布教活動に入った。

 その後ザヴィエル神父は西日本から京都にかけて二年間にわたって布教活動をして日本を去ったが、その間には多くの南蛮文化や鉄砲などの物質文明を伝えた。戦国大名達はこれらの文化の導入によって領国強化につなげようという風潮が目立ち、特に九州の諸大名にその傾向が強かったので、キリスト教のうちの旧教に属するイエズス会(ヤソ会)は多くの布教師(神父)を派遣し教勢の拡大に努めた。また、イエズス会はポルトガル国の後援を得て、ロ-マ法王から日本国内の布教権を獲得し、一方では同じく東洋に進出したスペインの援助を得たフランシスコ会がフィリピンのルソン島を中心として布教活動に当り、さらに、我が国へも布教進出する計画をしていた。

 織田信長が天下を掌握するとイエズス会は信長に近づき、京都、安土に教会を造ることを認められ、教勢は大いに揚がったが、豊臣秀吉が天下を治めた天正十三年(一五八五)頃には、全国のキリシタン宗徒は七〇万人にも達していたといわれる。その二年後の天正十五年、九州の島津家討伐のため出兵した秀吉は、九州地方で異常なまでに発展を遂げているキリシタン宗の教勢に驚き、キリシタン宗門の禁教と宣教師(神父)の国外追放を発布したが、大きな効果 はなかった。



【キリシタン宗禁教と迫害】 徳川幕府が江戸に開府し、幕府の制度が着々と進むなかで、宗教政策として国教である神道と仏教を庇護するため、新来のキリシタン宗の排除の政策を進めた。特に家康の政策顧問であった京都南禅寺(臨済宗)の僧、金地院崇伝はキリシタン宗の国内布教の禁止を強く進言し、家康の裁許によって慶長十八年(一六一三)キリシタン宗禁教令の案文を崇伝に起草させ、同年暮、遂にこれを発布した。

 それによると、我が国でキリシタン宗門の活動は一切許さず、外国人神父は国外追放し、国内の宗徒は禁教令によって、その宗を捨てることを命じ、これに違背(いはい)するものは処断するという厳しいものであった。この禁教令発布と共に慶長十九年(一六一四)一月以降、宗徒の迫害が京都を中心として行われた。

 先ず国内各地で布教活動をしていた外国人神父の総ては国外退去を命ぜられて、長崎に集められ、便船(びんせん)を待ってルソン島やマカオ(中国)に送られた。さらにこの禁教令の効果 を高めるため、高山右近や内藤如安らの大名も逮捕されて、国外追放となったが、その際、京都・大坂の宗徒が多く逮捕投獄されて、棄教を迫られたが、それに応じない者は、津軽に流刑されることになり、これらの流刑キリシタンが、後に蝦夷地と福島のキリシタン宗と大きなかかわりを持つと思われる。



【津軽の流刑キリシタン】 京都・大坂で逮捕され棄教しないキリシタン宗徒は、京都四十七人、大坂二十四人の男 女・子供達であったが、四月初旬これらの宗徒を「津軽外ケ浜に流す」(『徳川実紀』)ことが決定され、五月一日これらの流刑宗徒は裸馬に乗せられ、大津からは琵琶湖を塩津へ渡り、塩津街道を北上して敦賀に入り、ここで津軽からの出迎船を待った。五月二十一日には津軽藩差廻しの船で敦賀を出帆し、六月十七日西津軽郡の鯵ケ沢に着いたと思われ、ここから高岡(後の弘前)へ着いた。「同国の大名(津軽信牧)は、この善良なキリシタン達を同情を以て迎へ、その生活費を一部助けてやりたいと思った。然し、彼は君主の命令によって、彼等を百姓の荒仕事に就かせなければならなかった。然も流人達は悦んで之を承認し、」(『日本切支丹宗門史・上巻』レオン・パジェス著 岩波文庫)流刑地に到って農業開拓をして流刑生活を送ることになった。同書は一六一六年(元和二)のその生活状況を「聖なる津軽の流人達は、到着以来、真に辛い耕作に從ってゐた。彼等は名門の出で、富裕の間に成長したので、農具のことなどは全く知らないも同然であった。……略…… 飢餓は、又彼等を苦しめんとし、普通 ロ-マの一エキュ-の二十分の一であった米相場は一エキュ-に暴騰した。之等士分の流人達は草根で命をつなぎ、而(しか)も之を発見することが出来る中はまだ仕合せであった。彼等の主要な、否寧(むし)ろ唯一の資源は、長崎からの布施であった。」と述べている。

 この流刑キリシタンの惨状が長崎に知らされ、宗徒達は慰問の金品を集め、津軽の宗徒に届けようとしたが、国外追放を受け、長崎で船を待っていた外国人神父のジェロニモ・D・アンジェリス神父が率先志願し、死を賭してこれを届けることになったが、のち、この神父が蝦夷地と深いかかわりを持つようになった。

 アンジェリス神父は一五六八年シシリア島のエンナに生まれ、十八歳でイエズス会に入会して神学生となり、敍品(じょひん)の終わらないうちにインドへ派遣され、司祭に昇進した。ゴアからマラッカを経て中国のマカオへ着いた神父は、ここで一年余滞在して日本語を勉強し、一六〇二年(慶長七)日本に着いた。一六〇三年には京都伏見の修道院で一年間日本語を学び、その後京都から駿府付近までを持場として、布教活動に入った。しかし、慶長十九年(一六一四)キリシタン禁教令による外人神父の国外退去の命を受け長崎に集結して、船待ちをしていた時に、この津軽訪問を決意したのである。

さきの流刑キリシタン宗徒達がどこの流刑地に入植したかについては、元和三年(一六一七)のディエゴ・結城神父は、「津軽にキリシタンの五団体があり、中二つは流人、他の三つは新たに改宗した土着者から成っていることを知った。」と述べているが、流刑者の団体は京都四十七人、大坂二十四人と考えられ、他の三団体は津軽の人達ではなく、流刑キリシタンを慕った越前やその他の地方から来た改宗した人達であると考えられる。さらにこれら流刑キリシタンの流刑された場所については、おおよそ次のような説がある。
















(1)
弘前市鬼沢説

この地は昔、備前村といい、流刑キリシタンを慕って来た人達の住んだところという。(松野武雄氏説)
(2)鯵ケ沢から弘前の間。(小館衷三氏説)
(3)高岡即ち弘前市。(浦川和三郎氏説)
(4)十三合・十三湖。(ゲルハルト・フ-ベル氏、永田富智説)


とあって確定はされていないが、このうちの説が有力とされている。

 このように津軽藩領内に流刑されたキリシタン達の消息は、そのうちのマチヤス・長庵という医師が高岡(弘前)で布教活動をしたということで捕えられ、他の関係した者と六人が元和三年(一六一七)処刑されたが、その後、この流刑者達の消息を伝える津軽藩の記録は全くない。これは流刑者達が逃散(ちょうさん)し、そのため藩庁がそれを秘するため記録を残さなかったことも考えられるが、その原因は前述したような元和元年から三年にかけての津軽の大飢饉も上げられ、元和三年には三万人から五万人の砂金掘が蝦夷地へ渡航し、ソッコ(楚湖)・大澤・千軒の金山へ入り、砂金掘をしたという事実。矢越岬近くの船隠しの澗に、津軽・秋田の砂金掘が、ここに船を隠して千軒金山に到って砂金掘をしたという福島町内の伝承。さらには千軒金山のキリシタンのなかには大坂・堺・長崎から来たキリシタンがいる等のことを推定すると、福島町のキリシタンと、津軽のキリシタンは多分に関係あるのではないかと考えられる。







船隠しの澗現況




【蝦夷地最初のキリシタン】 日本で布教活動を続ける外人神父達にとって、奥羽地方の北方に拡がる広大な島、蝦夷島を知ろうとするのは当然で、イエズス会の神父達が聴き知ったことは逐一、ロ-マに報告されて、機会があれば一度は訪ねて見たい地であった。

 この蝦夷地の領主松前氏が医師を求めていることを知ったカミロ・コスタンゾ神父は、堺の医師である宗徒を、異教徒を信仰に導くための洗礼の授け方、教会での祈祷方法や慣習等を教え、慶長十九年蝦夷地に派遣し、多くの信者を獲得したといわれている。

 元和四年(一六一八)蝦夷地に渡航したアンジェリス神父は、出羽(秋田)から松前を経て津軽の流刑キリシタンを見舞おうとしたが、松前に来たのは、兼ねてアンジェリスの上長でマカオ(中国)に駐在しているアフォンソ・デ・ルセナ神父の指示で、蝦夷地がダッタン半島(黒龍江)の一つの岬なのか、それとも島なのかを調べ、そこの住民を詳細に調べることであった。その結果 によってはヨ-ロッパへの通信も可能になるのではないかとの期待が目的で、さらに松前にはさきに堺から派遣された医師が若干の信者を獲得しているので、これらの人達に福音(ふくいん)を与えるためでもあった。

 このアンジェリス神父の第一回蝦夷地訪問は、秋田から乗船出帆したが、風向が悪く蝦夷地には向かえず、深浦(青森県西津軽郡)に着き、ここで松前行の順風を風待ちした。八〇人もの乗客は浜に小屋を建て、二十二日も風待ちした上、ようやく出帆し、六月松前に向かったが、海上が荒れ、船は目的地には着かず、ツガという港に着いた。このツガという地名は、アンジェリス神父の蝦夷国地図の説明から上ノ国付近と推定される。

 この船中では松前氏の乙名(重臣)の一人で殿様の甥(おい)が乗っていたが、着船と同時に馬で松前に向かった。その後神父は徒歩で松前に着いたが、先行していた乙名は松前に到着後、宗徒達に神父の来ることを告げ、もし来たなら検断(町奉行所か沖之口奉行所)を宿舎としてもよいと言ったという。

 アンジェリスは松前で十五人程のキリシタン宗徒と逢い、福音を与え、さらに若干の人に洗礼を授けた。さらにこの乙名を訪ねたところ、「殿はパードレ(神父)の松前へ見えることはダイジモナイ(大事もない)、何故なら天下がパードレを日本から追放したけれども、松前は日本ではない、と付け加えました。」とあるように、禁教令が発布されているにもかかわらず、寛大な態度を取っていたことがうかがわれる。アンジェリスはこの第一回蝦夷地訪問で、松前滞在の十日間の間に数多くの蝦夷に逢い、蝦夷地の状況を調べて秋田に帰り、その詳細を十月に上司に報告している。

 そのなかで、金山のことについても触れていて、








蝦夷に多数の金の鉱山があるけれども、彼等(蝦夷)がそれを採掘しないで、二年前から松前殿がようやくそれらの鉱山を開き始めたところでございます。小生はその金を視ましたが、甚だ純良であります。日本の金のように、というのはそれは極く微粒の砂ですが、砂金(すながね)ではなくて、最も小さな片でも一分(いっぷん)はある金の砕片であります。あるときには百六十匁(もんめ)の重量 ある金塊を見付けました。それらの金の山からは、恰(あたか)も〔金でてきた〕陸地であるかの如くに〔多く産出致します〕。後になって、日本人が〔金の〕山を採掘しているのを知って、蝦夷人に欲心が起るかどうか小生にはわかりません。



(上智大学 H・チ-スリク神父 訳)



というように、千軒・楚湖(そっこ)・大澤等の金山の開削当初は、正に粒金を拾うように多くの砂金が採取されたといっている。

 松前滞留中アンジェリスは前記の殿様の甥に当たる乙名の宅を訪問しているが、この乙名はコンタツ(数珠・ロザリヨ)、聖画像などの如き信者の物や、信者の道具類を持っていてそれを手離さずにおり、彼は信者ではないにしても、少なくとも立派な贔屓(ひいき)であると述べている。

 アンジェリスは七月秋田に帰ったが、その後すぐ松前氏は領内でのキリシタン宗を厳禁している。それはこの月何らかの政策の変更があって、それまで寛大な態度を取っていた松前氏が厳禁に踏み切ったものと考えられるが、それには多分に松前利廣の問題が絡んでいたと思われる。

 松前利廣は松前家第五世藩主慶廣の三男で、小字は龍丸、初名は行廣、松前長門守(ながとのかみ)と称した。妾(めかけ)出であるが豪邁で、武技に長じ、書及び医術をよくしたといわれる。最初南部信濃守利直の養子となったが、その後帰国して家老となり、元和四年(一六一八)七月二十六日異謀が発覚し、本州に逃れ、その後行方不明となったといわれる人である。恐らくアンジェリス神父が乗船した船に乗り合わせた、松前殿の甥で乙名の人というのは、この利廣ではないかと考えられる。この前々年の元和二年、父の第五世慶廣が死亡し(六世盛廣は十年前死亡)、元和三年に至って甥の公(きん)廣が十九歳で藩主になっているので、その間の相続争い等があったのではないかと考えられ、その結果 の逃走ではないかと思われる。また、利廣がキリシタン宗に寛大であったことから、厳禁に踏み切ったのではないかと考えられる。

 この利廣の逃走事件については福島町も大きく関係している。『常磐井家系譜』(利尻町所在常磐井武秀氏所蔵)によれば、常盤井氏の二祖武治の長男相衡は、利廣に同心して、共に日本国に逃げ渡ったが、その際、同家に伝承されてきた系譜や宝器類を持ち出したため、常盤井家の先祖の事歴が全く分からなくなったと記されており、この松前利廣と常盤井相衡とが同じ行動を取っていたものと思われる。

 今、松前藩主松前家墓所(松前町・国指定史跡)内の裏門入口を入り、一段高い所に建っている第七世公廣の室椿姫(大納言大炊御門資賢(おおいみかどすけかた)の姫)の右隣に小型の五輪塔型式の墓があり、これには地輪座に「円応族山良勝居士、明暦四年七月日没」の刻銘がある。法幢寺(松前家菩提寺・曹洞宗)の『松前家過去帳』にも、この戒名はあるが、この人は誰であるかは記されていない。それは一族であって同家墓地には葬ったが、何らかの理由でその氏名を隠したと思われる。しかも、この墓の五輪塔には上層から基盤にいたる五輪の内側に、Tの記号が入っており、このTの記号が利廣の頭文字か、それともキリシタン記号であるかは、今後の解明を待たなければならない。



【カルワーリュ神父の第一回渡航と千軒金山】 元和六年(一六二〇)八月カルワ-リュ神父が、蝦夷地への第一回渡航を行った。このカルワ-リュ神父は、ディオゴ・カルワ-リュといい、一五七八年ポルトガルのコイムブラに生まれ、十六歳でイエズス会に入会し、神学生のときインド行きを志願し、一六〇〇年(慶長五)他のイエズス会士十五名と共にポルトガル領インドのゴアに上陸した。翌年日本を目指す十余名の宣教師(神父)と共に中国のマカオに至り、ここで神学校を卒業し、司祭に敍品された。マカオでは日本語を学び、一六一三年(慶長十八)最初の任地天草に赴任し、その後京都にも登っている。翌十四年キリシタン宗禁教令によって、長崎から追放された七十三名のイエズス会士の一人であった。

 一六一六年(元和二)マカオから密入国したカルワ-リュ神父は、管区長の命令で、東北地方で活動するアンジェリス神父の補助として布教活動するよう命ぜられ、翌元和三年東北地方に入り、仙台藩伊達家家中で高名なキリシタンである後藤寿庵(千二百石)を陸中見分(現在の岩手県水沢市字福原)に訪ね、寿庵の援助を受け、アンジェリスの指示によって布教活動に当った。

 元和四年(一六一八)アンジェリス神父が第一回渡航の際は、十分な日時もなく、また途中の警戒が厳しいため、ミサ聖祭の用具を持参出来なかったので、彼の命令で蝦夷地へ渡航することになった。

 カルワ-リュ神父は、先ず秋田に入り、ここから津軽に入国し、その上で蝦夷地に渡る考えであったが、津軽領の取り締りが厳重なため、秋田から先ず松前に入り、ここから津軽入りすることにし、七月二十五日鉱山採掘に行く砂金掘の名義で乗船した。彼の報告書では松前氏の領内に純良な金を豊産する諸鉱山が発見され、昨年は五万人、本年も三万人もの金掘達が松前に渡っていると述べている。しかしこの時代、蝦夷地に居住する和人の数はせいぜい一万人程度であり、そこへ五万人、三万人もの金掘が入ることは、食糧、食料品の需要が賄えないとも考えられ、その数はやや誇大に過ぎるのではないかと思われる。しかし、それら渡航金掘のなかには多くのキリシタンが混じっており、カルワ-リュも知り合いのキリシタン宗信者の連れの一団に従者と共に加わって松前に渡った。

 松前に着いたカルワ-リュ神父は、雪の聖母の日の八月五日、蝦夷地最初のミサを行ったが、この日は以前から蝦夷地に住む信者や、師が奥州で洗礼を授けた人達も交わって厳(おごそ)かに行われ、このミサ聖餐(せいさん)に与(あずか)った信者達は感激の余りに涕泣8ていきゅう)する者もあり、親しく告解(こっかい)していない信者達は非常な満悦だったという。

 さらに千軒岳の金山には多くのキリシタン宗徒がいたが、距離も遠く、町に出て来られないため、カルワ-リュはミサの道具を携え、この金山に赴く途中の情景は、すでに千軒金山の部で記した通 りである。金山におけるカルワ-リュの行動は、その報告書によれば、








私が金山(カナヤマ)から余り遠くない所に新しくつくられた藁屋ばかりの一部落に着くと、一人のキリシタンの小屋で祭壇の仕度をした。その小屋の壁は木の板でできていて、屋根はコルクに似た樹皮で葺いてあったが、非常に清潔で、幕で飾ってあり、私の到着前に一種の祭壇が板でうまい具合いに作ってあった。

 その家で私は聖母被昇天(八月十五日)の祭典を挙げた。その時、私は日本の諸地方で見てきた豪華な、かつ立派に装飾された教会堂でこの祝日に多数の人が集まり、キリシタンたちのいろいろな遊戯や余興を加えて催された祭典を思い出して、涙を禁じえなかった。それもその追憶の故よりも、このたび発見された最果 ての地において、私こそこの聖なる日を祝うことのできた最初の者である、という慰悦の故でもあったのである。キリシタンたちの告解を聴いてここで一週間を過ごしたが、金山(カナヤマ)のキリシタンたちはみんな、病人までも加えて、そのために入れ替り立ち替りしてやってきたし、また仕事から離れることのできた幾人かにも洗礼を授けた。それが終わって松前(マツマイ)の町へ戻った。キリシタンたちはいちじるしい親愛の様子を示し、名残りを惜しんで、私に別 れを告げた。ことに、かつては我が会の同宿(ドウシュク)(教え方)であり今はその地に金掘(カナホ)りとなって働いている人、すなわちドウキュウ・ドミンゴスとガイファン・ディオゴの二人は、私について行きたいと希望し、私のキリシタン団の仕事で我々、パードレ(神父)・アンジェリスと私とを援助してもらうのに連れて行きたかったのだが、鉱山に働く契約がまだ終了してなかったのである。それでもこの仕事が終れば、年内にも來ると約束をした。



(上智大学 H・チ-スリク神父 訳)



と千軒金山(かなやま)での砂金掘のなかに、多くのキリシタン宗徒がおり、金山の中心部落に仮設の教会堂があり、ここで八月十五日の雪の聖母被昇天(ひしょうてん)のミサ聖祭を厳粛のうちに挙げ、さらに一週間この地に留まって、信者の告解(こっかい)を聴き、多くの人達に福音(ふくいん)を与え、また新たに洗礼を授かる者もあったことを記録していて、千軒金山の具体的規模と、そこに住むキリシタン宗徒の信教状況を詳しく述べていて、福島町のキリシタン史上、極めて重要な史料となっている。







金山番所石垣




 帰路カルワ-リュは松前から津軽に渡っているが、その際、堺から来た二人の信者が一行のため船一艘を借り、同行していた同宿(どうしゅく)の円甫(イエンポ)シマンが組頭となって一団を組織し、円甫は大坂五郎助という名で、手判を受け、税役を払って出国した。この円甫シマンは遠甫シモンともいわれ、天正八年(一五八〇)肥後の野津に生まれ、十六歳のときイエズス会で洗礼を受け、さらにセミナリヨ(神学校)で勉学し、その後は同宿(助修士、伝道士)として活躍し、慶長十九年(一六一四)の外人神父追放令のとき一緒に逮捕され、一時中国マカオに追放されたが、また我が国内に潜入し、元和三年(一六一七)東北地方に入り、アンジェリス神父の良き協力者として活躍している人である。



【東北地方でのイエズス会とフランシスコ会】  日本国内でのキリスト教カトリック会派の布教権は、ポルトガル国の援助を受け、東洋に進出したイエズス会(ヤソ会)がロ-マ法王から許可を受けていた。一方ではスペインの援助を受けたフランシスコ会はルソン島を中心とした布教活動に当たっていたが、やがてこの会も日本国内で布教活動を行うべく指向してきた。その尖兵となったのが、ルイス・ソテロ神父である。

 ソテロはイエズス会の日本国内布教を好まず、みずからルソン島から日本に乗り込み、慶長十五年(一六一〇)江戸にフランシスコ会布教の足場を造った。その時たまたま伊達政宗の側室が重症の病となり、ソテロに同行した助修士が助けたことから、翌年帰国の政宗はソテロを同行して仙台に帰り、慶長十六年十一月二十三日布告を発し、領内でのキリシタン宗宣教の自由と家臣の入信を許した。ソテロは仙台付近で布教活動に当り、一年間で一、八〇〇人に洗礼を授けている。

 ソテロは東北地方をフランシスコ会派の勢力下に置き、伊達政宗に外国交易をさせ、それによって、さらに政宗と結び付き、経済的援助の強化を図ろうとして、訪欧使節の派遣を政宗に働きかけた。その結果 幕府の許可もあって造船も完了し、慶長十八年(一六一三)十月二十七日訪欧使支倉常長以下一八〇名、先導者フロイス以下外国人四十名が乗り組み、仙台湾月の浦を出帆した。一行はメキシコからイスパニヤ(スペイン)に着き、マドリッドからイタリアのロ-マに着いた。帰路にあったとき、慶長十九年の徳川幕府の禁教令に遇(あ)い、ソテロの奥北地方の教勢拡大とそれによって日本司教となる夢は、はかなく消え、ルソン島に残り、支倉常長らの日本への帰着は元和六年八月二十六日で、七年間の旅行の間に世情は一変していた。

 日本布教権を持ちながら、東北地方の布教には何ら手を塗めずにいたイエズス会は、フランシスコ会の東北布教に為す業(すべ)がなかったが、ソテロの訪欧使節先導で出発後、禁教令、外人神父の国外追放、さらには東北地方北端へのキリシタン宗徒の流刑と続き、この流刑宗徒救援のため潜伏外人神父の東北進出によって、イエズス会の東北進出が、元和四~五年頃から急激に増える一方、フランシスコ会派の退潮が目立って来た。この元和六年頃には、外国宣教師の国外追放が行われた後であるにもかかわらず、東北地方にはイエズス会ではアンジェリス、カルワ-リュ、アダミ、パブロ、マルチノ式見の五人の神父、助修士ではシモン・遠甫、ジュアン・山がおり、フランシスコ会ではフランシスコ・ガルベス、フランシスコ・バラザスの二人の神父が仙台を中心として活躍していた。



【元和七年のアンジェリス神父の渡航】 元和七年(一六二一)にはアンジェリス神父の、第二回目の蝦夷地訪問が行われた。その目的は、第一回渡航の際の報告よりも正確な蝦夷地の状況を上長達が望んでいるということで、この詳細を調べて報告することと、一人でも多くの信者を獲得することであった。この元和七年のアンジェリス神父の報告書では、蝦夷地での教勢拡張のための行動、あるいは蝦夷地にいる宗徒のことには全く触れず、専ら、蝦夷地の地理、原住者のことに文言を集めていて、これをまとめて上司であるパ-ドレ・フランシスコ・パシェコ神父に送っている。それによると全体を十三項目に分けて記述し、これに蝦夷国地図とその書き入れの説明付図がのっているが、それによると、











































(一)蝦夷地の地理の具体例
(二)地図上から見た蝦夷地と諸国、諸外国との関係、蝦夷地の原住者
(三)原住者の衣服、装飾
(四)原住者の武器
(五)松前への交易物資
(六)原住者の信仰
(七)原住者の夫婦生活
(八)原住者の夫婦の定め
(九)蝦夷地の犯罪
(十)原住者の数のかぞえ方
(一一)猟虎皮の生産
(一二)蝦夷人の船
(一三)蝦夷人の礼儀


等これによっても、アンジェリス神父や外人神父らは、蝦夷地の大きさ、さらに諸国、外国との位 置、交通関係、蝦夷地に住む原住者の衣・食・住、風俗習慣、産業、信仰等に大きな関心を持たれていたことが分かる。この報告書は一年後ロ-マ法王庁内のイエズス会本部に届き、関係者に注目され、五年後の一六二六年(寛永三)イタリアのミラノで活字印刷されて、ヨ-ロッパ各国に配付された。当時の本州では津軽の北方に、蝦夷地という島があって、僅かな和人と先住者の住む島という理解よりなかったが、このアンジェリス神父の『蝦夷国報告書』によって、ヨ-ロッパ人はすでにその詳細を承知していた。











【両神父の渡航と殉教】 蝦夷キリシタン史上大きな足跡を残したジェロニモ・D・アンジェリス神父は元和四年(一六一八)の初渡航以来、元和七年の渡航では『蝦夷国報告書』を作製し、元和八年にも渡航しているようであるが、これを証する明確な史料はない。さらにアンジェリス神父の良き補佐役であったディオゴ・カルワ-リュ神父は水沢(岩手県)近くの福原に居住する伊達家々臣のキリシタン後藤寿庵の庇護を受けながら東北地方を中心に活躍し、元和六年には蝦夷地に渡り、松前および金山で最初のミサを挙げ、さらに金山に入り多くのキリシタン達に福音(ふくいん)を授け、その後元和九年(一六二三)にも蝦夷地に渡っているようであるが、その確証はない。

 元和八年(一六二二)蝦夷地から東北地方に帰ったアンジェリス神父は、秘かに江戸に潜入し、旗本原主水らと連携をとって布教活動に当った。翌元和九年二代将軍秀忠が職を退き、その子家光が三代将軍となったが、江戸内におけるキリシタンの迫害を強めた。このとき旗本原主水の召使いが主人を裏切って江戸地内のキリシタンとその隠れ家等を密告し、アンジェリス神父やフランシスコ会の神父フライ・ガルベス、さらにアンジェリスの助手として活躍していたシモン・遠甫等と日本人キリシタン宗徒一〇〇余人が逮捕されて小伝馬町の牢に収容された。ここでは、これらキリシタンの棄教を迫ったが応じなかったので、元和九年(一六二三)十月この逮捕者のうち五十名を火刑に処することを宣告した。

 十二月四日処刑者の一行は小伝馬町の牢から日本橋、京橋、銀座、新橋、浜松町、三田を経て品川手前の札之辻に到着。ここに設けられた柱に縛り付けられ、その廻りに薪束を積上げ、刑吏が次々に松明8たいまつ)に灯された火を投げ込み処刑され、日本キリシタン史上、とくに東北、蝦夷地のキリシタン史上に貢献したアンジェリス神父は五十五歳で没した。

 リ-ダッショ・カルワ-リュ神父は元和九年二回目の蝦夷地渡航を終えて、後藤寿庵の住む福原館に帰った。この年江戸では十二月四日東北地方とかかわりの深いアンジェリス神父らが逮捕処刑されたが、十二月七日将軍家光は仙台藩領主伊達政宗を城に招き、伊達家の領内にはまだ多くのキリシタンがいるのでその処断を迫り、政宗もそれを了承し、その旨を仙台に書き送った。また、政宗は寿庵にも棄教するよう書簡をもって迫った。











 寿庵およびカルワ-リュ神父は、仙台藩の討手の来ることを知り、福原館に多くの宗徒を集め、キリスト御降誕節(クリスマス)の聖祭を行い、寿庵は南部領内に逃散し、カルワ-リュは福原館を発し、胆沢川を遡り、二十五キロメ-トル程離れた横手(秋田県)に入る山道から左側の沢中颪江(おろせ)の千軒原の鉱山に逃れた。この銀山には多くのキリシタンが居り、カルワ-リュ神父の連絡場所の一つであった。

 寿庵およびカルワ-リュの逃走の元和九年十二月十八日か十九日の翌日、仙台藩の捕手が福原館を急襲したが、二人はすでに逃れた後で、捕手は福原館に火をかけ、その逃亡先を探索したが、前日の雪に足跡が残されており、これをたどって颪江にいたり、この鉱山でカルワ-リュ等を捕えた。

 十二月二十一日捕われた人達は水沢を経て仙台の獄舎に投ぜられた。同月二十九日(洋暦一六二四~寛永元年二月十七日ころ)仙台城前の広瀬川川原に引出され、この川原を掘って水を張った穴に入れられ、水責で棄教を迫ったが、棄教者はなく、残りの宗徒が殉教した。生き残った長崎五郎衞 門(カルワ-リュの日本名)ら七人は、二月二十二日水責にかけられ殉教した。翌日遺骸は穴から引き出され、細かく切り刻まれ広瀬川に流された。このようにして蝦夷地のキリシタン史に大きく貢献したカルワ-リュ神父は四十六歳で殉教し、両神父の死去によって、東北・蝦夷地のキリシタンは、その中心となる支えを失い、この後は次第に教勢を失ったといわれる。

 しかし、最近の研究では、『南部キリシタン文書』のなかに、











南部領内きりしたん宗旨改人数之覚

……略……

一、新 七






大迫村町人、津軽のもの

松前にて伊勢嘉衞門と申

者の弟子由

一、女 房

……略……

 寛永拾弐年極月十五日
 


とあって、津軽の人新七と、その女房三十七歳は、松前で伊勢嘉衞 (右)門という人から洗礼を授けられたキリシタンであるが、その二人がこの時点で南部領内の稗貫(ひえぬ き)郡大迫(おおはざま)村に住んでいてキリシタンとして逮捕されたという記録がある。両神父の殉教後十二年を経た時代になっても、松前には伊勢嘉右衛門というキリスト教の洗礼を授けることのできる人が存在したことは、東北地方のキリシタン宗徒迫害が厳しくなった段階で、その迫害の手が届かない蝦夷地に秘密の教会があり、東北地方の人達が密8ひそ)かに入国して洗礼を受けていたのではないかと考えられ、その教士の居た処は、恐らく千軒金山ではないかと思われる。



【松前藩のキリシタン処刑】 寛永十四年(一六三七)に九州天草地方に発生した百姓一揆は、同地方のキリシタン宗徒を捲き込んで宗教戦争の様相を呈した。この一揆鎮定のため幕府は九州地方諸侯の兵力に出兵を求め、さらには老中松平信綱が総指揮をとり、原城を主力に立籠る一揆軍を攻撃し、二年に亘る戦闘の末、この乱をようやく平定した。この一揆は天草地方のキリシタン宗徒が主体となって闘い、宗教を根底とした団結力の強さが誇示され、一面 では幕府の威信を深く傷付けた。

 寛永十五年乱平定と同時に幕府は、この乱を教訓としてキリスト教奉信者を国内から駆遂することを目的に、切支丹宗の厳禁と、この国内流入を阻止するため鎖国を布告した。幕府が定めた諸侯の参勤交替は、一年在国、一年は江戸勤仕で二年に一勤であった。寛永十五年領主公広は嗣子氏広と共に参勤し、氏広は八月に帰国したが、公広は伊豆で温泉治療のため、帰国を一年延期し、同十六年五月二十日帰国した。帰国に際し、第七世藩主公広は幕府からキリシタン宗禁制と領内の宗門取締について厳重に注意されて帰国したことが考えられ、ついに同十六年八月は金山の金掘達を主体としたキリシタン宗徒の大量 処刑という事態に発展した。『福山秘府・年歴部巻之四』(市立函館図書館蔵)の寛永十六年の頃には、







又按(あんずるに)是歳有幾利支丹宗門制禁、蓋(がい)島原賊徒起寛永十四年至同十五年而平治故、是歳秋八月於本藩東部大沢亦刎首(ふんしゅ)其宗徒男女都(すべて)五十人也。検司蠣崎主殿友広下国宮内慶季(よしすえ)酒井九十郎長野次郎兵衞 池木利右衞門也。後日又刎首殘党六人於西部日市邑(ひいちむら)。後又於金山刎首餘党五十人悪宗徒都(すべて)一百六人也。蠣崎友広者今之佐士広重之第二祖也、下国慶季者主典由季之子也。是自今之下国勘解由季致(すえとき)已上五世之祖也。酒井氏見上其名未詳、長野氏又見上即半左衞 門重定之子乎、池木未詳。日市邑一作比石(ひいし)今之西部石崎邑(むら)也。


とある。これによれば、同年八月藩は家老蠣崎主殿、下国宮内等を検司(死)役人としてキリシタン宗徒の弾劾をはじめ、先ず、大沢金山の宗徒五十人の男女を刎(ふん)首処刑したというが、刎首とは即ち首を剥(は)ぐことで斬首したものである。さらに大沢金山から逃れたと思われる六人を西部石崎(上ノ国町字石崎)で捕え処刑をした。その後藩の処刑役人達は蝦夷キリシタンの本拠ともいうべき千軒の金山を襲い、ここでキリシタン宗徒を探し出し、ここでも五十人の宗徒を刎首処刑し、この年の弾劾で、一〇六人もの大量 のキリシタン宗徒を処刑したものである。

 この処刑を考察すると、元和三年(一六一七)開削された大沢金山で働く金掘のうちのキリシタン宗徒の男女五十人を刎首処刑しているが、この処刑地は大沢としているので、宗徒弾劾を効果 的に領民に見せ付けるために、大沢村か、村に近い処で処刑したのではないかと考えられる。また、その餘党六人も西部石崎(上ノ国村)で逮捕して処刑したといわれるが、この人達も石崎川流域砂金採取に当っていた金掘であったのではないかと思われる。

 この二ヵ所の処刑を終えた松前藩は、キリシタン達の最後の砦ともいうべき金山を急襲した。この金山というのはD・アンジェリス、カルワ-リュ神父の報告書にも明確なように、大千軒岳直下の知内川上流の金山番所付近に展開する千軒金山のことである。ここでは五十人の男女のキリシタン宗徒を捕え、刎首処刑をした。この処刑地については前記の報告書にあるとおり、金山番所のあるこの地域の中心集落のあった地域が、その場所であると考えられる。これらを推考すると千軒金山を急襲した松前藩兵は、ここの金掘り中のキリシタン宗徒を捕え、このなかの男女五十人をその中心地に集め、数個の大きな穴を掘り、その縁に莚(むしろ)を敷き、そこで打首で処刑し、遺骸はその穴に埋め塚状にしたと思われるが、現在までにその跡地と目され付近の調査が行われてきたが、その跡地を特定することはできない。

 このキリシタン宗徒一〇六人の処刑を考察すると、処刑者は大沢および金山で五十人ずつという数が、その地域での総てのキリシタン宗徒の数ではなく、現地で五十人ずつを選んで処刑した可能性があり、後にいたってからキリシタン宗徒であることを発見し、逮捕江戸送りをされている者もあることからも、決して総てのキリシタンが処刑されたものではない。

 また、一〇六人の処刑者が総て金山の金掘であることも注目されることである。これは幕府の厳重な注意を受けた松前氏が、他国者の金掘を処刑して、キリシタン宗弾劾の実績を作り幕府に報告し、領内に多く住んでいる領民のキリシタンを庇(かば)ったのではないかとも考えられる。その例としては、金山の検司(死)役人として処刑に立会した池木利右衞 門という藩士が、五十年後の記録には古切支丹(キリシタン本人)であったことが明らかになっている。結局は藩が自国の民百姓を庇(かば)うため、他国人の金山の金掘キリシタンを犠牲にして迫害の実績を作ったものと考えられる。

 この金山キリシタンの処刑後、金掘の多くが逃散し、さらに翌寛永十七年(一六四〇)六月内浦岳(現在の駒ケ岳)が大爆発をし、それに伴う津浪もあって多くの死傷者があり、その影響からか、金山の産金量 が減り、千軒金山は廃絶したという伝承があるが、しかし、のちに述べる児玉喜左衞 門という金山番所役人が、五年後幕府の差紙(命令)によって逮捕江戸送りとなっている事実から見ても、金山番所が存続し、金掘も多くいたことを物語っている。



【児玉左左衞門の逮捕と江戸送り】 寛永十六年(一六三九)の松前藩領内のキリシタン宗徒の大処刑によって、蝦夷地内のキリシタン宗徒は根絶(ねだやし)となったと思われていたが、その後五年を経た正保元年(一六四四)にいたって、千軒金山の役人児玉 喜左衞門が幕府の差紙(命令)によって逮捕され、江戸のキリシタン牢に護送されるという事件が起った。

 『福山秘府・年歴之部』の正保元年の頃に







是歳金鑿師児玉喜左衞門因切支丹而仙台国之菊地文平有訴故搦捕之即於江府演送井上筑後守


とある。これは、この年金山の金掘指導者の児玉喜左衞門がキリシタン宗徒であることが、仙台国人の菊地文平の訴人で明らかになり、これを搦(から)め捕えて江戸送りするよう命令を受け、江戸小石川にある切支丹奉行井上筑後守の官邸に送ったというのである。このことは『福山秘府・年歴之四』には、さらに詳しく、








正保甲申年

又按是歳夏五月廿二日飛札到仙台人菊地豊平訴悪宗徒児玉喜左衞門児玉見是時賜御制書

又按是歳秋七月十二日於金山今井五左衞門工藤勘之丞山口金之丞搦捕児玉 喜左衞門而後蠣崎左馬介今井五左衞門携

児玉到送井上筑後守之第


とある。喜左衞門については、寛永十一年(一六三四)の同記録では「金山小吏」という役職になっており、この年の金山関係の役職では金山総司(奉行)として蠣崎左馬介、下国内記の名が見えるが、この二人の奉行は藩の重臣で、役職だけで現地に駐在はしておらず、現地はこの金山番所の責任者として喜左衞 門が取り仕切っていたものと考えられる。また、訴人した菊地豊平(ぶんぺい)(年歴之四)は、菊地文平(ぶんぺい)(年歴之部)となっているが、どちらも「ぶんぺい」と読み、前後の関係から「文平」が正しいと考えられる。

 喜左衞門が逮捕、江戸送りされた井上筑後守の第(てい)(邸)というのは、切支丹奉行の井上筑後守(一万五、〇〇〇石)の屋敷で、その邸内には切支丹牢があり、そこに収容されたのである。

 この児玉喜左衞門を訴人した仙台人の菊地文平は、後藤寿庵と共に東北地方を代表するキリシタン宗徒である。元和三年(一六一七)イエズス会は日本国内の代表的キリシタン宗信者に対し、この教えに忠誠を誓い、さらに、その地方を巡回する神父の行動に協力する証文を提出させているが、現在ロ-マ法王庁に残されている東北地方の代表者の証文が三枚あり、そのうち一枚は見分(みわけ)(現在の岩手県水沢市字福原)地区の代表者のものである。それによると、志津村、見分村、矢森村など磐井郡地方のキリシタン宗徒四五〇余名の代表者十六名の名が元和三年十月九日付で、記されており、











伊達政宗内

見分村

 










後藤寿庵常(花押)

今沢忠兵衞尉羅はる(花押)

菊地四郎兵衞尉志まん(花押)

遠藤内蔵助恵ウスタキア(花押)

菊地文平登明(花押)


となっていて、文平は登明(たかあき)という名を持つ武士であることが分かる。さらに磐井地方の元禄四年(一六九一)の切支丹類族帳によれば、








 磐井郡下黒池村霜後瀧住居之

 牢人

古切支丹

一菊地文平

比文平儀正保三年二月廿日五拾六歳ニ而江戸ニ被相登於江戸ニ如何様ニ被仰付候歟相不知申 


とあって、正保三年(一六四六)この菊地文平が逮捕されて、喜左衞 門と同じく江戸送りとなっている。H・チ-スリクの論文「元和三年における奥州のキリシタン」(キリシタン研究第六輯)では、どちらかの年代が誤っているのではないか、としているが、これについては異論がない訳ではない。いずれにしても児玉 喜左衞門が蝦夷地を代表するキリシタン宗徒で、これが菊地文平の訴人によって明らかになり、幕府からは児玉 を捕えて江戸送りするよう命令があり、江戸小石川の切支丹牢で取調べを受けた児玉 の白状によって、二年後、今度は菊地文平が逮捕されて江戸送りとなったが、二人がその後どのような結末を遂げたか、知る由もない。

 この切支丹奉行井上筑後守の切支丹牢は、一度入れられれば死ぬ迄出られないという例えばなしの様に、多くの牢屋が並び、取調べも峻厳で、調べ室に穴が掘ってあり、取調べ事項について白状しなければ、この穴に逆さ釣し、何日もその侭にし、遂に死亡する者も多く、信教を棄てたものも古キリシタンとしてそのまま牢内につないで置き、一生をこの牢内で過ごすということであった。切支丹牢は隠れキリシタンの全くいなくなった寛政四年(一七九二)廃止となり、当時の一切の書類は江戸城内の和田倉門に格納していたが、安政二年(一八五五)の安政の大地震による火災によって総てが灰燼に帰しているため、この児玉 と菊地の二人のその後の消息は全く分からない。

 しかし、この事件は寛永十六年(一六三九)の松前藩領内のキリシタン宗徒の大迫害から五年を経て起きた事件であり、この時期には松前藩領内のキリシタンは根絶(ねだやし)されたと考えられていたときの事件であって、この寛永十六年のキリシタン処刑は、その一部分に過ぎなかったことを物語っていて、その後の松前氏の諸記録にも、そのことが明らかになって行く。



【松前主水広時日記に見るキリシタン】 松前主水(もんど)広時は、門昌庵事件の柏巌峯樹大和尚(法幢寺六世住職)の処遇について、同じ家老である弟、幸広と城中で延宝六年(一六七八)八月晦日斬り死した、第七世藩主公広の四男広ただの長男で、松前氏の家老となり、礼髭村の知行主であった。この主水広時の元禄五年(一六九二)一年間の日記が、旧松前藩主の末裔松前之広氏のところに保存されている。これには多くのキリシタン宗に関する記述があり、摘記すれば、次のようなものである。








『松前主水広時日記』

正月廿六日

古切支丹類族作蔵曽孫およ娘旧臘廿七日出生、つちと申候由、廿三日の便の節申来候に付、御断の御証文認申候。

廿七日

古切支丹類族作蔵曽孫出生、御断御証文、切支丹両奉行所へ惣左衞門(近藤)致持参候処、無相違納り申候。

三月十三日

江差村古切支丹類族佐蔵娘本人同然のせん、今月九日致病死候申来、江差村桧山肝煎差添死骸見届、塩詰に致正行寺(松前)え埋。

九月七日

古切支丹半三郎弟又左衞門病死断有之。

九月廿七日

知内かな穿御運上金四匁差上げ致披露候。

十月九日

江差村にて古切支丹、加平治曽孫本人同然のつま孫ごよ娘当月二日に出生、さると申候由申来致披露候。

十月廿日

東郷宗改、嘉藤忠左衞門罷帰。

十一月七日

西在郷宗門改。今井孫七郎、高橋忠右衞門罷帰り。古切支丹類族加平治孫本人同前のつま孫こよ忰三太、今月四日病死届。

十一月十日

江差村古切支丹類族作蔵孫本人同前のたつ忰、萬蔵今月七日病死。作蔵曽孫たつ孫とり娘、うめ同日病死届有之。

十二月十七日

湯殿沢古切支丹、池木利右衞門曽孫本人同前のかん孫はな娘とり、四歳の者病死届有之。

十二月廿七日

古切支丹類族加平次聟(むこ)、本人同然のいそ夫蔵町九蔵、当申四十八歳にて昨夜病死届。


これを見ると、松前藩の執政職(家老)の一年間の日記に、十件ものキリシタン宗類族(その末裔)の記録があり、キリシタン宗禁教後、仏教諸宗派に転宗した元宗徒は、藩庁の切支丹類族帳に登載され、その本人は古切支丹、その子、孫は本人同然、曽孫は類族として取扱われ、常に藩、村役、五人組合の監視を受けていて、出生、死亡の場合は、必ず村役から藩に届出、藩はこれを江戸の切支丹奉行に届け出て、その処置をどうするかを伺っていた。

 また、三月十三日の例のように、江差の古切支丹佐蔵の娘せんが死亡した際は、江差桧山肝煎(村三役)が死骸を見届け、樽に入れ、塩詰にして差添って松前に搬び、藩の検死を受けたのち、馬形下町(字豊岡)の浄土宗正行寺墓地に葬(ほうむ)られるという厳重な方法がとられていた。

 この日記のなかで最も重要な記事は十二月十七日の項で、湯殿沢古切支丹池木利右衞 門という名前の出てくることである。この池木利右衞門については、寛永十六年(一六三九)のキリシタン処刑の『福山秘府・年歴之四』の記事のなかでは、この池木利右衞 門がこの処刑の際、藩から検死の役人として派遣されていることが記録されている。しかし、それから五十三年を経た、この『松前主水(もんど)広時』の日記では、古切支丹池木利右衞 門の曽孫(ひまご)で本人同然のかんという者の孫はなという者の娘とりという四歳の子供が病死したことが報告されている。

 キリシタン宗禁制後、幕府は棄教したキリシタンを古キリシタン本人とし、その類族は各藩の類族帳に登載され、その上江戸の切支丹奉行に報告されて、その管理下に置かれ、その類族の出生、死亡について総て届け出が義務付けをされていて、本人男女をはじめ、その子、孫、曽孫、玄孫、耳孫にいたるまでが類族として厳重な監視の下に置かれており、この池木利右衞 門の末裔も、松前藩のキリシタン宗徒の処刑後、自分もキリシタンの一人であるが棄教したことを届出、藩の管理下に置かれる古切支丹として制約されてきたものである。



【松前藩の宗門対策と取締り】 正保元年(一六四四)の児玉喜左衞門の逮捕、江戸送りによって蝦夷地におけるキリシタンの殆どは、逮捕、処刑、棄教によって根絶となったと考えられているが、万治元年(一六五八)の『切支丹出申候国所之覚』によれば、「奥州之内松前四五人」とあって、この年代には棄教した元キリシタン宗徒のいたことを明示している。しかし、この元宗徒の数は四、五人なのか四十五人なのかは、なお論義の多いところである。

 慶安二年(一六四九)には「是歳始呈宗門名籍」(『福山秘府・年歴之部四』)とあって、この年はじめて元切支丹で、現在棄教している古切支丹の名簿を松前氏が作製し、徳川幕府に上呈しているが、その名簿は現在残されていない。しかし、この年代ころから、隠れキリシタンの取締りや、元キリシタンであって棄教した古切支丹、あるいは、その類族の取締りが制度化され、厳密に行われるようになったと考えられる。

 市立函館図書館に残る松前藩の制札(告示)の写しによれば、

















 



きりしたん宗門は累年御制禁たり自然不審なるもの有之は申出へし御ほうびとして


七郎左衞門ばてれんの訴人

いるまんの訴人

立かへり者の訴人

同宿并宗門の訴人

銀五百枚

銀三百枚

同 断

銀百枚

右之通可被下之段同宿宗門之内たりといふとも訴人に出る品により銀五百枚

可被下之隠し置他所よりあらはるゝにおひては其所の名主并五人組迄一類共

に可被處嚴科者也

仍下知如件

 天和弐年五月日
奉 行


この制札にあるばてれんとは伴天連とも書き、キリシタン宗の神父のことをいい、いるまんとはイルマン、助修士あるいは日本人教士、立かへり者とは、教えを棄てた筈の宗徒(棄教者)が秘かに信仰を続けている者、あるいは一度逃散した宗徒が、秘かに自宅に隠れ住んでいる者等のことをいい、このような人達を発見した場合は速(すみ)やかに届け出ること、この訴出をした人には褒美(ほうび)として記載した金額を与えるというものである。この賞金は厖大(ぼうだい)な金額でこれを与えても隠れキリシタンを探し出そうとする幕府や、領主の態度は、キリシタン宗門を根絶しようとする意欲の強い顕われである。

 この制札のなかに名主の下に五人組の字句が表われている。この五人組の制度は幕府が寛永十六年(一六三九)に行った鎖国と切支丹禁制の一環として、諸領主に命じ、行政最末端の相互監視の機関として五人組合(組)の設置を義務付けた。そして慶安二年(一六四九)には藩からキリシタン宗門名簿を幕府に上呈して、隠れキリシタンの発見と取締りの強化に入っている。さらに、天和二年(一六八二)には幕府が制定した制札案に従って、蝦夷地内にキリシタン禁制と探索の高札を掲げ、さらに貞享四年(一六八七)には幕府からキリシタン及びその類族改めの法が制定され、元禄四年(一六九一)には、各藩の宗門改の時、名主、五人組揃って寺判を示し質問を受けることの内容を中心とした宗門改についての覚えが通 達されている。

 このように、キリシタン宗取締対策の末端相互監視機関として、各村内の五戸から十戸を一単位 とする五人組合(組)が設置されたが、福島町内では、各村の鎮守社の棟札等を調査すると、各村は十戸を一単位 とする組合が結成されていたと考えられる。また、このキリシタン宗門取締りのための、宗門改めとそれに伴う諸種の届出行為、行事等が定形化されていて、各村の年中行事にとり入れられていた。

 毎年一月の松引きと共に各村名主の管理下に置かれている村会所に、宗門改下組帳が備え付けられ、各戸主は自分の旦那寺に行き、その家族一同の氏名と年令、さらにはその一家が切支丹宗門でないことの証明を受け、それを持参して、この下組帳に記入してもらい、それを村の帳役が書写 して「宗門御改書上」(帳)が二月には出来、これを村名主が管理する。その記述内容は、宮歌村天保十三年(一八四二)の例を見ると次のようなものである。






















一浄土宗 法界寺
源太郎

 當寅六十八才
一同宗 同寺
妻ふ美

 五十四才
一同宗 同寺
忰又藏

 二十二才
一同宗 同寺
二男源藏

 二十才
一同宗 同寺
三男市藏

 十五才

以上五人内男四人

女一人


というように記入されている。これらの人員に異動を生じた場合(死亡、転出、転入)にはその都度旦那寺の離檀状、あるいは離檀請状を貰い受け、これをもって御書上帳の訂正をしてもらう。

 松前藩の切支丹宗門御改奉行による宗門改は毎年、城下、東在、西在を改める奉行が発令され、九月に松前城下、十月には東西両在の宗門改が実施される。九月一日には各村の五人組員がまた各旦那寺に赴いて、寺請状を貰い受け所持しておく、この寺請状は和半紙半枚に木版で印刷されたものを用いたらしく、熊石町字相沼無量 寺過去帳の表紙下張りに用いていたものが現在残されている。それによると、
















寺請状之事



右先祖代々浄土宗當寺の檀家に有之御公儀御法度之切支丹には無之若不有之

者拙者罷出可申訳候為後日寺印仍而如件

  明和元年申九月朔日
浄土宗 無量寺
御奉行所


という雛形で、これに檀家々族の住所、氏名、続柄、年令を記載し、寺印を押して交付したものである。

 十月の宗門改には藩から派遣された御改奉行が一段の高座に扣え、吟味役、下役、足軽が排列する中、村役は名主、年寄、百姓代(その村によっては小使)が扣え、先ず「宗門御改書上帳」によって、村内の一年間の人口の増減を調べた上、各五人組合頭に引き連れられた組合員が出頭し、旦那寺から頂載した「寺請状」を提示し、切支丹宗徒でないことを証言して、改を終る。終った段階で名主は御改書上帳の末尾に左のように記入し、(出生、病死、縁談等人員の出入を明確に記入した上)














右之通増減御改相違無御座候。以上。

天保十三寅十月
 
 
同村百姓代

 又右衞門

同村同

 藤兵衞

同村年寄

 宮松

宮之歌村名主

 喜兵衞

御掛

 御役人中 様
 




という人口増減とその理由を明記して、奉行の確認を経て藩の宗門改は終るが、この行事自体が庶民の宗教活動を監視する手段であったから、毎年のこの行事に村役差添い、五人組合の全員が奉行の前でキリシタン宗徒でないことを誓約するということは、かなりの精神的苦痛であった。

 松前領内の古切支丹といわれる、キリシタン本人で棄教した者は、キリシタン宗徒処刑後約二十年を経た万治元年(一六五八)で、領内で四十五人あったといわれるが、同じく六十三年を経た元禄五年(一六九二)の『松前主水広時日記』では、すでに古切支丹は死滅し、孫、曽孫、玄孫の時代に入っており、これらのキリシタン類族は、類族帳に登載されていて、厳しい藩や五人組合の監視を受けていて、隠れキリシタンとして秘かに信教はできなかったので、この年代ころには隠れキリシタンは蝦夷地では存在しなかったと思われ、ただ、古切支丹の子孫ということだけで、類族帳に登載され、出生、死亡、婚姻等に厳しい監視が行われていたものである。