第二節 館崎遺跡・館古遺跡 | |||||||||||||
福島町での遺跡発掘調査 福島町での埋蔵文化財の発掘調査は、昭和四十六年の穏内館の緊急発掘調査が最初であるが、この調査は青函海底トンネル工事に伴う国道切替工事中に地下遺構が発見され、緊急発掘が行われたものである。この穏内館の発掘については第二章、第四節で詳細に記述しているが、この緊急発掘調査の結果 を踏まえ、以後の福島町の公共土木工事を発註する際は必ず、事前調査が実施されるようになった。 吉岡地区字館崎台地上は広範な先住民の遺跡が存在しているが、すでにトンネル基地の諸建物が建っており、穏内館の緊急発掘調査の結果 から厳密な事前調査が実施され、その結果、包蔵地の遺跡発掘調査を行った。その第一回は昭和四十八年十月二日から十一月五日までの二十九日間実施され、その後第二回は昭和五十九年四月十日から六月二十三日まで、第三回目は同年六月二十三日から八月十日まで、第四回は昭和六十年五月九日から七月六日まで、第五回は昭和六十一年四月十五日より五月二日までと五回の発掘調査が実施され、その面 積は六、〇〇〇平方メ-トルにも及んでいる。 この一連の発掘調査は札幌市居住の日本考古学協会員の佐藤忠雄、同佐藤芳子が調査担当者として実施された。第一回の発掘地点は字館崎台地上に共同企業体の事務所を建設する用地の緊急発掘調査で、一、一六五平方メ-トルの包蔵地の発掘調査を行った。その結果 、表土下約一メ-トルの地層付近に遺物が堆積していたが、発掘の結果の土器編年では、
これら六群のなかでは第二群から三群にかけての土器の出土が多く、総体の約七〇パーセントを占め、復元された土器は二十六個体に及んでいる。また、石器では石鏃(せきぞく)、石槍(せきそう)、石匙(せきひ)、打製石斧(せきふ)、磨製石斧、冠石(かんせき)、石錘(せきずい)、石皿、石棒、砥石(といし)等が発見されている。これらの出土遺物の状況によって、この館崎遺跡は今から六、〇〇〇年前位 から三、〇〇〇年位前までの間に、この地域には多くの先住民が生活していたことが分かった。 第二回、第三回は昭和五十九年に実施されたが、この場所は海底トンネル基地内の吉岡通 信機器室設置の緊急発掘で、一、三一〇平方メ-トルの包蔵地の発掘調査を行った。この地域も第一回発掘地と同様の円筒下層、円筒上層、縄文文化後期の出土物であったが、今回は四つの竪穴(たてあな)住居跡が発見されたが、その大きさは延長一〇メ-トルのものもあり、さらに大型の土壙(穴)が十八か所も発見された。この土壙は人体を埋葬したか、穀物を貯蔵した場所と考えられている。 第四回発掘調査は、排煙機器室建設のためであったが、現地はベルト・コンベア-の台座が設けられるなど包含層の撹乱された地域一、二〇〇平方メ-トルで、昭和六十年五月九日から七月六日まで行われたが、竪穴住居跡四カ所と土壙五基が発見されたほか、他は過去の発掘例と同じである。 第五回発掘調査は、穏内館遺跡と名付ける地域で、ここには北海道電力株式会社のトンネル基地内特別 高圧送電施設を設けるため、二二五平方メートルの地積の発掘調査であった。これは国道二二八号線の切替工事で滅失した穏内館残欠の部分であると思われ、恐らくはその館の副郭に当る部分と考えられた。発掘の結果 は前同様の縄文遺跡の上に、中世・近世の遺跡が複合した重層遺跡であることが分かった。さらにここでは平釘打の棺も発見され、多くの磁器、陶器も発見されているところから、ここは明かに穏内館の残欠部分であることが確認された。 これら一連の発掘調査によって見ると、福島町は縄文文化早期の遺跡はなく、円筒下層式といわれる五~六、〇〇〇年前、円筒上層式という三~四、〇〇〇年前の土器が多い。しかもこの円筒形式土器は大型の筒状の土器で、上層式にいたっては経口部に華麗な縄文と突起があり、正に縄文文化を代表する土器である。この一連の調査のなかでは町内各所の表土採取や試掘によって、三十二個所の遺跡が発見されているが、中近世の歴史時代につながる遺跡として擦文時代のものとしては、浦和小学校、豊浜、吉岡、吉野、日向などの遺跡があり、須恵器の遺跡としては穏内館、礼髭遺跡がある。これらのなかで、特に擦文遺跡の吉野遺跡では、表土採取の過程でも多くの鉄渣が発見されていて、この時代すでに吉野地区で製鉄が行われていた可能性を秘めている。 |