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第一節 義経伝説の持つ意義(福島町の開基)

 蝦夷地にいつから和人(本州人)が定着したかについては、明確にその時期を示す記録や証例はない。しかし、平安時代の末期から鎌倉時代の初期にかけて和人が当地方への流入定着をしたことは想像に難(かた)くない。それを証するものに義経、弁慶、さらには奥州藤原氏残党の当地への流入伝説があり、このような伝説が根強く残っているのは、その時期が和人の渡航始期であり、また渡航者のなかにはこれらの人達と関係を持った者もあるのではないかと考えられる。

 奥州平泉の高館(たかだち)にあった源九郎判官(ほうがん)義経は、文治五年(一一八九)閏(うるう)四月三十日奥州藤原氏四代泰衡(やすひら)に攻められて、この高館で死去し、その首は鎌倉に送られ、同地の腰越で梶原景時らの検死を受け、その死が確認されている。しかし、義経、弁慶の足跡は奥州北部から蝦夷地にまで及んでいる。特に本町の対岸、青森県東津軽郡三厩村は、その証跡が多く、村名の由来となった義経とその郎党が馬を繋(つな)いだ三つの厩穴が残され、義経寺もあり、この地から蝦夷地に渡航したといわれている。これに対し、当町には矢越岬があり、その名称の起こりは、蝦夷地に向かって船出したが、陸地に近づくにつれて突出する岬から黒雲が吹き出し、急に海が荒れ出したので、義経が強弓をつがえて矢を放すと、海はたちまち平穏となり、無事蝦夷地に着き、以来この岬を矢越岬と呼ぶようになったという。

 義経が高館を逃れて蝦夷地へ渡り、さらに中国大陸へ渡ったという説は、近世においても論議されていたが、松前氏家中でもそれを信じていたようで、『福山旧記』(七飯町村岡チヤ氏旧蔵)によれば、








文治五己酉年五月十二日

奥州落同日蝦夷地両山関江渡海ス

松前庄司義行道案内致す

大将源九郎判官義経公始として泉三郎忠衡(ひら)、 武蔵坊弁慶、 常陸坊(ひたちぼう)海尊、 信夫(しのぶ)太郎元久、 同姓小二郎信近、 亀井六郎重清、 鷲尾三郎経春、 備前平四郎行貞、 増尾十郎權頭兼房、 熊井太郎忠光、 蒲原太郎広之、 封 戸治郎春経、 赤井治郎景次、 黒井三郎定綱、 日角小三郎義衡、 法印浄玄、 御厩喜三太、 頼念坊常玄等始 として宗従之者共主従百人余わずかに馬六匹引て渡る 蝦夷地大将張達大王討ツ韃靼(だったん)国江渡る




とあるが、これらの人達の渡航は夢物語に等しいものではあり、近世の人士もこのことに関心を示していたことは確かではあるが、俄かには信じがたい。道内に多く残る義経、弁慶の伝説は、同年さらに行われた源頼朝の奥州藤原氏征伐と、それに敗北した藤原氏残党の蝦夷地逃避によるものと考えられる。

 同じ文治五年七月鎌倉将軍右大将源頼朝は奥州藤原泰衡討伐のため発進、奥州各地の戦闘に敗れた泰衡は、平泉、衣川を焼いて北上し、北方で兵力を整えて再起すべく、盛岡から出羽の大館に逃れたが、同年九月大館近くの贄(にえ)の柵(さく)で、郎党河田次郎の反乱にあって、ここで落命した。そこで、この藤原氏の残党は主人泰衡の雄志を嗣ぐべく、北方に逃れて兵力を貯え再挙を図るべく、津軽を経て蝦夷地に逃げ渡った。

 『新羅之記録・上巻』によると、








抑(そもそ)も往古は、 此国、 上二十日程、 下二十日程、 松前以東は陬(む)川、 西 は與依地(よいち)迄人間住する事。 右大将頼朝卿進発して奥州の泰衡を追討し御(たま)ひし節、 糠部(ぬかのぶ)、津軽より人多く此国に逃げ渡って居住す。 彼等は薙刀(なぎなた)を舟舫(ふなべり)に結び付け、 櫓櫂(ろかい)と偽して漕ぎ渡る。 故に其因縁(いんねん)によって当国こぶねの車櫂(かい)は薙刀を象(かたど)るといふ。 奥狄(おくてき)の舟近世迄櫂を薙刀の象に造るなり。今奥狄の地に彼の末孫狄と偽りて之に在りと云云。  略…



『新北海道史・史料編』 読み下し文



となって、この争乱は奥州北部にも及んだことから、その残党が津軽や糠部(ぬ かのぶ)(下北半島)から、この地方に渡り定住するようになったと言われている。







新羅之記録




 大正七年渡島教育会が編纂した『凾館支庁管内町村誌・其二』(道立文書館所蔵)の吉岡村の項では、その沿革として、







本村開発ノ起原ハ書ノ徴スベキモノナク其ノ詳ヲ知ルコト能ハズト雖(いえど)モ吉岡宮歌禮髭ノ各字中吉岡ハ福山 舊事記(くじき)ニ文治五年七月十五日鎌倉将軍右大将頼朝公藤原泰衡追討ノ節津軽糠部ヨリ里人多ク当国ヘ逃渡リ 初メテ定住ストアルヨリ観ルニ津軽ヲ距ルコト僅カニ七里自然ノ港湾ヲ有スル當地ノ如キ最初ノ上陸地点 ナルベキカ




としている。また江差町の『桧山沿革史』によれば、これら藤原氏残党の定着した所は、吉岡、松前、江差の三個所であると記している。

 このように藤原氏残党の流入定着地として福島町が挙げられていることから、福島町の開基は文治五年(一一八九)と考えられているので、当町はすでに八〇五年も以前から和人が定着して、独自の生活文化が営まれてきたものである。