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第一節 各村の展開

 関が原の戦いの終った慶長五年(一六〇〇)を契機に時代は近世に入り、二百六十八年余にわたる徳川幕府による幕藩体制が展開されたが、創業当初の幕府は諸大名の統制管理に力点が置かれ、末端の村治と住民自治等にはあまり考慮が払われてはいなかった。

 徳川幕藩体制がようやく固まった寛永十四年(一六三七)九州天草に百姓一揆(いっき)が発生し、これに九州地方のキリシタン宗徒も加わり、さながら宗教戦争の様相を呈し、幕府は九州地方の大名を動員して、二年間を経て寛永十五年ようやくこれを鎮定した。この百姓一揆を教訓として寛永十六年、キリシタン宗門の禁制と末端の住民統制及び、互助監視の機関として五人組合制を発布した。この結果 、五人組(合)を束ねるための機関として村および村役制度も定形化されて行った。

 松前氏が徳川幕府から大名に準ずる待遇を与えられたのは慶長九年(一六〇四)であるが、当初は藩法も定まってはおらず、村治の方策も具体的なものはなかったと思われ、従来の慣例に従って各村が成立したと思われる。松前藩の創立当初和人地、蝦夷地の制が定められているが、この制定の年代は不明である。これは東は亀田付近から西は熊石村までの二二〇キロメ-トルの沿岸部付近をもって和人地とし、他の地域を蝦夷地とした。そして、和人地にはアイヌ人の住むことを禁じ、蝦夷地には和人の定着することを許さなかった。それは混住することによって生ずる摩擦を極力避けようとする藩の政策であった。しかし、当初は辺鄙(へんぴ)な村落内にアイヌ人も混住していた。その後夷境に接する東の亀田、西の相沼内に番所を設け、出入の者を検査し、和人地内のアイヌ人は次第に減少した。このような和人地内では、松前を中心として東を下在(しもざい)または下の国、西を上在(かみざい)または上ノ国と称しているが、これは中世の蝦夷地の領主である津軽安藤(東)氏の居城福島城を中心とし、東は下の国、西は上の国と称したことの遺風である。

『常磐井家福島沿革史』で折加内(おりかない)村が福島村と改村したのは寛永元年(一六二四)であるといわれるが、その記事として 「 金掘等金山祭ノ爲メ千軒岳ノ麓ナル隅(住)川へ祠ヲ建テ千軒山三社大明神ト尊敬シ奉レリ、元和三年金山発掘以来村内不漁不作ニノミ打続キ戸数僅カニ四十戸ニ及ベリ、火災数々起リ今ヤ当村中絶ニ至ラントセリ、時ニ月崎明神ノ神託アリ、ヲリカナイ村ヲ改メテ福島村トセヨトノ仰ナリ、仍リテ松前志摩守公広ヘ右之趣キ申上改村ノ件願出タル処、御聴済トナリ夫ヨリ多漁豊作繁栄ノ村トナリタリ、其御礼トシテ御城内ノ正月ノ御門松ヲ年々献上スルヲ例トセリ…(以下略)

とあって寛永元年改村して福島村となったといい、吉岡村についても『凾館支廳管内町村誌 其二 吉岡村』で、「本村元ハ穏内(おむない)ト称セリ、蝦夷語ニテ意ハ「尻の塞(ふさが)る川」ナリ土地濘葮叢生(ねいとうしょうせい)セシ所ナリシヲ以テ里人葮岡(よしおか)ト称シタリ、寛永ノ頃ヨリ吉岡ト吉ノ字ヲ用ヒタリト伝フ」とあって、福島村と期を同じくして改村している。このようなことから見ると、近世の松前藩体制のなかでこの寛永期(一六二四~四三)に、小集落から村としての格付けがされて行ったのではないかと考えられる。

 この時代の村(村落)の状況が把握できる史料としては、寛文九年(一六六九)の日高の大族長シャグシャイン蜂起の際、出兵した津軽藩兵によって記録された『津軽一統志巻十』のなかに東在の村々は次のように記されている。



























































































一 泊 川(松 前 町)小 舟 有家 三 軒
一 お よ べ(松 前 町)
川有鮭多く出候

松前左衞門持分

城下より十了餘

家 十 軒

兵庫様休所あり
一 大 澤( 松 前 町 )  家 二 十 軒

 ( 荒 谷 )

一 新  屋(松 前 町)

 家 二 軒
一 炭 焼 澤(松 前 町) 家 二 軒
一 しらかみ崎  
一 大 内 峠  
一 禮   髭(福 島 町)小船 澗有家 二 十 軒

 ( 吉岡 )

一 お ん 内(福 島 町)
小船 澗有家 五 十 軒 程
一 宮 の うた(福 島 町)小川有 澗あり家 二 十 軒
一 し ら ふ(福 島 町)小舟有 澗あり家 二 十 軒
一 福 嶋(福 島 町)
川有 松前より

是迄四里
家百二十軒程
一 矢 越 の 崎  
一 茶 屋 峠  
一 わ き も と(知 内 町)小舟 澗有 
一 し り う ち(知 内 町)
川あり

是迄三里

〔是より狄あり〕
家 三 十 軒
一 ち こ な い(木古内町)
是迄三里 川有

狄おとなオヤツフリ
家四、五軒
一 さ す か り(木古内町)
川有 是迄三里

是より狄あり

〔おとなニシケ〕
家四、五軒
一 か ま や  (木古内町) 家 三 軒
一 三 ツ 石(上 磯 町) 〔家 三 軒〕
一 と ら へ つ(上 磯 町)小舟有 能澗有 
一 と ら へ つ 崎  
一 も へ つ(上 磯 町)
川有

狄おとなアイニシ
家 十 軒
一 すつほつけ(上 磯 町)
是迄一里 小川有

天神の社有
 
一 一 本 木(上 磯 町)
川有

狄おとなヤクイン
 
一 へ き れ ち(上 磯 町)
是迄三里

狄おとな本あみ

是より山中とち崎へ

出る道あり
家 二 十 軒

    (川)

一 あ る う(上 磯 町)
川有 
一 亀   田(函 館 市)
川有 澗有 古城有一重堀あり

家 二百軒
一 箱   館(函 館 市)澗有 古城有から家あり


と伝えている。これで見ると松前から亀田に到るまでの間では、福島村が第一の大村で、吉岡村がそれに次ぐ大村であり、普通 の村は二十戸程度の家並みである。荒谷村(松前町字荒谷)、炭焼沢村(松前町字白神)などは僅かに家二軒程度であった。この寛文九年(一六六九)のころは道南地方の各村の創業期であって、各村には津軽・南部地方からの移住者が団体で入植し、村を構成して屋敷神を祀り、仏堂的な観音堂を創立して行ったと考えられ、寛文六年(一六六六)から七年にかけ蝦夷地に渡航、作仏行脚(あんぎゃ)した天台僧円空の作仏をもって御神体あるいは本尊として開創された寺社草堂は、『福山秘府 諸社年譜并境内堂社部』によれば、東在、西在合せ二十五社堂に及んでいることからも分かる。

 これら村の草分の人達の入植定着の過程を見ると、宮歌村の『宮歌村旧記』では、














一 寛 永 三 寅 年 (一六二六) 四 月 津 軽 領

鯵 ケ 沢 と 申 處 よ り 漁 船 ニ 而 渡 海 之 人 数



萬   助

三   吉

弥 四 郎

重 治 郎

太右衞門 

與 市 郎

以 上 六 人



同年四月十八日未申ノ風(南々西)ニ而吉岡村へ乘付其時同村ニ家数三拾軒餘も有之由、直様當村江参り沢々之内見巡り候處至而迫(せま)く、間内沢手広罷在候故、新規畑作仕付彼地ニ三、四年も渡世仕候得共、至而荒澗ニ而波高く午ノ九月(寛永七年か)頃當村江引越、間内沢へ小家掛いたし折々見廻り致し候、右川鮭相応ニ相見得六、七年余も我勝手に取揚候処、酉ノ年(寛永十年か)家数も弐拾軒ニ相立候故、小家掛いたし引網相建網子九人相立候、其年百弐拾束も引揚申候



小 頭 役

太 右 衞 門





というように宮歌に村を定めるまでに、吉岡、澗内沢と適地を求めて歩き、最終的に宮歌沢を安住の地と定めたという。この記録では澗内川では一二〇束の鮭を水揚げしたといい、一束は二〇本であるので、二、四〇〇尾もの鮭が水揚げされていた。このように、福島村、吉岡村をはじめ、各村が村落を形成して行くまでには多くの試行錯誤を重ねての結果 が、村として構成されて行った。