第三節 村治組織 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(一) 村役 第一節の各村の展開でも述べたように、各村の成立は、近世初頭の寛永年間(一六二四~四三)ころと考えられる。これは松前藩の成立が慶長九年(一六〇四)で、初期の藩政の始まった当初であって、各村が創立されても村治の具体的な法制の発布はなく、中世末以来の慣例的な村治方法がとられていたと考えられる。 常盤井家系譜は近世末期に笹井武麗(たけあきら)によって編纂されたものであるが、これによると、常盤井家(初祖、二祖は盤、明治改姓後磐を用いている)初祖常盤井武衡(たけひら)は中世末福島(折加内)に定着し、「領主季広公、禄を以て召せども、二君に仕へず、例え、国の爲とて、地頭体にて、村長を、相勤め」慶長八年(一六〇三)神去したといい、二祖武治(たけはる)は同じく「領主松前慶広公の命に依り、地頭の体にて村長(むらおさ)を相勤め」元和四年(一六一八)年神去したという。 しかし、この記録は疑問が多い。中世末には、守護、守護代、地頭等の職名は幕府が任命する公式職名で、しかも武家集団の頭染に与えられるもので、例えば地頭体等の表現は誇張が大きすぎるものである。また、中世には名主(みょうしゅ)という地方武士集団の長の呼び名があるが、これは、近世の村を代表する名主(なぬ し)とは全く別の性格をなすものである。また、常盤井家の系譜に出る村長(むらおさ)、つまり村を代表する者という意味をもって、そのような表現をしたと考えられるが、そのような正式職名も松前藩は用いていない。 『戸門治兵衞旧事記』では折加内村から福島村に改村された寛永元年(一六二四)以降戸門治兵衞 が初代の福島村名主となったといわれるが、このころが初期村政の始まりと見るのが妥当と考えられる。 松前の寺社、町方、在方支配の機関としては、寺社町奉行があってこれらの指揮監督をしていた。この奉行は慶長十八年(一六一三)創設され、小林左門良勝が奉行となったという記録があり、さらに寛永十四年(一六三七)町奉行酒井伊兵衞 広種の名も見えるので、この時期には民政安定のための町奉行所が機能していたとは思われるが、この時点で町奉行の業務指針の条規的なものは定まっていなかったと考えられる。松前藩の各奉行以下各役職の職掌が具体的に条規化されるのは『松前福山諸掟』によれば延宝六年(一六七八)、元禄四年(一六九一)、享保七~八年(一七二二~二三)と年を追って整備されて行くが、特に享保七年町奉行に与えられた条々は、町奉行および村々民生安定の基本的管掌事項を明示したものである。それによれば寺社町奉行の所掌は、
等々実に広範な社寺、民生、司法、経済、交通の各分野を担当しており、奉行、吟味役、目付、吟味下役等は必ず複数で勤務し、月番として上番のものは一か月奉行所に泊り込んで勤務し、下番後は兼務発令された他の役職に勤務するという過激な職であった。 この町奉行の所掌にかかわる各村の運営を司る村役については、福島村では寛永年間(一六二四~四三)には名主の名が見え、宮歌村は明暦元年(一六五五)、礼髭村は寛文五年(一六六五)の記録に同じく名主の名が見られるので、このころには村役が任命され、これらの人達によって村自治が運営されていた。村には村方三役がおり、名主、年寄、百姓代の三役は、名主は一人あるいは複数、年寄、百姓代は村によって異なるが複数あるいは三~五人の村もあった。また百姓代を肝(きもいり)と呼んだ村もある。このほか小使も役職として置いている村もある。さらに村内の末端を代表する機関として五人組合を代表する組合頭、さらにこの五人組の三~四組を代表する小頭があった。 これら村役の選任については、毎年一月か八月に行われる村中大寄合で名主が選任され、年寄、百姓代、小使等は名主の推せんで村中が承認され、これら選任された村役は、藩庁に届出て藩が認可するという方式をとっていた。名主が任命されると、自宅を役場として勤務し、書役は福島村は例えば美濃屋平吉なる者を任命し、宮歌村は城下より書役を雇い入れている。また、福島村は享和四年(一八〇四)村役場を上町に建立し、ここを勤番所と村役場にしているが、『戸門治兵衞 旧事記』では、
となっており、この願書は福島村々役より松前藩寺社町奉行所の下代(しただい)で在方掛の中嶋、櫻庭宛に提出されたもので、この上町の役屋場とは藩の高札を掲げたり、御巡見使が来た際の御仮家を建てたりしていた。その地を松前将監広長が藩より借り受け隠居所としていたが、三年前の享和元年に死去し、その屋敷地が草生いも激しいので村役場と勤番所を普譜したいので下付して貰いたいと願い出たものであるが、それに対し、藩は、
とあって、松前広長の隠居所清音館の建物、土地を息子鉄五郎が返還したので、藩が勤番所と役家を建立したというが、これは村の寄付によってこの隠居所を大改修して利用したものと思われる。そして前段にもあるように名主焼役の者の家が不宜(よろしからず)、勤めも出来兼ねるので村役場としても利用されたものと考えられる。 このようにして選任された名主等村役がどのような村行政を進めたかは、次のような項目に分けることが出来る。
等が挙げられるが、このほか火消組の設置や組員確保、海難救助、定飛脚、馬匹の確保等の問題もあった。 名主、年寄に任命される人は、各村の古百姓や資産家であったから、村方三役になる人は特定されていて、父子相伝の家が多く、このような役職の継續を藩が認め、苗字を許される家もあった。一般 庶民が紋付羽織袴を着れるのは身内の葬儀か、婚礼の時だけであったが、三役は公式行事の場合紋付の着用が許されており、それが権威の表徴でもあった。 |