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第二節 各村の創始

(四) 吉岡村

 吉岡村は古くは(中世の時代)穏内(おんない)と称していた。これはアイヌ語のオムナイ、つまり川尻の塞(ふさ)がる川という意味をもっている。往古、吉岡川の川尻は、海潮によって土砂が堆積し、付近が谷地(やち)の状態になっていたのでこの地名が生まれたものと思われる。

  この吉岡村の沿革は古く、遠く鎌倉時代に遡(さかのぼ)ることが出来る。『凾館支廳管内町村誌 其二』によれば、「文治五年(一一八九)七月十五日鎌倉將軍右大將頼朝公藤原泰衡追討ノ節津輕糠部ヨリ里人多ク當國ヘ逃渡リ初メテ定住ストアルヨリ觀ルニ津輕ヲ距ルコト僅カニ七里自然ノ港湾ヲ有スル當地ノ如キ最初ノ上陸地点ナルベキカ」とあり、『新羅之記録・上巻』では「抑(そもそ)も往古は、此国、上二十日程、下二十日程、松前以東は陬川(むかわ)、西は與依地(よいち)迄人間往する事、右大將頼朝卿進発して奥州の泰衡を追討し御(たま)ひし節、糠部津輕より人多く此国に逃げ渡って居住す。彼等は薙刀(なぎなた)を舟舫(ふなべり)に結び付け、櫓櫂(ろかい)と爲して漕ぎ渡る。故に其因縁によって当国鈑(こふね)の車櫂は薙刀を象ると云ふ。奥狄の舟近世迄櫂を薙刀の象に造るなり。今奥狄の地に彼の末孫狄と僞りて之に在りと云云。」(『新北海道史 史料編一』所収読み下し文)とあって、文治五年源頼朝の奥州藤原氏討伐の際、その残党や南部・津軽の人達が多く当地方に渡航して居住したといわれる。

 源頼朝による藤原泰衡討伐の戦いは、文治五年七月鎌倉から発向し、八月には衣川を占拠した。敗退した泰衡は、一時、鎌倉軍の手の届かない北方に逃れて軍の再編を図るべく、盛岡付近から秋田北部に入り、大館付近の贄(にえ)の柵まで到ったが、ここで郎党の河田次郎の反乱によって同年九月三日敗死した。そこで泰衡の残党の多くは主人の志した北へ北へと逃れ、海を渡って蝦夷地に定着するものもあり、また、その戦乱を嫌って津軽や南部の人達が、道南地方に定着したというが、これが蝦夷地への和人定着の始期である。これら渡航者がどこに定着したかについては、『吉岡村沿革』では吉岡村とし、江差町役場所蔵の『桧山沿革』では、吉岡、松前、江差に定着したといっており、対岸との地理的に見ても吉岡定着を妥当なものとしている。

 対岸青森県東津軽郡三厩村には義経、弁慶の伝説が多く残され、当町にも矢越岬と義経の伝説があるが、義経は文治五年閏(うるう)四月三十日衣川の高館(たかだち)で戦死しており、それが伝説として残されているということは、敗走した泰衡の残党や、その地方の住民達が、判官(ほうがん)びいきで義経を殺させたくなかったという心情が伝説となって残され、さらにこれらの伝説が蝦夷地に残されているのは、この時期に和人の定着を見た結果 によるものと解することが出来る。

 室町時代に入り、和人定住者が増加して村落形成が顕著になってくると、先住者の蝦夷から和人住民を守る手段として、その地方の土豪が館(たて)(あるいは館(たち))を築き、そこを根拠に交易あるいは生産活動を行うようになった。これによって館主はその経済活動を基盤として、武力、経済力を貯えて行った。

 十五世紀半ばに入ると、道南地方では、このような館を構える土豪が各地に点在していた。康正二年(一四五六)に発した蝦夷の蜂起も、このような道南に住む和人の傲慢な行為に対する反発であった。志苔(しのり)の鍛冶村(函館市)で蝦夷が和人の鍛冶にマキリ(小刀)を頼み、その価格、利潤のことから口論となって、鍛冶が蝦夷を殺したことから争乱となり、翌長禄元年には東部の族長コシャマインを盟主とする蝦夷軍が、道南地方に点在する各館を襲い、次々と陥落させた。『新羅之記録』では、この蜂起で道南地方に点在する十二の館のうち、十館までが陥落したと記されており、その十館のなかには吉岡村の古名穏内郡の館も含まれている。

 この穏内郡の館主は土(こもつち)甲斐守季直であったというが、土氏の出自は明らかではなく、松前廣長筆の『覆甕草(ふくべぐさ)』によると秋田の出身といわれるが、季直の季は、津軽・蝦夷地の領主で津軽市浦(北津軽郡市浦村)福島城に居城する安藤(安東)氏の諱(いみな)(一族だけが用いる名)であり、また、この市浦の近くには菰槌(こもつち)の地名(西津軽郡木造町)があるところから、土氏はこの地の出身で、安藤氏の抱える武将の一人であったと考えられ、安藤氏一族の争乱か、南部氏との福島城攻防戦に敗れ、渡海し、吉岡に館を構え居城したものと考えられる。

 長禄元年(一四五七)の蝦夷と和人の戦いで、僅かに残されたのは茂別館と上ノ国館の二館のみとなり、上ノ国館主蠣崎季繁の許に客分となっていた、若狭武田の一族といわれる武田信広が、僅かな兵を率いて七重浜(上磯町)付近で蝦夷連合軍を破り、ようやくこの蜂起は終わった。

 その後土氏はさらに穏内館に居城したようであるが、『高橋家履歴』(土氏の後身)によれば、松前氏第二世蠣崎光広が、永正十年(一五一三)に上ノ国から松前大館に移城したのち、土氏第二世土兵庫之介季成が蠣崎氏に臣従したようであるが、その娘は松前氏第三世義広夫人となり、第四世季広の母となっている。しかし、土氏は後継者がなく断絶し、穏内館も廃館となった。のち、寛文年間(一六六一~七二)に至って、松前伊豫景広の子が、高橋仲季信となってこの土氏の名跡を嗣(つ)いでいる。

 『新羅之記録』では、この穏内館は穏内郡の館としている。郡とは、その館付近の地域の、という広い意味もあり、穏内村のみではなく付近の村々も統轄していたと考えられるので、この地域の村は定住者がある程度居たことを示している。

 吉岡八幡神社とその摂社の沿革を見ると、土甲斐守季直の霊を祀る館神神社は寛永二年(一六二五)に創建され、翌三年譽田別 命を祀る吉岡八幡神社が創建されているので、この頃に一つの村として家並構成がまとまってきたと思われる。さらに『福山秘府・諸社年譜并境内堂社部 巻之十二』には、吉岡村観音堂があり、創立年代は不詳であるが、御神体は円空作であるとしている。円空上人の当地への巡錫は、寛文六~七年(一六六六~六七)であるので、この観音堂の創建は、この円空巡錫後であると思われる。当初、神仏混淆(こんこう)の形で建立された堂社であるが、吉岡村では元禄期以降仏教寺院も建立され、神・仏分離が進められた。元禄六年(一六九三)高庵という道心者が、松前正行寺を経て藩に願い出、庵地を拝領して一寺を建立し、光念庵と号した。のち吉岡庵、海福寺と名称を変更しているが、このような施設が建立されていくことは、村としてまとまってきたことにもつながっている。

 吉岡村戸口の推移を見ると、他村に比べて戸口が年々増加していて、その比率は非常に高い。それを福島村と比べると、















村 名
寛文十年

(一六七〇)

文化五年

(一八〇八)

弘化四年

(一八四七)
吉 岡 村三〇~四〇軒九二軒
一五〇~

一六〇軒
福 島 村四〇~五〇軒一一二軒一五〇軒


と、年代を経るに従って戸口の増加が顕著である。

 吉岡村の戸口増加の原因は、船着場としての地理的条件がある。津軽海峡横断の航路は、津軽三厩(三馬屋)から松前へのコ-スが主力であり、東または南の風に乗って三厩を出帆するのを最良の風としたが、途中風が南西に変わるような場合は松前に着くことが出来ず、押し流されて吉岡付近の海上に到着することが多かった。これを落船と呼んでいる。この落船が航海の繁多と共に多くなり、松前藩は寛政期に、一部の船舶についてはその落船を認めてきたが、文化四年(一八〇七)松前藩が奥州梁川(やながわ)に移封し、幕府直轄の松前奉行が設置されると、その不合理を正し、海上交通 の便宜を図るため、吉岡村沖之口番所を設け、『取扱収納取立手續並問屋議定書』を作製し、松前問屋(といや)・小宿(こやんど)の吉岡沖之口での取扱大綱を定めている。また、吉岡村代表として、問屋には船谷久右衞 門、宮歌村名主が株仲間になり、大河京三郎が小宿仲間に任命されている。吉岡は船澗に乏しく、貝取澗と隣村宮歌の澗が良港であるため、この二つの澗を利用する船が多かったことから、この二村から問屋が選任されていた。このような港町として発展して行く吉岡村の場合、他地方からの流入者が多く、姓名も他村のように同じ姓が少なく多彩 であることも特色の一つとしてあげることが出来る。

 吉岡村に関する記録は少なく、その沿革の詳細を知ることは出来ない。『村鑑下組帳』では古百姓として、江口屋直兵衞 をあげいていえるが、吉岡八幡神社棟札によって見ると、各年代の村役は次の通 りである。
































































寛政元年(一七八九)
 
名 主

年 寄





小 使

木 村 久右衞門

木 村 久 七

宇兵衞

太郎左衞門

与兵衞



文化五年(一八〇八)
 
名 主

年 寄

八兵衞

勘左衞門

松右衞門

与八郎



文政二年(一八一九)
 
名 主

年 寄





百姓代

熊治郎

勘右衞門

權兵衞

与太郎

三太郎

清治郎



天保三年(一八三二)
 
名 主

年 寄





百姓代

佐 賀 要右衞門

木 村 松右衞門

松 田 与三郎

仲 山 九兵衞

平 沼 三郎兵衞

仲 山 三太郎



天保七年(一八三六)
 
名 主

年 寄





百姓代



小 使

八兵衞

九兵衞

金兵衞

平兵衞

三太郎

半右衞門

金兵衞



年 寄天保八年(一八三七)
 
名 主

年 寄





百姓代

住 吉 八兵衞

八 谷 平兵衞

棟 方 小三郎

仲 山 喜 六

仲 山 三太郎

笹 森 善兵衞



弘化五年(一八四八)
 
名 主

年 寄

住 吉 八兵衞

住 吉 久兵衞

棟 方 小三郎

吉 田 儀兵衞



安政五年(一八五八)
 
名 主

年 寄

柳 屋 專右衞門

作右衞門



万延元年(一八六〇)
 
名 主

年 寄

專右衞門

作右衞門

權兵衞

元兵衞



明治七年(一八七四)
 
名 主

年 寄

百姓代

船 谷 久右衞門

樋 口 寅 吉

佐 藤 初治郎

住 吉 久兵衞