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第二節 各村の創始

(五) 礼髭(れいひげ)村

 礼髭村の初出は、寛文九年(一六六九)シャグシャインの乱に出兵した津軽藩の記録(『津軽一統志 巻之十』市立弘前図書館蔵)で、それによれば、吉岡峠を大内峠といい、その下った村が礼髭村で小船、澗有、家二十軒と記されている。それより前『福山秘府・年歴部 巻之四』(市立函館図書館所蔵)の元和三年(一六一七)の頃には「楚湖(そっこ) 及び大澤より砂金出る」とあり、現在の字松浦が楚湖の地域で、沢中には砂金採取跡が多く発見されているが、前述の『津軽一統志』の書かれた頃は、砂金山も廃絶し、楚湖村の家が全くなくなっていたものと思われる。

 礼髭の地名については、永田万年筆『北海道蝦夷語地名解』では、レブン・ゲ・プで、海となるところ、つまり白神岬の東側で、断崖で海になる場所という意味の地名である。

 その村境は、吉岡峠山頂の「古道峠を越え、石地蔵有之、字宮之沢迄、東は濱通 り引込、字境川迄凡そ壱里」(『村鑑下組帳』松前町所蔵)であり、さらに海岸通 りでは「赤石少し西、北国岩界川迄凡そ半里程、当巳年(文化六年か)新道出来、峠界」(『村鑑下組帳』)で、この文化六年(一八〇九)頃には家数四十四軒、人数百六十二人、図合船(ずあいぶね)二艘、磯舟四〇艘であって、藩に上納する物産は椎茸一、二〇〇、割薪七敷半、敷笘(しきとま)一〇枚、枝門松九三本、ゆづり葉四貫、召使男二人で、村役は名主金三郎、年寄伊兵衞 であったと記されている。

 蝦夷地内の和人地は藩主の直領地であることが原則であったが、これら和人地の各村の中には、藩主の門閥一族で藩治政に貢献した重臣に采領知行所(さいりょうちぎょうしょ)として給与された村があり、礼髭村は村上系松前氏を嗣(つ)いだ松前廣ただ(松前家第七世藩主公(きん)廣四男)が拝領し、のちこの家の代々の知行所となっている。『村上系松前氏系譜』(函館市中島常行氏所蔵)によれば、次の通 りである。










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 同家譜によれば、蝦夷地の中心館であって、大館の守護であった村上三河守家という名門の家系の消滅を恐れた松前氏第七世藩主公廣が、その四男廣に、村上氏を松前姓をもって継がせたもので、その家計を補うため覃部(およべ)(松前町字朝日)と礼髭村を采邑地(さいゆうち)として与えたものである。これらの采邑地は本税はその侭藩に納め、小物成(付加税的もの)を知行主に納める慣例で、村内の物産(薪・山菜・海産物)を献納し、また、仲間を一人か二人毎年屋敷に供出するということであったが、同家譜の松前廣長の項では、明和元年(一七六四)十月、「東部吉岡、礼髭両邑(むら)登荷三分一宿送蒙許」となっており、廣長の時代には吉岡・礼髭の二村の納入税役物の三分の一が知行として認められるという特例が設けられている。











 このようにして松前左衞門廣ただの知行地として、礼髭村が再開されたとしており、礼髭八幡宮の棟礼NO.1によれば、このころ礼髭八幡宮が再建されたと記録されている。この棟札には「合奉再建八幡宮一 村中安全諸人健固如意攸(いう) 寛文五年乙巳暦六月廿七日 大檀那左右衞 門廣ただ 別當大学院」と記されていて、前には何らかの神社があったものを、寛文五年(一六六五)に松前左衞 門廣ただの発願によって、別當大学院のときに再興したと書かれている。

 『福山秘府・諸年譜境内堂武 巻之十二』では、礼髭八幡宮の造立年号は相知れずとしているが、観音堂については御神体は円空(えんくう)作であるとしている。円空は寛文六~七年に当地へ廻って作像し、観音堂に来迎(らいごう)観世音菩薩像を納めたと思われるが、その一年前の寛文五年、すでにこの神社が再建されているので、村落の形成はこの年代よりさらに古いものと考えられる。さらに吉岡峠(古道峠、古峠、吉岡超え)の山頂にあった石地蔵は、現在吉野教会に安置されている石像がそれであろうと思われる。

 現在吉野八幡神社には六十枚の棟札があって、それによって村役の変遷を知ることができるが、調査の結果 は次の通りである。




































































































元文四年(一七三九)
 


小 使

伊右衞

門佐兵衞



宝暦二年(一七五二)
 
名 主

小 使

徳右衞門

喜左衞門



 
明和三年(一七六六)
 名 主
徳右衞門  



明和六年(一七六九)
 
名 主

小 使

徳右衞門

九兵衞



安永四年(一七七五)
 
名 主

年 寄

三右衞門

吉兵衞



 
安永七年(一七七八)
 
名 主

年 寄

佐 藤 吉兵衞

勘 吉



 
寛政十二年(一八〇〇)
 
名 主

年 寄

小 使

組 頭

万四郎

丑之助

九兵衞

太郎助、徳右衞門、

清 松、藤 松、喜之助、

丑之助



文化五年(一八〇八)
 名 主
金三郎



文化十一年(一八一四)
 
名 主

年 寄

佐 藤 金三郎

喜 松



文政二年(一八一九)
 
名 主

年 寄

百姓代

新 山 惣右衞門

佐 藤 利久平

川 口 長左右衞門



文政四年(一八二一)
 
名 主

年 寄

百姓代

五人組

利久平

長左衞門

熊五良

吉 松、金 蔵、浅 八



文政八年(一八二五)
 
名 主

年 寄

百姓代

五人組

利久平

吉兵衞

惣治郎

佐 吉、吉 松、米五郎、

太 七、清 吉



文政十三年(一八三〇)
 
名 主

年 寄

百姓代

五人組

佐 吉

由兵衞(由 蔵)

安兵衞

竹 蔵、浅 八、萬 吉、

喜 七、金三郎



天保九年(一八三八)
 
名 主

年 寄

百姓代

五人組

木 村 清 七

佐 藤 利久平

川 口 長左右衞門

藤 田 喜三郎、

濱 屋 庄右衞門、

小 川 仁三郎、

江 口 角兵衞、喜兵衞



嘉永二年(一八四九)
 
名 主

年 寄

百姓代

五人組

利久平

長左右衞門

多 七

角兵衞、權三郎、嘉四郎、

丑 松、傅三郎



明治二年(一八六九)
 
名 主

年 寄

百姓代

辧治郎

松太郎

利兵衞