第二節 社寺の建立 | |||
福島町で最古の沿革を有する神社は月崎神社である。常磐井家所蔵の『福島沿革史』によれば、その草創を、「往古ヲリカナイ村(福島村の古名)ノ東濱山ノ崎ニ当リ毎夜月ノ如ク輝クモノアリ、村民不思議ニ思ヒ居リシガ、或夜其月ノ如キ光物海中ニ飛入ル之ヲ取揚ケ見ルニ箱ニ書附アリ、何國トモ知レズ唯西ノ國トノミ記載アリ、開キ見ルニ明神ノ像アリ御丈壹尺八寸春日ノ作ニテアリキ。村民東浜ノ林中ニ祠ヲ建テ月崎明神ト唱ヘシトゾ其年代不詳」とあって、その草創年代は不明であるとしている。明治十二年六月開拓使函館支庁が作製した『松前郡神社明細帳』で月崎神社については
とあって、当初は月崎ではなく月ノ崎神社の名称で呼ばれていた。この神社は現在の福島川河口近くの位 置ではなく、浦和地区に近い東側の海岸に突出した月ノ崎に建立されていたものと考えられ、祭神の月夜見命(つきよみのみこと)(月読命)は伊邪那岐命(いざなみのみこと)の子で、天照大神の次に出た神で、月は夜、読は教える、つまり月を観て暦を司り、農漁を教え広める神様として古来から尊崇されて来た神である。 この春日作の尊像を御神体とした月ノ崎神社は、『福島沿革史』によれば、「明応元年(一四九二)野火烈シク月崎神社焼失、春日作タル御神像光ヲ放シ飛失タリ。仝年祠ヲ再建セリ、仝五月十六日川濯神社ヲ建立ス。」とあって、野火で焼失した月ノ崎神社を再建したほか、摂社として川濯(かわそ)神社を建立したという。この川濯神社が稲荷山の福島神明社の境内地に移転するのはのちの事である。 永禄二年(一五五九)には福島村開創者の一人といわれる戸門治兵衞が八雲神社を月ノ崎神社の境内に建立した。八雲神社の祭神須佐男命(素戔鳴尊(すさのおのみこと))は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟として天照大神の高天原(たかまがはら)に対し、根国(海原)を治める神で、戸門家の屋舗神として月ノ崎神社境内に建立されたものである。以上この三社が中世年代に福島村に建立された神社である。 一方仏教寺院では法界寺の一寺のみが、中世に建立されている。同寺の『由来縁記』(常盤井家所蔵-戸門治兵衞 享和元年記録)によれば次のように記されている。
とある。大渕(まふじ)は知内町字湯の里にあった地名で、この由来縁記にあるように真藤(まふじ)の生い茂げる地で、ここに大野土佐日記ともかかわり合いのある真藤寺(大渕寺)があったが、度重なる蝦夷との争乱と、砂金掘の減少によって廃寺になっていたものが、折加内村に移すべしという仏の夢告によって大永三年(一五二三)折加内村に一寺を建立し、この真藤寺の命脈を保って観念山 寿量 院 長泉寺と命名したという。しかし、この戸門家記録では長泉寺の折加内村再建は明応二年(一四九三)ともあり、約三十年の誤差があり何れが正しいのか判断はできない。 また、この土門家(戸門家)の記録には長文で漢文の長泉寺(法界寺)沿革があり、これを読み下すと次のとおりである。
この南條越中守の内室は松前氏第四世季廣の長女で、季廣の相続者である舜(みつ)廣と、その弟(原文では舜廣次男としている)を毒殺しようとして、元廣のみを鴆毒(ちんどく)(鳥の毒薬)で殺し、自分も自殺を遂げたが、領主一族でもあるので遺骸を長泉寺に葬り、その回向料として寺に川の専有権を与えた。当時諸河川には大量 の鮭・鱒が遡上するので、漁業者から入漁料を徴収しても大きな収入になったが、三十三回忌が終るまでは魚は遡上しなかったという。また、この川から一尺五寸の躯高の弥陀仏が出現したのを機会に長泉寺の寺号を観念山法界寺寿量 院と改め、近世にいたったが、開山の然蓮社天譽真正和尚は松前正行寺の住職で、以後法界寺は松前正行寺の支配下に置かれることになった。 |