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第一節 松前藩の成立 

 慶長五年 (一六〇〇)の関ケ原の戦いを一つの区切りとして、 鎌倉時代、室町時代を経た中世の時代は終り、この年から明治元年(一八六八) の明治新政府の誕生まで二六八年間を近世と時代区分している。この慶長五年の徳川家康を東軍、 豊臣氏側の石田三成を西軍とする天下分け目の関ケ原の決戦は九月十五日行われ、 東軍が勝利したことにより、以後は徳川幕藩体制が短時日のうちに成立して行くことになった。

 家康は諸侯のうち東軍に参加した者や譜代の重臣をもって譜代大名として重用し、 この戦争に参加しなかった諸侯や、西軍に組したもの、あるいは東軍に組したものでも家康の意向に添わない者は外様大名として冷遇されることになった。

 家康と松前氏の前身蠣崎氏の関係は、五世慶(よし)廣が肥前(佐賀県)名護屋城に秀吉を訪ねた文禄二年 (一五九三)正月七日、この城で徳川家康に謁している。その際慶廣は山丹地方 (黒龍江-アム-ル河)沿岸から渡来した唐衣(サンタンチミブ)という道服を着ていたのを見て、 家康は大いに珍しがったので、 慶廣は即座にこれを脱いで家康に贈っている。 その二年後の文禄四年四月四世季廣は八十九歳で没し、実質的に五世慶廣の時代に入ったが、 この時期以降蠣崎氏(松前氏)は家康に近づく政策をとるようになった。

 慶長元年(一五九六) 十一月慶廣は長子盛廣と共に大坂に参向した際、父子そろって大坂城西ノ丸で家康に謁し、同三年八月秀吉が没すると、翌四年十一月今度は第二子忠廣と共に家康に謁見し、氏を松前と改めている。松前の氏名は松前の地名を採ったとする説、徳川氏の松平、前田利家の前と諸侯に準ずる待遇を受けるまで世話になった人への感謝を込めて松前としたという説もある。

 松前慶廣は関ケ原の戦いには参戦しなかったので、以後外様大名としての待遇を受けることになった。

 慶長八年(一六〇三)徳川幕府を掌握した家康は諸侯に黒印状を発し、その領知を確定したが、慶廣に対しては同九年正月次のような黒印状が発給された。現在北海道開拓記念館に保存展示されている原本によると、次のとおりである。
















一、自諸国松前へ出入之者共、志摩守不相断而、 夷仁与直ニ商買仕候儀、可爲曲事事。

一、志摩守ニ無断令渡海、賣買仕候者、急度可致言上事。

付、夷之儀者、 何方へ徃行候共、 可致夷次第事。  

一、對夷人非分申懸者堅停止事。    

右条々若於違背之輩者、可処厳科者也、仍如件。

慶長九年正月廿七日 黒印

            



松前志摩守とのへ



というものである。この読み方は一、諸国より松前へ出入の者共、志摩守に相断(こと)わらずして、 夷(い)人と直(じか)に商賣仕候儀、曲事(くせごと)となさるべき事。一、志摩守に断わらずして賣買仕候は、 きっと言上致すべき事。付(つけたり)、夷(い)の儀は何方へ徃行(おうこう)候共、夷次第に致し可き事。 一、夷人に対し非分を申しかけるは、堅く停止の事。右の条々もし違背のやからにおいては、厳科に処すべき者也、仍如件(よってくだんのごとし)というものである。それは徳川幕府の発給する黒印状としては異例のものであった。幕府は大名の定義をその領知版図内に米が一万石以上収穫できる土地を有している者を大名としていて、例外としては下野国(しもづけこく)(栃木県)喜連川(きつれがわ)藩の喜連川氏のみは四千五百石であるが、足利氏の名門につながる家系なので、特例として大名の待遇を受けたほか、特例には松前家も含まれていた。

 松前氏の版図内の蝦夷地は米の生産がなく、他藩のように万石以上をもって大名格付とするこの領知方法には当てはまらないので、特例として交易権と徴役権を認める文言をもって大名とする変則的な、異例の方法をとっていた。従って『武鑑』(大名の職員録的なもの)には、大名の最末席に位 置したのが松前氏で、「無高、 蝦夷松前一圓從先祖代々領之」と記されていて無高大名という大名であった。また、この黒印状には付(つけたり)があって、蝦夷は何処へ往還してもよろしいし、夷人(いじん)に対し非分 (道理に合わないこと) なことをしてはならないと規制している。これは松前氏の支配権は認めたものの、蝦夷地には多くの蝦夷が居住しており、道南地方の一部に居住する和人との間に摩擦を生ずることのないように、和人側を規制したものと考えられる。

 幕府での松前氏の待遇は前に記したように、無高の大名で、代々従五位下、志摩守、あるいは若狭守、伊豆守等に任命されているが、十七世崇廣のみは、 幕閣老中となった際の元治元年 (一八六四) 従四位下、侍従に敍任されている。江戸城中での松前氏の詰席は柳ノ間詰である。江戸城での詰席は

























大廊下御三家
溜ノ間譜代の重臣大名
大廣間国持 、 家門の大名
帝 鑑 ノ 間 譜代大名
柳ノ間五位の外様大名
雁ノ間詰衆 、 交代寄合
菊ノ間無城主大名 、 交代寄合




である。

 このほか松前藩の特例には参勤(参覲)交代がある。この制度は武家諸法度(元和元年|一六一五発布)によって規制されていて、大名は一年江戸に在府し 一年は領国へ帰国するので、二年一勤としたもので、その大名によって帰国、 在府発足の月も定められていた。この制度は幕府が常に諸大名を監視することと、参勤交代の行列行路は厖大な費用を必要としたので、これによって諸大名の経済力をうばうために設けられたものであるが、松前藩は遠国(おんこく)でもあるので、特例として五年に一度であった。しかし、この恩典も、九世高廣は六歳、 十世矩廣は七歳で藩主となったが、幼主で参勤を怠ったことから、その特典を奪われ、三年一勤となったこともある。江戸に参着し、将軍へ挨拶登城の場合は、太刀馬代献上のほか、藩領内の特産物である鮭披(さけひらき)、鮭塩辛(しおから)、寒塩膃肭臍(おっとせい)、 鰊披(にしんひらき)、 寄鰊子(よせかずのこ)、 椎茸(しいたけ)、 塩蕨(しおわらび)、 串鮑(きしあわび)、 御鷹(おんたか)、 御緒留(おどめ)、御根付、熊膽(くまのい)、干鮭、昆布 藻魚披(そいひらき)等を献上した。特に鷹が献上された場合は、 将軍家の愛用となるため丁重に扱われ、 幕府から鷹逓符が交付され、籠に載せ行列を組んで江戸へ登ったが、 この鷹が宿場に泊る場合には、 宿場役人が鷹の餌として雀二十羽以上、 あるいは犬を用意することが義務付けられていたので、 各宿場では迷惑な存在であった。