十五世紀に入ると安藤(安東)氏の蝦夷地流入をはじめ、和人の道南地域への定着が増加すると、この地域の和人人口密集地に館の構築が多くなってきた。これは気候が温暖で山海の物産の多い道南には先住蝦夷人も多く集まっていたが、この平和な島に和人の流入が始まると、当初は先住蝦夷に迎合する形で混住していたものの、その数が増加してくると、日毎に横暴が目立ってきて、この横暴に奮激して発生たのが康正・長禄の蝦夷蜂起である。
先住蝦夷と和人との騒乱は康正・長禄の乱以前にもあったと思われるが記録にはなく、その初出は康正二年(一四五六)、長禄元年(一四五七)の蝦夷蜂起である。康正二年春箱館近くの鍛冶屋村で、乙孩(おつかい)という蝦夷が鍛冶にまきり刀を造らせたところ、その利鈍と価格のことで口論となり、鍛冶屋はその蝦夷を刺殺したことにより、奮激した蝦夷が各地で一斉に蜂起した。
翌、長禄元年五月十四日、蝦夷は東部の族長コシャマインを盟主として大同団結し、道南地方に点在する和人の館を急襲した。『新羅之記録・上巻』および『福山秘府年歴部・巻之一』によれば、道南に所在する和人館とその位 置は次のとおりである。
コシャマイン軍は志濃里館をはじめ、道南の和人館を次々と攻略し、この十二館のうち、残った館は下之国館(茂別 館)と上之国館の二館のみとなった。このとき上之国館の副備いとして在館していた若狭武田の一族という武田若狭守信広が、僅かな手兵を引き連れて出撃して、七重浜付近で会戦し、豪弓でコシャマイン父子を射殺したため、盟主を失なった蝦夷軍は四散し、さしもの大乱が終結した。
下之国館主下国茂別八郎式部太輔家政は、木古内から中野路(稲穂峠)を経て上ノ国館にいたり、同館主の蠣崎修理太夫季繁に会し、信広の戦功を賞して家政からは一文字の刀を贈り、季繁よりは来国後の太刀を贈った。また、信広は季繁の娘を娶ったが、この娘は家政の子で季繁の養女となっていたので、信広は道南十二館のうちの二つの館主と関係を持ち、さらに上ノ国天の川の西に洲崎館を築き館主となった。
武田信広は下之国安東太政季と共に宝徳三年(一四五一)糠部(下北半島)大畑から蝦夷地に渡り、政季は湊安藤氏(秋田安藤氏)の招請によって北秋田の桧山(能代市)に移り、茂別 館は弟の式部家政が守り、信広は上之国館主蠣崎季繁の副備えとなったものである。信広の出自については諸説があるが、『福山秘府年歴部・巻之一』によれば若狭守護武田信賢の嫡子であったが、信賢は家督を弟の国信に譲ったことから信広は国を出奔し、関東の足利氏を経て、さらに北上して南部糠部から蠣崎氏を頼り蝦夷地に渡航したといわれている。
上之国館主の蠣崎氏家譜では、蠣崎季繁は信広と同じ若狭の出身であるといわれるが、糠部(ぬ かのぶ)(下北半島)の脇野沢村に蠣崎という地名の所があり、この地を根拠としてこの時代南部氏と戦った武将に蠣崎蔵人(くろうど)信純(すみ)があり、季繁あるいは信広はこの蔵人に深いかかわりを持った人ではないかと考えられる。この信純の素姓は、『東北太平記』(岩手県立図書館蔵)に詳しく、その「蠣崎蔵人素姓ノ事」には
今度御所造営ニ付奉行タル武田五郎信純カ素姓ヲ尋ルニ其先安芸武田ノ庶系ヨリ出テ建武ノ始北部ノ目代タル武田修理太夫信義カ後ニテ、 信義ノ長子ヲ五郎信純ニシテ天敏ノ竒戈大量人ニ越、 身ハ北部第一ノ長臣トシテ高ニ謙リ、 下ヲ愛シ一毛モ民ノ気ヲ損セス、 永享三年ニ至テ義純朝臣ノ御妹ヲ玉ヘリほう家トス、 蠣崎ノ城地并金山両所ヲ配分セラレ、 蠣崎蔵人ト号シ威勢弥々高ク…略… |
とあり、この蔵人信純が南部氏と戦ったのは康正二年(一四五六)で、交戦六か月にして敗退し、蝦夷地に逃れたが、この信純は「北州に落ちて武田若狭守信広を名乗り、後に近隣を征服して、松前藩の始祖と仰がれるに至ったが、信広の名は錦帯城(蠣崎城)に討死した伯父武田平左衞 門の名乗である。」(『宇曽利百話』笹沢魯羊筆)とあって、信広がこの蠣崎蔵人の蝦夷地での名となったとしている。
信広の出自についての若狭での記録はなく、市立小浜図書館に残る三点の『若狭武田系譜』によると、
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というように武田系譜においては、信賢(武田大膳太夫、若狭武田の祖)の子に武田信広という子はなく、他書においても信広の同家譜においての存在を否定している。
また、岩手県立図書館所蔵の『清私記』のうちの「松前氏由来」によると、
一、 松前氏の先祖は守行 (南部) 公之御舍弟と聞余り夷共蜂起する故田名部の内柿崎(蠣崎)を知行して願而て柿崎に居館を構夷退治す、夫より松前の夷共を悉く從ひやかて松前之主と成子孫代々繁昌す、 幕の紋割菱なり、右之子細は南部御系図に不記古人申伝へし事記ければ右之外不審と云。 |
とあって、信広は南部氏の一族であるというが疑問も多い。
最近にいたって福井県立若狭歴史民俗資料館に、小浜市遠敷の曹洞宗青雲山龍泉寺の古文書が委託されたが、この中に三十七件の武田信広に関する史料が発見された。これは明和年間から天保年間にかけ、松前家が祖先信広の出自を明確にするため、家臣小林某を敦賀に派遣、松前と深いかかわり合いを持つ敦賀の廻船問屋飴屋次左衞 門を介して小浜で調査し、その後飴屋と龍泉寺の間で往復した書簡であるが、それによると龍泉寺の開基は、若狭国遠敷郡宮川庄新保邨に所在する霞美ケ城主武田中務信高公(始め八郎元度後改中務信高)で、その長男が信広であるとしている。それによると
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となっていて、これらの文書のなかで「松前御先祖様御儀は御本国若州武田家之御内より御渡海被爲遊候御事ニハ相違無御座御儀ハ必定之御事ニ奉存候」(『口上手扣』)となっている。この武田太郎の弟英蒲永雄和尚について、京都建仁寺で調査の結果 、英蒲(甫)永雄和尚は建仁寺二九二世住職で、雄長老の名で知られる狂歌師であったが、慶長七年(一六〇二)九月五十六歳で没していて、信広の時代から一〇〇年位 後の人である。従って永雄和尚は年代的に見て信広の弟でないと推定される。ただこの調査では建仁寺の住職で武田氏出自の者が五人あり、このうちに信広の弟に当る者があるか否かは今後の研究を待たなければならないが、何れにしても武田信広という人は、出自の良く分からない人である。
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