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第三節 穏内館主こも土氏

 この『新羅之記録』に出てくる穏内郡の館主土こもつち氏とは、どのような出自の人であるかは不明である。限られた史料によって追求すると、同氏の末裔である松前藩士高橋渡の『履歴書』によると、同家の祖は「寛正の頃の吉岡館主で、信広君の御治世にはこも槌甲斐守季直」としており、同家の二世は「光広君御治世槌兵庫介季成」となっていて、詳しい出自は記されていない。『覆甕(ふくべ)草』(松前広長筆)によれば、こも土氏は秋田の出身といわれている。しかし、青森県西津軽郡木造町には菰槌という字があり、この地は十三湖に極めて近い地である。穏内郡の館主土氏の代々の諱名には季直、季成と季の字を付している。この季の字は十三湖相内(北津軽郡市浦村)福島城の城主安藤(東)一族の諱名である。この諱名(いみな)を付しているのは、こも土氏が安藤氏の武将の一人であったと考えられる。このこも土氏が、安藤氏の永享十一年(一四三九)の南部氏との戦いに敗れて蝦夷地に流入の際に同行して渡航してきたものか、それとも元享元年(一三二一)以降の安藤氏同族の争乱の際、敗戦渡航して蝦夷地に入って館主になったかはよく分からない。

 長禄元年(一四五七)の蝦夷の蜂起の際、土季直は館の陥落によって、一時上ノ国の蠣崎氏の元に逃れたと思われるが、その後再び穏内に帰り寛正年間(一四六〇~六五)穏内館に没したと考えられている。

 こも土家の二世兵庫之介季成は、父季直の後を承け穏内館主となったが、天文年間(一五三二~五四)に息女一人を儲け、男子なく季成の没後館は廃絶となった。この息女は松前氏第三世義広の室となり、一男一女を儲けているが、その男子は松前氏第四世蠣崎季広で、女子は松前家家臣明石右馬介季衡(すいひら)に嫁している。松前氏の家系調である『松前家記』(新田千里編)では義広夫人として







夫人穏内ノ城主菰こも土直季(季直の誤り)甲斐守ト称スノ孫 父名ヲ逸スナリ一男一女ヲ生ム天文十四年(一五四五)九月八日卒 ス松前ニ葬ル


とあり、菩提寺曹洞宗法幢寺(松前町)の『松前家過去帳』には、「季広公御母君 天文十四乙己九月八日 瑞光院殿心月珠泉大姉」と掲載されている。

 こも土氏は、こも槌、菰槌、菰土などと諸書に記されていて、どれが正しい姓であるかは分からないが、松前氏歴世のなかでは深いかかわりを持った名家であるので、松前氏はその廃絶を惜しみ、寛文元年(一六六一)松前氏五世慶広の六男で家老の松前伊予景広(河野系松前氏)の末男である松前仲季信をもって、土氏の名跡を嗣ぎ、さらに高橋姓をもって、松前氏に禄仕し、代々大広間席士分となっており、幕末には百五十石の家臣となっているが、その家系は次のとおりである。










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【穏内館跡の発掘調査】中世の時代に吉岡地区に存在した穏内郡の館がどこに在ったのか、種々論義されてきたところである。大正十二年道南の各館を調査した河野常吉(北海道史編集者)はその著『北海道史跡名勝天然記念物調査報告書』で、中世道南に所在した和人館のうち、志濃里・茂別 ・花沢(勝山)館の遺構を確認し、大館・祢保田(ねぼた)・原口・比石については正確は期し難いが、現況の確認はできたといい、穏内・中野・脇本・覃部館は全く分からないと述べている。

 昭和四十年六月十一日より六日間、これらの館跡遺構調査のため道文化財専門委員の高倉新一郎、大場利夫両北大教授、道史編集員永田富智、道教委大石主事が現地を廻って調査をした。その調査結果 は新北海道史機関紙『新しい道史』第一八号(昭和四十一年九月二十五日北海道発行)のなかで、永田富智の論文「道南十二館の史的考察」でまとめている。そのなかで穏内館については、








穏 内 館

穏内館は館主土こもつち氏 (又は薦槌) が築いた館で、 福島町字吉岡に所在したというが、 以下は不明である。 館崎という地名があり、 ここの市街地上方六〇メ-トルの台地を調査した。 台地の北東部の端に添って一辺八〇メ-トル四方の塁跡と空堀が発見され、 南側、 北東側の二ヵ所には、 門構を設けたと思われる箇所があった。 この館の縄張りが割に、 スタンダ-ドな形をしているので、 天保年間松前藩が設けた台場ではないかとも考えたが、 台場は同じ宮の下にあったことが明瞭で、 場所的にも隔たっているので、 これは土氏の穏内館と認めるべきだと考えている。


と、穏内館が字館崎上方台地上に、一辺八〇メ-トルの空堀が南北に一本、東西に一本入っており、東側および北側は約六〇メ-トルの崖を経て字館崎市街地に面 し迫っていたことを報告し、これが穏内館として認めたことを報じている。

 その後、この館崎台地は青函海底トンネルの作業基地化するため、字館崎市街地背後の崖を崩し、国道の切替をして、この台上に通 ずる道路を造り、台上一帯が作業員の昇降施設、通気構、工作場等の施設の工事に入り、その工事中、この穏内館地下遺構に突き当り、作業を中断して緊急発掘調査を実施することになった。

 この穏内館跡の緊急発掘調査は昭和四十六年十一月二十三日から三十日まで八日間行われたが、その際のスタッフは市立函館博物館学芸員千代肇を発掘担当者とし、北海道史編集所編集員永田富智、道立江差高等学校教諭宮下正司を調査員として実施したが、調査着手の際すでに遺跡の三分の一はブルト-ザで、土砂を除去していて、遺跡は全く崩壊していたばかりか、残された地域も遺構が撹乱されていて、穏内館の全体像を握むことができなかった。

 このような状況での発掘のなかで知り得たことは、穏内館は約八十メ-トル四方にL字形の空濠を巡らした館の本体とその北西にも副郭があったと思われる。濠は深さ二~一・五メ-トル、幅五~七メ-トルで、V字状に掘り下げ、その土を両側に盛り上げ構成していた。調査の結果 では表層の撹乱が激しいため柵跡や館の本体建造物の痕跡も確認はできなかった。空濠の調査で、堆積物のなかに中国明の竜泉窯製と思われる青磁皿(せいじさら)や擢鉢(すりばち)、須恵器(すえき)、土師器(はじき)、鎹(かすがい)、角釘、平釘等明らかに和人がこの場所で工作し、生活した場であることが立証され、穏内館遺構に間違いのないことが分かった。

昭和四十七年三月この調査報告書『穏内館―北海道中世館跡調査報告書』が刊行されたが、そのなかで調査担当者千代肇は、次のように述べている。







調査はほとんど破壊された穏内館の遺構確認にとどまったが、 北海道の埋れている中世史の研究がややもすると未解決のまま姿を消してしまうのではないかという危惧をいだかざるをえなかった。