第二節 農業の試練 | |
【米 作】 福島町の農業は幾多の先覚者の努力が重ねられてきた。しかし、寒冷地における農業経験を持たない先人達は、適作品種もなく、幕末にいたって農業が確着するまでには、多くの試行錯誤(さくご)が続けられてきた。特に米作はその顕著なものであった。 松前藩領内での米作の試みは元禄五年(一六九二)東部亀田で作右衞門という者が新田を試みたが、二、三年で廃したといい、さらに同七年辺幾利知(へぎりじ)で墾田を試み、稔って新米を藩主に上呈したという。同十三年には江差近郊でも新田の開発をしたが、いくばくもなく廃止された。また、享保十七年(一七三二)にいたって再び江差で試み、稔って米一包を藩主に献上したが、その後は再び廃絶となっている。これらは米作試行の初期であった。 本格的な米作の造田試作は元文四年(一七三九)以降福島村で行われた。これら一連の米作経過をこの時代藩の執政として奨励し、隠居後福島村清音館に居住した松前将監廣長が、その著『松前志』巻之六のなかで詳しく述べている。それによると、
と述べていて、多くの先人が試行錯誤しながら稲作に挑戦してきたことが分かり、安永九年には米二十俵余の収穫があって成功したかに見えたが、これも天明五年(一七八五)から八年の東北の大飢饉によって、一時的に中断したのではないかと思われる。 この失敗を松前廣長は寒冷地向早生(わせ)品種の種籾(たねもみ)を得ることと、新墾の田に肥料分を与えて、田が熟してから、作付をすることが必要だとしている。しかし、江戸金座役人坂倉源次郎の調査記録『北海随筆』では、「霜の降事はやきゆへなるべきか」つまり寒冷地なるが故であるといっている。その後四十年程は田作の記録はない。 天保四年(一八三三)五月渋谷寅之丞が館の山に熊野神社を創建している。『渡島管内町村誌-福島村』によれば、この熊野神社の創建を天保十四年としている。同書によれば渋谷寅之丞は天保七年の頃に、南部鹿角より移住し、館の山に居を定めたとしている。さらに寅之丞は自分の出身地である南部鹿角(秋田県鹿角市字八幡平)から種籾を取寄せ元治三年(慶應二-一八六六か)には、この水田より産出した米二斗および稗五俵を献納したとし、のち毎年米一俵、稗五俵を献上したといわれている。この稲種は福島の地方風土に適合して、この種子を使って農業を確着する者が増え、寅之丞の後継者中塚丑松が苦心して一品種としたという。この品種は恐らく南部早生(わせ)赤毛であろうと考えられるが、このころ江差在の小黒部(おぐろっぺ)村の伊越和吉が同じ南部赤毛を改良し、伊越早生種を創出したのと同じころである。 『渡島地方調査復命書-農業部』(道立図書館河野家文書)によれば、「中塚寅之丞半兵衞 澤ニ於テ水田ヲ開ラキ安政年間ニ至り二、三ノ者之ニ傚(なら)ヒ懇成田三町歩ニ及ヒ明治初年ニ至り八町歩ニ増加セリ二代中塚寅之丞(中塚丑松)父祖ノ業ヲ継キ現今専ラ農業ニ従事ス」とあって、この中塚家は、現在字三岳地区の中央部にある土手の家と呼ばれる中塚家が、その末裔であり、現在につながる農業を米作と結び付けて定着したのがこの中塚家である。 【畑 作】 近世の蝦夷地では畑作農業はあまり重視されなかった。それは春の繁忙期とかち合い、特にニシン漁業に総ての労力が集中するのと、新起(あらき)おこし等の労働を嫌っていたからとも考えられる。文化年間(一八〇四~一七)筆と思われる『村鑑』において福島町の農業生産物では、わずかに大豆、小豆、蕎麦とあるのみである。これらの生産は伐木、炭焼を主体とした杣夫が定着し僅かばかり農耕地を造成していたものと思われる。 この福島町の農業のさきがけとなった人達は、主に南部地方の人達が多かった。その理由については次項で詳しく述べるが、これら杣夫として定着した人達は僅かな耕地を開き、大豆、小豆、蕎麦、栗、稗、五升薯のほか、人参、牛蒡(ごぼう)、蕪(かぶ)、蘿蔔(らふく)(大根)、茄子、瓜等を作付し、これを売り生計の足しにしていた。 明治初期中塚寅之丞は田畑六町歩、杉林凡そ一町歩を耕作、家族十三人の内二人が学校に通 学し、馬二頭を飼育、家族二、三名差網で鯡取をして生計を維持していたというから、半農半漁の生活をしていたと思われる。 |