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第三節 林業

 福島町は三面を山に囲まれているので林業とのかかわりは深い。松前家は寛永十一年(一六三四)新井田瀬兵衞 を知内雜木山奉行に任じ、知内川流域の雜木を伐採したと同家記録にあり、字千軒付近もこの時期に伐採されたものと考えられる。福島川の支流桧倉川は昔からアスナロヒノキの自生繁茂していた地として知られる。このアスナロヒノキ(羅漢柏)は桧(ひのき)の一種で、寒冷地に育ったことから木質が緻(ち)密で腐りにくく、建築材として最高の評価を受けており、福島から知内にかけての山中には雜木のなかに、この木が混交していた。

 これら知内川流域の雜木伐採に着目したのが、江戸の材木商飛騨屋(武川)久兵衞 である。飛騨屋は飛騨国益田郡湯嶋郷(岐阜県益田郡下呂町)の出身で、初代久兵衞 は江戸材木商栖原角兵衞の手代となり、元禄十三年(一七〇〇)南部大畑に来てアスナロヒノキの伐採中、蝦夷地の各山中には厖大(ぼうだい)な量 の蝦夷桧(蝦夷松)があり、これが只の様な安さで払い下げを受ける事を知り、独立して飛騨屋を名乗り、元禄十五年松前に渡り材木商となり、蝦夷地全島の山請負をなして大豪商となった家である。同家にはこれら蝦夷山請負についての一連の文書が残されているが、この飛騨屋が蝦夷地で事業を進めるためには、東津軽郡三厩村の名主で、松前侯渡海の際定宿としていた松前屋山田庄平(現三厩村長山田清昭氏の先祖)がかかわっていたと考えられる。

 飛騨屋が入ってきた元禄十五年から享保二年(一七一七)までの十七年間の記録はないが、同三年の臼山(おふけし川、べんべ川、おさるべつ川)の請負証文では、願人は三馬屋山田庄平、金主が江戸鉄炮洲(てっぽうず)明石町飛騨屋久兵衞 、松前宿が岡部權兵衞となっている。この請負にいたるまでには多くの曲折があったと思われるが、山田庄平の松前藩とのつながりを利用して蝦夷山請負をさせ、また杣夫は津軽、南部人を用いている。その前一七年間の空白の時期に飛騨屋は、山田を利用して知内山の桧、蝦夷松、雜木混交林の伐り出しを行っていたと思われる。また、この契約が基礎となって今度は飛騨屋が、元文元年(一七三六)ころから自分名義で蝦夷山請負に進出している。

 この飛騨屋文書によれば、分家の飛騨屋与惣右衞門が宝暦八年(一七五九)に、木古内・知内地区の蝦夷山跡請負をしているが、資金繰りに困り、飛騨屋久兵衞 を事実上の金主としている。同十一年八月の記録では

























  
喜古内山材木有高 
 
三千四百石余

弐千石目

六千石目

都合 壱万千四百石余

喜古内并浜中囲

尻内川添に囲

幸連渡場囲
右の通相違無御座候。以上 
 宝暦十一年巳八月廿三日 
  武川 与惣右衞門
 
武川 久兵衞殿

今井 所左衞門殿
 


とあって、一度伐った木古内・知内付近の山々の跡地でもさらに年に一万石以上の蝦夷松が伐り出されているので、字千軒の山相も蝦夷松と雜木の混交林であったと考えられるが、このような乱伐によって桧および蝦夷松は次第に姿を消して行ったと考えられる。

 しかし、桧倉沢にはなお桧の自然林が残されていた。安永八年(一七七九)の常磐井家『寺社沿革』によれば







東西桧山奉行下國舍人殿江福島村桧倉山壱山木数三百本名主辰右衞門書上ケ仕候。壱本なり共切事不叶。


とあって樹種保存のため、この山に残っていた桧の自然木の伐る事を止め、村名主の責任に於て保存管理することを命じている。また、この桧倉山には松・杉等の木も多く、福島村から松前城中で正月迎えの門松は、この山の松が用いられていた。

 また、各村で多くの杉の植栽を行っていた。常磐井家『戸門治兵衞旧事記』によると、








寛政九年(一七九七)

治兵衞(戸門)松杉立山作る。但し寺ノ沢諸木立山寺境岸山平通竪(たて)横二百間被付山ハ稲荷後口寺山平前也。


とあって藩からの杉松植栽の命令を受け、法界寺境から稲荷山にかけて、戸門治兵衞 が植栽したといわれている。福島大神宮境内には八鋒杉をはじめ、多くは二〇〇年位 の杉の大木が残されているのも、この時の植栽によるものではないかと考えられる。また、福島村には蝦夷松同種の椴松のあったことが、常磐井家『福島村沿革』に記されている。安政六年(一八五九)八月十五日「巽風ニテ日方泊家皆流人々山へ逃ケ上り、釜谷神社椴木三本倒し」とあって、椴松も多くあったことが分かる。

 福島の松前-箱館間の街道上には、多くの名物の木々が旅人の目印となっていた。福島村と知内村々堺には栗の木椹坂という地名があり、ここには栗と椹(さわら)の大木が目印となっていた。また、福島村本村から山崎を経て茶屋峠にいたる間に、三本木という地名がある。これは半兵衞 沢前方の街道脇にたもの大木三本が並んでいたが、文久三年(一八六三)六月十四日に大雨洪水があって、この三本木のなかの一本が倒れ、二本木となったと記録されている。

 礼髭村八幡社、白符神明宮境内に福島町を代表する名木の老杉がある。礼髭村知行主の松前将監廣長は安永三年(一七七四)松前及部川流域の池の岱、松長根等に植栽しているので、礼髭八幡社の老杉もそのころの植林ではないかと思われ、白符神明社も知行主河野系松前氏とかかわりを持っているかもしれない。











文化四年(一八〇七)



一、同年三月九日御獅子知り内山サカサ川材木出来、長サ一尺五寸、幅一尺弐寸、あつさ八寸、長サ一尺五 寸、幅一尺弐寸あつさ四寸、右二枚ハ栃之木也。

山 子
松右衞門

長作

金重郎

六助




とあって、神明社が文化四年正月一日に火災を起し、伝来の松前神楽の獅子頭が焼失したので、字千軒の杣夫四人が知内川支流の逆(さかさ)川の栃(とち)の大木を伐り、これで獅子頭の上・下板を神明社に奉納したもので、この材で造られた獅子頭は今もなお、同社に大切に保存されているし、この時代にも千軒地区には山子が居て、盛んに伐木を行っていたことが考えられる。

 津軽海峡に面したしらつかり、岩部山、疂、したん、船隠し、九(つづら)沢、鶚(みさご)沢、ますだ泊、やませ泊と矢越岬の間は断崖の連続であるが、この間の岩部岳の麓部分は、薪炭材の美林で、福島村の薪炭はこの山から供給されており、村内の漁業者の多くは一月二十日過ぎ、船隠しや九沢に船で上陸をして自家用薪を伐り、船で村に搬んだほか、この地区にも多くの炭焼竃(かま)があって木炭を生産していた。