千軒金山の開削とその運営
大千軒岳(一、〇七二メ-トル)を中心として、ここから流下する諸河川では昔から多くの砂金が産出されたと伝えられている。その中心をなしていたのが知内川である。
『大野土佐日記』によれば、古くは建久二年(一一九一)荒木大學なる者が知内川流域に入って砂金掘をしたといわれるが、この日記は信憑性(しんぴょうせい)に薄く、伝説的なものである。しかし、幕府の役人として蝦夷地に入った近藤重蔵が、知内温泉薬師堂の棟札を調査したところ、この薬師堂の開創は応永十一年(一四〇四)と記録されていたことを伝えている。ようやく蝦夷地に和人が定着したこの頃、このような山間で温泉が発見され、薬師堂も建てられて、多くの人達がそれを利用しているということは、砂金との関連も考えられる。
千軒岳の名称は、近世の史料等によれば「淺間岳(せんげんだけ)」と記されているものが多く、また付近の山々も灯明岳(とうみょうだけ)や袴腰岳(はかまごしだけ)などの名があり、当初は山岳信仰の山とされ、修験者や信民から崇め祀られていた山のようである。その後砂金の採取によって、欝金岳(うつこんだけ)(金の埋まる山)、砂金掘の家が千軒もあったので千軒岳と呼ばれるようになったという。
この千軒金山は慶長九年(一六〇四)に発見された。『福山秘府・年歴部 巻之四』によれば、この金山は松前氏が幕府から下賜されている。徳川幕府は「山方三法」を定め、総ての鉱山は幕府の直営としているが、松前氏所領下の砂金金山は遠隔の地であり、鉱床・鉱区が特定出来ないので松前氏に下賜したものである。
この千軒金山は慶長九年(一六〇四)に発見された。『福山秘府・年歴部 巻之四』によれば、この金山は松前氏が幕府から下賜されている。徳川幕府は「山方三法」を定め、総ての鉱山は幕府の直営としているが、松前氏所領下の砂金金山は遠隔の地であり、鉱床・鉱区が特定出来ないので松前氏に下賜したものである。
この千軒岳の砂金は、大千軒岳とその山稜から流下する諸河川から産出される。この砂金掘は、川床に堆積する粒金を拾うという極めて原始的なものであった。大千軒岳直下に発する知内川源流を中心に、福島町、知内町、松前町の各河川が総て金山に属していたが、そのうち福島町の知内川流域上流地帯がその中核を為していたと考えられる。
『福山秘府・年歴部 巻之四』によれば、元和三年(一六一七)には「是歳東部曾津己(そつこ)及大澤出砂金-按曾(あんずるに)津巳即東部礼比計(れいひげ)地方也」とあって、現在の字松浦、松浦川から古峠(吉岡古峠)にかけても砂金が採取され、金山の範囲もさらに拡大している。寛永四年(一六二七)の同記録では、金山奉行に小平又兵衞 の名があり、翌五年には「是歳新鑿砂金於千軒嶽、于時金師喜介害其徒石井五郎左衞 門喜介自縊于獄中傳云自是砂金稍減」とあって、この年千軒岳で新たな砂金採取が始まったが、このとき金師(金山の指導技術者)の喜介という者が、自分の部下の石井五郎左衞 門を殺害して牢屋に入れられたが、自ら縊死するという事件もあり、砂金の産出量 も減少したといわれる。この時の金山総司(奉行)は、蠣崎主殿、蠣崎左馬介、現地責任者は山尻孫兵衞 、水間木(みずまき)工左衞門である。
この寛永年間、蝦夷地は空前のゴ-ルドラッシュで、千軒金山のほか泊村(現江差町)方面 の西部金山をはじめ、寛永八年(一六三一)には島小牧(しまこまき)、同十年には計乃麻恵(けのまい)、同十二年には宇武辺知(うんべつ)、止加知(とかち)等で砂金金山が発見され、砂金掘達が蝦夷地内に多く流入するようになった。
寛永十六年(一六三九)大澤及び千軒の金山におけるキリシタン宗砂金掘男女一〇六名の処刑は、領内の金山に大打撃を与え、多くの砂金掘が逃散(ちょうさん)した。翌十七年の『福山秘府』記事では「是歳金師等有騒動而令渡海」とあって、前年のキリシタン宗徒処刑によって、金山で働いていた金師等が本州に逃げ帰っているが、さらに同年六月十三日から十五日にかけ、東部内浦岳(駒ケ岳)の噴火と大地震、津波等によって金山は全く廃絶したといわれている。
しかし、キリシタン宗徒処刑後五年を経た正保元年(一六四四)の同記録では、江戸の幕府からの差紙(さしがみ)(命令)によって、千軒の金山の金鑿師(かなほりし)(指導者)児玉 喜左衞門がキリシタンとして訴人されたので、捕えて江戸送りをするよう命令され、児玉 を捕えて江戸の切支丹奉行井上筑後守屋敷内の切支丹牢に送っている。これは、千軒金山でのキリシタン宗徒五十名の処刑は金山に居住したキリシタンの総てではなく、処刑後五年を経てもなお多くのキリシタンや金掘等が居住していたことを裏付けるものである。
その、厳密には東部(松前より東)金山といわれる千軒金山の範囲がどのようになっていたかについては、前述したように大千軒岳から流下する諸河川地域がその範疇にあったが、その中心となる地域は、福島町内の字千軒地区を流れる知内川上流一帯であった。この中心地を一六二〇年(元和六)に訪れたリ-ダッショ・カルワ-リュ神父は『一六二〇年報告書』で次のように記述している。
松前(マツマイ)に居るキリシタンたちの告解を聴くのに一週間ほどついやしてから、約一日路ほどの金山(カナヤマ)で働いているキリシタンの告解をも聴くため、そこへ出かけた。途中に高い山があり、道がはなはだ悪いので、彼らが告解のために出てくるのが容易でないからであった。それで私はミサを挙げるのに必要な祭具をも携えて、その地へ向かった。路程の大部分を、徒歩で行った。キリシタンたちは馬や馬丁を供してくれたが、その金山への途中の高い山々の中には、馬で行ける道が少ないからであった。
それらの山々の奥にすこぶる高い一つの山があって、日本から一〇ないし一二エスパニア・レグア(注、一レグアは約四キロメ-トル)ほど距てているにもかかわらず、その山上から眺めて見る人には日本の突端にある山岳さえも、この山の足許にあるかのように見える。そこから幾つもの国々や島々や海が見わたされるので、実に素晴らしい眺望である。
私が金山から余り遠くない所に新しくつくられた藁屋ばかりの一部落に着くと、… 以下略
(上智大学 H・チ-スリク神父 訳)
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とあって、カルワ-リュ神父は、金山のキリシタンの慰問とミサ聖祭を行うため松前から金山に到っているが、この記述から推測すると、松前から及部川を遡り、ドゲ澤林道を経て、茂草川、小鴨津川、大鴨津川を渡り、ここから急崖を登って、付近では一番高い山である大千軒岳の鞍部を下っている。そのすぐ下った所に金山があり、そこから余り遠くない所に藁屋ばかりの一部落があるといっているので、金山の本体は、知内川の最上流地域の、大千軒岳の六~七合目付近であると考えられる。
この金山の位置の調査については、筆者によって昭和三十年七月十六~十八日に行われ、道案内には当時七十二歳であった字千軒の佐藤甚作氏が協力してくれた。当時は経路もほとんどなく、徒歩で、知内川ムサ本流の左岸を出戸二股、中二股からは右岸、奥二股からは左岸の崖路を登り、広い川原をキャンプ地にして、翌日以降その上流の調査をし、最上流の大川原に到着した。ここは、二方を乱石積で仕上げた約五〇〇平方メ-トル程の平坦な広さの地が三段になっていて、佐藤氏の話では「御番所跡」といわれる所であることが分かり、この地を「金山番所跡」と命名した。ここに松前藩の金山番所があったことにより、この地域が千軒金山の所在地の中心であることは明らかである。その後数年間、砂金掘の居住地及び砂金採取地の調査を行ったが、出戸二股川より上流の地域のいたる所に砂金採取跡地が残されている。
その砂金採取方法についてカルワ-リュ神父の『一六二〇年報告書』には、
前記した鉱山で金を採掘するには次のような方法をとっている。まずこの事業に精通 する人々が、そこに金があるだろうと判断して山をよく見てから、友人・知人と相談して一団体をつくり、前に述べた松前(マツマイ)の殿(トノ)から、その山中を流れる川筋幾ら幾らブラサ(注、長さの単位 、約一間)を金塊幾ら幾らで購い、その金塊だけを、実際に金を発見するかしないかにかかわらず支拂わねばならないのである。このような団体が無数にその川のほとりを進んで行って、水路を彼方に変え、それから川岸の下にある堅岩に達するまで砂底を掘る。それらの岩の裂け目の砂の中に、海辺の小石のような純良な金が見出される。そのわけは、金塊は生じている山々から剥がれ、流れに運ばれてきて、重さのために砂中に埋もれ、そしてまた岩の裂け目へ落ちこむと、もはや下(シモ)へは流れずにそこに残ることになる。
時には、小石のあいだで三〇〇タイル(注、マライ語よりきた重量及び価格単位 。中国の両にほぼ等しい。)以上にも価する大きな金塊が見つかることがある。しかし鉱山から收める利益は、それを売った殿(トノ)にだけある。なぜなら前に述べたとおりに、金塊発見の多少にかかわらず、その鉱山を買った値段を殿に支拂わねばならないからである。そしてその支拂いが済まないうちには、日本へ帰ることができない。それだから、金掘りで富をつくったものは至って少なく、多くの者はこの国で死ぬ か、もしくは儲ける利益よりも出費の方が多くて失敗している。
(上智大学 H・チ-スリク神父 訳)
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ということで、例えば佐渡金山のように、金鉱を掘って地下の鉱脈から金鉱を掘り出すというものではなく、川の岩盤に挾まっている砂金を拾うという方法や、山上に水を上げて山を洗い、そこに残る砂金を拾うという極めて原始的な方法であった。
従って、川床の岩盤を洗い出すためには、川面の大石を川の側面に積み上げ、その裏側に小石や砂利を積んで、次第に川床の岩盤を露出させて砂金を拾うのである。そのため砂金掘をした跡地には多くの、この石垣跡が残されるのである。
知内川本流の場合、出戸二股川合流地点より上流にその跡地が残され、中二股川、奥二股川、本流では、広い川原より源流部に至る間にその石垣の残存が顕著であるので、金山番所跡地を中心として最上流部が金山の本体であったと思われる。
字千軒地区の村落中心部付近は金山にまつわる地名が多い。字千軒は昭和十七年の字地番改正以前、碁盤坂という地名であった。これは、国道二二八号線が綱配川にかかる鉄橋の下に旧道が通 っていて、鍋こわし坂を下り、この綱配川を渡ったところに金山番所があって、ここを御番所と呼び、そこの坂を御番坂と呼んだものであり、それが後の碁盤坂につながったものである。さらに、この字千軒地区の台地は旧名綱配野と呼ばれたが、これは砂金掘たちが、山を洗って砂金を掘るため、鉱区の地割をするための縄を張っていたことの遺名であり、この付近も多くの砂金掘が稼働していた地域であることを示している。昭和期に入って、千軒小学校地域の地面 が陥没したことがあったが、調査した人の話では、土を掘り出したらしくトンネル状になっていたという。恐らくは掘り出した土を洗って砂金を掘り出したものと思われる。
こうして見てくると、千軒岳の六~七合目から下流に向けた地域の鉱山(かなやま)管理をする千軒金山番所と、字千軒地域を主体に鉱山管理をする御番坂御番所の二つの金山番所が設定されていたことが推定される。その理由は、二カ所に金山番所があったこと、カルワ-リュ神父の『一六二〇年報告書』にあるように、千軒金山に至るには、吉岡・福島を経由せずに松前から直接に至る経路があり、この経路を多く利用していたこと。さらに御番坂の金山番所は福島村から内陸を、茶屋峠を経て到着出来る場所であるから、ある程度は半定着的に入居した掘り子が多かったことが考えられる。
福島町の字岩部から矢越岬に至る間に船隠しの澗という澗がある。ここは両岸に山塊が突き出し、その中央部に島があり、僅かな入江から船を乗り入れると、沖合からは船が島の陰に隠れて見えない。昔からの伝説では、津軽・秋田から、金掘として正式の手続を取らないで入って来る密航者が船を隠した場所といわれている。これらの密航者は、この澗の川口から左の山塊を登り、岩部岳(七九四・二メ-トル)の東部を横切って下ると、コモナイ川、宿辺川に至ることが出来るのである。これらの密航者も、現地に入って税役を払えば砂金採取をすることが出来たので、現在の字千軒地域に入って就業したことが考えられる。
さらに、千軒金山と御番坂の金山が一つの金山地域で、数千人の人達が働いていたとするならば、この二つの地域を結ぶ、資材・食糧を運ぶ生活道路がなければならないが、一ノ渡を越えた出戸二股から広い川原に至るまでの間には経路らしい経路はない。最近の千軒登山ブ-ムで、奥二股まで車で行ける道路は出来たが、三十年位 前までは道らしい道もなく、多くは本流の川原を徒渉(としょう)するという状況であった。これらを総合して考えると、千軒金山には二つの鉱山(地域)があったと解した方が良いと考えている。
また、元和年間(一六一五~二三)以降、なぜ急に千軒金山に多くの砂金掘が入ってゴ-ルドラッシュになったかについては、元和元年から三年にかけて東北地方を襲った飢饉もその一因と考えられる。
カルワ-リュ神父の『一六二〇年報告書』によれば、
鉱山採掘に行く金掘(カナホ)りの名義で乘船し、出発した。このことを理解くださるために、この渡海が今は評判になって以前よりも頻繁に行なわれる理由を貴師に知っていただかねばならない。それはすなわち、四年ほど前(元和三)から蝦夷(イエゾ)に純良な金を豊産する鉱山が発見されたので、日本中からそれを目指している人が毎年おびただしくかの大きな国へ渡るようになったことであって、その人数が昨年は五万人を越え、本年も三万人以上だろうと言われている。
(上智大学 H・チ-スリク神父 訳)
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と、報じている。元和三年、津軽の流刑キリシタン慰問のため、秋田から津軽に入った『デ・アンジェリス神父の報告書』によれば、碇(いかり)ケ関直前の矢立(やたて)峠では、夏八月といいながら、腰を没する雪があったと報じているので、元和元年から三年までの三か年に及ぶ東北地方の飢饉は冷害によるもので、この冷害で食も収入も全く見通 しのないとき、蝦夷地で新金山が発見され、蝦夷地に行き砂金を掘ってさえいれば何とか生活が出来るとして殺到して来たものである。
それにしても、この元和年間といえば、蝦夷地に住む和人の数はせいぜい一万五、〇〇〇人程度であったと考えられる時代、一年に五万人から三万人もの金掘が蝦夷地に入ったとは考え難く、また、これらの人達総てが金山に入ったとも考えられない。ソッコや大澤、石崎川、大鴨津川、小鴨津川などの金山周辺地にも多くの砂金掘が入っていたと考えられるが、そのうち知内川上流部の千軒金山には、その名の通 り千人位の砂金掘が入っていたと見るのが妥当と思われる。
金山で砂金掘に従事する者に対する税役は、一人一か月に一匁(もんめ)(約四グラム)で、一か年十二匁の砂金を礼金(税)として支払っていた。それは一人当りの生産量 の三〇分の一に相当するといわれる(『北海道史』河野常吉著)から、金掘達は月に三〇匁以上の砂金を採取していたことになる。近世においては砂金流通 は七匁四分を以て一両と交換されたが、千軒金山の砂金は純度が高い(二十二金といわれる)ので、一両を砂金五匁として和紙に包んで通 用した。幕末の増田家『港省衞規則』では、「一両ニ山砂金五匁二分」としている。
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