第七節 松前廣長と福島 | ||
松前広長は、松前氏第十一世邦広の五男として元文二年(一七三七)十二月二十五日福山館に生れた。母は家臣土橋嘉六の娘左尾子である。兄には第十二世藩主資広、柳生備後守俊峰の養子となった柳生俊則がいる。十九歳の時、松前家第七世藩主公(きん)広の子広ただの嗣いだ村上系松前家の養子となり、家老となって藩政に大いに貢献した。広長は小字を繰五郎、長じて傅蔵、監物(けんもつ)と称し、雅号を豹関(ひょうかん)、老圃(ろうほ)、琴書堂、沈流(ちんりゅう)館、清音館などと称した。 広長は村上系松前家に養子となった宝暦五年(一七五五)藩家老となり、三十四年間多難な藩政に当り、天明八年(一七八八)致仕(隠居)し、家督を長男鉄五郎広英に嗣ぎ、後は文筆活動や風流三昧(さんまい)の生活を送り、『福山秘府・全六十巻』、『松前志・全十巻』、覆甕草(ふくべぐさ)、毛夷掌観図(もういしょうかんず)自序(蠣崎波響筆夷酋列像自序)、福山正系譜等多くの著書を残し、享和元年(一八〇一)五月十日六十五才で没、松前法源寺の村上系松前氏の墓地に葬られ、法号を廣長院殿徳峯常隣居士と称した。 広長と福島町とのかかわり合いについては、第三編第二章第二節で述べた如く、礼髭村(字吉野)が、代々村上系松前氏の和人地知行所であったので、そこでその関係を詳しく述べたので参照していただくが、そのほか、広長は館の沢(館古の沢)に鷹場所を拝領していたほか、隠居後覃部川畔に建造した枕流館(琴書堂)で風流三昧の生活をしていたが、自然と気候、風土の良い福島をこよなく愛し、数度訪れているうちに、この福島に住みたくなり、前藩主邦広(広長の父)が生前福島村の館古に建立した別 業地(別荘)があり、この別荘は邦広の死去する八日前に完成したというので、この藩主邦広侯のことを福島村の人達は八日様と呼んでいた(常磐井家記録)というが、この別 荘が、そのまま空いていたので、藩主道広(十三世)に願って、寛政六年(一七九四)借り受け、これを改修して清音館と名付け、ここに召使を連れて住みつき、風花日月を愛し、あるいは庭前の畑を楽しみ、獨酌をしながら陶然の気を養いながら文字に親しむという、正に世捨人の生活を送り、福島に住み着くこと八年、六十五歳をもって享和元年(一八〇一)五月十日に没した。 広長がいかに福島を愛したかは、その著『覆甕草(ふくべぐさ)』(市立函館図書館蔵)の「清音館記」で述べている。漢文であるので読み難いが、福島の自然、山岳、河川から動植物、さらには村の戸口から、造田開発にいたるまで、詳細に記述しているので、これを次に掲げる。
また、松前広長は琴書堂と雅号する如く、琴を愛し、常に座右に置いて獨弾していたが、その事は前記の『覆甕草』のうちの「箏曲抄序」に詳しく載っていて、
とあるように琴、尺八、琵琶(びわ)の音曲を愛し、音曲の名手であった。 今はその所在は不明であるが、かつて吉野八幡神社に村上系松前家から奉納された十三絃(げん)の抱琴があり、それを筆者が昭和四十年六月に調査をしているが、それによると、最大幅十七センチメ-トル、長さ一、二メ-トルの桐(きり)製のこの抱琴は、糸道が十三絃で、表胴体に「斜抱雲和染見月」の墨書と、胴裏には「謹奉納 文化戌辰五年 夏四月 松前銕五郎源広英」の墨銘があり、これは広長の愛用した抱琴を息子の銕(てつ)五郎広英が、文化五年(一八〇八)松前氏が幕府から転封を命ぜられて、奥州梁川に出立する際、村上系松前氏の建立である礼髭八幡社(現吉野八幡神社)に寄進したものであるが、社殿改築の際行方不明になったのは、返す返すも残念なことである。 |