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第一節 幕末の松前藩

(一) 北方の危機と松前藩

 徳川幕藩の中期以降、蝦夷地、唐太(樺太-サガレン)、千島方面に外国船が頻出し、松前藩の秘匿にもかかわらず、国内輿論として北方の危機が叫ばれるようになった。安永八年(一七七九)千島列島から南下をしたロシア人は厚岸に来て、我が国と通 商を求めたが、応待した松前藩士は国禁であるとこれを断わり、これを幕府に報告しなかった。寛政四年(一七九二)にはロシア使節アダム・キリロウイッチ・ラックスマンが、伊勢の国からの漂民光太夫ら三人を連れて根室に来て通 商を求めた。幕府も漂民移送ということもあり、事を穏(おだ)やかに納めようと、松前に役人を派遣して接見することになった。寛政五年(一七九三)六月ラックスマン一行は箱館から陸路松前に到り、藩家老下国斉宮(いつき)の浜屋敷で会見し、長崎以外での交渉は認められないので、長崎で交渉するよう諭し帰した。

 これより先の明和八年(一七七一)ハンガリー人でポーランド軍大佐としてロシア軍の捕虜(ほりょ)となって、カムチャッカに追放されていたベニョフスキーが、船を奪って逃亡し、阿波の港について徳島藩の保護を受け、さらに琉球の大島で薪水供給を受けた礼として、長崎商館長に、ロシア人が千島に砦を築き、松前およびその他の諸島をうかがっていると警告し、国内は北方に注視するようになった。さらに林子平の『三国通 覧図説』、工藤平助の『赤蝦夷風説考』等の刊行があり、その危機論が増大した。このようなこともあり幕府も捨ててはおけず天明五年(一七八五)勘定組頭土山宗次郎らに蝦夷地の調査と、蝦夷地交易試験とアイヌ人達への介抱を命じている。この調査行で青島俊蔵の配下で竿取り(測量 助手)として活躍したのが、最上徳内である。調査を推進した田沼意次おきつぐは、将軍家治が同六年九月死亡したことから逼塞(ひっそく)を命ぜられ、その調査は沙汰止となった。意次としては幕府の財政立て直しのため、蝦夷地の一港を開いて、貿易を行いたい考えであったといわれる。

 このようななかで松前家第十三世藩主志摩守道広は、性豪直で度量があり、文学、兵学、馬術、砲術等にも秀でていたが、何分にも十二歳で藩主になり放縦の生活が長かったので、幕府に対する反撥が強く、薩摩島津侯あるいは仙台伊達侯をはじめ、将軍家斉(いえなり)の実父一橋治斉(はるさだ)等とも交際していた。また北方危機論の高まりのなかで言行も謹まず、寛政四年(一七九二)、五年のラックスマンの来航等もあって批政が多く、幕府は道広の隠居致仕を求め、同四年九月には幕府目附朝比奈次左衞 門が来藩して、道広の血誓書を提出させている。

 家督は第十四世を道広の長子章広が継いだが、迫り来る外圧に対し小藩松前家のみの力だけで、これを乗り切ることは出来ないと判断した幕府は、対露防衛策として段階的に松前藩から領地を召し上げて、東北六藩の出兵を求めて警備と開拓を図り、住民を撫育して領土の保全を図ろうとした。寛政十年(一七九八)十二月書院番頭松平信濃守忠明を蝦夷地御用取締掛に任命した。翌十一年には勘定奉行石川忠房、目附大河内正寿まさひさ、吟味役三橋成方も御用取締掛に命じて蝦夷地の経営に入り、浦河から知床岬までとその属島を公収し、のちさらに知内川以東浦河までも公収し、その替地として武州埼玉 郡久喜町に五、〇〇〇石の地と金子若干が与えられた。

 東蝦夷地の経営を決めた幕府は、享和二年(一八〇二)箱館に蝦夷奉行を置き、さらにこれを箱館奉行と改めた。文化四年(一八〇七)三月にいたって、蝦夷地、唐太、千島とその属島の総てを公収し、領主松前家を九、〇〇〇石の交替(こうたい)寄合席小名(旗本)に降ろし、陸奥国梁川(福島県伊達郡梁川町)に移住することを決定した。松前家には、この梁川のほか上野国(こうずけのくに)(群馬県)甘楽郡、群馬郡、常陸(ひたち)国信太郡、鹿島郡九、〇〇〇石も与えられて、実質的には一万八、〇〇〇石を拝領したが、大名から小名(旗本)に格下げとなるのは、大名であった者にとっては最大の屈辱であった。

 文化四年十一月五日藩主章広以下は断腸の思いで松前を出発した。それまでの家臣の数は三四〇人であったが、これからの封地ではとても養うことが出来なかったので、士分六六名、医師四名、部屋住一六名計八六名の士籍を削り、さらに足軽七〇名も召し放っての出発であった。

 松前氏発途後松前には幕府直轄の松前奉行が設置され、川尻春之、村垣定行、戸川安諭(やすさだ)、羽太正養(まさやす)の四人が奉行に任命され、福山館を政庁として、松前・箱館は津軽、南部藩に警備を命じた。文化五年以降奉行は二人体制となったが、奉行の下には吟味役、吟味役格、調役、調役並、調役下役元締、調役下役、調役下役格、在住のほか勘定方(会計)には御勘定、支配勘定、御普請役等があった。蝦夷地の警備については会津藩、仙台藩、南部藩、津軽藩の出兵を求めて警衛に当らせたが、その出兵地域は次のとおりである。














地 名守備藩名出兵人数指揮者

松前

箱館

江指

エトロフ

クナシリ

ネムロ~サワラ

カラフト

ソウヤ~シヤリ

テシオ~ハママシケ

イシカリ~リイシリ

タカシマ~クマイシ


会津藩

仙台藩

津軽藩

仙台藩



南部藩

会津藩



津軽藩



津軽藩

二〇〇人

八〇〇人

一〇〇人

一、二〇〇人



二五〇人

一、三〇〇人



五〇人



一〇〇人

松前奉行

使番(派遣)小菅猪右衞門

使番(派遣)村上監物

西丸書院番(派遣)夏目長右衞





小姓頭(派遣)山岡伝十郎





幕府直轄




 その後警備地の変更もあって、秋田藩兵も加わっているが、東北諸藩の兵は突然酷寒の地での警備や越冬生活に体が慣れていないし、衣服も袷(あわせ)綿入に袖無(そでなし)程度であった。そのほか野菜不足もあって、脚気や水腫病で陣没する将兵も多く、あわてて国元から犬の毛皮や朝鮮人参、食料を急送するという状況であった。

 このような状況での警備が続くうち、ロシアの千島列島を通じての南下の勢は強く、文化八年(一八一一)には国後島でゴローウニン事件が発生した。ロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローウニン少佐は、千島列島から沿海州にかけての測量 を命ぜられ、五月択捉(えとろふ)島にきた。そして薪水糧食の補給を受けようと国後島の泊にいたったが、同所在勤の松前奉行調役奈佐瀬左衞 門と守備の南部藩と交渉中、上陸したゴローウニン少佐、ムール少尉、操舵(そうだ)手フレブニコフ、通 訳アレキセイ(ラショワ蝦夷)と水手四名の計八名を逮捕し、ディアナ号副艦長リコルドは、南部藩との間で砲撃戦を行った上帰航した。ゴローウニンら八名は松前に連行され、奉行直々の取調べの上捕虜(ほりょ)として抑留することになり、福山館南方天神坂上の旧松前家重臣の空家を改装して牢獄とした。

 翌九年四月二十日(新暦)ゴローウニンらはモール、アレキセイの二人を残して脱走し、城北背後の山を北向し、茂草川から小鴨津川を経て海岸に出、海沿いに北上し、五月二日木ノ子村(上ノ国町)で捕えられるまで十三日間山中や海岸を隠れ歩いていた。再逮捕された一行は、神明社後方の大松前川支流のバッコ沢(松前町字神明)に建てられた堅牢な牢屋に収容された。

 この文化九年八月リコルド少佐は、中川五郎治および六名の漂民を乗せて国後島の泊に来て、ゴローウニンの釈放について交渉したが不調に終り、たまたまケラムイ岬沖を航行中の高田屋嘉兵衞 の手船観世丸を襲い、嘉兵衞と四名の水主(かこ)を捕えてカムチャッカに連行し、ゴローウニンらとの交換を申し入れた。翌十年九月にいたってゴローウニンらと高田屋嘉兵衞 らの交換が決定され、一行を箱館に移した。そして九月十七日リコルド副艦長の指揮するディアナ号が箱館に入港し、両者の交換を終え、この問題は二年三か月ぶりに解決し、その後しばらくの間北方地域は平穏となった。



【松前氏の復領】 奥州梁川へ九、〇〇〇石の小名に降格されて移封した松前氏は、蠣崎将監広年(画名波響)が主席家老となって、梁川陣屋の建設から家臣の扶持、幕府や諸大名への復領嘆願、さらには漁業の藩から農業の藩への脱皮等多大な苦労をしのばねばならなかった。当時の梁川は阿武隈(あぶくま)川と広瀬川に挾まれた石河原と段丘地で田地は少なく、段丘畑地や養蚕で、畑作物を売って米を買い税を納めるという地帯であった。二〇〇人近い家臣の扶持は容易ではなく、家老でも一五〇石、士は足軽同様の三人扶持(一人扶持は一日米五合支給)という状況であった。このような困苦のなかでの復領運動は、その費用の捻出が容易ではなく、松前での松前氏代理人の桜庭左そ右う吉きちを介して募金運動をしたり、借上金をして復領運動をし、波響は家老の多忙な日課を割いて絵を描き、これを売って運動資金に当てていた。

 松前氏が復領運動の標的として賄賂(わいろ)を贈ったのは幕府老中首座水野出羽守忠成(山形城主、五万石)であった。忠成は将軍家斉(いえなり)の覚えもよく、また、将軍の父一橋治斉(ひとつばしはるさだ)とも懇意で、治斉と十四世藩主章広の父道広が遊び仲間であったこともあって、松前氏は水野出羽守に復領の嘆願と賄賂を集中していた。文政四年(一八二一)十二月七日、幕府は突然松前氏の蝦夷地復領を発表した。これは老中首座水野の独断で決定したもので、他老中と評議をせず専断し、これが賄賂であったことは、「天下周知の事実」といわれていた。しかし、水野にしてはゴローウニン事件後北方が平静になったこと、ナポレオン軍のモスクワ進攻でロシアは極東の兵力をヨーロッパに移動させたので一応の危機は去ったという判断もあった。

 翌五年正月元日この報は松前城下に知らされ、町中は大騒ぎとなったが、松前家の去った後幕府の松前奉行下で場所請負人達の近江商人や大商人は、松前家にはろくな挨拶もしなかったので右往左往するばかりであった。三月家老蠣崎将監広年と松前内蔵広純(くらひろずみ)、用人工藤八郎右衞 門貞矩(さだのり)らが松前に来て、四月松前奉行吟味役森覚蔵(がくぞう)から福山館と、蝦夷地とその属島の図籍を引き継いだ。五月二十九日藩主章広と嗣子見広(ちかひろ)が十四年振りに松前に帰り、住民は歓呼してこれを出迎えた。幕府松前奉行治下の松前では、北方危機への不安、不審火の続発、疫病、疱瘡(天然痘)の流行、ニシンの凶漁が続いていたが、この年からまたニシンが獲れ出し「殿様下(さが)ればニシンが下る」と喜び合ったといわれている。

 松前に帰着した松前家は、幕府の厳重な指示もあり、また梁川時代の苦境を踏まえ、大いに改革するところがあった。その第一は家臣への場所知行給与を止め、総ての場所を直領とし、場所請負人の入札、経営に任せた。第二に家臣の扶持を石高制と切米(きりまい)制度とした。寄合(よりあい)席の家老は五〇〇石、準寄合は四〇〇石、大書院・弓之間席は二〇〇石、中ノ間席は一五〇石、御先手組席は一一〇石。切米取の徒か士ちは九〇石、足軽は六〇石とした。第三に砲台および勤番所の増設で、松前城下には六か所の砲台を設け、箱館六か所、江差二か所のほか、白神岬・吉岡村・矢不来(やぎない)・汐首岬にも砲台を設けた。勤番所については東蝦夷地には山越内・絵鞆(えとも)・勇払(ゆうふつ)・様似・釧路・厚岸・根室・国後(くなしり)・択捉(えとろふ)に、西蝦夷地は、石狩・宗谷・唐太に三か所の勤番所を設置した。家臣は春三月出発し、秋十月に帰着したが、越冬は在住のみで警備を行っていた。この勤番の強化によって家臣は大幅に増加し、梁川から帰着の際約二〇〇名であった家臣が、僅か二年後の文政七年(一八二四)には五五七名に達し、その財政負担も大きくなった。