第九話 女郎岬の悲話 |
字日の出から字岩部までの約四キロメ-トルの間は、昭和三十三年にいたって町道が開通 したように、それまでは人の手の入るのを拒(こば)み続けてきた。この約四キロメ-トル間の中程には女郎岬があって断崖を海に迫らせ、今なおその容姿を留めているが、その岬を女郎岬と呼ぶ悲しい物語りが、福島町に残されている。 その昔といっても幕末の頃、吉岡村は船着場、福島村は宿場町で旅籠屋(はたごや)、飲み屋、女郎屋(女性を買って遊ぶ場所)も多かった。津軽地方の百姓衆は凶作で食うことが出来なくなると、若い娘を売って糊口をしのぐしかなかった。ある年津軽で身売りした若い娘が二人福島に買われてきて着いた処が女郎屋であった。昔、女性は年頃になると、お嫁になるか、荒くれ男に交って日雇になるか、接客婦となって芸妓になるか、酒の相手をする酌婦か、自分の身体(からだ)を売って働く女郎になるかだったのである。 何の取得もない二人は、毎日自分の身体を張って、違う男性に春をひさがなければならなかった。この若い二人はとても、それに耐え切れず、二人でこそこそ相談して何とか逃げ出そうと決心した。しかし、福島に来て間もないこともあって、どこへ逃げたら良いか分からず、窓を開けて見ると海の中に矢越岬が見えるので、ここを越えれば箱館まで逃げれると信じ、ある夜二人は意を決して家出をした。 月の崎、釜谷、浜端(はまはず)れ、筆(ふで)等の村々をこっそり越えるともう道はなく、そこからはごろた石や岩を飛び越えて進んだが、前面 の海にそそり立つ大岩があって、ここを通り抜けることができなかった。精も魂も尽き果 てた二人は福島に帰ってもまた、嫌(きら)いなお客を取らされる位なら、いっそのことここで死のうと、袂(たもと)に小石を入れ、二人抱き合ってこの岬から入水自殺をした。 翌日その死骸を発見した村人たちは、この二人の悲しいさだめを慰めようと、ねんごろな供養をしたといい、その後は誰言うとなく女郎岬と呼ばれるようになり、ここを通 る人は必ず手を合せ冥福を念じながら通ったものである。 この岬は、その後も人の入るのを拒み続け、海が時化たときは、岩伝いに越えることができず、岩登りをして通 らなければならなかった。昭和三十年十二月二十七日の荒天の際、字岩部まで郵便配達に出た福島郵便局の職員沢田一豊、斉藤金五郎さんの二人は、この岬で怒涛にのみ込まれ殉職している。 |