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 天文二十一年(一五五二)という古い時代の話である。上ノ国の館主から松前の大館主になった蠣崎氏は、この大館を中心に道南地方に足場を固めていた。初祖武田(蠣崎)信広の子で二祖に当る光広には二人の男の子がおり、一人は三祖に当る義広となり、もう一人の男子は蠣崎二郎高広と称し永世元年(一五〇四)泊村(江差町)の城主となり、同十三年には上ノ国勝山の城主となったが、その子太郎基広が家を嗣ぎ、高広は剃髪して永快阿闍梨(あじゃり)と称し、廃寺になっていた真言宗阿吽(あうん)寺を復興し、開山となった。

 その子基広は同じ上ノ国にある和喜の館の城主南條越中守広継の養子となった。この南條広継はコシャマインの乱当時の脇本館(知内町湧元)の館主の末裔であり、妻は松前家四祖季広の長女であって、女性であることによって家督を継げぬ 事を恨(うら)み、基広を宗家々督にしようと謀反を計画していることが発覚し、ついに季広は、基広および養父の広継を捕えて処刑した。これに怒った内室は短刀で自害したので、哀れに思った領主季広は、その内室の屍(かばね)を長泉寺(現在の法界寺)に葬り、高嶽院殿玉 簾(こうがくいんでんぎょくれん)貞深大姉と号し、おりかない川(福島川)を牌所料とし、長泉寺領として与えたのは天文二十一年(一五五二)であったという。

 ところが長泉寺領となった途端、おりかない川にあれだけ上っていた鮭が全く捕れなくなった。人々は内室の恨みで鮭が捕れなくなったと、女の恨みの恐ろしさを知り、誰言うとなく、精進川と呼ぶようになった。それから三十三年間村人は鮭のことを全く忘れていたが法界寺で三十三回忌が行われて以降、おりかない川にまた鮭が遡上するようになった。また、この天正十三年(一五八五)に、河中から一尺五寸(四五センチメ-トル余)の阿弥陀如来像が出現し、長泉寺の本尊として村内の崇敬を集めたといい、これを機会に宗旨、寺号を改め、浄土宗観念山寿量 院法界寺という寺号となり、開基を村長(おさ)戸門治兵衞として立派な寺院を建設した。