第一節 幕末の松前藩 | |
(三) ペリー来航 松前福山城の完成した年の安政元年(一八五四)三月三日月番老中松平伊賀守忠固(ただかた)(信州上田城主、五万三、〇〇〇石)から松前藩江戸藩邸家老に呼び出しがあり登城したところ、浦賀来航中のアメリカ極東艦隊の司令官ペリーが松前沿海へ赴くことを願っており、もし渡航した場合軽率な待遇をしてはならないという通 達をした。また、前藩主昌広の義父で老中の松平和泉守乘全(のりまさ)からも申添えがあった。江戸藩邸は三駄 早の飛脚を仕立てて、十日後の三月十四日在国中の藩主崇広の下に届けられた。今回のアメリカ艦隊来航は松前藩にとっては全く予期せぬ ことであり、来航目的の具体的内容も承知していないので、困惑するばかりであった。しかし、すでに三月三日日米和親条約が締結され、そのなかで、「伊豆下田、松前地箱館」の両港の開港が決定されていたものであった。したがってペリー艦隊の来航は、箱館港の事前見聞調査であった。 寝耳に水の松前藩の対応は、いかに平穏のうちに彼らを帰航させるかにあった。先ず藩を代表する首席応接使を誰にするかであったが、四人の家老はいずれも高齢であったため、前年奥用人から家老格に昇格したばかりの松前勘解由(かげゆう)(蠣崎広伴〔蠣崎波響の子〕の二男で松前準十郎広重の養子)が、首席応接使に選ばれ、副使には用人遠藤又左衞 門、町奉行石塚官蔵、箱館奉行工藤茂五郎が第一応接使に任命され、第一応接使に事故がある場合の予備として第二応接使に藤原主馬(しゅめ)、関央(かなえ)、箱館在住の代島剛平、蛯子(えびこ)次郎等に待機の命が下った。警備については番頭佐藤大庫(おおくら)、旗奉行近藤簇(やから)、脇手頭奥平勝馬、駒木根篤(とく)兵衞 、目付高橋七郎左衞門等の一番隊四七名と箱館在住者で警備をすることになった。四月五日には箱館住民に触書を出し、もし、アメリカ船が来航した場合、浜辺や高い所に立って見物をしてはならない。小舟を乗り出したり、みだりに徘徊してはならない。アメリカ人はよく人家に立入り食物や酒を求め、「或ハ婦女子ニ目ヲ掛小児ヲ愛ス」るので、婦女子は山手方面 や遠方に避難させ、商店は休業せよという指示を出し、大騒ぎとなった。 四月十五日ペリー艦隊の帆船マセドニヤン、ヴァンダリヤ、サゥサンプトンの三艘が入港、二十一日には汽船ポーハタン号、ミシシッピー号が入港した。二十二日にはペリー一行はボ-トで箱館に上陸し、山田寿兵衞 宅裏座敷で、松前勘解由以下の松前藩応接使と会見し、通訳はペリー艦隊に同行していた清国人羅森が当り、日本側には漢文で通 訳した。 アメリカ側は神奈川応接掛林大学頭から松前藩主松前伊豆守宛の添書を提出したが、幕府から松前藩に対しては何らの指示もなく、通 訳さえ派遣されなかった。そのため具体的協議ができなかったことを怒ったペリーは、松前に赴き、直接協議すると言い出し、応接使を苦しめた。しかし、松前勘解由の温厚篤実さや、貴公子然とした態度はペリーに深い感銘を与えたという。またその交渉は「松前勘解由のコンニャク問答」として諸大名の評判になったといわれている。 四月二十四日蝦夷地巡回調査のため向地三厩村に滞在中の幕府目付堀織部正(おりべのしょう)と勘定吟味役村垣与三郎のもとに、松前からの急使が訪れた。このため、一行の中にいた外国通 の部下安間純之進、平山謙二郎、武田斐(あや)三郎の三人が箱館に急派され、ペリー応接の手助けをした。ペリーは箱館湾や内浦湾(噴火湾)の測量 を行い、箱館の港が予想以上の良港であることに満足し、細かい取り決めは下田で協議することにして、五月八日退帆した。この北辺の箱館が開港場の一つに選ばれた理由を、ペリーの書には「箱館は捕鯨船の通 り道にあたり便利な位置にあるため、将来我が国の捕鯨船によって頻繁に利用されるであろう。」とあるように、捕鯨船の薪水、食糧の補給基地として北方の一港を開く必要があったからである。 |