第一節 幕末の松前藩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(四) 蝦夷地の上地と三万石格大名 箱館開港によって幕府は種々の外交問題の処理と、蝦夷地の警備、拓殖が問題となったが、弱小松前藩の力のみでこれを進めることは困難な情勢となってきた。まず、開港場箱館の外交処理機関として安政元年(一八五四)六月末日勘定吟味役竹内清太郎保徳、目附堀織部正利煕(としひろ)の二人が箱館奉行に任命され、仮に外国人遊歩地域として箱館より五里地方が上地され、翌二年三月から開港することになった。 その後、箱館開港によって蝦夷地近海での外国船の出没も多くなり、幕閣はさらに北方警備の強化、蝦夷地への拓地殖民の推進を図るためには、蝦夷地全島と属島を含めた地域の支配体勢を強化し、これらの島々を幕府の直轄地とするため、松前家の支配下にある蝦夷地のうち、東は木古内村、知内村境界の建有川から西は乙部村蚊柱までの間を残し、他の蝦夷地、千島、樺太と属島を上知することになり、翌二年二月松前家に通 知し、代りの領地は後日改めて決定するということであった。 蝦夷地の支配、場所との交易、さらにはこれらの物資の交易経済によって支えられている松前藩は、和人地の一部のみ領有となれば、藩の産業基盤が根底から覆(くつがえ)ることになり、出稼や場所で働く人達にとっては死活問題となり、一方的な上地のうえ、替地の決定しない幕府の決定を不服とする家臣や漁民の不安と焦慮は日増しに強まり、領内に不穏の動きが現われるようになった。 【老中駕籠訴(かごそ)】 十七世藩主松前伊豆守崇広は、同年三月十日自ら布告を発し、幕府からの代替知行地の決定があると思うので、家臣、領民は軽挙妄(もう)動は慎むよう戒(いまし)めている。しかし、家臣のなかには密かに松前を抜け出し、伊達家を通 じ復領嘆願をしようと、松前家の親族で白石城主(一万八、〇〇〇石)片倉小十郎、同じく同族である松前主水(もんど)(二、〇〇〇石)を通 じ伊達侯に復領運動しようとするものがいた。さらに、三月二十一日には川村佐七、湊浅之進らが仙台に赴き、四月五日には関佐守、山下雄城(ゆうき)ら若手家臣が、また五月三日には工藤丹下(たんげ)らも仙台に赴いて嘆願している。このような動きは、幕閣に対しての駕籠訴(かごそ)の危険性をもはらんでいたので、崇広は家臣を集め「三年待て、軽挙妄動は許さない」と厳命し、自らの真意を嘆願書にして仙台藩を通 じて幕府に提出している。 松前から閣老駕籠訴のため江戸に登った町人の第一回駕籠訴は、四月二十一日松前市人五人によって、各老中の登城途次に強訴した。これら老中への駕籠訴をした場合、政道が乱れるということもあって死罪となることが定法であったが、幕府はその非もあってか、寛典に済ませ身柄を松前藩江戸藩邸に移し、五月松前に移送している。しかし、史料がなく、この第一回駕籠訴の詳細は不明である。 第二回目の駕籠訴は西在各村代表と城下代表で協議した上で、五月十六日一行三十名は出発した。途中仙台で江戸から移送されてきた第一回強訴から松前に返還される一行と逢い、江戸の状況を聴き、取り敢えず仙台藩に上書をした。しかし一行は他出を禁じられ、仙台藩の賄を受けていた。 一方松前城下では住民主体の復領運動成功の祈願祭が城西立石野で行われることになり、各村役、村民の参加を求める廻章が十九日近在に配られた。
この通知を受けた各村は代表者を送り、二十日立石野で会合し、駕籠訴の成功を祈ったが、参加者は一、四〇〇人にも達した。これを首宰した通 知書の御祈祷知事というのは城下大松前町の輪島屋太左衞門と唐津内町の岩田又七等であったが、その陰に居たのは町奉行飛内(とびない)策馬であったと思われる。この祈願祭終了後さらに駕籠訴後続者の募集と、旅費や運動資金の募金も行っている。 【第二回駕籠訴】 仙台藩の介護を受けていた五名の第一回駕籠訴の者達のほか、松前から江戸に向かって強訴の者達が続々と出発していることを知った仙台藩は相去関を中心に警戒していたが、六月に入ると熊石村多十郎等五名、六月十七日には福島・吉岡村を中心とした東在の者で福島村助三郎らの一行三五~六名がこの関所で足止めになった。さらにこの警戒を潜って上ノ国の百姓達が仙台に到り、さきの護送者と逢い、四一名の連名で仙台藩に嘆願したが、仙台藩は松前藩からの申し入れがあり、上ノ国名主の久末善右衞 門ら三名の者を残し、他の全員を松前に帰国をさせた。しかし後続の嘆願者が詰めかけたので、久末らは四一名の一行となり、九月九日に仙台を出て、九月二十八日に江戸へ入っている。十月二日夜江戸で大地震(安政の大地震)と大火に遭遇した。一行は出国して江戸で待っていた同志と語らい、生命を堵して駕籠訴をすることを決め、先ず訴状をもって桔梗口門、龍之口門へ十月十六日明六ツ半時(午前七時)上訴し、さらに二十日登城の老中へ駕籠訴することにし、各老中への出訴者を次のように決定した。
二十日駕籠訴の一行九名は登城する各老中へ嘆願書をもって上訴したが、その書は次のとおりである。
この駕籠訴の九人は幕吏によって捕えられ、取調べを受けたが、この強訴は一揆的なものではなく、蝦夷地を元の如く松前家の領知にしてほしいとの嘆願であり、幕府も一方的に蝦夷地を上知しながら、代替知行も与えないという非もあり、特別 の慈悲をもって訴人達は江戸松前藩邸に引き渡されている。主謀者の江差の茂右衞 門、上ノ国名主善右衞門、松前町代要右衞門、同藤七等は別行動をとって伊達家江戸邸へ嘆願したりしていたが、十一月十六日松前藩江戸藩邸からの呼び出しを受けたので、出向いた処抱禁され、嘆願者一同は松前に送還されたが、この出訴者に対し藩は何らの処罰をせず、脱藩家臣の帰参も許された。このような住民の盛り上がりによる運動の結果 もあって、十二月四日幕府は松前崇広に対し、蝦夷地上地の替地として奥州梁川(福島県)、出羽国村山郡東根(山形県)に三万石の領地を賜わり、さらに出羽国尾花沢一万石を預り地とし、また毎年幕府から一万八、〇〇〇両を賜わり、家格も三万石家班に列せられることになった。この駕籠訴の訴状にもある通 り、強訴の一行は福島村から小廻船で下北半島の大澗へ渡っており、また、この中には福島村の助三郎も含まれるなど、村民のこの運動に対する協力は大きなものがあった。 【第三回駕籠訴】 安政二年十二月蝦夷地南部の和人地のうち建有川(知内村)から乙部村まで領有の無禄の状態にあった松前家が、奥州に采地を得て三万石格の大名とはなったが、蝦夷地内は東北諸藩が出兵して警備にあたり、出費の一助とするためその地域内の場所請負はその藩が運上金を徴収し、また従来の松前藩の特権を認め、出入荷物は松前・江差・箱館の三港のいずれかを経由するということとなった。さらに、請負人は東北各藩に冥加(みょうが)金を納めなければならないということで二重の負担となり、松前での商業権益の確保もむずかしくなってきた。 安政六年(一八六〇)十一月幕府は蝦夷地に出兵している東北諸藩に対し、その警備地を各藩に分与してその藩の領地とし、警備と開拓に当らせることを決定した。その分轄領地は次のとおりである。
この決定によって松前藩の産業、経済基盤が根底から崩れることになった。東北諸藩が蝦夷地内の警衛地を領地とした場合、その各藩が場所の直支配をするため松前とかかわりなく、産物の移出入を直接行うことになるので、この交易経済の断絶は松前藩自体の存立をも危(あや)うくする事態となり、住民生活にも大きな影響を及ぼすことにもなるので、この幕府の決定に反対し、松前家に元の如く蝦夷地を返して欲しいという住民運動を行うことになったが、これが第三回の駕籠訴である。 この第三回の駕籠訴についての大寄合は、安政六年(一八五九)十二月十七日に東在は大沢村、西在は根部田村で行われ、各村、場所請負人、御用達等に配られた廻章は、
で、四、〇〇〇人もの東、西各村百姓による大寄合が計画された。同年十二月十七日東在住民の多くは大沢村に集まって、江戸で行われようとする第三回の老中駕籠訴が成功するよう気勢を上げているが、この集合場所や参加人員は不明である。また、この強訴の中心となったのは前回同様松前城下大松前町(字福山)の呉服商輪島屋太左衞 門であるが、御用達、場所請負人、問屋仲間等から旅費の援助を受け、十一月には数百人の領民が江戸に旅立っていた。 同年十二月十六日、十八日、二十日の三回にわたって松前領民の駕籠訴を行ない、翌安政七年(万延元年-一八六〇)一月に入り、十九日、二十一日と五回にわたる公訴で、時の大老井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ)をはじめ各老中に対し、執拗(しつよう)な程の駕籠訴であったことから、幕府は領主松前伊豆守崇広の差扣(登城を許さない)を命じた。『北門史綱 巻之参』によれば、
とある。この公訴は一個人の庇政を論じたものではなく、ご政道にもかかわることであり、しかもその訴人の人数があまりに多く、その処分ができないので、松前藩に内々引き渡され、藩士が付添い松前送りとなったが、このような大量 の訴人が、処断を受けなかったのは全く異例のことである。 この訴人は幕府のみではなく、蝦夷地を分与された東北諸藩に対しても行われているが、特に秋田、庄内に対しては蝦夷地を松前藩に返地して欲しいと嘆願し、これらの一行は十二月二十四日秋田・庄内藩境の吹浦口留番所に到着し、庄内藩へ嘆願しさらに江戸へ登ろうとして逮捕され、松前藩の東根陣屋(山形県東根市)に引き渡しとなっているが、二月中三厩、野辺地から船で返された訴人の人達は、二六四人余の多きに達している。 この公訴の結果、松前家の蝦夷地の領地は、東は建有川(知内町)から西は乙部村迄であったものが、熊石村迄と若干の領地の延長が認められ、各藩分治のなかでの場所請負の上り荷物、下り荷物は松前・江差・箱館の三湊を経由、税役を納めることで決着した。 【箱館奉行の設置と松前藩】 安政二年(一八五五)二月二十三日幕府は松前藩に対し、東部は木古内、西部は乙部以外の地を上地させ、それ以外の地および島々は総て幕府の直轄地とし、その警衛および開港地箱館の外交問題を処理する機関として箱館奉行を設置した。同年六月から八月にかけ竹内清太郎保徳、堀織部正利煕(としひろ)、村垣淡路守範正(のりまさ)等が任命され、旧松前藩箱館奉行所を庁舎として開庁した。蝦夷地の警備については東北五藩(のちには六藩)の出兵を求めた。箱館から木古内までの海岸警備については、松前藩が担当することになり、特に箱館港防護のための箱館押付(おつけ)浜台場に対峙する戸切地村(上磯町)矢不来(やぎない)台場防禦の兵の常駐が必要であったことから、戸切地村穴平(向陽台、清川)に同年陣屋を構築し、松前陣屋と称した。 また箱館奉行所は箱館山の中腹にあって、遊歩する外国人からも丸見えの状況であったのと、幕府の本格的蝦夷地経営のための本拠としての政庁の築設を行うことになり、同三年五月には奉行から箱館付近の台場(砲台)の統合拡大と、のちの五稜郭といわれる亀田土塁役所の築設についての調書を提出した。これによると、箱館の弁天岬と筑島に砲台を築き、大砲は下海岸地方の砂鉄をもって鋳造する。箱館山中腹と千代ケ岱には出張陣屋を設け、亀田村に洋式の保塁と庁舎、役宅等を建設するというものであった。 この計画は二十か年四一万八、〇〇〇両余の計画で実施されることになり、安政三年十一月には先ず弁天岬砲台の築設と備砲の整備を合わせ一四万両で工事に着手し、諸術調所教授の武田斐(あや)三郎が西洋の築城書によって設計し、岬地先海面 を埋めたてた上、堅固な石垣による砲台を築き、石工(いしく)工事は備前の喜三郎が当り、七年の歳月を経て文久三年(一八六三)完成した。その形状は六角形で周囲は延長七〇〇メートル余、高さは一一メートル余、砲座眼一五を設け、六〇斤(きん)砲二、二四斤砲一三座を備え、当時としては最も進歩した砲台であった。 五稜郭は当初亀田土塁役所の名で、武田斐三郎が設計し、安政四年工事に着手し、八年の歳月を経て、元治元年五月完成した。当初塁濠に九万八、〇〇〇両、庁舎、役宅、亀田川掘割などに四万五、〇〇〇両、備砲四万両の見込で着手、濠割は松川弁之助、石垣は井上喜三郎、庁舎は中川源左衞 門が当った。この西洋式保塁は面積五万四、一二二坪、高さ約一丈五尺(四・五四メートル)で、濠内に三か所の門を設け、五か所に出塁を設ける予定であったが、一か所の出塁に留まり、完成を見ずに竣工した。 箱館の開港は安政元年(一八五四)三月三日アメリカ極東艦隊司令官ペリーと幕府とで結ばれた神奈川条約において開港が決定している。その条約の第二条では「一、伊豆下田、松前地箱館の両港は、日本政府に於て、亜墨利加船薪水、食料、石炭欠乏の品を、日本にて調候爲め渡来の儀差免し候。尤下田港は、条約書面 調印の上、即時にも相開き、箱館は、来年三月より相始候事。」とあって、安政二年より開港となった。これは開港といっても薪水、食料、石炭等の供給をすることが目的であったが、我が国で二港を開港するのに、伊豆の下田と北辺の箱館が選ばれたということは、特に箱館は外国捕鯨船が蝦夷地近海に殺到している時だけに、その薪水、食料の補給のため、蝦夷地内にどうしても一港の開港が必要であったからである。 外国船、外国人の往来が激しくなると、当然の如く貿易が必要になり、安政五年六月十九日米、露、英、蘭、仏との五か国間に通 商条約が締結され、箱館は同六年六月二日から貿易港として開港された。アメリカは貿易事務官ライスを安政五年二月箱館に派遣し、同年ロシアは領事ゴスケウィッチや家族、医師(ゼレンスキー)、宣教師(イワン・マホフ)等一五名、同六年にはイギリス領事ホヂソンが来て仏領事を兼ね、さらにユースデンと変り、のちにはプロシア(ドイツ)もR・ガルトネルを派遣し、貿易の開始と共に箱館は急激に西洋文化に浸(ひた)り、また、市街も人口が急激に厖張し、一大都市化が図られるようになった。 |