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第二節 徳川脱走軍の蝦夷地占拠

  松島湾在泊中の榎本艦隊は、戦闘を続けている庄内藩救援のため千代田、長崎の二艦を派遣し、幕府から仙台藩へ貸し付け中の輸送船大江、鳳凰(ほうおう)の二艘を取り上げ、海軍の再編成をした上、開陽、回天、蟠龍、神速、長鯨、大江、鳳凰の七艘で十月九日仙台領東名浜を出帆し、途中折ノ浜、宮古に寄港して薪水を補給して蝦夷地に向った。東名浜出帆の際榎本は平潟口の四条鎮撫総督に対し、「一同軍艦ニ爲乘組、今日当所出帆、北地ニ渉リ、開拓之業ヲナシ、身ヲ容レ凍飢ヲ凌ガントス」と蝦夷地開拓に赴かんとし、もし聴き入れざる時は一戦も辞せずと嘆願書を提出しているが、このような勝手は、国の大局的立場からは到底許さるべきものではなかった。

 この徳川脱走軍の艦隊と陸兵諸隊は、以後の戦争で大きくかかわってくるので、一覧表で示すと次のとおりである。
















徳川脱走軍艦船一覧

























艦名開陽回天蟠龍神速
屯数二、八一七一、六七八三七〇二五〇
構造
三本檣、木、汽

スクリュー内車

三本檣、木、汽

外車

ニ本檣、木、汽

内車
二本檣、木、汽内車
装備
主砲四〇斤

二六門

四〇〇馬力

一二ノット

主砲五六斤

一一門

一二ノット
大砲四門
大砲三門

九〇馬力
就役
慶応三年

オランダより回航
慶応二年安政五元治元
船将乗員
沢太郎左衞門

三〇〇人

甲賀源吾

二〇〇人

松岡盤吉

一〇〇人余

西川貞三

一〇〇人余
戦争参加状況
明元、一一、一五

江差沈没

南北戦争参加

明二、五、一一自焼
 
明元、一一、二三

江差沖沈没
その他
オランダ製

砲は後三五門

ロシア製

(元ダンジク号)

(イーグル号)

イギリス、

ビクトリア女帝ヨット

(インペロル号)
イギリス製

























艦名千代田長崎長鯨大江
屯数一三八三四一九九六一六〇
構造二本檣、汽、木汽、鉄
汽、木

外車

汽、木

内車
装備
大砲三門

六〇馬力
 
輸送船

三〇〇馬力

輸送船

一二〇馬力
就役
慶応二

石川島竣工
 慶応二元治元
船将乗員
森広弘策

三〇人
四〇人?
喰代和三郎

一五〇人
三〇人
戦争参加状況
明元、一〇、一九

庄内援

明二、五、一

官軍占領

庄内援兵

帰路飛鳥破壊
室蘭回航輸送船
その他  
イギリスより購入

ダンバート号
アメリカ製

























艦名鳳凰美香保咸臨高尾(第二回天)
屯数一三〇七〇〇人三八〇不明
構造
汽、木

パーク帆
木、帆木、帆三本檣、木、汽
装備 輸送船輸送船
砲艦

大砲五門

(アシロット)
就役元治元 
安政四

慶応元解船
 
船将乗員三〇人六一四人一二〇人
古川節蔵

三〇人
戦争参加状況 銚子沖 自焼清水港官手に入る明元、一〇、二八
その他  
明治四、九、一九

泉沢沈没

明二、三、二五

南部自焼
(麦叢録、箱館戦争と大野藩、箱館開戦史話、甲賀源吾伝、歴史読本昭和五十四年九月号「戦闘参加諸隊」、江差町発行開陽丸によって作製)










徳川脱走軍編成表 陸軍二、四一五人 海軍八〇〇人 計三、二〇〇人




















































隊名隊長名人員主戦闘場所その他
彰義隊
菅沼三五郎、

池田大隅
二六〇人松前、矢不来、大川 
神木隊酒井良助一五〇人六〇余南部宮古降伏高田脱藩、品川乗船
杜陵隊伊藤善次七〇余矢不来、千代岱 
小彰義隊渋沢成一郎五〇余一本木、千代岱幕兵
遊撃隊伊庭八郎一〇〇余松前、折戸、木古内(人見勝太郎)
会津遊撃隊諏訪常吉一〇〇余矢不来(福島) 
陸軍隊春日左衞門一六〇余松前、亀田 
一聯隊松岡四郎次郎二〇〇人
松前、江良、折戸、

木古内
旭隊奥山八十八郎二〇人余後参加(三木軍次)
伝習士官隊滝川充太郎一六〇人東北、二股、千代岱 
歩兵隊本多幸七郎二二五人東北、矢不来、二股、一本木(伝習歩兵隊)
砲兵隊関広右衞門一七〇余東北 
衝鋒隊古屋佐久右衞門四〇〇余
東北、二股、矢不来、

木古内 亀田、千代岱

1大隊天野新太郎

2大隊永井蠖伸斉
額兵隊星恂太郎二五〇余松前、矢不来、有川仙台、赤衣歩兵
新撰組森常吉一〇〇余松前、七重、台場 
見国隊二関源治四〇〇余
千代岱、有川、大川、

室蘭
南部明2、4参加
工兵隊吉沢勇四郎七〇余亀田、五稜郭 


 明治元年十月二十日(旧暦=新暦換算では十二月三日)榎本艦隊は内浦湾の森村支村の鷲ノ木村(森町)沖に現われ、陸兵は折からの風雪を冐して上陸を開始した。箱館府は兼ねて旧幕府軍北上の浮説に動揺する庶民対策に頭を痛めていたが、八月二十九日の諸道鎮撫使に対して脱走者の始末についての布告があって、事態はいよいよ急を告げていることを知っていて政府に対し兵員の増派を要請していた。九月政府は取り敢えず庄内藩鎮定後の備後福山、伊豫宇和島、越前大野の三藩兵を出兵させることにしたが、たまたま南部藩が旧幕軍に組して津軽藩を攻撃し、津軽藩兵が苦戦していたので、取り敢えず三藩兵を応援させることにした。このとき急に南部藩が降伏したので予定を変更して、箱館府に応援することになり、十月十九日には津軽藩は四個小隊が箱館に上陸し、徳川脱走軍が上陸したその日の二十日には備後福山藩兵七〇〇余人、越前大野藩兵一七〇余人も箱館に着いて、同地の警備についた。

 鷲ノ木に上陸した徳川脱走軍(旧幕軍、東軍、脱走軍等々の呼び方があるが、ここでは当時この地方の人達が呼んでいた慣用語を用いる)は蝦夷地渡島した趣旨を箱館府に訴えかつ朝廷にふたたび嘆願することにした。その内容は「蝦夷地の義は、徳川家より兼ねて朝廷へ出願の趣も有之候に付、暫く同家へ御預け被下置度、自然御許容無之候はば、不得止官軍へ抗敵可仕云々」という一方的な押し付け文句であった。この書を人見勝太郎(幕府遊撃隊隊長)に持たせ三〇名程の兵を付けて箱館府に提出させることにして先発させたが、それは見せかけのことで、同時に土方歳三が下海岸を鹿部、尾札部(南茅部町)を経、川汲山道を経て箱館を挾撃する体制を整えている。また、人見の先遣隊の後方には大鳥圭介の率いる本隊が後続していた。

 この徳川脱走軍の鷲ノ木上陸の飛報は、二十日午後三時ころ五稜郭に届いたが、この時間に救援の越前大野藩兵が箱館に上陸したところで箱館府はこの報を受け早速軍議を開いて徳川脱走軍と対決することを決め、備後福山藩と越前大野藩兵は市内警備と弁天砲台を担当し、府兵一小隊、津軽藩一小隊を茅部方面 に斥候として出陣させた。二十一日は府兵二小隊、津軽藩二小隊、松前藩二小隊は大野村に進出、二十二日には七重村支村城山(現七飯町字藤城)に本営を設けた。同二十二日の夜人見勝太郎らの先遣隊が峠下村(七飯町)に宿泊したが、政府軍に二手に分かれ、一隊は峠に向かい、一隊は宿舎を襲撃したが、午後八時ころ大鳥軍の本隊が来援し、政府軍は城山に後退した。二十三日は城山で交戦、二十四日は大野、文月(大野町)、苫根別 、有川(上磯町)、七重(七飯町)で戦闘が行われ、大野、文月の戦いでは、意お富お比い神社の境内を陣地とする穴平の松前陣屋の守備兵が戦ったが、遂に利なく、陣屋を焼いて箱館に後退した。今なお意富比(おおい)神社の東面 する水松(おんこ)、杉等の樹幹には多くの弾痕が残されている。

 箱館府の府知事清水谷公考(きんなる)は寡兵をもって五稜郭を守ることは困難と考え、一時青森に撤退することとし、出兵各藩に告げ、碇泊中の秋田藩購入の軍艦陽春(別 名加賀守)に乗り、箱館府兵五二人、松前藩兵一五五人、大野藩兵八〇人、備後福山藩兵四〇〇人が同乗し、二十五日午前二時頃箱館を出航し、青森に向かった。さらに残余の兵もイギリス船を雇い上げて青森に逃れている。このとき脱走軍の軍艦回天が鷲ノ木から箱館に回航していて、これらの船を目撃したが、開港地のため外国人居留地や外国船を考慮して発砲できなかったという。

 二十六日早朝赤川村(函館市)を発した脱走軍本隊の大鳥圭介らは五稜郭に入り、箱館市街および諸施設を占拠したが、旧幕臣の小杉雅之丞(進)筆『麦叢録』では、







廿六日拂暁赤川村ヲ発シテ本道五稜郭ニ向フ。松岡隊先鉾ニテ郭内ニ入ル。兵糧弾薬等散乱狠籍タリ。…胸壁上ニ廿四斤砲四門据付ケノ侭放棄シアリ、大鳥、人見、佐久間、松岡等郭内ヲ巡視シ、火ノ元、盗賊等ノ取締方ヲ嚴命シ、各兵隊ヲ郭ノ内外ニ分宿セシム。此日土方ノ兵及仙台脱藩星恂太郎ノ率ユル額兵隊、春日左衞 門ノ陸軍隊等川汲ヨリ皆到着ス、是ニ因テ我軍兵ヲ交ヘヅシテ五稜郭ヲ抜ク時ニ廿六日ナリ。…




とあって、箱館府が五稜郭を引き揚げる際には相当の混乱があったようで、備砲もその侭使用できるようにしたままで、兵器や糧食も散乱したままであったという。一般 的に徳川脱走軍の五稜郭占拠は、十月二十五日といわれているが、前記史料からすると、二十六日が正しいと思われる。