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第三節 福島・松前城の攻防戦

 徳川脱走軍が五稜郭を占拠したその日の二十六日、兼ねて松前藩江戸屋敷の家老遠藤又左衞 門、京都御所守衛松前藩取次役高橋敬三の二人の佐幕派家臣誅殺のため出張中の松前藩の家臣達が、その目的を終えて箱館に帰って来た。その一行中の渋谷十郎の筆になる『渋谷十郎事蹟書上』(函館市中島良信氏所蔵)は、箱館より、知内・福島を経て松前城の攻防にいたるまでを詳細に記していて、この戦争を知るための手掛りとなるので次に掲出する。








前文略…

十月廿五日午後十二時凾(ママ)館へ入港ノ処、港東津軽陣営火起リ火焔天ヲ焦ス。然ルニ市街寂トシテ警火撃拆(たく)ノ声ホ粛然タリ。敢テ失火ノ景况ニモ非ス於是乘組一同警怪シテ変事タルヲ知ラス。忽チ外国人バッテイラ(ボート)ニ乘リ運上所ニ至ル。少時ニシテ来リ報ス、本月某日徳川脱艦鷲木村ニ揚陸、以来弘前(津軽)及備後福山、館三藩ノ兵隊知府事清水谷殿ノ令ヲ奉シ、大野口ニ於テ接戦ノ処軍利アラス惣軍一旦青森へ退陣依之賊徒今宵凾館ヘ屯集ノ旨ナリ。於是進退維レ窮ルト雖モ艦中ニ在テ事果 ツベキニ非サレハ一同ト決議シ此夜ハ先ツ一泊、翌廿六日早天上陸直チニ運上所ニ到リ、各々姓名ヲ陳ヘ隊長ニ面 会シテ事由ヲ逑ンヲ乞フ。賊中伊奈善太郎ナル者応接シテ曰ク、陸軍隊長松平太郎鷲木村ヨリ来着迄旅宿ニ扣居ルヘキトノ事ナリ、仍テ一同定宿亀田屋藤兵衞 方ヘ一宿ヲ投ス。

 仝廿七日陸軍副隊長土方歳三馬乘ニテ旅宿ヘ訪来ル、余友安田純一郎之ヲ一室ニ請シ定テ歳三曰ク、各々我等ニ面 会ヲ望ムハ如何ナル事情ナルヤ、余等応テ曰ク、余等去八月中内奸剪除ノ命ヲ受ケ京都并ニ江戸邸ニ於テ其所置ヲ遂ケ、復命ノ爲本月廿三日横浜ヲ発シ一昨夜入港スルニ豈科(あにはからん)ヤ今般 ノ事変、殊ニハ本藩ノ兵隊既ニ大野口ニ於テ貴方ト交戦ノ趣、今又貴方ノ先陣巳ニ茂邊地ヘ出張セリトテト聞ク如期道路要塞ノ上譬ヒ微服潜行セントテ万一捕獲ニ逢フ時ハ一身ノ恥辱ト藩名ヲ汚スヲ如何セン、故ニ断然首出ス、希クハ武士ノ情ケ臣子ノ裏情愍察アランヲ乞フ、各々ニ於テモ弾丸雨注ノ間戦地ノ経歴シ来タルハ亦其君ノ爲メニ尽ス所ナラスヤ、今余等カ生命爰ニ迫マレリ助クルト否トハ君等ノ欲スル所ノ侭ナリ、伏テ願ハクハ、ノ籠中ヲ脱シ一去復命スルヲ得ハ実ニ再生ノ高恩ナリト、歳三曰ク各々陳言スル所ニ虚説ナラサルヘシ、雖然今ヤ貴藩ト戦端ヲ開ケリ全体以テ之ヲ処セハ如期寛大ニ差置ヘキニアラサレトモ、譬ヒ各々ヲ捕ヘ断頭ニ処セシトテ敢テ思ヒニ快然ナルモ非ス、何レニモ隊長松平ト評議ノ上差図ニ及フヘキ旨挨拶シテ去ル。仝日夜伊那善太郎ヨリ左ノ書簡ヲ送ル、明廿八日松平太郎面 会候条午前十時五陵(ママ)郭ヱ出頭可有之候。仝廿八日余ハ安田、井口、高橋、斉藤ノ五士ヲ従ヒ第十時五陵郭ニ到ル。松平太郎玄関上面 ニ在リ、土方歳三左側ニ陪席ス。兵隊二行左右ニ整列ス。太郎曰ク昨日土方歳三ヘ陳逑スル所ノ事情余深ク感激セリ、仍テ福山ヘ起程苦シカラス尤モ有川村ニ於テ土方ヨリ懇々御談ノ次第モ有之ニ付、今夕同村ニ待受ケラルヘシト、仍テ該所ヲ辞シ一同行李ヲ調ヒ薄暮凾館ヲ出立、第九時有川村ヱ着兵隊ノ動静ヲ探索スルニ、先隊已ニ泉沢辺ヘ進行ノ曲ナリ、於是安田、小林、斉藤ノ三人ヘ賊徒ノ挙動ヲ密示シ潜カニ領分知内村ヘ報知セシム。尤道路捕獲ノ憂アラハ是レヲ以テ辨解スヘシト彼ノ伊那善太郎ヨリ送ル処ノ書翰ヲ授ク、三士ハ第十時仝村ヲ出発ス。夫ヨリ余ハ高橋孫六ヲ従ヒ土方歳三ノ旅館ニ至ルニ、徳左衞 門(種田)主人ハ縛ニ就キ居リ、見ルモ気ノ毒ニテアリシ、歳三余ヲ奥敷ニ伴ヒ、従容語テ曰ク、我徒先般 鷲木村ヘ揚陸セシハ固ヨリ戦事ヲ好ムニ非ス、凾館惣督府ヘ懇願ノ次第有之其故如何トナレハ既ニ奥羽連衡(合)ノ諸藩朝廷ヘ謝罪降伏セシヨリ、我徒戦略士人牾施スヘキノ術ナキヲ以テ仙台侯ニ迫リ、朝廷ヱ謝罪寛大ノ典ニ預ランヲ只管懇願スト雖モ、敢テ許容ノ色アラス却テ我徒ヲ放遂セントノ動静アルヲ窺ヒ、頓ニ彼地ヲ脱シテ北海ニ来リ、開拓十分ノ成功ヲ遂ケ前罪ヲ贖ハント欲ス豈科ヤ督府ノ兵隊俄然トシテ襲撃一時論説ヲ以テ禦ク旨キニ非レハ、武門ノ習ヒ不得止接戦ノ処、却テ勝利ヲ得ルニ至ル。是レ果 シテ我徒ノ幸ナルカ將タ不幸ナルカ未タ知ル可カラス、然リト雖モ、苟モ兵力ヲ以テノ地ヲ掌握セシ以上ハ、我徒ノ措置前日ノ思考ヲ以テスルノ類ニ非ス、今我兵三千アリ、益兵伏ヲ調ヒ大ニ運粮ヲ続カハ全島ノ平定ニ旬ヲ過キス、其餘勇ヲ奥羽越振ハン掌中ニアリテ存ス、唯リ南端松前氏アリテ孤守ス。抑モ先公豆州公(崇広)殿ハ徳川家ニ於テ閣老タリ、而シテ其勲績アルモ亦私徒ノ能ク知ル所ナリ、然ルニ当志摩(徳広)殿ノ存慮如何ナル持論アリテカ大野ニ出兵セラレシヤ聞ク子モ亦役員ニ列セリト請フ、其藩論ヲ聴カント。余答テ曰ク吾公積年勤王ノ志深ク既ニ大政維新ノ際実績ヲ奏セントスルノ期ニ当リ、権門要路ニ奸従アリテ君上ヲ欺キ且ツ後難ノ身ニ迫ランヲ恐レテ、仝類ト深ク謀リ廃君ノ大逆ヲ主張ス。依之憂国ノ徒数十名夫死建白ニ及タル処、去ル八月忽チ内命ヲ蒙リ奸臣ヲ前(ママ)除シ、国体ヲ一新竟ニ勤王大義ヲ確守スル処ニシテ、今般 大野口エ出兵セシモ則チ仝藩王命ヲ尊奉スル所ナリ、高諭ノ如ク松前家ノ徳川氏ニ於ケル固ヨリ構怨アルニ非ス、大義人情両立シカタキヲ如何セン、此辺深ク亮察アランヲ乞フ。歳三断然トシテ曰ク、然ラハ則チ尓後戦ハンカ、余思ラク今私(わ)レ戦ヲ断言セハ彼レ忽チ兵ヲ福山ニ発セン、思フニ本藩孤軍戦備未タ全タカラス、若カス戦期ヲ延ベ官軍ノ応援ヲ待タンニハト、仍テ徐々ニ謂テ曰ク、先般 大野ヘ出兵セシハ督府ノ護衛ニシテ所謂管外ノ一戦ナリ、自今ハ貴方ト本藩トノ対戦若シ一敗振ハサルニ致ラハ管民塗炭ニ陥ル実ニ金藩ノ大事ナリ、敢テ軽議然諾スヘキニ非ス、仍テ明早天福山ニ走リ軍議数次藩論一定ノ上、来ル十一月十日ヲ限リ和戦ノ両条共決答ノ使者ヲ送ルヘシ、依テ右期日迄松前封境ヘ兵隊発進ノ義ハ停止アルヘキヤ否ヤ、歳三曰ク和ヲ講セントナラハ当方素ヨリ好ム所ナリ、故ニ暫ラク進軍ヲ停メン、雖然若シ期日ヲ違ハハ、即時ニ兵ヲ発セン、余曰夫レヲ食言セスト互ニ之ヲ約シ、且ツ余等カ道路通 行差支ナキノ印鑑ヲ乞フ。歳三曰ク明朝茂辺地出張渋沢某(誠一郎-小彰義隊長)ヱ各々通 行差支ナキ様取計ラハセ申分書面ハ明朝相渡スヘシト言フ、依テ土方ノ室ヲ出テ宿ニ帰レハ巳ニ鶏鳴ナリ。

 仝廿九日土方ヨリ渋沢ヘ送ル処ノ書翰夫卒持来ル、即チ之ヲ請取リ一同有川村ヲ発シ茂辺地ニ到ルニ、賊兵二百人余屯集渋沢精(誠)一郎之ヲ総括ス。即チ土方ヨリ付記ノ書翰ヲ渡シ、尚ホ歳三ト応接ノ一二ヲ語リ辞シ去リ、夫ヨリ漸次木古内村ニ到ル、賊徒亦二百人余集合セリ、所謂斥候隊ト見ヘタリ。如斯景况思フニ賊徒ノ點計我等ヲ欺キ、陽ニ信義ヲ厚クシ陰ニ襲撃ヲ謀ルナラン、若カス一刻モ早ク福山城ヱ報知セント飛馬急行。午後三時尻内村ニ到レハ、本藩兵隊既ニ出張セリ。漸ク心ヲ安ンジ仝村ニ憩ヒ食ヲ喫シ四時出発、深夜雪風ヲ浸シテ萩斜里ヲ経過シ一ノ渡リニ向フ、暁三時一ノ渡陣営ニ着陣代蠣崎民部ヱ賊情ヲ具申シ、即時仝所ヲ発シ、仝三十日福山着城代尾見雄三ヱ廿五日以来ノ事情ヲ具サニ陳逑ス。


とあって脱走軍の松前進攻の経過と、松前藩士渋谷十郎と土方歳三との交渉過程、さらには脱走軍の進攻軍備況を詳しく述べている。これによると、十月二十七日に五稜郭を発足したといわれる土方は、この日まだ郭内に止まっていて、二十八日有川村(上磯町)の種田徳左衞 門方に泊り、翌二十九日泉沢に泊まったと思われ、三十日には先鉾が知内村に達していたと思われる。

 徳川脱走軍の松前城進攻隊の編成は、総指揮官(隊長)に新撰組副長であった土方歳三が当り、隷下の各隊は彰義隊、幕府士官隊、幕府陸軍隊、仙台藩額兵隊、新撰組、砲兵隊等約七〇〇余で、これに作戦参謀として、カズヌーヴ、プーヘー等のフランス軍人も参加している。

 これに対し松前城を守備する松前藩は、城代蠣崎民部、総長松前右京、隊長鈴木織太郎、尾見雄三、軍事方新田千里、三上超順等四〇〇余であったが、徳川脱走軍の襲来の報を受けると、松前城を死守することにし、その前段として、茶屋峠(字千軒~字三岳間の山道)と白神峠(字松浦と松前町字白神間の山道)の二つの天嶮を利用して迎え撃つ体制を取り、二十七日松前藩の各隊は福島村に集合、陣代蠣崎民部、隊長鈴木織太郎らが出張し、浄土宗法界寺を本陣とし、その背後の山に砲座を設け、吉田橋前の大門から内側へ市内の守備陣形をとった。さらに福島神明社前には天保年間松前藩が設置した砲台があったが、吉岡砲台の整備によって廃止となっていた場所を利用して急造砲台とした。

 また、二十八日には福島を守るための砦として茶屋峠の頂上付近に防塞を築き、松前藩砲術隊長の駒木根篤兵衞 が兵一三人と遊軍五〇人そして三〇〇匁砲二門を吉岡砲台から廻し備え付けた。

 この茶屋峠に大炮(砲)隊長として、陣頭に立った松前藩砲術隊長駒木根篤兵衞正甫(まさもと)の履歴書が旧館藩に残されており、それによると、













嫡子初メ徳兵衞
五代
駒木根篤兵衞正甫

 文化十三子年二月廿九日生

章広公御代

文政十一年二月廿五日初而御目見

同年三月朔日御奉公新組御徒士席

天保五年十一月廿七日父千之亟家席御直シニ付御先手組席ヘ御繰上

天保十一年十二月家督


となり、松前家臣となっているが、篤兵衞は森重流炮術、西洋炮術、起倒流體術、宝蔵院流鎗術等の稽古(けいこ)世話掛をする武人で、ユウフツ、エトモの勤番頭、戸辺地(上磯町)御陳家脇備頭、勘定吟味役、勘定奉行を経、箱館戦争の際は五十二歳であった。

 この履歴書には茶屋峠・山崎(字三岳)・福島での徳川脱走軍との戦闘を詳細に述べているが、それによると、








明治元年十月中 野戦大炮惣司被仰付。

同元年十月廿六日夜 大炮隊隊長被仰付

同隊士中 上原久七郎(勘定奉行)、御徒士中村嘉吉、御足軽石山喜平治、斉藤百太郎等ヲ率テ此時百目御筒五挺御渡シ。

同廿七日 御名代(松前右京)ニ差添福嶋村ヘ止宿

同廿八日 福嶋村出立一ノ渡リヘ止宿、三百目御筒弐挺吉岡村ヨリ御廻ニ相成候旨差之上右大炮ヲ茂掛リ相兼候様御達ニ付一同ヘ申達置。

同廿九日 御名代知リ内村ヘ御出張之砌リ、峠ノ上ヘ相備候様被仰付。

同日 三百目御筒弐挺ノ掛リ六人付添到着、一ノ渡リニ於テ大炮掛リ弐人被仰付。

前同日ヨリ峠御場ヘ掛リ一同詰切リ。

十一月朔日 暮六ツ時(午後六時)福嶋村御本陣ヨリ一同引揚御達同夜九ツ時(午前〇時)頃福島村ヘ着ノ処直チニ引返シ出張被仰付

同夜 七ツ時頃(午前四時)福嶋村出立翌二日朝五ツ時(午前八時)頃峠ノ下迄進行、賊兵峠上ノ御場迄押来リ字ヒョウマイ(字三岳)ニ於テ大小炮ヲ以テ賊兵ト一戦ニ及ヒ山崎(字三岳)迄引揚進撃隊ト一手ニ相成即時大小炮ヲ打放シ終日ノ奮戦ニ及ヒ衆寡難敵、終ニ日没ニ及テ一同引揚討死等有リ同隊上原久七郎、中村嘉吉ト三人居残リ、死体等ヲ取片付漸々福嶋村迄引揚ケ。

十一月五日 御城内ニ於テ防禦終ニ落城、江差地方ヘ引揚、上ノ国素浜ニ於テ大炮ヲ以テ賊徒防禦可致旨被仰付士卒ニ命、大炮ヲ素浜ニ備置。然ルニ江差御本陣ニハ引揚ニ付、該場モ一戦ニ不及引揚

同年十二月中 以降略……

明治二年十二月廿四日 右戦時之御賞典左ニ

客冬山崎奮戦爾後慕

君志ヲ表シ御警衛候条

仍而爲御賞永世上席被

仰付且拾五石御加増


とあるように、十月二十八日には峠の配備を完了し、二十九日福島本陣陣代蠣崎民部は前線本部を一の渡りに移し、その尖兵は知内村に出兵し、三〇日はそこで一戦を交え後退し、十一月一日には徳川脱走軍(以下脱走軍という)は萩砂里(はぎちゃり)(萩茶里-知内町字上雷小字東菜)まで進出してきた。

 その間に前記渋谷十郎らと行動を共にしていた桜井怒(き)三郎が、脱走軍の説得を受けて、松前藩への和平の使者として、福島に来て要旨を告げたところ、隊長鈴木織太郎が怒り、藩論を乱す不届者として福島で処刑したといわれている。

 また、福島へ出陣する際の二十七日各神社の神主で編成する図功隊を組織したが、福島からは神明社笹井三河、白符神明社富山刑部、知内雷公神社大野石見等も参加していて、笹井三河の『御答書上』によれば、








昨冬十月廿七日福嶋村江御出陣之砌御用使ニ而罷出候処、隊長白鳥遠江(福山神明社司)殿被申渡ニハ圖功隊江相加ヘ出兵可致旨被仰付直其場出兵仕候。

同廿八日福嶋村一之渡江出兵其夜同所ニ而宿陳(陣)之砌、明朝早々田崎東殿ニ随ヒ御城下警衛可致旨隊長白鳥遠江殿ヲ以被仰出候。

同廿九日一之渡御城下江引返シ夜四ツ頃文武局江着仕御局ニ詰合居候義ニ御座候。


と神主達まで駆り出して戦闘員として参加させている。



【福島の攻防】 松前に向け進撃を続ける脱走軍と松前藩との戦闘は十一月朔日に行われた。この日の午後脱走軍の軍艦蟠龍(ばんりゅう)が津軽藩旗を掲げて松前湾頭に姿を現わした。城中では不審に思っている間に松前城を砲撃し、城中も砲撃したが、技ケ崎(字福山)地先の筑島砲台より打ち出す弾丸が蟠龍に当り、一発は士官室に、一発は艦頭の槍出しに当ったため、蟠龍は沖合に出、帰路(同日夕刻)福島の松前藩の出張本陣を砲撃し、松前藩側もそれに呼応して、神明社前の海岸砲台からの百匁砲四門、法界寺山より同砲二門で砲撃を行っている。前述の駒木根篤兵衞 の履歴書にあるように、蟠龍の砲撃のため茶屋岬の駒木根隊も応援のため福島へ向かったが、蟠龍が箱館に帰航した後なので、夜中茶屋峠に引き返している。

 この朔日に福島市街で戦闘が行われたと考えられているが、実際の戦闘は二日に行われている。朔日には福島を基地として松前藩兵のハギチャリ夜襲という奇襲作戦が、松前口での戦闘の緒戦となった。『松前藩戦争御届書』(ハギチャリ合戦一件-函館市中島良信氏所蔵)では、







明治元年十一月朔日辰ノ上牌(午前八時)一小隊ヲ率ヒ隊長渡辺ひひ(ノチ芳丸ト改姓ス)小舟三艘ニテ福嶋村ヨリ小谷石ヘ上陸間道ヲ踰(こえ)テ戌ノ中牌(午後八時コロ)知内村ニ至リ、賊徒屯所ノ戸隙ヨリ動靜ヲ窺(うかが)ヒタル所賊徒酒會ノ様子ニ付、副長目谷小平太臨機ノ謀ヲ以テ大隊進撃の令ヲ虚発(きょはつ)シ一斉ニ銃撃シ続テ短兵乱入ノ処賊徒狼狽暫時ニ六十餘人ヲ斫斃(きりたお)シタリ、中ニ金帽紫衣ノ者アリ賊中ノ長官ナラン又外國人死骸アリ其他疵ヲ受クル者ハ此潰散ス、我総勢ヲ引揚福嶋村へ凱還セシハ寅ノ下牌(翌二日午前五時)。其時副長目谷小平太、右嚮導(きょうどう)海野謙三郎、小隊司令士浅利右八郎、銃隊小頭穂高長蔵被創、銃卒三浦此二、荒井幾三郎戦死、三浦省八郎、加藤健次郎被傷、町兵菊四郎戦死。


とあるが、松前藩の報告はいささか誇大があるように思われ、脱走軍兵士六十余人を斫斃したという数字は正に過大の報告で虚偽であると軍務官からも批判を受けていて、のちに問題となり、明治になって『北洲新誌』等で議論されている。

 また、仙台藩脱藩で、額兵隊の七番隊惣小荷駄隊長として、この戦闘に参加した荒井平之進(蝦夷地では佐馬介)宣行の著になる『蝦夷錦 乾・坤』の関係文では、







…略… 彰義隊額兵隊ハ萩去ト云處迄進ム土方歳三ハ陸軍隊トニ知内ニ宿陣セリ是ヨリ先松前氏ニテハ奥羽合從シテ徳川氏ノ再興ヲ計ントスル者有リ又王命ニ背キ難ク薩長ニ同盟シテニ國家ヲ保ント云者モ有テ國中議論兩端ニ別 レシ所清水谷侍從凾舘ニ渡海有シカハ其勢ニ恐レ徳川氏ヲ助ント議論ヲ立シ者松前右京ヲ始四十餘人或ハ囚レ又死ニ行ハレ終ニ清水谷ニ降ル然ルニ櫻井怒三郎等松前ニ到テ榎本ノ言ヲ告ケシニ蠣崎民部等是ヲ拒ミ脱走ノ徒何程ノ事アラン各國家ノ爲ニ是ヲ防禦シ此ノ城ヲ守ラハ秋田津輕ニ居タル官軍ノ応援アラン彼等ニ降テ惡名ヲ殘ス勿レトテ榎本ヘハ更ニ一言ノ答モナク防禦ノ策ヲ運ラシ即チ蠣崎民部ヲ大將トシテ其兵五百餘人福島マテ進發ス所々ノ臺場ニ大砲ヲ構ヘ先手ハ一ノ渡山道ヘ進テ陣ヲ取タリ然ルニ此日蠣崎ハ福島ヨリ鈴木織太郎ヲ始トシテ壮盛ノ勇士五十餘人小舩ニテ脇本ヘ遣リ知内ヘ夜撃ニ向ハシメタリ知内ニテハ萩去ノ先鋒ヘ送リ出スヘキ兵糧ヲ周旋セシ處其夜初更ニ至テ村ノ中ヨリ火ヲ放ツモノアリ陸軍隊ノ陣營近ク小銃ノ音聞ヘシカ海岸ノ方ヨリ大隊進メノ號令ニテ進ミ來ル春日左衞 門直チニ令ヲ下シ喇叭ヲ吹カシム軍兵ハ鞋ヲモ解カズ油斷ナク守リシナレハ即時ニ本陣ニ整列シ敵ニ向テ小銃ヲ放ツ又額兵隊網代清四郎澤木武治ハ兵士四五人トニ此ノ驛ニ止リテ兵糧焚出シノ周旋ヲ爲ス所ニ小銃ヲ放ツ否ヤ扉ヲ蹴破リ鎗ヲ持テ突入ル者兩人有リ砲卒喜三郎側ナル短刀ヲ抜テ是ニ向フ處ヲ下腹五寸計突通 サル持タル短刀ヲ敵ニ投付腹ニ立タル鎗ヲ抜キトリ敵ニ向テ突掛レハ敵支ル能ハズ逃出ス是ヲ追ントスル處ヲ殘ル一人ニ又三寸計リ脇下ヲ突レケレ喜三郎事トモセス鎗ヲ拂テ突掛シハ手コタヘセシト思フ處ヘ網代澤木等刀ヲ抜テ切テ出ツ是ニ依テ敵ハ直チニ逃退ク喜三郎深傷ヲ受シカ後治療ヲ加ヘテ全快セシカ不養生ニシテ再金瘡破レテ死ス此夜西風烈シク火ハ倍々盛ンニ成リ敵風下ヨリ攻入シナレハ火煙ニムセビ意ノ如クナラズ吾カ兵天ノ助ケト連發數十ナリ依テ敵戰死四人傷者數多出テ敗走シテ脇本ニ引退ク吾カ軍地利ヲ知ラス殊ニ夜中ノナレハ遠ク是ヲ追ズ兵ヲ收メテ死傷ヲ檢スルニ額兵隊砲卒喜三郎陸軍隊兵士一人傷ヲ受クル而已ナリ又火ヲ防カシメテ民屋ヲ救フ此時星忠狂ハ萩去ニシテ火モユルヲ見テ敵知内ノ吾カ後軍ヘ夜撃セシヲ計リ速ニ行テ是ヲ救ヘトテ三橋光種ニ一小隊ヲ引カシメ應援トシテ向シメタリ同二日春日左衞 門陸軍隊一小隊額兵ノ應援一小隊ヲ引テ脇本ヘ到ル敵福島ヘ引揚シ跡ナレハ乃チ福島ニ向フ此時太田貞泰中村實相及ヒ吾ハ木古内ヘ宿陣セシカ知内ノ火ノ上ルヲ見テ村中動揺シ知内ヘ戰爭始レリ必此ノ村ヘモ放火アラント家財雜具ヲ持運フ者尠ナカラス吾直チニ裁判役ノ宿陣ニ行テ共ニ議シテ泉澤ニ宿陣セシ衝鋒隊ヘ應援ヲ乞ヒ且海岸所々ニ大篝ヲ燒テ虚勢ヲ張リ民ノ動揺ヲ靜ム…略


これで見ると松前藩の言うハギチャリの合戦というのは、十一月一日の午前八時ころ、鰯枠船三艘に分乗した松前藩の一小隊約五〇人が隊長渡辺々、副長目谷小平太の指揮のもとに、矢越岬を越えて小谷石村に上陸し、ここから間道伝いに脇本村を経て、知内本村に到って様子を窺がって、翌朝午前二時ころ知内本村に夜襲をかけ、戦闘となったもので、その際脱走軍の糧道を断つ目的で、村中に火を掛け大火となった。そのとき脱走軍の尖兵としてハギチャリ村まで進出していた仙台藩脱走の額兵隊(隊長星恂太郎)が、この知内村方面 からの炎を望見して変事を知り、急拠知内村に引き返した。また、木古内村に宿していた衝鋒(しょうほう)隊(隊長古屋作久右衞 門)もこの火を見て知内村に駆け付けるなどの大騒ぎとなった。この夜襲で知内に泊まっていたのは陸軍隊(隊長春日左衞 門)であったが、この松前藩の夜襲は成功し、緒戦は勝を収めたが、『御届書』に見るような戦果 は上げてはいない。







福島攻防の図




 夜襲を終えた松前藩兵は元来た道を小谷石に帰り、船で福島に帰ったのは同二日の朝であり、脱走軍は松前藩兵の帰路を遮断(しゃだん)しようとしたが、地理が分からず、見失ってしまっていた。

 二日一の渡りに先陣を布いていた松前藩の陣代蠣崎民部は、綱配野(字千軒)の東端の崖地上に散兵壕を設けて、鍋坂(なべこわしざか)(御番坂)を登って来る脱走軍と正面 きっての戦をすることになった。しかし、松前藩兵は急な出撃でしかも着物に野袴、陣羽織に笠や鉢巻をしめて、草鞋(わらじ)履といういで立で、それに大・小刀を差し、槍、鉄砲である。見た目は勇ましいが、体の自由もきかないし、鉄砲は先込めの三ツバンドのゲーペル銃か、はなはだしいのは火縄銃である。それに引替え脱走軍は、尖兵となった額兵隊はズボンに詰襟(つめえり)服それに表は黒、裏は赤のケットー(毛布)の陣羽織、腰に白い晒(さらし)をしめ、大・小刀を差し、エンフィルド銃(螺旋式、後底装)や最新式の山砲・野砲を持ち機動力に富んでおり、また、この額兵隊は行進の際は黒ずくめの服装であるのに、戦闘が始まり陣羽織を裏返すと真赤な色に変り、敵を威嚇するというように変身していた。福島町民の伝承の中に、「仙台藩の兵隊は、普段は黒ラシャの陣羽織を着ていたが、いざ戦闘となると、陣羽織を裏返すと猩々緋の赤いフランケットの陣羽織で、この色が恐ろしくて松前藩が負けたんだ」という言い伝えもある。

 一の渡りの戦で破れた藩兵は、茶屋峠の急造陣地でも破れ、峠を下ったヒョウマイから山崎間に大砲を備えて防戦したが、兵力、火力、機動力の差はどうにもならず、三本木を経て福島村に後退した。福島村では法界寺の本陣を中心に、吉田橋内側の大門、西側は神明社境内の砲台等で防禦したが、彰義隊隊長渋沢誠一郎指揮して、額兵隊と共に吉田橋正面 から、さらには北側渡河して三枚橋付近から、また一隊は福島川河口から浜中を経て攻撃し、銃撃戦となった。この時湾内に回天、蟠龍の二艘が援護射撃をし、神明社前の砲台からもこれを攻撃したが、蟠龍の弾丸が神明社本殿の梁棟木(はりむなき)を打抜いている。

 この戦に彰義隊頭取改役寺沢正明の『幕末秘録』によれば、美男子で吉原・稲本楼の花魁小稲と浮名を流したことで有名な(乱-中央公論、一九九四秋季号 綱淵謙錠筆)彰義隊士の毛利秀吉の戦死の状況を、







毛利秀吉真先に駆け出して、我こそ今日の一番乘ぞと大隊旗を打振り、一鞭高く上げて驀地(まっしぐら)に敵の陣所と聞えたる某寺の門内に乘り入った。駿馬は鬣(たてがみ)振り立てゝ今暁方の清風に一声高く嘶(いなな)いた。寺門は開かれて、見渡せば後の山には薪が所々に積んである。しかし寺門は闃寂(げきせき)として更に敵らしき人影もない。敵は早くも逃失せたるか、浅ましの弱武者共よと、呆れて暫(しばし)時范然たる時、不意に彼の積んだ薪の陰よりして轟然(ごうぜん)切って放ったる百匁目玉 の敵弾矢庭に飛び来って毛利が胸の中央を物の見事に射抜いて斃した。あはれ惜しかりし勇士の一人、一言の叫びも非ずして、敢なくもどうと馬より落ちたのである。


と法界寺付近の戦闘と、毛利秀吉戦死の状況を詳細に記録しているが、この毛利秀吉の墓は法界寺山側の一偶に建っているが、これは福島の戦いの後、明治二年四月まで駐留警備に当っていた脱走軍の会津遊撃隊付属隊(諏訪常吉隊長)が建立したものと思われる。







毛利秀吉墓




 この福島を守る松前藩の状況は、『松前修広家記』に詳しく、








十一月二日、福島村ヨリ二里程東、一ノ渡ト申処ニ仮砲台築立大砲方駒木根篤兵衞 十三名ヲ率ヒ、遊撃隊長松崎邊(わたる)五十名ヲ率ヒ、豫防罷有候間、餌兵ヲ以テ其図ニ引入、右ノ二門ヨリ二十餘丸ヲ放チ、十五六人斃シ、賊徒辟易ノ體ニテ、俄ニ一隊ヲ分チ、路ヲ山間ニ転シ、前後ヨリ來撃ニ及ハレ、甚タ難戦ニ相成候間、山崎ト申処ニ繰揚申候。

同日午ノ上牌(午前十一時))、山崎応援ノ爲メ、進撃隊長安田純一郎二十名ヲ率ヒ、駒木根篤兵衞 、松崎邊ノ両隊ト一手ニ相成、二百目砲二門ヲ備ヘ候否、賊徒襲来ニ付、一度及発砲候得、地形不便ニ候故、又々山崎ヘ引返シ、再ヒ右ノ二門ヨリ連発十八度ニ至リ、賊ノ旗手一人、銃手六七人ヲ殪(たお)シ候得共、賊新兵ヲ繰替攻来候ニ付、味方終ニ破レ、福島村ヘ引揚ノ節、賊ノ長官ニモ可有之哉、鮮麗ノ戒服ヲ著シ、釆配ヲ以テ指揮致居候処、過刻ヨリ川側ノ民家ニ埋伏致サセ候町兵ノ内、治助ト申者、槍ニテ突留メ、其身モ銃丸ニ中(あた)リ即死仕候。戦死四人、(銃士高橋二太郎、銃卒桜井金七郎、町兵治助、幸右衞 門)傷二人(大砲方中村嘉吉、農兵金平)、同日未ノ上牌(午後一時)、賊徒福島村ヘ侵入ノ処、兼テ軍事方鈴木織太郎下知ニヨリ、海野兼三郎八名ヲ率ヒテ川西ニ備ヒ、笹村歡一郎三名ヲ率ヒテ百目砲一門ヲ月見崎ニ備ヘ、安田純一郎半小隊ヲ率ヒ、村西杉林中ニ伏置、鈴木織太郎二十名ヲ率ヒ、法界寺ニ屯シテ中軍トシ、海邊ヘハ賊徒勾引ノ爲、空陣二ヶ所ヲ設候処、賊徒果 シテ空陣ヲ目當ニ連発イタシ候間、三方ヨリ賊徒ノ不意ニ乘シ、大砲小銃一時ニ相放チ、是ヨリ双方半時許(ばか)リ戦闘ニ及ヒ、賊徒二三十人殪(たお)シ候。然ルニ今朝ヨリ前洋ニ往来致シ候火輪船ヨリ、橋舟二艘ヘ多数乘込、上陸致応援候ニ付、味方遂ニ難支、鈴木織太郎隊ハ法界寺ヲ自焼シ、寺後ノ間道ヨリ引揚、其餘三方ノ残兵、薄暮ニ紛レ、抜口福島嶺ヘ相團(かたま)リ申候。戦死三人(銃隊宮島磽(こう)之亟、天野啓次郎、田中宇吉)、傷四人(総長鈴木織太郎、銃隊池田茂吉、吉村源一郎、遊軍桜井愿四郎)






福島での戦闘状況




という福島市街戦の模様を伝えている。この決戦の際陣代蠣崎民部(松前城代)は早く立去(の)き、鈴木織太郎が総長として指揮していたようであるが、白兵戦のなか、沖合で福島を砲撃していた回天、蟠龍には、脱走軍首領の榎本釜次郎武揚(たけあき)、副首領の松平太郎が乗船していて、松平が二艘のボートに兵員を乗せて上陸応援したため、松前藩が遂にこれを支えることが出来ず、本陣の法界寺に火を掛け、法界寺背後から山道掘割を通 り白符村に逃れ、また海岸近くの兵は慕舞(しとまい)から白符村に逃れた。法界寺のつけ火は夜空を焦(こ)がし、その火が燃え拡がって、寺前の民家三戸を焼き、村に入って来た脱走軍が延焼をくい止めた。また松前藩兵は逃れる途中各村に火を付けながら逃げ、慕舞五、六戸を焼いたほか、白符村、吉岡村、礼髭村にも火災の被害があった。脱走軍側は前夜知内村の夜襲で糧食を焼かれてしまって、食べるものがなかったので、福島での戦闘中は空(す)きっ腹で、戦が終ってから民家に入って夢中で飯を食していたといわれている。

 松前藩兵も福島の戦では、宮嶋磽之亟、田中宇吉、高橋二太郎、桜井金七郎、武藤幸右衞 門、寺田治助等が戦死している。

 三日福島村で休養を摂った脱走軍は尖兵が四日吉岡村に入って、白神山道上に陣する松前藩兵の攻撃方法を検討していた。ここで吉岡村から炭焼沢村(字白神)、荒谷村に通 じる道が、白神山道(礼髭村から炭焼沢)に至る道のほかに、吉岡村から不動滝を経て荒谷村に至る杣道(吉岡山道)のあることを聴き出し、この両山道から出撃することにし、五日早朝行動を起した。吉岡山道越は一般 には知られていない道なので、全く予期していない処に、脱走軍が荒谷村に出現したことを知った白神山道上の松前藩兵はあわてて陣を撤収した。



【松前城の攻防】 松前城下と松前城を守る藩兵も必死の覚悟で防戦の準備に入り、先ず進出して来る脱走軍を、城下入口の及部川流域で防禦すべく、軍事方新田千里(ちさと)を中心に及部川口および橋口に布陣をした。幸いさきの箱館から清水谷府知事に同行して青森に逃れていた竹田作郎以下の戸切地(上磯)の松前陣屋の兵一五〇名が、汽船オーサカ号を雇って青森から三日松前に着き、松前城の守備兵は約五五〇名となったが、その半数を及部川流に出陣させた。先ず、及部川以東の松ヶ崎(現松前小学校付近)に尾山八百里、工藤大之進の率いる二五名を伏兵とし、さらに野越坂下に牧田津盛ら二名さらにその西方に竹田泰三郎ら二五名を配置し、及部川西には隊長下国貞之丞が橋口に一小隊(五〇名)、新田千里を総帥(そうすい)とする文武館掛一八名は橋口の空家に五門の百匁砲を配置、大砲隊長因藤辰次郎らは兵一四名と旋条砲二門、河口には瀬戸昇平の一小隊、熊坂轟(とどろき)ら一五名、島田能人(よしと)ら二〇名、さらに上流御狩屋付近には新井田早苗(さなえ)が三百匁砲二門と二四名を配置し、脱走軍の城下進出を阻止しようとした。

 五日吉岡村から出撃して午前八時ころ荒谷村に現われた脱走軍は兵約四〇〇に二門の野戦砲を曳いて侵入、大沢村裏後の高台を占領した。これによって白神山道上の藩兵が挟撃されそうになったので、あわてて松前城下に退却した。脱走軍は正午過ぎ、及部川東岸近くに進出し、松ヶ崎、野越付近に埋伏していた藩兵と銃撃戦を展開したが、一進一退を続けているとき、脱走軍軍艦回天が沖合に現われ陸上軍を援護射撃し、両軍銃撃、白兵戦、吶(とっ)かんのうちに、及部川上流付近から渡河した脱走軍の進出によって、藩兵は遂に兵をまとめて松前城に逃れ、ここで決死の防禦につくことになった。

 この日の午後脱走軍が馬形(まがと)台地に進出し、その突端部分の法華寺境内に陣を構え、先ず眼下の技ヶ崎町(字福山)の筑島砲台をつるべ撃に砲撃した。松前湾には回天、蟠龍の二艘の軍艦が現われたが、筑島砲台の大砲に威力があるため、進入できなかったので、先ずこの砲台を沈黙させる必要があったからで、脱走軍の砲撃によって筑島砲台は隊長池田修也ほか四名が爆死を遂げ、回天は湾内を航行して松前城を砲撃した。(蟠龍は高浪のため沖合を航行していた。)

 これに勢いを得た脱走軍は南面、東面する天神坂、馬坂より搦手口へ、また一隊は新坂から寺町門口へと攻め登った。城中の藩兵は城代家老蠣崎民部を守将とし、三上超順を軍事方(参謀)とし、竹田作郎、上原久七郎を長として南門(搦手門、大手門、天神坂口門)四五名、北門(寺町御門)を佐藤男破魔の率いる五〇名が守り、及部河口から撤退した諸兵が、各門と本丸内を固めた。海軍の援護を受けた脱走軍は天神坂口より攻撃し搦手門に到ったが、この門を死守する竹田作郎らは、門内に野戦砲を並べ、弾薬を装填して門を開き、突入する脱走軍に砲火を浴せては門を閉め、さらに装填して又撃つという作戦を取った。そのため脱走軍側は斬込隊を門近くの石垣にはりつかせ、開門と同時に斬り込んだため、本丸内は孤立した。一方寺町へ進出した脱走軍は濠、土居を乗り越えて北ノ丸から城内に突入し、城内では激しい斬り合いが行われた。この戦闘を旧幕臣の小杉雅之進は、その著『麦叢録』で、








衆皆刀ヲ揮ヒ玄関其他ヨリ乱入ス敵皆走路ニ迷フ、然レ廉恥(れんち)ナキニ非ス、広間或ハ廊下等ニテ返シ戦シモノアリ、衆寡(か)ノ勢遂ニ敵セス斃(たお)レ、且ツ遁(のが)ル

予曽(かつ)テ城中ニ行キシ時襖障(ふすま)子等ニ太刀疵(きず)アルヲ見ル此輩

君ノ爲ニ城ヲ枕ニシテ死ス、真ニ松前ノ忠臣ナルベシ

残兵皆城後地蔵山ヲ越ヘ、或ハ市街ヲ潜行シ火ヲ放チ去ルモノアリ因テ、城下四分ノ三ヲ焼、是ニ於テ松前我有トナレリ。


と城中の戦闘状況を記録し、松前藩士のなかにも勇者があったと賞讃している。なかでも藩士田村量 吉は七十一歳で隠居していたが、お家の大事と出陣し城中斬り合いで手負いとなり、本丸御殿玄関で割腹自刄を遂げている。また、足軽北島幸次郎の妻川内美岐は落城を悲憤して鉄で喉を突いて自殺し、のち女性第一号で靖国神社に祀られている。

 この松前城の攻防戦では兵火や、敗走する松前藩兵の放火によって各所に火災が発生し、町々は大火になったが、住民の多くは伝知沢や大松前沢等の山、沢に避難していて、戦が終ったので家に帰って見ると、家も家財も丸焼けとなっていて、只茫然とするばかりであった。時季的にも向寒期を迎え衣類とてなく、さらに物価の高騰で食するに米もなく全く悲惨な状況であった。

 松前城下のこの戦争被害は、















































生符町

(えげっぷ)
(現字大磯)上ノ方下国上ル小路浜ノ側出入之常吉小路東ノ方一円焼ル
唐津内沢町(現字博多)中程迄焼ル
唐津内町(現字唐津)焼ル

博知石町

(ばくちいし)
(現字博多)
西館町(現字唐津)
小松前町(現字松城)□一ノ蔵上並東之方相残ル
大松前町(現字福山)浜ノ側焼ル通リ無別条
枝ヶ崎町(現字福山)焼ル
泊り川町(現字月島)出入孫七隣リニ面焼留る孫七宅無別 条

馬形

(まがと)
(現字豊岡) 
浜 町  
中 町 不残焼ル
後ろ町  

専念寺、納骨堂、欣求(ごんぐ)院、法幢寺、寿養寺、法源寺、萬福寺、慈眼(じげん)寺、阿吽(あうん)寺、八幡宮、稲荷宮 焼ル

此外寺社無別条



(西川家文書 松前店書状写 明治元年十一月分 滋賀短期大学所蔵)





であって、城下の四分の三を焼くという大被害であったといわれる。被害の少なかったのは、川原町、中川原町、蔵町、神明町、湯殿沢町、小松前町の一部、寅向町、及部町、惣社堂町等で、寺院で焼失を免れたのは、正行寺、法華寺、龍雲院、宗圓寺の五か寺と、神社では神明社、馬形神社、熊野神社、羽黒神社等であった。