第五節 徳川脱走軍の治政 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【残留藩兵の終戦処理】 松前藩主十八世徳広の津軽落ちするまでは何とか喰い止めようと、厚沢部川河口から乙部村に展開防禦していた藩兵は、家老松前右京、大軍監松前広休ら五〇〇名であったが、乙部村からも後退し、小茂内(乙部町鳥山)および蚊柱(同町豊浜)まで後退したが、十一月十七日脱走軍の相馬主計(かずえ)(箱館に於ける新撰組隊長)、佐久間悌二(監軍)の二人が軍使として来て降伏を勧めたが、藩側は軍事方新田主悦(千里)、隊長蠣崎衞 士(広胖)がこれに面会し、兵力は不足であるが一死をもって決戦に臨む旨を伝えた。翌日両名から書簡をもって降伏の勧誘があり、新田らは二日間の猶予を求めた。これは藩主の津軽落ちが未だ確認できなかったからで、二十日にいたって徳広渡海の報を受け、徳川脱走軍との談判が成立し、取りあえず武装を解除して松前に行き、ここで正式の降伏手続きをすることになった。 武装を解除された藩士達は、脱走軍の監視を受けながら悲痛な面持で寒中の積雪を踏みしめながら、焼土と化した松前城下に帰着し、正行寺(浄土宗)、法華寺(日蓮宗)の両寺に監禁された。降伏調印は脱走軍松前奉行人見勝太郎(幕府遊撃隊)らと総長新田主悦、副長蠣崎衞 士が十二月一日法華寺で会見し、次の三項目の覚書が公布された。
というものであったが、一旦解放されると藩士達は藩主を慕って津軽に渡海する者が多く、十二月四日には松前右京以下一八〇余人が廻船問屋近江屋久蔵の運送船二艘に分乗し、根森浜(大沢村枝村)から出航し、同七日にも百数十人が津軽に向かった。この出航を見送った脱走軍佐久間監軍は、藩の代表者と握手を交し、再び戦場で相会すことを約して別 れたという。このほか藩主出航後熊石村からも同地次郎右衞門所有の三羽船に、水主九人が家臣一七人を乗せて出帆し、藩主と同じ平館村に到着している。また戦後村落に隠れていた藩士も変装して城下に忍び入って、ここで便船を求めて渡海したが、脱走軍側に直接組した藩士は極めて少なく、医者や侍、足軽で脱走軍に組した者は八名であった(『明治二年白洲目録』)。しかし敗残となり、捕虜の汚名を着せられた藩士の多くは、藩主護衛の名の下に、自分達が仕掛けた戦争を捨てた無能な家老下国安芸をはじめ、正議隊の幹部鈴木織太郎、尾見雄三、田崎東等津軽落ちしたことに対しての批判が多かった。特に鈴木織太郎はこの戦争中不戦を唱える家臣を処刑したり、関内村から津軽落ちする際この船に妻を乗船させたのは甚だ不届で、武士道にもとると旧佐幕派家臣に糾弾され、青森から江戸藩邸に送られて禁錮に処され、のち狂死している。 【脱走軍治下の松前・福島】 松前を占拠した徳川脱走軍は旧幕府遊撃隊隊長人見勝太郎を松前奉行に任命して、遊撃隊、一聯隊(隊長松岡四郎次郎)の兵四〇〇で松前城の管理と同地方の治安、警備の任に当った。また、福島村に会津遊撃隊隊長諏訪常吉の率いる兵一五〇がこの地域の守備についた。蝦夷地に襲来した時の脱走軍は軍艦七艘であり、数においても国内の軍艦の半数ではあるが、旗艦の開陽丸は二、八一七屯(二、七八〇屯ともいう)で、木造装甲板、三本檣(ますと)、四〇〇馬力の汽鑵と砲二六門(蝦夷地襲来時には三一門という)を有する世界の堅艦といわれ、この船があるうちは日本の制海権は絶対徳川脱走軍に占められていると言われていた。しかし慶応四年(明治元年)八月十九日品川沖を出奔して館山沖に到ったとき台風に遭い舵を破損し、ようやく北上してきたものである。またこの船は木造船であるため浮上力が強く、船底部分に銅塊を積んで船のバランスを保っていたが、軍資金がないため松島湾でこれを売って兵糧弾薬を求めて北上し、さらにこの途中でも舵を破損してしまい、五稜郭を占拠後箱館で修理をしたものの、船はバランスが取れず、「さいかち頭」の状態になっていた。 十一月十五日江差沖から陸兵を揚陸させ、経過を見守っていた開陽丸は、同夜襲ってきた強風波のため船の碇が切れ、九艘川(江差町中心部の川)沖三〇〇メ-トルの処に漂流坐礁 した。翌日全汽鑵の馬力を上げ、備砲を町に向けて撃ち、その反動で離礁しようとしたが成功せず、箱館に救援を求めた。二十二、二十三日回天(一、六七八屯)と神速(二五〇屯)の二艘が来て曳航を試みたが開陽は動かず、遂に沈没した。これを見守っていた神速は豊部内沖に碇泊していたが、この神速も碇が切れ同沖で沈没するという事故があった。この二艘を失ったことにより、それまでの海軍力の自信が脱走軍から消え、明治二年の政府連合軍の進撃は必至と見て、道南地方の要域の防禦策が急激に進行されていった。 松前を占拠した脱走軍は先ず治安の維持、旧藩潜伏士族の逮捕、軍資金の献納、諸税の取立て等を行い、奉行人見勝太郎は藩医桜井小膳宅を宿舎として、毎朝白馬に跨がって登城し、城中宿営の諸兵を指揮していた。脱走軍は戦争の糧食確保のため軍資金が必要であったが、その資が全くないため、先ず箱館を占拠すると、山ノ上町の遊女を使って多くの膺金(にせがね)を造り、市在に強制的に使用させた。そのため通 貨の不安によって物流が停滞し、さらに戦争によって米穀が本州から全く入らず、物価は高騰して、戦災に遭った松前城下や福島、白符、吉岡、礼髭村の人々は、裸同然の姿で飢えと寒さをしのがなければならなかった。さらに松前城下の場所請負人、御用達、問屋等の特権商人に対しては、場所請負冥加(みょうが)金の二年間前納を課し、または御用金の借上を命ずる等高圧的な行動が多く、住民の迷惑は甚だしかった。戦後強制的に使用させられた膺金を政府は兌換(だかん)してくれないため、住民達は多くの損失を余儀なくされていた。 一方五稜郭を本拠とし、蝦夷地南部を制圧した徳川脱走軍は、十二月十五日一〇一発の祝砲を放って蝦夷地平定の祝賀式を挙げ、米国の例に倣(なら)って士官以上の投票によって、徳川家の一族を迎えて君主とするまでの間、首長の公選をすることになった。その結果 、榎本釜次郎武揚(たけあき)が最高点一五六票を獲得した。榎本の署名を見ると蝦夷島総裁としているので、脱走軍中心の独立国構想を持っていたと思われるが、副総裁には松平太郎を充て、五稜郭を本城とし、慶応の年号を継承することとした。さらに協議の上、次の役員を決めている。
このほか列外客員として
などの旧幕府の重職も参加していた。 箱館は開港場であり多くの外国領事館があり、居住者も多かった。特にフランスは前徳川幕府との関係が深く、また、脱走軍の戦争指導者のなかにはブリュネをはじめ十名のフランス人顧問団が参加したこともあって特に親密であった。横浜駐在の各国公使らは協議して、明治維新一連の戦争は反徒ではなく、内乱として、交戦団体権を認め、諸国は中立を図ることにしており、これを認めてもらうことは榎本政権にとって非常に重要であったこともあり、かつて幕府の外国奉行を経験したこともある永井玄蕃(げんぱ)を箱館奉行としている。そして外国使臣の歓心をかうために、プロシア国(後のドイツ)箱館駐在領C・ガルトネルの弟で貿易商のR・ガルトネルに七重村(七飯町)の三〇〇万坪を九九か年租借する「蝦夷地七重村開墾条約書」を締結する等の失態を冒している。しかし、イギリスを中心とした諸国は明治新政府が確立されてきたことから、脱走軍を反徒で交戦団体権は認めないという考え方が強くなり、特に明治二年に入るとその色は濃くなってきた。 蝦夷地は占拠したものの開陽丸と神速の二艘の軍艦を失い、絶対有利だと思われていた制海権も薄らいで来たこともあって、当然政府連合軍の進攻のあることを考慮し、主要個所には兵員を配置し、治安と陣地構築に入ったが、『雨紀聞』によれば、
を配置して陣地構築にはその地域の住民が多く駆り出されていた。 一方福島に駐留した会津遊撃隊一五〇名は、諏訪常吉を隊長に、芝守三を頭取改役、三瓶瓶蔵、木村理左衞 門を頭取とした会津脱藩者を以って編成した隊である。福島での駐留場所は不明であるが、町会所や名主宅、旅籠等が宿舎となっていたと思われる。この駐留について常磐井家の記録『福島村沿革』のなかで、
という乱暴狼籍の限を尽くし、無秩序な統制下に置かれていたことを物語っていて、村民の迷惑は大変なものであった。このほか、吉岡沖之口役所には、松前奉行配下より「吉岡沖ノ口掛調役並勤方」として倉本勇太郎、市川静司の二人が在勤したが、市川は後吉岡から脱走して本州に逃れたようである。 |