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第六節 二年己巳(きみ)の役の戦い

 明治元年(一八六八)暮、蝦夷地は戊辰(ぼしん)戦争に終始し、徳川脱走軍に占拠されたまま、明治二年を迎えた。年明けと共に青森を策源地として政府軍の蝦夷地進攻への準備が進められて行った。松前から逃れて弘前の仮寓薬王院で第十八世松前志摩守徳広が病没したのは明治元年十一月二十九日であり、家臣に大きな衝撃と不安を与えたが、十二月三日取り敢えず弘前長勝寺に仮埋葬し、五日青森に避難していた箱館府知事清水谷公考(きんなる)に届け出、併せて嫡子勝千代(後の兼広・修広)家督相続の手続きをすることも申し出た。その後十二月中に多くの残留家臣や、梁川、東根等の在勤諸士も青森に集合し、二年一月十日の時点で青森参謀局に提出した戦闘隊人員は、






















 
一七小隊人数 三百二十二名
但一小隊ニ付四十六名
一嚮導人数 五十名

外ニ七十二名

軍事方

輜重方(しちょうかた)

医師
 
合計   四百四十四名


となっている。

 これより先の十二月二十五日藩主に勝千代を嗣立することを正式に届け出、さらに叔父松前敦(あつ)千代(第十七世藩主崇広の長男)を後見とすることにした。この願いは同二年一月九日勝千代に対し家督を許す旨の行政官の許可があり、家臣一同は安堵して失地回復のための戦争準備に入った。

 また、青森に避難し、さらに黒石に滞陣していた清水谷箱館府知事に対し政府は、十二月二十七日知事を兼ねて青森口総督として諸藩兵を結集し、征討に入ることを命じた。十二月六日には長州兵が山田市之丞を隊長に秋田船川から陸路を青森に集結し、先ず津軽、長州、松前、備後福山、越前大野藩兵をもって征討軍を編成、十二月十四日清水谷総督が青森に転陣し、二十二日には常光寺を本営とし、会議所もこの中に設けられ、会議所参謀には山田市之丞、太田黒亥和太(いわた)、野田大蔵、芹良常七、吉村君平、上村儀一郎(のち黒田了介〔清隆〕)ら長州藩の隊長を充てている。

 一月十八日京都守護に出張中の松前敦千代が六〇人程(後合して一〇三人)の兵を引き連れて青森に会し、さらに江戸藩邸、梁川、東根あるいは松前からの潜伏家臣九五人も渡航し、戦闘人員も五五〇人に達している。しかし、松前藩兵の多くは徳川脱走軍に降伏をし、武器を取り上げられて大・小刀のみで参加しているので、これらの兵員に近代的装備をさせるには厖大な費用を必要とした。しかし、藩図を脱走軍に占拠されている松前藩にとってはその資がなく、江戸藩邸吉井前を以って軍資金五万両の貸し下げを政府に願い出、二十日に三万両が貸与され、また軍需物資として、
















一 三ツバンド銃百挺一 胴 乱一 三ツマタ
一 弾薬四万発一 雷 管四万四千発  
一 フランケット二百枚一 洋 服四百五十枚  
一 足袋千足一  燭五櫃(ひつ) 


が交付された。さらに松前藩領地の住民から秘(ひそ)かに征討軍資金の献納があったり、住民や大店の店員には民兵あるいは軍夫に志願する者も多く、明治二年の『松前藩福山日記』(北海道大学附属図書館蔵)によれば、次のように福島村、白符村、宮歌村から多くの人達が戦争参加を願って青森に到着している。








乍恐以書付奉申上候

一旧冬御国難ニ付御開城ニ相成、御領分御百姓一同両新ニ相離れ候様愁歎申斗り無御座、就而ハ御百姓数多御跡奉慕出国仕度奉存候得とも、浪人共相蔓(はびこり)乱妨之所爲言語同断之始末にて、兼而年々御上様より御百姓へ御貸付之未金是迄御憐愍(れんびん)之御取立ニ而一同凌方罷在候処、夫をも旧冬より嚴敷取立且富家へ莫大之用金相当若歎願之族御座候得者、或ハ闕所抔(けっしょなど)と申付非道之行跡日々如何相成候哉難計候得ども猥(みだ)りニ分離いたし、若し父母妻子等難儀ニ及候而(て)者(は)、結局心配相増尚又御百姓迄々渡世難立行場合ニ至り、多人数御当方へ参り御厄介奉掛上候も御時節柄深く奉恐入候と存、彼此心 (是か) 痛之餘り密々相談いたし御百姓之内私とも参上仕候間、何卒此上者早々御回復ニ相成候様奉願候。尤旧冬より浪人御追伐ニ相成候事と奉存勿論市在とも家業向難出来候ニ付、官軍御渡海之程奉待上居候得とも于今御摸様も無御座、此上御指延相成候ハヽ乍恐前文奉申上候通 不毛之地ニ御座候得ハヽ年々早春より夷地へ出稼ニ参りしも只今之御場合にて御当国より年々数多頼入候人夫も当年御出し無之候も畢竟浪人ともの故にて、既に松前一円之御百姓渡世之基ニ相掲り(抱か) 不一方難渋至極ニ候処、此上漁業之時節を失ひ候而ハ実ニ飢渇ニ及愁歎之儀ニ奉存候。殊ニ御産物之儀ハ上方筋ハ不申及一円必要之品ニ御座候へは、深く御賢慮被下置御速ニ御平定之上御百姓一同披被成下度奉歎願候。左候ハヽ漁事取付候も相成自然諸国之廻船も罷下り御百姓ハ蘇生(そせい)いたし御恩澤之程難有仕合ニ奉存候間、申上候も重々恐入奉存候得とも幾重にも御早く御回復被爲在被下置度、乍恐此段奉歎願候。以上。































 二月   
 
白符村

 清兵衞

宮歌村

 又三郎

上及部村

 長三郎
 
下及部村

 松右衞門

吉岡村

 小次郎

 次兵衞

 六三郎

 八兵衞

博知石町

 喜六
 
福島村

 甚五郎

 泊川町

 伝太郎
 
端立町

 源蔵

工藤屋

 多八
 
三春屋多三郎代

 房吉

住吉屋

 次兵衞

近江屋

 久蔵
 
近江屋

 善兵衞

吉田屋道右衞門代

 朝治

佐藤屋喜兵衞代

 太吉
 
阿部屋

 鐵五郎

佐藤二右衞門代

 傳吉

佐藤栄右衞門代

 寅吉
 
村田屋喜六代

 佐吉

住吉屋元兵衞代

 六三郎
 
 以上 





 右添書

賊徒とも追々強暴惨刻之所行相募つのり領民産業者勿論米穀も益々乏敷既に端命ニ逼り不得止彼地脱走到着之上、別 紙之通書面差出、志願達呉れ候様奉上歎願候ニ付、夫々教諭致候へとも、前件之情実無據次第よんどころなき ニ相聞得不便之至ニ奉存候間、乍恐本紙之侭呈御内覧候。御盆置奉願上候。以上。



二月三日





松前藩





布施 泉



と蝦夷地に住む人達がいかに政府軍の征討を待ち望んでいたか、半面 脱走軍治下の恐怖の生活から解放されたかったかを、如実に物語っている。

 また、松前藩は津軽藩、黒石藩の援助もあって徐々に兵力、火器も整えられてきたが、それでも小銃は不足で、各兵員にはラシャ筒袖服一着、毛布一枚、それに政府軍の印である錦章が与えられたが、一月十三日には松前藩の肩章も定められ、単菱に黒で氏名を書いた白布を錦章に重ねて用いた。

 青森には各藩から出兵した征討軍が続々集まったが、これらの諸兵は混成の兵団であり、蝦夷地上陸、戦闘の兵用作戦統制が、以後の展開に重大な影響を及ぼすことから、会議所参謀によって十分検討され、数次に亘って軍律、教令が発布されている。松前藩の小銃不足は前述のとおりであったが、早急入手が必要なことから藩士上林熊次郎が箱館に密航し、英国商人ブラキストンから小銃五〇〇挺を入手、二月二十三日到着し、全員に交付した。

 この日の時点で青森参謀所への報告によると集結した諸藩兵の青森駐在兵は山口(長州)藩兵七七六人、津軽藩兵一八〇人、久留米藩兵二五〇人、徳山藩兵二五五人、松前藩兵五五二人、野辺地駐在は岡山藩兵五〇〇人、油川及び新城駐在は備後福山藩兵六二一人、奥内村駐在は越前大野藩兵一六六人、計三、三〇〇人であった。このほか、油川など湾内に面 した村々に津軽藩兵二、八八六人、黒石藩兵一〇六人で、総数は六、二九二人に達したが、その半数は津軽藩兵であった。三月には鹿児島藩兵二五〇人、水戸藩兵二五〇人、熊本藩兵一五〇人をあわせ、その数は七、〇〇〇人に達し更に、三月末に北上を続けてきた政府海軍が青森に到着したことにより、政府軍出兵総人数は九、五〇〇人、内陸軍八、三〇〇人、海軍一、二〇〇人余であるが、陸軍の最終内訳は次のとおりである。










政府軍(陸軍)出兵内訳及び戦死傷者数










出兵藩名出兵兵員数戦死者数戦傷者数

松前

長州

徳山

備後福山

備前岡山

弘前

越前大野



筑後

薩州

水戸

肥後

黒石

府兵

一、六八四人

七八一人

三〇〇人

六三二人

五四一人

二、二〇七人

一七〇人

一九九人

二四三人

二九三人

二一九人

三九六人

二四三人

二〇〇人

九一

一八

一一

二五

一五

一五

一二













一三

一〇七

五一

一九

二八

二六

六五

三〇

一〇



二一

二一





計十三藩八、一〇八人二一七三九四


 このうち松前藩の出兵編成は二月末に完了したが、編成も大きく様変りをしていて、前年の戦争で惨敗を喫した城代家老蠣崎民部は後方に下げられ、総隊長であった鈴木織太郎は戦中不平の藩士を斬罪にしたり、関内村から津軽落する際藩主一族に混えて家族を乗船させる等、家臣の多くから嫌われ、家臣の和を保つため、江戸藩邸に送り謹慎させることにした。それに替って館築城請願のため江戸に登っていた下国東七郎が青森に合流し、総隊の指揮をとることになった。総隊は別 表のとおり三大隊に分け、五〇人編成の小隊を三ないし四小隊で一個大隊とし、一、二、三番隊をもって青隊(大隊)、四、五、六、七番隊をもって赤隊(緋)、八番隊、遊撃隊、糾武隊、奇兵手をもって白隊とし、各小隊は徒士、足軽を中心とした銃隊で、松前藩は大砲を持たず小銃のみであった。さらに各藩嚮導(きょうどう)として五一名の兵員を出しているが、これは各藩兵が蝦夷地内の地理不案内であるため、これを誘導するための兵員であった。










図をクリックすると拡大図が表示されます。




【政府軍艦の北上と宮古湾海戦】 榎本武揚が明治元年八月十九日夜品川を脱走する際一番気掛りであったのは、ストーン・ウオール・ジャクソン艦の存在であった。この船は幕府が近代的な海軍力を持つためにアメリカへ建造を依頼した鉄鋼船であるが、当時アメリカは南北戦争中であったため建造できず、取り敢えず木造の大船をオランダで製造したのが開陽丸である。

 慶応四年(明治元年)になってアメリカは、一、三五八屯、鉄鋼船、五〇〇馬力蒸気汽鑵、兵装は三〇〇斤ガラナード砲一門、七〇斤砲四門という大口径砲のほかに上甲板前後には一分間に一八〇発も発射できる速射機関銃ガットリンク・ゴン二門が積載されている世界の新鋭艦を、ストーン・ウオール・ジャクソンと名付け、日本に廻航し品川沖に繋留していた。しかし国内情勢が内乱状態となったので、アメリカは局外中立を図るため売却を中止し経過を見ていたもので、榎本も数次に亘って交渉したが物別 れとなり、また、この船を奪取しようとしたが警戒が厳しく、遂に断然して品川を脱出したものである。

 蝦夷地に入り、明治元年十一月十五日江差沖の大時化で開陽丸が沈没し、さらに救援の神速も沈んだことから、それまでの制海権の絶対有利が崩れ、政府軍艦さらには政府軍各藩の軍艦を合せると拮抗きっこう状態となった。さらに品川沖繋留のストーン・ウオール・ジャクソン号の入手いかんが今後の戦局に大きな影響を持つことになった。  明治二年初頭の段階では、回天、蟠龍(ばんりゅう)、千代田、第二回天(秋田藩高雄分取り)アシュロット艦ともいうの四艘の軍艦と長鯨、大江、鳳凰(ほうおう)の三隻の輸送船となっていた。そこで榎本は沈んだ開陽丸の大砲、火薬等を早く引き揚げ、これらの軍艦補強と火力の増加策を図っていたことが、江差夏原家所蔵の『榎本釜次郎書翰』によく現われており、榎本の政府軍進攻に対する焦りもうかがうことが出来る。
















以急飛脚致啓上候。然は過日御地にて海中より揚り候開陽船火薬銅凾但火薬添並神速火薬凾とも急速当箱館表へ御廻可致被下候。尤其御地大砲火薬不足に候はゞ五、六凾ばかりにても宜敷候間、右早々御取計可致被下候、これはアシュロット船所謂分取船に早々積込候爲なり、將又(はたまた)同船綱具至って不足にて既に帆を掛候に差支候間、左の品有之候はゞ是又併而御廻被下候。
 
日本周囲二寸五分より三寸迄のブラス

 但しブラスに用

同周囲二寸位のもの

ピストル雷管

二房



一房

多分
右之品さえ相そろひ候はゞアシュロット船十分之備に相成候間、物入掛とも即日人夫相掛け被成一日も早く相届候様御周旋可被下候。

一、當今之形勢



一、ブリネー並他之佛人も過日より大野、鷲ノ木辺防禦地所見廻之爲出立いたし候。

一、峠之上に洋製之パッテシイ築立最中。

一、諸隊之持場大凡おおよそ相定候事。

一、澤君は来る十五日アシュロット船にてモロランへ引移り砲台並陣屋相立候積但し砲は箱館砲台のもの並船砲を用ゆ

一、彰義隊紛冗ふんじょう過日小生漸く相まとめ分隊にいたし候事。

一、支那米五千俵ブロイス船にて入港いたし候に付、買上手筈に相掛居候。

一、英石炭五百トン許英船にて入港いたし候事、勿論半分たりとも買上に是非致事。



一、諸船皆戦争用意相整ひ居候事、且長鯨控もナポレオン二挺長崎丸のものアメリカポート二挺外に二十四斤二挺都合六挺備にて餘程美麗に相成申候。

一、蟠龍、千代田、アシュロット、回天、長鯨いづれも相応石炭並薪相備居候事。

一、古川庄八回春之船將に相成候事。

一、当表にある小蒸船買上修覆最中之事。

(三向地ノ摸様本書に略ス)

一、荒井君は多分御地御出立之儀と存候、松岡君兵隊其表之方御都合宜敷由に承候間多分左様取計可申事。

一、火薬、索具御廻しの際は海兵差添いたし度事。

一、海兵引揚け之節は遊撃隊も不残当表へ引上候様いたし可申事、是は当地にて調兵之上士官なりとも頭取なりとも其人之才力によりて委任可致候。



余は後鴻萬緒可申上候乍末諸君へよろしく、小杉君、堀君之事は荒 井君着之上何かと御沙汰可申上候。



新正初八午前十一時認む





榎本釜次郎



 松岡四郎次郎様

 小杉雅之進様

 堀覚之助様

 忠内次郎蔵様


というもので、この書簡の内容からしても海軍出身の榎本は、陸軍のことは他幹部に任せ、專ら近く行われるべき、海戦に対し強い闘魂を秘めていることが良く分かる。さらに脱走軍の無謀ともいえる執念が宮古湾海戦となって現われた。

 明治新政府は脱走軍海軍との均衡を図り、さらに渡海進攻作戦を成功させるためにも優位 に立たなければならなかった。そのためには前述したような経過を辿ったストーン・ウオール・ジャクソン号の入手が必至条件であった。そこで政府はその移譲方をアメリカ側に交渉していたが、当初は局外中立を固守していたアメリカも、我が国の大勢からこれを守る必要もないと判断し、明治二年一月十五日四〇万ドル(両)で政府がこれを買収したことによって、海軍力の均衡は政府軍に有利となった。

 これに勢を得た政府は諸藩に呼びかけ軍艦の集合を求め、増田虎之助を参謀として、第一次政府軍連合艦隊を編成した。ストーン・ウオール・ジャクソン号は甲鉄と船名を変更(のち東艦となる)し、連合艦隊の旗艦となり、三月九日品川出帆の際は春日艦(薩摩藩所有)、丁卯(ちょうぼう)(長州藩所有)、陽春(秋田藩所有)の四戦闘艦に、豊安、戊辰(ぼしん)、晨風(しんぷう)、飛竜の四輸送船が随従し、のち朝陽(政府所有)と延年(佐賀藩所有)の二艘の戦闘艦が加わった。その艦隊の兵装等は次のとおりである。












































所属船名屯数構造兵装事項その他
政府甲鉄一、三五八
三本檣

蒸気五〇〇

馬力

三〇〇斤ガラナド

七〇斤砲四門

ガントリック・ゴン

二挺

旧名ストーン・ウオール・

ジャクソン、アメリカ製

四〇万ドル

船将中島四郎

のち東艦となる
薩摩春日一、二六九
三本檣、蒸気

三〇〇馬力

外車
砲一〇門
アメリカ製

チャンス号

報知艦

船将

伊藤次左衞門

明二一廃艦
長州
丁卯

(ちょうぼう)
一二五三本檣、木造、蒸気砲艦 
船将

山縣久太郎
秋田陽春五三〇木、汽 
アメリカ製

カガノカミ

船将

石井定之進
政府朝陽約三八〇木、汽大砲八門明2・5・11有川沖撃沈
船将

中牟田倉之助
佐賀延年二五〇木、汽   
鹿島豊安丸二五六鉄、汽輸送船 大江良之進
阿波戊辰丸三一六木、汽宮古海戦破損小山彦辰
久留米晨風丸約一〇〇木、汽 辻三左衞門
政府飛竜丸約三〇〇木、汽 岡敬三郎
政府加賀五三〇
木、汽

二八〇馬力
大砲六門
アメリカ製

ウオールス号

一一万ドル
秋田藩預


このほか雇外国船はアメリカ、ヤンシー号、イギリス、オーサカ号、アルビヨン号、プ・オルカン号、カンカイ号、プ・キリステン号等である。

 艦隊は三月九日に品川沖を出帆したが、脱走軍も各地に間諜を放っていて、これらの艦隊が大凡(おおよそ)三月十七、八日ころには宮古湾に碇泊することが分かっており、脱走軍の艦隊がこれに不意討を食わせ、甲鉄を分捕りするか撃沈するか、先ず機先を制する海戦を決行することを決め、回天、蟠龍、高雄(第二回天)の三艦を投入することになり、回天の主砲五六斤砲には尖頭弾を用意して、甲鉄の装甲を破るようにし、海軍奉行荒井郁之助を指揮官に、ニコールら三人のフランス士官も作戦指導として乗り込み、抜刀隊は土方歳三および新撰組を主体に回天、蟠龍に乗り組み、高雄には高田藩脱走の神木(しんぎ)隊が搭乗して三月二十日箱館を出発、途中の港に入って情勢を確かめながら南下し、三月二十五日早暁宮古湾突入を決定した。しかし、蟠龍、高雄の両艦は時化のため故障して同行できなくなったため、回天一艘が二十五日早暁アメリカ国旗を掲げて湾内に入った。

 回天は政府艦隊に近づくと急に日章旗に替え、突然甲鉄に発砲接舷し、斬込隊が一斉に甲鉄の甲板(かんぱん)に飛び降りた。甲鉄は鉄鋼船で甲板の位 置が低く、回天は木造船で浮上力が強いので、その間の差が一丈余(三・〇三メ-トル)もあり、飛び降りるのに時間がかかっているうちに、甲鉄甲板前後のガントリック・ゴン(自動機関銃)が火を吹き、彼我の斬合で甲板上は血の海と化し、回天艦長甲賀源吾や新撰組差図役野村利三郎等が戦死し、同新撰組隊長相馬主計やニコール等が傷を受けている。この奇襲攻撃は僅か三〇分程の戦いであったが、脱走軍側四九名もの死傷者を出し、これ以上の攻撃を断念して帰航の途についた。政府軍側も二〇余名の死傷者を出し、輸送船戊辰丸は北航不能となって品川へ引き返した。帰路回天は蟠龍と会して箱館に帰投したが、高雄は政府軍艦陽春に追われて、南部九戸沖で自焼し、乗組の神木隊等九〇余人は南部藩に降投し、江戸に送られて諸藩預となった。



【政府軍の蝦夷地上陸】 宮古湾海戦の終った翌日の三月二十六日政府軍艦隊は青森に到着し、二十九日清水谷総督が旗艦甲鉄に座乗して観艦し、また陸兵を閲兵して戦期の到来したことを告諭した。それより先、政府は箱館を攻撃する場合、外国人居留者に戦火が及ぶのを避けるため、同二年一月二十七日外国領事に、その前に船を雇い上げて廻航させるので、什器家財を積んで避難するよう通 知し、三月二十七日にはイギリス商船アルビヨン号を廻航させている。四月七日にはアメリカ、イギリス、フランス三国の軍艦が警戒のため入港し、これらの船も戦争に影響のないような七重浜沖からさらに筑島(函館市東浜町)に移動していた。

 蝦夷地進攻準備の全く整った政府軍は、青森に集結している諸藩兵のうち第一陣として長州兵三〇〇人、津軽兵三〇〇人、備後福山兵三〇〇人、松前兵四〇〇人、越前大野兵一〇〇人、徳山兵一〇〇人、計一、五〇〇人が先鉾として四月五日午前六時より豊安丸、ヤンシー号に乗り込み、待機し、銃弾は一人五〇発、さらに予備として五〇発を背負ったが、予備弾は命令あるまで使用は禁止されていた。この政府軍は長州藩山田市之丞陸海軍参謀が統率し、甲鉄以下七艘の軍艦護衛の元に六日青森を出航したが時化のため平館(青森県東津軽郡)沖に仮泊し、八日同地を出航し松前・江差沖を経て、九日午前乙部村前浜に上陸を開始した。

 ヤンシー、豊安等の輸送船は各々数十隻の伝馬船を曳航していたので兵は、この船に乗って上陸した。江差在駐の脱走軍松岡四郎次郎隊がこれを見て駆付けたが、上陸軍は何ら障害を受けることなく進出し、田沢野(江差町)で戦闘があった程度で、何なく江差を奪取した。厚沢部口では上陸軍を二分し、一隊は厚沢部川流域を北上し、二股口から大野村を経る中山峠へ進軍し、一隊は江差から上ノ国村にいたり、ここから稲穂峠(中野越え)を経て木古内村に至る兵とに分け、松前城奪回は松前兵二〇〇人、長州兵一〇〇人、福山兵一〇〇人、津軽兵一〇〇人、大野兵一〇〇人が第一次尖兵として行うことになり、海岸道路を南下した。

 一方、松前城には奉行人見勝太郎を筆頭に、陸軍隊、彰義隊、工兵隊、大砲隊など四〇〇人が配備されていて、兼ねてから松前城の攻防は城西立石野(字建石)が主戦場になると考え、折戸砲台を構築すると共に縦横に高さ約一メートルの胸壁を設けていた。江差が政府軍によって奪取されると、同地在駐の一聯隊二五〇人も松前に南下し、福島村守衛の会津遊撃隊も合流し、約八〇〇の兵力で満を持し、これを迎え撃つことになった。



【松前城の攻防】 九日江差を奪回した政府軍の第一陣は六〇〇人であるが、そのなかには二〇〇人の松前藩兵がいた。政府軍は総轄三刀屋七郎治の命令で、二陣、三陣が上陸参加するまでは徐々に進攻していたが、昨年惨敗して武士として最大の恥辱を受け捕虜となった怨みと、一日も早く城下へ帰りたいという願望もあり、尖兵としては驚異的な早さで十日一日で約四〇キロメートルも進み小砂子、原口村まで進出し、十一日には江良町村から札前野下のトッチョの沢まで進撃した。ここに埋伏していた脱走軍側が反撃したことにより、藩兵は江良町村まで敗走し、一三名の戦死者と一六名の戦傷者を出す大損害を受け、ついに小砂子村に後退し、三刀屋総轄から軍律違反を問われ、十三日上ノ国村まで引き返した。

 十四日午前七時藩兵は上ノ国村を出発し、石崎村(上ノ国町)に宿営し、十五日筑後藩兵と共に小砂子村と原口村との中間点まで出撃したが、ここでも命令違反として叱(しか)られ、また、小砂子村に引き返している。この十五日政府軍第二陣一、九二六人と郷夫一〇五人を茂草村に上陸させる予定であったが、戦況不利のため十六日急拠江差に揚陸させ、兵員、兵器、弾薬、兵糧を補充し、十七日一挙に松前城を奪回することにした。その動静を知った脱走軍は十六日夜中五〇〇の兵力で江良町野に布陣し、十七日朝約一、五〇〇の政府軍と交戦し激しい銃撃戦と白兵戦を展開したが、政府軍の第二陣は多くの野戦砲を搬入砲撃し、さらに海上からは軍艦春日が援護砲撃をしたので、脱走軍は遂に清部に後退した。また政府軍軍艦の甲鉄、朝陽、丁卯、陽春、飛竜の五艦が松前城下や沿岸部を砲撃したので、脱走軍側は総崩れとなって立石野堡塁に立籠った。

 同日午後立石野での松前城下の攻防戦が行われ、数時間に及ぶ激戦が続き、政府軍艦の援護射撃に対し、脱走軍側は折戸砲台から果 敢に砲撃し、また野一帯に張り巡らされた胸壁からの激しい銃撃戦が展開されていた。このとき、地理に詳しい松前藩兵のうち奇兵隊、遊撃隊、大砲隊が合して、根部田村(松前町字館館浜)の石揚岱から中ノ岱を経て、さらに山中から、流れ、地蔵山(八十八ヶ所)から城北に迫り、城内に進入し、午後四時ころ白隊下大砲隊長田中孫平治が、天守閣上に白旗を掲げて、政府軍艦の砲撃を中止させ、松前城の奪回に成功し、脱走軍は総崩れとなって、箱館に向け敗走した。

 また、長州、津軽兵及び奇兵隊は長駆脱走軍を追い吉岡村にまでいたり宿営している。脱走軍の敗走する兵士のなかには、豪商の土蔵を破り、千両箱を盗み逃げ出したが、政府軍の追撃があまり急なため、婆懐ば(ばふところ)(字朝日、旧及部駅付近)で持ちきれず砂地に埋めて逃げたといわれている。奪回した松前城は政府軍参謀原川魁輔が検分して、戦争終了まで松前藩にお預けと決定した。

 この江良町村から立石野にいたる一連の戦闘で、村上温次郎以下十六人の戦死者と多くの戦傷者を出したが、脱走軍側の損害はさらに多く、戦死者、斬首者、生死不明者を合せると六〇名以上に達し、幕末から戊辰戦争にかけ名を馳せた脱走軍の陸軍奉行添役忠内次郎三(蔵)、同監軍堀覚之助、同佐久間悌二、歩兵頭頭取岡田斧吉、一聯隊頭取杉山敬二郎等の戦死者の名が見られる。

 この戦争の終了後六月これら政府軍戦没者慰霊のため、松前神止山、江差丸山、箱館(函館山中腹)に官修墳墓を造営させ、各地の遺体を収容して招魂社を建立している。脱走軍の松前での戦死者の埋葬場所は不明であったが、最近になって松前町字豊岡の日蓮宗法華寺に埋葬されていることが分かった。



【福島・木古内の戦い】 政府軍が松前城を奪回した四月十七日午後、敗走する脱走軍を追撃する長州藩兵と津軽藩兵、それに松前藩の奇兵隊兵が白神峠を越え、午後六時吉岡村に至って宿営し、奇兵隊士を斥候として秘かに福島村に送り込み、丸山下の釜谷付近に達している。福島村には会津遊撃隊一五〇人を主力として脱走軍が駐屯していたが、松前城攻防戦の応援に出向いており、落城後すぐ福島村に帰って、後退してくる兵士らと共に体勢の立て直しを図ろうとした。

 福島村の人達は兼ねてそのことを予知し、三枚橋付近や桧倉川周辺に仮小屋を建てて避難していた。十八日吉岡村を出発した政府軍と交戦し、この時政府軍艦朝陽と陽春の二艘が海上から援護射撃をしたため、脱走軍は一の渡り、知内へと敗走した。政府海軍連合艦隊は道南戦域に適当な泊地がないので、福島村沖と対岸三厩村(青森県東津軽郡)沖を碇泊地として行動するようになった。

 一方、木古内村には星恂太郎を指揮官とする額兵隊、彰義隊、陸軍隊が守備していた。木古内村は松前から箱館にいたる松前街道の中枢に当っており、さらには上ノ国村から稲穂峠(中野越え)、笹小屋を経て木古内に到る交通 上の要衝であったので、戦略的にも重要であった。したがって脱走軍はこの両街道に面 する位置に堡塁を構築していたと思われ、その場所は現営林署向いの中腹にある公宅付近と考えられている。

 これに対し政府軍は松前城奪回攻撃軍の一部を割いて四月十日には稲穂峠に向かったが、十二日払暁木古内に前進して脱走軍との間で木古内川を挾んで激しい銃撃戦を展開した上、笹小屋まで引き返し、十三日も出撃したが弾薬、食糧の補給が切れ、湯ノ岱まで撤退している。十六日政府軍はさらに笹小屋に進出し、十九日には第三次上陸隊から長州一中隊、薩摩一中隊が投入され、二十日本格的な木古内村の攻防が開始された。この日は濃霧が強く見通 しの利かないのを利用した政府軍は、脱走軍陣地に突入し、大小一一の堡塁を占拠したが、脱走軍側も救援のため陸軍奉行大鳥圭介が額兵隊三小隊、伝習士官隊一小隊を率いて来援していたので、これらの兵に、松前から敗走してきた兵を合せ、その数は大凡(おおよそ)八〇〇と思われるが、政府軍は松前口からの進撃兵と併せ、二、六六七名を投入したと記録されている。木古内中野の堡塁を占拠した政府軍は木古内本村から札苅、泉沢(共に木古内町)まで進出したが、一方泉沢の大鳥支隊は松前からの敗兵と合流し、海からは蟠龍の援護射撃もあったので退勢から立ち直り、政府軍はまた笹小屋に後退した。

 大鳥圭介は諸隊長を集め、矢不来(やぎない)、富川の嶮塁に拠って渡島平野への政府軍を阻止することを述べ二十日夜までに木古内村から撤退した。二十一日政府軍は木古内村に進出し、知内から進出してきた松前口からの南下各隊と合流したが、その間十日間に亘る木古内口での戦闘で政府軍は一〇名の戦死者と二〇名の戦傷者を出している。一方脱走軍側は幕末の剣豪として知られる遊撃隊頭の伊庭八郎が左腕を負傷し、五稜郭に護送されて死亡したほか、額兵隊頭取武藤勇作ほか多くの死亡者を出している。



【二股口の戦い】 政府軍の第一陣が上陸をした乙部村のすぐ近くが厚沢部川であり、上陸兵をそこで二分し、ここから厚沢部川を遡って中山峠を経て大野へ出るのが、最至近距離であったので、政府軍は松前藩(白隊隊長下国東七郎)二〇〇人、長州一〇〇人、備後福山一〇〇人、津軽一〇〇人の計五〇〇人をこの進撃に投入した。一方この要衝を峠頂上から大野側に下った大野川の上二股と下二股にはかつての新撰組副長であった土方歳三が、陸軍奉行並(なみ)という待遇で、伝習士官隊、新撰組、衝鉾隊、砲兵、工兵を率い、天狗山、鷹待山、台場山等に堅固な土塁を構築し幾重にも巡らして待機していた。

 彼我の戦闘は四月十二日午後から翌十三日午前七時まで一六時間に及ぶ激戦が続いたが、政府軍は携行した五〇発と予備の五〇発も総て撃ち尽くし、ついに後退した。この状況を『麦叢録』は、「此役我兵ノ費ス所ノ弾薬殆ンド三万五千発ニ及ビ、彼ノ兵ハスペンセル、スナイドル等ノ銃ヲ用ヒシト見ヘ銅銃包(パトロン)ノ殻数万地上ニ散布セシト見ル」と述べられていて、脱走軍側も一人一一六発以上を撃っている。

 四月十六日には政府軍第二陣二、四〇〇余が江差に上陸し、松前藩は三、四番隊が投入されたが、白隊隊長下国東七郎は二股の堅塁を抜くことが困難なので、安野呂村(厚沢部町)から山越えをして、内浦湾に通 ずる杣道を軍用として砲、弾、食糧を搬べる軍用路を造り、ここから兵を送り込んで、背後から二股口を攻める作戦をたて、四月十七日からこの作業に入ったが、これとて容易なことではなかった。また、第二陣には薩摩、水戸の藩兵も加わり弾薬、食糧も補給され、政府軍は日一日と優勢になった。脱走軍側も滝川充太郎指揮の伝習士官隊二小隊が増強された。

 四月二十三日福山藩が警備していた天狗岳陣地に脱走軍斥候が近づいて交戦し、同日午後四時ころから翌二十五日にかけて激戦となり、政府軍軍監駒井政五郎が銃丸に当って戦死をしたが、その戦いの様子を前記『麦叢録』は、







廿三日敵敢死ノ兵ヲ選ミ又二股ヲ攻ム、我兵前ノ如ク壁ニ拠リ之ト戦フ、敵更ニ兵ヲ操替頻ニ進我兵前ノ如ク壁ニ拠リ之ト戦我兵死ヲ以テ之ヲ守リ不進不退閧声山谷ニ響キ打違フ弾丸疾風ノ花ヲ散スニ似タリ。五稜郭ヨリハ瀧川充太郎頭並二小隊ヲ率ヒ応援ノ爲出張ス。此戦争廿三日ヨリ廿五日朝迄ノ連戦ニテ大隊有餘ノ兵各千発ニ近キ発砲故ニ銃暖ヲ生ジ持能ハズ由之各々桶ヘ水ヲ貯ヘ置三五発ニシテ筒ヲ冷シ代ル代ルニ弾ヲ籠(こめ)此ノ如クナス事ニ昼夜毫(ごう)モ間ナク奮戦ス


と、この三日間の戦闘がいかに激烈であったかを物語っているが、政府軍の長州・薩摩の近代装備をした精兵と互角にわたり合う、この二股口守備隊長土方歳三の指揮能力がいかに卓越していたかを知ることが出来る。脱走軍側のパトロン(薬莢(やっきょう))は精度が悪い黒煙火薬であったので、射撃の度に黒煙が上がり、この戦のあと顔を見合せたところ、全員の顔が烏(からす)の様に真っ黒であったといわれている。

 この二股口における政府軍の攻撃も、脱走軍の必死の抵抗によって、この地を抜くことが出来ず、睨(にら)み合いを続けていたが、二十九日にいたって、松前口から南下を続けた政府軍が矢不来、富川の堅塁を破って、渡島平野に進出したことから孤り二股口を守る土方軍は、孤立する形となり、五稜郭の榎本武揚からの引揚勧告があり、遂に陣を引き払い、五稜郭に引き揚げた。ちなみに安野呂村から山越えをして落部村に着き、ここから二股口の背後の大野村本郷に松前藩兵が到着したのは、五月二日のことである。



【矢不来・富川の戦闘】 二十一日木古内で松前口軍と稲穂峠口軍とが合した政府軍は、一路箱館に向け進撃し、二十二日は泉沢村、二十三日に茂辺地村に到着した。この先矢不来と富川の天嶮があり、これを越すと渡島平野で展開が容易となるので、軍事上の重要拠点であった。脱走軍側も当然この地の重要性を認識していて、箱館占拠後すぐこの矢不来・富川に砲座、胸壁、堡塁を築いて、衝鉾(鋒)隊と額兵隊三〇〇が守備し、さらに木古内から後退した諸兵が加わり、二十四日以降茂辺地村を挾んで小競り合いが行われていたが、機の熟したのを見た政府軍大田黒亥和太参謀は、四月二十九日矢不来の総攻撃を下令した。その際の編成は、








































松前藩二中隊と一小隊
津軽藩三中隊
長州藩一中隊と一小隊
水戸藩一中隊
津 藩一中隊
筑後藩一中隊
越前大野藩一中隊
備後福山藩二小隊
徳山藩一中隊
御親兵一小隊
薩摩藩一小隊
砲 備前四門、松前二門、その他一門


で、その兵数は約二、五〇〇であるが、それに対し脱走軍側は陸軍奉行を総指揮官として、極限された狭隘な地域に天嶮を利用して排列したが、その参加隊は、













彰義隊一二〇名神木隊三〇名
遊撃隊六〇名伝習兵一小隊
衝鋒隊一小隊額兵隊二小隊


で、その合計は約四五〇であった。

 二十九日松前藩は尾見雄三を総長に赤隊(緋)の五、六番隊と糾武隊が尖兵となって海岸部を進撃することになり、白地に黒割菱の藩旗のもと、各兵五〇発の銃弾のほか予備五〇発、糧食二食分、草鞋(わらじ)二足を揃え、早暁泉沢村を出発、午前四時過ぎ矢不来天神森付近から戦端が開かれた。政府軍の海陸の立体作戦に甲鉄、朝陽の二艦が参加し、茂辺地沖から砲撃を加え、天神森の脱走軍は矢不来堡塁に後退した。午前八時には正面 と海岸部の戦闘が開始し、さらに山道を経た予備隊が矢不来後方の山道を迂回するなどして三方面 から攻撃し、また海からは春日、丁卯が砲撃を行い、次第に脱走軍を圧迫し、同軍は富川保塁に後退した。しかし富川保塁の砲座は矢不来台地より低い位 置にあったので、野砲、山砲の格好の目標となったので、正午ころには遂に有川方面 へ撤退した。

 この矢不来・富川の戦闘で政府軍は戦死一一名、戦傷九五名にも達したが、そのうち松前藩副長田崎東以下七名が戦死、一九名が戦傷を受ける犠牲を払った。脱走軍側も衝鋒隊第二大隊長永井伸斉(かくしんさい)、同第一大隊長天野真太郎ら一六〇名が戦死し、会津遊撃隊長諏訪常吉ほか戦傷者は七八〇人(『奥越戦争日記』)と記録されている。この敗退によって大野下二股で頑強に抵抗していた土方軍は背後から挾撃される結果 となり、榎本の撤退勧告もあり、土方軍は撤退を余儀なくされ、同日夕刻には撤退し、脱走軍は五稜郭を中心に、弁天岬砲台、四稜郭、権現台場、千代ヶ岱陣屋等を核として戦うことになった。



【箱館の決戦】 政府軍青森口総督清水谷公考(きんなる)は四月二十八日江差に上陸、直接戦闘の指揮をとったが、五月一日以降からは松前、木古内からの東下軍と中山峠から二股、大野に進行してきた南下軍が、有川付近で合し、渡島平野を制圧する体制ができ、脱走軍は五稜郭を本拠に、弁天岬砲台と回天、蟠龍、千代田の三艦をもって箱館港内を守り、さらに箱館市街を固守する体制をとった。

 一方海軍の戦闘も始まり、五月一日政府軍艦を警戒巡行していた脱走軍の千代田艦が、弁天岬砲台前の浅瀬に乗り上げ、使用不能と見た艦長森本弘策が機関を毀 (こわ)して上陸したが、その後満潮となって艦は漂流し、政府軍に捕獲されたこともあり艦長は謹慎となった。このため脱走軍海軍は、回天、蟠龍の二艦が弁天岬砲台の火力を背景として戦うことになり、政府軍艦は甲鉄、春日、丁卯、朝陽、陽春の五艦が箱館沖から有川沖にかけて展開し、二日、三日、四日と海戦が続き、五日には蟠龍が汽鑵を打たれて運転の自由を失い、砲台脇で修理に入った。六日には脱走軍が艦船の進入を防ぐため港内に張った索綱の切断が成功し、港内への政府軍艦の進出が可能となった。七日には甲鉄の攻撃によって回天も機関が故障し、岩場脇に乗り上げ浮砲台として砲撃を続けた。この六日間で受けた両海軍の被害は、回天の被弾は一〇五発といわれ、政府軍の甲鉄も五〇余発、春日一七、八発、朝陽一四、五発(石井勉筆『徳川艦隊北走記』)といわれる曽(かつ)てない大海戦で、箱館地方の俗謠でも「鬼の回天穴だらけ」と歌われた。

 陸軍側の戦闘も続き、五月二日の夜陸軍奉行大鳥圭介は三小隊を率いて七重浜へ夜襲をかけ、政府軍を敗走させ、三日には大川村(函館市と七飯町界付近)に進出した大野駐屯兵を衝鋒隊、額兵隊が、また別 動隊は七重浜へと夜襲をかけるなど動きは活発ではあったが、兵員、兵器、糧食共に次々と補給される政府軍の優位 は固まった。

 五月十一日は海陸軍の箱館攻防決戦の日である。政府軍は兼ねて箱館山背後へ隠密に兵を送り、背後から箱館市街を占拠する準備を進め、十一日早暁茂辺地村から薩摩、筑後、長州、松前の四藩兵四〇〇を豊安丸に乗せ、箱館山背後の海に面 した寒川に上陸させた。飛竜丸には伊州、津軽の三〇〇余が乗り込み、市街の西側尻沢部(しさべ)に上陸し、弁天砲台を背後から攻撃し、砲台は門戸を閉じて孤立したため、山越えの諸隊と合流して箱館市街の脱走軍掃討に入り、抵抗する脱走軍を海上からも砲撃した。また、大川、有川方面 の本隊も市街に進出した。

 箱館を政府軍から奪回しようとする脱走軍は副総裁松平太郎、陸軍奉行並土方歳三らが、五稜郭を出て箱館に向かう直線道路を進撃してきたが、ここから箱館に入る要衝に一本木関門があり、この付近に布陣していた政府軍と銃撃戦になり、土方は近くの異国橋付近で戦死し、陸軍隊頭春日左衞 門も戦死を遂げた。

 この一本木関門付近の銃撃戦では、松前藩の六番隊(隊長松崎数矢)、八番隊(隊長氏家左門)が主力であったので、土方を狙撃したのは松前藩兵ともいわれるが確証はない。

 この十一日海軍の決戦も行われ、回天は汽鑵の故障から弁天岬砲台脇の浅瀬に乗り上げた侭(まま)、十三門を前面 に出して砲撃し、機関の故障の修理ができた蟠龍一艦が港内を自由に運転して、五隻の政府軍艦を相手に闘ったが、その一弾が有川沖にあった朝陽の火薬庫に命中し、瞬時に船体は真二つとなって沈没した。しかし両艦は持てる砲弾を全部撃ち尽くしたので、乗組員は弁天岬砲台に上陸し、その夜政府軍兵が両艦に火を放ち、偉容を誇った脱走軍海軍は全くその姿を没した。

 十一日の大川野での戦闘では白符神明社神主の富山刑部が、松前藩奇兵隊士として参加していたが、その状況を伝える史料に、松前馬形神社神主佐々木家の『馬形社佐々木家記録』に記されている。








昨十一日十一字本藩一中隊、長州同、津軽同桔梗野江出発、同二字 備而して薩州一中隊、備前大砲二門、本藩一門七重浜出張猶箱館表江ハ本藩一中隊、長州同外隊官艦ニ而揚陸、七重浜梗野(桔欠)大川通 共海陸同拂焼今十二日朝迄無間断及攻撃、箱館は御家先足、神山野砲台も御家ニ而乘取、大砲二丁分取有之、大野口各藩御人数も同様追撃ニ而賊は五稜郭江打籠防戦罷有候得共、一両日中平定ニ可相成儀と奉存候。回天、蟠龍両賊艦昨夕自焼と相成候恰怏之至ニ御座候。

朝陽丸官艦昨日焼失いたし歎息罷有之処、然共官艦加勢一艘着港ニ而、気勢を高め、野(ママ)、箱館義賊追払皆々台場之橋越ニ而断絶、自分之入獄之姿有之。

本藩戦場死左之通








































戦死  
 奇兵隊富山刑部(ぎょうぶ)
 松居宇八
 糾武隊平尾民五郎
 奇兵隊
江良町村附属

 吉之助
手負  
 糾武隊村上爲三郎
 青山兵馬
 谷梯卓平
 工藤采女(うねめ)
 奇兵隊蠣崎衞士
 四番隊下国録之進
 萩野次郎


とあって、この日の戦死者として富山刑部の名が挙げられている。刑部は明治元年の戊辰戦争の際組織された神職達の臨時編成の図功隊(隊長松前神明社大神主白鳥遠江(とおとおみ))に所属して闘い、熊石村から出船して津軽に逃れ、二年のこの戦では銃士として奇兵隊に所属していたが、この十一日には大川野(『福山招魂者祭神調』では桔梗野)で戦死したものである。



【五稜郭の開城】 十二日以降脱走軍が海軍力を失ったことによって政府軍艦は、箱館港内に深く入り込んで、有川沖から五稜郭を砲撃、特に甲鉄の七〇斤砲は威力を発揮し、郭内への命中率も高く、政庁庁舎の望楼を砕き多くの死傷者を出した。『南柯紀行』(大鳥圭介筆)では「その後も屡々(しばしば)人を害し衆を悩ませり。ついに夜も家内に臥することあたわず、土堤、石垣を盾となし、畳を布き屏風を建てゝこれを防げり」と記してあり、建設時には海岸から遠く離れていて、砲爆には絶対安全な場所として築かれた五稜郭ではあったが、僅か十年程の時日で、兵器の発達が目覚ましく、守る脱走軍兵士は不安から脱走するものが相次いだ。また、陽春は大森浜沖から津軽藩陣屋をも砲撃している。十三日には箱館市内を占拠した政府軍は、脱走軍の病院に到り、参謀池田次郎兵衞 (薩摩藩士)が入院中の諏訪常吉(会津遊撃隊長、福島駐屯隊長、矢不来戦傷、のち死す)を説いて、榎本ら五稜郭内の脱走軍が無益な抵抗を止めて降伏するよう勧告し、病院事務長小野権之丞、病院長高松凌雲も人道上からこの斡旋に乗り出したが、榎本武揚、松平太郎は諸将に協議した結果 、特に諸将から頑強な抵抗があって降伏恭順の意志がないことが分かり、それを断わる書簡の末尾に







尚々病院罷在候者共篤ク取扱有之趣(おもむき)承知厚意ノ段「トクトル」ヨリ敷御伝声可被下候、且亦削本二冊釜次郎和蘭留学中苦学到候海律、皇国無二ノ書ニ候ヘハ兵火ニ付シ烏有(うゆう)と相成候段痛惜致候間「トクトル」ヨリ海軍「アトミラ-ル」へ御贈可被下候


とあって、開陽丸がオランダで建造中監督を兼ねて海軍の諸学を学んでいた榎本が、苦心して筆写 した『海律全書』を、政府軍軍艦提督に贈るというものであった。これに対し、政府軍海軍参謀から、








昨年来長々ノ御在陣如何ニモ御苦労ニ存候。陳ハ以二医師一貴下蘭国御留学中御伝習ノ海律二冊、我国無二ノ珍書烏有ニ附候段、痛惜ニ被レ存爲二皇国一御差贈リニ相成候段、深致二感佩一候。何レ他日以二訳書一天下ニ公布可レ致候。先ハ御厚志ノ段、拙者共ヨリ相謝シ度、乍二軽微一麁酒五樽進レ之候。傍郭中一統ヘモ御振分被成度奉存候。此段申述候也。



五月十六日





海軍参謀



 榎本釜次郎様



『雨紀聞』



という書簡に添い酒五樽が贈られるという美談もあった。

 十四日以降弁天岬砲台の相馬主計(監軍・新撰組長)や蟠龍艦長松岡磐吉らと政府軍軍監田島圭蔵との接触があって、五稜郭との連絡はとれていたが、弁天岬砲台は食糧が欠乏し、ついに十五日二四〇人が投降し、同日神山権現台場二、一六二人、さらに十六日権現台場は八二人が降伏し、津軽陣屋と五稜郭のみが完全に孤立した。十六日朝政府軍は津軽陣屋跡の堡塁を攻撃し、守備隊長中島三郎助とその子二人恒太郎、房太郎らが白刄を揮って戦い、壮烈な戦死を遂げている。

 この十六日榎本は五稜郭庁舎の一室で、一切の責任を負って自決しようとしたが、発見されて果 せず、他の首脳と協議し、共に政府軍に降伏謝罪し、郭内残留の将兵約一、〇〇〇名の助命を嘆願することに決し、同日午後四時ころ白旗を掲げた使者をもって其の意を告げた。十七日朝六時蝦夷島総裁榎本釜次郎武揚、同副総裁松平太郎、同陸軍奉行大鳥圭介、同海軍奉行荒井郁之助の四将は降伏談判のため出郭、亀田八幡社後方の会見場において政府黒田陸軍、増田海軍両参謀との間に降伏の約条を交換したが、その内容は、








一明十八日朝第六字より七時まで榎本等四人出郭候事。

一午後一字より二字迄兵隊出郭。

一四字より五字まで兵器差出並五稜郭引渡し可申事。


というものであり、此の夜の五稜郭内は「総督等衆ト訣飲終夜悲歌慷慨満城粛然タリ」(『北州新語』)とあるように痛飲して訣別 と不安を押し隠し、盃を重ねていた。

 翌十八日四将は亀田村の本営にいたって、山田市之丞参謀、有地、不破両陸軍軍監、前田海軍軍監に面 会し、次の降伏約条を了承した。








一首謀ノ者陣門へ降伏之事。

一五稜郭ヲ開キ寺院ニ謹慎ノ上可奉待天裁之事。

一兵器悉皆差出可申事。

右ノ通申渡候条可得其意候也



『清水谷家文書』



この了承によって無条件降伏した榎本ら四将は帯刀を差し出し、轎(あげこし)に乗せられ長州兵一中隊が護送し、箱館本陣近くの猪倉屋に監禁された。

 一方郭内の残務整理に当った榎本対馬(つしま)(前会計奉行)は、兵器、弾薬等を集積して、政府軍前田軍監に引渡したが、その内容は、


























一元込銃百七挺  
一ピストル四十八挺  
一二ツバンド、三ツバンドミニー銃 
合 千六百挺  
一大砲三十三門
長加農二十四斤砲

四斤施条砲

短忽微砲

亜ホート忽微砲

十三拇臼砲


九門

三門

二門

三門

十六門
一米五百俵余  
外 味噌並干魚其他書籍蒲団雑具類 
  (『箱館戦争と大野藩』)


と多くの弾薬であった。郭内の兵員は三つの旗に分けられて集合し、第一旗下には伝習士官隊等三〇〇余人が薩摩、雑兵二〇〇余人は親兵、第二旗下は歩兵、彰義隊等二〇〇余人は福山、松山藩、第三旗下は遊撃隊、杜陵隊、神木隊、一聯隊、額兵隊等二〇〇余人を大野、津軽藩兵が護送し、五か所に分け監禁したが、郭内の降伏者の総数は一、〇〇八名であった。

 榎本らの領将は二十一日ヤンシー号で青森を経て東京に送られ、他は諸藩預となり、ここに二年間にわたる箱館戦争は終結を見ることになった。



【松前藩の戦後処理】 五稜郭の開城後政府軍は箱館の警備と脱走軍兵士の詮索、住民の治安維持と戦災復旧のため、松前藩二中隊をはじめ、伏見隊、在住隊、津軽隊等六中隊を残し、出兵諸藩兵は全部引揚げた。残留警備のほかの松前藩兵は五月二十三日五稜郭を発足、二十五日には松前城下に凱旋したが、藩主勝千代(のち修広)の名代として前藩主崇広の子敦千代(のち隆広)が、松前城守護兵を率いて、城東大沢村支村の根森の柵外まで出迎え、祝砲を放って凱旋式を行い、住民歓呼のなかを城中に入り、幼主勝千代はこれを正殿玄関で出迎え、その後軍功を賞した。しかし兵員の多くは七か月振に見る松前城下ではあったが、市街地は全面 焼野原と化し、僅かに町奉行所前の川原町、蔵町、小松前町の一部を残すのみという惨状で皆唖然(あぜん)として、我が家の焼け跡に帰って行った。

 藩の戦後処理は、民心の安定と被災からの復旧、さらには戦争中の非協力者の詮索とその処置があったが、藩はその重点として、








一、家臣中の戦争非協力者。

一、領民での徳川脱走軍への協力者。

一、徳川脱走軍の潜伏者。


にしぼって、四月十七日の松前城回復後詮索に入り、五月にいたって本格的逮捕に踏み切ったが、五月、六月の二か月間に逮捕したものは、松前城下で一一八名、江差で一四〇名計二五八名に達しているが、この中では徳川脱走軍の潜伏者一四四名も含まれている。またこのなかには藩の士分のものや、町年寄や、江差年寄、名主等もおり、これらの者は揚屋や牢屋は満員で収容できないので、奉行所前から牢屋前の横町の路上の蓙(ござ)に座らされ、手を縄で縛(しば)られ、雨や炎天にもかかわらず十日以上も繋がれていた。

 これらの人達の中には医者として、人道上から戦傷者の手当をして金銭を得たという者や、脱走軍の手先目明かしとなり得意になって町内を乗馬姿で巡視し、潜伏家臣を摘発したものもあったが、『松前藩福山日記』によれば、福島村では次のように三名の脱走軍兵士が潜伏していて逮捕したと記されている。













遊撃隊二番尾州榮蔵 二十三歳
正(彰)義隊 松平 賢次郎 二十歳
陸軍隊 島田 彌吉 二十二歳




この逮捕者は名主の指揮の元に捕えられ、縄付のまま村小役が引き連れて松前に送り、藩庁に引き渡している。

 これらの逮捕者の裁判は六月二十五日から九月十六日まで七回に分けて町奉行所で行われ、『松前藩御白洲日記』によれば、藩副管轄松崎多門臨席、奥平肇(はじめ)督事申し渡し、列座権督事井本新、刑法方二名、同補助、立会小監察二名、御徒目付二名、刑法方手付締方二名、町年寄、加談役、刑法方手付足軽等が控えるという大掛かりなもので、裁判は督事奥平肇が事実認否の上、刑量 の申し渡しを行い、刑の執行は同日又は翌日以降行っている。

 この裁判では二五八名の逮捕者中、一〇九名が過料以上の刑を受けているが、脱走軍将兵の中では、特別 悪質な者以外の者は箱館に送られて、内地送還(渡海)となっているが、松前に来ていた脱走軍軍監の堀覚之助や、彰義隊嚮導の松平乾次郎らのように、松前城回復時に捕えられ、処分のないまま松前で死亡した者もある。この行刑で、町内引廻し胴斬の上梟(さらし)首四人、町内引廻しの上刎(ふん)首梟首一二人、刎首八人で刑の執行は立石野首斬沢で行われたという。その他の刑では、永押込、永之暇(いとま)、永牢、押込、蟄居(ちっきょ)、身分取放ち、家名断絶等の士分者の処分、あるいは体刑として百擲(たたき)の上渡海、七十擲、五十擲、三十擲等や越山、所替、三所(松前、箱館、江差)構へ、町内払、村替え、急度叱(しっとしかり)、戸〆、持家取上け、過料(一〇〆文、五〆文、一〆文)等々の処分があったほか、軍用金を献納して免責となった商人等もある。