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第二節 吉岡沖口番所の設置と運営

 近世以降松前城下が、蝦夷地交易経済の中心となってくると、敦賀を基点とする北国船の往来が激しくなり、さらに対岸三厩や平館等津軽半島への海上輸送も日を追って増して来、松前港への出入船は年間三、〇〇〇艘といわれた。これらの海上交通 のなかで特に松前~三厩間の航路は本州への最短コースにあって極めて重要なものであった。しかし、本道側の白神岬と本州突端の龍飛(たっぴ)岬間の僅か二二キロメートルの海峡は、龍飛・白神・中の汐の三潮流が川の如くに流れ、汐堺には大きなうず巻が発生し、一度この汐に巻き込まれれば大船でも乗り切ることは容易ではなく、最大の難所として恐れられていた。また、海岸の地形上から風力の変化が激しく、目的地に着けず、吉岡村沖に落船したり、福島沖で風待ちをする船が多かった。しかし、これらの船は藩法によって沖之口役所のある松前・江差・箱館の三港以外で勝手に上陸をして薪水食糧の補給や荷捌等は許されなかった。

 しかし、松前~三厩間の航路あるいは松前~箱館間の航路が激しくなると、目的地に着けず吉岡へ落船する船が多いため、吉岡に沖之口番所を設け、出入人改や通 関手続、税役の取り立て等、松前沖之口奉行所業務の一部を、吉岡で行うことにし、吉岡港を松前の副港とした。『福山海口廨(かい)年表略稿』によれば、寛政六年(一七九四)吉岡に問屋(といや)二軒を新規に仰付(おおせつけ)たと記録されている。問屋は口銭を取って通 関手続をする商人であるから、この時点から吉岡沖之口番所は始められたと思われる。







沖之口役所旅人取調図




 その後、前同記録によれば、「文化六年(一八〇九)吉岡村沖口番所ト唱可申旨被仰出」とあって、正式名称として吉岡沖口御番所と呼ばれることになり、翌同七年には、「八月吉岡沖口御番所新規御取立、去巳年迄御旧領以来ニテ名主八兵衞 宅御番所唱」とあって、松前藩松前家の所領時代に設けたこの御番所を幕府直轄の松前奉行の治政下でもこれを踏襲するということで、名主八兵衞 (住吉)宅を以って御番所としたという。

 松前藩政時代に設けられた藩法としての沖之口取扱規則はそのまま、幕府松前奉行も引き継ぎ継承しているが、『福島町史第一巻史料編』に収載した「松前吉岡沖之口取扱御收納取立方手續並問屋議定書 全」は、この松前奉行治下に成文化され施行されたものである。それによると吉岡沖口御番所は士分一人、足軽程度で松前から派遣され、名主宅を御番所として執務した。これらの番所役人は出入人改と荷物改の監視が主体で、出入人面 役銭の取立、出入船々役、荷捌通り庭口銭の徴収等は問屋(といや)、小宿(こやんど)等が行った。

 吉岡の場合、松前城下問屋衆中の管理下に置かれ、自場からの問屋は船谷(屋)久右衞 門と石岡傳右衞門(宮歌村代表)の二人であったと思われ、のち吉岡の大河京三郎が小宿株を取得している。この沖口御番所の荷捌を中心とした管理運営は、問屋・小宿・附舟(つけぶね)の三つの株仲間があり、問屋は荷物全体の七割を捌き、小宿は残り三割を取り扱い、附舟は出入船の薪水供給、船宿の手配をするほか、遭難船のある場合は救助を義務付けられていた。

 宮歌村として石岡屋傳右衞門が問屋株を取得したのは、吉岡村船着場の荷物の揚下しは実質的には貝取澗(字豊浜)と宮歌澗で行われていたので、この沖口番所の機能を活かすためにも、宮歌村に問屋を設ける必要があり、藩はその地域の状況を判断して、村に問屋株を持たせたものである。しかも、この時代宮歌村は村治方式に於ても秀でており、何度となく、藩に願い出漸(ようやく)許されたのであった。『福島町史第一巻史料編』中の宮歌村文書のなかでは、宮歌村に正式に問屋株式が免許されたのは天保十四年(一八四三)である。天保十年六月十日「吉岡ノ京三郎(大河)新規小宿株被仰付、同村へ新規常燈京三郎取立」とあるほか、翌十一年には「吉岡沖口御番所御普請」(『福山海口廨年表略稿』)とあって、吉岡船着場の整備も進み、大河京三郎が小宿株取得を機会に、澗口常灯台を設け出入船の便宜を図っている。さらにこの翌年には吉岡沖口番所の独立建物が完成し、従来吉岡村名主宅で行っていた業務を新建物に移して行っている。沖口番所には、通 関倉庫としての荷捌用通し庭が付設されるのが慣例であるので、吉岡にもこの倉庫が併設されたものと考えられ、嘉永二年(一八四九)アメリカ人抑留者三人を吉岡に抱置したのも、その倉庫ではないかと考えられる。

 しかし、『宮歌村文書』中の「永代之記録」では、








 覚

一於町御役所御奉行下國舍人様、御吟味役新井田嘉藤太様御揃之上願之通宮歌村問屋職傳右衞 門江被仰付候。以上。



寛政六年寅九月十四日



と吉岡沖之口番所開設と同時に宮歌村問屋株が免許となっているが、天保十年以降の吉岡沖口の整備充実によって宮歌村の免許取消し等の紛争もあったが、宮歌村は松前の株仲間の仲介によって漸く収めるということもあった。

 沖口番所の業務は藩自体が行う出入船、出入人改めと、出入荷物の監視があり、番所付の通 し庭で検査をし、その荷扱いは問屋・小宿が行った。入国者を番所で裸にし、入墨や刀痕等の有無を調べ、有る者は次便で本州に戻し、無い者は諸国藩の発行した切手を持ち、さらに松前地(和人地)宿請人(身元引請人)の居る者だけは、面 役銭六〇〇文を払って入国を許された。また、旅行や出稼をする場合は、本人から村名主に願い出、名主の奥書した申請書を町奉行所に提出し、その許可書を沖口番所に提出して面 役を支払った上鑑札を受け出帆したが、鑑札の雛形は次のとおりである。












宿誰何国何所之誰舩

何人乘面役相濟当港

出帆申付候也









吉岡沖之口

番所



何年

 何月 日


宿誰何国何所之誰舩

大中通二人乗面役相

濟松前江相越者也





在々



吉岡沖之口

番所





何月 日

宿誰何國何処誰一人

当年役銭相濟ミ

何処誰方旅人宿ヘ

相越者也







吉岡沖之口

御番所





何月 日

宿誰

何國何処ノ

誰 

何十才



右の者当午年役銭相濟

於何村誰方稼申渡者也



吉岡沖之口

何月 日 御番所


という厳格な方法が取られていた。これは他国から胡乱(うろん)(あやしい)な者の入国を防ぎ、また、自国民の勝手な旅行や逃散(ちょうさん)を防ぐためでもあった。

 問屋は入船があると船足と船の大きさを計り、積荷の調べ書を書き出させ、陸揚する荷物は番所の通 し庭へ入れ、数量を確認し、船主には入船役、穀役、棒杭役、常灯役を支払わせ、これを番所に納めさせる。これら荷扱いは問屋が立会し、荷物の販売等の斡旋をし、蔵敷料と口銭を徴収した。それによると、越後柴田米が二二文、庄内・新庄米が一八文、秋田米が一〇文等となっていたが、問屋は荷扱いをするだけで厖大な収入があり、正に特権商人といわれる所似であった。

 この沖口番所で扱う船々の大きさと別の呼称や機能、乗組員数は次のようなものであった。














船の呼称船幅帆の反数乗組員数石数その他

磯舟

持荷船

(ほつち)

三半船

図合船

中遣船

(なかやり)

大中遣船

弁財船




















二尺~二尺九寸

三尺~三尺九寸



四尺~五尺九寸

六尺~七尺

七尺一寸~八尺九寸



九寸~九尺五寸

一〇〇石船

二〇〇石

三〇〇石船

四〇〇石船

五〇〇石船

六〇〇石船

七〇〇石船

八〇〇石船

九〇〇石船

一、〇〇〇石船

一、一〇〇石船


一一~一二















一一~一二

一三~一四

一五~一六

一八~一九

二〇

二一

二二

二三

二四

二五

二五~

































一〇

一一

一二


















一〇〇~一五〇

一六〇~二五〇

二六〇~三五〇

三六〇~四五〇

四六〇~五五〇

五六〇~六五〇

六六〇~七五〇

七六〇~八五〇

八六〇~九五〇

九六〇~一、〇五〇

一、〇六〇~一、二〇〇




小橋船ともいう



大橋船ともいう

小廻船、番船ともいう

中漕船、乗替船ともいう





























等の船の大きさについての早見表的なものがあり、凡(およ)そ船の大きさは帆の反数と乗組員の数で石数が分かるようになっていた。

 この吉岡沖口番所には幕末から明治初期にかけては、松前藩士鈴木忠美、張江善三郎等が駐在し、箱館戦争の際の徳川脱走軍の管理下では、松前奉行人見勝太郎(幕府遊撃隊長)配下の倉本勇太郎、市川靜馬の二人が吉岡沖ノ口掛調役並勤方として勤務している。