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第一節 奥羽戦争の開始

 箱館戦争とは、明治元年(慶応四年戊辰(ぼしん))蝦夷地に上陸した徳川脱走軍と政府軍(松前藩を含む)との道南地方を戦場として闘った戦争で、さらに翌明治二年(己巳(きし))五月にいたる一連の戦争のことを言い、あるいは戊辰戦争、己巳の役とも言われている。

 慶応三年(一八六七)十二月に発生した鳥羽・伏見の戦後、長州・薩摩藩を主体とした政府連合軍は、徳川幕藩体制の打壊の軍を組織した。その鉾先は江戸の制圧、さらには奥羽の会津・庄内に集中し、朝廷は翌四年二月九日沢爲量 (かず)を奥羽鎮撫総督に任じ、副には醍醐中敬を充てたが、さらに強化するため、同月二十六日九条道孝を総督とし、沢を副、醍醐を参謀として奥羽に向け発進した。当初仙台藩の会津救済の嘆願書を提出したのに対し、鎮撫使は全く反応を示さなかったので、奮激した仙台・米沢・南部の奥羽一二藩等は白石に集まり閏四月十二日さらに嘆願書を提出したが許さず、遂に奥羽諸藩に檄を飛ばして、同二十日北越諸藩を含めた二五藩をもって白石会盟を組織し、政府軍への徹底抗戦する態度を確認した。松前藩もこの会盟に加わらなければ、これらの諸藩と戦わなければならず、仕方なく家老下国弾正を派遣して会盟には参加していたが、一方では箱館府、秋田転進中の鎮撫使に通 じる等、万一の場合でも藩屏の維持に両端を持する苦肉の策をとっていた。

 松前藩内ではクーデターが敢行され、藩論がようやく尊王に固まって来た八~九月にかけ(九月八日慶応四年を明治元年と改元)宇都宮から会津・米沢の戦が展開されていたが、会津藩は九月二十二日降伏、仙台藩はそれより前の八月二十七日に降伏していた。この戦乱で北越・会津の戦争に参加し、敗れた諸兵は降伏を潔(いさぎよ)しとせず、北上を続けて仙台領に流入した。このとき榎本釜次郎武揚(たけあき)を首領とする徳川軍軍艦開陽以下七艘が、九月十五日松島湾に到着したので、これらの諸兵はこの軍隊に合流した。

 榎本らは幕府海軍の廃止によって軍艦の政府引き渡しを拒(こば)み、八月十九日の夜開陽、回天、蟠(ばん)龍、神速、千代田、長崎、長鯨の七艘の軍艦と美加保、咸臨(かんりん)の二艘の輸送船に海軍兵力一、〇〇〇人それに彰義隊、神木隊等の陸兵四〇〇を乗せ、品川沖を脱走した。しかし館山沖から犬吠(いぬ ぼう)崎で台風の大時化に遭い、両船共曳船の軍艦との綱が切れ、美加保は銚子沖で沈没、咸臨は大島沖から清水港に漂流して政府軍に占拠された。この美加保と咸臨の両輸送船には武器、弾薬、食糧等の戦争機材が多く積み込まれていたので、その後の戦争は大きな打撃を受け、さらに旗艦開陽も舵を損傷する等の被害を受けての松島湾入港であった。

 この奥羽の政情不安によって蝦夷地に出兵警衛に当っていた奥羽六藩の兵は、会津・仙台・庄内藩は七月中に兵員を本国に引揚させ、八月十三日には南部藩奥羽会盟に参加のため陣屋を焼いて撤退、翌十四日には津軽・秋田藩兵も出兵を辞退したため、蝦夷地内には兵員の駐在が全くなく、僅かに箱館五稜郭を守る箱館府役人と府兵約二〇〇人、戸切地村(上磯町)穴平松前陣屋の兵一五〇人、松前城守備兵四〇〇人余、館城および江差在住兵二〇〇人で総てを合しても一、〇〇〇人程度の兵力より存在していなかった。