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第二節 福島の青森県帰属と福島郡

 松前藩領内(知内村建有川から西熊石村まで)が館藩となった明治二年六月以降政府は北海道(千島を属島)および樺太(唐太、現サガレン州)の本格的な開拓を行うことを決定し、六月四日開拓督務として議定鍋島直正が就任し、同年七月八日開拓使が設置された。その後八月二十五日大弁東久世通 禧(みちよし)が開拓長官に任命されている。前箱館府知事清水谷公考(きんなる)は七月二十四日次官となったが、九月十三日辞任し、黒田清隆が開拓次官に任命されたのは同三年五月のことである。

 開拓使は当初仮に本庁を民部省内に置き、八月にいたって太政官内に移され、同月東久世長官以下が凾館(この年六月箱から凾となる)に赴任し、九月開拓使出張所が同地に開設されて本庁としての機能を持つようになったので、同三年閏十月開拓使庁は廃止され、東京出張所と改称され、出先機関となった。四年三月札幌本府の仮庁舎が竣功したので、五月凾館から移庁し、名実共に札幌本庁が中心となった。

 我が国の版図のなかには国郡が制定されていたが、蝦夷地にそれがなかったので、明治新政府は、明治元年三月二十五日蝦夷地に関する岩倉具視の策問のなかで「蝦夷名目被改、南北二道被立置テハ如何」とあり、この地の名称を改め、二分割してはいかがという諮問であった。これらを踏まえ開拓使の最初の仕事が国郡の制定であった。そこで開拓使は判官として任命した六名の内に、蝦夷地全島を一番詳しく知っている松浦武四郎(徴士)を選び、専ら国郡制定の粗案を作製させている。そこで松浦判官は七月十七日国名については、日高見・北加伊・海北・海島・東北・千島の六道名を提示し、また国名、郡名に関する意見書が提出されたが、これを基本として内部検討、審議され決定し、八月十五日「蝦夷地自今北海道ト被称、十一箇国ニ分割、国名郡名等別 紙之通被仰出候事」(『太政官公文録』)と公布された。当地方は北海道のなかで渡島国に所属し、はじめて福島郡が誕生した。さらに渡島国は七郡に分かれていて、







亀田(かめだ)・茅部(かやべ)・上磯(かみいそ)・福島(ふくしま)・津軽(つがる)・檜山(ひやま)・爾志(にし) (以上七郡)


であるが、このうち檜ひ山やま郡(江差・上ノ国・厚沢部・泊村等)は、古来アスナロ桧が自生し、藩政時代檜山(ひのきやま)と呼ばれていた地域が略称されて桧山(ひやま)と呼ばれることになった。この制定ではじめて誕生した福島郡の範囲については、館藩から開拓使にその範囲について伺い出た結果 、




























福島郡
知内村

木子内村
境 立(建)有川
 西
礼髭村

炭焼沢村
境亀ノ下迄
津軽郡 松前城下及び付在々)
 西
平(原)口村

小砂子村
境鍵(願)懸沢迄
檜山郡 (江差及び付在々)
 西
泊村

乙部村
境五厘沢迄
爾志郡 (乙部村) 
 西熊石村 


までとし、福島郡は西は白神峠の東側、滝の澗海辺の亀の下から、東は木古内村と知内村との境の建有川までで、その間の礼髭、吉岡、宮歌、白符、福島、小谷石、脇本、知内の八村が、その管轄下になった。

 北海道の地名の元に国郡の制定はされたが、この渡島国のうちの福島・津軽・桧山・爾志の四郡は開拓使管轄地域とはならず、依然館藩の領有地の侭であった。これは館藩の版図に藩主はなくなったものの、その侭居座っているので、この領域を開拓使地域中に包轄することの面 倒さがあった。さらに開拓使は全道の拓地殖民を図るなかで石狩川流域の開拓において、西洋農業を導入し、米作に頼らない北方農業を推進するための施策遂行が、開拓使の設置目的であり、北海道のなかでも旧藩体制と、漁業を主産業の中心とする旧開地域は、その治下に編入する必要もなかったからで、開拓使の設置後、太政官からしばしば館藩地域の開拓使治下への編入について協議があったが、開拓使はその都度これを拒否し続けてきた。

 明治新政府は我が国の旧幕府治政下の旧藩封禄体制を打破するため試行錯誤がくり返され、正に朝令暮改の有様であった。明治二年九月の各藩主の知事任命、士族秩禄をはじめ、二六〇余年の大変革が行われつつあったが、同月開拓使は松前家の領有する地域の松前、江差の沖之口役所の関税取立を廃止し、開拓使が直接徴収することになったため、館藩は財政に大きな欠陥を生ずるばかりでなく、立藩の主権も崩壊する状況に立至った。さらに同九月二十八日には従来の場所請負制を廃止し、明治三年以降は請負人が現地場所に常住する場合のみ漁場持の特典を与えるというように制度が変更することになり、館藩維持の前途は全く暗澹たるものとなった。藩は太政官弁官に対し、その撤回を求める嘆願を行ったが、遂に許されなかった。

 旧藩地の崩壊は確実に進み、明治四年七月十四日太政官は廃藩置県の政令を発布した。その結果 館藩は、館県となり、また旧藩主が知事に任命されていた県は、その知事の辞官が求められた。松前家一九世松前藩主および館藩知事であった松前兼広も辞任の申し出をし、










館藩





知事 松前兼広



免本官



辛未七月





太政官



と発令された。この発令と共に旧藩主の総ては、領民との結び付きを絶つため東京居住を命ぜられ、二六〇余年間蝦夷地の領主として君臨した松前家は、ここで北海道から撤退し、上京することになった。

 当年七歳になった幼主兼広は八月四日家臣全員を正殿大広間に集め、廃藩置県と藩知事辞職を布告、告諭したが、その全文は次のとおりである。








 内 諭

今般重大ノ御深算ヲ以テ一般藩ヲ廃シ県ヲ置ルヽニ就キ知事免官上京ノ義仰出サルヽモ今ヤ朝廷ニ於テ万世不抜ノ御洪業立サセラルヽ更始ノ秋ニ際シ一日モ幼弱ノ身ヲ以テ御旨趣ニ従事セン豈慚懼ノ至ニ不堪况ヤ因襲ノ陋習ヲ掃テ上ハ朝廷ヘ其政績ヲ奏スルナク下ハ管下ヘ其撫恤ヲ布ク能ハス遂ニ有名無実ニ列伍シテ方今ノ急務ヲ失フ然ルニ朝廷絶大ノ眷顧ヲ蒙リ辱モ今日ニ至ル一ハ祖先ノ餘績ニヨリ一ハ士民ノ尊奉ニアリテ胸裏ニ忘レサル所ナレトモ嗚呼時ナル哉朝旨ヲ奉シ一トタヒ境土ヲ隔離セハ再会又期スヘカラス三百年来所轄ノ別 緒豈袖ヲ濡ラサヽルナシト雖モ時勢ノニ転移スル又其命ナリ苟モ多年微々ノ垂恵ヲ想像シ恋々ノ私情ニ迫リ重大ノ御趣意ヲ軽悔スルノ僻念ヲイタカス恭順奉戴シテ其分ヲ守リ其力ヲ尽スヲ得ハ此予ニ惜別 ノ喪懇ナルヘシ冀クハ各々此旨ヲ体認シ彌産業ヲ励マレ明日数百里外隔居スル敢テ浮萍 ノ懐ヲナサス猶将来寒暖ノ通信之アリ度モノナリ



辛未八月





と述べて惜別の情を分かち合った。兼広は先主徳広夫人らと共に八月二十二日松前を発し、二十八日函館からイギリス商船エーレー号に塔し東京に向かった。

 藩が廃止となった旧館藩領内には、従来の行政範囲をもって県政が布かれることになったが、県知事の発令もなく、旧藩の行政体制のまま九月まで経過したが、その間に政府は開拓使とも協議を続けて来たが、開拓使は無用の長物化した館県地域の編入を極度に拒んでいたようである。

 明治四年九月九日政府は突然館県地域が弘前県に併合されることが告示された。したがって福島・津軽・桧山・爾志の四郡管下はすべて弘前県の管轄下に入った。弘前県もこの政令で混乱しており、同月二十三日弘前県は政庁を青森に移し、弘前県・黒石県・八戸県・七戸県・斗南県・館県の六県をもって青森県が形成された。斗南藩は会津若松城主松平容保(もりかた)が会津戦争に破れて二十八万石から削封されて二年九月に三万石を与えられて下北半島一帯を中心とし、斗南藩として徒封させられた地であり、八戸県、七戸県は元南部藩の地域であり、また人情、民俗、産業も異なっているので、その集合体としての青森県の運営は容易なものではなかった。

 青森県は十二月九日松前に支庁を設置し、青森県福山支庁を設け、同日旧館県少参事今井徽から支庁(出張所)長官松山龍江、大属小出光照が図籍を引き継ぎ、この片則的な行政組織は明治は五年九月まで続くが、これによって当地は、青森県福島郡福島村等と呼称された。