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第二節 ブラキストン・ライン



 ブラキストンは函(箱)館に居住したイギリス人の商人である。彼は一八三二年イギリス・リミントンに生れ、同国陸軍の大尉である。クリミヤ戦争に参加ののち、中国揚子江上流を探検して、その上文久三年(一八六三)シベリアに入り、製材業をしようとしたが許されず、箱館に来て製材所を設け、我が国初の蒸気機関による製材所を開いたほか、貿易・運輸などを行い、ブラキストン商会を開いた。明治元年から二年(一八六八~六九)には、死の商人として政府軍と徳川軍の両方に武器を販売して巨利を博している。

彼は動物・鳥類学にも詳しく、本道から千島地方までの調査をし、それを基本に、津軽海峡を境界として、動物、鳥類の棲息が異なるという論文を発表している。この論文はブラキストンとプライヤ-氏の『日本の鳥類』という論文で一八八〇年(明治十三年)の発表であるが、その論述は鳥類を根拠とした簡単なものであったので、一八八三年二月東亜協会で「日本列島とアジア大陸との古き連詰の動物学的指示」という論文を発表し、その中で「哺乳類、鳥類より見るときは日本内地は南北動物群の混合地域なれども、北海道は樺太と共にシベリア系動物相の東部を成す」と説き、「本州との動物相の差違を指摘せり。日本内地の混合相なる理由としては、氷河時代に於ける津軽海峡は早くより存在して本海峡南北の動物群を分離し、海峡の氷結に依りて両岸動物の混在を招致せりと結論せり。」(「渡瀬線とブラキストン線-木場一夫-昭和六年論文」)としている。

 ブラキストンは津軽海峡を挾んでの南北沿岸には異なる動物の棲息を挙げ、本州のさる、いたち、月輪熊、いのしし、やまいぬ 等は北海道には居らず、また北海道に住むひぐま、えぞいたち、おおかみ、えぞしか等は本州に産しないことを挙げている。この論文は当時は多くの人達によって支持され、ジョン・ミルンによって、その境界線をブラキストン・ラインと命名されたものである。しかし、この論拠となるべき津軽海峡の成立については具体的な拠(よ)りどころに欠けており、また、考古学の発達によって各地で発掘調査が行われた結果 、各地で猪(いのしい)の骨や牙(きば)等も発見されていて、明確に津軽海峡をもって動物・鳥類の分布が異なるとは断定が出来ないというのが現代の評価である。