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第七節 松前藩の知行制度

 第一節でも述べた如く、徳川幕藩体制下では、大名と認められる者は、その領内で生産される米の草高が一万石以上生産される領域を支配する家(藩)が、大名として幕府から将軍の黒印(又は朱印)状によって承認されていた。従って草高九千石でも大名にはなれず、小名・旗本として遇されていた。寒冷地で米の全く穫れない近世初頭の蝦夷地では、この幕府の制度に合致せず、特例として徴役権と交易権を文言に盛り込んだ黒印制書によって大名格付けがされていた。徳川時代の職員録ともいうべき『武鑑』の大名最末席に、「無高 先祖代々之を領す」とあって、無高大名松前家が位 置付けされていた。

 各藩はその領域の公許石高のうちを藩の運営費、家臣の知行に当て、家臣は領主から知行を拝領することによって生活に裏付けがされ、士道に専心することが義務付けられていた。しかし、松前家(藩)家中の場合はこれに準ずることができず、全く異例の給与体系が取られていた。それが商場(あきないば)制度である。

 松前藩は石高知行の代りに、蝦夷地を一〇〇カ所程度に分轄し、そのうちの重要な場所は、藩の歳費に充て、他の分割した場所を上級家臣の知行所として采領を認めた。この場所知行はその知行主に場所の領有を認めるというものではなく、あくまでも藩法の原典を基礎とし、現地場所への和人居住の禁止、現地アイヌ人の介抱(援助)等が義務付けられていた。この制度を商場制度というのは、知行主の家臣が一年一度夏期に藩主の許可を受け商船(あきないぶね)を仕立てる。その船には現地の人達が欲する生活用品の米・麹・味噌・醤油・酒・塩・煙草・漆器類・鍋釜・鉄製品・古着類を積んで出帆し現地に到った。

 現地のアイヌ人達はこれを出迎え運上屋(交換所)でオムシャという儀式が行われる。このオムシャはアイヌ語のウムシャの転化したもので、アイヌ人は久し振りに会ったとき、互いに体をなで合って久濶(きゅうかつ)を叙する礼式のことを言ったが、現地の人達と友好を深めなければならない知行主は、この礼式を利用し、運上所で村の代表である乙名、脇乙名、土産取みやげどりの三役と挨拶をし、米・酒等の土産を贈り、アイヌ人からも現地の生産物を返礼し、オムシャが終ってから、現地の生産物と交換するが、これを交易といった。その現地生産物の主なものは披鯡 (ひらきにしん)、胴(どう)鯡、身欠(みがき)鯡、数の子、干鮭(からさけ)、塩鮭、塩鱒(ます)、干鱈(たら)、串貝(くしがい)(鮑(あわび)を串にさして乾燥させたもの)、石焼鯨(いしやきくじら)、干海扇(ほたて)、魚油、鰈鮫(ちょうざめ)皮、昆布、鷹、真羽(鷲の羽根)、獵虎(らっこ)皮、膃肭臍(おっとせい)、海豹(あしか)皮、熊皮、熊の胆(い)、鹿皮、生鶴、塩鶴、椎茸、アツシ等であった。これらの品物はおのおの交換比率によって交易されたが、鯡 が主体となったのは中期以降のことであるが、鮭、鯡、昆布の三品はその代表的なものであった。

 交易から松前に帰ると、これら交易品を近江商人を主体とした商人達に売り、船を仕立てた時の商品代を精算し、その余剰利益金で生活をするというのが、松前藩知行の基本であった。のちの場所請負制度の時代になってからの史料であるが、天明六年(一七八六)最上徳内筆の『蝦夷草紙 別 録』によって主な西海岸地行主との場所請負金額を見ると、





















































太櫓場所和田郡司運上金八拾両
瀬棚内場所谷梯増蔵百両
島小牧場所並川善兵衞八拾両
寿都場所鈴木弥兵衞八拾両
歌棄場所蠣崎弥次郎百四拾両
磯谷場所下国舎人八拾両
積丹場所藤倉八十八百五拾両
美国場所近藤吉左衞門百両
古平場所新井田喜内百七拾両
下余市場所松前左膳百六拾両
上余市場所松前八兵衞百四拾両
忍路場所古田栄助百六拾両
祝津場所蠣崎源吾百五拾両
小樽内場所氏家新兵衞百五拾両
厚田場所高橋又右衞門百五拾両
増毛場所下国兵太夫運上金二百両
天塩場所他松前貢二百二拾両


である。これらの家臣は知行のほか、必ず何らかの役職にあるので、藩からは役料が支出されていた。さらに重臣のなかには和人地村落の知行を許され小物成(雑役)等の課税を認められたものもあり、松前廣長の礼髭村(字吉野)、松前貢の白符村等があり異例のものとしては、宮歌村の旗本松前家、知内村の仙台松前家の支配がある。このほか、鷹場所が三〇〇か所もあり、重臣達に給与された。







東西蝦夷地・和人地之区分




 このような商場制度による藩の扶持体制には、 家臣達は大きな不安を抱えていた。 それは近世の経済はその年の豊凶によって、 極端な差異があったからである。 その基礎をなすものは米で、 一度冷害に襲われれば米価は数十倍にも高騰し、 それに従って諸色も騰貴するという不安定さがあり、 さらに各場所の豊凶によっても変動が激しく、 家臣達は常に物価動向等に留意しなければならなかった。 幕府巡見使が蝦夷地に来ての報告書のなかには、 「松前藩士は士商兼帯である」 と報告していて、 当時の武士の最も賤(いや)しむべき商行為を家臣が公然として行っているのも、 藩の知行制度からして止むを得ないことであった。

 このような繁瑣(はんさ)な知行に耐えられなくなった家臣達は、この知行利権を商人に代行させ、場所を請負わせるようになるが、これが享保年間以降(一七一六~)に行われるようになったというのが場所請負制度である。この制度は家臣が自分で直接商船を仕立てていた収入と、自家の生計状況を考え、一年間の請負額を定め、五年を単位 として契約し、それを更新したが、中には契約額が折合わず、請負人が異動することも多かった。

 請負人は商人であるから利潤を追求するのは当然で、場所には交易場としての運上屋を建て、従来の刺網を使っての鯡 漁業から大網を使って一挙に大量の鯡を水揚げする漁法に変ってくる。そのためには多くの漁夫が必要になってくるので、南部・津軽・秋田の季節労働漁夫を雇ったほか、例えば太平洋側の鯡 漁業のない場所のアイヌ人を、場所請負人同志の契約で季節的に強制して他場所移動稼働させたり、非常に安い賃金で働かせるということで常に紛争は絶えなかった。また、交易についても藩が内規として定めている交易基準を無視して比率をごまかし、あるいは数をごまかすようなことも日常茶飯事であった。さらにはこれらの場所に多くの和人が入り込むことによって現地アイヌ人女性問題等もつのり、ついには、徳川幕府によって示された対蝦夷(対アイヌ人)政策の根本である「夷の事は夷次第」という理念を継承する松前藩の対蝦夷政策は根底から崩されている。これらの場所請負人となったものは、松前在地の豪商や近江商人の蝦夷地での活動団体である両浜(りょうはま)組に所属する商人によって占められ、これらの商人は藩と結び付く特権商人としてますます発展した。

 文化五年(一八〇八)松前藩の陸奥梁川移封と共に設置された幕府の松前奉行は、旧態の場所請負人の改廃につとめ、太平洋沿岸の場所は江戸商人や箱館商人を登用し、日本海沿岸の場所請負人も多く入れ替っていて、旧弊の改善につとめている。さらに十五年を経た文政五年(一八二二)松前藩が蝦夷地に復領すると、知行制度を全面 的に改正し、家臣個々の場所請負を止め、総ての地を藩直領とし、藩が直接場所請負人を選定し、家臣には石高給与の墨付けが交付され、他藩同様の給与体制となった。それによると寄合席(一門および家老)五〇〇石、準寄合(一門および譜代の重臣)四〇〇石、弓の間・中書院席(重臣・奉行・用人・吟味役等)二五〇石~二〇〇石、中之間席(士の上席)一五〇石、御先手組席(士席)一一〇石となっている。またこの石高は年二期に分け、これを半額を米、半額を金子で交付することになった。このほか、徒士(かち)は九〇石、足軽は六〇石で、その給与人数は弘化年間(一八四四~四七)では、





























寄 合 席九 名
準 寄 合 席四 名
弓 之 間 席一 名
中 書 院 席一 五 ~ 六 名
中 之 間 席約 四 〇 名
御 先 手 組 席約 六 五 名
徒 士一二〇~三〇名
足 軽約 三 二 〇 名
約 五 八 五 名




となっており、この石高給与のほか、家老・用人・奉行・吟味役等の役職にあるものは、半額程度の役料の給与があり、また、勤番の役人には勤番手当、交易船に乗り組み、交易に従事したものには上乗役等の特別 給与があった。