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第二節 各村の創始

(三) 宮歌村

 宮歌村の開村は、近世初頭のことである。『宮歌村奮記』(北海道大学付属図書館所蔵)によれば、














一寛永三寅年四月津軽領鯵(あじ)ヶ沢と申處より漁船ニ渡而海之人数



萬助

三吉

弥四郎

重治郎

太右衞門

與市郎

以上 六人





同年四月十八日未申ノ風ニ而吉岡村へ乘付、其時同村之家数三拾軒余も有之由、直様當村江参り沢々之内見巡り候處至而迫(せま)く間内沢手廣罷在候故、新規畑作仕付彼地ニ三、四年も渡世仕候得共至而荒澗ニ而波高く午ノ九月(寛永七年か)頃當村江引越、間内沢へ小家掛いたし折々見廻り致し候。右川鮭相應ニ相見得六、七年余も我勝手に取揚候處、酉之年(寛永十年か)家数も弐拾軒ニ相成候故、小家掛いたし引網相建、網子九人相立候。其年百弐拾束も引揚申候。


とあって、寛永三年(一六二六)四月、西津軽鰺ケ沢から六人の漁民が来て澗内の沢に定着したが、この澗の波が荒く漁事が十分出来ないので、宮歌村に家を建てた。二~三年後には戸数も二十軒程になったが、澗内の川には鮭が多く遡そ上するので、宮歌村の人達が川に引き網を張って鮭を獲った。寛永十年(一六三三)頃で百二十束(二、四〇〇匹)の鮭を獲ったというから、当時澗内の川も結構鮭が多く獲れていたことが分かる。

 このようにして出来上がった宮歌村ではあるが、開村当初から松前藩の変則知行体制のなかに位 置付けされる村であった。 前同史料(『宮歌村舊記』)によれば、寛永十二年には、この村は松前八左衞 門の知行所に定められ、その際、八左衞門用人の加川喜三郎が江戸から下り、上(かみ)鍋島から下(しも)根祭岬までを藩主松前氏より受領したという。またその際は、宮歌村と大茂内村、余市上場所が枝村として付与され、江差九艘川村(町)はその後枝村となったという。

 松前八左衞門は、松前藩主第七世志摩守公(きん)廣の三男として、寛永四年(一六二七)福山館に生まれ、小字(こあざ)を竹松丸、または甚五郎と称し、長じて八左衞 門泰(やす)廣と名乗った。十五歳の寛永十八年十月、兄氏廣(第八世藩主)と共に出府し、そのまま幕府に召され廩米(りんまい)(扶持米)千俵高の旗本となっている。

 また、八左衞門は慶安二年(一六四九)七歳で藩主となった九世高廣、寛文五年(一六六五)同じく七歳で藩主となった十世矩(のり)廣の後見役を幕府から命ぜられ、明暦元年(一六五五)以降江戸から松前に下っている。さらに宮歌八幡神社には、翌二年松前八左衞 門奉納の連歌が保存されているので、宮歌村が八左衞門の知行所と采領(さいりょう)されることになったのは、前述の寛永十二年(一六三五)ではなく、この八幡神社創始のときの明暦元年以降のことと考えられる。

 寛文九年(一六六九)日高地方の蝦夷蜂起の際、第十世藩主矩廣は十一歳で、この平定は難(むづか)しく、八左衞 門は幕命によって松前に下り、全軍の指揮を執った。翌二年この乱を鎮め帰幕したが、その功により五百石の加増を受けている。さらに同十二年に日高地方の余党平定のため、嘉(よし)廣、蕪(しげ)廣、直(なお)廣(當(まさ)廣)の三人の子と一〇〇余の手勢を引き連れ松前に来援したが、次男蕪廣は知内温泉湯治中、同年八月十四日にここで没している。

 この八左衞門系松前氏は、長男八兵衞嘉廣が二千六百石の大身旗本となり、三男當廣は六百石を分知され、千五百石とこれも大身旗本となっているが、その系譜は次の通 りである。










図をクリックすると拡大図が表示されます。




 このようなことから、蝦夷地中の和人地で、藩の直領地であるべき宮歌村が、家臣ではない幕府直参の松前氏の知行所となるということは全く前例がなく、異質の知行体制であった。漁業役のような本税は直接藩に納入するが、付加税的な小物成(こものなり)は知行主に納めることになっていた。この小物成として知行主へ献上すべきものは、村方と協議して決められており、次のようなものである。






宮歌村出産物

同浜

同川

大茂内村出産物

同村より

干蕨

御菓子折昆布

寒塩引

選り数子

椎茸

五拾弐把(一把五十本)

弐拾壱把

壱掛

壱石

千五百


を上納し、さらに上納金は、










船 役 金

宮歌村

江差九艘川村

大茂内村

金 八両

金 三両壱分

金 弐両壱分


で、このうちから荷物送料四両三分、八幡神社への寄進料二両、江戸行仲間小遣二両の計八両三分を差し引いた金を上納金として納めた。

 ここで江戸行仲間という言葉が出て来たが、これは宮歌から一人、江差九艘川村と大茂内村から一人の計二人の仲間を、毎年秋に江戸雉子橋御門前通 り小川町角の松前八兵衞家の仲間として送っていた。この旅費(宿賃)一人一両は知行主が負担し、道中小遣等は村が負担した。これら江戸行仲間のなかには、病気になったり、逐電(ちくでん)(脱走)するものもあり、その都度交代要員を補充しなければならず、そのため村役の仕事は荷重されていた。

 また、宮歌村には枝村支配という他村にはない二重の仕事があった。この枝村は大茂内村(現在の乙部町栄浜)と江差町のうちの九艘川村(町)(現在の江差町中歌町)という二つの村で、これらは松前八左衞 門の知行所として給与されており、宮歌村が支配を命ぜられていた。この両村には小頭を置いて本村の宮歌村との連絡をとり、村の運営に当たっていた。さらには松前八兵衞 が蝦夷地内に貰い受けた知行場所である余市上場所の運営にも協力しなければならなかった。

 この枝村運営についても、近世初期は、大茂内村には和人の居住者は少なく、そのため宮歌村の住民から五~六軒を漁業出稼として定着させ、宮歌八幡神社の別 当清順坊に命じて熊野三社を創建し、その後、福島法界寺からの住僧派遣など、先ず村造りから始めなければならなかった。

 さらにその西隣村突符(とっぷ)村との境界や川争いなどの多くの問題があった。突符村(現在の乙部町字元和)は境域も狭く、鮭の入る川もなく、また、薪炭材伐(き)り出しの場所もないため、大茂内村に無断で入り込み、木を伐って川流しをしたり、鮭の漁期には大茂内川に勝手に入り込み、鮭網をかけて鮭漁をし、また、突符村の住民を勝手に入植させて、大茂内村を突符村の管理下に置こうとするなど、多くの問題を処理しなければならなかった。このような問題が起こったとき、村名主は一々江戸へ飛脚を立てる訳にもいかず、松前藩の家老松前監物(けんもつ)家(村上系松前氏)が代々その代理人として問題を処理し、重大な事項のみを江戸の松前氏に通 報し、その指示を受けていた。

 このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。これは宮歌村の領内が、氏子沢・澗内の川を越え根祭岬までで、白符村とは白符川口で境となっていたため、白符村の漁民が昆布やニシン、イワシを獲っても干場がなく、越境して根祭岬から澗内川までを宮歌村に無断で干場にしていたが、白符村は我が村有地であるから断る必要はないとして互いに譲らず、常に紛争が絶えなかった。

元文五年(一七四〇)の『福山秘府・年歴部 巻之六』によれば「是歳、自(より)二正月一 、東部宮歌邑(むら)、與(と)二白文邑(しらふむら)一論二其邑界一。」と藩の記録に載っているように、藩町奉行所に持ち込まれている。これは前年両村で騒動が起き、白符村は知行主松前内記廣候(とき)(藩家老-河野系松前氏)、宮歌村は松前八左衞 門の代理人で同じ藩家老松前將監貢を後楯として白州に臨んでいたが、結局決着はつかず、後々の時代までこの論争や実力を用いる騒動がしばしば行われていた。

 さらに宮歌村は、一村で沖之口問屋株(おきのくちといやかぶ)を持っていたが、これも全く異例のことである。寛政六年(一七九四)二月、吉岡に沖之口御番所は取り立てられ、出入人改めや荷物の問屋扱いが行われることになり、吉岡には二軒の株仲間(船谷久右衞 門と松前株仲間)が出来たが、九月に至って宮歌村もこの問屋株を取得し、石岡屋傅右衞 門をその取り締りに任じている。これは沖之口御番所を吉岡村に設けたものの、港が悪く、荷物の積み下ろしは実質貝取澗と宮歌の澗で行われていた関係から、宮歌村に問屋を設けて管理する必要があったからである。

 問屋が出入荷物を取扱った場合、相応の収入があり、従って同村は他村に比べて裕福で、常に城下から書役(かきやく)を呼んで抱えていた。現在宮歌八幡神社に所蔵されている『宮野歌村永々書留写 帳』、『永代之記録』、『村方日要・御觸書扣覚』や『宗門御改書上』、あるいは一枚奉書など、他村に見られない多くの村方文書を残し得たのはこのような理由によるものと思われる。

 開村以来の村役を『宮歌村舊記』、『宮歌村文書』、『宮歌八幡神社棟札』等によって見ると次の通りである。








































































































































































































































寛永十二年(一六三五)頃
 小頭役
太右衞門



寛永十七年(一六四〇)
 
肝いり役

年寄役

小 使

彦右衞門

長十郎

左兵衞



正保四年(一六四七)
 
肝いり役

年寄役

小 使

長十郎

喜右衞門

左兵衞



明暦元年(一六五五)
 
肝いり役

年寄役

小 使

喜右衞門

吉兵衞

勘兵衞



万治三年(一六六〇)五月 喜右衞門 病死
 
肝いり役

年寄役

小 使

吉兵衞

弥四郎

利兵衞



寛文七年(一六六七)十一月
 
肝いり役

年寄役

小 使

弥四郎

九兵衞

善兵衞



延宝三年(一六七五)九月
 
肝いり役

年寄役

小 使

太郎兵衞

善兵衞

萬右衞門



貞享元年(一六八四)十一月
 
肝いり役

年寄役

小 使

彦右衞門

甚太郎

吉兵衞



元禄五年(一六九二)
 


年寄

小 使

太次兵衞

七右衞門

定 蔵



元禄十五年(一七〇二)六月
 
肝いり役

年寄役

小 使

利兵衞

源太郎

三十郎



正徳二年(一七一二)九月
 
肝いり

年寄

小 使

次右衞門

三十郎

藤兵衞



享保七年(一七二二)六月 肝次右衞門 死亡
 肝いり役
萬右衞門



享保十一年(一七二六)
 
肝いり役

小 使

利右衞門(名主石岡)

庄兵衞



享保十四年(一七二九)十二月
 
肝いり役

年寄役

小 使

利右衞門

間 平

彦右衛門



享保二十年(一六三五)
 
名 主

小 使

石 岡 利右衞門

石 岡 喜右衞門



元文二年(一七三七)八月 利右衞門 死亡
 
肝いり役

年寄役

小 使

五人組

喜右衞門

太次兵衞

彦右衞門

利兵衞、長右衞門、萬右衞門、

治郎助



宝暦九年(一七五九)
 
名 主

年 寄



小 使

石 岡 利右衞門

門 石 長右衞門

長 澤 仁兵衞

石 岡 嘉右衞門



明和八年(一七七一)十二月
 
名 主

年 寄



小 使

利兵衞

長右衞門

権右衞門

彦右衞門



安永九年(一七八〇)
 
名 主

年 寄



小 使

田 口 又三郎

成 田 彦右衞門

成 田 藤右衞門

長 澤 仁兵衞



天明六年(一七八六)
 名 主
田 口 亦(又)三郎



寛政元年(一七八九)
 
名 主

小 使

利右衞門

三之丞



寛政八年(一七九六)
 
名 主

年 寄



小 使 

石 岡 傳右衞門

長 澤 友二郎

石 岡 市 松

大久保 三之丞



文化四年(一八〇七)
 
名 主

年 寄



組 頭

長右衞門

辰 平

吉兵衞





文政二年(一八一九)
 
名 主

年 寄



百姓代

小 使

組 頭

市郎兵衞(市兵衞)

仁 八

小平治(次)

甚太郎

小太郎

仁三郎、勘 蔵、金治郎、

喜之助、萬 吉



文政五年(一八二二)
 
名 主

年 寄



百姓代

小 使

組 合

市郎兵衞

仁三郎

庄兵衞

喜之助

権治郎

勘 蔵、新治郎、丑 松、

喜 平、長右衞門



文政八年(一八二五)
 
名 主

年 寄



百姓代

小 使

五人組

石 岡 傳右衞門

久保田 長治郎

村 田 長右衞門

丑之助

喜代松

新治郎、喜兵衞、 松、

伊三郎、弥之丞、辰 平



文政十三年(一八三〇)
 
名 主

年 寄



百姓代

田 口 源太郎

久保田 長次(治)郎

能 登 萬 吉

三 山 丑之助



天保三年(一八三二)
 
名 主

年 寄



百姓代

組 合

田 口 源太(多)郎

小 澤 喜兵衞

貝嶋屋 幸 吉

貝嶋屋 新治(次)郎

石 岡 多右衞門

菊 地 辰 平

高石屋 福太郎



天保五年(一八三四)
 
名 主

年 寄

百姓代

小 使

組 合

田 口 間兵衞

小 澤 喜兵衞

石 岡 善兵衞

沢 田 甚太郎

石 岡 市 松

中 山 宮 松

白 橋 仁太郎(仁三郎)

石 岡 小平次

沢 田 甚太郎



天保六年(一八三五)
 
名 主

年 寄





百姓代

小 使

支配方

五人組

貝 嶋 幸 吉

小 澤 喜兵衞

石 岡 藤兵衞

田 口 又三郎

中 山 宮 松

沢 田 甚太郎

善兵衞、弥之丞

石 岡 小平治

村 上 圓 助

石 岡 又右衞門

石 岡 喜右衞門

三 山 善五郎



天保十年(一八三九)
 
名 主

年 寄



百姓代

小 使

五人組

小 澤 喜兵衞

宮 松

藤兵衞

又右衞門

亀治郎

善五郎、宇兵衞、藤左衞門、

仁兵衞、弁之助



天保十五年(一八四四)
 
名 主

年 寄



百姓代

小 使

五人組合

善兵衞

宮 松

又右衞門

村 田 長右衞門

与三郎

庄兵衞、仁兵衞、善五郎、

亀次郎



弘化三年(一八四六)
 
名 主

年 寄

百姓代

能 登 吉兵衞

弥之丈

又右衞門



嘉永四年(一八五一)
 
名 主

年 寄



百姓代

弥之丞

善兵衞

長右衞門

甚太郎



安政二年(一八五五)
 
名 主

年 寄



百姓代

書 役

村 多(田) 長右衞門

能登屋 治右衞門

村 上 三太郎

堺 屋 熊治郎

太 助



安政四年(一八五七)
 
名 主

年 寄



百姓代

書 役

村 田 長右衞門

村 上 三太郎

村 田 卯兵衞

田 口 又 蔵(原太郎)

太 助



明治八年(一八七五)
 
この年村中主立面々

本 庄 嘉 助、深 山 藤 松、

石 岡 留 吉、岩 沢 春 吉、

白 橋 助五郎、成 田 酉 松、

島 谷 利 助、棟 谷 音 作

中 山 甚 作、島 中 由 松、

石 岡 清 八、能 戸 吉 蔵、

村 上 金 蔵、山 本 戌 松、

山 内 元 吉、坂 井 酉 松、

村 田 冨五郎、菊 地 利三郎



明治九年(一八七六)
 
村用掛

同 助

世話方

住 吉 嘉平治

田 口 又三郎

深 山 甚三郎

桝 谷 徳右衞門

菊 地 辰 平